卷之一百四十七 列傳第七十四
源隆國、源隆網、源俊明、源經成ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
源隆國
¶源隆国(みなもとのたかくに)は、権大納言(ごんだいなごん)俊賢(としかた)の次男である。長元年間、参議に任じられ、ほどなく権中納言となり、正二位に叙せられた。後冷泉(ごれいぜい)天皇の御代、関白藤原頼通(よりみち)の娘が皇后に立てられると、隆国は皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)となった。治暦三年、権大納言を拝命した。承暦元年、病により出家し、まもなく薨去(こうきょ)した。(注:『公卿補任』による。○関白頼通の娘の件は『扶桑略記』による。)
¶隆国はかつて頼通の宇治(うじ)の邸に参上する際、わざと小馬に乗って門を出入りし、「あえて馬に乗っているのではない、これは足駄(あしだ)代わりに過ぎない」と言った。(注:世間では下駄を足駄という。)頼通はその機知に富んだ受け答えを喜び、それ以上咎めなかった。(注:『古事談』による。)
¶隆国は生来暑さを嫌い、宇治に別荘を構え、毎年夏になると休暇を取ってそこに住んだ。行き交う人々を招いては、衝立(ついたて)を隔てて座り、自らその話を聞いて、そのまま筆録した。世間や巷のささいな出来事であっても記録しないことはなく、それらを集めて巻物とし、『今昔物語』と名づけた。後の人がこれに大いに手を加え、また前の書物にならって著したものが『宇治拾遺物語』である。(注:『宇治拾遺物語』の序による。)薨去した年は七十四歳であった。(注:『公卿補任』による。)世間では宇治大納言と呼ばれた。(注:『古事談』による。)
¶子は三人あり、隆俊(たかとし)・隆網(たかつな)・俊明(としあきら)という(原文には隆俊の名がもう一度重ねて記されている)。隆俊は、康平年間に参議に任じられ、従三位に叙せられ、右大弁を兼ねた。治暦の初め、権中納言に任じられた。(注:『公卿補任』による。)
¶隆国はかつて後冷泉天皇の御代に、寵を頼んで無礼な振る舞いがあった。後三条(ごさんじょう)天皇がまだ東宮であった頃、常にこれを恨みに思っていた。即位に及んで、その恨みを隆国の子(隆俊)に晴らそうとした。隆俊が宿直(とのい)に入った日、天皇はひそかにその様子をうかがった。すると隆俊が笏(しゃく)を正して端座し、陣(じん、朝廷の政務の場)における政務を機敏かつ的確にこなしているのを見て、天皇は感嘆して言った。「これほどの人材は、たやすく得られるものではない。もし見捨てて用いなければ、朝廷は一人の賢佐(けんさ)を失うことになる。」こうして隆俊は正二位にまで昇進した。承保二年、五十一歳で薨去した。(注:『公卿補任』による。)
源隆網
¶源隆網(みなもとのたかつな)は、治暦年間、参議に任じられ、右近衛権中将を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)当初、後三条天皇は父(隆国)のゆえに隆綱をも憎んでいた。(注:『古事談』による。)しかし関白頼通は彼を厚遇したため、それによってにわかに要職に居ることができた。(注:『愚管抄』による。)
¶たまたま藤原仲季(なかすえ)が斎宮(さいぐう)で白狐を射るという事件があり、朝廷の議において、その罪を定めることとなった。ある者は「狐はすでに死んでいる」と言い、ある者は「まだ死んでいない」と言った。隆綱は筆を執って判決文を書き、「矢が羽まで届いた(命中した)との噂はあるが、狐が首を丘の方に向けて死んだという事実はまだ確認されていない」とした。天皇はこれを読んで、「これほどの才知があるとは、まことに称賛に値する。私はこれまで彼の昇進が速すぎると思っていたが、それは誤りではなかったか」と言った。こうして隆綱はついに天皇の信任を得た。(注:『愚管抄』『続古事談』による。○『十訓抄』を考えるに、隆綱が判決文を定めたという記事があり、天皇がこれを賞して特に中将を兼ねさせたとある。しかし『公卿補任』によれば、これより先にすでに中将を兼ねていたとあり、『十訓抄』の誤りである。)
