卷之第十四 本紀第十四
元明天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
元明天皇
¶元明天皇は、幼名を阿閉(あへ)といった。天智天皇の第四皇女である。母は姪娘(めいのいらつめ)。
¶天皇は岡宮天皇(おかのみやのすめらみこと、草壁皇子)に嫁ぎ、文武・元正の二帝を生んだ。
¶慶雲三年十一月、文武天皇が病に伏し、天皇(元明)に皇位に就くよう請うたが、天皇は謙譲して固く辞退した。
¶四年六月、文武天皇が崩御した。二十四日庚寅、天皇は東楼に出御し、八省の卿および五衛府の督・率らを召し、遺詔により万機を摂行する旨を告げた。秋七月五日庚子、大内山陵(おおうちのみささぎ、文武天皇陵)に祭事を行った。六日辛丑、使者を太宰府に遣わし、南島の人々に位を授け、それぞれ品物を賜った(注:庚子・辛丑の二条は、原本では壬子の条の下に錯簡として置かれていたが、ここで考訂して改めた)。
¶十七日壬子、大極殿において天皇の位に即いた(注:愚管抄・歴代皇紀を按ずるに、六月十五日とする。これはおそらく遺詔を受けた日をもって即位としたものであろう)。時に47歳(注:年齢は本書に崩年61歳とある記述による。○水鏡には36歳、一代要記には49歳とあるが、いずれも誤りである)。知太政官事の穂積親王(ほづみしんのう)、右大臣の石上麻呂(いそのかみのまろ)は、いずれも留任した(注:公卿補任による)。この日、詔してこう仰せられた。「天下に大赦を行い、高齢者に布・粟をそれぞれ賜れ。京師・畿内、および太宰府管内の今年の調、諸国の今年の田租を免除せよ。」二十一日丙辰、初めて授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)を置いた。
¶冬十一月二日丙申、志摩国を賑恤(しんじゅつ、救済)した。二十日甲寅、文武天皇を葬った。十二月一日乙丑朔、日食があった。四日戊辰、伊予国に疫病が流行したため、薬を給した。
¶二十七日辛卯、詔してこう仰せられた。「政を為す道は、礼をもって先とする。礼がなければ言葉が乱れ、言葉が乱れれば旨を失う。先年、『跪伏の礼を停止せよ』との詔があったが、それ以来、内外の庁前はみな厳粛さを失っている。進退に礼がなく、受け答えも度を失っている。これはひとえに官司が謹まず、みずから礼節を忘れたことによるものである。今後は厳しく糾弾を加え、その弊風を改めさせ、淳朴な風習に立ち返らせよ。」
¶和銅元年戊申、春正月十一日乙巳、武蔵国秩父郡が和銅(にきあかがね、精錬を要しない自然銅)を献上した。詔を宣して年号を改め、天下に大赦を行った。高齢の百姓に対し、百歳以上には栗三斛(こく)、九十歳以上には二斛、八十歳以上には一斛を賜った。孝子・順孫・義夫・節婦にはその門閭(もんりょ、家の門)に表彰を掲げ、三年間課役を優遇して免除した。鰥寡(かんか、やもめ)・惸独(けいどく、身寄りのない者)で自活できない者には粟一斛を賜り、百官にもそれぞれ品物を賜った。諸国の郡司には位一階を加えた。ただし正六位上以上の者はこの限りではなかった。武蔵国の今年の庸、および本郡(秩父郡)の調を免除した。四品の施基親王(しきしんのう)に三品を授け、従二位の石上麻呂・藤原不比等以下にも、それぞれ位を進めた。
¶二月十一日甲戌、初めて催鋳銭司(さいじゅせんし)を置いた。十五日戊寅、詔してこう仰せられた。「朕は謹んで上天(じょうてん)に仕え、天下に君臨しているが、菲薄(ひはく、浅く薄い)な徳をもって紫宮(しきゅう、皇居)の尊い位に身を置いている。常々思うに、造る者は労苦し、そこに居る者は安逸を得るものであり、遷都のことは必ずしも急いで議すべきことではない。しかし王公・大臣らはみな、『いにしえより近代に至るまで、日を測り星を瞻(み)て宮室の基を起こし、世を占い土地を相して帝王の邑を建ててきた。都を定める基が永く固まれば、無窮の大業はそこに在る』と言う。衆議は捨てがたく、その言葉と心情はまことに切実である。まして京師は百官の府であり、四海の帰するところである。ただ朕一人のみが、どうして安逸をむさぼってよいものか。まことに万民の利益になるのであれば、これに逆らってよいはずがない。昔、殷の王は五度都を遷して中興の号を受け、周の君主は三度都を定めて太平の称を得た。今、平城の地は、四方の神獣がその瑞兆にかない、三方の山が鎮めとなり、亀卜・筮占もともにこれに従っている。よろしく都邑を建てるべきである。その造営に要する資材は、事に随って条を立てて奏上せよ。秋の収穫を待った後に、橋や道を造らせよ。子来(しらい、民が親に仕えるように自発的に集まり働くこと)の義にかない、民を労し騒がせることのないようにせよ。制度の適宜については、今後は追加しない。」
