卷之二百十四 列傳第一百卌一

文學二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次16
  1. 石上宅嗣
  2. 淡海三船
  3. 菅原古人
  4. 菅原淳茂
  5. 菅原輔正
  6. 菅原文時
  7. 菅原為長
  8. 菅野真道
  9. 賀陽豐年
  10. 善道真貞
  11. 藤原關雄
  12. 小野篁
  13. 小野道風
  14. 春澄善繩
  15. 豐階安人
  16. 紀安雄

石上宅嗣

石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)は、左大臣麻呂(まろ)の孫であり、中納言乙麻呂(おとまろ)の子である。生まれつき明朗で聡明であり、立派な容姿を備えていた。学問を好み、経書・史書に広く通じていた。文章にすぐれ、草書・隷書を能くした。称徳天皇の御代に官を重ねて参議に至り、従三位に叙せられ、式部卿を兼ねた。光仁天皇の即位に際しては、その擁立の策謀に参与した。宝亀の初め、太宰帥として都を出た。まもなく式部卿に転じ、中納言に任じられた。宝亀六年、姓を物部朝臣に改めることを願い出た。ほどなく皇太子傅・中務卿を兼ねた。宝亀十年、勅により本姓に復した。翌年、大納言に転じた。天応元年、正三位に進んだ。まもなく薨去した。享年五十三。遺言により葬儀は質素に行われた。詔により正二位を贈られた。天平宝字以後、文章にすぐれた者としては、世に宅嗣と淡海三船(おうみのみふね)とが並び称された。生まれつき山水を愛し、出かけた先では筆を執って詩文を作った。その詩賦数十首が世に伝わっている。かつて自邸を捨てて阿閦寺(あしゅくじ)を創建した。寺内に一院を建て、儒書を蔵し、芸亭(うんてい)と名づけた。自ら記文を作り、閲覧を望む者があれば許すこととした。その院は今も存している。(注:『続日本紀』による。また『高僧伝要文鈔』には、宅嗣は芸亭居士と号し、法名を梵行といった。邸を捨てて寺とし、寺の東南に芸亭院を造り、築山を築き沼を穿ち、竹を植え花を栽えた。その西南に禅門を構え、東北に方丈室を建てた。かつて三蔵讃を作り、遣唐使に託して唐に送った。唐の内道場の僧飛錫はこれを嘆賞して、「毘羅邪国に長者の子あり、日本国に維摩詰あり」と言ったという。)

淡海三船

淡海三船(注:三は御とも書く)は、葛野王(かどののおおきみ)の孫であり、父を池辺王(いけべのおおきみ)という。三船は初め諸王であったが、天平勝宝三年に淡海真人の姓を賜り、まもなく内豎となった。(注:『高僧伝要文鈔』にいう、淡海居士とは三船のことである。幼くして出家し、名を元開といった。天平勝宝年間、勅により還俗を命じられて姓を賜った。入唐して学ぼうとしたが、病のため果たせなかった。常に梵行を修めていたという。)八歳のとき藤原仲麻呂に譴責され、衛士府に幽閉された。その後、尾張介として都を出て、正六位上を授けられた。天平宝字年間、山陰道巡察使となった。まもなく従五位下に進み、参河守・文部少輔を歴任した。天平宝字八年、美作守に遷り、造池使となって近江の陂池を修めた。仲麻呂が反乱を起こし近江に拠ろうとして、まず使者を遣わし国中の兵馬を徴発させようとした。三船はそのとき勢多におり、判官の佐伯三野(さえきのみの)と謀り、その使者と一味の者を捕縛した。この功により正五位上勲三等を授けられ、近江介となり、中務大輔に遷って侍従を兼ねた。神護二年、功田二十町を賜り、子に伝えることを許された。まもなく東山道巡察使に補せられた。神護景雲の初め、兵部大輔を加えられた。都に還って裁いた事案の結果を上申したが、意に沿わなかったため、太宰少弐に落とされた。宝亀年間、しだいに刑部大輔に遷り、大判事・大学頭を歴任し、文章博士を兼ね、従四位下に進んだ。延暦の初め、因幡守を兼ね、刑部卿となった。延暦四年、卒した。享年六十四。三船は聡明で、多くの書物に広く通じ、文章にすぐれ、当時名声が高かった。(注:『続日本紀』による。)かつて勅を奉じて神武天皇以来の諡号を定めた。(注:『釈日本紀』が引く私記による。)その後裔である浜成(はまなり)・高主(たかぬし)およびその同族九人は、貞観年間に淡海朝臣の姓を賜った。(注:『日本三代実録』による。)

