卷之一百十四 列傳第四十一
藤原不比等、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原不比等
¶藤原不比等(ふじわらのふひと)(注:『日本紀』では不比等を「史」と書くが、音訓が通じるため同じ人物である)は、内大臣藤原鎌足(かまたり)の第二子である(注:『続日本紀』による。○『大鏡』には次のような話がある。天智天皇が女御を鎌足に賜う際、「その女が身ごもり、男を生めば卿の子とし、女を生めば朕の子とする」と言われた。やがて男が生まれ、これが不比等である。また『尊卑分脈』には、鎌足が人目を憚る事情があり、不比等を山科の田辺史大隅の家で養わせたため、「史」を名としたとある。しかしこれは本書には見えないため採らない)。直広肆を授けられた。持統天皇の朝廷で判事となり、直広弐に進み、資人五十人を賜った(注:『日本紀』による)。文武天皇は詔して、「先朝が藤原朝臣に賜った姓は、その子不比等に継がせるのがよい。ただし意美麻呂(おみまろ)らは神事に仕えているので、もとの姓に復させるのがよい」と言われた。まもなく直広壱に進み、律令の編纂に加わり、中納言となった。大宝元年、正三位を授けられ、大納言に転じた(注:『続日本紀』による)。慶雲元年、従二位に進み(注:『公卿補任』による)、封戸八百戸を増された(注:『続日本紀』による)。翌年、病にかかり、得度者二十人、布四百端、米八十石を京の諸寺に施して祈らせた(注:『公卿補任』による)。もともと鎌足は維摩会を陶原の家で営んでいたが、鎌足の死後は廃れていた。このとき不比等は先祖の霊に祈って病が癒えたため、これを復興させた。期間は七日と定め、鎌足の忌日に終えることとした。その後、興福寺に移された(注:『年中行事』による。○考えるに、『尊卑分脈』には不比等が法会を平城京の東の邸で行ったとあるが、これは桃原の家のことだろうか。今は考証のしようがない)。四年、詔して「代々の勤労を嘉し、鎌足を追って顕彰する。これは武内宿禰(たけのうちのすくね)らと並ぶものであるから、封戸五千戸を賜い子孫に伝えさせる」とされた。不比等は固辞し、二千戸を受け、うち一千戸を子孫に伝えることとした(注:考えるに、本書によれば天平十三年、不比等の家はその封戸五千戸を朝廷に返納した。朝廷はもとのとおり二千戸をその家に賜い、三千戸を諸国の国分寺に分け施して丈六仏像造立の費用に充てたとある。これはここの記述と異なる。おそらく不比等は固辞したものの、優詔によって全封戸を子孫に伝えさせることになったのであろう。今は考証のしようがない)。和銅元年、正二位に進み、右大臣を拝命した(注:『続日本紀』による)。
¶養老二年、太政大臣に任じられたが、固く辞退して受けなかった(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による)。律令の監修にあたった。四年、帯刀資人三十人を加えて授けられた。八月、病が重くなり、得度者三十人を賜った。天皇は詔して、「右大臣の病が長引き、寝食も安らかでない。朕はその疲れ苦しむ様子を見て、心を痛めている。快復を願うが、なすすべがない。天下に大赦を行い、その病を救おうと思う。本日正午以前の、死罪以下の罪は、軽重を問わず、通常の赦しでは許されないものも含めてすべて赦免する。廃疾の者で自活できない者には、程度に応じて救済を加えよ。担当の長官は自ら見舞い、程度に応じて薬湯を給し、寛大に手厚く扱うように努めよ」と言われた。また都の四十八の寺に薬師経を読ませ、官戸十人を良民とし、奴婢十人を官戸とした。それから幾日もたたずに薨去した(注:『続日本紀』による)。享年六十二(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。遺言により「佐保山の椎岡に火葬せよ」とされた(注:『公卿補任』による)。天皇は深く哀悼し、そのために朝政を止め、内裏で哀悼の意を表された。