¶三月十二日丙午、右大臣の石上麻呂を左大臣とし、大納言の藤原不比等を右大臣とした。二十七日庚申、美濃国安八郡の女子が一度に三子を産んだ。稲と乳母を賜った。夏五月十一日壬寅、初めて銀銭を通用させた。二十九日庚申、長門国が「甘露が降った」と言上した。
¶六月二十八日己丑、詔して都下の諸寺に転経(てんきょう、経を転読すること)させ、天下太平と百姓の安寧を祈らせた(注:年中行事によれば、この年十月十七日の勅旨に「今年より、年に一度、大般若経を読ませよ」とあり、これが季御読経(きのみどきょう)の始まりであるという。一代要記には、この年二月に季御読経を始め行ったとある。しかし本書には記載がないため、ここに付記して参考に備える)。
¶秋七月十四日甲辰、隠岐国で長雨と大風があった。使者を遣わして賑恤した。十七日乙巳、百官を召し見(まみ)え、面と向かって慰め励ました。勅してこう仰せられた。「朕が聞くところでは、『忠義清廉にして臣子の分を守れば、ついには栄貴を受ける。貪欲邪悪にして臣子の道を失えば、必ず戮辱を被る』という。これは天地の恒理であり、君臣の明鏡である。汝らはこの意を知り、おのおの職掌を守り、怠り緩めることのないようにせよ。時務に堪える者は必ず挙用して昇進させ、官事を乱し失する者は必ず隠し諱(い)むことなく報告せよ。」そこで位を進め、文武の職事五位以上に、それぞれ品物を賜った。十六日丙午、詔して、京師の僧尼および八十歳以上の百姓に粟を賜った。百歳には二斛、九十歳には一斛五斗、八十歳には一斛とした(注:原文ではこの記事が十七日乙巳の条の後に置かれ、日付の前後が入れ替わっているが、原文のまま示す)。
¶八月十日己巳、初めて銅銭を通用させた。九月十四日壬申、菅原に行幸した。二十日戊寅、平城を巡幸し、その地形を観察した。二十二日庚辰、山背国の岡田離宮に行幸した。経由した国の国司・目(さかん)以上の者、および行宮を造営した郡司らに、それぞれ品物を賜り、百姓の調を免除した。二十七日乙酉、春日離宮に至った。大倭国添上・添下の二郡の今年の調を免除した。二十八日丙戌、車駕(行幸の一行)は宮に還った。
¶冬十月二日庚寅、使者を遣わして大神宮(伊勢神宮)に幣を奉り、平城宮の造営を告げた。十一月一日己未朔、日食があった。七日乙丑、菅原の民を移し、布と穀物を給した。二十一日己卯、大嘗祭を行った。十二月五日癸巳、平城宮の地を鎮祭した。この年、山背・備前・但馬・伯耆・讃岐で疫病が流行した。医薬を給した(注:類聚国史を按ずるに、「山背」の下に「備後」の字がある)。
¶二年己酉、春正月二十五日壬午、銀銭の私鋳を禁じた。三月五日壬戌、左大弁の巨勢麻呂(こせのまろ)を陸奥鎮東将軍とし、民部大輔の佐伯石湯(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍とし、内蔵頭の紀諸人(きのもろひと)を副将軍とした。遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中の兵を徴発し、両道から出撃させて蝦夷を征討させた。二十三日庚辰、初めて造雑物法用司(ぞうざつもつほうようし)を置いた。
¶夏四月一日丁亥(注:原文の干支表記「期」は不詳で、おそらく「朔」の誤りかと思われるが、原文のまま示す)、日食があった。五月二十日乙亥、河内・摂津・山背・伊豆・甲斐で長雨により苗が損なわれた。この日、新羅が使者を遣わして貢物をもたらした。六月十六日辛丑、使者を畿内に遣わし、雩(う、雨乞いの祭り)を行わせた。
