卷之一百九十四 列傳第一百廿一
將軍家臣四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
土肥實平
¶土肥実平(どひ さねひら)は、その祖先は上総介平高望(たいらのたかもち)に出る。高望の子良文(よしふみ)は賴尊(よりたか)を生み、賴尊は山辺祖禅師と号し、常遠(つねとお)を生んだ。常遠は帯宗(常宗、つねむね)を生み、土屋四郎と称して笠間押領使となった。帯宗は宗平(むねひら)を生み、中村荘司となって、実平・宗遠・友平(ともひら)を生んだ。(注:写本・印本の平氏系図を参照して補った。)実平は相模(さがみ)国土肥邑に居住し、土肥二郎と称した。治承四年、源賴朝(みなもとのよりとも)が兵を挙げると、実平と宗遠はこれに馳せ参じた。石橋山(いしばしやま)の戦いに敗れると、大庭景親(おおばのかげちか)が急追した。賴朝は杉山(すぎやま)に逃れ、ただ実平のみが従った。加藤景員(かとうのかげかず)・工藤祐茂(くどうのすけしげ)ら六人が包囲を破って合流し、賴朝は喜び、共に逃れようとした。実平は諫めて言った、「主君お一人であれば、たとえ数か月を要しても、私が策を用いて身を隠すことができます。しかし人数が多ければ足跡が露見しやすくなります。分散するに越したことはありません。今、上下ともに命を全うし、内外で謀を合わせれば、会稽の恥をすすぐことができましょう。今日の別離は、後日の幸いとなるのです。」一同は皆涙を拭って別れ散った。賴朝は髻の中に隠し持っていた観音像を取り出し、道端の石窟に置いた。実平がその理由を尋ねると、賴朝は「もし私が首を失い、景親らにこの像を見られれば、源家の将帥の名を辱めることになろう」と言った。(注:『東鑑』による。)賴朝は山中に隠れ、数日間食を絶ったが、実平の妻は桶に飯を盛り、樒の葉で覆い、別の僧に持たせ、仏に供える花葉を取りに行くと見せかけて、密かに往来して供給した。(注:『源平盛衰記』による。)ついに杉山を出て、筥根山(はこねやま)の僧永実(えいじつ)の家に隠れた。僧良暹(りょうせん)が賴朝を殺そうと謀ったが、永実がその企みを知って告げた。賴朝は実平・永実らとともに、密かに山麓を巡って土肥へ赴いた。(注:『東鑑』による。)折しも実平の妻が手紙を送り、衣笠城が陥落したこと、また三浦一党が安房(あわ)に赴いて賴朝の所在を探していることを報じた。賴朝はこれを喜んだ。(注:『源平盛衰記』による。)実平とともに真名鶴碕(まなづるがさき)から船で安房へ向かった。出発に臨み、子の遠平(とおひら)を伊豆(いず)へ遣わして家族の様子を尋ねさせた。賴朝は安房に着くと、平広常(たいらのひろつね)・千葉常胤(ちばのつねたね)が来て従った。転じて下総(しもうさ)へ赴き、鷺沼(さぎぬま)に館を構えた。離散していた将士がことごとく集まり、軍勢は大いに振るった。賴朝が挙兵して以来、実平は左右を離れず、心を傾けて補佐し守護した。(注:『東鑑』による。)源義仲(みなもとのよしなか)が反した際には、源義経(みなもとのよしつね)に属してこれを京師で撃った。(注:『源平盛衰記』による。)先鋒二千騎を率いて粟津(あわづ)まで追い、義仲に敗れた。(注:『平家物語』による。)一ノ谷(いちのたに)の戦いでは、別に七千の兵を率いて西門を攻めた。源範頼(みなもとののりより)は東門を攻め、義経は鵯越(ひよどりごえ)の間道からこれを襲い、平氏の軍は大敗した。(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。)義経が屋島(やしま)に陣を構えていたとき、平教経(たいらののりつね)が攻めてきて、義経は自ら当たろうとした。