卷之一百四十四 列傳第七十一
清原武則、藤原清衡、藤原基衡
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
清原武則
¶清原武則(きよはらのたけのり)は、出羽(でわ)国山北(せんぼく)の俘囚長(えみしの首長)である。(注:『陸奥話記』『今昔物語』による。系図によれば武則の父は兵部大輔光方、祖父は左京権大夫基光で、右大臣夏野の子孫であるというが、他に確認できる史料がないため、ここでは採らない。)源頼義(みなもとのよりよし)が安倍貞任(あべのさだとう)を討伐した際、何年経っても勝てず、武則とその兄光頼(みつより)に援軍を求めた。康平五年、武則は一族郎党一万余人を率いて陸奥(むつ)国栗原郡営岡で頼義と合流した。頼義は語り合って大いに喜び、武則とその子武貞(たけさだ)、甥の橘貞頼(たちばなのさだより)・頼貞(よりさだ)、吉彦秀武(きみこのひでたけ)らを分けて部隊の将とした。武則は都の方角を遥拝し、こう誓った。「臣は子弟を率い、将軍の命に従います。節義を立てることを志し、命を惜しみません。八幡三所よ、臣の真心を照覧あれ。もし死力を尽くさぬ者があれば、神明がこれを罰したまえ。」将兵は皆感激した。
¶やがて官軍が荻馬場に至り、小松柵を攻めようとしたが、占った日が不吉であったため、頼義は軍を留めて進まなかった。やがて決戦の議が定まると、武則は「官軍の怒りは水や火のように激しい。兵を用いる好機はまさに今をおいて他にない」と言い、ついに騎兵をもってこれを攻め破った。
¶しばらくして長雨が続き、官軍は兵糧が乏しくなった。貞任は自ら精鋭を率いて来襲した。武則は使いをやって頼義に「賊は策を誤りました。まもなく首を差し出すことになるでしょう」と告げた。頼義は「官軍は分散して疲弊し、わが陣は孤立して兵が少ない。賊は大軍を率いて突如攻め寄せてきており、勝算は向こうにある。それなのに卿は賊が策を誤ったと言う、どういうことか」と尋ねた。武則は答えた。「わが軍は客兵(注:遠征してきた軍)であり、常に兵糧の不足に苦しみ、速戦にこそ利があります。もし賊が険阻な地を守って戦わなければ、客兵は疲れやすく持久できず、勢いが尽きて弱みを見せ、敵につけ込まれる。私は常にそれを憂えていました。今、賊が自ら進んで戦おうとしているのは、天が将軍を助けているのです。しかも賊軍には楼閣のような黒気が立ちのぼっており、これは敗北の兆しです。官軍は必ず勝ちます。」頼義は喜んで「卿の忠実な謀によって、朝廷の威光を輝かすことになろう。卿はどうか励んでくれ」と言った。武則は「今、将軍のために命を捨てることは、鴻毛のように軽いものです。むしろ進んで死ぬとも、退いて生き永らえることはいたしません」と答え、ついに戦ってこれを大いに破った。
¶武則は精鋭八百余を率い、夜に乗じて追撃した。さらに決死の兵五十人を選び、間道から賊の陣営に入って火を放たせた。官軍は火の手を見て、鼓を打ち鳴らして喊声をあげ迫った。事は不意を突かれ、貞任の陣営は大いに混乱して同士討ちとなり、ついに高梨宿の石坂柵を捨て、衣川関(ころもがわのせき)に退いて守りを固めた。武則は武貞・頼貞とともに道を分けてこれを攻めたが、うまくいかなかった。武則は馬を下りて河岸に立ち、両岸を見ると、枝葉が川を覆う曲がった木があった。従士に久清(ひさきよ)という者がおり、身が軽く敏捷なこと比類なかった。武則は木を伝って川を越え、賊の陣営を焼くよう命じた。久清は身軽に飛び移り、岸の木によじ登って縄を垂らし、兵卒三十余人が互いに引き合って渡り、賊将藤原業近(ふじわらのなりちか)の陣営に忍び込んで火を放った。貞任は驚いて逃げた。官軍は鳥海柵まで進み、賊は柵を捨てて逃走した。
