卷之第七 本紀第七
欽明天皇、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
欽明天皇
¶欽明天皇は、継体帝の嫡子である。母は手白香皇后(たしらかのきさき)。継体帝はこれを愛し、常にそば近くに置いていた。
¶宣化帝四年二月、宣化帝が崩御した。群臣は相談し合い、天皇を推戴して皇統を継がせようとした。
¶十月、天皇(欽明天皇)は群臣に命じてこう仰せられた。「私は年若く見識も浅く、いまだ政務に習熟していない。山田皇后(やまだのきさき、宣化天皇の皇后・橘仲皇女)は政務によく通じておられるので、その裁定を仰いでほしい。」皇后はこれを固辞してこう言った。「私が受けている恩寵は、山や海にも比べがたいほどです。政務の困難な事柄に、どうして婦女子が関わるべきでしょうか。ちょうど今、皇子(欽明天皇)は老いた者を敬い幼い者を慈しみ、賢者にへりくだって礼を尽くし、真昼にも食事をとらずに士人の来訪を待つほどです。そのうえ、幼い頃から聡明で早くから良い評判を得ており、生まれつき寛大で温和な性質で、常に人を思いやり寛容であることを心がけておられます。どうか諸臣たちは、速やかに皇子を位にお登らせして、天下を照らし治めさせてください。」
¶十一月十七日丙寅、宣化天皇を葬った。十二月五日甲申、ついに天皇の位に即いた(注:皇年代略記・一代要記にはいずれも30歳とある。本書には享年の記載がないので、ここには記さない)。これを天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。手白香皇后を尊んで皇太后とした。大連の大伴金村・物部尾輿、大臣の蘇我稲目は、いずれも元のままとした(注:先代旧事本紀には、物部目(もののべのめ)を大臣とした、とあり、稲目のことは載せていない。公卿補任には、物部目は雄略帝十三年以後の事跡が見えず、薨じた年も未詳、とある。これによれば、先代旧事本紀が誤って稲目を物部目としたものであろう)。
¶元年庚申(注:先代旧事本紀では宣化帝の在位を三年としているため、去年の己未の年を元年としているが、これは誤りであって取るに足りない)、春正月十五日甲子、正妃の石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に立てた。二月、百済人の已知部(いちぶ)が帰化した。三月、蝦夷(えみし)・隼人(はやと)がそろって配下を率いて帰順した。秋七月十四日己丑、都を磯城島(しきしま)に遷した。これを磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)という。八月、高麗・百済・新羅・任那が使者を遣わして貢物を献上した。秦人(はたひと)・漢人(あやひと)など諸国からの帰化人を召し集め、国郡に安置して戸籍に編入した。大蔵掾(おおくらのじょう)を秦氏の伴造(とものみやつこ)とした。九月五日己卯、難波の祝津宮(はふりつのみや)に行幸した(注:釈日本紀が引く天書には、己卯の日に難波に行幸し、庚辰の日に進んで祝津宮に行幸した、とある)。大伴金村・物部尾輿・許勢稲持(こせのいなもち)らが供奉した。使者を遣わして住江(すみのえ)の神を祭らせ、民に位階と絹布を、それぞれの位に応じて賜った(注:「遣使」以下の記述は、釈日本紀が引く天書による)。
¶二年辛酉、春三月、稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)・日影皇女(ひかげのひめみこ)・堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)・糠子(ぬかこ)の五妃を後宮に納れた(注:古事記には稚綾姫・日影皇女はなく、代わりに皇后の妹の小石姫(こいしひめ)があり、あわせて四妃とする)。夏四月、百済に詔を下し、任那を復興させようとした。秋七月、百済が上表して、下韓(あるしからき)・任那の政について奏上した。
¶四年癸亥、秋九月、百済が使者を遣わして、扶南(ふなん)の財貨と奴隷二人を献上した。冬十一月、津守連(つもりのむらじ)を百済に遣わし(注:津守連の名は欠けている)、詔書を持たせて任那の復興を図らせた。