菅原古人

菅原古人(すがわらのふるひと)は、阿波守宇庭(うにわ)の子である。(注:『菅原系図』による。)本姓は土師宿禰(はじのすくね)といい、正六位上に叙せられた。宝亀の末、外従五位下に進んだ。天応元年、遠江介となり、従五位下に進んだ。同族の道長(みちなが)ら十五人とともに上言した。「土師氏の先祖は、天穂日命(あめのほひのみこと)から出ています。その十四世の孫にあたる野見宿禰(のみのすくね)が、私どもの遠祖です。昔、垂仁天皇の御代には、古い風習がなお残り、葬礼に節度がありませんでした。凶事のたびに、多くは殉死者を埋めることが行われていました。あるとき、皇后が薨去され、御棺が庭に安置されました。天皇は群臣を顧みて『後宮の葬礼はどのようにすればよいか』と問われました。皆は『倭彦王子の先例にすべて従うべきです』と答えました。ところが野見宿禰だけが進み出て申しました。『私が思いますに、殉死者を埋める儀礼は、仁政に著しく反するものであり、実に国を益し民を利する道ではございません。私に工夫の機会をお与えいただければ、この事を処理いたします』と。そこで土部(はじべ)三百余人を率い、埴土で様々な物の像を作って進上しました。天皇は大いに喜ばれ、これを埴輪と名づけられました。いわゆる立物がこれです。これはひとえに昔の聖人の仁徳であり、先祖の遺した恩愛です。後世に恩恵を垂れ、人々はこれに頼っています。ところが祖先の事業を見ますと、吉事と凶事とが相半ばしています。もし忌日には凶事を掌り、祭日には吉事にあずかるというのであれば、そのような奉仕は道理にかなうものでしょう。しかし今はそうではなく、もっぱら凶事にのみあずかっております。祖先の事業の本旨を考えますと、その意図はここにはありません。どうか、居住する地名にちなんで、土師の姓を菅原に改めることをお許しください」と。これが許された。このとき兄の安人(やすひと)は任地にあって姓を改めず、延暦の初め、秋篠朝臣の姓を賜ることを奏請した。(注:『続日本紀』による。安人を古人の兄とするのは『系図』による。)古人は儒者としての行いが世に抜きんでており、世俗に安易に迎合しなかった。没した後、家に余財はなく、子供たちは貧窮に苦しんだ。(注:『続日本後紀』による。)延暦年間、侍読としての功労を追賞して、その子四人に衣食を給し、学業に励ませた。(注:『続日本紀』による。)学料が給されるのはこれに始まる。(注:『公卿補任』による。古人の没年は諸書に記載がなく、ただ『系図』には弘仁十年に没し享年七十とある。しかし『続日本紀』延暦四年の勅に「故遠江介菅原古人」とあることから、『系図』は誤りとして採らない。)子の清公(きよきみ)、曾孫の道真(みちざね)については、別に伝がある。玄孫は淳茂(あつしげ)。

菅原淳茂

菅原淳茂(すがわらのあつしげ)は、道真の子である。(注:『系図』による。)その才能と文才は父の風格をかなり受け継いでいた。大江匡房(おおえのまさふさ)はかつて、「儒家として家の名声を落とさなかったのは、ただ都在中(みやこのざいちゅう)と淳茂ら三、四人だけである」と言った。淳茂は秀才に挙げられ、対策に及第して文章博士となった。兵部丞・大学頭・右中弁を歴任し、式部権大輔に任じられ、正五位下に叙せられた。(注:『系図』による。)宇多法皇がかつて亭子院で中秋の月を賞でられた際、文人を召して詩を賦させ、淳茂が序を作った。(注:『本朝文粋』による。)法皇は淳茂の詩を見て、「亡き右大臣(菅原道真)にこれを見せられなかったのが残念だ」と嘆じられた。渤海の貢使裴璆(はいきゅう)が来朝した際、淳茂が接待にあたり、詩を裴璆に贈って唱和した。かつて貞観年間、裴璆の父裴頲(はいてい)が使者として来朝し、道真と詩を唱和したことがあった。今回、淳茂の詩が亡き父道真の当時のことに言及していたので、裴璆はこれを読んで感涙した。淳茂と裴璆とは父子二代にわたって巡り会ったことになり、世間ではこれを奇縁とした。(注:『江談抄』による。)淳茂の子在躬(ありみ)は従四位上(注:『系図』による)で勘解由長官となった。在躬の子は輔正(すけまさ)。(注:『公卿補任』による。)

菅原輔正

菅原輔正(すがわらのすけまさ)。輔正は天暦四年、秀才に挙げられ、文章得業生に補された。まもなく対策に及第し、右少弁に補された。大学頭・東宮学士・文章博士を兼任した。(注:『公卿補任』による。)文才によって当時に名声を広め、円融天皇の侍読となった。(注:『古今著聞集』による。)天元年間、太宰大弐に任じられた。長徳二年、参議に任じられた。まもなく式部大輔を兼ね、正三位に進んだ。(注:『公卿補任』による。)敦康親王(あつやすしんのう)が読書を始められた際、輔正が陪席した。その応教の詩に、「頽齢八十有余霜、未だ見ず神聡我が王に似たるを。遺老の愚言、君記し取れ、一経造次にも忘るべからず」とある。(注:『本朝麗藻』による。)寛弘六年、薨去した。享年八十五。(注:『公卿補任』による。)かつて筑紫にあったとき、安楽寺に至り、仏塔がないことを遺憾に思い、多宝塔を創建した。胎蔵界五仏を安置し、法華経千部を蔵し、東御塔と名づけた。僧衆を招き置き、自ら寺務の法規三巻を撰し、諸寺の書庫に蔵した。後人が祠を建て、道真を祀る祠のかたわらでこれを祀った。(注:『古今著聞集』による。)北野宰相と称された。寿永三年、正二位を贈られた。(注:『公卿補任』『古今著聞集』による。)古人の六世の孫は文時(ふみとき)。(注:『系図』による。)

