卷之七十五 列傳第二
后妃二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次69
津野媛皇夫人
¶反正天皇(はんぜいてんのう)の皇夫人(こうぶにん)である津野媛(つのひめ)は、木事(こごと)の娘である。(注:木事は、『古事記』には丸邇許碁登臣(わにのこごとのおみ)とある。)天皇元年八月、皇夫人となった。(注:『皇胤紹運録』には皇后とあるが、誤りである。)香火姫皇女(かひのひめみこ)・円皇女(つぶらのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
弟媛
¶弟媛(おとひめ)は、津野媛の妹である。財皇女(たからのひめみこ)・高部皇子(たかべのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【反正天皇】
忍坂大中姬皇后
¶允恭天皇(いんぎょうてんのう)の后である忍坂大中姫皇后(おしさかのおおなかつひめのこうごう)は、稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の娘である。天皇がまだ皇子であったころ、召し入れて妃とした。木梨軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)、名形大娘皇女(なかたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、安康天皇(あんこうてんのう)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)、但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)を生んだ。反正天皇が崩御すると、群臣は相談して允恭天皇に即位を勧めたが、天皇は固く辞退した。后は群臣が憂い恐れているのを知り、たまたま天皇の前で手水(ちょうず)の器を捧げ持っていたとき、こう申し上げた。「大王は謙遜なさっておいでですが、天位が長く空しくなっており、群臣百官はどうすればよいか分かりません。どうか大王には、皆の望みに従ってくださいますよう」。天皇は背を向けて何も答えなかった。后は恐れ入って退いた。しばらくして、折しも季冬(きとう、陰暦十二月)の厳しい寒さの中、腕にまで氷が張りつめるほどで、凍え死にそうになった。天皇はこれを見て驚き、抱え起こして言った。「皇位を継ぐのは重大事であり、軽々しく引き受けるわけにはいかない。しかし群臣の願うところは道理に照らして明らかであり、どうしていつまでも辞退できようか」。后は退いて群臣に「皇子はご要望をお聞き入れになるはずです。すぐに璽符(じふ、皇位の印)を献上なさい」と告げた。群臣はその日のうちに璽符を捧げ持ち、再拝して献上した。こうして天皇はついに即位した。翌年二月、后は皇后に立てられ、刑部(おさかべ)を定めた。(注:『古事記』には、皇后の妹である田井中比売(たいのなかつひめ)の御名代(みなしろ)として、河部(かわべ)を定めたとある。)天皇はまた后に、その妹である衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を差し出させ、藤原(ふじわら)に宮を造ってそこに住まわせた。后が雄略天皇を出産したその夜、天皇は初めて衣通郎姫のもとに通った。后はこれを聞いて大いに恨み、「妾は髪を結い上げてより宮中にお仕えして参りました。今、妾は産褥にあって生死も定かでないというのに、よりによってこの夜に藤原へお渡りになるとはどういうことでしょうか」と言い、火を放って自ら焼け死のうとした。天皇はこれを聞いて大いに驚き、「朕の過ちであった」と言って慰め諭し、思いとどまらせた。安康天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。雄略天皇が御馬瀬(みませ)で狩りをして多くの獲物を得たとき、群臣を顧みて「狩り場での楽しみとは、膳夫(かしわで)に獲物を捌かせるのと、自ら捌くのと、どちらであろうか」と尋ねた。群臣はにわかに答えることができなかった。天皇は怒り、刀を抜いて御者を斬り、急いで車を進めて宮に帰った。太后はこれを憂い恐れ、倭釆女(やまとのうねめ)の日媛(ひめ)を遣わして車を出迎えさせ、酒を献上させた。天皇は日媛を気に入り、手を取って後宮に入り、太后に「今日は狩りで多くの獲物を得たので、皆で獲物を捌いて野遊びの宴にしようと思い、群臣に尋ねてみたが、誰も答えられる者がいなかった。それで私は怒ったのだ」と申し上げた。太后はこれを慰めて言った。「思いますに、陛下は狩り場のことから宍人部(ししひとべ)をお定めになろうとされたのに、群臣はそれと分からず、それでお答えしにくかったのでしょう。今からでも遅くはございません。まず私から始めさせてください。膳臣長野(かしわでのおみながの)が肉膾(ししなます)を上手に作りますので、これを差し上げるのがよろしいでしょう」。天皇は跪いて「よきかな。田舎者が言う『貴きは互いに心を知り合うこと』とはまさにこのことだ」と言った。太后は天皇の喜ぶ様子を見て、さらに料理人の兔田御戸部(うさぎだのみとべ)・真鋒田高天(まさきだのたかま)らを推薦し、いずれも宍人部とした。後に大倭国造(やまとのくにのみやつこ)の吾子籠(あごこ)が狭穂子鳥別(さほのこどりわけ)を貢進し、これより臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)が次々とこれに倣って貢進するようになった。
¶これより先、后がまだ母の実家にいたころ、独り庭園で遊んでいた。鬪雞国造(つげのくにのみやつこ)が馬に乗って垣根越しに覗き込み、戯れに「よく国を治めているか」と言い、蘭(あららぎ)を一茎所望した。后は摘んでこれを与え、何に使うのか尋ねた。国造は「山へ行って虻(あぶ)を払うためだ」と答えた。后はその侮り軽んじる態度を憎み、「この者の顔は決して忘れまい」と思った。后が貴い身分になったのち、その罪を数え立てて殺そうとした。国造は頭を叩いて「私の罪は、実に万死に値します。しかし当時、どうして皇后様が今日のような御身分になられると知り得ましょうか」と詫びた。后はこれを赦したが、その姓を落として稲置(いなぎ)とした。(『日本書紀』による。)