¶五年甲子、春三月、百済が上表して、任那復興の策を陳べた。冬十二月、越国(こしのくに)が「粛慎人(みしはせひと)が佐渡島の北、御名部崎(みなべのさき)にやって来た」と報告した。
¶六年乙丑、春三月、膳巴提便(かしわでのはすい)を百済に遣わした。夏五月、百済が上表した。冬十一月、巴提便が百済から帰った。この年、高麗で大乱があった。
¶七年丙寅、春正月三日丙午、百済の使者が帰った。良馬70匹、船10隻を賜った。夏六月十二日癸未、百済が調を献上した。この年、高麗でまた乱があった。
¶八年丁卯、夏四月、百済は新羅を撃って任那を回復しようとし、使者を遣わして援兵を求めてきた。下部(かほう)の東城子言(とうじょうしごん)が、「徳率(とくそつ)汶休麻那(もくきゅうまな)に代わって侍衛する」と申し出た。
¶九年戊辰、春正月三日乙未、百済の使者が帰国を願い出たので、詔して援兵を遣わすことを許した。九日辛丑、高麗が百済の馬津城(まつのさし)を囲んだ。夏四月三日甲子、百済の使者が来て、援兵の派遣停止を求めてきた。六月二日壬戌、百済に使者を遣わした。冬十月、兵卒370人を百済に遣わし、得爾辛(とくにしん)に城を築くのを助けさせた。
¶十年己巳、夏六月七日辛卯、百済の使者が帰国を求めてきたので、詔してこう仰せられた。「移那斯(えなし)・麻都(まつ)は(注:本書五年の記事に、阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)とあり、注にこの二人は人名である、とある)、密かに高麗と通じている。朕はまずその虚実を確かめるべきであるから、許していた援兵は、求めに応じて停止することとする。」
¶十一年庚午、春二月十日庚寅、百済に使者を遣わし(注:本書の注が引く百済本記には、日本の使者は阿比多(あひた)、とある)、矢30具を賜った。夏四月、使者が帰った。百済王の明は、これによって高麗の捕虜を献上した。十六日乙未、百済が使者を遣わし、高麗の捕虜を献上した。
¶十二年辛未、春三月、麦の種千斛(こく)を百済に賜った。この年、百済王はその軍勢と新羅・任那の兵を率いて高麗を討ち、漢城(かんじょう)・平壌(へいじょう)を取り、ついに六郡の故地を回復した。
¶十三年壬申、夏四月、箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)が薨じた。高麗は新羅と謀って、百済・任那を滅ぼそうとした。五月八日乙亥、百済・加羅・安羅が使者を遣わして援兵を求めてきた。冬十月(注:一代要記には「十三日辛酉」の五字がある)、百済王の明は使者を遣わして金銅の釈迦仏像、および幡蓋(ばんがい)・経論を献上し、上表して仏の功徳を讃え述べた。天皇はこれを礼拝すべきかどうかを疑い、群臣に議論させた。蘇我稲目は「礼拝すべきです」と奏上し、物部尾輿・中臣鎌子(なかとみのかまこ)はともに「礼拝すべきではありません」と奏上した。天皇はこれ(尾輿らの意見)に従いつつ、そのまま仏像を稲目に賜った。稲目は向原(むくはら)の家を捨てて寺とした。この時、諸国で疫病が大流行し、長く続いてますます激しくなった。尾輿・鎌子は「疫病の流行は、実に仏のもたらしたものです。その像を退けて捨て、災いの根源を絶ち、後の幸いを求めるべきです」と奏上した。詔してこれを許した。そこで担当の役人に命じて、「仏像を難波の堀江に投げ捨て、火を放って伽藍を焼き払え」とした。この日、大殿が火災に遭った。この年、百済は漢城・平壌を棄て、新羅が漢城に入って居住した。
¶十四年癸酉、春正月十二日乙亥、百済が使者を遣わして援軍を請うてきた。夏五月、河内から、茅渟(ちぬ)の海が大きく鳴り響いて光を発したとの報告があり、溝辺直(みぞべのあたい、名は欠けている)に勅して海に入ってこれを見させたところ、樟(くすのき)の木を得たので、工人に命じて仏像二体を造らせた。六月、内臣(うちつおみ、名は欠けている)を百済に遣わし、援兵を送ることを許し、あわせて船・馬・弓矢を賜った。また医博士・易博士・暦博士に勅して、交替で往来させた。秋七月四日甲子、樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸し、王辰爾(おうじんに)に勅して船の賦(みつぎ)を記録させ、これによって船長(ふなのおさ)とし、船史(ふなのふひと)の姓を賜った。八月七日丁酉、百済が使者を遣わして援兵と弓馬を求めてきた。冬十月、百済の王子余昌(よしょう)が高麗と戦い、これを大いに破った。