菅原文時

菅原文時(すがわらのふみとき)。文時は、淳茂の兄である右大弁高視(たかみ)の子である。(注:『系図』による。)文才が博く深く、その名声は当時に鳴り響いた。源英明(みなもとのひであきら)・源為憲(みなもとのためのり)・大江匡衡(おおえのまさひら)らは、皆文時に頼んで自分の辞賦を添削してもらった。(注:『江談抄』による。)天慶五年、対策に及第した。内記・式部大輔を歴任し、正四位下に進み、文章博士を加えられ、尾張権守を兼ねた。村上天皇の御代、封事を上って奢侈を禁じ、売官を止め、遠方の人々を懐柔することを説いた。その言葉はきわめて切実であった。(注:『本朝文粋』による。)かつて皇孫源保光(みなもとのやすみつ)の邸で会があり、詩を賦して、「此の花は是れ人間の種に非ず、再び平台に養う一片の霞」と詠んだ。大江朝綱(おおえのあさつな)の詩には、「此の花は是れ人間の種に非ず、瓊樹の枝頭第二の花」とあった。朝綱は笑って、「後世は必ず君と私とを並べて一双と称するだろう」と言った。(注:『江談抄』による。)応和年間、天皇が冷泉院に遊ばれた際、文人を召し、「花光水上に浮かぶ」の題を賜った。文時が序を作った。(注:『日本紀略』による。)その序に、「誰か謂う水に心無しと、濃艶波に臨みて色を変ず。誰か謂う花物言わずと、軽やかに漾いて影唇を動かす」とあり、世に称賛された。(注:『本朝文粋』『和漢朗詠集』による。)ある日の内宴で、群臣に「宮鶯暁光に囀る」を賦させた。天皇の詩には、「露濃く緩やかに語る園花の底、月落ちて高く歌う御柳の陰」とあり、天皇は自ら他の才子には及ばないだろうと思われた。ところが文時が詩を献じて、「西楼月落つ花間の曲、中殿灯残る竹裏の声」と詠んだ。天皇はこれを絶作とし、文時を召してその優劣を尋ねられた。文時は「聖作は臣の及ぶところではございません」と答えた。天皇が重ねて問われてやまなかったので、文時は静かに、「聖作は実に臣に一段劣ります」と答えた。天皇は笑ってこれを是とされた。(注:『江談抄』『今昔物語』による。)晩年は官途が滞った。天元の初め、しきりに従三位への叙位を願い出た。(注:『本朝文粋』による。)天元四年、ついに叙せられた。まもなく薨去した。享年八十四。(注:『公卿補任』による。)菅三品と称された。(注:『本朝文粋』による。)子は雅熙(まさひろ)・輔昭(すけあき)。(注:『系図』による。)ともに文学の才があったが、輔昭が最も著名で、文才は父祖に劣らなかった。(注:『江談抄』による。)大内記に任じられた。(注:『系図』による。)朱雀上皇が(注:『十訓抄』には宇多上皇とあるが誤りであり、ここに訂正する)かつて文人を召して詩を賦させ、輔昭に序を作らせた際、これを院中に留めて外に出さなかった。父の文時が添削するのではないかと配慮したためであった。文が世に出ると、人々は皆その秀逸さに感服した。(注:『本朝文粋』『十訓抄』による。)古人の十三世の孫は為長(ためなが)。(注:『系図』による。)

菅原為長

菅原為長(すがわらのためなが)。為長は、大学頭長守(ながもり)の子である。元暦・正治の間、秀才に挙げられて策試を受け、大舎人助・右衛門少尉となり、検非違使に任じられ、式部少輔・大内記を歴任し、文章博士に遷って侍読となり、式部権大輔に任じられ、従三位に叙せられて大蔵卿となった。嘉禎年間、参議に任じられ、勘解由長官を兼ね、正二位に至った。寛元四年、薨去した。享年八十九。(注:『公卿補任』による。)書をよくし、和歌にすぐれ、朝廷の典故に精通していた。(注:『正徹物語』による。)公卿・士大夫は彼を国家の重鎮として推した。(注:『公卿補任』が引く『平戸記』による。)建保年間、上皇に侍って『貞観政要』を進講した。(注:『明月記』による。)また北条政子の要請により、これを仮名に訳した。(注:『貞永式目抄』による。)著作に『艾鳳鈔』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)子の長貞(ながさだ)・公良(きんよし)・長成(ながなり)・高長(たかなが)は、皆文学の才があった。(注:『系図』による。)

