卷之第六 本紀第六
武烈天皇、繼體天皇、安閑天皇、宣化天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
武烈天皇
¶武烈天皇は、仁賢帝の子である。母は春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)。
¶仁賢帝七年、皇太子に立てられた。
¶十一年八月、仁賢帝が崩御した。大臣・平羣真鳥(へぐりのまとり)は驕り高ぶって政を専らにし、密かに皇位簒奪を謀っていた。その子の鮪(しび)は、皇太子に対して無礼な振る舞いがあった。皇太子は大伴金村(おおとものかなむら)と謀り、金村は兵を率いて鮪を誅した。十月五日癸丑、仁賢天皇を葬った。十一月十一日戊子、金村はついに真鳥を誅した。
¶十二月、金村は尊号を奉るよう請い、こう申し上げた。「億計天皇(おけのすめらみこと、仁賢天皇)の御子は、ただ陛下おひとりであり、万民の心はすべて陛下に帰しており、並び立つ者はおりません。今、天のご加護により凶党は誅滅され、その英略と雄断は天威を大いに盛んにしました。伏してお願い申し上げます、陛下は天地の神々にお応えになり、大いなる天命を広く宣べ、日本を照らし治め、あまねく銀郷(ぎんきょう、この国)を統べられますように。」そこで担当の役人に命じ、泊瀬列城(はつせのなみき)に壇場を設けて天皇の位にお即きになった(注:水鏡には、10歳とある。歴代皇紀・皇年代略記にはいずれも49歳とある。この二説はいずれも疑わしく、詳細は後述する)。そのままそこを都とした。これを小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)という。この日、金村を大連(おおむらじ)とした(注:先代旧事本紀には、物部麻佐良(もののべのまさら)を大連としたとある)。
¶元年己卯、春三月二日戊寅、春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后に立てた。
¶三年辛巳、冬十一月、大連の大伴室屋(おおとものむろや)に詔して、信濃の丁男(よぼろ、成人男子)を徴発し、泒邑(なみのむら)に城のような建物を作らせた。
¶四年壬午、百済王の末多(また)が無道であったため、国人はこれを廃し、島(しま)を王に立てた。
¶六年甲申、秋九月乙巳朔、詔してこう仰せられた。「そもそも国を伝える道は、子を立てることが貴い。朕には今、跡を継ぐ子がいない。何をもって名を伝えればよいのか。旧例に従い、小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を置き、これを万世に遺すべきである。」冬十月、百済が調(みつぎ)を進上した。天皇は、その貢納が久しく絶えていたことを理由に、その使者を抑留した。
¶七年乙酉、夏四月、百済王はその一族の斯我君(しがのきみ)を遣わして宮廷に仕えさせた。
¶八年丙戌、冬十二月八日己亥、天皇は列城宮(なみきのみや)で崩御した(注:本書には享年の記載がない。水鏡・神皇正統記にはいずれも18歳とある。歴代皇紀・皇年代略記・皇代記・帝王編年記にはいずれも57歳とある。前者の説によれば、天皇はまだ即位せず影媛(かげひめ)に言い寄っていたときにわずか10歳であったことになる。そのようなことがあり得るだろうか。後者の説によれば、天皇は在位八年であるから、49歳で即位したことになる。仁賢帝の寿命は50歳、あるいは51歳ともいうので、これでは仁賢帝が2、3歳のときに天皇を生んだことになってしまう。そのようなことがまたあり得るだろうか。二説はいずれも信じがたい)。傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、「丘」の下に「北」の字がある)。