¶十五年甲戌、春正月七日甲午、皇子の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)を皇太子に立てた。九日丙申、百済の使者が筑紫に至り、援兵の数と派遣の時期を尋ねた。二月、百済がまた使者を遣わして援兵を乞うた。徳率(とくそつ)の東城子莫古(とうじょうしまくこ)を、奈率(なそつ)の東城子言(とうじょうしごん)の侍衛の代わりとし、五経博士の五柳貴(ごりゅうき)を、固徳(ことく)の馬丁安(まていあん)の代わりとし、僧の曇恵(どんえ)ら九人を、僧の道深(どうしん)ら七人の代わりとした。別に易博士の施徳(せとく)王道良(おうどうりょう)、暦博士の固徳王保孫(おうほうそん)、医博士の奈率王有㥄陀(おうりょうだ)、採薬師の施徳潘量豊(はんりょうほう)・固徳丁有陀(ていゆうだ)、楽工の施徳三斤(さんこん)・季徳(きとく)已麻次(いまじ)・季徳進奴(しんぬ)・対徳(たいとく)進陀(しんだ)を貢り、いずれも要請どおりに交替させた。夏五月三日戊子、内臣に水軍を率いさせて百済に赴かせ、ともに新羅を討たせた。冬十二月、内臣らは新羅の函山城(かんさんのさし)を攻めてこれを陥落させた。百済王は上表して勝利を奏し、その捕虜と、あわせて上等の錦の毛氈(もうせん)、斧300丁を献上した。この月、百済王の明が新羅に殺された。
¶十六年乙亥、春二月、百済の王子余昌はその弟の恵(え)を遣わして喪を告げさせた。天皇はこれを聞いて悲しみ、使者を遣わして迎え慰問させた。秋七月四日壬午、大臣の蘇我稲目、および穂積磐弓(ほづみのいわゆみ)らを吉備の五郡に遣わし、白猪屯倉(しらいのみやけ)を置いた。
¶十七年丙子、春正月、百済の王子恵が帰国を願い出た。多くの武器と良馬を賜った。阿倍臣・佐伯連(さえきのむらじ)・播磨直(はりまのあたい、注:三人の名は欠けている)を遣わし、筑紫の水軍を発して護送させた。別に筑紫火君(つくしのひのきみ)を遣わし、勇士千人を率いさせて彌氐津(みてつ)まで送らせ、その要害を守らせた。秋七月六日己卯、蘇我稲目らを備前の児島郡に遣わし、屯倉を置いた。葛城山田瑞子(かずらきのやまだのみずこ)を田令(たつかい)とした。冬十月、蘇我稲目らを倭国高市郡(たけちのこおり)に遣わし、韓人(からひと)の大身狭屯倉(おおむさのみやけ、注:本書の注に、韓人とは百済人である、とある)、高麗人の小身狭屯倉(おむさのみやけ、注:本書の注のある一本に、各地の韓人を大身狭屯倉の田部とし、高麗人を小身狭屯倉の田部としたため、これを屯倉の名としたのである、とある)を置いた。紀国には海部屯倉(あまべのみやけ)を置いた。
¶十八年丁丑、春三月、百済王の余昌が立った。
¶二十一年庚辰、秋九月、新羅が使者を遣わして調を貢納し、慣例を超えるもてなしと賜物を受けた。
¶二十二年辛巳、新羅が調を貢納したが、その礼遇は通常より減じられた。新羅はまた叛いた。
¶二十三年壬午、春正月、新羅が任那の官家(みやけ)を滅ぼした。夏六月、詔を下して任那の臣民を諭し励まし、経略して復興させようとした。秋七月己巳朔、新羅の貢調の使者が到着した。ちょうど新羅が任那を滅ぼしたところであったため、使者は畏れて帰国を願い出ることができなかった。そこで河内更荒郡(こうあらのこおり)に編入して民とした。この月、大将軍の紀男麻呂(きのおまろ)、副将の河辺瓊缶(かわべのにえ)を遣わして新羅を討たせ、任那を攻めた事情を問わせた。新羅は兵を起こして拒み戦い、男麻呂はこれを撃ち破った。しかしその後、瓊缶が軽率に進んで敗れ、新羅に捕虜とされ、調(つき)の伊企儺(いきな)はこの戦いで死んだ。八月、大将軍の大伴狭手彦を遣わして数万の兵を率いさせ、高麗を討ってこれを大いに破り、婦女と宝貨を得て帰った。呉の人・智聡(ちそう)が儒教・仏教の方術書、明堂図(みょうどうず)など164巻をもたらした。仏像・楽器もあわせて伝わってきた(注:「呉人」以下の記述は新撰姓氏録による)。冬十一月、新羅人が貢物を献上したが、その使者はまた留め置かれて帰されなかった。