¶承保元年、三十二歳で薨去した。(注:『公卿補任』による。)
源俊明
¶源俊明(みなもとのとしあきら)は、侍従に補せられ、左近衛少将を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)延久年間、宮中で火災が起こり、天皇が慌てて避難する際、人々が騒ぎ乱れて、あわや天皇の御輿(みこし)に触れそうになった。俊明は遅れて駆けつけると、自ら弓矢を執って人々を叱りつけ、退かせた。天皇はこれを喜び、これより寵遇を得た。(注:『古事談』による。)
¶白河(しらかわ)天皇の御代、参議に任じられ、権中納言に至り、中宮大夫を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)中宮藤原氏が薨去すると、天皇は深く悲しみに沈んだ。俊明が参内して諫言したが、その言葉は極めて的確であった。(注:『古事談』による。)天皇が譲位した後も、なお政務に関与し続けた。(注:『中右記』による。)院庁に初めて院別当(いんのべっとう)が置かれ、俊明らがこれに任じられた。執政や大臣も、これに憚ることなく事を進めた。(注:『愚管抄』による。)
¶承徳年間、権大納言に任じられ、陸奥(むつ)出羽(でわ)按察使(あぜち)を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)
¶当初、東宮大夫藤原公実(きんざね)は、東宮の外戚であることを頼みに摂政の地位を望んでいた。鳥羽(とば)天皇が即位しようとする段になり、公実は好機と見て、法皇(白河法皇)に強く願い出た。法皇は決断できず、内殿にこもって人が訪ねてくるのを禁じ、いまだ命令も出さなかったため、人々はどうすればよいか分からなかった。俊明は正装して御所に上がり、参内して法皇の意向を伺おうとした。左右の者がこれを止めようとすると、俊明は「私は重大事について直接申し上げたいのだ」と言い、扉を押し開けて中に入った。法皇は「何のために参ったのか」と言った。俊明は「日はすでに高く昇っております。即位の儀は一体どうなさるおつもりですか」と言った。法皇は「摂政は誰に任せるべきか、それとも関白のままにするべきか」と言った。言い終わらぬうちに、俊明は大声で「かしこまりました」と答えて足早に退出し、そのまま関白藤原忠実(ただざね)の邸に赴いて、法皇の意向を伝えた。「旧例に従い、速やかに即位の儀を執り行うように」と。こうして事は決定した。(注:『愚管抄』による。)
¶俊明はかつて仏像を造らせたことがあり、藤原清衡(きよひら)が砂金を贈ってその費用にあてようとした。俊明はこれを辞退して受け取らなかった。ある人がその理由を尋ねると、俊明は「清衡はほしいままに陸奥を占拠し、その土地と人民を専断している。ひとたび変事が起これば、私はその征討を議する立場になるはずだ。これが私が辞退する理由である」と答えた。(注:『古事談』『十訓抄』による。)
¶永久二年、七十一歳で薨去した。(注:『公卿補任』による。)俊明は朝廷の儀式作法に精通しており、大礼にあたって儀注(ぎちゅう、儀式次第を記した書)を持参し忘れることがあっても、その場で自らの判断で執り行い、少しの誤りもなかった。(注:『古事談』による。)子の能俊(よしとし)は、官位大納言に至った。(注:『公卿補任』による。)