¶秋七月一日乙卯朔、諸国に命じて兵器を出羽柵(でわのき)に輸送させた。十三日丁卯、越前・越中・越後・佐渡に命じて、船百艘を征狄所(せいてきしょ)に送らせた。八月二日乙酉、銀銭を廃し、銅銭を通用させた。二十五日戊申、征蝦夷将軍の佐伯石湯、副将軍の紀諸人らが凱旋した。二十八日辛亥、平城宮に行幸した。
¶九月二日乙卯、車駕は新京(平城京)の百姓を巡撫した。五日戊午、平城より還った。二十六日己卯、遠江・駿河・甲斐・常陸・信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の兵で、五十日以上従役した者には、一年間課役を免除した。使者を東海道・東山道の二道に遣わして関剗(かんせん、関所)を検察させ、風俗を巡察させた。政績のある国守を褒め、田・穀物・衣服を賜った。
¶冬十月一日癸未朔、日食があった。十一日癸巳、平城宮司に勅してこう仰せられた。「墳墓が発掘に遇うようなことがあれば、そのつど直ちに埋め直し、あまねく祭祀をして酒を注ぎ祀れ。」十四日丙申、制してこう仰せられた。「畿内および近江の百姓は法律を畏れず、浮浪の者や逃亡した仕丁らをかくまい隠し、私的に使役している。これはひとり百姓が法令を軽んじているだけでなく、国司もまた懲戒を加えていないためである。公私を蠹害(とがい、蝕み害すること)することは、これに過ぎるものはない。管内に諭し、厳しく検括を加えるべきである。」二十八日庚戌、詔してこう仰せられた。「このごろ、都を遷し邑を易えたことで、百姓を動揺させている。鎮撫を加えているが、いまだ安堵させることができていない。今年の租調を免除すべきである。」十二月五日丁亥、車駕は平城宮に行幸した。この年、上総・下総・越中・紀伊で疫病が流行した。薬を給してこれを救った。隠岐国が飢饉となり、これを賑恤した。
¶三年庚戌、春正月二十九日庚辰、日向国の隼人である曾君細麻呂(そのきみほそまろ)が、荒々しい風俗の民を教え諭し、政化に馴服させた功により、詔して外従五位下を授けた。二月二十九日庚戌、初めて守山戸(しゅざんこ)を置き、伐木を禁じた。三月十日辛酉、都を平城に遷し、左京・右京の坊を置いた(注:「置」以下は水鏡による)。左大臣の石上麻呂を留守とした。夏四月一日辛巳朔、日食があった。二十二日壬寅、諸社に幣を奉り、名山大川に雨を祈った。秋九月十八日乙丑、銀銭を禁じた。冬十月一日戊寅朔、日食があった。この年、信濃国で疫病が流行した。薬を給してこれを救った。参河・遠江・美濃が飢饉となり、これを賑恤した。
¶四年辛亥、春正月二日丁未、初めて都亭駅(とていえき)を置いた。夏四月一日丙子朔、日食があった。七日壬午、詔して、文武百官のうち選に成った(考課で及第した)者46人に位を授けた(注:年中行事・公事根源による。擬階奏(ぎかいそう、位階昇進の奏上)は、おそらくここに起源するものであろう。それゆえ、これ以後は記載しない)。
¶六月二十一日乙未、詔してこう仰せられた。「去年は長雨により麦の穂がすでに傷んだ。今年の夏はことに旱魃で、稲の苗もほとんど損なわれた。この蒼生(民)を憐れみ、かの雲漢(うんかん、天の川、雨乞いの故事)を仰いでいたところ、今、恵みの雨を得た。これに勝る瑞祥があろうか。民とともに、この天の心を寿ぐべきである。」そこで文武百官にそれぞれ品物を賜った。閏月十四日丁巳、初めて挑文師(ちょうもんし、綾織りの技術者)を諸国に遣わし、錦・綾の織り方を教えさせた。
¶秋七月一日甲戌朔、詔してこう仰せられた。「律令を張り設けてより、年月はすでに久しい。しかしわずかに一、二を行うのみで、ことごとくは行われていない。これはひとえに諸司が怠慢で、謹み勤める心を持たないことによる。ついには名目だけが員数を満たし、いたずらに政事を廃するに至っている。もし違反があるのにこれを隠して考課(こうか、勤務評定)を偽る者があれば、重罪に処し、赦すところはない。」五日戊寅、山背国相楽郡の女子が一度に三男を産んだ。絁(あしぎぬ)・綿・布・稲、および乳母を賜った。