菅野真道

菅野真道(すがののまみち)は、本姓を津連(つのむらじ)といい、その先祖は百済の辰孫王(しんそんおう)から出ている。(注:『続日本紀』による。)父を山守(やまもり)という。真道は、宝亀年間、少内記・近江少目を歴任した。(注:『公卿補任』による。)延暦四年、左兵衛佐として東宮学士を兼ねた。延暦九年、図書頭に至り、伊予守を兼ねた。この年、左中弁百済仁貞(くだらのにさだ)・治部少輔百済元信(くだらのげんしん)・中衛少将百済忠信(くだらのちゅうしん)とともに、表を上って言った。「真道らの本来の系統は、百済国の貴須王(きすおう)から出ています。貴須王は、百済が興って以来第十六世の王です。そもそも百済の太祖である都慕大王(ともだいおう)は、日の神の霊が降り、扶余を得て国を開き、天帝から籙を授かって諸韓を統べて王を称しました。時代が下って近肖古王(きんしょうこおう)の代になり、遥かに我が国の聖化を慕い、初めて本朝に使いを送りました。これは神功皇后が摂政であられた年のことです。その後、軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)で天下を治められた応神天皇の御代に、上毛野氏の遠祖である荒田別(あらたわけ)に命じて百済に遣わし、学識ある者を求めさせました。百済の王である貴須王は、謹んで使者を迎え、一族の中から選び、その孫の辰孫王(注:本書には一名知宗王ともある)を使者に従わせて入朝させました。天皇はこれを喜ばれ、特別な寵愛を加え、皇太子の師とされました。ここに初めて書籍が伝わり、大いに儒教の風が興りました。文教の興りは、まことにここにあります。難波高津宮(なにわのたかつのみや)で天下を治められた仁徳天皇の御代、辰孫王の長子太阿郎王(たあろうおう)が近侍となりました。太阿郎王の子は亥陽君(がいようくん)、亥陽君の子は午定君(ごじょうくん)です。午定君は三人の男子を生み、長子を昧沙(まいさ)、次子を辰爾(しんに)、末子を麻呂(まろ)といいます。これより分かれて、初めて三つの姓となりました。それぞれの職掌により氏を称するようになり、葛井(ふじい)・船(ふね)・津(つ)連などがこれです。他田宮(おさだのみや)で天下を治められた敏達天皇の御代に至り、高麗国が使者を遣わして烏羽の表を献上しましたが、群臣も諸史も誰も読むことができませんでした。ところが辰爾が進み出てその表を取り、巧みに読んで書き写し、表文の内容を詳しく奏上しました。天皇はその篤学を嘉され、深く賞賛されました。伏して思いますに、皇朝は天に則って教化を布き、古を稽えて風儀を垂れ、恩沢は広く諸方に行き渡り、叡智による政治はあらゆる物にまで及んでいます。それゆえ廃れたものを修め絶えたものを継ぐことができ、万民は仰いでその恩恵に浴し、名を正し物事の理を弁えることができ、四海の人々は帰服してそれぞれふさわしい所を得ています。およそ生命あるものは、喜び躍らない者はありません。真道らの先祖は、聖朝に仕えてより、すでに年代が久しく遠くなっています。家は代々文雅の業を伝え、一族は大学寮の職を掌ってきました。真道らは、めぐり会わせよく盛んな御代に生まれ、天恩に浴することができました。伏してお願い申し上げますに、連の姓を改めて、朝臣の姓を賜りますように」と。そこで勅により、居住地にちなんで今の姓を賜った。翌年、治部少輔を兼ねた。この秋、管内から百羽の雀が献上されたことにより、正五位下に進んだ。(注:『続日本紀』による。)治部大輔・民部大輔を歴任した。(注:『公卿補任』による。)新京の造営に際しては、右少弁藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)とともに宅地を分配した。(注:『日本紀略』による。)左兵衛督に遷り、造宮亮となった。延暦十六年、伊勢守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)かつて勅を奉じて『続日本紀』を修めていたが、この頃完成し、正四位下に特進した。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)左大弁となり、再び伊予守を兼ね、勘解由長官を加えられた。まもなく左衛士督に遷り、相模守・但馬守を兼任した。延暦二十四年、参議大弁に任じられ、学士は元のままであった。翌年、太宰大弐を兼ねた。大同二年、山陰道観察使となり、刑部卿・民部卿を兼ね、右大弁に転じて大蔵卿を兼ねた。従三位に進み、東海道観察使に遷り、左大弁を兼ねた。宮内卿・大蔵卿を歴任した。弘仁の初め、近江守を兼ね、再び参議となり、常陸守に遷った。まもなく致仕した。薨去したとき年七十四であった。(注:『公卿補任』による。)真道はかつて桓武天皇のために山城国愛宕郡八坂郷に道場を創建した。(注:『続日本紀』による。)

承和年間、子の永岑(ながみね)が奏言した。「父が建てた道場は一区画ですが、その境界は八坂寺に接しているものの、その形勢からすればなお別の一院とするのがふさわしいものです。そのため、僧俗はこれを八坂東院と呼んでいます。伏してお願い申し上げますに、四方の境界を定めて、別に一院とし、僧一人を置いて永く護持させてくださいますように」と。これが許された。永岑は、仁明天皇の御代に主殿頭・斎院長官となり、豊前守を兼ね、従五位上に叙せられた。(注:『続日本紀』による。)