大納言長屋王(ながやおう)、中納言大伴旅人(おおとものたびと)を邸に遣わして詔を宣べさせ、太政大臣正一位を贈り(注:『続日本紀』『公卿補任』による)、文忠と諡した。封戸・資人は生前と同様に賜った(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。これより先、藤原氏には氏長者を置いていなかったが、不比等に至って初めてこれに任じるよう命じられた(注:『尊卑分脈』による)。天平年間、渤海からの貢物を六陵に献じ、あわせて不比等の墓を祭った。天平宝字の初め、天下に鎌足・不比等の名を呼び捨てにすることを禁じる勅が出された。四年、勅して、「子は祖先によって尊ばれ、祖先は子によって貴くなる。これは変わることのない道理であり、聖王の善き行いである。先朝の太政大臣藤原朝臣は、天下に功績が高いばかりでなく、皇室の外戚でもある。それゆえ先朝は正一位太政大臣を贈ったのである。これはわが令の規定によればすでに官位を極めているが、周礼に照らせばなお足りないところがある。ひそかに思うに、その勲績は天地に満ちるほどであり、朝廷の賞はいまだ人々の期待に応えていない。斉の太公の故事にならい、近江国十二郡を追って封じ、淡海公(おうみこう)とするのがよい。継室の従一位県犬養橘宿禰(あがたいぬかいのたちばなのすくね)には正一位を賜い、太夫人とする」と言われた(注:『続日本紀』による)。不比等には四人の子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)がいる。娘には宮子媛(みやこひめ)・文武天皇夫人、光明子(こうみょうし)・聖武天皇皇后がいる(注:『尊卑分脈』による)。
藤原武智麻呂
¶藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)。武智麻呂は、和銅・霊亀の頃、次第に進んで従四位上となり、近江守となった。上奏して、「管内の諸寺は、多くの境域を占有しながら、もとより造営修理を行わず、名簿だけを偽って上げております。所有する田園については自ら利益を独占しようとしております。もしこれを正さなければ、法の衰えを招くおそれがあります。人情はしだいに薄くなり、仏教も衰えております。これは近江国だけでなく、他国も同様です。どうか諸国に広く命じて、弊害を改め純朴な風に戻していただきたく存じます」と述べた。これが聞き入れられた。養老年間、次第に進んで従三位となり、中納言に任じられ、帯刀資人四人を賜った。神亀の初め、正三位に進み、封戸・物品を加増された。天平元年、大納言に転じ、太宰帥を兼ねた。六年、従二位に進み、右大臣を拝命した。九年七月、痘瘡(天然痘)にかかった。天皇は詔を下して「天下に大赦を行う」とされ、その病を救おうとされた。左大弁橘諸兄(たちばなのもろえ)、右大弁紀男人(きのおひと)を邸に遣わして正一位を授け、左大臣を拝命させたが、その日のうちに薨去した(注:『続日本紀』による)。享年五十八(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。かつて栄山寺(えいさんじ)を創建しており、そこに葬られた(注:『栄山寺文書』による)。従四位下中臣名代(なかとみのなしろ)らを遣わして葬儀を監督させ、官から費用を支給した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。武智麻呂の邸は房前の邸の南隣にあったため、南家と称された。房前の家は北家と称された(注:『尊卑分脈』による)。天平宝字年間、子の仲麻呂(なかまろ)が上奏して、「臣の父と叔父は、聖代の棟梁であり、明時の羽翼でありながら、位はすでに極めたものの、官はいまだそれにふさわしくありません。伏してお願いいたします、臣の太師の任にちなみ、その恩を推し及ぼして、南北両家の左大臣に贈っていただきたく存じます」と願い出た。勅してこれを許し、あわせて太政大臣を贈った(注:『続日本紀』による)。