源經成
¶源経成(みなもとのつねなり)は、代明親王(よしあきらしんのう)の曾孫である。(注:『尊卑分脈』による。)父の長経(ながつね)は備前守であった。経成は、万寿・寛徳年間に、蔵人・侍従・左中弁・民部大輔を歴任し、蔵人頭に補せられた。永承年間、参議・検非違使別当となり、正三位に至った。(注:『公卿補任』による。)
¶上東門院(じょうとうもんいん、藤原彰子)が東北院を供養する法会にあたり、大赦が行われることとなった。経成はただちに役人に命じて重罪の囚人三人を捕らえ、その手足を斬らせた。当時の人々は、「大赦の令がまだ下っていないのだから、この囚人たちは本来死罪に至らぬはずであり、大赦がかえって死刑をもたらす結果になった。また盗賊の濱人丸(はまひとまろ)を殺した件について、僧惟尊(いそん)がこれを聞いて因果応報を説いた」と噂した。経成は理を尽くして惟尊に反論し、惟尊は何も言えずに退いた。(注:『続古事談』による。)
¶左獄(さごく、左京の牢獄)で火災が起こり、役人は囚人を解き放つよう願い出た。経成は「この者たちは禁令を犯して繋がれた身であり、いま天罰を被るのは、まさに当然のことだ」と言った。やがて火は燃え広がり、囚人たちは冤罪を叫びながら焼死した。(注:『十訓抄』による。)
¶康平四年、中納言の職に欠員が生じた。経成はこれを望み、石清水(いわしみず)八幡宮に祈願して、神官に「私は刑獄を司り、多くの囚人を死なせてきた。この報いとして、どうか納言になれますように」と言った。神官は「神は殺生を憎まれる。どうして人を多く殺したことをもって、その報いを福として祈ることができようか」と言った。経成は「国のために悪を除き、いまだかつて法を曲げて私情に従ったことはない。それをどうして殺生を好むというのか。もし私のしたことに冤罪があったのなら、神は必ず加護してくださらないだろう」と答えた。果たして中納言になることができた。(注:○『古事談』『続古事談』を参照した。○『十訓抄』を考えるに、これを藤原朝成(あさひら)の事としているが、おそらく誤りであろう。)
¶治暦元年、正二位に叙せられた。二年、五十八歳で薨去した。(注:『公卿補任』による。)子は重綱(しげつな)・重資(しげすけ)・成経(なりつね)。(注:『尊卑分脈』による。)重資は従二位権中納言となった。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)
藤原為隆
¶藤原為隆(ためたか)。父は為房(ためふさ)といい、白河・堀河・鳥羽の三代の天皇に仕え、参議に至り、大蔵卿を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)
¶永久元年、醍醐寺の僧仁寛(にんかん)が謀反を企て、事が発覚した。朝廷の議では仁寛を遠流に処し、その親族も罪に問おうとした。為房は「仁寛の行いは道に背く無法なものである。しかし父母兄弟が必ずしもこれを知っていたわけではないのに、どうして連座させることができようか」と言った。公卿たちは為房の意見に賛同し、これによって親族は罪を免れることができた。当時の人々は、「君に仕えては忠義を尽くし、下の者を遇しては仁愛をもってする。このような人の子孫は、必ず栄えるであろう」と語り合った。(注:『源平盛衰記』による。)
¶為房には十五人の子があったが、為隆と顕隆(あきたか)が最も名を知られ、為房は顕隆を後継者とした。(注:『尊卑分脈』による。)
¶為隆は、器量が優れ豪放で、才幹が人並み外れていた。(注:『後拾遺往生伝』による。)白河天皇の御代、蔵人に補せられた。あるとき奏上する事柄が多岐にわたり、天皇に倦んだ様子が見えて、御座を立って内に入ろうとした。為隆はわざと気づかぬふりをして、大神宮(伊勢神宮)についての事を奏上した。天皇は御座に戻り、そのおかげで為隆はすべてを奏上し終えることができた。(注:『続古事談』による。)