¶九月一日癸酉朔、日食があった。二日甲戌、詔してこう仰せられた。「そもそも衛士とは、非常の事態に備え、不慮の事に備えるために設けたものである。必ず勇健で兵たるに堪える者でなければならないが、今はことごとく尫弱(おうじゃく、弱々しい)で武芸も習わず、いたずらに名ばかりがあって益をなすことができない。もし大事に臨んだとき、どうして機要の任に堪えようか。伝(でん、古典)にも『民を教えずして戦わせる、これを民を棄てるという』とあるではないか。今後は専ら長官に委ね、勇敢で武に長じた者を選び点検し、毎年これを代え易えよ。」四日丙子、勅してこう仰せられた。「このごろ聞くところでは、諸国の役民は都の造営に苦しみ、逃亡する者が相継ぎ、禁じても止まないという。今、宮垣はいまだ完成せず、防守も備わっていない。仮に軍営を立て、兵庫を禁守させるべきである。」そこで従四位下の石上豊庭(いそのかみのとよにわ)、従五位下の紀男人(きのおひと)・粟田必登(あわたのひつと)らを将軍とした。
¶冬十月二十三日甲子、初めて品位(ほんい)に依り、その禄法を定めた。十一月二十二日壬辰、詔してこう仰せられた。「諸国に大税(たいぜい、正税)を三年間貸し付け、その利息を徴収してはならない。私稲を出挙(すいこ、利息付きで貸し付けること)する者は、利息が元本の半分を超えてはならない。また畿内の百姓で八十歳以上の者、および孤独で自活できない者に衣食を賜れ。」十二月二日壬寅、大初位上の丹波千足(たんばのちたり)ら八人が、外印(太政官印)を偽造し、私的に人に位を与えたため、信濃に流した。六日丙午、詔してこう仰せられた。「親王以下および豪強の家が、多く山野を占有し、民の生業を妨げている。今後は厳しく禁断を加えよ。もし開墾すべき土地があれば、国司に告げ、官の処分を仰ぐべきである。」この年、大倭・佐渡が飢饉となり、これを賑恤した。尾張で疫病が流行し、医薬を給した(注:帝王編年記を按ずるに、この年、藤原宮が火災に遭ったという。しかし本書には記載がないため、これを採らない)。
¶五年壬子、春正月十六日乙酉、詔してこう仰せられた。「諸国の役民は、故郷に帰る日、食糧が絶え乏しくなり、多くが道端で飢え、ついには溝や谷に倒れ込んでいる。国司は努めて撫養を加え、これを賑恤すべきである。もし死者があれば、これを埋葬し、その姓名を記録して、本属(本籍地)に報知せよ。」二十三日壬辰、河内国の高安峰(たかやすのみね)の烽(とぶひ、のろし台)を廃し、初めて高見烽、および大倭国の春日烽を置き、平城に伝達できるようにした。二十八日丁酉、正五位上の太安万侶(おおのやすまろ)が古事記を献上した(注:「二十八日」以下は古事記の序による)。
¶二月十九日戊午、詔して「京畿の高齢者・鰥寡惸独、および老齢の僧尼に、絁・綿・米・塩をそれぞれ賜れ」と仰せられた。三月三日壬申、春日山宮に行幸した(注:「三日」以下は年中行事による)。十九日戊子、美濃国が連理の木(れんりのき、枝が連なり合った木)および白雁を献上した。
¶夏五月十三日辛巳、詔してこう仰せられた。「諸国の大税を三年間賑貸(しんたい、救済のための貸付)するのは、もともと百姓の窮乏を救うためである。ところが今、国司・郡司および里長らが、これにかこつけて法を弄び、政を害し民を蠹(むしば)むこと、これより甚だしいものはない。姦利をなす者は重く論罪し、赦すところがないようにせよ。」十七日乙酉、諸司の主典(さかん)以上、および諸国の朝集使らに詔してこう仰せられた。「法を制定して以来、年月はすでに久しいが、律令に習熟せず、誤り失することが多い。もし令に違反する者があれば、律に拠って科断せよ。弾正台は毎月三度、諸司を巡察して非違を糾正せよ。もし廃闕(職務の懈怠)があれば、詳しい状を式部省に移送せよ。また国司が事を奏上しようとするときは、事に精通した者を選んで使いに充て、問いに応じて弁え説くことができ、滞ることのないようにせよ。もし尽くせない場合は、担当の官人および使者を、いずれも右に準じて科断せよ。今後は毎年巡察使を遣わし、国内の豊凶と施政の得失を検校せよ。使者は公平の心を存し、隠すことなく直ちに告げるべきである。もし問い質して発覚することがあれば、前と同様に科断せよ。およそ国司は毎年、官人の功過・行状・能力を実録し、すべて考状に添えて式部省に送り、式部省はこれを勘会(照合検討)せよ。」是月、駿河国で疫病が流行し、薬を給した。