¶武智麻呂には四人の子、豊成(とよなり)・仲麻呂・巨勢麻呂(こせまろ)・乙麻呂(おとまろ)がいる(注:『尊卑分脈』による。○『公卿補任』は巨勢麻呂を二男とし、本書は乙麻呂を三男とする。今『続日本紀』を考えると、二男は仲麻呂、四男は乙麻呂とある。これによれば巨勢麻呂が三男であることは明らかである)。豊成には別に伝がある。仲麻呂は「叛臣伝」にある。巨勢麻呂は、天平宝字年間、参議従三位に至り、式部卿を兼ねたが、兄仲麻呂の謀反に加わり誅殺された。乙麻呂(注:乙は弟とも書く)は参議従三位、式部卿を兼ねた。子の是公(これきみ)は、初め名を黒麻呂といい、体つきが大きく威厳のある容貌で、時務に最も通じ、物事の裁断に滞りがなかった。天平宝字年間、従五位下に叙せられた。宝亀・天応の頃、次第に昇進して参議となり、正三位に進み、式部卿・中衛大将を兼ね、中納言に任じられた。延暦元年、大納言に転じ、まもなく右大臣を拝命し、中衛大将は元のままとした。三年、従二位に進んだ。この秋、天皇はその田村第に行幸して宴を催し、その子弟友(おととも)に従五位上を授けた。八年、是公が薨去した。享年六十三。詔して従一位を贈った(注:『続日本紀』による)。世に牛屋大臣(うしやのおとど)と称された(注:『一代要記』『尊卑分脈』による)。子は真友(まとも)・雄友(おとも)・友人(ともひと)・弟友(おととも)である(注:『尊卑分脈』による)。真友は参議に至り、大蔵卿を兼ねた。雄友は官を重ね、大同の初め、正三位大納言に至った(注:『公卿補任』による)。伊予親王が謀反を企てた際、雄友はその変事を告発した(注:『日本紀略』による)。しかし親王が敗れると、雄友はその外舅(妻の父)であったため、伊予に流された。弘仁元年、赦されて帰り、もとの位に復し、宮内卿を授けられた(注:『公卿補任』による)。翌年、死去し、詔して元の官を贈られた(注:『日本紀略』『公卿補任』による)。友人は簡略で礼儀作法にこだわらない性格で、伊予親王の事件に連座して下野守に落とされた(注:本来の官は考証できない)。弘仁年間、赦されて帰り、従四位下を授けられ、出て相模守となった。十三年、任地で死去した(注:諸国史による)。弟友は阿波守となった(注:『尊卑分脈』による)。
藤原房前
¶藤原房前(ふじわらのふささき)。房前は、文武天皇の朝廷で東海道への使者を命じられ、地方官の政績を巡察し、冤罪を申し立てて正した。慶雲・和銅の頃、次第に進んで従五位下となり、また東海道・東山道の二道に赴いて関所の検察にあたり、風俗を巡視した。霊亀の初め、従四位下に進んだ。養老元年、朝政に参議として加わった。五年、従三位に進んだ。元明天皇が病に伏された際、房前は右大臣長屋王とともに遺詔を受けた。天皇は特に房前に詔して、「そもそも家に長患いの病人があれば、大小の事に不安が生じ、思わぬことが急に起こるものである。そなた房前は内臣となり、内外のことを取り計らい、勅に準じて実施せよ。帝業を輔翼し、永く国家を安泰にせよ」と言われた。聖武天皇が即位すると、正三位に進み、封戸・物品を加増された(注:『続日本紀』による)。神亀年間、授刀長官となり、近江・若狭の按察使を兼ねた(注:『公卿補任』による)。天平の初め、中務卿となり、民部卿に転じ(注:『続日本紀』『公卿補任』による)、中衛大将に任じられた(注:『公卿補任』『万葉集』『尊卑分脈』による。○考えるに、『続日本紀』によれば神亀五年に初めて中衛府の大将一人が置かれたとあるが、房前が大将になったとは記していない。『公卿補任』はこれを天平二年とする。しかし『万葉集』の天平元年に大伴旅人(おおとものたびと)らが房前に贈った書状によれば、「中衛大将藤原卿」とあり、元年にはすでに中衛大将であったことになる。今その年月は考証のしようがない)。まもなく東海道・東山道の二道の節度使となった。九年、薨去した(注:『続日本紀』による)。