¶頼義は喜んで武則に「この柵に入ることができたのは、まことに卿の力によるものだ。私の顔色はどう見えるか」と言った。武則は答えた。「将軍は王事に身を尽くし、風雨をものともせず奮闘されました。軍にあること十余年、甲冑にはしらみが湧くほどでしたが、天地もその真心に感応し、将兵は皆喜んで用いられました。賊の大軍を破ることは、堰き止めた水を一気に決壊させるようなものでした。愚臣は鞭を執ってお供したにすぎず、何の功がありましょうか。今、将軍の白髪を見ますに、かえって半ば黒くなっておられます。もし貞任の首を得られれば、鬢髪はすべて黒くなり、肌つやも良くなることでしょう。」頼義は謝して「卿は子や甥を率いて大軍を興し、鎧をまとい武器を執って自ら矢石にあたり、敵陣を陥れ城を抜いた。その功は甚だ大きい。卿はそれ以上譲る必要はない。ただ『私の髪は半ば黒い』と言うなら、私もその通りだと思う」と言った。武則は拝礼して謝した。
¶やがて頼義は兵を合わせて厨川柵(くりやがわのさく)を囲んだ。柵が陥落するに及び、賊は死力を尽くして戦い、官軍にも死傷者が多く出た。武則は急ぎ一面を解いて賊を逃がすよう命じ、賊勢は大いに崩れ、官軍がこれを遮って討ったため、逃れられる者はなかった。こうして貞任を滅ぼした。康平六年二月、朝廷はその功を賞し、従五位下に叙し、鎮守府将軍に任じた。(注:『陸奥話記』による。)武則はかつて頼義と野で狩りをした際、一矢で両翼(二羽)を射止めたことがある。頼義は感嘆して賞賛し、自分の馬を贈り、自ら手綱を執って授けた。(注:『東鑑』建久四年条による。)子は武貞(注:『後三年軍記』『東鑑』文治五年条による)、武衡(たけひら、注:『東鑑』養和元年条による)。
¶武貞は荒河太郎(あらかわたろう)と称した。(注:『後三年軍記』『東鑑』文治五年条による。)武衡は将軍三郎と称した。(注:『東鑑』養和元年条による。)武貞は陸奥国伊沢・加賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡の地を領した。(注:『後三年軍記』『東鑑』文治五年条による。)長子真衡(さねひら)がこれを相続して領した。
¶かつて貞任が敗れた際、武貞は藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を娶り、家衡(いえひら)という子をもうけた。経清の子清衡(きよひら)もまた母に従って武貞のもとで養われた。真衡は父祖の残した勢力を頼みとして、ますます強盛となり、一門はみな真衡の家臣同然となった。政治を行うにも私心がなく、領内は富み栄えた。真衡には実子がなく、成衡(なりひら)という者を養子とし、海道小太郎(かいどうこたろう)と称させた。
¶かつて頼義が貞任を討った際、軍を常陸(ひたち)国に進め、多気権守平致幹(たけのごんのかみたいらのむねもと)の娘を見初め、喜んで密かに情を通じた。娘は身ごもり、女子を産んだ。致幹はこれを引き取って養育した。真衡はこの娘を成衡の妻に迎え、一族に命じて飲食や金銀・絹布を贈らせ、新婦をもてなした。真衡の姑(しゅうと)の夫にあたる吉彦秀武は、出羽から来て多くの酒や馳走を持参し、盤に黄金を盛って捧げ、真衡に謁見した。ところが真衡はちょうど客と碁を打っており、秀武には気を留めなかった。秀武は長い間かしこまって座らされ、怒って「私は真衡の姻戚である。時勢に脅されて家臣同様の扱いを受け、年老いた身で庭上にひざまずいているというのに、これを顧みないとは、とても堪えられることではない」と言い、黄金を投げ捨てて足早に立ち去った。そして従者に鎧を着けさせ、持参した酒や馳走を思う存分平らげさせて、出羽へ帰ってしまった。
¶真衡はこれを聞いて大いに怒り、兵を発してこれを攻めようとした。秀武は寡兵では敵わないと考え、使者を送って清衡・家衡を説き、真衡の砦を襲わせた。清衡らは喜んで兵を発してこれを襲い、伊沢郡白鳥村の人家四百余戸を焼いた。真衡はこれを聞いて大いに驚き、急ぎ引き返した。清衡・家衡もまた自ら敵わないと考え、兵を引いて退いた。