衣通郎姬
¶衣通郎姫(そとおしのいらつめ)は、またの名を弟姫(おとひめ)といい、皇后の妹である。姿かたちがこの上なく美しく、その輝くような艶やかさは衣を通して見えるほどであったため、当時の人々は「衣通郎姫」と呼んだ。天皇はその美しさを聞き、これを召し入れようと思った。允恭天皇七年十二月、新築の御殿で宴を催した。天皇は自ら琴を弾き、皇后が立って舞った。当時の習わしでは、宴会のたびに舞い終わると座長が「娘子(おとめ)を奉れ」と言うのを礼とした。皇后は、天皇が自分に琴を弾かせたのは弟姫を差し出させるためであると気づき、舞い終わってもわざと礼の言葉を述べなかった。天皇は皇后に「なぜいつもの礼を欠くのか」と尋ねた。后は再び舞い、舞い終えて「娘子を奉ります」と言った。天皇が「娘子とは誰か」と尋ねると、皇后はやむを得ず「妾の妹で、名を弟姫と申します」と答えた。天皇は喜んだ。翌日、使いを遣わしてこれを召そうとした。当時、姫は母とともに近江(おうみ)の坂田(さかた)におり、皇后を畏れて参上しようとしなかった。使者は七度往復してもなお姫は来なかった。そこであらためて舎人(とねり)の中臣烏賊津(なかとみのいかつ)に「そなたがもし弟姫を連れて来られたら、朕は必ず厚く賞しよう」と命じた。烏賊津が坂田に至ると、姫は「妾は決して天皇の命に背くつもりはございませんが、ただ皇后様のお心に背くことを恐れております。妾は死んでも参上いたしません」と言った。烏賊津は「天皇は私に『必ず迎え得て参れ、さもなくば罪を得るであろう』と命じられました。帰って死を免れぬのであれば、いっそこの庭に伏して死にましょう」と言い、頑として立ち去らなかった。烏賊津ははじめから干し飯(ほしいい)を懐に包んで来ており、人目を忍んでこれを食べていた。中庭に七日間伏し続けたが、姫が出した飲食物は受け取らなかった。姫は「すでに詔を奉じず、その上忠臣を死なせては、これは私の罪をさらに重くすることになる」と考え、烏賊津とともに旅立つことにした。倭(やまと)の春日(かすが)に至り、櫟井(いちい)のほとりで休息し、自ら酒を酌んで烏賊津の労をねぎらった。その日のうちに都に入った。烏賊津は姫を倭の吾子籠(あごこ)の家に留め置き、参内してその次第を奏上した。天皇は喜び感じ入り、特に烏賊津を褒め賞した。皇后は姫が都に到着したと知って、心穏やかでなかった。天皇はこれを憚り、姫を宮中に入れることをせず、藤原(ふじわら)に宮を造ってそこに住まわせた。翌年二月、天皇はひそかに藤原に行幸してこれを訪ねた。姫はそれと知らず、天皇を慕って歌を詠んだ。「我が夫子が(わがせこが)、来べき宵なり(くべきよひなり)、笹が根の(ささがねの)、蜘蛛の行ひ(くものおこなひ)、今宵著しも(こよひしるしも)。」天皇はこれに感じ入り、歌を返して言った。「ささらがた(ささらがた)、錦の紐を(にしきのひもを)、解き放けて(ときさけて)、あまた寝ずに(あまたはねずに)、ただ一夜のみ(ただひとよのみ)。」皇后はこれを聞いて大いに恨んだ。姫はますますこれを憚り、宮を離れて遠くに住みたいと願い出た。天皇はさらに河内(かわち)の茅渟(ちぬ)に宮を造り、姫を移り住まわせた。そして狩りにかこつけてたびたび茅渟に行幸した。皇后は「陛下がたびたび茅渟へ行幸なさるのを、妾は少しも妬んでおりません。ただ、民百姓が苦しむのではないかと案じているだけでございます」と言った。天皇はこれを聞いて、その後の行幸をやや控えるようになった。姫がまだ藤原にいたころ、天皇は大伴室屋(おおとものむろや)に「朕は美しい娘子(おとめ)を得て、たいそう愛おしんでいる。その名を後世に伝えたいと思う」と言った。室屋はこの言葉を承って、諸国の国造に課役を科し、藤原部(ふじわらべ)を定めさせた。(『日本書紀』による。注:『古事記』には、忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)が軽大郎女(かるのおおいらつめ)を生み、またの名を衣通郎姫といい、格別の美貌で、その輝きは衣を通して見えるほどであったとある。考えるに、軽皇女は皇后の子であり、衣通姫は皇后の妹であるとするのが本文の趣旨だが、『古事記』の記すところは、その理由が判然としない。『古事記』にはまた、皇后の妹に藤原琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)がいると載せる。衣通姫が藤原に住んでいたことを考えれば、この琴節郎女という者は、すなわち衣通姫その人のことであろうか。ひとまずここに記して参考に備える。)
¶【安康天皇】
中蒂姬皇后
¶安康天皇(あんこうてんのう)の后である中蒂姫皇后(なかしひめのこうごう)は、(注:蒂は磯に作ることもある。)またの名を長田大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)といい、履中天皇の娘である。はじめ大草香皇子(おおくさかのみこ)に嫁ぎ、眉輪王(まよわのみこ)を生んだ。天皇元年、根使主(ねのおみ)の讒言により大草香皇子を殺し、姫を召し入れて妃とした。二年正月、皇后に立てられた。(『日本書紀』による。)
¶【雄略天皇】
草香幡梭皇后