享年五十七(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。大臣の葬儀を賜ったが、その家は固く辞退して受けなかった。正一位左大臣を贈られ、食封二千戸を二十年を限って賜った。天平宝字四年、太政大臣を贈られた。光仁天皇の時、その功により封戸を子孫に伝えるよう勅が下された。子には永手(ながて)・真楯(またて)・清河(きよかわ)・魚名(うおな)・楓麻呂(かえでまろ)がおり、最も顕著であった。永手・清河には別に伝がある。真楯・魚名の事績は永手の伝にある。楓麻呂は房前の第七子である。天平宝字年間、西海道問民苦使となり、便宜二十九事を上奏し、太宰府に勅してその事に応じて処分させ、まもなく東海道巡察使となった。宝亀年間、参議従三位に至り、大蔵卿・摂津大夫を兼ねた(注:『続日本紀』による)。子の園人(そのひと)には別に伝がある。
藤原宇合
¶藤原宇合(ふじわらのうまかい)。宇合は(注:宇合はまた馬養(うまかい)とも書く。『尊卑分脈』には、唐から帰って宇合と名を改めたとある。宇合・馬養は音訓が通じる)、霊亀年間、遣唐副使となり、従五位下に叙せられた。養老の初め、唐から帰り、常陸守に任じられ、安房・上総・下総の按察使となった。次第に進んで正四位上となり、式部卿に遷った。神亀元年、陸奥の海道の蝦夷が叛き、大掾佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺した。宇合は持節大将軍となってこれを討ち平らげ、軍を整えて京に凱旋した。天皇は内舎人を遣わして近江で出迎えさせ労い、功を賞して従三位に叙し、勲二等を授けた。副将軍高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)以下千六百九十余人にも、それぞれ勲位を賜った。天平三年、初めて参議六人が置かれ、宇合はその首座となった。そのまま式部卿を兼ね、畿内総管となった。まもなく西海道節度使に転じ、正三位に進み、太宰帥を兼ねた。九年、薨去した(注:『続日本紀』による)。享年四十四(注:『尊卑分脈』『懐風藻』による)。宇合は器量が広く優雅で、風格は落ち着いて深みがあり、広く古典に通じ、あわせて武事にも通じていた。軍事や国政を執り行いながらも、特に文藻に心を留め、当時の文筆の第一人者であり、詩文集二巻が世に伝わっている。式部卿であったことから、世に式家(しきけ)と称された(注:『尊卑分脈』による)。
¶子には広嗣(ひろつぐ)・良継(よしつぐ)・田麻呂(たまろ)・百川(ももかわ)・蔵下麻呂(くらじまろ)がおり、最も顕著であった。広嗣・良継には別に伝がある。百川・蔵下麻呂の事績は良継の伝にある。田麻呂は性格が恭しく謙虚で、人と争うことがなかった。天平年間、兄広嗣の事件に連座して隠岐に流され、三年間住んだ後、赦されて帰った。蜷淵山(になぶちやま)に隠れ住み、仏典への志が篤く、修行を怠らなかった。天平宝字年間、従五位下を授けられ、南海道節度副使・左虎賁督となった。六年、遣唐副使に任じられた。天平神護・宝亀の頃、次第に要職を歴任した。延暦の初め、右大臣正二位に至った。薨去した。享年六十二(注:『続日本紀』による)。世に蜷淵大臣(になぶちのおとど)と称された(注:『一代要記』『尊卑分脈』による)。
藤原麻呂
¶藤原麻呂(ふじわらのまろ)。麻呂は、養老年間、従五位下に叙せられ、左右京大夫を歴任した。天平の初め、従三位に進み、兵部卿となり、参議を拝命し、山陰道鎮輔使となった。九年、鎮守将軍大野東人(おおののあずまひと)が、男勝(おがち)の蝦夷を征討し、直路を開いて出羽柵(でわのき)に達したいと願い出た。麻呂は持節大使となり、副使正五位上佐伯豊人(さえきのとよひと)、常陸守坂本宇頭麻佐(さかもとのうずまさ)とともに陸奥に至り、東人と謀って兵を発し道を開き、諸柵に兵を分けて鎮めさせた。戦いながら進み、比羅保許山(ひらほこやま)に至った。そこで上書して次のように述べた。
