卷之第二十 本紀第二十
光仁天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
光仁天皇
¶光仁天皇は、諱を白壁(しらかべ)といい、天智天皇(てんじてんのう)の孫、春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)施基(しき)の第六子である(注:神皇正統記には第三子とあるが、誤りである)。
¶母は紀氏(きし)。和銅二年十月十三日乙未にお生まれになった(注:生年月日は本書宝亀六年の勅による)。
¶天平九年九月、従四位下に叙せられた。
¶天平宝字三年六月、従三位に叙せられた。六年十二月、中納言に任じられた。八年九月、正三位に叙せられた。
¶天平神護元年正月、勲二等を授けられた。二年正月、大納言となった。
¶天皇は寛仁で情け深く、度量が広かった。天平勝宝以来、国家には皇太子が定まらず、人々は互いに疑い合い、罪に問われて廃される者が多かった。天皇は思わぬ災いを深く恐れ、酒に身をやつして自らの才知を隠したため、たびたび難を免れた。
¶神護景雲四年、八月四日癸巳、称徳天皇(しょうとくてんのう)が崩御した。従四位上の藤原百川(ふじわらのももかわ)は、左大臣藤原永手(ふじわらのながて)、右大臣吉備真備(きびのまきび)、参議藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ)・藤原縄麻呂(ふじわらのなわまろ)・石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、近衛大将藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)らとともに、禁中で策を定めた。即日、称徳天皇の遺詔によって天皇を皇太子に奉じた(注:本書には百川の名が見えないが、今は公卿補任・水鏡による)。六月乙未、天下に喪を発せしめ、服喪の期間を一年と定めた。近江(おうみ)の兵二百騎を差し向け、宮門を守衛させた。十七日丙午、称徳天皇を葬った。僧の道鏡(どうきょう)は梓宮(しきゅう、天皇の棺)を奉じて廬陵(ろりょう)の下にとどまった。二十一日庚戌、道鏡を貶(おと)して下野薬師寺(しもつけやくしじ)の別当とする令を下した。二十二日辛亥、大納言弓削浄人(ゆげのきよひと)とその子広方(ひろかた)らを土左(とさ)に流した。二十六日乙卯、河内職(かわちしき)を河内国(かわちのくに)に復した。九月三日壬戌、員外の官の冗員を整理させた。六日乙丑、流人の和気清麻呂(わけのきよまろ)を召還した。二十二日辛巳、天下に大祓を行わせた。二十三日壬午、一年の服喪期間を停止し、天下を平常に戻した。十月己丑朔、皇太子が大極殿(だいごくでん)において天皇の位に即いた。時に62歳であった(注:年齢は水鏡・歴代皇紀、および本書に崩年73歳とある記述による)。これより先、肥後(ひご)の連(むらじ)が白亀を献じていた。詔を宣して、「神護景雲四年を改めて宝亀元年とする。天下に大赦を行い、高齢者・貧窮の者および孝行者・義人を賑わし助け、天下の今年の田租を免ずる」と告げた。左大臣藤原永手、右大臣兼中衛大将吉備真備は、ともに元のままとされた(注:左大臣以下の記述は公卿補任による)。
¶宝亀元年庚戌、冬十月八日丙申、吉備真備が中衛大将を罷めた。十一月六日甲子、亡き父君を追尊して春日宮天皇と申し上げた(注:帝王編年記には翌年二月のこととするが、誤りである)。天皇の兄弟姉妹および皇子たちは、みな親王とされた。妃の井上内親王(いのえないしんのう)を皇后に立てた。十日戊辰、甕原(みかのはら)に行幸した。二十七日乙酉、先の廃帝(淳仁天皇)方に与した逆党を赦す旨の勅を下した。