¶雄略天皇の后である草香幡梭皇后(くさかのはたびのこうごう)は、はじめ履中天皇の皇后であった。履中天皇の崩御後、母方の兄である大草香皇子(おおくさかのみこ)のもとに身を寄せていたが、安康天皇はこれを自らの妃として改めて迎えようとし、根使主(ねのおみ)を遣わしてその意を伝えさせた。大草香皇子は喜んで命を承り、押木珠縵(おしきのたまかずら)を根使主に授けて信物とした。ところが根使主はこの珠縵を隠して献上せず、偽って「皇子は命に背きました」と奏上した。安康天皇は大いに怒って皇子を殺し、中蒂姫(なかしひめ)を召し入れて妃とし、幡梭皇后を自分の妃として娶わせた。雄略天皇元年三月、皇后に立てられた。五年、天皇が葛城(かつらぎ)で狩りをした際、后もこれに従った。野猪(いのしし)が突進して来た。天皇は舎人(とねり)に迎え撃って射させ、さらに突かせようとしたが、舎人は恐れて顔色を失った。猪が躍りかかって突き当たろうとしたので、天皇はこれを踏みつけて殺した。狩りが終わると、天皇はその舎人を斬ろうとした。后は諫めて「遠近の人々はみな、『陛下は狩りに耽って、獣のために人を殺すとは、よろしくないのではないか』と申すでしょう」と言った。天皇はこれを喜んで聞き入れ、后とともに車に乗り、「狩りをする者は獲物を得るが、朕は独り善い言葉を得て帰る。何と楽しいことか」と言い、ついに舎人を赦した。十四年、天皇は根使主に命じて呉人(くれびと)を石上(いそのかみ)の高抜原(たかぬきはら)でもてなさせ、舎人を遣わしてその様子を見させた。舎人が戻って、根使主の珠縵の美しさを盛んに褒め称えた。天皇はこれを見たいと思い、臣・連(おみ・むらじ)に「飾りを改めさせず、そのまま御殿の前に連れて参れ」と命じた。后はこれを見てすすり泣いた。天皇がわけを尋ねると、后は「根使主が身につけているものは、妾の兄が穴穂天皇(あなほのすめらみこと、安康天皇)の勅を奉じ、妾を陛下に差し出す際に献上したものでございます。妾はどうしても疑わずにはいられず、それで思わず涙がこぼれたのでございます」と答えた。天皇は大いに怒り、根使主を問い詰めた。根使主は罪を認めた。天皇が斬ろうとすると、根使主は日根(ひね)まで逃げ、稲城(いなき)を築いて官軍に抵抗した。官軍はこれを撃ち殺し、その子孫を二つに分けた。半分は大草香部(おおくさかべ)の民として皇后の封戸(ふこ)に隷属させ、残る半分は茅渟県主(ちぬのあがたぬし)に賜り、義に背いた者の子孫として扱った。根使主の子である小根使主(おねのおみ)がひそかに人に語って「天皇の城は堅固でないが、我が父の城は堅固だ」と言った。天皇はこれを聞いて憎み、人を遣わして調べさせたところ、果たしてその言葉の通りであったので、これもまた誅殺した。(『日本書紀』による。)
葛城韓媛
¶妃である葛城韓媛(かつらぎのからひめ)は、大臣葛城円(かつらぎのつぶら)の娘である。天皇元年三月、妃となった。清寧天皇(せいねいてんのう)・稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)を生んだ。清寧天皇の即位に際し、皇太夫人と尊称された。(『日本書紀』による。)
吉備稚媛
¶妃である吉備稚媛(きびのわかひめ)は、はじめ吉備田狭(きびのたさ)に嫁ぎ、兄君(えきみ)・弟君(おときみ)を生んだ。天皇七年、田狭が宮中に出仕して伺候していたとき、同僚たちの中でその妻の美しさをさかんに褒めて、「天下の美人といえども、我が妻には及ばない。世にも稀な美しさで、当代随一である」と言った。天皇はこれを傍らで聞いて心惹かれ、そこで田狭を任那国司(みまなのくにのつかさ)に任じて遠ざけ、稚媛を奪って自らの妃とした。磐城皇子(いわきのみこ)・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)を生んだ。天皇が崩御すると、稚媛はひそかに星川皇子に謀反を勧めた。事は露見して失敗し、稚媛と二人の皇子、および田狭の子である兄君は、みな焼き殺された。(『日本書紀』による。注:本書によれば、雄略天皇七年紀の注には、田狭の妻の名は毛媛(けひめ)といい、玉田宿禰(たまだのすくね)の娘であるとある。一方、元年紀に立て続けに召し入れた后妃を列挙するくだりには、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘の稚媛とあり、注には「ある本には吉備窪屋臣(きびのくぼやのおみ)の娘とある」とする。稚媛と毛媛とは名がすでに異なり、父の名も一致しないため、今はどちらの娘であるかを書かないでおく。)
童女君
¶妃である童女君(おみなぎみ)は、春日(かすが)の和珥深目(わにのふかめ)の娘である。はじめ釆女(うねめ)として出仕していたが、天皇に召されて契りを結び、ただ一夜で身ごもった。春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのこうごう)を生んだ。天皇はこれを疑い、我が子とは認めなかった。大連(おおむらじ)の物部目(もののべのめ)がかつて天皇の側に伺候していたとき、皇女が庭を歩くのを見て、「なんと美しい娘であろうか。これは誰の娘か」と感嘆の声を漏らした。天皇が「なぜそのようなことを尋ねるのか」と問うと、「私がこの娘を見ますに、その歩き方や物腰が陛下によく似ておられます」と答えた。天皇は「この娘を見た者はみな、そなたの言う通りのことを言う。しかしその母は一夜にして身ごもったのだ。それゆえ疑わずにはいられぬ」と言った。目は「私が聞くところでは、褌(ふんどし)が肌に触れただけでも身ごもることがあるといいます。まして一晩じゅう共寝したのですから、どうして疑う必要がありましょうか」と答えた。天皇はこれをもっともだと思い、そこでこの娘を皇女とし、童女君を妃とした。(『日本書紀』による。)
難波小野皇后
¶顕宗天皇(けんぞうてんのう)の后である難波小野皇后(なにわのおのこうごう)は、磐城王(いわきのみこ)の孫であり、丘稚子王(おかのわくごのみこ)の娘である。(『日本書紀』注による。『古事記』には磐城王の娘とある。)天皇元年正月、皇后に立てられた。(『日本書紀』による。)仁賢天皇(にんけんてんのう)がまだ即位せず雌伏していたころ、かつて宴に侍って瓜を切ろうとしたことがあった。天皇(顕宗天皇)が小刀を手に取り、后に命じてこれを渡させたところ、后は立ったまま皇太子(仁賢天皇)にこれを手渡した。また酒をふるまう際にも、立ったまま皇太子を呼び寄せた。(『日本書紀』注による。)仁賢天皇二年九月、后はかつての無礼な振る舞いを恐れて、自ら命を絶った。(『日本書紀』による。)