賀陽豐年

賀陽豊年(かやのとよとし)は、右京の人である。経書・史書に精通し、射策に甲科で及第した。節操を守り正義を貫き、屈することがなかった。心を許した者でなければ、みだりに交わろうとしなかった。大納言石上宅嗣は彼を非常に厚くもてなし、自邸の書斎に住まわせた。数年の間に、多くの書物を博く究めた。識者は皆、彼の学識の広さは釈道融(しゃくどうゆう)や御船王(みふねのおおきみ)を超えると評した。延暦年間、東宮学士に任じられた。平城天皇の即位に際し、従四位下に叙せられ、式部大輔を拝命した。当時、女性の讒言がしばしば行われ、優れた賢者が排斥されていた。豊年はひとり平素の志を守り、口を閉ざして自らを律していた。天皇が譲位して平城に遷られると、豊年は職を守って追従しなかった。そのため、変乱に巻き込まれずに済んだが、これを機に自ら職を辞して退いた。嵯峨天皇はその才を惜しみ、播磨守に任じた。在職三年で、病のため辞して都に帰り、宇治の別荘に住んだ。弘仁六年、卒去した。享年六十五。正四位下を贈られた。当時の人々は、「天から授かった徳は十分だが、人からの官位には恵まれなかった」と評した。かつて豊年が宇治で病に臥していたとき、古老から仁徳天皇と宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)が皇位を互いに譲り合った故事を聞き、その道義の高さに深く感銘を受け、権臣に頼んでその側に陪葬されることを願い出た。没した際、勅によりこれが許された。豊年はかつて友人の小野永見(おののながみ)を訪ね、筆を執って詩を賦し、「白眼をもって三公に対す」と詠んだ。権貴はこれを憎んだという。その節操の堅さはこのようであった。(注:『日本後紀』による。)

善道真貞

善道真貞(よしみちのまさだ)は、右京の人である。父は伊与部家守(いよべのいえもり)、伊賀守であった。真貞は十五歳で大学に入り、数年のうちに、儒者たちがその才能と行いを推し、文章得業生に補された。大同年間、試験に合格して登科し、山城少目に任じられた。弘仁年間、大学助教を兼ね、外従五位下を授けられて博士となった。まもなく明経の功により一階進み、越前大掾・相模権介を兼任した。天長の初め、大学助に遷り、陰陽頭を歴任し、従五位上に進んだ。表を上って善道宿禰の姓を賜ることを願い出て、正五位下に進み、阿波守に遷った。『令義解』の編纂に参加していたため、任地には赴かなかった。承和年間、たびたび進んで従四位下に至り、明経道の宿老の儒者として、摂津国島上郡の荒田九段を賜り、まもなく東宮学士となった。真貞は『春秋』三伝と三礼を専門とし、議論をよくしたが、漢音は学ばなかった。教授にあたっては、世俗の訛った音を用いており、出世を求める気持ちがあり、引退して控えめにすることができなかった。長らくして、この官(東宮学士)を拝命した。皇太子が廃されるに及び、備後権守に左遷された。天皇はその老齢を憐れみ、まもなく召し還した。儒者たちは奏言して、「当代で『公羊伝』を読める者は、ただ真貞だけです。今これを伝えなければ、この学問は絶えてしまうでしょう」と述べた。そこで真貞に命じて大学でこれを講じさせた。その後、自邸で没した。享年七十八。(注:『続日本後紀』による。)

藤原關雄

藤原関雄(ふじわらのせきお)は、参議真夏(まなつ)の子である。若くして文章を能くした。天長の初め、文章生の試験を受けて及第した。生まれつき閑静な暮らしを好み、常に東山の旧居にあって、林泉を愛でることに耽った。当時の人々は彼を東山進士と呼んだ。承和の初め、淳和上皇はその人柄を高く評価し、特に詔してこれを召した。関雄はやむを得ず出仕した。天皇は手厚い礼をもって彼を待遇した。左右に仕え、まもなく勘解由判官に任じられた。職務が煩雑であり、彼の望むところではなかった。数か月で判事に遷り、従五位下を授けられた。仁寿の初め、たびたび遷って治部少輔となり、寮院長官を兼ねた。病のため辞任を願ったが、許されなかった。仁寿三年、卒去した。享年四十九。関雄は琴を弾くことを好み、淳和上皇から秘譜を賜り、これによって次第にその奥義を得た。また草書をよくし、勅により南池院・雲林院の両院の壁に題字を書いた。(注:『文徳実録』による。)