実平は諫めて言った、「大将たる者は軽々しく戦うべきではありません。どうか部下の壮士をお遣わしください。」そこで畠山重忠(はたけやまのしげただ)らと五十余騎で進んで戦い、日が暮れて兵を引いた。(注:『源平盛衰記』による。)賴朝は実平に命じて備中(びっちゅう)に軍を駐屯させ、西海の軍事を取り仕切らせた。当時、板垣兼信(いたがきのかねのぶ)は範頼に従って西へ赴いていたが、使者を鎌倉(かまくら)に遣わして訴えて言った、「私は幸いにも末席を汚し、一方面を担っておりますが、実平は命を受けたと称して、もっぱら自分の意のままに振る舞い、諸事の配置についても私に相談することがありません。私は西海にあって、命令が行き渡りません。どうか一通のご指示を賜り、事ごとに私の裁量に任せていただきたく存じます。」賴朝は怒って言った、「私が任用する者は、親疎を問わず、ただその器量によって従わせている。実平の忠義は並ぶ者なく、耳目の寄せどころとして、二筋の道はない。西海の軍事は、大小すべて彼に委ねている。お前たちは戦場で命を捧げる役目を分担しているに過ぎぬのに、なぜそれほどまでに自分をわきまえぬのか。」使者は恐れおののいて帰った。平氏が滅び、戦乱の余波が残る中、近畿諸国は武士の暴虐な略奪に苦しんだ。賴朝は実平と梶原景時(かじわらのかげとき)を、播磨(はりま)・美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中・備後(びんご)五か国の総追捕使とした。(注:『東鑑』による。)文治年間、賴朝は実平に命じて京師を守護させた。実平は人となり策略に富み、軍事に明るかった。征伐に際しては、賴朝は範頼・義経にその指図に従うよう命じた。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。○諸書を調べると、実平の没年月は欠けている。安芸国米山寺の過去帳には、実平は承久二年十一月に死去したとある。『東鑑』の建久六年の条には、土肥実平の寡婦が幕府に参上したとある。とすれば実平の死は承久以前にあったことになる。承久は建久の誤りかとも思われるが、今のところ考証する術がない。)
¶子の遠平は弥大郎と称し、父に従って戦功があった。遠平は惟平(これひら)を生み、左衛門尉に任じられ、先二郎左衛門尉と称した。建暦年間、和田義盛(わだのよしもり)の反乱に加担し、軍が敗れて誅殺された。(注:『東鑑』による。)実平の弟は宗遠である。
土肥宗遠
¶土肥宗遠(どひ むねとお)は相模国土屋(つちや)に居住し、(注:『土屋系図』による。)土屋三郎と称した。兄実平とともに賴朝に仕えた。当初、賴朝が下総に至ると、安房・上総・下総の兵がこれに呼応し、さらに上野・下野・武蔵諸国の兵を発しようとして、駿河に至り平氏を待とうとした。宗遠を甲斐(かい)に遣わし、武田信義(たけだののぶよし)・一条忠頼(いちじょうのただより)を説得させ、北条時政(ほうじょうのときまさ)と黄瀬川(きせがわ)で会合させたところ、信義らはこれに応じた。(注:『東鑑』による。)宗遠は義経に従って平氏を撃った。(注:『源平盛衰記』による。)承元年間、私怨によって梶原家茂(かじわらのいえもち)を殺し、自ら幕府に出頭し、和田義盛のもとに囚われた。実朝(さねとも)に訴えて言った、「私は建義(挙兵)の功臣です。家茂は謀反人の孫にあたります。忠勲と悖逆と、どちらを選ぶべきかは明らかなはずです。それなのに今、囚われて辱めを受けております。どうかご明察を賜りますように。」実朝は「訴えは理に合わない」と言った。しかし賴朝の忌日にあたったため、赦された。(注:『東鑑』による。)姉婿岡崎義実(おかざきのよしざね)の子義清(よしきよ)を養って子とした。(注:○原本は義清を兄の子としているが、今『東鑑』『平氏系図』を参考にして訂正した。)