¶永保三年、源義家(みなもとのよしいえ)が陸奥守となり、真衡はこれを招いてもてなした。もてなしが終わると、真衡はまた兵を発して秀武を攻めに行った。清衡・家衡はその隙に乗じてまた真衡を襲った。折しも義家の従士である藤原正経・伴助兼が本郡を検察していた。真衡の妻は使者を送って「清衡・家衡が襲ってきましたが、兵馬の備えがありますので恐れるには足りません。ただ女の身では兵を率いることができません。どうかお二方がこちらに来て軍勢を率い、方策を授けてください。そして戦いの様子を国司に報告してください」と伝えた。二人はすぐに城に入り、清衡・家衡は兵を引いて退いた。義家は出羽に赴き、家衡の沼柵(ぬまのさく)を攻めたが、家衡はこれを防ぎ退けた。(注:原書では清衡・家衡が真衡を襲った記事の直後に「武衡は国司〈義家〉が敗れて帰ったと聞き、雨の中を出てきて家衡に言った」云々とあるが、文意のつながりからして事実関係を明らかにしがたい。おそらく清衡・家衡が兵を引いて退いた後、真衡が義家に頼んでこれを討たせたが、義家の攻撃がうまくいかず賊の勢いがやや盛り返した、そのために武衡がこの発言をしたのであろう。しかしこの間の記述が欠けており、真衡のその後の事跡は見えない。また武衡が出兵した理由も分からない。ここでは武衡の発言に基づき、大意を推し量って記した。)
¶叔父の武衡は兵を率いて沼柵を築き、家衡に「義家の優れた武略は人に抜きん出ているのに、君は寡兵でこれを退けた。これは君一人の名誉であるだけでなく、我らの誉れでもある」と言った。そこで二人は共謀し、沼柵を捨てて金沢柵(かねざわのさく)に拠った。義家は武衡が加勢に来たと聞いて大いに怒った。寛治元年九月、自ら数万の兵を率いてこれを攻めた。先鋒は奮戦して苦しい戦いとなったが、柵の中では総力を挙げて防ぎ守り、崖は壁のように切り立ち、矢や石が飛び交って、官軍には死傷者が甚だ多く出た。(注:原書では先鋒の戦いの記事が義家が金沢柵に到達する前に載せられているが、これはおそらく錯簡〈記述の順序の乱れ〉であろう。ここで正しく直した。)
¶吉彦秀武は義家に、日数をかけて持久する策を説き、義家はこれに従った。そこで長く包囲を続け、義家自らその二面を囲み、弟の義光(よしみつ)がその一面を囲み、清衡・重宗(しげむね)がその一面を囲んだ。(注:後三年の乱は秀武に端を発する。清衡・家衡はその一味であった。義家が国司となり、真衡が兵を収めてこれに仕えるに及んでは、秀武は真衡らにとって仇敵であったはずである。それが今、義家とともに家衡を攻めているのは、その間に必ず事情があったはずで、詳しくは義家伝を見よ。重宗が何者であるかは分からない。原書では真衡を襲った後、清衡についての記述が再び現れず、ここに至って初めて見えるのは、おそらく秀武が義家に属し、城攻めの陣に加わっていたという事情があるのだろう。原書の記述が欠けており省略されているため、いずれも分からず、疑わしいまま伝えるにとどめる。)
¶しばらくして、武衡は使者を義家の陣中に送って言わせた。「長らく戦いをやめており、柵の中は変わりありません。私には亀次(かめじ)という壮健な兵がおり、勇敢で戦いに巧みです。どうか精鋭の士を一人選び、これと戦わせていただきたい。」義家はすぐに軍中から壮士鬼武(おにたけ)を得て、これに応じさせた。鬼武は亀次を討ち取り、柵の中はこれを恥じて打って出て大いに戦った。
¶やがて柵の中の食糧が尽き、武衡は義光のもとに降伏を申し入れたが、義家はこれを許さなかった。柵の中は老弱の者を逃がそうとしたが、義家はことごとくこれを殺し、柵中の窮迫は日ごとに甚だしくなった。十一月(注:原書では包囲を寛治五年とするが、これは誤りである。詳しくは義家伝を見よ。)、家衡は自ら柵に火を放ち、服装を変えて逃げ去った。武衡は池の水の中に身を隠し、草で顔を覆っていたが、義家の兵が捜索してこれを捕らえた。