¶二年辛亥、春正月十三日辛未、天下の吉祥悔過(きちじょうけか)の法会を停止した。二十三日辛巳、皇子の他戸親王(おさべしんのう)を皇太子に立て、大納言大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)を東宮傅(もりやくのかみ)とした。天下に大赦を行った。二月十三日庚子、交野(かたの)に行幸した。十四日辛丑、そのまま難波宮(なにわのみや)に行幸した。二十一日戊申、車駕が竹原井行宮(たかはらいのあんぐう)に還ったところ、旗竿が理由もなく自ら折れた。二十二日己酉、左大臣藤原永手が薨じた。三月戊午朔、大宰府(だざいふ)が白雉を献じた。五日壬戌、天下諸国に疫神を祭らせた。十三日庚午、大納言大中臣清麻呂を右大臣とし、正三位藤原良継(ふじわらのよしつぐ)を内臣(うちつおみ)とした。この月、右大臣吉備真備が致仕した(注:致仕の時期は、本書六年十月の真備薨去の条、および公卿補任による)。閏月十八日乙巳、壱岐島(いきのしま)が白い雄鶏を献じた。夏五月二十二日己酉、右京の人が字を成した蚕(かいこ)を献じた。二十七日甲寅、初めて春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の忌日の斎会を川原寺(かわらでら)で設け、国忌(こくき)とした(注:国忌については三代実録の元慶八年の記事による)。六月十六日乙丑、旱(ひでり)のため丹生川上神(にうかわかみのかみ)に馬を奉った。秋九月二十二日乙巳、左右の平準署(へいじゅんしょ)を廃止した。冬十一月十八日庚子、使者を遣わして伊勢(いせ)に斎宮を造営させた。二十一日癸卯、大嘗祭を行った。二十九日辛亥、星が西南に隕(お)ち、雷のような音がした。十二月癸丑朔、日食があった。十五日丁卯、生母の紀氏を追尊して皇太后とし、その墓を山陵と称し、国忌を置いた。この年、石見(いわみ)が飢饉となり、賑給を行った。
¶三年壬子、春正月三日甲申、渤海(ぼっかい)が使者を遣わして朝貢してきたが、表文に無礼があったため、これを退けた。二月十七日戊辰、右大臣大中臣清麻呂の邸に行幸した。二十四日乙亥、旱のため丹生川上神に馬を奉った。丁卯、内堅署(ないけんしょ)および外衛府(がいえふ)を廃止した(注:今、干支を推算すると、丁卯は十六日にあたり、本書では乙亥の下に記されているので、「卯」は「丑」の誤りかと思われる。丁丑であれば二十六日にあたる)。三月二日癸未、皇后井上内親王が巫蠱(ふこ、呪詛)の罪に座して廃された。十五日丙申、出羽国(でわのくに)の国司・戸に対する徭役を初めて免じた。夏四月十八日戊辰、天下に大赦を行った。二十九日己卯、西大寺(さいだいじ)の西塔に落雷があった。五月二十六日丙午、西北の空中に雷のような音がした。二十七日丁未、皇太子他戸親王を廃した。六月庚戌朔、日食があった。四日癸丑、参河(みかわ)が白い烏を献じた。十五日甲子、宮中および京師の諸寺、天下の国分寺・金光明寺において仁王会を設けた。十六日乙丑、虹が日を繞(めぐ)った。十九日戊辰、京師に隕石が数日にわたって落ち、大きさは柚子ほどであった。二十三日壬申、旱のため畿内諸社に幣を奉った。秋七月二十二日辛丑、上総(かずさ)が前蹄が牛に似た馬を献じたが、これが偽りであったため、国司の介らを罰し、本人には杖八十の刑を科した。八月六日甲寅、難波内親王(なにわないしんのう)の邸に行幸した。この日、大風雨があり、木を抜き屋根を吹き飛ばした。占ったところ、伊勢の月読神(つきよみのかみ)の祟りであるとされ、毎年九月に荒祭神(あらまつりのかみ)に准じて馬を奉ることとなった。十八日丙寅、使者を淡路(あわじ)に遣わし、廃帝(淳仁天皇)を改葬した。この月、長雨と大風により、河内の堤が二十二か所決壊した。九月三日庚辰、山背(やましろ)が連理の木を献じた。二十六日癸卯、使者を六道に遣わして被害を調べさせた。冬十月十日丁巳、大宰府が、「去年五月、豊後(ぶんご)の速見郡で山崩れが起き、谷川が塞がれて民家が流されました」と言上した。詔して調庸を免じ、賑給を行った。十一日戊午、肥後の葦北郡・八代郡が、それぞれ白亀を献じた。十四日辛酉、墾田の禁を除いた。十一月十日丙戌、詔して、風雨が不順で年々飢饉が続いていることから、天下の国分寺の吉祥悔過を復活させた。十一日丁亥、詔して、京畿七道で風害に遭った者の田租を免じた。十三日己丑、酒人内親王(さかひとないしんのう)を伊勢斎王とした。十二月十三日己未、星が雨のように隕ちた。二十三日己巳、彗星が南方に現れ、百人の僧を召して楊梅宮(やまもものみや)で斎会を設けた。二十五日辛未、山背の水雄岡(みずおのおか)に行幸した。二十九日乙亥、馬が的の門の土牛(どぎゅう)や人形(ひとがた)を嚙む出来事があった。この年、尾張(おわり)が飢え、讃岐(さぬき)に疫病が流行し、それぞれ賑給を行った。