¶六月七日乙巳、地震があった。秋七月十五日壬午、伊賀国が玄狐(げんこ、黒狐)を献上した。八月二十三日庚申、高安城に行幸した。
¶九月三日己巳、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところでは、子(ね)の年に当たるときは穀物が実らないものだが、天地は加護を垂れてくださり、今年は大いなる豊作となった。まして伊賀国司が献上した黒狐は、ほとんど上瑞(最上の瑞兆)にかなうものである。古人の言葉に『祥瑞の美しさは豊年に勝るものはない』とあり、また『王者の治世が太平に至れば、玄狐が現れる』ともいう。衆庶とともに、この慶事を喜び祝いたいと思う。天下に大赦を行い、伊賀国司の位を一階進め、瑞兆の出た郡の庸を免じ、これを捕らえた者には三年間課役を免除せよ。諸国の今年の田租、および大倭・河内・山背の調を免除せよ。」十九日乙酉、従五位下の道首名(みちのおびとな)を遣新羅大使とした。
¶二十三日己丑、太政官が議奏してこう申し上げた。「国を建て疆(さかい)を闢(ひら)くことは、武功の貴ぶところであり、官を設けて民を撫することは、文教の崇ぶところであります。さきに北道の蝦狄(かてき、蝦夷)は、遠く険阻な地に拠り、まことに狂心をほしいままにして、たびたび辺境を侵しました。官軍が雷撃を加えてより、凶賊は霧のように消え去り、狄の部民は安らかになり、皇民も乱されることがなくなりました。願わくは、この機に乗じて一国を置き、司宰(役人)を立て、永く百姓を鎮めていただきたく存じます。」この奏上は許され、ここに初めて出羽国を置いた(注:一代要記・歴代皇紀はいずれも、この月初めて出雲国を置いたとするが、おそらく出羽の誤りであろう。一代要記にはまた、四年七月に初めて出羽国を置いたともあるが、これもまた誤りである)。
¶この年、鷹居社(たかいのやしろ)を豊前国宇佐郡に造り、八幡大神を奉祀した(注:「この年」以下は宇佐託宣集による。○神宮の造営については、諸説が入り乱れている。石清水八幡縁起には、仁徳天皇が使いを遣わし、宇佐郡馬城峰(まきのみね)に宮を造った、これが宇佐八幡宮であるという。また、欽明天皇十二年正月に神霊が初めて現れたともいう。同じ書の中で矛盾しており、その説は誤りが多く、採るに足らない。託宣集・神皇正統記はいずれも、欽明天皇三十二年二月、神霊が肥後国菱形池に初めて現れ、「八幡大神」と名乗ったというが、宮を造ったという記述はない。託宣集にはまた、聖武天皇の神亀元年、使いを遣わして小倉山を開き、宮殿を造ったとある。二年正月、神座を移し、神戸(かんべ)を奉り、弥勒寺および鐘楼を建てたという。ところがその鐘楼・弥勒寺は、今も宇佐宮に現存している。おそらくこの年(和銅五年)に鷹居社を造り、聖武天皇の時代に至って宇佐に移し、鷹居社がすなわち宇佐宮となったことは、確かなことと知られる。ただし本書には明確な記述がなく、天平九年になって初めて筑紫・住吉・八幡の二社(注記のまま)と記している。それゆえ諸書を参考にして、ここに記す)。
¶六年癸丑、春正月四日戊辰、備前国が白鳩を献上し、伯耆国が嘉瓜(かか、めでたい瓜)を献上し、左京職は稗(ひえ)が変じて禾(いね)になったものを献上した。二月一日甲午朔、日食があった。夏四月三日乙未、丹波国の五郡を割いて丹後国を置いた。備前国の六郡を割いて美作国を置いた。日向国の四郡を割いて大隅国を置いた。十六日戊申、新格(しんきゃく、新たな法令)、および権衡度量(けんこうどりょう、はかりと物差し・升)を天下に頒布した。