¶二十六年乙酉、夏五月、高麗人が帰化し、山背国に住まわせた。
¶二十八年丁亥、諸国で大水害があった。飢饉となり、人が互いに食い合うほどであった。詔して、「近隣の郡の倉の穀物を放出して救済せよ」とした(注:公事根源には、毎年五月の賑給(しんごう、貧民救済)は欽明帝に始まる、とあるが、これはおそらくこの記事に基づいての説であろう)。
¶三十一年庚寅、春三月甲申朔、大臣の蘇我稲目が薨じた。夏四月二日乙酉、泊瀬柴籬宮(はつせのしばがきのみや)に行幸した。越の人が「高麗の使者が海岸に漂着した」と上申してきた。この月、天皇の車駕は泊瀬から帰った。東漢糠児(やまとのあやのぬかこ)・葛城難波(かずらきのなにわ)を遣わして、高麗の使者を出迎えさせた。五月、膳傾子(かしわでのかたぶこ)を越に遣わして高麗の使者をもてなさせた。秋七月、東漢坂上子麻呂(やまとのあやのさかのうえのこまろ)・錦部大石(にしごりのおおいし)を遣わして、山背の相楽館(さがらかのむろつみ)で高麗の使者をもてなさせた。
¶三十二年辛卯、春三月五日壬子、坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつきみ)を新羅に遣わし、任那を滅ぼしたことを責め問わせた。夏四月十五日壬辰、天皇が病に伏した。皇太子は都の外におり、駅馬を馳せてこれを召し、寝所に引き入れてその手を取り、こう詔して仰せられた。「朕の病は重い。後の事はお前に託す。お前は必ず新羅を征伐し、任那を再興せよ。そうすれば朕は死んでも思い残すことはない。」この日(注:本書は「日」を「月」に作るが、今は皇年代略記によってこれを正した)、天皇は寝所で崩御した(注:本書には享年の記載がない。一代要記・皇年代略記にはいずれも62歳とある。皇代記には63歳とある。神皇正統記には81歳とある。どれが正しいか分からない)。五月、河内の古市(ふるいち)で殯(もがり)をした。九月、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬り、追って欽明天皇と諡した。
¶天皇が幼かったとき、夢の中である人がこう告げた。「天皇がもし秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛して遇するならば、成人したとき必ず天下を保つであろう。」目覚めてから、人を遣わして四方にこれを探し求めさせたところ、山背国紀伊郡(きいのこおり)の深草里(ふかくさのさと)でこれを見つけた。天皇は大いに喜び、そば近くに仕えさせるよう命じ、日ごとに恩寵は篤くなった。即位に及んで、大蔵省(おおくらのつかさ)に任じた。天皇の在位中、天下に大風雨があり、これを占うと、賀茂の神の祟りであるとされた。そこで四月の吉日を選んでこれを祭った。すると穀物は豊かに実った。賀茂祭(かものまつり)はこれに始まる(注:「天皇在位」以下の記述は、本朝月令・公事根源・年中行事が引く秦氏本系帳による。一代要記には天智帝丁卯の年を始まりとするが、これは誤りである)。
敏達天皇
¶敏達天皇は、欽明帝の第二子である。母は石姫皇后(いしひめのきさき)。
¶欽明帝十五年、皇太子に立てられた(注:本書は二十九年のこととするが、今は欽明紀に従う)。
¶(欽明帝)三十二年、四月、欽明帝が崩御した。八月丙子朔、新羅の弔使が来て殯宮を拝した。九月、欽明天皇を葬った。