¶はじめ義家が柵を囲んでいたとき、家衡の兵である千任(せんとう)が櫓に登って義家を罵り、こう言った。「お前の父頼義は安倍貞任に苦しめられ、亡き清将軍(清原武則)に名簿(みょうぶ、注:主従関係を結ぶ際に差し出す名を記した文書)を捧げて救援を求め、ついにその力を頼って賊を殲滅することができた。お前は我が清原の家の臣下でありながら、もとより恩を忘れ義に背いている。天罰を逃れられようか。」義家は大いに怒った。そしてここに至って武衡を責めてこう言った。「軍にあって援軍を求めるのは兵家の常であって、何も異とするに足らぬ。お前の父武則は官符に応じ、兵を率いて亡き父〈頼義〉に従った。ところが先日お前は千任に、亡き父が汝の父に名簿を捧げたと言わせたが、その名簿は今どこにあるのか。お前の父が従軍したことにより、亡き父は特に奏上して鎮守府将軍に任じられた。その功労への報いはすでに十分であったはずだ。それなのにお前は恩を忘れて反逆を企て、でたらめを言って私を辱めた。その罪は誅殺してもなお余りある。」そして斬るよう命じた。武衡は義光を見て命乞いをしたので、義光は義家に「降伏した将を許すのは武家の常であるのに、将軍はどうしてもこれを殺そうとされる、いかがなものか」と言った。義家は色をなして「そもそも降虜(こうりょ、注:降伏した捕虜)というのは、かりそめにも生き延びようとして罪を悔い、心から帰服する者、たとえば宗任(むねとう)らのような者を言うのだ。武衡は身を捕らえられ、窮地に陥って生を祈っているにすぎない。これを降虜と言えようか」と言い、ついにこれを斬った。
¶家衡は県小次郎次任(あがたのこじろうつぐとう)に殺され、次任は従者に命じてその首を義家に献上させた。(注:真衡が秀武を攻めた後、原書では再び真衡についての記事がなく、その最期は分からない。清衡もまた同様である。詳しくは前述の通り。武衡が兵を率いて沼柵を築く以前についても記述が見えず、どのような経緯で兵を連ね勢力を合わせたのかは分からない。おそらく真衡は始めがあって終わりがなく、武衡は終わりがあって始めがない、いずれも記述が欠けているのである。ここではあわせて私〈編者〉の考えを記した。)
¶千任もまた捕らえられ、義家は役人に命じてその舌を斬らせようとした。役人が手で探ろうとすると、義家は「お前は手で虎の口に触れるつもりか」と叱った。そこで別の者に命じ、鉄の箸で歯をこじ開けて舌を引き出して斬らせ、木の枝に縛りつけ、その下に武衡の首を置いて、これを踏ませようとした。千任は脚を曲げて踏もうとせず、力尽きてついに足が首に及んだという。(注:『後三年軍記』による。)
藤原清衡
¶藤原清衡は、鎮守府将軍藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の七世の孫である。秀郷は千時(ちとき)を生み、千時は鎮守府将軍となった。千時は千清(ちきよ)を生み、千清は正頼(まさより)を生み、正頼は下野守(しもつけのかみ)となった。正頼は頼遠(よりとお)を生み、下総(しもうさ)に住んだ。頼遠は経清を生んだ。(注:『尊卑分脈』による。)経清は初めて陸奥に住み、権守(ごんのかみ)となって亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称した。(注:『後三年軍記』『源平盛衰記』による。権守であったことは『尊卑分脈』による。)これが清衡の父である。(注:『尊卑分脈』『後三年軍記』による。)清衡はこれにより権太郎(ごんたろう)と称した。(注:『源平盛衰記』による。)