¶蔵人頭を歴任し、参議に任じられ、左大弁に転じ、従三位に叙せられた。(注:『公卿補任』による。)
¶堀河天皇の御代、伊勢(いせ)に勅使として遣わされ、帰って復命した際、天皇はちょうど笛を吹いていて顧みなかった。為隆は退出して上皇(白河上皇)に「今上陛下はご気分がすぐれないようです。ご祈祷をなさってはいかがでしょうか」と告げた。上皇は驚いて内侍(ないし)に尋ねた。内侍は「存じません」と答えた。上皇が為隆を召してこれを問いただすと、為隆は「私が先ほど大神宮についての事を奏上した折、主上は笛を吹いて気に留められませんでした。もし邪気に触れて祟りを受けているのでなければ、どうしてこのようなことがありましょうか」と答えた。天皇はこれを聞いて大いに恥じ入った。
¶ある人が柑橘の木を献上したところ、天皇はこれを特に愛でて、屋根を作って庇護した。為隆はこれを快く思わず、小舎人(こどねり)に命じて撤去させた。その木はついに枯れてしまった。天皇はこれを知っても咎めなかった。為隆が畏れ憚られたことは、このような例が他にも多かった。(注:『続古事談』による。)
¶大治五年、六十一歳で薨去した。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)家名を坊城(ぼうじょう)と称し、その日記を『永昌記』という。(注:『尊卑分脈』による。)
藤原顯隆
¶藤原顕隆(あきたか)は、堀河・鳥羽・崇徳の三代の天皇に仕え、右大弁・蔵人頭を歴任した。保安年間、参議に任じられ、権中納言に進み、正三位に叙せられた。(注:『公卿補任』による。)風格と力量が並外れており、白河法皇に最も親任された。夜も常に側近くに仕え、その言葉の多くが聞き入れられた。当時の人々はこれを「夜の関白」と呼んだ。(注:『今鏡』による。)保安年間以降、もっぱら政務に参与し、その権勢は一時を圧倒した。大治四年、五十八歳で薨去した。(注:『中右記』による。)その日記を『中記(ちゅうき)』または『都記(とき)』という。(注:『仁和寺書籍目録』による。)子の顕頼(あきより)も、正二位権中納言に至った。(注:『公卿補任』による。)その日記を『民記(みんき)』という。(注:『仁和寺書籍目録』による。)
大江匡房
¶大江匡房(おおえのまさふさ)は、式部大輔匡衡(まさひら)の曾孫であり、信濃権守成衡(なりひら)の子である。(注:『大江系図』による。)生まれつき聡明で人並外れており、四歳で読書を始め、八歳で『史記』『漢書』に通じた。(注:『朝野群載』所載の匡房「暮年詩記」および『江談抄』による。)十一歳で詩を作り、世に神童と称された。権大納言源師房(もろふさ)が詩を作らせて試したところ、匡房は筆を執ってたちどころに作り上げ、師房はこれを非凡なものと驚嘆した。(注:「暮年詩記」『続古事談』による。○神童と称されたことは「詩記」による。)
¶その詩は後冷泉天皇に献上され、天皇は大いに感じ入って賞賛し、学料(学問料)を賜った。(注:『続古事談』『中右記』による。)
¶関白頼通が宇治に平等院を創建するにあたり、師房とともに赴いて造営の計画を練った。大門が北向きであったので、頼通は師房に「寺の門が北向きであるのは、昔にも先例があるだろうか」と尋ねた。師房は「存じません」と答えた。匡房はまだ幼く、後ろに控えていた。師房が試みに匡房に尋ねさせたところ、匡房は「天竺(インド)の那蘭陀寺(ならんだじ)、中国の西明寺(せいめいじ)、わが国の六波羅寺(ろくはらじ)は、いずれも門が北向きです」と答えた。頼通は感嘆して称賛した。(注:『十訓抄』『古事談』による。)