¶義清は小二郎と称し、平氏に仕えて京師にあった。賴朝挙兵の報を聞き、密かに関東へ赴いた。折しも宗遠が甲斐へ使いした際、夜、足柄山(あしがらやま)で偶然出会った。父子は再会をたいそう喜び、ともに甲斐へ赴き、(注:『源平盛衰記』による。)ついに幕府に仕えて大学権助に任じられた。和田義盛が乱を起こすと、義清はこれに加わって幕府を攻め、朝夷名義秀(あさいなのよしひで)・古郡保忠(ふるごおりのやすただ)と馬を並べて奮戦し、勇猛さは軍中随一で、幕府方の兵はしばしば退いた。実朝がこれを避けて法華堂に入ると、義清は甘縄(あまなわ)から亀谷(かめがやつ)へ入り、窟堂(いわやどう)の前を経て攻めようとしたところ、道中で流れ矢に当たって死んだ。義盛の軍はもはや振るわず、ついに敗れた。(注:『東鑑』による。)
大庭景能
¶大庭景能(おおば かげよし)は、(注:『東鑑』による。○『平氏系図』『保元物語』では景義とする。)太郎と称し、また懐島権守とも呼ばれ、鎌倉景政の子孫である。(注:『平氏系図』による。○系図の一本では、景能は景村の後裔とし、景政のことは載せていない。あるいは景政とは別の一族ともいう。異本の『保元物語』を見ると、これも景政の後裔としている。そこで今はこれに従う。)父は景房といい、大庭荘司と称し、代々相模に住んだ。(注:○『平氏系図』では、景房は景忠あるいは景宗に作る。)保元の乱では、景能は弟景観とともに源義朝に属し、白河殿(しらかわどの)を攻めたが、為朝(ためとも)に射られて馬から落ちた。景親が景能を肩に担いで民家に避難させたが、景能は再び戦いに戻ろうとした。景能は言った、「私は傷を負った。もう戦うことはできない。ここから戦地は遠くない。徒に兵卒の餌食となるだけだ。我らが力を尽くしたことは、下野殿(義朝)が親しくご覧になったところである。今、重傷を負って退くことを、誰が臆病と言おうか。お前は私を遠くまで運んでくれ。」景親は景能を背負って山階(やましな)まで運び、走り戻って再び戦い、景能は難を逃れることができた。(注:異本『保元物語』による。)賴朝が挙兵すると、関東の諸将を召し出す檄文が届き、景能は景親のもとで相談した。景親は言った、「源家は我らが代々の主君であるから、これに帰順するのが道理である。しかし弟(景親自身)はかつて囚われの身となったが、幸い平氏の取りなしを得て、今は東国の監護として命を全うし、妻子を保つことができている。これは平氏の恩によるものではないか。」景能は言った、「お前は恩義によって平氏に仕えるがよい。私は道義によって源家に属する。」そこで、「平氏が勝てば、私はお前を頼って救護を求める。源家が勝てば、私はお前を守り抜く」と約束を交わした。そして弟豊田景俊(とよだのかげとし)とともに賴朝のもとに帰参し、石橋山の戦いに従った。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。)