¶天皇は刑罰の理を好み、法令は明確であった。日が暮れるまで朝廷に座して政務を執り、隠れた冤罪も必ず明らかにし、訴訟の裁定はその実情をよくとらえていた。しかし性格は残忍酷薄で殺戮を好み、およそ諸々の惨たらしい刑罰は、すべて自ら臨んで見物した。妊婦の腹を割いてその胎児を見たり、人の爪を剥いで山芋を掘らせたり、人を樋(とい)の中に伏せて入らせ、自ら三刃の矛を持ってその流れ出るところを待って刺したり、また人の頭髪を抜いて木に登らせ、その木を伐り倒し、あるいは弓で射落として快とすることもあった。しかも天皇は、代々の聖帝による太平の余沢を受け継ぎ、百姓は富み栄え、四海は無事であった。そこで大いに奢侈を極め、錦繍を敷物とし、綺紈(きがん、美しい絹織物)を衣とし、苑囿(えんゆう、庭園)や池を造営して禽獣を多く飼育した。あるいは馬を駆り犬を走らせて、時を選ばず風雨をも避けずに出入りした。また侏儒(こびと)や俳優を集めて、みだりに淫らな遊興にふけり、日夜宮女とともに酒に溺れた。しかしながら人を見る目があり、それぞれの才能に応じて適所に用い、それぞれの力を発揮させたのは、これもまた天皇の長所であった(注:「且帝」以下の記述は、本書の継体紀の詔の文言を参考にして採った)。追って武烈天皇と諡した。
繼体天皇
¶継体天皇は、はじめ男大迹王(おおどのおおきみ)と称した。応神帝の五世の孫であり、父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)である(注:本書・先代旧事本紀・古事記はいずれも、ただ「五世の孫」というのみで、その系譜を記していない。釈日本紀が引く上宮記によれば、応神天皇が稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)を生み、この皇子が大郎子(おおいらつこ)を生み、大郎子は一名を意富富等王(おおほどのおおきみ)といい、彦主人王を生んだ、これがすなわち天皇の父である、という。古事記には、品陀天皇(ほむだのすめらみこと、応神天皇)の子・若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)が大郎子、一名意富富杼王(おおほどのおおきみ)を生んだ、この王は三国君(みくにのきみ)らの祖である、とある。先代旧事本紀には、二派皇子は三国君の祖である、とある。新撰姓氏録には、三国真人(みくにのまひと)は継体天皇の皇子・椀子王(まりこのおおきみ)より出た、とある。思うに天皇ははじめ三国におられたため、その子孫が三国の姓を名乗ったのであろうか。そうであれば、二派皇子より出たことは明らかである。水鏡・神皇正統記・皇胤紹運録の一説にはいずれも、隼総別命(はやぶさわけのみこと)が大迹王を生み、大迹王が私斐王(しひのおおきみ)を生み、私斐王が彦主人王を生んだ、とあるが、おそらく誤りであろう)。王は近江の三尾(みお)の別業(なりどころ、別邸)に住み、三国の坂中井(さかない)の人のある女(むすめ)である振媛(ふりひめ)を妃に迎え、天皇を生んだ。
¶天皇は幼くして父を失い、振媛に従って高向(たかむく)で養育された(注:本書の注に、高向は越前の邑の名である、とある)。成人に及んでは、人材を愛し賢者を礼遇し、心は広く度量があった。
¶武烈帝が崩御したが、跡継ぎがいなかった。このとき、仲哀帝の五世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)は、密かに丹波国桑田郡に住んでいた。大連の大伴金村は議を定めてこれを迎えようとしたが、倭彦王は儀仗兵の警護が非常に厳重であるのを望み見て、大いに恐れて逃げ隠れてしまった。
¶元年丁亥、春正月四日甲子、大伴金村はさらに議を重ねてこう言った。「男大迹王は慈愛深く孝順であり、皇位を継ぐにふさわしい。」大連の物部麤鹿火(もののべのあらかい)、大臣の巨勢男人(こせのおひと)らも、みなこの議に従った。そこで臣・連らを遣わし、節(しるし)を持たせて法駕(ほうが、天子の車駕)を備え、三国において天皇をお迎えした(注:古事記には、淡海国(近江国)から来られた、とある)。天皇は胡床(あぐら)に腰掛けて泰然自若とし、侍臣を整然と並べて、その様子は儼(おごそ)かにまるで帝位にあるかのようであった。節を持った使者たちは、その尊厳さを望み見て、内心大いに敬服した。天皇はなお躊躇して出発しようとしなかったが、ちょうど河内の馬飼(うまかい)である荒籠(あらこ)という者が、密かに人を遣わして、大臣・大連が天皇をお迎えしようとする意図を詳しく告げた。天皇はついに意を決して出発し、こう嘆じて言った。「荒籠がいなければ、私は天下の笑い者になるところであった。」即位してからは、荒籠に厚く寵愛を加えた。二十四日甲申、樟葉宮(くすばのみや)に至った。二月四日甲午、大連の大伴金村がひざまずいて鏡・剣・璽符(じふ)を献上した。