¶文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に補せられ、対策(官吏登用試験)に及第して従五位下に叙せられ、式部少丞となった。(注:『公卿補任』による。)才能を頼んで世を憤り、山林に身を隠そうとしたことがあった。権中納言藤原経任(つねとう)がこれを諭して、「あなたは当代随一の才人であるのに、どうして自分を大切にせず、このようなことに至ろうとするのか」と言った。匡房はそこで思いとどまったが、これによって頼通の意に大いに背くこととなった。
¶当時、後三条天皇はまだ東宮であり、匡房は学士として東宮に仕えていた。東宮は匡房を喜び、厚遇した。匡房は家が貧しく、衣服を借りて出仕し、昼夜側に控えて学問を講じ論じた。天皇が即位すると、その日のうちに蔵人に補せられた。(注:『今鏡』による。)ほどなく左衛門権佐(ごんのすけ)となった。(注:『公卿補任』による。)京中に夜間の通行を厳しく禁じさせたので、天皇の治世の間、盗賊は少なくなり、道行く人は略奪の心配がなくなった。(注:『江談抄』による。)
¶やがて春宮学士を兼ね、右少弁となった。(注:『公卿補任』による。)天皇がかつて伊勢に幣帛を奉る際、自ら宣命(せんみょう)の文を草し、匡房に示したところ、その中に「朕は即位以来、いまだかつて私心をもって事を行ったことはない」との一節があった。匡房は「神を欺くことはできません。どうかよくお考えください」と言った。天皇は色をなして「朕に何の私心があるというのか」と言った。匡房は「以前、藤原実政(さねまさ)を左中弁になさいましたが、あれは隆方(たかかた)を差し置いて特に取り立てられたものではありませんか」と答えた。天皇は黙って何も言わなかった。(注:『続古事談』による。○本書では「左中弁」を「常陸弁」としているが、いま『今鏡』によってこれを訂正した。○『古今著聞集』にいう、後三条天皇が神社に宣命を奉り、自らかつて律令格式に違反したことがないと述べたところ、藤原資仲(すけなか)が諫めて、「この言葉は将来を戒めるために用いるのであれば良いのですが、すでに過ぎたことについて言うのは、臣の関知するところではありません」と言った、と。この話は匡房の話と類似している。しかし他に照らし合わせる書がないので、参考として付記しておく。)
¶実政は、参議有国(ありくに)の孫である。(注:『尊卑分脈』による。)かつて天皇の侍読(じどく)を務め、たいへん目をかけられていた。(注:『今鏡』による。)この話は「有国伝」に見える。
¶承暦年間、高麗(こうらい)が医師の派遣を求めてきたが、朝廷の議ではその態度が無礼であるとして遣わさないことに決め、匡房に命じて返書の牒(ちょう)を作らせた。その文中に「双魚(そうぎょ、書簡)は鳳池(ほうち、朝廷)の波にまで届き難く、扁鵲(へんじゃく、名医)がどうして鶏林(けいりん、高麗の異称)の雲の中に入ることがあろうか」との句があり、世にもてはやされた。(注:『江談抄』『十訓抄』『古今著聞集』による。)
¶永保・応徳間、式部大輔・左大弁を歴任した。寛治の初め、参議に任じられた。嘉承元年、権中納言となった。承徳元年、太宰権帥(だざいのごんのそち)を兼ね、翌年になって初めて任地に赴いた。ほどなく正二位に進み、任期を終えて帰京した。嘉承年間、中納言を辞し、再び権帥となった。(注:『公卿補任』による。)足の病のため、任地に赴くことができなかった。遠く任地の政務を裁定していたが、そのため訴訟の裁決が滞り、訴訟が頻発した。当時の世論はこれを批判した。(注:『中右記』による。)