¶経清は安倍頼時(あべのよりとき)の娘を娶った。頼時は伊沢・江刺など六郡を領し、その勢力を頼んで押領を行い、貢納の税を納めなかった。永承年間、陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)がこれを討ったが勝てず、朝廷の議によって源頼義が任地に赴くことになった。頼時は日頃から頼義の威名に服しており、身をかがめて恭順の意を示した。しかしやがて子の貞任の一件により、衣川関に拠って反乱を起こした。経清は平永衡(たいらのながひら)とともに兵を率いて頼義に応じていた。永衡は伊具十郎(いぐのじゅうろう)と称し、前任の守登任に仕え、その後頼時の娘を娶り、また頼時に属していた。ある者が頼義に「永衡は二心のある者であり、必ず内部の患いとなります。殺してしまうに越したことはありません」と説いたため、頼義は永衡を捕らえて斬った。
¶経清はこれを恐れて心が安まらず、密かにその客に「前の車が覆るのは後の車の戒めというが、十郎(永衡)はすでに死んだ。私は死に場所も分からぬ有様だ」と語った。客は「あなたが真心をもって将軍にお仕えしようとしても、必ず疑われて信用されないでしょう。あなたのために考えるなら、むしろ安倍大夫(頼時)のもとに寝返り、禍を転じて福となすに越したことはありません。今決断しなければ、後悔しても及びません」と言った。そこで経清は軍中に「頼時が軽騎兵を遣わし、間道から将兵の妻子を襲い捕らえようとしている」という流言を流させた。軍中は大いに騒ぎ立った。頼義は国府に馳せ戻り、金為時(こんのためとき)を残して頼時を攻めさせたが、軍は不利となった。経清はその隙に乗じて兵八百余を率い、頼時のもとに馳せ参じた。
¶まもなく頼時は戦死し、頼義は貞任と戦って敗れ、官軍には死傷者が多く出て、賊の勢いは大いに盛んになった。経清は私的に符(注:命令書・通行証の類)を作り、諸郡に遣わして官物を徴収させ、「白符を用いるべきであって、赤符を用いてはならない。国符は赤色で印があり、私符は白色で印がない」と命令した。頼義はこれを制することができず、数年にわたって対陣し、あらゆる手立てで経略した。清原武則の兵一万余人を得て、小松・高梨・石坂などの柵を攻め、いずれも打ち破った。貞任は鳥海柵に逃げ、経清は貞任の弟宗任とともに厨川柵を守った。この地は地勢が険しく切り立ち、守りは非常に堅固であったが、官軍が総力を挙げてこれを攻め、火を放って奮戦し、ついにこれを陥落させた。貞任は敗れて死に、経清は捕らえられた。頼義はその二心を憎み、わざと鈍い刀でゆっくりと斬りながら「今こそ白符を使えるか」と言った。(注:『陸奥話記』による。)
¶経清が誅殺された後、清原武貞はその妻を娶り、家衡という子をもうけた。そのため清衡は母に従って武貞のもとで養われることになった。武貞の子真衡は父祖の事業を受け継いで勢力はますます強大となり、配下の吉彦秀武と兵を構えるに至った。秀武は寡兵では敵わないと考え、人を遣わして清衡・家衡を誘い、こう言わせた。「真衡は勢いを頼んで驕り高ぶっている。あなた方は下僕同然の扱いを受けていながら、どうして恥じないのか。真衡は今、全軍を挙げて〈秀武を〉攻めに来ている。速やかにその隙を突き、砦を焼き払い妻子を捕らえるべきだ。そうすれば真衡は進んでも攻める先がなく、退いても拠るべき場所がなく、必ず捕らえられるであろう。私が恨みに報い恥をすすぐことができるなら、たとえ真衡のために命を落とすことになっても、本望である。」清衡・家衡は大いに喜び、兵を発してこれを襲った。真衡はこれを聞いて途中から引き返し、清衡らもまた敵わないと考え、兵を引いて退いた。
¶永保三年、源義家が陸奥守となり、真衡は兵を分けて留守を守らせ、自ら秀武を攻めに出向いた。清衡は家衡と離反し、義家に属して、家衡とその叔父武衡を出羽で攻めてこれを滅ぼした。(注:『後三年軍記』による。)清衡は伊沢・加賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡の地を領し(注:『東鑑』文治五年条による)、陸奥押領使(むつおうりょうし)となった。(注:『尊卑分脈』による。)国の人々はこれを御館(みたち)と呼んだ。(注:『尊卑分脈』『源平盛衰記』による。)清衡は江刺郡豊田から岩井郡平泉(ひらいずみ)に移り住み、そこで没した。(注:『東鑑』による。)