¶四年癸丑、春正月二日戊寅、皇子で中務卿の山部親王(やまべしんのう)を皇太子に立てた。天下に大赦を行った(注:本書は正月と二月の干支の順序が錯乱しているので、今は甲子から推算して訂正した。水鏡・歴代皇紀を見ると、十四日に皇太子を立てたとある。十四日は庚寅にあたり、どちらが正しいか分からない。今はひとまず本書に従う)。七日癸未(注:本書は辛未に作るが、今推算するとこの月に辛未の日はない。赦免の詔に「正月七日未明以前」とある文、および重閣中院で宴を催し物を賜ったとの記述からすれば、七日であることは明らかである。おそらく「癸」を「辛」に誤ったものであろう。ゆえに今これを訂正する)、詔して、「朕は徳が薄いにもかかわらず、かたじけなくも大いなる基業を受け継いだ。徳による教化はいまだ行き渡らず、常に深く民を思う心を抱いている。災異がしばしば起こり、いよいよ深淵に臨むような思いを強くしている。今、初春の暦が開け、和やかな風が万物を吹き動かし、天地は仁を施し、動植物はその恵みを仰いでいる。時節に従うことを思い、広く寛大な恩赦を及ぼすべきである。天下に大赦を行うべし」と仰せられた。二月十七日壬戌、地震があった。二十七日壬申、楊梅宮が完成し、そこへ遷り住んだ。乙亥の晦、地震があった。三月十三日戊子、旱のため丹生川上神に馬を奉った。十四日己丑、天下の穀物が高騰したため、朝議で常平法(じょうへいほう)を定めた。使者を七道に遣わして穀物を売り渡して民を救済させ、私米を安く売る者には位を授けることとした。夏四月十八日壬戌、勅して、「朕は四海に君臨し、万民を子のように育て、徳を崇びて食を忘れ、刑罰を恤(あわ)れんで寝ることも忘れている。それでも徳による教化は行き渡らず、災異がしばしば起こる。これを思うにつけ、自らを省みて恥じるばかりである。法を定めるのは刑罰をなくすためであるとはいえ、罪を見るにつけなお涙を流さずにいられない。万物が生い育つこの時節に、広く寛大な恩恵を施すべきである。天下に大赦を行うべし。天平宝字元年・八年の逆党で、遠近に配流された者は、みなこれを赦し、自由の身とせよ。ただし高元度(こうげんど)および強盗・窃盗の二罪については、赦しの限りではない」と仰せられた。二十三日丁卯、丹生川上神に馬を奉った。五月乙亥朔、旱のため畿内諸社に幣を奉った。二日丙子、雨が降った。二十七日辛丑、南北にそれぞれ一つずつ星が隕ち、大きさは瓫(ほとぎ、甕)ほどであった。六月乙巳朔、日食があった。二日丙午、長雨が降った。十四日戊午、渤海の使者が能登(のと)に到着した。使者を遣わしてその無礼を責め、退けた。秋七月十日癸未、天下諸国で疫神を祭った。八月八日辛亥、長雨が降った。二十七日庚午、これより先、下野・上野の正倉が火災に遭っていた。ここに至り、諸国の郡司で官物を焼失させた者は、その現職を解くよう勅した。壬申の晦、地震があった。九月十五日丁亥、常陸(ひたち)が白鳥を献じた。冬十月癸卯朔、地震があった。四日丙午、また地震があった。十二月二十五日乙未、勅して、「福田(ふくでん)を増し、仏教の広い救済に頼る。国運を隆盛にするのは、大悲の神々しい功徳による。このため、近ごろ薬師経に依って僧を招き斎会を設けた。放生(ほうじょう)に及んでは、理として急ぐべきことである。加えて、陽気が動き始め、仁の風が扇ぎ渡ろうとしている。この時節に順って、恵み深い恩沢を施したいと思う。天下に大赦を行うべし」と仰せられた。この日、備前(びぜん)が「連理の木があった」と言上した。この年、大納言藤原魚名(ふじわらのうおな)が近衛大将を兼ねた(注:本書には魚名を大将としたとは記されていないが、九年三月に魚名が内臣となった条に「近衛大将は元のまま」と記されている。公卿補任はこれを本年のこととする。今はこれに拠った)。左右京・志摩(しま)・尾張が飢え、参河・近江・飛騨(ひだ)・出羽(でわ)が大風に見舞われ、それぞれ賑給を行った。伊賀(いが)に疫病が流行し、医薬を給した。