¶元年壬辰、夏四月三日甲戌、天皇が即位した(注:皇年代略記には35歳とある。本書には享年の記載がないので、ここには記さない)。これを渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)という。百済大井(くだらのおおい)に宮を置いた。皇后を尊んで皇太后とした。大連の物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)は元のままとした(注:本書には守屋がここに初めて見えるが、「大連として元のまま」というのは、尾輿が薨じた後、すでに大連となっていたのであろうか。公卿補任にもまた、初任は未詳とある。先代旧事本紀には、物部大市御狩(もののべのおおいちのみかり)を大連とした、とある)。蘇我馬子(そがのうまこ)を大臣とした。五月壬寅朔、詔して群臣を相楽館に遣わし、高麗の調物を検査させ、都に送らせた。六月、高麗の副使がその大使を殺した。
¶二年癸巳、夏五月三日戊辰、高麗の使者が越の海に至ったが、船が破損して溺死する者が多かった。朝廷はその使者がしばしば航路を誤ることを疑い、吉備海部難波(きびのあまべのなにわ)に命じてその国に送り返させた。難波は風浪を恐れ、高麗人二人を海に投げ込んで帰ってきた。
¶三年甲午、秋七月二十日戊寅、高麗の使者がまた来て、送った使者が到着しなかった理由を問うてきた。そこで難波を責め咎めて罪を科した。冬十月九日丙申、大臣の蘇我馬子を吉備国に遣わし、白猪屯倉とその田部を増やした。十一月、新羅が貢物を献上した。
¶四年乙未、春正月九日甲子、広姫(ひろひめ)を皇后に立てた。この月、老女君(おみなのきみ)を夫人(ぶにん)とした。二月乙丑(注:今、甲子を基準に推算すると、この月に乙丑の日はなく、おそらく己丑の誤りであろう、己丑は4日にあたる)、百済が調を貢納したが、その数は例年の倍であった。天皇は任那がまだ復興していないことを憂え、諸皇子・大臣に詔して協議させた。夏四月六日庚寅、吉士金子(きしのかにこ)を新羅に、吉士木蓮子(きしのいたび)を任那に、吉士訳語彦(きしのおさひこ)を百済に遣わした。六月、新羅が調を貢納したが、その数は通常より増えていた。あわせて多多羅(たたら)・須奈羅(すなら)・和陀(わだ)・発鬼(ほちき)の四邑の調も献上した。冬十一月、皇后が崩じた。この年、海部王(あまべのおおきみ)・糸井王(いといのおおきみ)の邸宅を宮とすることを占わせたところ(注:先代旧事本紀は「糸」を「照」に作る)、吉と出た。そこで訳語田(おさだ)に宮を営んだ。これを幸玉宮(さきたまのみや)という(注:皇年代略記・皇代略記では、宮を営んだのを六月のこととする。歴代皇紀では、元年に即位して磐余(いわれ)に都を遷したとする。いずれも誤りである)。
¶五年丙申、春三月十日戊子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)を皇后に立てた。
¶六年丁酉、春二月甲辰朔、詔して日祀部(ひまつりべ)・私部(きさいちべ)を置いた。夏五月五日丁丑、大別王(おおわけのおおきみ)、および小黒吉士(おぐろのきし)を宰(みこともち)として百済に遣わした。冬十一月庚午朔、大別王らが帰った。百済王はこれによって経論若干巻、および律師・禅師・比丘尼・呪禁師(じゅごんし)・仏工・寺工を献上した。詔してこれらを難波の大別王寺(おおわけのおうじ)に置かせた。
¶七年戊戌、春三月五日壬申、菟道皇女(うじのひめみこ)を伊勢神宮に仕えさせたが、事件に連座して罷免された。
¶八年己亥、冬十月、新羅が調を貢納し、あわせて仏像を献上した。
¶九年庚子、夏六月、新羅が調を貢納したが、これを退けた。
¶十年辛丑、春閏二月、蝦夷数千人が辺境に侵攻したため、その首領の綾糟(あやかす)らを召してこれを責めた。綾糟らは大いに恐れて謝罪し、二度と叛かないことを誓った。
¶十一年壬寅、冬十月、新羅が調を貢納したが、またこれを退けた。
¶十二年癸卯、秋七月丁酉朔、詔して紀国造押勝(きのくにのみやつこおしかつ)・吉備海部羽島(きびのあまべのはしま)を百済に遣わし、葦北国造(あしきたのくにのみやつこ)の子・日羅(にちら)を召させた。百済王はこれを聞き入れなかった。冬十月、また羽島に強いてこれを召させたところ、羽島はついに日羅を連れて帰った。