¶五月二日甲子、制してこう仰せられた。「畿内七道の諸国・郡・郷の名は、努めて佳字(縁起のよい文字)を用いよ。その郡内に産する銀・銅・彩色(顔料)、草木・鳥獣・魚虫などの品は、つぶさにその種類を記録せよ。その土地の肥沃・痩せた様子、山川原野、地名の由来、および古老の伝える旧聞・異事は、すべて書物に載せて奏上せよ。」(注:一代要記・歴代皇紀はいずれも、五月に風土記を作らせたという。僧仙覚の万葉集抄には、この年、勅して諸国の風土記を撰ばせ、おおよそ郡・郷・村・里の名は二字を用いることと定めたとある。おそらくこのことを指すのであろう)。七日己巳、制してこう仰せられた。「郡司の大領・少領は、終身をもってその任期の限りとする。これは遷代(任期による交代)の任ではないが、不善な国司が、愛憎の情によって非を是として、無理に辞職させ、道理を曲げて解任することがある。今後はこのようなことがあってはならない。もし齢が従心(七十歳)に及び、気力が衰え精神が昏くなった者、あるいは痼疾(持病)にかかり時務に堪えられない者は、田に帰って心身を養いたいと願い出れば、道理として聞き届けるべきである。必ず自筆の書状を得て所司に申し牒(ちょう、公文書)し、その処分を待って、代わりの者を選び補うべきである。」二十五日丁亥、初めて山背国に命じて乳牛戸(にゅうぎゅうこ)五十戸を点定させた。
¶六月二十三日乙卯、甕原離宮(みかのはらのりきゅう)に行幸した。二十六日戊午、宮に還った。
¶秋七月五日丙寅、詔してこう仰せられた。「勲級を授けるのは、もとより功のある者に対してである。もし優遇し秀でた者としなければ、どうして弊を正し人を勧めることができようか。今、隼人の賊を討った将軍、および功のあった士卒千二百八十四人には、その労に応じて勲を授けるべきである。」六日丁卯、大倭国宇太郡の人が、長岡の野地で銅鐸を得てこれを献上した。その形は尋常と異なり、音は律呂(音律)にかなっていた。八月十日辛丑、道首名が新羅より帰還した。二十四日乙卯、大風があり、木を抜き屋根を吹き飛ばした。
¶九月十九日己卯、詔して、和銅四年以前の公私の出挙による稲・粟で未償還のものを免除した。冬十月八日戊戌、諸寺が多く占有していた田野のうち、格(法定の限度)を超えた分を没収した。十一月一日辛酉朔、伊賀・伊勢・尾張・参河・出羽が「大風により稼(作物)が損なわれた」と言上した。調・庸を免除した。十六日丙子、大倭国が嘉蓮(かれん、めでたい蓮)を献上し、近江国が連理の木を献上し、但馬国が白雉を献上した。十二月十六日乙巳、近江国が「慶雲が現れた」と言上した。丹波国が白雉を献上した。この二国に限り曲赦(局所的な恩赦)を行った。この年、大倭・志摩・大隅が疲弊(疫病か)し、薬を給した。讃岐が飢饉となり、これを賑恤した。
¶七年甲寅、春正月三日壬戌、二品の長親王(ながしんのう)・舎人親王(とねりしんのう)・新田部親王(にいたべしんのう)、三品の施基親王に、それぞれ封二百戸を加増した。従三位の長屋王(ながやおう)には百戸を加えた。食封(じきふ)の田租を全額支給することは、これより始まった。二月一日己丑朔、日食があった。十日戊戌、従六位上の紀清人(きのきよひと)、正八位下の三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に詔して国史を撰ばせた(注:本書には「正八位下」の四字がないが、類聚国史・日本紀略によってこれを補った)。十四日壬寅、使者を七道に遣わし、囚徒を録した(記録・審査した)。閏月二十日己卯、甕原離宮に行幸した。
¶夏五月二十七日癸丑、土左国の女子が一度に三子を産んだ。穀物と乳母を賜った。六月二十三日戊寅、詔してこう仰せられた。「このごろ陰陽が乱れ狂い、気候の順序も食い違い、田畑の耕作が始まったというのに、恵みの雨がいまだ降らない。幣帛をもって諸社に奉り、名山大川に雨を祈り、めでたい雨が降って、農桑を損なうことのないようにせよ。」二十五日庚辰、皇孫(聖武天皇)を皇太子に立て、元服の儀を加えた(注:本書には「皇太子に元服を加えた」とのみ記され、冊立の文がない。聖武紀の七年六月の条に「皇太子に立てた」とあり、一代要記・歴代皇紀もいずれもこの日のこととしている。それゆえ今はこれに従う)。二十八日癸未、天下に大赦を行った。高齢者に、百歳以上には穀五斛、九十歳以上には三斛、八十歳以上には一斛を賜った。孝子・順孫・義夫・節婦にはその門閭に表彰を掲げ、終身課役を免除した。鰥寡惸独・篤癃(とくりゅう、重い病)で自活できない者には、所司が量って賑恤を加えた。
¶冬十月一日乙卯朔、美濃・武蔵・下野・伯耆・播磨・伊予で大風があり、今年の租調を免除した。十二月二十六日己卯、新羅が朝貢した。