¶子の基衡(もとひら)は陸奥出羽押領使となった。奥羽の地は都から遠く隔たっており、朝廷はなお蝦夷の地として見ていたが、実際には土地が広く民も多かった。(注:『東鑑』による。)基衡は代々にわたって勢力が強大で、役人や民が争って従い、その勢いは国衙(こくが、注:国司の役所)をしのぐほどであった。藤原師綱(ふじわらのもろつな)が陸奥守となり、公田を調べて記録しようとしたところ、基衡は信夫郡に隠れ、何代もの守にわたって官吏の調査を受け入れなかった。師綱の使者が宣旨を持って赴くと、基衡は本郡の荘司季春(すえはる)と謀ってこれを拒み、争って使者を傷つけた。
¶やがて基衡はこれを恐れ、季春に「今の守は前例に従わずにこれを追及しており、しかも師綱は事の次第を書き記して朝廷に奏上するであろう。勅命に背いた罪は逃れがたい、どうしたものか」と相談した。季春は「これはもとより覚悟していたことです。しかし主命には背きがたく、いささか矢を放ったまでのこと。あなたは表向き何も知らなかったことにして、罪を私どもに帰し、私が首を差し出して守に謝罪すればよいのです。何を心配することがありましょうか」と言った。そこで季春を捕らえ、守のもとへ送った。基衡はその勇猛さを惜しみ、密かに妻を遣わして黄金一万両その他の品物を贈り、季春の助命を願い出たが、師綱はこれを許さず、ついに季春を斬った。(注:『古事談』『十訓抄』による。)
¶基衡の子秀衡(ひでひら)は、沈着で度量があった。嘉応二年、鎮守府将軍に任じられた。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵すると、平氏の軍はたびたび敗れた。平宗盛(たいらのむねもり)は秀衡の兵馬を借りてこれを討とうと考え、秀衡に陸奥守を授けてその兵を動かそうとした。朝廷は「今さら新たに官職を授けずとも、秀衡はもとよりその領国全体を実質的に掌握している。授けておくに越したことはない」と考えた。養和元年、秀衡は陸奥守に就任した。しかし秀衡は除書(じょしょ、注:任官の辞令)を受けながらも、態度をはっきりさせず、あえて出兵しなかった。(注:『玉葉』による。)
¶平氏が滅んだ後も、秀衡は一方に雄拠して頼朝と通じなかった。頼朝は書状を送って交誼を通じ、秀衡もその貢物を京師へ届けさせた。もとより、頼朝の弟義経(よしつね)は秀衡のもとに身を寄せ、ともに平氏を討つことを謀っていた。何年かそこに留まっていたが、頼朝の挙兵を聞いて馳せ参じようとした。しかし秀衡は固くこれを引き留めて行かせなかった。義経は密かに陸奥を抜け出して頼朝のもとに帰り、ついに平氏を滅ぼした。しかしその後頼朝と不和になって争いとなり、流浪して困難な境遇に陥り、間道を通って〈陸奥へ〉逃げ帰った。
¶その頃、頼朝は大きな勲功を立て、威勢は四方に鳴り響いていた。秀衡はすでに老い、子孫が家業を守り抜けないのではないかと憂えていたので、義経が来たことを喜び、奥州二国(陸奥・出羽)の兵を挙げて義経の思うままに用いさせようとした。頼朝はこれに手出しをすることができなかった。義経は衣川に館を構え、秀衡は非常に手厚く礼遇した。頼朝は秀衡が謀反人〈義経〉を受け入れて騒乱を扇動していると訴え、院宣によって秀衡を叱責させたが、秀衡は別心はないと弁明しつつ、それでも義経を奉じる態度を変えなかった。文治三年、秀衡は没した。臨終に際し子らに、義経を大将軍に推戴し、国を挙げてその命に従うよう遺言した。(注:『東鑑』による。)子は国衡(くにひら)・泰衡(やすひら)・忠衡(ただひら)・高衡(たかひら)・通衡(みちひら)・頼衡(よりひら)。
藤原基衡