天皇は再三辞退したが、金村は地に伏して固く請い、天皇はついにこれを許した。この日、即位した。時に58歳(注:年齢は水鏡・愚管抄・皇代記、および本書に崩年82歳とある記述による)。これを男大迹天皇という(注:本書の注に、一名を彦太尊(ひこふとのみこと)という、とある。先代旧事本紀には、皇妃を尊んで皇太夫人媛(こうたいぶにんひめ)とした、とある)。大連の大伴金村・物部麤鹿火、大臣の許勢男人は、いずれも元のままとした(注:男人が大臣となった年月は、本書にこれまで見えず、ここで「元のまま」というのは疑わしい。麤鹿火が大連となった年月もまた不明である。公卿補任には、宣化帝元年に麤鹿火が薨じた、在官三十年、とある。これによれば、この年にすでに大連であったことは明らかである)。三月五日甲子、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に立てた。九日戊辰(注:本書には戊辰・癸酉の記事が誤って二月に置かれているが、今は干支から推算してこれを正した)、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところでは、『一人の男が耕さなければ、天下はあるいはその飢えを受け、一人の女が織らなければ、天下はあるいはその寒さを受ける』という。そのため帝王は自ら耕作して農業を奨励し、后妃は自ら養蚕をして女子の仕事を奨励するのである。まして群臣・百姓において、農業を放棄して豊かになれることがあろうか。担当の役人はあまねく天下に告げ、朕のこの意を知らしめよ。」十四日癸酉、目子媛(めのこひめ)・稚子媛(わかこひめ)・広媛(ひろひめ)・麻績娘子(おみのいらつめ)・関媛(せきひめ)・倭媛(やまとひめ)・荑媛(はえひめ)・広媛の八人の妃を後宮に納れた(注:本書の注に、八妃を納れたのには先後の順があるが、ここで癸酉の日に納れたというのは、即位してから吉日を占い選んで初めて後宮に召したことに基づく記述である、他も皆これに倣う、とある。○二人の広姫は同名の別人であり、詳しくは后妃伝を見よ)。
¶三年己丑、春二月、百済に使者を遣わし、任那(みまな)に逃げていたその国の民を捜し出して帰らせた(注:本書の注が引く百済本記には、久羅麻致岐弥(くらまちきみ)が日本より来た、とある)。
¶五年辛卯、冬十月、都を山背(やましろ)の筒城(つつき)に遷した。
¶六年壬辰、夏四月六日丙寅、哆唎(たり)の国守(くにのみこともち)穂積押山(ほづみのおしやま)を百済に遣わし、あわせて筑紫の馬40匹を賜った。
¶冬十二月、百済が調を貢納した。別に上表して、任那の上哆唎(かみつたり)・下哆唎(しもつたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を求めてきたので、これを許した。
¶七年癸巳、夏六月、百済はその将軍姐弥文貴(さみもんき)・洲利即爾(するそに)を、穂積押山に従わせて遣わしてきた。五経博士の段楊爾(だんように)を貢り、伴跛国(はへのくに)が己汶(こもん)の地を侵略し奪ったことを奏上した。冬十一月五日乙卯、百済・新羅・安羅(あら)・伴跛の使者を召し集め、詔を下して己汶・帯沙(たさ)の地を百済に賜った。この月、伴跛は使者を遣わして珍宝を献上し、己汶の地を求めてきたが、これを許さなかった。
¶十二月八日戊子、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)を皇太子に立てた(注:本書には皇太子を立てたという記述がなく、今は詔の文言に基づいてこれを記した。先代旧事本紀では八年正月のこととする)。詔してこう仰せられた。「朕は皇統を受け継ぎ、宗廟を守り保ち、兢々業々として、夕べにも懼れ怠ることがなかった。このごろ天下は安らかに治まり、国内は清く平らかで、しばしば豊年を迎えている。ああ美しいことよ、摩呂古(まろこ、勾大兄皇子の別称)よ、朕の心を八方に示してくれた。盛んなことよ、勾大兄よ、わが徳風を万国に輝かせてくれた。宝とすべきは賢者のみであり、善をなすことが最も楽しいことである。聖なる教化はこれによって遠くまで広がり、その大いなる功績はこれによって広く及んだ。まことにお前の力によるものである。よろしく春宮(とうぐう、皇太子の宮)の位に就き、朕を助けてその足らざるところを補ってほしい。」