¶【仁賢天皇】
春日大娘皇后
¶仁賢天皇の后である春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのこうごう)は、またの名を高橋皇女(たかはしのひめみこ)という。(注:またの名は本書の注による。)雄略天皇の娘である。天皇がまだ太子であったころ、召し入れて妃とした。元年二月、皇后に立てられた。高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)・朝嬬皇后(あさづまのこうごう)・手白香皇后(たしらかのこうごう)・樟冰皇女(くすひのひめみこ)・橘仲皇后(たちばなのなかつこうごう)・武烈天皇(ぶれつてんのう)・真稚皇女(まわかのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
糠君娘
¶糠君娘(あらきみのいらつめ)は、和珥日爪(わにのひつま)の娘である。(注:本書の注に載る一説では、和珥日触(わにのひふれ)の娘、大糠娘(おおあらこのいらつめ)とする。)後宮に選ばれて入り、春日山田皇后(かすがのやまだのこうごう)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【武烈天皇】
春日娘子皇后
¶武烈天皇の后である春日娘子皇后(かすがのいらつめのこうごう)は、その父については詳らかでない。元年三月、皇后に立てられた。(『日本書紀』による。)
¶【繼體天皇】
手白香皇后
¶継体天皇(けいたいてんのう)の后である手白香皇后(たしらかのこうごう)は、仁賢天皇の娘である。母は春日大娘皇后。天皇元年二月、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が奏上して言った。「私が聞きますところ、先王が世を治めるには、藩屏(はんぺい)が堅固でなければ天下を鎮めることができず、後宮の教化がなければ皇統を継ぐことができないと申します。かつて白髪天皇(しらがのすめらみこと、清寧天皇)には後継ぎがなく、私の祖父である室屋(むろや)に、諸国ごとに三種の白髪部(しらがべ)を置いて、その名を後世に留めるようにとの遺言を残されました。どうか陛下には手白香皇女を皇后としてお迎えになり、神祇伯(じんぎはく)らを遣わして皇統の繁栄を祈らせ、民の願いにお応えくださいますよう」。天皇はこの言葉を聞き入れた。三月、皇后に立てられた。欽明天皇(きんめいてんのう)を生んだ。欽明天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)亡くなると、大和(やまと)山辺郡(やまのべのこおり)の衾田(ふすまだ)に葬られた。(『延喜式』による。)
目子媛
¶妃である目子媛(めのこひめ)は、またの名を色部(しこべ)といい、尾張草香(おわりのくさか)の娘である。天皇元年三月、妃となった。安閑天皇(あんかんてんのう)・宣化天皇(せんかてんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)
稚子媛
¶妃である稚子媛(わかこひめ)は、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹である。天皇元年三月、妃となった。大郎皇子(おおいらつこのみこ)・出雲皇女(いずものひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
廣媛
¶妃である広媛(ひろひめ)は、(注:『古事記』には黒比売(くろひめ)とある。)坂田大跨王(さかたのおおまたのみこ)の娘である。天皇元年三月、妃となった。神前皇女(かむさきのひめみこ)・茨田皇女(まむたのひめみこ)・馬来田皇女(うまくたのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
麻積娘子
¶妃である麻績娘子(おみのいらつめ)は、息長真手王(おきながのまてのみこ)の娘である。天皇元年三月、妃となった。豆角皇女(ささげのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
關媛
¶妃である関媛(せきひめ)は、茨田小望(まむたのおもち)の娘である。(注:本書の一説では、「女」を「妹」に作る。)天皇元年三月、妃となった。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)・白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)・小野稚郎皇女(おののわかいらつめのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『古事記』には関媛の記載がなく、白坂・小野の二皇女を黒媛の生んだ子とし、馬来田・茨田大娘の二皇女は載せていない。)
倭媛
¶妃である倭媛(やまとひめ)は、三尾堅楲(みおのかたひ)の娘である。(注:『古事記』には妹とある。)天皇元年三月、妃となった。大娘子皇女(おおいらつこのひめみこ)・椀子皇子(まろこのみこ)・耳皇子(みみのみこ)・赤姫皇女(あかひめのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
荑媛
¶妃である荑媛(はえひめ)は、和珥河内(わにのかわち)の娘である。(注:和珥は、『古事記』には阿倍(あべ)とある。)天皇元年三月、妃となった。稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)・円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)・厚皇子(あつのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
廣媛