¶藤原泰衡は、秀衡が没するとほどなく陸奥押領使となり、あわせて出羽も管轄した。頼朝は秀衡の死を聞くと、たびたび院宣を求め、泰衡に義経を密かに討たせようとした。泰衡は恐れおののいた。文治五年、衣川に義経を襲ってこれを殺し、その首を鎌倉に送った。しかしその後、頼朝は陸奥・出羽の二国を手中に収めようと考え、泰衡が義経の誅殺を先延ばしにして速やかに行わなかったことを口実に、「泰衡は王命を妨げ、謀反人をかくまった」と朝廷に奏上して兵を発して討とうとしたが、朝議はこれを許さなかった。その年の秋、ついに三方から兵を分けてこれを攻めた。千葉常胤(ちばのつねたね)・八田知家(はったともいえ)は岩城・岩崎を経て隈河(くまがわ)で合流した。比企能員(ひきよしかず)・宇佐美実政(うさみさねまさ)は念種関(ねんじゅのせき)を経て別に出羽を攻めた。頼朝自身は大軍を率い、下野から白河関(しらかわのせき)に入った。
¶泰衡はこれを聞いて熱借山(あつかしやま)に城を築き、庶兄の国衡を将として諸軍を指揮させた。(注:『愚管抄』によれば、国衡は父太郎、泰衡は母太郎と称されたという。国衡の母の身分が低く、泰衡の母の身分が高かったため、国の人々がそう呼んだのであろう。)金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)らの精鋭二万騎をこれに属させ、苅田郡に城を築き、名取・広瀬の二河を引き入れて水の柵を連ねた。栗原・三迫(さんのはさま)・一野などの砦にも、いずれも重兵を配置した。田河行文(たがわゆきふみ)・秋田致文(あきたむねふみ)を遣わして出羽を守らせた。泰衡自身は国分原鞭楯(こくぶんがはらむちだて)に陣を構えた。頼朝は先鋒畠山重忠(はたけやましげただ)に命じて熱借山を急襲させ、工藤行光(くどうゆきみつ)・小山朝政(おやまともまさ)がこれに従った。大軍が続いて到着すると、秀綱は敗走した。信夫荘司佐藤元治(しのぶのしょうじさとうもとはる)が弓弩を張って石那坂(いしなざか)でこれを遮ったが、常陸冠者為宗(ひたちのかじゃためむね)がその弟為重(ためしげ)・資綱(すけつな)・為家(ためいえ)らとともに、密かに鎧をまとって伊達郡沢原(だてぐんさわはら)からこれを横から突いた。元治以下の部将十八人が戦死し、泰衡の軍は気力を失った。頼朝は勝ちに乗じて熱借山を越え、大木戸(おおきど)を攻めた。国衡は勇壮で防戦に長け、部将たちも死力を尽くして戦い、その声は山谷に響き渡った。〈重忠配下の〉朝光(ともみつ)らは土湯・鳥取(とりとり)の険しい道を越え、大木戸の背後の山に出て、大声をあげて矢を放ったため、城中は驚き乱れた。国衡は拠り所を失って大関山(おおぜきやま)へ逃げたが、その途中で殺された。
¶泰衡の部将金十郎勾当八(こんじゅうろうこうとうはち)らは根無藤(ねなしふじ)に砦を構え、険阻な地に拠って防いだが、これも打ち破られた。出羽の守将田河行文・秋田致文もまた、比企能員・宇佐美実政と戦って敗死した。泰衡は物見岡(ものみがおか)に陣を退き、多加波波城(たかはわのじょう)を頼みとしたが、道すがら平泉を通っても入ることができず、火を放って城を焼いた。楼閣も屋舎も一時に灰燼に帰した。頼朝は多加波波城を進んで包囲し、泰衡は勢いに恐れをなして逃げ、窮迫してどうしてよいか分からなくなった。泰衡は兵を遣わして頼朝の陣営に書状を届けさせ、使者に速やかに逃げ去るよう戒めた。その書状の趣旨はこうであった。「予州(義経)が本州(陸奥)に身を寄せていたのは、父秀衡の存命中のことで、泰衡の関知するところではありませんでした。父が没した後、〈頼朝様の〉命を聞いてこれを討ちました。功はあっても罪はないのに、どうして戦を起こして討伐なさるのでしょうか。今、城や邑を捨てて山林をさまよっております。陸奥・出羽の二国はすでに御威光を奉じておりますので、どうか一命の赦しを賜り、御家人の列に加えていただきたく存じます。それがかなわないのであれば、遠流に処していただきたい。この二つのいずれかをお許しいただけるのであれば、比内郡に一通の返書を置いていただきたく存じます。」その言葉は懇切で哀れを誘うものであった。しかし頼朝は聞き入れず、兵を分けて比内郡を捜索させた。