¶天永二年、大蔵卿を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)ほどなく病により髪を剃り出家し、晩年の日記を焼き捨てた。その夜、七十一歳で薨去した。(注:『中右記』による。)世に江帥(ごうのそち)と称された。(注:『中右記』『古今著聞集』『後三年軍記』による。)
¶その太宰府在任中、初めて安楽寺(あんらくじ)で菅原道真(すがわらのみちざね)を祭り、自ら竟宴(きょうえん)の詩とその序を作った。後世の人々もこの祭祀を絶やすことなく続け、今日に至っているという。(注:『古今著聞集』による。)
¶かつて参議大江音人(おとんど)が文学をもって名を上げて以来、代々その学問を継ぎ、匡房に至って三代の天皇の師となった。匡房が薨去すると、藤原宗忠(むねただ)は嘆いて、「朝廷の要となる人物であり、文学の灯火であった。国家が良臣を失ったこと、なんと惜しむべきことか」と言った。(注:『中右記』による。○「八世にわたって業を継いだ」とあるのは、『朝野群載』所載の匡房の病中の祭文による。○祭文には「九世」とあるが、いまこれを訂正した。)
¶匡房は和歌にも巧みで、(注:『後拾遺和歌集』『詞花集』による。)最も詩文をもって世に名高かった。若い頃に「秋日間居賦(しゅうじつかんきょのふ)」を作ったところ、大学頭藤原明衡(あきひら)がこれを賞賛して、「その鋭さは森としており、きっと肩を並べる者は少ないだろう」と言った。また「落葉埋泉石(らくようせんせきをうずむ)」の詩を見て、「すでに佳境に達している」と言った。成長するに及んで、その才能はいよいよ輝き、当代の名だたる人々は皆これを称賛した。(注:「暮年詩記」による。)
¶博識で記憶力に優れ、朝廷の儀式典礼に精通していた。『江家次第(ごうけしだい)』二十一巻を著し、公卿たちはこれを模範とした。(注:○『江家次第』を著したことは『仁和寺書籍目録』による。)
¶白河天皇が匡房に詔して『朗詠集』の全篇を編纂させたが、五月の蟬の声が麦秋を送るという句のところで、その全篇を見つけることができなかった。ある人が一篇の詩を見せて「これです」と言ったが、匡房は首尾が釣り合わないとして、これではないとした。後にその全篇を見つけたところ、果たしてその通りであった。人々はその鑑識眼に感服した。(注:『今鏡』による。)
¶匡房の家には多くの蔵書があり、代々火災に遭うことがなかった。書庫を二条高倉(にじょうたかくら)に建てたところ、ある人が「京の都はしばしば火事に見舞われるのに、どうして用心しないのか」と言った。匡房は「わが家の文章は、朝廷の盛衰に関わるものだ。何を心配することがあろうか」と答えた。仁平年間になって、この文庫が火災に遭い、それとともに朝廷もまた衰えていった。(注:『続古事談』による。)
¶匡房は晩年、知己が次々と亡くなっていくのを悲しみ、「名工匠石(しょうせき)は野人のために斧を振るうのをやめ、伯牙(はくが)は鍾子期(しょうしき)のために琴の弦を絶った。まして詩文の道においては、理解する者が少ないのも不思議ではない」と嘆いた。そのため寛治年間以降、あまり詩文に力を入れず、折々の感懐を詠んでは集めて巻とし、「暮年詩記」を作って自らの半生を述べた。(注:「暮年詩記」による。)
¶かつて自らこう言ったことがある。「私は文学によって抜きん出た才を示し、その名声は昔の人にも劣らないほどであり、齢もほぼ天寿の半ばに達した。ただ蔵人頭を経なかったこと、そして子孫がぱっとしないことだけが、心残りである。」(注:「暮年詩記」による。)
¶匡房は藤原伊房(これふさ)・藤原為房とともに、博学多識をもって並び称され、当時の人々はこれを「三房(さんぼう)」と呼んだ。(注:『臥雲日件録』による。)子の隆兼(たかかね)は式部少輔、維順(これのぶ)は式部大輔となった。(注:『大江系図』による。)