¶妃である広媛(ひろひめ)は、根王(ねのみこ)の娘である。天皇元年三月、妃となった。兔皇子(うさぎのみこ)・中皇子(なかのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【安閑天皇】
春日山田皇后
¶安閑天皇(あんかんてんのう)の后である春日山田皇后(かすがのやまだのこうごう)は、仁賢天皇の娘である。(『日本書紀』による。)はじめ山田大娘皇女(やまだのおおいらつめのひめみこ)と称し、また赤見皇女(あかみのひめみこ)ともいった。(『日本書紀』注による。)天皇がまだ太子であったころ、召し入れて妃とした。ある日、后が日が高くなっても部屋から出て来なかったので、天皇は不審に思って中に入って様子を見ると、后は寝床に伏して涙を流していた。わけを尋ねると、后は「飛鳥や虫でさえ、木に巣を作り地に穴を掘って、その子を愛おしみ守ります。人でありながら子がないというのは、これ以上の悲しみはございません。今、太子にはまだ跡継ぎがなく、妾の名もこのまま消え去ってしまうでしょう。どうして憂え悲しまずにいられましょうか」と答えた。天皇はこれに心を動かされ、継体天皇に奏上し、詔によって匝布屯倉(そふのみやけ)を賜り、妃の名を後世に表すこととなった。天皇元年三月、皇后に立てられた。四月、内膳卿(ないぜんのかみ)の膳大麻呂(かしわでのおおまろ)が勅を奉じて使者を伊甚(いじみ)に遣わし、真珠を求めさせた。ところが伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)の稚子(わくご)らは都への参上が遅れ、期限を過ぎても進上しなかった。大麻呂はこれを捕らえて処罰しようとした。稚子らは恐れて逃げ、皇后の宮に身を隠した。内寝(ないしん、御寝所)にまで入り込んだので、后はこれを見て驚いて走り出し、地面につまずいて倒れた。稚子らは重ねて許しもなく入り込んだことを詫び、伊甚屯倉(いじみのみやけ)を后に献上して罪の償いとしたいと願い出た。これによって伊甚屯倉が定められた。七月、詔して使者を遣わし良田を選ばせ、后のために屯倉(みやけ)を置いた。宣化天皇(せんかてんのう)が崩御すると、欽明天皇は群臣に命じて后に政務の決裁を求めさせたが、后は辞退して応じなかった。后が亡くなると、旧市(ふるいち)の高屋丘陵(たかやのおかのみささぎ)に合葬された。(『日本書紀』による。)
紗手媛
¶妃である紗手媛(さでひめ)は、大臣許勢男人(こせのおひと)の娘である。天皇元年三月、妃となった。十月、小墾田屯倉(おはりだのみやけ)、および諸国の田部(たべ)を賜った。(『日本書紀』による。)
香香有媛
¶妃である香香有媛(かかりひめ)は、紗手媛の妹である。天皇元年三月、妃となった。十月、桜井屯倉(さくらいのみやけ)を賜り、(注:本書の注に載る一説では、さらに茅渟山屯倉(ちぬやまのみやけ)を加えて賜ったという。)諸国の田部を賜った。(『日本書紀』による。)
宅媛
¶妃である宅媛(やかひめ)は、大連物部木蓮子(もののべのいたび)の娘である。天皇元年三月、妃となった。十月、難波屯倉(なにわのみやけ)、および諸郡の钁丁(くわよぼろ)を賜った。(『日本書紀』による。)
¶【宣化天皇】
橘仲皇后
¶宣化天皇(せんかてんのう)の后である橘仲皇后(たちばなのなかつこうごう)は、(注:本書の仁賢紀には橘皇女(たちばなのひめみこ)とある。宣化紀、および『古事記』・『皇胤紹運録』には、いずれも「仲」の字がある。今はこれに従う。)仁賢天皇の娘である。母は春日大娘皇后。天皇がまだ皇子であったころ、召し入れて妃とした。元年三月、皇后に立てられた。石姫皇后(いしひめのこうごう)・小石姫皇女(おいしひめのひめみこ)・倉稚綾姫皇女(くらのわかあやひめのひめみこ)・上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)を生んだ。亡くなると、身狭(むさ)の桃花鳥坂上陵(つきさかのえのみささぎ)に合葬された。(『日本書紀』による。)
大河內稚子媛
¶妃である大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)は、火焰皇子(ほのおのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【欽明天皇】
石姬皇后
¶欽明天皇(きんめいてんのう)の后である石姫皇后(いしひめのこうごう)は、宣化天皇の娘である。天皇ははじめこれを正妃として召し入れた。即位に際し、皇后に立てた。箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)・敏達天皇(びだつてんのう)・笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)を生んだ。敏達天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
倉稚綾姬
¶妃である倉稚綾姫(くらのわかあやひめ)は、皇后と同母の妹である。天皇二年三月、宮中に入った。石上皇子(いそのかみのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『古事記』には、石姫皇后の妹である小石姫(おいしひめ)を召し入れて石上王(いそのかみのみこ)を生んだとあり、倉稚綾姫が石上皇子を生んだという記述はない。)
日影皇后
¶妃である日影皇女(ひかげのひめみこ)も、また皇后と同母の妹である。天皇二年三月、宮中に入った。倉皇子(くらのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『古事記』には、糠子(あらこ)が倉皇子を生んだとあり、日影皇女については記載がない。)
堅鹽媛