小野篁

小野篁(おののたかむら)は、参議岑守(みねもり)の子である。弘仁年間、岑守が陸奥守となった際、篁は父に従って任地に赴き、馬を馳せることに慣れ親しんだ。その後都に帰ってからも、再び学業に励もうとしなかった。嵯峨天皇はこれを聞いて嘆じ、「この人の子でありながら、なお弓馬の士でいるのか」と言われた。これを聞いて篁は恥じ悔い、初めて学問を志すようになった。弘仁十三年、文章生の試験を受けて及第した。天長年間、巡察使・弾正少忠・大内記・式部少丞を歴任し、従五位下に進み、大宰少弐に任じられた。まもなく父の喪に服し、悲しみのあまり礼を超えるほどであった。翌年、召し出されて東宮学士となり、弾正少弼を拝命した。(注:『文徳実録』による。)清原夏野(きよはらのなつの)らとともに、勅を奉じて『令義解』を撰した。(注:『令義解』による。)承和の初め、美作介に任じられ(注:『公卿補任』による)、遣唐副使となって備前権守を兼ね、刑部大輔に任じられ、たびたび進んで正五位下に至った。入唐にあたっては、正四位上を借位された。承和三年、紫宸殿で天皇に拝謁し、彩帛や貲布を賜り、また紫宸殿に出御した天皇から御被一襲と赤絹の被、砂金を賜った。篁は小野神に従五位下を授けることを願い出た。出発したものの、暴風に遭って船が破損し、進むことができずに引き返した。承和四年、再び入唐に赴いた。当初、遣唐使船の序列を定めた際、大使藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)が乗る船が第一船とされ、太平良(たいへいら)と号して最も堅牢であった。第二船には篁が乗ることになっていた。ところが第一船が破損したため、常嗣は篁の船を奪おうとし、序列を入れ替えることを奏請した。これが許された。篁は憤って言った。「朝廷の議論が定まらず、二転三転している。命を受けた日には、割り当てはすでに定まっていた。それを今、船が朽ち損じたからといって、私と序列を論じ合おうとするのは、人情に照らして道理に逆らうものだ。このようなことで、どうして部下を率いる面目が立とうか。私は家が貧しく親も年老いており、身も病弱である。水を汲み薪を採るような、匹夫の孝行を尽くすまでのことだ」と。ついに重病と称して、二度と船に乗らなかった。「西道謡」を作って遣唐のことを風刺したが、その内容には忌み憚るべきことが多く含まれていた。嵯峨上皇はこれを見て大いに怒り、その罪を論じさせた。天皇は勅を下して、「小野篁は、身に綸旨を受けて外国に使いすることになりながら、病と称して行かなかった。律の規定に照らせば、絞刑に処すべきである。しかし今は特別に死罪を一等減じ、遠流に処する」と言われた。これにより篁は庶人に落とされ、隠岐に流された。道中で「謫行吟」七十韻を作り、当時の人々はこれを評判にした。数年後、召し還された。天皇はその文才を愛し、一年余りで詔して元の官位に復し、まもなく刑部大輔となり、陸奥守に任じられた。都に入って東宮学士となり、式部少輔を兼ねた。従四位下に進み、蔵人頭となった。(注:蔵人頭については『公卿補任』による。)承和十四年、参議に任じられ、弾正大弼を兼ねた。嘉祥の初め、左大弁に転じ、信濃守を兼ね、班山城田使長官となり、勘解由長官を兼ねた。一年余りで、従四位上に進んだ。病のため家に帰った。文徳天皇の即位に際し、正四位下を加えられ、近江守を授けられた。(注:『日本後紀』『文徳実録』を参照。)翌年、病が癒えて、再び左大弁となった。まもなく病が再発して朝廷に出仕できなくなった。天皇はこれを深く憐れみ、たびたび使者を遣わして見舞わせ、銭穀を賜り、自宅にいながら従三位を授けた。病が重篤になると、子供たちに、「息が絶えたらすぐに納棺し、人に知らせるな」と命じた。享年五十一であった。世に野相公(やしょうこう)と称された。

篁は、母に仕えて非常に孝行であり、家は元来清貧であったが、俸禄はすべて親族に施した。文章は当時随一であり、草書・隷書は王羲之・王献之の二王の書風の趣があり、後世の手本とされた。かつて太宰府にあったとき、唐人の沈道固(しんどうこ)という者が、当時鴻臚館に滞在しており、篁に才能があると聞いて、しばしば詩賦を贈り合って唱和し、常にその豊かな才を称賛した。(注:『文徳実録』による。野相公については『江談抄』による。)弘仁年間、天皇が河陽館に行幸された際、詩の一聯を賦して、「閣を閉じては唯だ朝暮の鼓を聞き、楼に登りては遥かに往来の船を望む」と詠み、これを篁に示された。篁は、「聖作は大変すばらしいものですが、ただ『遥』を『空』に改めればさらによくなります」と申し上げた。天皇は驚いて、「これは白楽天の句で、原文はもともと『空』となっている。朕はためしに卿を試したのだが、はからずも卿と楽天の見解が一致しているのを見た」と言われた。当時、白楽天の詩集は宮中に伝わっていたが秘閣に蔵されており、人々はまだ見ることができなかった。そのため、篁は天皇から大いに称賛された。その詩に対する精緻な理解はこのようであった。平生篁が作った詩には、しばしば白楽天の句の格調に似たものがあり、世間ではこれによって彼を重んじた。しかし人柄は自由奔放で、直言を好み、当時の世間には受け入れられなかった。その才能を妬む者は、彼を「野狂」と呼んだ。「篁」と「狂」の音が通じるためである。そのため篁には、「暗に野人たるは天与の性、古より狂官と世に呼ばるる名」という句がある。(注:『江談抄』による。世に伝えるところでは、下野の足利学校は篁がかつて読書した場所であり、上杉憲実がこれを学校として創建した。聖廟のかたわらに一室があり、篁の木像を安置しており、今も現存しているという。)子は保衡(やすひら)・葛絃(くずお)(注:『小野系図』による。本書では葛絃を篁の弟としているが、今はひとまず一説に従う)・俊生(としなり)。(注:『系図』『古今和歌集目録』による。)

保衡は、正五位下で陸奥守・阿波守を務めた。葛絃は、正四位下、太宰大弐となり(注:『系図』による)、政務に通じ、世に良吏と称された。(注:『菅家文草』藤原保則撰による。)俊生は、従五位上で刑部大輔となった。葛絃の子は好古(よしふる)・道風(みちかぜ)。(注:『日本三代実録』による。)好古には別に伝がある。