¶五年甲寅、春正月二十日庚申、詔して、「蝦夷(えぞ)の俘囚(ふしゅう)の入朝を停止する」とした。二十五日乙丑、山背が、「去年十二月、乙訓社(おとくにのやしろ)で狼や鹿、野狐が毎夜百頭ほど集まって鳴き、七日で止んだ」と言上した。二月三日壬申、疫病を祓うため天下諸国で七日間読経させた。三月四日癸卯、新羅(しらぎ)の使者が来た。その無礼を責め、退けた。十八日丁巳、員外の国司を廃止する勅を下した。夏四月十一日己卯、疾疫が流行しているため、文武百官と天下の百姓に摩訶般若波羅蜜を念誦させる勅を下した。二十二日庚寅、旱のため丹生川上神に馬を奉った。六月五日壬申、豺狼(さいろう、山犬と狼)の怪異のため、乙訓社に幣を奉った。この日、また丹生川上神にも馬を奉った。秋七月十日丁未、上総が白鳥を献じた。二十三日庚申、陸奥(むつ)の鎮守将軍大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)に蝦夷を討たせる勅を下した。八月二日己巳、坂東八国(ばんどうはちこく)に、「陸奥から急を告げてきたら、速やかに兵を発して赴き援けよ」と勅した。二十二日己丑、新城宮(にいきのみや)に行幸した。九月六日壬寅、諸国の溝池を修めさせた。七日癸卯、使者を遣わして天下の被害を調べさせた。二十五日辛酉、使者を五畿内に遣わし、陂池(ためいけ)を修造させた。冬十月四日庚午、大伴駿河麻呂らが蝦夷を討ち平らげ、使者を陸奥に遣わして宣慰した。十一月九日甲辰、坂合部内親王(さかいべないしんのう)の邸に行幸した。十二月、初めて方広悔過(ほうこうけか)の法会を宮中に設けた(注:二月以下の記述は年中行事・公事根源による。○案ずるに、後世の仏名会の儀式はここに始まる)。この年、京師および大和(やまと)・河内・志摩・尾張・参河・近江・美濃(みの)・飛騨・若狭(わかさ)・能登・伊予(いよ)・土左・讃岐が飢え、いずれも賑給を行った。
¶六年乙卯、春正月三日丁酉、勅して、「三春(さんしゅん)が初めて開け、万物は改まり、天地は仁を行い、動植物はその恵みに霑(うるお)う。古の明君は、この良き時にあたって必ず恩徳を布き、広く慈しみの令を施した。朕は徳薄いとはいえ、どうしてこれに倣わずにいられようか。天下に大赦を行うべし」と仰せられた。二月八日辛未、地震があった。十三日丙子、使者を伊勢に遣わし、渡会郡(わたらいぐん)の堰や溝を修めさせた。三月二十二日丙辰、去年の蝦夷の騒乱により田畑が荒廃したことから、詔して陸奥の今年の課役と田租を免じた。二十五日己未、田村故宮(たむらのふるみや)で酒宴を催した。群臣が寿(ことほ)ぎを奉り、物を賜ること差(しな)があった。夏四月七日己巳、河内・摂津(せっつ)で、鼠が五穀や草木を食い荒らした。使者を遣わして諸国の神社に幣を奉らせた。十三日乙亥、近江が白亀を献じた。十五日丁丑、山背が白雉を献じた。二十七日己丑、廃后の井上内親王と庶人となった他戸がともに死去した。五月四日丙申、地震があった。十四日丙午、白い虹が空を横切った。六月十九日辛巳、正四位下佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を遣唐大使とし、正五位上大伴益立(おおとものますたて)、従五位下藤原鷹取(ふじわらのたかとり)を副使とした。二十二日甲申、使者を遣わし畿内諸国で疫神を祭らせた。二十五日丁亥、旱のため丹生川上神に馬を奉り、雲を興し雨を降らせる霊験のある畿内諸国の神社に幣を奉った。秋七月十六日丁未、下野(しもつけ)が、「都賀郡(つがぐん)に黒鼠が数百おり、草木の根を数十里にわたって食い荒らした」と言上した。十九日庚戌、雹(ひょう)が降った。八月十二日癸酉、初めて蓮葉(はちすば)の宴を設けた。十九日庚辰、これより先、勅して、「京官は俸禄が薄く、飢寒の苦しみを免れない。国司は利益が厚く、自ら衣食の豊かさがある。