¶八年甲午、春正月、皇太子妃の春日皇女(かすがのひめみこ)に匝布屯倉(さふのみやけ)を賜った。三月、伴跛は城を築いて官兵に備え、新羅を侵略した。
¶九年乙未、春二月四日丁丑、物部連(もののべのむらじ)に百済の使者を送らせた(注:物部連の名は欠けている。本書の注が引く百済本記には、物部至至連(もののべのしじのむらじ)とある)。夏四月、伴跛は兵を出して帯沙江(たさのえ)で物部連を遮り、大いに略奪を行った。物部連はかろうじて逃れ、汶慕羅(もむら)に逃げ込んだ(注:本書の注に、汶慕羅は島の名である、とある)。
¶十年丙申、秋九月、百済はその将軍州利即爾を遣わして物部連を送らせ、あわせて己汶の地を賜ったことに謝意を表した。五経博士の漢高安茂(あやのこうあんも)を貢り、段楊爾との交代を求めてきたので、これを聞き入れた。十四日戊寅、また将軍灼莫古(しゃくまくこ)、および日本の斯那奴阿比多(しなののあひた)を、高麗の使者に副えて来朝させた。
¶十二年戊戌、春三月九日甲子、都を弟国(おとくに)に遷した。
¶十七年癸卯、夏五月、百済王の武寧(ぶねい)が卒した。
¶十八年甲辰、春正月、百済王の明(めい、聖明王)が立った。
¶二十年丙午、秋九月十三日己酉、都を磐余玉穂(いわれのたまほ)に遷した(注:本書の注のある一本には、七年のこととする)。
¶二十一年丁未、夏六月、近江毛野(おうみのけな)に六万の軍勢を率いさせて任那に赴かせ、新羅に侵された故地を回復させようとした。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)が叛き、火(ひ)・豊(とよ)の二国を拠点として新羅と密かに通じ、毛野の軍を阻んだ。秋八月辛卯朔、詔して大連物部麤鹿火を大将軍とし、これを討たせた。
¶二十二年戊申、冬十一月十一日甲子、大将軍物部麤鹿火は磐井を攻めてこれを破った。磐井は誅に伏し、筑紫はことごとく平定された。十二月、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は父の罪に連座することを恐れ、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して、その罪を贖おうとした。
¶二十三年己酉、春三月、百済が加羅(から)の多沙津(たさのつ)を朝貢の路とすることを求めてきたので、これを許した。物部伊勢父根(もののべのいせちね)・吉士老(きしのおゆ)らを遣わし、この津を百済に属させた。加羅王はこれを怨んだ。この月、近江毛野を安羅(あら)に遣わし、諸蕃を和解させようとした。夏四月七日戊子、任那王の己能末多干岐(このまたかんき)が来朝し、新羅が約束に背いて侵略していることを訴えた。この月、使者を遣わして己能末多干岐を護送させた。近江毛野に勅して、二国を和解させようとした。秋九月、大臣の巨勢男人が薨じた。
¶二十四年庚戌、春二月丁未朔、詔してこう仰せられた。「磐余彦の帝(神武天皇)、水間城の王(崇神天皇)より以来、いずれも博識の臣、明哲な補佐によって国を治めてきた。それゆえ道臣(みちのおみ)が謀を陳べ、神日本(かんやまと、神武天皇)の代はこれによって栄え、大彦(おおひこ)が策略を申し述べ、膽瓊殖(みまき、崇神天皇)の代はこれによって隆盛となった。継体の君が中興の功を立てようとしたことについても、いつであれ賢哲の謀に頼らなかったことがあろうか。時代が下って小泊瀬天皇(武烈天皇)の代に至っては、先の聖帝による太平の後を受け継ぎながら、風俗は次第に廃れてもそれを悟らず、政治は徐々に衰えてもそれを改めなかった。ただその人材登用においては、それぞれの特質に応じて用いた。大きな見識のある者はその短所を問わず、優れた才能のある者はその過失を非難しなかった。それゆえ宗廟をお守りすることができ、社稷を危うくすることがなかった。これによって見れば、これはまさに明哲な補佐の力ではないだろうか。朕がこの大業を受け継いで、今に至るまで二十四年になる。天下は清く泰らかで、内外に憂いはなく、土壌は肥沃で、穀物の実りも豊かである。ひそかに恐れるのは、万民がこれによって次第に奢侈に流れることである。それゆえ今、人を遣わして廉潔な節操を持つ人材を挙げさせ、大いなる道を宣揚し、大いなる教化を広く行き渡らせようと思う。よく官職を務めることは、昔から難しいこととされている。まして朕自身のこととなれば、なおさら慎まずにいられようか。」秋九月、任那からの使者が来て、近江毛野の統治のやり方がその方途を誤っていることを奏上した。そこで毛野を召還した。