¶妃である堅塩媛(きたしひめ)は、大臣蘇我稲目(そがのいなめ)の娘である。天皇二年三月、宮中に入った。用明天皇(ようめいてんのう)・磐隈皇女(いわくまのひめみこ)・臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)・推古天皇(すいこてんのう)・椀子皇子(まろこのみこ)・大宅皇女(おおやけのひめみこ)・石上部皇子(いそのかみべのみこ)・山背皇子(やましろのみこ)・大伴皇女(おおとものひめみこ)・桜井皇子(さくらいのみこ)・肩野皇女(かたののひめみこ)・橘本稚皇子(たちばなもとのわかみこ)・舎人皇女(とねりのひめみこ)を生んだ。後に皇太夫人となって亡くなった。(注:『先代旧事本紀』には皇后とある。)推古天皇二十年二月、檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬された。王臣以下が軽の街(かるのちまた)で誄(しのびごと)を述べ、阿倍鳥(あべのとり)が勅を承ってこれを誄した。捧げられた明器(めいき)・明衣(めいい)などの副葬品は、あわせて一万五千種に及んだ。皇子たちも順序に従って誄を述べた。(『日本書紀』による。)
小姊君
¶妃である小姉君(こあねのきみ)は、堅塩媛と同母の妹である。(注:『古事記』には堅塩媛の叔母とある。)茨城皇子(うまらきのみこ)・葛城皇子(かつらぎのみこ)・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)・埿部穴穂部皇子(はしべのあなほべのみこ)・崇峻天皇(すしゅんてんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)
糠子
¶妃である糠子(あらこ)は、春日日爪臣(かすがのひつまのおみ)の娘である。天皇二年三月、宮中に入った。春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)・橘麻呂皇子(たちばなまろのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:本書の仁賢紀には、宮人である和珥日爪(わにのひつま)の娘の糠君娘(あらきみのいらつめ)が春日山田皇女を生んだとある。これと類似しており、いずれかに誤りがあるのではないかと思われる。)
¶【敏達天皇】
廣姬皇后
¶敏達天皇(びだつてんのう)の后である広姫皇后(ひろひめのこうごう)は、息長真手王(おきながのまてのみこ)の娘である。天皇四年正月、皇后に立てられた。十一月、亡くなった。押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)・逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)・菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
額田部皇后
¶額田部皇后(ぬかたべのこうごう)は、欽明天皇の娘である。天皇五年三月、皇后に立てられた。菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)・竹田皇子(たけだのみこ)・小墾田皇女(おはりだのひめみこ)・鸕鶿守皇女(うのもりのひめみこ)・尾張皇子(おわりのみこ)・田眼皇女(たまえのひめみこ)・桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ)を生んだ。崇峻天皇(すしゅんてんのう)が崩御すると、自ら皇位に即いた。これが推古天皇(すいこてんのう)である。(『日本書紀』による。)
老女君
¶夫人である老女君(おみなぎみ)は、またの名を薬君娘(くすりぎみのいらつめ)という。春日仲君(かすがのなかつきみ)の娘である。天皇四年正月、召し入れて夫人とした。難波皇子(なにわのみこ)・春日皇子(かすがのみこ)・桑田皇女(くわたのひめみこ)・大派皇子(おおまたのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
免名子
¶夫人である兔名子(うなこ)は、伊勢(いせ)の大鹿小熊(おおかのおくま)の娘である。はじめ釆女として出仕し、天皇に召された。太姫皇女(ふとひめのひめみこ)・糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)を生んだ。四年正月、夫人となった。(『日本書紀』による。)
¶【用明天皇】
穴穗部間人皇后
¶用明天皇(ようめいてんのう)の后である穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)は、(注:本書の欽明紀には穴穂部皇女(あなほべのひめみこ)とある。法隆寺金堂の釈迦仏銘文には、鬼前太后(きぜんのおおきさき)と称している。)欽明天皇の娘である。(『日本書紀』による。)欽明天皇三十一年二月、天皇(用明天皇)がこれを召し入れて妃とした。(『聖徳太子伝暦』による。)即位に際し、皇后に立てた。廄戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)・来目皇子(くめのみこ)・殖栗皇子(えぐりのみこ)・茨田皇子(まむたのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)推古天皇二十九年十二月、亡くなった。(法隆寺金堂釈迦仏銘文による。)
石寸名
¶嬪(ひん)である石寸名(いしきな)は、(注:『古事記』には意富多志比売(おおたしひめ)とある。)大臣蘇我稲目の娘である。天皇元年正月、宮中に入って嬪となった。田目皇子(ためのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
廣子
¶広子(ひろこ)は、葛城磐村(かつらぎのいわむら)の娘である。(注:『帝王編年記』は広子を妃とするが、『類聚国史』后妃部には広子の記載がないため、今はこの説を採らない。)麻呂子皇子(まろこのみこ)・酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『古事記』には、当麻之倉首比呂(たぎまのくらのおびとひろ)の娘で飯女之子(いいめのこ)という者が、当麻王(たぎまのみこ)・須賀志氐古郎女(すがしてこのいらつめ)を生んだとある。考えるに、当麻王はすなわち麻呂子皇子であり、須賀志氐古郎女はすなわち酢香手姫皇女のことである。)