このため、多くの官人がみな地方赴任を望み、士人には廉恥の心がなくなってしまった。朕は天下に君臨し、志は公平を期すことにある。諸国の公廨(くがい)を割いて、京官の俸禄に加えたいと思う」と仰せられていた。ここに至り太政官が、「諸国ごとに公廨の四分の一を割いて、京官の俸禄に加えます」と奏上し、裁可された。二十二日癸未、伊勢・尾張・美濃が、「大風雨があり、民家を壊し、人や家畜が多く死にました」と言上した(注:本書には「三国が『九月日、異常な風雨があった』と言った」とあるが、「九月日」の三字はおそらく誤りであろう。日本紀略にはこの三字がないので、今はこれに従う)。使者を遣わして斎宮を修理させ、被災した百姓を調べさせた。この日、五畿内で疫神を祭った。辛卯の晦、大風雨のため大祓を行った。九月十六日丙午、河内が白亀を献じた。二十一日辛亥、長雨のため丹生川上神および畿内諸神に白馬と幣を奉った。冬十月辛酉朔、日食があった。二日壬戌、前右大臣吉備真備が薨じた。六日丙寅、地震があった。十三日癸酉、天皇の誕生日であった。これより先、この日を天長節(てんちょうせつ)と名付け、諸寺の僧尼に毎年この日、経を転読し行道させ、国内での屠殺を禁じる勅を下していた。ここに至り大酺(たいほ、酒宴)を行い、群臣に物を賜ること差があった。出羽が、「蝦夷がまだ平定されていないので、鎮兵を置いてください」と言上した。勅して、「相模(さがみ)・武蔵(むさし)・上野(こうずけ)・下野の兵士を差し発せ」と命じた。十九日己卯、二百人の僧を召し、宮中および朝堂で大般若経を読ませた。二十四日甲申、風雨と地震のため大祓を行った。二十五日乙酉、大神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に幣帛を奉った。十一月六日丙申、使者を五畿内に遣わし、溝池を修めさせた。七日丁酉、大宰府が、「日向(ひゅうが)・薩摩(さつま)で、風雨により桑や麻が損なわれました」と言上した。詔して今年の調庸を免じた。この年、和泉(いずみ)・参河・信濃(しなの)・丹後(たんご)・備前・讃岐が飢え、賑恤を行った。
¶七年丙辰、春正月十九日戊申、検税使(けんぜいし)を七道に遣わした。二月六日甲子、流星があり、大きさは盆ほどであった。夏四月戊午朔、日食があった。十二日己巳、勅して、「神祇を祭ることは、国の大典である。もし誠意と敬意をもって行わなければ、どうして福を招くことができようか。聞くところによれば、諸社では汚れを検めず、春秋の祭祀もまた怠りがちであるという。これによって、めでたい兆しは下らず、災異がしばしば起こっている。諸国に諭し、二度とこのようなことがないようにせよ」と仰せられた。五月二日戊子、出羽の志波村(しわむら)の蝦夷が叛いた。下総(しもうさ)・下野・常陸などの騎兵を発してこれを討たせた。二十九日乙卯、災異がしばしば現れるため、大祓を行った。丙辰の晦、六百人の僧を召し、宮中および朝堂で大般若経を読ませた。六月四日庚申、太白(たいはく、金星)が昼間に現れた。十八日甲戌、旱のため、京畿諸国で大祓を行い、丹生川上神に馬を奉った。秋七月十九日甲辰、西大寺の西塔に落雷があった。八月丙辰朔、使者を遣わして天下の神社に幣を奉らせた。その社の祝(はふり、神官)で掃除を怠り、荒れ果てさせている者は、これを罷めさせた。十三日戊辰、大風があった。この月、天下に蝗(いなご)が発生した。畿内には使者を遣わして巡視させ、諸国には国司に検分させた。閏月二十八日壬子、丹後の女子が一度に三人の男児を産んだので、稲と乳母を賜った。壱岐島(いきのしま)が風害に遭って作物を損じ、今年の調を免じた。九月十三日丁卯、陸奥の俘囚を筑紫(つくし)に配した。二十日甲戌、天皇が大蔵省に行幸し、供奉した五位以上の者に物を賜り、それぞれの力に応じて取らせた。この月、毎夜、内豎曹司(ないじゅのぞうし)の京師の屋上に瓦や石が落ち、二十日余り経って止んだ。冬十月九日癸巳、地震があった。十一日乙未、陸奥はたびたび戦を経て百姓が疲弊しているため、今年の田租を免じた。十一月二日丙辰、地震があった。二十六日庚辰、陸奥の兵を発し、胆沢(いさわ)の賊を討たせた。癸未の晦、出羽の俘囚を筑紫および讃岐に配した。十二月十四日丁酉、遣唐副使大伴益立を罷め、左中弁小野石根(おののいわね)、備中守大神末足(おおみわのすえたり)をこれに代えた。陸奥の百姓で奥郡を守る者には、三年の復(ふく、課役免除)を給した。