¶二十五年辛亥、春二月七日丁未、天皇は病に伏し、皇太子に位を伝えた。この日、玉穂宮(たまほのみや)で崩御した。御年82歳(注:本書の注のある一本には、天皇は二十八年、歳次甲寅に崩じた、とある。ここで二十五年歳次辛亥に崩じたというのは、百済本記の文によったものである。その文には、太歳辛亥三月、軍勢が進んで安羅に至り、乞徳城(こつとくのさし)を営んだ、この月、高麗はその王の安(あん)を弑した、また日本の天皇および太子・皇子がともに崩薨したと聞いた、とある。これによって言えば、辛亥の年は二十五年に当たることになる。先代旧事本紀は両説をともに載せている。古事記には、丁未の年、四月九日に崩じた、御年43歳、とあり、本書とは合わない。その他の諸書はいずれも、二十五年辛亥の年に崩じたとする。今考えるに、安閑帝の元年は太歳甲寅であり、継体帝が崩じたのは辛亥であるから、壬子・癸丑の二年は空位となってしまう。しかし本書の、安閑帝が即位したのはこの日天皇が崩じた日である、という記述によれば、空位があったはずはない。本書の注のある一本の、二十八年甲寅に崩じたという説の方が実情に近いであろう。ただし二月には丁未の日がなく、また安閑帝が二月に即位して正月に遷都したというのも、事の道理が通らない。しかし今、これを考証して正す手立てがないので、ひとまず旧文に従うこととする)。藍野陵(あいののみささぎ)に葬った(注:延喜式には、摂津国三島の藍野陵、とある)。追って継体天皇と諡した。
安閑天皇
¶安閑天皇は、はじめ勾大兄皇子と称した。継体帝の庶長子(しょちょうし、側室腹の長男)である。母は妃の目子媛(めのこひめ)。天皇はその人となりが厳粛で近寄りがたく、寛大で人君としての度量を備えていた。
¶継体帝七年、皇太子に立てられた(注:本書には皇太子に立てられたという記述がないが、これについては前帝紀にすでに述べた)。
¶二十五年、二月七日丁未、継体帝は皇太子に位を伝えた。皇太子は天皇の位に即いた。時に68歳(注:年齢は水鏡・愚管抄・歴代皇紀、および本書に崩年70歳とある記述による)。これを勾大兄広国押武金日天皇(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみこと)という。この日、継体帝が崩御した。大連の大伴金村・物部麤鹿火は、いずれも元のままとした(注:本書の元年の記事に、物部大連尾輿(おこし)のことが載っている。欽明紀にもまた、物部尾輿を大連として元のままとした、とある。これによれば、尾輿が大連となったのはおそらくこの頃であろう。公卿補任には、尾輿の初任の年月は未詳、とあるので、ここには記さない)。冬十二月五日庚子、継体天皇を葬った。
¶元年甲寅、春正月、都を倭(やまと)の勾金橋(まがりのかなはし)に遷し、これを宮の号とした。三月六日戊子、妃の春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を皇后に立て、紗手媛(さてひめ)・香香有媛(かかりひめ)・宅媛(やかひめ)の三妃を後宮に納れた。夏四月、皇后のために伊甚屯倉(いじみのみやけ)を定めた。五月、百済が使者を遣わして朝貢した。冬十月十五日甲子、大連の金村に勅してこう仰せられた。「朕には跡継ぎの子がいない。万歳の後、朕の名は絶えてしまうのだろうか。伯父よ、これを図ってほしい。」金村は奏上してこう言った。「天下に王たる者は、跡継ぎの有無にかかわらず、必ず何かの物によって名を残すべきです。どうか三妃のために屯倉(みやけ)を置き、後世に示されますように。」天皇はこれに従った。小墾田屯倉(おはりだのみやけ)と諸国の田部(たべ)を紗手媛に賜り、桜井屯倉(さくらいのみやけ)と諸国の田部を香香有媛に賜り、難波屯倉(なにわのみやけ)と諸郡の钁丁(くわよぼろ、農夫)を宅媛に賜った。閏十二月四日壬午、三島(みしま)に行幸した。この月、武蔵の人・笠原使主(かさはらのおみ)とその一族の小杵(おき)が、国造(くにのみやつこ)の地位を争った。小杵は上毛野小熊(かみつけののおくま)に援助を求め、使主を殺そうとした。使主は都に逃げて事情を訴えた。勅して使主を国造とし、小杵を誅した。使主は横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多冰(おおひ)・倉樔(くらす)の四か所の屯倉を献上した。