¶文治五年、賴朝は藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討つことを求めたが、朝議はまだ決していなかった。しかし諸国の兵はすでに集まっていた。賴朝はこれを憂い、景能が軍事に老練で通じていることから、召して諮った。景能は答えて言った、「私が聞くところでは、軍中では将軍の命令に従うのであって、天子の詔を待つものではないといいます。すでに奏請した以上、返答を待たずに事を行ってよいのです。まして泰衡は代々の家臣の血筋を継ぐ者であり、たとえ天子の裁可がなくとも、直ちに誅戮を行うことに、何の遠慮がありましょうか。(注:○泰衡の曾祖父清衡は源義家に属して戦功があり、以来子孫が代々陸奥六郡を領し、一方の藩屏となっていたが、源氏と主従の分があったわけではない。しかし当時の東国の将士にとって、源氏に対する関係は主従とほとんど変わらなかった。そのため景能はこれを代々の家臣と呼んだのであり、時勢に基づいて言ったに過ぎない。)今、兵を集めて日を費やせば、かえって兵を疲弊させるだけです。速やかに出発なさるべきです。」賴朝は大いに喜び、鞍馬を与えて賞した。景能はかつて賴朝の御前で諸将と語って言った、「武士が心すべきものは兵器である。弓矢はその力量に応じて短小なものを用いるべきである。鎮西八郎(為朝)は弓の名手として天下無双と称されたが、その弓矢は規格が大きすぎた。保元の乱で、私は八郎と大炊御門河原(おおいのみかどがわら)で出会い、彼の左に備えていた。八郎が射ようとしたとき、私は彼が鎮西の出身で騎射に不慣れであろうと考えた。私は長く東国に住み、日頃から馬を御することに慣れていたので、馬を駆って右へ避け、彼の射程に入らないようにした。そのため矢は低く膝に当たっただけで済んだ。そうでなければ、私はほとんど逃れられなかっただろう。」座にいた者は皆感服した。建久年間、老齢のため髪を剃った。まもなく罪を得て追放された。賴朝が京師に上った際、景能は書を捧げて言った、「将軍が挙兵なさった当初から、私は微力を尽くしてまいりました。しかし今、罪を得て追放され、鬱々として日を送ること、すでに三年になります。今はすでに老い衰え、余命もいくばくもありません。願わくは一度お供の列に加えていただき、死にゆく身の栄誉としとうございます。」賴朝はこれを許した。承元四年、死去した。(注:『東鑑』による。)
安達盛長
¶安達盛長(あだち もりなが)は藤九郎と称し、中納言藤原山陰(ふじわらのやまかげ)の子孫である。祖父国重は下野掾・出羽介であった。父兼広は小野田三郎と称した。(注:『尊卑分脈』による。)源賴朝が蛭島(ひるがしま)にあったとき、盛長は往来して仕えた。賴朝が挙兵して東国の将士を募った際、盛長を遣わして檄文を伝えさせた。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。)盛長は弁が立ち、行く先々で順逆の理を説き明かし、聞く者は感動して、諸将はこれに呼応した。(注:『源平盛衰記』による。)当時、平兼隆(たいらのかねたか)は清盛の一族として山木(やまき)に拠り、勢いを頼んで威を振るっていた。盛長は藤原邦道(ふじわらのくにみち)を賴朝に推薦した。邦道は兼隆の動静を偵察し、ついに襲ってこれを殺すことができた。賴朝は石橋山で戦って利あらず、杉山に逃げ込んだ。盛長ら数人は艱難辛苦を経て、ようやく難を逃れた。まもなく安房に赴くと、離散していた兵が集まってきて、軍勢はやや振るい、東国の将士で帰属する者が日ごとに増えた。相模に戻ると、将士の功を論じ、盛長もこれに与った。賴朝が志を得るに及んで、ますます親しく寵愛された。後に髪を下ろし、法名を蓮西といった。賴家が家督を継ぐと、訴訟の裁定に参与した。(注:『東鑑』による。)正治二年、死去した。(注:『尊卑分脈』による。)子は景盛・時長。時長は大曾禰次郎兵衛尉と称し、後に評定衆となった。(注:『尊卑分脈』による。)
安達景盛