¶八年丁巳、春正月三日丙辰、内臣藤原継(ふじわらのつぐ)を内大臣とした。二月二十八日庚戌、使者を五畿内に遣わし、疫神を祭らせた。壬子の晦、日食があった。三月癸丑朔、田村故宮で酒宴を催した。十六日戊辰、大納言藤原魚名の邸に行幸した。十九日辛未、宮中にしばしば怪異があったため、大祓を行った。二十一日癸酉、六百人の僧を宮中に召し、大般若経を読ませた。夏四月五日丙戌、雹が降った。十三日甲午、雨水があり、太政官庁に落雷した。二十二日癸卯、渤海が使者を遣わして朝貢し、即位を祝賀した。これより先、遣唐大使佐伯今毛人は病のため出発できなかったので、副使小野石根に節刀を持たせて大使の任を代行させる勅を下していた。五月七日丁巳、重閣門に出御し、騎射を観覧した(注:案ずるに、孝謙天皇は聖武天皇の忌月にあたるため端午の節を廃したが、ここに至ってまた行われたので、「廃」「置」と書き分けているのであろう。しかしこの後は記されていない。この件は文武紀大宝元年の説に見えるが、何ゆえ七日まで延びたのかは分からない。類聚国史はこれを五日の節会の記事に載せており、今はこれに拠った)。十三日癸亥、長雨のため丹生川上神に馬を奉った。六月十八日戊戌、楊梅宮の南池に双頭の蓮が生えた。秋八月八日丙戌、長雨のため丹生川上神に馬を奉った。十一日己丑、従三位藤原曹子(ふじわらのそうし)を夫人とした。九月十五日癸亥、軍を発して賊を討たせたことにより、陸奥の今年の調庸・田租を免じた。十八日丙寅、内大臣藤原良継が薨じた。冬十月戊申の晦、天下に大赦を行った。十一月十八日丙寅、長門(ながと)が白雉を献じた。十二月二十五日壬寅、皇太子が病んだため、使者を遣わして五畿内諸社に幣を奉らせた。この冬、雨が降らず、井戸や泉がみな涸れた。この年、伯耆(ほうき)・隠岐(おき)・讃岐が飢え、賑給を行った。
¶九年戊午、春正月戊申朔、皇太子が病んでいたため、朝賀を廃した。二十日丁卯、井上内親王を改葬した。二月二十三日庚子、参議藤原百川に中衛大将を兼ねさせた。三月三日己酉、大納言藤原魚名を内臣とした。土左が、「去年七月、大風雨があり、家屋を壊し、人や家畜が流されました」と言上した。詔して賑給を行った。二十日丙寅、東大寺・西大寺・法隆寺の三寺で誦経を行わせた。二十三日己巳、廃帝(淳仁天皇)の墓を山陵と称し、守戸(しゅこ)を置く勅を下した。二十四日庚午、天下に大赦を行い、三十人を得度させた。二十七日癸酉、大祓を行った。使者を遣わして伊勢神宮および天下の神社に幣を奉らせ、皇太子の病の平癒を祈らせた。この日、畿内で疫神を祭った。丙子の晦、内臣藤原魚名を改めて忠臣(ちゅうしん、内臣に同じ称)とした。夏四月八日甲申、摂津が白鼠を献じた。十八日甲午、右大臣大中臣清麻呂の邸に行幸した。五月二十一日丁卯、地震があった。二十五日辛未、また地震があった。六月二十五日庚子、陸奥・出羽の国司以下で戦功のあった者二千二百六十七人に爵位を賜った。二十七日辛丑、特に参議藤原是公(ふじわらのこれきみ)、肥後守藤原是人(ふじわらのこれひと)を遣わし、広瀬(ひろせ)・竜田(たつた)に幣帛を奉らせ、風雨が調和して秋の稼穡(かしょく)が豊かに実るよう祈らせた。秋七月九日癸丑、飛騨が、「慶雲が見えた」と言上した。八月甲戌朔、日食があった。冬十月二十五日丁酉、皇太子は病のため伊勢に参詣し、自ら神宮を拝んで、宿願の平癒を祈った。十二月十一日癸未、大宰府が白鼠を献じた。