¶「臣麻呂ら、去る二月十九日、陸奥の多賀柵(たがのき)に至り、鎮守将軍大野朝臣東人とともに、常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野の六国の騎兵千人を発し、山道・海道の両道を開くことを議しました。夷狄が疑い恐れましたので、帰順した田夷である遠田郡領遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰順した狄である和我君計安塁(わがのきみけあんるい)を山道に、それぞれ差し向け、朝廷の意向を伝えて慰め鎮めさせました。勇健な者百九十六人を選んで将軍東人に属させ、四百五十九人を玉造(たまつくり)など五つの柵に配置しました。麻呂らは残りの兵三百四十五人を率いて多賀柵を守りました。副使坂本朝臣宇頭麻佐を遣わして玉造柵を守らせ、判官大伴宿禰美濃麻呂(おおとものすくねみのまろ)に新田柵(にいたのき)を守らせ、大掾日下部宿禰大麻呂(くさかべのすくねおおまろ)に牡鹿柵(おしかのき)を守らせました。そのほかの諸柵はもとのとおり守らせております。二十五日、東人は多賀柵を出発しました。三月一日(注:三月は原文では四月とあるが、前後の文脈からこれに改める)、判官紀朝臣武良士(きのあそんむらじ)らと騎兵百九十六人、鎮兵四百九十九人、国兵五千人、帰順した狄二百四十九人を率い、管内の色麻柵(しかまのき)を発し、その日のうちに出羽国の大室駅(おおむろのうまや)に至りました。出羽守田辺史難波(たなべのふひとなにわ)は、管内の兵五百人、帰順した狄百四十人を率いてこの駅で待ち、三日間滞在した後、東人とともに敵地に入り、道を開きながら進みました。敵地は雪が深く馬の飼葉も得がたかったため、雪が消え草が生えるのを待って、ようやく進発することができました。十一日、東人は多賀柵に引き返し、自ら道を開くのを指揮し、総計百六十里にわたって岩を砕き木を伐り、谷を埋め峰を切り開いて進みました。賀美郡(かみのこおり)から出羽国最上郡(もがみのこおり)の玉野(たまの)まで八十里、山野は険しいものの往還に大きな支障はありませんでした。玉野から敵地の比羅保許山まで八十里は、地勢が平坦で危険はありませんでした。帰順した狄たちは、『比羅保許山から雄勝村(おがちのむら)まで五十余里、その間もまた平坦です。ただ二つの川があり、水かさが増すたびに船を用います』と申しております。四月四日、軍は比羅保許山に屯しました。これより先、田辺史難波の報告によれば、『雄勝村の俘長三人が来降して、「官軍が我が村に入ろうとしていると聞き、恐れに堪えず、それでやって来て帰順を申し出た」と言っております』とのことでした。東人は、『狄の俘には奸謀の多いものが多く、その言葉は当てにならない。さらに帰順の意思を重ねて確認した後に、対応を協議すべきである』と申しました。難波は、『軍を発して敵地に入るのは、狄の俘に教え諭すためであり、城柵を築いて民を住まわせるためであって、必ずしも武力によって残害するためではありません。もし相談することなく、力ずくで直進すれば、狄の俘は恐れて怨み、山野に逃げ隠れ、労多くして功少なく、上策とは言えないでしょう。それよりも官軍の威容を示し、ここから引き返し、その後に利益を諭し、寛大な恩恵を示すのがよいでしょう。そうすれば城郭は守りやすく、民も末永く安んじられましょう』と議しました。東人もそれをもっともだと考えました。また東人のもともとの計画では、早く敵地に入り、耕作をして穀物を蓄え、輸送の費用を省こうとするものでした。しかし今年の春は例年に倍する大雪で、早く入って耕作することができませんでした。天の時がこのようであっては、すでに当初の意図に反しております。そもそも城郭を築くのは一朝にしてできますが、城を守るのは人によるものであり、人を支えるのは食糧によるものです。耕作の時期を逃しては、何をもって供給いたしましょうか。