¶十三年甲辰、春二月八日庚子、難波木蓮子(なにわのいたび)を新羅に使者として遣わし、そのまま任那にも赴かせた。秋九月、鹿深臣(かふかのおみ)・佐伯連(二人の名は欠けている)が百済から帰り、それぞれ仏像一体を携えてきた。蘇我馬子は殿舎を造ってこれを安置し、仏法はこれよりいよいよ広まった。
¶十四年乙巳、春二月、疫病が流行し、民に死者が多く出た。三月丁巳朔、大連の物部弓削守屋、大夫の中臣勝海(なかとみのかつみ)が奏上して、「仏法が盛んに行われるようになってから、疫病はますますひどくなっております。厳しくこれを禁じ断つべきです」と言った。詔して「よろしい」とされた。仏像と塔・殿舎を焼き、残った像は難波の堀江に棄てた。
¶天皇は速やかに任那を復興させようとし、坂田耳子王を使者に選んだ。ちょうどそのとき天皇および大連の守屋がともに瘡(かさ、できもの)を患い、この計画は実現しなかった。そこで皇弟の橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)に詔してこう仰せられた。「先皇の遺された勅を奉じ、任那の復興を事とせよ。」この時、都では瘡を患う者が多く、死者も甚だ多かったため、民間ではひそかに「これは仏像を焼いたことによるものだ」と噂した。夏六月、馬子は病のために三宝(さんぽう、仏法僧)を奉じることを願い出た。天皇は元来文学・史書を好み、仏法を信じていなかった。馬子に詔してこう仰せられた。「お前一人でこれを行うがよい、他人を惑わしてはならない。」秋八月十五日己亥、天皇は大殿で崩御した(注:本書には享年の記載がない。神皇正統記・如是院年代記にはいずれも61歳とある。皇代記・皇年代略記・歴代皇紀・皇胤紹運録にはいずれも48歳とある。どちらが正しいか分からない。水鏡・愚管抄には24歳とあるが、誤りである)。広瀬(ひろせ)に殯宮を建てた。
¶崇峻帝四年、磯長陵(しながのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、河内磯長中尾陵、とある)。追って敏達天皇と諡した。
用明天皇
¶用明天皇は、はじめ大兄皇子(おおえのみこ)と称した。欽明帝の第四子である。母は堅塩媛。
¶天皇は常に神道を尊びつつ、仏法をも信じていた。
¶敏達帝十四年八月、敏達帝が崩御した。九月五日戊午、天皇の位に即いた(注:皇年代略記には67歳とある。本書には享年の記載がないので、ここには記さない)。これを橘豊日天皇という。磐余に都を置き、これを池辺雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)という。大臣の蘇我馬子、大連の物部弓削守屋は、いずれも元のままとした。十九日壬申、酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)を伊勢神宮に仕えさせた。
¶元年丙午、春正月壬子朔、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を皇后に立て、石寸名(いわきな)を嬪(みめ)として後宮に納れた。夏五月、穴穂部皇子(あなほべのみこ)が謀反を密かに企て、三輪逆(みわのさかう)を殺した。
¶二年丁未、夏四月二日甲子(注:本書は丙子に作るが、この月は乙巳朔であり丙子の日はない。今は推算して甲子と正した)、磐余の川のほとりで新嘗(にいなめ)の儀を行ったが、天皇は病を得て宮に帰った。群臣に詔してこう仰せられた。「朕は三宝に帰依したいと思うが、卿らはこれを議するように。」物部守屋・中臣勝海は「仏という蕃神(ばんしん、外国の神)を敬うには及びません」と奏上した。蘇我馬子は詔旨に賛成し、僧を宮中に引き入れた。そこで守屋と馬子の怨みの溝はますます深まった。馬子は密かに兵を集め、守屋・勝海もまた兵を集めて自ら守りを固めた。跡見赤檮(とみのいちい)が勝海を殺した。天皇は瘡を患ってその病は篤くなった。九日癸丑、大殿で崩御した(注:本書には享年の記載がない。神皇正統記・如是院年代記・倭漢合符にはいずれも41歳とある。皇代略紀・皇年代略記にはいずれも69歳とある。どちらが正しいか分からない)。磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬った。