¶十年己未、春正月壬寅朔、忠臣藤原魚名を内大臣とした。五日丙午、渤海が使者を遣わして朝貢した。三月十日辛亥、遣唐副使大神末足らが唐から帰国した。夏四月十九日己丑、夜、暴風雨があり、木を折り屋根を吹き飛ばした。五月三日癸卯、唐の使者孫興進(そんこうしん)らが来た。十七日丁巳、朝堂で唐の使者をもてなし、位を授け物を賜った。六月二十三日辛酉、周防(すおう)の男子が自ら他戸皇子(おさべのみこ)と称し、百姓を惑わしたので、伊豆(いず)に流した。秋七月戊辰朔、日食があった。九日丙子、参議兼中衛大将藤原百川が薨じた。八月二日己亥、因幡(いなば)が、「暴雨があり、山が崩れ水があふれ、人や家畜が押し流され、百姓が飢え苦しんでいます」と言上した。使者を遣わして賑恤を行った。十九日丙辰、天下に大赦を行った。九月四日庚午、中納言藤原縄麻呂に中衛大将を兼ねさせた。十四日庚辰、渤海の鉄利(てつり)の人々三百五十九人を出羽に安置した。冬十一月十九日乙酉、太政官が、「諸国の正税の多くが不足しており、納入が滞っています。諸国の公廨を割いて京官の俸禄に加えることを停止されるよう願います」と奏上した。これを許可した。十二月十三日己酉、中納言兼中衛大将藤原縄麻呂が薨じた。二十五日辛酉、中務卿藤原田麻呂(ふじわらのたまろ)に中衛権大将を兼ねさせた。この年、駿河(するが)が大水に見舞われ飢饉となり、賑給を行った。
¶十一年庚申、春正月丁卯の朝、雨のため朝賀を廃した。五日辛未、新羅が使者を遣わして朝貢した。十四日庚辰、大いに雷が鳴り、京師の数か寺が火災に遭った。十九日乙酉、詔して、「今、四季に従うことは、聖人の重んじる典則である。網を三面だけ張って一面を解き放つのは、哲后の深い仁である。朕は天のみ心を受けて下界に君臨し、政治はまず倹約を先とし、志は民を憂え勤めることにある。道理は行き渡らず、日々の務めに恥じ入るばかりであるが、近くも遠くも安らかで、年は豊かに時は和らいでいる。今、正月の初め、万物はみな改まる。陽気の和らぎに従い、この恵み深い恩沢を広めるべきである。天下に大赦を行い、今年の田租を免ずる」と仰せられた。二十日丙戌、詔して、「先ごろ天が譴責(けんせき)を告げ、伽藍(がらん)が火災に遭った。これを思うにつけ、深く悚(おそ)れ悼む思いである。朕の不徳ゆえにこの咎めに遭ったとはいえ、仏門の者たちにも恥じるところがないと言えようか。聞くところによれば、僧尼の行いは俗人と変わらないという。上は仏の慈しみの教えに背き、下は国の法を犯している。僧綱(そうごう)がこれを率いて正さなければ、誰がこれを正すことができようか」と仰せられた。二月二日丁酉、陸奥が、「覚鼈城(かくべつじょう)を築いて、蝦夷に備えたい」と奏請した。これを許した。三月十六日辛巳、太政官が、「官を分かち職を設けるのは、数を多くするためではない。風教を広め民を導くには、簡にして要を得ることが肝要である。それゆえ、令を制定した当時は官員の数を限り、才を量って能を授け、職務は滞ることがなかった。今は官が多く事が煩雑で、いたずらに食む者が多い。穀物や布は生み出しにくいのに、これを用いること節度がない。一年不作となれば、たちまち民に菜色(食糧不足の顔色)が現れる。古は人が多く田が少なくとも蓄えがあったのは、用を節したからである。今は土地が開け戸数は減ったのに不足を患うのは、費えが多いためである。臣らが思いますに、今の急務は、官を省き役を休め、上下心を一つにして、ひたすら農事に努め、あわせて官員を省くことです。そうすれば倉庫は満ち礼儀が行われ、国の用は足りて廉恥の心も興るでしょう」と奏上した。また、「今、諸国の兵士は多くが弱々しく、いたずらに身を庸(やとい)役から免れさせるばかりで、公の用に立ちません。国司や軍毅(ぐんき)は勝手にこれを使役し、騎射も習わせず、ただ草刈りばかりさせています。これで戦に赴けば、兵を捨てるも同然です。どうか三関の要地を除いて、国の大小に応じて定員を定め、富裕な百姓で弓馬に長じた者を選び、専ら武芸を習わせて徴発に備えさせてください。弱い者はみな農事に従事させます。これは守備を整え、無駄な費えを省く道です」と奏上した。いずれも許可された。二十二日丁亥、陸奥が、「上治郡(かみはりぐん)の大領伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、按察使(あぜち)紀広純(きのひろずみ)を殺しました。蝦夷が大いに乱れています」と言上した。