また兵というものは、利があれば動き、利がなければ止まるものです。それゆえ軍を引いて帰り、来年を待つのがよいと存じます。ただ東人が自ら敵地に入ったのは、将軍として多賀柵に留まるよう奏請したためです。今、新しい道もすでに開通し、地形も自らの目で確かめました。来年に至れば、自ら入らずとも事を成すことができましょう。臣麻呂らは愚かで時機を明らかにすることができません。東人は久しく辺境の要地を任され、自ら敵地に臨んで、その形勢を観察し、深く思いを巡らせ、その計略はほとんど的を外すことがありません。それゆえこのように定めました。謹んで事の次第を記し、伏してご裁可を仰ぎます。今のところ事は落ち着いており、時節はちょうど農作業にあたります。発した軍士については、順次帰しつつ、あわせて奏上いたします」。
¶この年、薨去した(注:『続日本紀』による。○考えるに、勅裁の内容や麻呂が帰京したことについては、いずれも記録が見当たらない。おそらく軍中で薨去したのであろう。今は考証のしようがない)。享年四十三(注:四十三は四十四とも書く)。麻呂は人となりが弁舌に優れ才知豊かで多芸であり、文章をよくした。才能を世に推されながらも、琴と酒を好んだ。常に「上には聖なる君があり、下には賢い臣がいる。私ごときが何をなすことがあろうか、ただ琴と酒に親しむのみだ」と言っていた。薨去すると、人々は皆嘆き惜しんだ。左右京大夫であったことから、京家(きょうけ)と称された。子に浜成(はまなり)がいる(注:『尊卑分脈』による)。
藤原濱成
¶藤原浜成(ふじわらのはまなり)。浜成は、初め名を浜足といった。宝亀年間、次第に進んで参議を拝命し、まもなく従三位に叙せられ、弾正尹・刑部卿となった。天応元年、太宰帥となった。浜成は宰相の家柄でありながら、内外の官職を歴任しても善政の評判がなく、役人や民はこれに苦しんだ。そのため員外帥に降格され、傔仗(けんじょう)三人だけを置くこととされ、大弐佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに勅して、「三年ごとの考課による昇進降格は、これまでの王の通例である。悪を懲らしめ善を勧めるのは、昔の聖人の良き教えである。帥参議従三位兼侍従藤原朝臣浜成は、歴任した職において善政の評判が聞こえない。今、地方の統治を委ねられ、教化を広めることを期待されていたにもかかわらず、これでは懲らしめて粛正しなければ、どうして今後の見せしめとなろうか。よってその任を貶め、員外帥に補し、政務には関わらせないこととする。ただし公廨は帥の三分の一を賜う。府中の雑務は、大小にかかわらず、今毛人らがこれを行え」と言われた。もともと浜成の娘は氷上川継(ひかみのかわつぐ)に嫁いでいた。川継が謀反を企てるに及び、朝廷はその一味に加担したと疑い、勅して参議・侍従の官を削った。延暦九年、任地で薨去した。享年六十七。浜成はおおよそ諸書に通じ、術数(占術)にも詳しかった(注:『続日本紀』による)。かつて勅を奉じて『歌経標式(かきょうひょうしき)』一巻を撰した(注:『八雲御抄』による)。また『天書』十巻を著した(注:『本朝書籍目録』による)。
¶子の継彦(つぐひこ)は、性格が聡明で機知に富み、見識があり、特に天文暦法に精通し、あわせて管弦にも通じていた(注:『類聚国史』による)。天応の初め、兵部少輔となったが、川継の事件に連座して京の外に追放された。長く経ってから許されて帰り、主計頭となった(注:『続日本紀』による)。天長年間、刑部卿従三位に至った(注:『公卿補任』による)。
藤原貞敏