¶二年乙卯、春正月五日壬子、詔してこう仰せられた。「このごろ連年豊作が続き、国境を接する近隣諸国も無事である。人民は農耕を楽しみ、庶民は飢饉を免れている。仁徳の風は天地に満ち、その美しい評判は満ち渡っている。国の内外は清らかに通じ合い、国家は豊かに富んでいる。朕は大いに喜ばしく思う。五日間、大々的に酒宴を催すがよい。」夏四月丁丑朔、勾舎人部(まがりのとねりべ)・勾靫部(まがりのゆげいべ)を置いた。五月九日甲寅、筑紫の穂波(ほなみ)・鎌(かま)、豊国(とよのくに)の塍碕(うねさき、注:「塍」は一本には「腠」に作る)、桑原(くわはら)・肝等(かんと)・大抜(おおぬき)・我鹿(あか)、火国(ひのくに)の春日部(かすがべ)、播磨の越部(こしべ)・牛鹿(うしか)、吉備後国(きびのみちのしりのくに)の後城(しつき)、多禰(たね)の来履(くつ)・葉稚(はわか)・河音(かわおと)、婀娜国(あなのくに)の膽殖(いえ)・膽年部(いとしべ)、阿波の春日部、紀国の経湍(ふせ)・河辺(かわべ)、丹波の蘇斯岐(そしき)、近江の葦浦(あしうら)、尾張の間敷(ましき)・入鹿(いるか)、上毛野の緑野(みどの)、駿河の稚贄(わかにえ)の屯倉を置いた。
¶秋八月乙亥朔、諸国に詔して犬養部(いぬかいべ)を置いた。九月三日丙午、桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)・県犬養連(あがたいぬかいのむらじ)・難波吉士(なにわのきし)らに詔して、屯倉の税を掌らせた。十三日丙辰、勅して難波の大隅島(おおすみのしま)・媛島(ひめしま)の松原に牛を放牧させた。
¶冬十二月十七日己丑、天皇は勾金橋宮で崩御した。御年70歳。河内の旧市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に葬った。追って安閑天皇と諡した。
宣化天皇
¶宣化天皇は、はじめ檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)と称した(注:兼永本には、「高田」を「高向」に作る)。継体帝の第二子で、安閑帝の同母弟である。人となりは清らかで物事に通じ、心は朗らかで優れており、自らの才能や家柄をもって人に驕ることがなかった。
¶(安閑帝)二年十二月、安閑帝が崩御したが、跡継ぎがいなかった。群臣は鏡と剣を天皇(宣化天皇)に奉り、ついに天皇の位にお即きになった。時に69歳(注:年齢は水鏡・愚管抄、および本書に崩年73歳とある記述による)。これを武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)という(注:神皇正統記では、翌年の即位とする)。大連の大伴金村・物部麤鹿火は元のままとした(注:物部尾輿もまた大連として元のままとした。これについては安閑紀の注にすでに述べた)。この月、安閑天皇を葬った。
¶元年丙辰、春正月、都を檜隈廬入野(ひのくまのいおりの)に遷し、これを宮の号とした。二月壬申朔、蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣とし、阿倍火麻呂(あべのひまろ、注:「火」は一本に「大」に作る)を大夫(まえつきみ)とした。三月八日己酉、正妃の橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)を皇后に立てた。夏五月辛丑朔、詔して官家(みやけ)を筑紫の那津(なのつ)に造らせ、諸国の屯倉の穀物をここに運び集めさせた。秋七月、大連の物部麤鹿火が薨じた。
¶二年丁巳、新羅が任那に侵攻した。冬十月壬辰朔、大連の大伴金村に詔して、その子の磐(いわ)および狭手彦(さでひこ)を遣わし、任那を救援させた。磐は筑紫にとどまって三韓に備え、狭手彦は任那に赴いてこれを鎮め、あわせて百済を救援した。
¶四年己未、春二月十日甲午(注:本書の欽明紀ではこれを十月のこととしており、どちらが正しいか分からない)、天皇は檜隈廬入野宮で崩御した。御年73歳。大倭身狭桃花鳥坂上陵(やまとのむさのつきさかのえのみささぎ)に葬った。追って宣化天皇と諡した。