小野道風

小野道風(おののみちかぜ)。道風は書をよくし、その筆致は勁く神韻に富み、古今に並ぶ者がなかった。醍醐・朱雀・村上の三代に仕え、正四位下内蔵権頭に至った。(注:『系図』『扶桑略記』による。)醍醐天皇はその書を非常に愛し、醍醐寺を造営した際、道風に扁額を書かせ、楷書と草書の二種を用意させた。当初は南門に楷書を掲げる予定であったが、最終的には草書の額を掲げることとなった。道風は大いに喜んで、「ああ、賢明な君主であることよ」と言った。これは草書にこそ自分の会心の出来があったためである。(注:『古今著聞集』による。)行書・草書の法帖各一巻を書かせ、僧寛建(かんけん)に持たせて唐に渡らせた。これはその名声を異国に広めようとしたためである。(注:『扶桑略記』による。)そのほか、殿舎の壁の題字や宮門の扁額にも、道風が書いたものが数多くあった。(注:『日本紀略』による。)晩年、中風を患って手が震えるようになったが、その筆勢はますます独特の趣を生じた。(注:『古今著聞集』による。)かつて橘直幹(たちばなのなおもと)のために上奏文を書いたことがあり、村上天皇は常にこれを座の傍らに置いていた。あるとき宮中で火災が起こった際、天皇は左右の者を振り返って、「直幹の上奏文は無事か」と問われ、ほかのことは何も問われなかった。(注:『十訓抄』『古今著聞集』『喪服集』による。)康保三年、卒去した。享年七十一。(注:『日本紀略』による。)その書は一行一字であっても、人々が競って求め、手に入れられない者はこれを恥とした。世に重んじられることはこれほどであった。(注:『今鏡』による。)後世、道風と藤原佐理(ふじわらのすけまさ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)とを合わせて三蹟と称した。(注:『尊卑分脈』『尺素往来』による。)

俊生の子美材(よしき)は(注:『古今和歌集目録』による)、また書をよくし(注:『菅家後集』による)、文才があり(注:『日本紀略』による)、従五位上大内記となった。(注:『系図』『古今和歌集目録』による。)醍醐天皇が『群書治要』を読まれた際、美材は復読の役を務めた。(注:『日本紀略』による。)延喜二年、卒去した。(注:『菅家後集』『古今和歌集目録』による。)

春澄善繩

春澄善縄(はるすみのよしただ)は、字を達(たつ)という。本姓は猪名部造(いなべのみやつこ)。(注:『日本三代実録』による。)伊香我色乎命(いかがしこおのみこと)の後裔である。(注:『姓氏録』による。)伊勢国員弁郡(いなべぐん)の人である。官途に達した後、左京に籍を移した。祖父の財麻呂(たからまろ)は員弁郡の少領であった。父の豊雄(とよお)は周防大目であった。善縄は幼少のころから聡明で、骨格も並外れていた。財麻呂はこれを驚き喜び、心を込めて養育し、財産を惜しまずに用いた。二十歳前後で大学に入り、書物を手放さなかった。目にしたものは多く暗誦し、博学で多くのことに通じ、文才に長け、聡明さは人一倍であった。当時の学者で、彼に及ぶ者はいなかった。天長の初め、及第して俊士に補された。天長四年、常陸少目となり、俸禄を学資に充てた。天長五年、春澄宿禰の姓を賜り、後に朝臣に改めた。俊士の号を停止し、文章得業生に補された。天長七年、対策を受け、その言葉と意義は非常に高い評価を得た。式部省はこれを丙第と評価した。この年、内記の職に春の欠員が生じ、天皇は日頃から人材を重んじており、この職を空けたまま善縄を待った。この夏、擢んでられて及第し、少内記に補され、まもなく大内記に転じ、従五位下を授けられた。天長十年、東宮学士となった。仁明天皇の即位に伴い、摂津権介を兼ねた。承和年間、但馬介を兼ねるようになり、従五位上に進んだ。嵯峨上皇が崩御し、皇太子が廃されるに及んで、善縄は学士の職のまま周防権守に左遷された。承和十年、文章博士に遷り、『後漢書』の講義を大学に譲った。その解釈は滞りなく流暢であった。質問する学生たちは皆疑問を解くことができた。(注:『日本三代実録』による。)まもなく備中介を兼ねた。承和十四年、天皇は『荘子』を講じ終えた宴を設けた。これに先立ち、天皇は善縄から『荘子』の進講を受けていた。この日、善縄を清涼殿に招いて酒を賜った。天皇は弟子としての礼を執り、『荘子』の篇を分けて、左右の近臣に詩を賦させた。管弦が奏でられ、酒宴は存分に楽しまれた。御衣二襲を賜った。この月、また清涼殿で『漢書』を講じた。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥の初め、正五位下を授けられ、備中守を兼ねた。(注:『日本三代実録』『続日本後紀』による。)斉衡元年、刑部大輔となった。(注:『日本三代実録』『文徳実録』による。)詔を奉じて菅原是善(すがわらのこれよし)・大枝音人(おおえのおとんど)らとともに、文人が献じた重陽の詩を評定した。翌年、詔を奉じて国史(『続日本後紀』)を編纂した。斉衡三年、『晋書』を進講し、天皇が自ら受講した。(注:『文徳実録』による。)天安元年、伊予守となり、右京大夫を兼ねた。天安二年、従四位上に進んだ。貞観の初め、参議に任じられ、式部大輔となった。正四位下に進み、播磨権守を兼ね、近江守に遷った。(注:『日本三代実録』『公卿補任』による。)貞観十一年、国史が完成し、これを奉った。(注:『日本三代実録』による。)貞観十二年、讃岐守となった。病が重くなり、詔によりその存命中に従三位を授けられた。当時、太政大臣藤原良房は宿直所にいたが、朝服を脱いでこれを善縄の身に着けさせた。当時の人々はこれを栄誉とした。薨去したとき享年七十四であった。(注:『日本三代実録』『公卿補任』による。)善縄は生まれつき慎み深く実直で、自分の長所を人に誇示することがなかった。文章博士であったとき、他の博士たちはそれぞれ自らを一家と称し、互いに軽んじ合い、優劣を口にしていた。弟子たちもそれぞれ派閥を作り、常に言い争いがあった。善縄は控えめに退き、門弟を辞去させて、ついに誹謗の対象になることはなかった。陰陽道を重んじ、多くのことに拘りと忌避があった。物の怪が現れるたびに、門を閉ざして物忌みし、人を通さなかった。一月のうちに門を十度も閉ざすことがあり、家宅は垣根や屋根の修理もしなかった。「死」という言葉を口にすることはめったになく、弔問も絶えてなかった。要職に昇ってからは、物忌みはやや簡略になった。家に賓客を招くことはなく、ただ子や甥にのみ接した。年老いても聡明さは衰えず、文章はいっそう麗しくなった。貞観年間、以前の策問の判定を改め直し、乙第に進めた。二人の子、具瞻(ともみ)・魚水(なすい)は、いずれも位が五位に至ったが、家業を継ぐ者はいなかった。(注:『日本三代実録』による。)