¶藤原貞敏(ふじわらのさだとし)。継彦の子貞敏は、若い頃から音楽を愛好し、琴を弾くことを好み、とりわけ琵琶を得意とした。承和年間、美作掾(みまさかのじょう)となった。まもなく遣唐使准判官を兼ね、唐に渡った。当時、唐人の劉二郎(りゅうじろう)という者が琵琶の名手であった。貞敏は砂金二百両を贈り、教えを受けたいと願った。二郎はさっそく二つ三つの調子を授けた。まもなくその奥義をほぼ極めた。二郎はさらに楽譜数十巻を授け、自分の娘を貞敏の妻とした。娘もまた琴や箏を得意とし、貞敏は新しい曲を数曲習得した。帰国するにあたり、二郎は送別の宴を設け、紫檀と紫藤の琵琶をそれぞれ一張贈った。貞敏はこれを持ち帰り、ついに朝廷の重宝となった。いわゆる玄象(げんじょう)・青山(せいざん)がこれである(注:玄象については『十訓抄』により、青山については『源平盛衰記』による。○『源平盛衰記』では劉二郎を廉承武(れんしょうぶ)としている)。一年余り後、参河介(みかわのすけ)となり、主殿助・雅楽助を歴任し、従五位下を授けられ、まもなく雅楽頭に転じた。斉衡年間、備前介を兼ね、従五位上に進んだ。天安年間、母の喪に服して官を辞し、喪が明けると掃部頭を拝命した。貞観年間、備中介を兼ねた。九年、死去した。享年六十一。貞敏は三代の天皇に仕えたが、他に特筆すべき才芸はなく、ただ琵琶の演奏に優れていたことで、当時重んじられた(注:『三代実録』による)。不比等の六世の孫にあたるのが富士麻呂である(注:『尊卑分脈』による)。
藤原富士麻呂
¶藤原富士麻呂(ふじわらのふじまろ)。富士麻呂は、性格が穏やかで上品であり、若い頃に大学で学び、史記・漢書に広く通じ、あわせて弓馬にも巧みであった。仁明天皇が東宮であった頃、次第に厚遇を受けた。天長の末、東宮少進に任じられ、まもなく右近衛権将監に遷った。天皇が即位すると、すぐに従五位下に叙せられ、少将に転じた。承和九年、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)が謀反を企てた。富士麻呂は佐伯宮成(さえきのみやなり)とともに勇敢な衛兵を率いてこれを包囲し捕らえた。まもなく中将となり(注:原文は左右の別を欠き、考証できない)、従四位下に叙せられた。長く宿衛の任にあり、よく士卒の心をつかんだ。天皇はこれを将帥の才ありと称えた。十三年、出て陸奥出羽按察使となった。赴任の日、清涼殿に召し出されて拝謁し、衣服・品物を賜った。嘉祥二年、召し返された。翌年、背中に腫れ物ができて死去した。享年四十七。人々は皆これを惜しんだ(注:『続日本後紀』による)。
¶子の敏行(としゆき)は、従四位上、左近衛中将となった。書をよくし、和歌に巧みであった(注:『尊卑分脈』による)。村上天皇はかつて小野道風(おののみちかぜ)に、「古今の書の名手は誰が最も優れているか」と尋ねられた。道風は空海(くうかい)と敏行を挙げて答えた。不比等の七世の孫にあたるのが道明である(注:『尊卑分脈』による)。
藤原道明
¶藤原道明(ふじわらのみちあきら)。道明は、父祖ともに際立った人物ではなかった。寛平年間、文学によって進み出た。延暦年間、次第に要職を歴任し、大納言に至り、右近衛大将を兼ねた。二十年、薨去した。享年六十五(注:『公卿補任』による。○『日本紀略』では享年六十四とする)。道明はかつて妻と車を同じくして市に物を買いに出かけた。一人の老婆が、その妻に向かって、「あなたは必ず大納言の妻となるでしょう」と言った。やがて道明を見て、「あなたの貴さは、この方によるものです」と言った(注:『江談抄』による)。道明の子孫は、多くが文学によって名を著した(注:『尊卑分脈』による)。
橘諸兄
¶橘諸兄(たちばなのもろえ)は、難波皇子(なにわのみこ)の曾孫であり、治部卿美努王(みぬおう)の子である(注:『続日本紀』による。○『公卿補任』もあわせて参照。○『日本紀』では美努を三野と書くが、音訓が通じる)。初めの名は葛城(かずらき)といい、諸王の一人であった。和銅年間、従五位下に叙せられ、馬寮監に補せられた。天平の初め、次第に進んで正四位下となり、左大弁となった。三年、参議に抜擢された。翌年、従三位に進んだ(注:『万葉集』には次のような話がある。葛城王が陸奥への使者を務めた際、国司の応対がおろそかであったため、王は不機嫌になった。飲食のもてなしが用意されたが、宴を楽しもうとはしなかった。そこに古参の采女がいて、左手に杯を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を打って歌を詠んだ。「安積山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」。王の機嫌はこれで解けた。ただしこの陸奥への使者となったのがいつのことかは分からないため、ここには年次を記さない)。