¶【崇峻天皇】
小手子
¶崇峻天皇(すしゅんてんのう)の妃である小手子(こでこ)は、大伴糠手(おおとものぬかて)の娘である。天皇元年三月、妃となった。蜂子皇子(はちのこのみこ)・錦代皇女(にしきでのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『先代旧事本紀』には、物部尾輿(もののべのおこし)の娘の布都姫(ふつひめ)が崇峻天皇の夫人となり、朝政に参与したとある。また布都姫は異母兄の石上贄古(いそのかみのにえこ)に嫁ぎ、四人の子を生んだともある。この説は疑わしく、また本書にも記載がないため、今は採らない。)
寶皇后
¶舒明天皇(じょめいてんのう)の后である宝皇后(たからのこうごう)は、茅渟王(ちぬのみこ)の娘である。天皇二年正月、皇后に立てられた。天智天皇(てんじてんのう)・間人皇后(はしひとのこうごう)・天武天皇(てんむてんのう)を生んだ。舒明天皇が崩御すると、自ら皇位に即いた。これが皇極天皇(こうぎょくてんのう)である。(『日本書紀』による。)
法提郎媛
¶夫人である法提郎媛(ほほてのいらつめ)は、大臣蘇我馬子(そがのうまこ)の娘である。古人皇子(ふるひとのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『皇胤紹運録』・『帝王編年記』にはいずれも、この夫人がさらに布敷皇女(ふしきのひめみこ)を生んだと載せる。この二書にはまた、粟田鈴子(あわたのすずこ)の娘の香櫛娘(かくしのいらつめ)、またの名を狭狭浪娘(ささなみのいらつめ)という者が夫人となり、押坂錦間皇女(おしさかのにしきまのひめみこ)を生んだとある。『皇胤紹運録』・『一代要記』には、蘇我蝦夷(そがのえみし)の娘の手抔娘(たすきのいらつめ)が夫人となり、箭田皇女(やたのひめみこ)を生んだとある。いずれも『日本書紀』には記載がないため、今は採らない。)
蚊屋采女
¶蚊屋釆女(かやのうねめ)は、(注:『一代要記』には嬪の姉子姫(あねこひめ)とするが、何によったものか分からない。)蚊屋皇子(かやのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
間人皇后
¶孝徳天皇(こうとくてんのう)の后である間人皇后(はしひとのこうごう)は、舒明天皇の娘である。大化元年七月、皇后に立てられた。白雉(はくち)四年、皇太子(中大兄皇子)は都を倭京(やまとのみやこ)に遷すことを奏請したが、許されなかった。皇太子は自ら皇祖母尊(すめみおやのみこと、皇極天皇)と后を奉じて、飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に移り住んだ。天智天皇の代の乙丑(きのとうし)の年二月、亡くなった。三百三十人を出家させて度(ど)とした。丁卯(ひのとう)の年、斉明天皇(さいめいてんのう)の小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)に合葬された。(『日本書紀』による。)
小足媛
¶妃である小足媛(おたらしひめ)は、左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘である。有間皇子(ありまのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
乳娘
¶妃である乳娘(ちのいらつめ)は、右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘である。(『日本書紀』による。)
¶【天智天皇】
倭姬王皇后
¶天智天皇の后である倭姫王皇后(やまとひめのおおきみのこうごう)は、古人皇子の娘である。天皇の即位に際し、皇后に立てられた。(『日本書紀』による。)
遠智娘
¶嬪(ひん)である遠智娘(おちのいらつめ)は、またの名を造媛(みやつこひめ)という。(注:本書の注には、あるいは美濃津子娘(みののつこのいらつめ)ともいうとある。)右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘である。大田皇女(おおたのひめみこ)・持統天皇(じとうてんのう)・建皇子(たけるのみこ)を生んだ。(注:本書の注には、一説として、遠智娘は建皇子・大田皇女・鸕野皇女(うののひめみこ、持統天皇)の順に生んだとあり、本文の順序とは異なるとする。また別に、蘇我山田麻呂の娘の茅渟娘(ちぬのいらつめ)が大田皇女・娑羅羅皇女(さららのひめみこ)を生んだともいう。)大化五年、石川麻呂は讒言によって自害した。天皇は物部二田鹽(もののべのふたたのしお)にその首を斬らせた。嬪はこれを聞いて悲しみ痛み、以来「塩(しお)」という言葉を口にすることを嫌うようになった。近くに仕える者は塩を食べることを「堅塩(きたし)」と呼んで憚った。遠智娘はついに悲しみのあまり亡くなった。(『日本書紀』による。)
姪娘
¶嬪である姪娘(めいのいらつめ)は、(注:本書の注には、あるいは桜井姫(さくらいひめ)ともいい、『続日本紀』には宗我嬪(そがのひん)とあるとする。)遠智娘の妹である。御名部内親王(みなべのないしんのう)・元明天皇(げんめいてんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。注:本書の皇極紀によれば、天智天皇(当時、中大兄皇子)が蘇我入鹿(そがのいるか)を誅殺しようと謀ったとき、石川麻呂と婚姻を結んで協力を得ようとし、その長女を妃として迎えようとした。ところが朝廷に上る当日、長女はその一族の身狭(むさ)に奪い去られてしまい、石川麻呂は憂い恐れた。そこで少女(次女)が自分が身代わりになりたいと申し出た。石川麻呂は喜んでこれに従った。この少女というのは、おそらく二人の嬪のうちのどちらかであろうが、今はもう考証のしようがない。)