¶推古帝元年、河内磯長陵(しながのみささぎ)に改葬した(注:延喜式には、「長」の下に「原」の字がある。古事記には、御陵は石寸(いわれ)の掖上(わきがみ)にあったが、後に科長中陵(しながのなかのみささぎ)に遷した、とある)。追って用明天皇と諡した。
崇峻天皇
¶崇峻天皇は、欽明帝の第十二子である(注:先代旧事本紀・聖徳太子伝暦・愚管抄・皇年代略記・帝王編年記では第十五子とする。歴代皇紀では第十六子、一代要記では第六子とする。水鏡・神皇正統記は本書と一致する)。母は小姉君。
¶用明帝が崩御したが、跡継ぎはまだ定まっていなかった。大連の物部守屋は穴穂部皇子を立てようとした。六月七日庚戌、大臣の蘇我馬子は炊屋姫皇后(かしきやひめのきさき)の詔を奉じ、佐伯丹経手(さえきのにえて、注:聖徳太子伝暦には、佐伯連舟径縄手(さえきのむらじふなとのなわて)に作る)・土師磐村(はじのいわむら)・的真齧(いくはのまくい)に穴穂部皇子を殺させた。八日辛亥、宅部皇子(やかべのみこ)を殺した。七月、馬子は天皇(崇峻天皇、当時はまだ即位前)および諸皇子・群臣とともに軍を率いて守屋を攻めた。大いに戦ってこれを破った。跡見赤檮が矢で守屋を射殺し、その功により田一万頃(けい)を賜った。二十一日甲午、用明天皇を葬った。八月二日甲辰、炊屋姫皇后は群臣とともに策を定めて即位を勧め、天皇の位に即いた(注:皇年代略記・一代要記にはいずれも69歳とある。本書には享年の記載がないので、ここには記さない)。これを泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)という(注:古事記には長谷部若雀(はつせべのわかさざき)に作る)。倉梯(くらはし)に宮を置いた(注:古事記には、倉椅柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)とある)。大臣の蘇我馬子は元のままとした。この年、百済が調を貢納した。
¶元年戊申、春三月、小手子(おてこ)を妃に立てた。この年、百済が調を貢納し、あわせて仏舎利、および僧九人、寺工・炉盤工(ろばんこう)・瓦工・画工を献上した。
¶二年己酉、秋七月壬辰朔、近江満(おうみのみつ、注:聖徳太子伝暦は「満」を「蒲」に作る)を東山道に、宍人雁(ししひとのかり)を東海道に、阿倍臣を北陸道に遣わし、国境の様子を観察させた。
¶四年辛亥、夏四月十三日甲子、敏達天皇を葬った。秋八月庚戌朔、群臣に詔して、任那を封じ治めることを議させた。冬十一月四日壬午(注:本書には「十二月己卯朔壬午」とあるが、今は干支に基づき聖徳太子伝暦に従う)、紀男麻呂・巨勢比良夫(こせのひらぶ)・狭臣(さおみ、注:聖徳太子伝暦には巨勢臣猿(こせのおみさる)に作り、「比良夫」の三字はない)・大伴嚙(おおとものくい)・葛城烏奈良(かずらきのおなら)を大将軍とし、任那を復興させようとした。二万余の兵を率いて筑紫に駐屯させた。吉士磐金(きしのいわかね、注:「磐金」は本書には「磐」の字がないが、推古紀によって補った)を新羅に、吉士木蓮子を任那に遣わし、二国の様子を調べ問わせた。
¶五年壬子、冬十月四日丙子、ある人が山猪(やまいのしし)を献上した。天皇はこれを指してこう仰せられた。「いつになったら、朕が憎んでいる者を斬ることが、この猪の頭を切るようにできるだろうか。」そして武器を多く備えさせた。大臣の馬子はこれを聞いて恐れた。十一月三日乙巳、天皇は突然崩御した(注:本書には享年の記載がない。水鏡・神皇正統記・皇代記・一代要記にはいずれも72歳とある。皇胤紹運録・皇年代略記・歴代皇紀には73歳とある。どちらが正しいか分からない)。この日、倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬った。五日丁未、駅馬を筑紫に馳せさせ、将軍の紀男麻呂らに「内乱によって外事を怠ってはならない」と告げさせた(注:崇峻帝が崩御し、推古帝がまだ即位していない段階で、駅馬を筑紫に馳せさせたのは、おそらく馬子の仕業であろう。しかし本書には考証すべき記述がない)。追って崇峻天皇と諡した。