¶八年乙卯、春正月一日甲申朔、天皇は大極殿に出御した。皇太子が初めて朝賀を拝した。陸奥・出羽の蝦夷、南島の奄美(あまみ)・夜久(やく)・度感(とかん)・信覚(しがき)・球美(くみ)などの人々が来朝し、方物(その地の産物)を貢献した。鼓吹(こすい、太鼓や笛の楽隊)と騎兵を朱雀門に並べた。元会の儀に鉦鼓(しょうこ)を設けることは、これより始まった。この日、慶雲が東方に現れた。遠江国が白狐を献上し、丹波国が白鳩を献上した。十日癸巳、皇太子が初めて朝賀を拝したこと、および瑞雲が現れたことにより、詔して天下に大赦を行い、親王以下内外の文武官に、それぞれ位を進めた。三月一日壬午朔、甕原離宮に行幸した。
¶夏四月九日庚申、櫛見山陵(くしみのみささぎ)に守陵三戸、伏見山陵に四戸を充てた。五月一日辛巳朔、諸国の朝集使に教(きょう、上意の伝達)してこう仰せられた。「天下の百姓には、本貫(本籍地)に背いて他郷に流寓し、課役を逃れようと図る者が多い。三月を超えて留まる者は、その地に土断(どだん、定住地での戸籍登録)して調庸を納めさせ、その国の法に従わせよ。また百姓を撫で導き、農桑を勧め課し、心に慈しみ育てることを存して、よく飢えと寒さを救うことが、国郡の善政である。身は公の庭にありながら、心は私門を顧み、農業を妨げ奪い、万民を侵し奪うことは、国家の大いなる蠹害である。産業を催し勧め、資産が豊かに足りている者を上等とする。催し勧めを加えても、衣食が乏しく欠けている者を中等とする。田畑が荒廃し、百姓が飢え寒さに苦しみ、それによって死亡する者が出るのを下等とする。下等の者が十人以上に及べば、現任の職を解任せよ。また士農工商の民は、それぞれその業がある。今、職を失って流亡するのは、これは国司・郡司が教導する方法を誤っているためである。このような類があれば、必ず顕らかに戮(ころ)して罰せよ。今後は巡察使を天下に遣わし、風俗を観察させよ。徳政に努め厚くし、あまねく行き渡らせるべきである。諸国の百姓が往来するための過所(かしょ、通行許可証)は、本国の印を用いるべきである。」十二日壬辰、伯耆国が「甘露が降った」と言上した。
¶十四日甲午、詔してこう仰せられた。「およそ諸国が調庸を運輸するには、それぞれ期限がある。ところが今、国司が怠慢で期限に違え、ついには農事を妨げている。運送に当たる民は、そのために労苦させられている。今後、このような類があれば、重く論罪せよ。また海路で調庸を漕運するのに、たやすく愚かな民に委ねているため、あるいはすでに漂流して失われ、あるいは多くが湿損している。これは国司が先の制度に従わないことによって生じたものである。今後、改めない者は、等級に応じて罪を科せ。損なわれた物は、直ちに国司から徴収せよ。また武器の用は、その由来久しいものである。強を服させ柔を懐(なつ)けるのは、みな武徳に頼るものである。今、六道諸国が造営する武具は、あまり堅固ではなく、事に臨んで何の用に立とうか。今後、毎年見本を貢進せよ。巡察使が出発する日に、審らかに校勘(点検)させよ。」
¶二十五日乙巳、遠江国で地震があり、山が崩れ、麁玉川(あらたまがわ)が塞がった。二十六日丙午、参河国で地震があった。正倉(しょうそう)が壊れたもの四十七か所、百姓の家屋も多く陥没した。晦日庚戌、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の富民千戸を移し、陸奥に配した。
¶六月四日甲寅、一品の長親王が薨じた(注:長親王は、これより以前に一品に叙せられたという記録が見えないが、今は旧文に従う。詳しくは皇子伝を参照)。十二日壬戌、太政官が奏してこう申し上げた。「天象(星の運行)が度を失い、旱魃がひと月にも及んでおります。東の田が耕せず、南の畑の作物が損なわれることを恐れます。昔、周の王は旱魃に遭い、雲漢の詩を残しました。漢の帝は雨を祈り、改元の詔を降しました。人君の誠は、上天を感動させるものであります。どうか幣帛を奉り、諸社に祈っていただきたく存じます。」十三日癸亥、弘福寺・法隆寺の二寺で斎会を設け、詔して使者を遣わし、諸社に幣帛を奉らせ、名山大川に雨を祈らせた。数日を経ずして、恵みの雨が滂沱(ぼうだ、激しく降る様子)として降った。当時の人々はこれを聖徳に感じたものと考えた。そこで百官に禄を賜り、それぞれ品物を与えた。この夏、摂津・志摩・武蔵・越前・丹波・丹後・紀伊が飢饉となり、これを賑貸(しんたい)した。