豐階安人

豊階安人(とよしなのやすひと)は、河内国大県郡の人である。本姓は河股公(かわまたのきみ)といい、彦坐命(ひこいますのみこと)の後裔である。(注:『日本三代実録』『姓氏録』による。)御影(みかげ)の代に至って今の姓に改めた。安人は幼少より聡明で度量があり、学問を好むことで早くから名を知られた。史伝を広く読み、なかでも『漢書』に最も精通していた。承和五年、少内記に任じられ、大内記に転じた。嘉祥元年、外従五位下に叙せられた。翌年、東宮学士に遷った。文徳天皇の即位に伴い、外従五位上を授けられた。(注:『日本三代実録』による。)仁寿元年、丹後権守となり、たびたび昇進して次侍従に至った。春澄善縄に『文選』を講じさせた際には、安人が都講(進行役)を務めた。(注:『文徳実録』による。)仁寿二年、上疏して、「安人は本籍が河内国にあり、いまだ『公』の姓字を除いておりません。伏して、都に籍を移し、真人の姓を賜りますようお願い申し上げます」と述べた。そこで詔により真人の姓を賜り、左京に籍を移した。斉衡元年、尾張権守となった。斉衡三年、図書頭に転じた。天安年間、掃部頭となり、大学頭に遷り、まもなく東宮学士となって、美濃権介を兼ねた。清和天皇の即位に伴い、正五位上を授けられた。貞観三年、刑部大輔を拝命した。この年、卒去した。享年六十五であった。(注:『日本三代実録』による。尾張権守となったことは『文徳実録』による。)

紀安雄

紀安雄(きのやすお)は、本姓を刈田(かりた)といい、その先祖は讃岐の人である。安雄の代に至って今の姓に改め、左京に籍を移した。父の種継(たねつぐ)は仁明天皇に仕え、大学助教従五位下に至った。天皇は経学を尊び、しばしば儒者を召してともに論議させた。常に大学博士の御船主(みふねのぬし)と種継を召して経義を論じさせた。御船主は礼を執って論じ、種継は伝を挙げて論じた。互いに激しく議論を戦わせたが、ついに優劣がつかなかった。当時、阿刀根継(あとのねつぐ)という伴造(とものみやつこ)の長がおり、ともに相撲を得意とし、天下に並ぶ者がなかった。天皇は御船主を「長(ちょう)」、種継を「根継(ねつぐ)」と呼んでこれを戯れた。安雄は幼くして学問と行いで称えられ、生まれつき寛容で柔和な性格であり、初めて得業生に補された。天安年間、大学直講となった。貞観年間、たびたび進んで従五位下に至り、助教に転じた。経学の業に専念し、文辞にはあまり関わらなかった。当時、格式の編纂が行われ、勅により見識のある者が選ばれたが、安雄もこれに選ばれた。勘解由次官となり、下野権介を兼ねた。従五位上に進み、主計頭に遷った。元慶の初め、武蔵守として都を出た。政治は簡素で恵み深いものを尊び、役人も民もこれに安んじた。任期を終えて都に帰り、鋳銭長官に任じられ、周防守を兼ねた。その評判は武蔵での評判には及ばなかった。仁和二年、卒去した。享年六十五。(注:『日本三代実録』による。)