¶泰衡は蝦夷島へ逃れようとして贄柵(にえのさく)に至ったが、その将河田次郎(かわだじろう)が裏切り、泰衡を襲って殺した。時に年三十五であった。河田次郎は泰衡の首を箱に納めて頼朝の陣営に届けた。頼朝はこれを捕らえて「泰衡はすでに私の掌中にあった者だ。どうして他人の力を借りる必要があったのか。お前は代々の主従の恩に背き、大逆無道である。今後の見せしめのために厳しく罰する」と責め、ついに斬って泰衡の首とともに首を路傍にさらした。(注:『東鑑』による。)
¶庶兄の国衡は勇猛で戦いに巧みであり、城の西門の外に住んでいたことから西木戸太郎(にしきどたろう)と称された。大木戸の戦いに敗れて大関山へ逃れる途中、和田義盛(わだよしもり)に出会い、馬首を巡らして矢を射ようとしたが、義盛が先に射てその肩を射抜いた。畠山重忠の従者大串重親(おおくしのしげちか)がこれを追って討ち取った。国衡は非常に肥え太っており、高楯黒(たかたてぐろ)という良馬を持っていて、これに乗って平泉の高山を一日に三度上り下りしても、馬は汗ひとつかかなかったという。しかしこのときは深いぬかるみにはまって鞭を打っても前に進めず、ついに重親に斬られた。国衡が死んでからは、軍に統制がなくなり、泰衡はついに敗れた。
¶弟の忠衡は泉三郎(いずみさぶろう)と称し、父の遺言を守って義経に仕えることに最も忠実であった。泰衡が謀反の意図を抱いたとき、ひとりこれに加わらなかったため、泰衡はこれを殺した。高衡は本吉冠者(もとよしのかじゃ)と称した。泰衡が敗れて逃げ出した後、その叔父俊衡(としひら)は比爪太郎(ひづめたろう)と称し、弟の季衡(すえひら)は比爪五郎と称した。俊衡の子師衡(もろひら)は大田冠者と称し、兼衡(かねひら)は二郎と称した。忠衡は河比冠者(かわいのかじゃ)と称した。季衡の子経衡(つねひら)は新田冠者と称した。俊衡は志波郡に住んでいたが、頼朝の到来を聞いて城を焼いて逃げた。頼朝は三浦義澄(みうらよしずみ)らを遣わしてこれを追わせた。俊衡は三人の子および季衡父子とともに出て降伏した。
¶これより先、泰衡の外祖父である前民部少輔藤原基成(もとなり)は衣川館に住んでいたが、頼朝は千葉胤頼(ちばたねより)を遣わして招き諭させ、基成は使者とともに来て降伏した。挙兵から四十余日で、陸奥・出羽の両国は平定された。清衡が六郡を領有してから二国を切り従えるに至るまで、四代九十九年にしてついに滅んだ。頼朝は郡や邑を割いて従軍した将士に分け与え、土地の人々を慰撫した。その統治は概ね秀衡の旧来の方式にならい、兵を置いて鎮め守らせた。
¶泰衡が敗れたとき、その部将に由利維平(ゆりのこれひら)という者がおり、宇佐美実政に捕らえられた。頼朝が「お前の主人泰衡は代々にわたって陸奥・出羽の二国に拠り、十七万の兵を養い、威勢は領内に鳴り響いていた。私はその征伐にずいぶん苦労させられたものだ。それなのに、大軍が一度攻め寄せただけで百に一つも支えきれず、一族もろとも滅び、身は配下の者に殺されてしまった。これは養った兵が用をなさなかったということではないか」と尋ねると、維平は答えた。「壮健な士は要害の地を分担して守り、老いた者は逃げ延びる術もなく自害しました。私のような不肖の者だけが生け捕りにされ、それゆえに主君と死をともにできなかったのです。昔、左馬頭殿〈源義朝〉は東海道十五か国を治め、数万の兵を率いておられました。しかし平治の乱では、たちまちのうちに敗れ、長田荘司(おさだのしょうじ)の手で首を取られました。昔と今と、どちらが優れどちらが劣っているでしょうか。しかも我が主が統治していたのはわずか二国の兵にすぎないのに、数十日にわたって防戦し、なお幕下(頼朝)を悩ませたのです。幕下におかれましては、どうか深くお咎めになりませんように。」頼朝は黙り込んだが、その勇壮さを愛でて、これを許して家人とした。(注:『東鑑』による。)