橘娘
¶嬪である橘娘(たちばなのいらつめ)は、左大臣阿倍倉梯麻呂の娘である。飛鳥内親王(あすかのないしんのう)・新田部皇女(にいたべのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
常陸娘
¶嬪である常陸娘(ひたちのいらつめ)は、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘である。山辺皇女(やまべのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
色夫古娘
¶色夫古娘(しこぶこのいらつめ)は、忍海小竜(おしぬみのおたつ)の娘である。大江皇女(おおえのひめみこ)・川島皇子(かわしまのみこ)・泉内親王(いずみのないしんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)
黑媛娘
¶黒媛娘(くろひめのいらつめ)は、栗隈徳万(くりくまのとこまろ)の娘である。水主内親王(みぬしのないしんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)
越道君伊羅都賣
¶越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)は、春日宮天皇施基(かすがのみやのすめらみことしき、志貴皇子)を生んだ。(『日本書紀』による。)
宅子娘
¶宅子娘(やかこのいらつめ)は、伊賀(いが)の釆女である。大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【弘文天皇】
十市皇女
¶弘文天皇(こうぶんてんのう、大友皇子)の妃である十市皇女(とおちのひめみこ)は、天武天皇の娘である。(『日本書紀』による。)葛野王(かどののおおきみ)を生んだ。(『懐風藻』による。)天皇(弘文天皇)が兵を徴発したとき、皇女は書状をしたためて吉野(よしの)にこれを告げた。(『水鏡』・『愚管抄』による。)天武天皇六年四月、亡くなった。赤穂(あこ)に葬られた。(『日本書紀』による。)
耳面刀自
¶耳面刀自(みみものとじ)は、内大臣藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘である。(『皇胤紹運録』による。)天皇(大友皇子)がまだ皇子であったころ、鎌足が願い出てこれを差し出した。(『懐風藻』による。)壱志姫王(いちしひめのみこ)を生んだ。(『皇胤紹運録』による。)
¶【天武天皇】
鸕野皇后
¶天武天皇の后である鸕野皇后(うののこうごう)は、天智天皇の娘である。天皇がまだ皇子であったころ、召し入れて正妃とした。岡宮天皇草壁(おかのみやのすめらみことくさかべ、草壁皇子)を生んだ。天皇元年、皇后に立てられた。天皇が崩御すると、そのまま夫の位を継いだ。これが持統天皇(じとうてんのう)である。(『日本書紀』による。)
大田皇女
¶妃である大田皇女(おおたのひめみこ)は、天智天皇の娘である。天皇がまだ皇子であったころ、召し入れて妃とした。大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子(おおつのみこ)を生んだ。亡くなると、小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)の前に葬られた。(『日本書紀』による。)
大江皇女
¶妃である大江皇女(おおえのひめみこ)は、天智天皇の娘である。長親王(ながのみこ)・弓削皇子(ゆげのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)浄広弐(じょうこうに)の位を賜った。文武天皇(もんむてんのう)三年十二月、亡くなった。(『続日本紀』による。)
新田部皇女
¶妃である新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、天智天皇の娘である。崇道尽敬皇帝舎人(すどうじんけいこうていとねり、舎人親王)を生んだ。(『日本書紀』による。)文武天皇三年九月、亡くなった。(『続日本紀』による。)
冰上娘
¶夫人である氷上娘(ひかみのいらつめ)は、内大臣藤原鎌足の娘である。但馬内親王(たじまのないしんのう)を生んだ。天皇十年正月、亡くなった。赤穂に葬られた。(『日本書紀』による。)
五百重娘
¶夫人である五百重娘(いおえのいらつめ)は、氷上娘の妹である。新田部親王(にいたべのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
大蕤娘
¶夫人である大蕤娘(おおぬのいらつめ)は、左大臣蘇我赤兄の娘である。穂積親王(ほづみのみこ)・紀皇女(きのひめみこ)・田形内親王(たがたのないしんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)正三位に叙せられ、封戸(ふこ)百戸を加増された。神亀(じんき)元年七月、亡くなった。勅により使者を遣わして葬儀を監護させた。その邸において詔が宣せられ、正二位を追贈され、賻物(ふもつ)を賜った。(『続日本紀』による。)
額田姬王
尼子娘
¶尼子娘(あまこのいらつめ)は、胸形徳善(むなかたのとくぜん)の娘である。高市皇子(たけちのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
穀媛娘
¶穀媛娘(かじのいらつめ)は、(注:「穀」の字を、本書は「擬」に作るが、今は『類聚国史』によった。)宍人大麻呂(ししひとのおおまろ)の娘である。忍壁親王(おさかべのみこ)・磯城皇子(しきのみこ)・泊瀬部内親王(はつせべのないしんのう)・託基内親王(たきのないしんのう)を生んだ。(『日本書紀』による。)