¶八年、弟の佐為王(さいおう)とともに上表して次のように述べた。「臣葛城らが申し上げます。天平五年、故知太政官事一品舎人親王(とねりしんのう)、大将軍一品新田部親王(にいたべしんのう)が勅を宣べて、『諸王たちが臣・連の姓を賜って朝廷に仕えることを願っていると聞く。それゆえ王たちを召してその事情を尋ねよ』と言われました。臣葛城らはもとよりこの思いを抱いておりましたが、これを申し上げる機会がありませんでした。幸いにも恩勅に遭いましたので、死を恐れずに申し上げます。昔、軽の境原の大宮に天下を治められた天皇の曾孫建内宿禰(たけのうちのすくね)は、初めて八氏の祖となり、永く万代の基を遺しました。これより以来、姓を賜い氏を定める例では、あるいは真人(まひと)、あるいは朝臣(あそん)とされ、その源は王家に始まり、その流れはついに臣民のものとなりました。臣葛城の実母である贈従一位県犬養橘宿禰(あがたいぬかいのたちばなのすくね)は、上は浄御原(きよみはら)の朝廷から下は藤原の大宮に至るまで、主君に仕えてその命を尽くし、孝を移して忠としました。和銅元年、大嘗祭に供奉した際、天皇はその忠誠の至りを褒め、酒杯に浮かべた橘を賜って、『橘は果実の中でも珍しく、貴人が好むものである。枝は霜雪を凌いで繁茂し、葉は寒暑を経ても萎れず、珠玉と光を競い、金銀と交わってなお美しさを増す。それゆえそなたに橘宿禰の姓を賜う』と言われました。しかし今、これを継ぐ者がなく、この明らかな詔を失うことを恐れております。伏して思いますに、皇帝陛下は天下を明るく治められ、八方の隅々にまで及び、四民は生業に安んじ、万民は道に歌を謳っております。臣葛城は、幸いにもこの明るい時代に遭い、みだりに九卿の列に加わり、可否を進言し、忠を尽くすことを志としております。そもそも姓を賜い氏を定めることの由来は遠いものです。臣葛城らは、橘宿禰の姓を賜り、先帝のもとの命を載せ、橘氏の格別な名を後世に伝えたく存じます」。これに対し詔で答えて、「王たちは情において深く謙譲し、志は親を顕彰することにある。皇族の高い名を辞退し、外家の橘の姓を願い出た。その思うところを尋ねるに、まことに時宜にかなっている。上表の願いのとおりに、橘宿禰を賜う」と言われた(注:『続日本紀』による)。そこで今の名に改めた(注:『姓氏録』による)。
¶太上天皇がちょうど皇后宮での宴に臨まれた際、和歌と酒を賜った(注:『万葉集』による)。九年、大納言を拝命した。十年、正三位に叙せられ、右大臣を拝命し、まもなく従二位に進んだ。天皇はその相楽(さがらか)の別業に行幸され、その子奈良麻呂(ならまろ)に位を授けられた。十五年、紫香楽(しがらき)に行幸された際、諸兄は留守を務めた。五月五日、宮中で宴が催された。皇太子が五節の舞を舞い、天皇は諸兄に太上天皇へその由を奏上させた。太上天皇はお喜びになり和歌を詠まれた。天皇は諸兄に従一位を授けられた。左大臣に転じ、太宰帥を兼ねた。天平勝宝の初め、正一位に進み、姓を改めて朝臣を賜った。八年、致仕した。天平宝字元年、薨去した(注:『続日本紀』による)。享年七十四(注:『公卿補任』による)。朝廷は従四位上紀飯麻呂(きのいいまろ)、従五位下石川豊人(いしかわのとよひと)らを遣わして葬儀を監督させ、官から費用を支給した(注:『続日本紀』による)。諸兄は井手の里(いでのさと)に住んでいたため、井手左大臣と称され、また西院大臣とも称された(注:『公卿補任』による)。子の奈良麻呂には別に伝がある。