二十九日癸巳、中納言藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を征東大使とし、正五位上大伴益立、従五位上紀古佐美(きのこさみ)を副使とした。甲午の晦、従五位下大伴真綱(おおとものまつな)を陸奥鎮守副将軍、従五位上安倍家麻呂(あべのいえまろ)を出羽鎮狄将軍として、蝦夷を討たせた。夏四月十八日壬子、左京の女子が一度に三人の男児を産んだので、稲と乳母を賜った。六月二十八日辛酉、伊勢が、「鈴鹿関(すずかのせき)の西内城の鼓が自然に鳴った」と言上した。秋七月十五日丁丑、沿海諸国に勅を遣わして厳しく警備させた。二十二日甲申、伊予(いよ)の人越智静養(おちのしずかい)の娘が、私財をもって窮民百五十八人を養った。爵二級を賜った。九月二十三日甲申、正四位下藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を持節征東大使とした。冬十月三日癸巳、左兵庫の鼓が自然に鳴った。十二月四日甲午、左右京に勅して、「聞くところによれば、寺を造るために墳墓をことごとく壊し、その石を採り用いているという。これは鬼神を侵し驚かせるだけでなく、実に子孫を憂え傷つけるものである。今後はこれを固く禁じよ」と仰せられた。十四日甲辰、また勅して、「左右京の無知な百姓が、巫女や覡(かんなぎ)を招いて淫祀を崇め奉っている。芻狗(すうく、藁人形)や符書によって、あらゆる方法で怪しげなことを行い、福を招くと称して人を呪う所業にまで及んでいる。厳しくこれを禁じよ」と仰せられた。この年、駿河・伊豆が飢饉と疫病に見舞われ、賑恤を行った(注:続日本紀による)。
¶天応元年辛酉、春正月辛酉朔、詔して、「天を大いなるものとし、これに則るのが聖人である。民を心とし、これを育むのが仁君である。朕は徳薄いにもかかわらず、かたじけなくも宝の基を受け継ぎ、万民に益することなく、いたずらに一紀(いっき、十二年)を過ごしてしまった。恵みの沢は塞がって流れず、憂いと恐れが交々積もるばかりである。日々自らを慎み、常にこのことを心に留めている。近ごろ役人が、『伊勢の斎宮に美しい雲が現れ、まさに大瑞に合致します』と奏上した。かの神宮は国家の鎮めとするところであり、天から応じられたのであれば、吉として利あらざるはない。天下に大赦を行い、改元して天応とする。天下の老人には粟を賜り、身寄りのない者や自ら生計を立てられない者には、それぞれに応じて救済を加える。孝子・順孫・義夫・節婦にはその門閭(もんりょ、家の入り口)に表彰の印を立て、生涯課役を免ずる。また呰麻呂らにたばかられて従った百姓で帰順した者には、三年の復を給する。諸国から陸奥・出羽の役に従った壮丁には、今年の田租を免ずる」と仰せられた。三月六日乙丑、地震があった。二十五日甲申、御不例(ぎょふれい、ご病気)のため、詔して天下に大赦を行った。二十六日乙酉、美作(みまさか)が、「苫田郡(とまたぐん)の兵庫が雷のように鳴り動いた」と言上した。伊勢が、「鈴鹿関の西中城門の鼓が自然に鳴った」と言上した。この春、下総が飢え、これを賑給した。夏四月己丑朔、左右の兵庫の器械が自然に鳴った。使者を伊勢・美濃・越前に遣わして関を固めさせた。三日辛卯、皇太子に位を譲った。十二月二十三日丁未、天皇が崩御した。御年72歳であった。
¶明くる年正月、天宗高紹天皇(あめむねたかつぎのすめらみこと)と諡(おくりな)し、広岡山陵(ひろおかのみささぎ)に葬った。また光仁天皇とも諡した(注:類聚国史には、「光」を「広」に作るものもある)。
¶延暦五年十月、田原陵(たわらのみささぎ)に改葬した(注:続日本紀による。○延喜式には、陵の上に「東」の字がある)。
¶天皇は、まだ帝位に即かれる前は、その徳の輝きを和らげて人や物事に接しておられた。そして正位に即いて天下に君臨されてからは、政治の大綱を挙げるのみで、細かな詮索にはこだわらなかった。無用の官を省き、その徳化は清らかで簡素なものを尊んだ。これによって宝亀の間、天下は穏やかに治まり、刑罰が用いられることはまれで、遠近の人々は喜んでこれに従った。まことに寛仁大度、人君たる徳を備えていたというべきである。