¶秋七月一日庚辰朔、日食があった。十日己丑、地震があった(注:本書には「地」の字が脱けているが、類聚国史によってこれを補った)。甕原離宮に行幸した。二十七日丙午(注:公卿補任には十三日とある)、知太政官事の一品穂積親王が薨じた。八月二十八日丁丑、左京の人が霊亀(れいき)を献上した。
¶九月二日庚辰、詔してこう仰せられた。「乾道(天の道)は天を統べ、文明はこれによって天下を治める。大宝(たいほう)を位といい、宸極(天子の位)はそれゆえに尊きに居る。昔、揖譲(禅譲)の君は、あまねく人材を求めて試みた。干戈(戦い)の主は、体を継ぎ基を承けた。それを後の子孫に伝え、よく王統を隆んにした。朕は天下に君臨し、万民を撫で育ててきた。上天の保佑を蒙り、祖宗の遺された慶びに頼り、海内は安らかに静まり、天下は安寧である。しかしながら、兢兢(きょうきょう、慎み恐れる)たる志は朝な夕なに怠らず、翼翼(よくよく、慎み深い)たる思いは日に日に慎み、庶政に憂労してより、すでに九年になる。今、精華(気力)はようやく衰え、耄期(ぼうき、老齢)が近づいている。深く間逸(かんいつ、静かな暇)を求め、風雲のように高く身を処したいと思う。累(わずらい)を釈(と)き塵を遺すことは、まさに履物を脱ぎ捨てるようなものである。神器を皇太子に譲りたいと思うが、年齢がまだ幼く、深宮を離れていない。庶務は多端であり、一日に万機がある。一品の冰高内親王(ひたかないしんのう)は、早くより祥符(めでたいしるし)にかない、夙(つと)に徳の誉れを現している。天性寛仁にして、沈静婉娩(えんべん、しとやか)であり、華夏(天下)はこれを待ち望み、謳訟(おうしょう、人々の称賛)もその帰するところを知っている。今、皇帝の位を内親王に伝えることとする。公卿百官は、ことごとく謹んでこれを奉じ、朕の意にかなうようにせよ。」この日、冰高内親王(元正天皇)に位を伝えた。
¶養老五年五月、病に伏した。十二月七日己卯、中安殿(ちゅうあんでん)において崩御した(注:水鏡には四日とある。一代要記を按ずるに、四日に落飾(出家)し、そのまま崩じたとある。皇年代略記には五月に落髪したとある。しかし本書には記載がないため、これを採らない)。御年61歳。
¶右大臣の長屋王、参議の藤原房前(ふじわらのふささき)に遺詔してこう仰せられた。「朕が聞くところ、万物の生あるものは、死のないものはない。これは天地の定まった理であり、どうして悲しみ哀しむことがあろうか。厚葬は家業を破り、重い喪服は生を傷つける。朕はこれをはなはだ取らない。朕が崩じた後は、大倭国添上郡の蔵宝山(ぞうほうざん)雍良岑(ようらのみね)において、竈(かまど)を造って火葬とせよ。諡号は『某国某郡朝廷馭宇天皇』と称し、後世に伝え示せ。皇帝(元正天皇)は万機を綜理すること、平日と同様にせよ。王侯卿相・文武百官は、みだりに職掌を離れ、喪車に追随してはならない。おのおの本司を守り、平常のごとく政務を執れ。近侍の官、および五衛府は、努めて警衛を加え、不慮の事態に備えよ。」また詔してこう仰せられた。「葬儀に必要な事は、すべて前の勅に依り、欠くことのないようにせよ。轎車(きょうしゃ)・霊駕(れいが、柩を運ぶ乗物)は、金玉を刻み彫ったり、丹青(彩色)で飾ったりしてはならない。質素倹約を用い、卑謙(謙虚)に従え。丘(墓)の形は土を鑿(うが)たず、山に沿って竈を作り、荊棘を刈り払って場を開き、そのまま葬地とせよ。常緑の樹を植え、文字を刻んだ碑を立てて、椎山陵(つきのやまのみささぎ)に葬れ。」(注:延喜式には「奈保山東陵」とある)。
¶諡(おくりな)して、日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみよとよくになりひめのすめらみこと)と申し上げた。追って諡して、元明天皇と申し上げた。