¶安達景盛(あだち かげもり)は弥九郎と称した。父のゆえをもって、当時重んじられた。かつて京師で妾を買い求めたが、容姿が優れていた。賴家はたびたび手紙を送って彼女を口説いたが、従わなかった。折しも参河の賊、室平重広(むろひらのしげひろ)が群盗を招き集め、ほしいままに略奪を働いていた。賴家は景盛に命じてこれを討たせた。景盛は事にかこつけて命を辞退したが、賴家は「参河はお前の父の守護地である。他人にその事を任せるわけにはいかない」と言い、責めて出立させ、そして人を遣わして景盛の妻を奪わせた。景盛は怨みを抱き、事にかこつけて賴家を除こうとした。景盛は参河へ赴いたが、賊はすでに逃げ去っており、捕らえられずに帰った。ある者が讒言して言った、「景盛は妾のことで、しばしば怨み言を口にしています。」賴家は怒り、兵を遣わしてこれを誅殺しようとした。政子(まさこ)は日頃からその冤罪を知っており、力を尽くして救おうとした。賴家はやむを得ずこれを許した。建永年間、右衛門尉に任じられた。建保六年、出羽介となり、秋田城を管轄した。(注:『東鑑』による。○原本には出羽守とするものもあるが、今、実治二年の条に基づいて訂正した。)従五位下に叙された。(注:『尊卑分脈』による。○原本には叙位の年が欠けているので、ひとまずここに記す。)当時の人は言った、「昌泰以来、数百年の間、この官についた者は、ただ平繁盛(たいらのしげもり)一人だけであった。ここに至って景盛がこれを得た。実に栄えある選任である。」(注:○按ずるに、これより先、出羽守や出羽介になった者は多く、原本の記述とは異なる。思うに平長茂(たいらのながもち)が代々城介を世襲し、北方に威を振るっていたが、建仁の初めに誅殺された。ここに至って景盛が城介の職を得たため、当時の人がこれを栄誉としたのであろう。しかし原本はその事情を詳しく記していないので、今はひとまず旧文に従う。)翌年、実朝が横死すると、景盛は悲しみ嘆いて髪を断った。法名を覚地といい、大蓮房と称し、高野山(こうやさん)に住んだ。世に高野入道と呼ばれた。(注:○『明恵伝』によれば、承久三年、北条泰時が官軍の逃亡者を捜索した際、秋田城介義景が高弁(こうべん、明恵)を捕らえて連れてきた。泰時は日頃から高弁を崇敬していたので、敬意をもって遇し、謝って送り返した。義景はこれを見て呆然と悔い、ついに高弁のもとに参じて剃髪して弟子となることを願い、大蓮房覚地と号したという。原本によれば、景盛の出家は承久以前のことであり、義景がかつて僧になったことはない。『明恵伝』は父子を混同して一人としており、事実も甚だしく誤っているので、これは採らない。)常に鎌倉と往来し、事あるごとに諮問を受けることが多かった。承久の乱では、北条時房(ほうじょうのときふさ)に従って京師を攻め、戦功があった。(注:『東鑑』による。)
¶はじめ景盛の娘は北条時氏(ほうじょうのときうじ)に嫁ぎ、経時(つねとき)・時頼(ときより)を生んだ。(注:『尊卑分脈』による。)時頼が執権となると、最も尊重された。当時、三浦一族の泰村(やすむら)が権勢を誇っており、景盛は内心これを快く思わず、子孫を戒めて言った、「三浦氏の権勢は並ぶ者がない。お前たちが武勇に劣れば、いつか対抗できなくなることを恐れる。今のうちに手を打っておくべきだ。」折しも匿名の書状が現れて、「三浦一族が謀反を企て、鎌倉が騒然とし、人心が疑心暗鬼になっている」とあった。景盛は内心これを喜び、この機に乗じて三浦氏を陥れ、ついにこれを滅ぼした。宝治二年、高野山で病死した。(注:『東鑑』による。)
¶子の義景は、嘉禎年間、秋田城介の職を継ぎ、従五位上に叙され、評定衆となった。(注:○『関東評定伝』『尊卑分脈』を参照した。)四条帝が崩御し嗣子がなかったとき、北条泰時は義景を京師に遣わし、後嵯峨帝を擁立させた。(注:『歴代皇紀』『五代帝王物語』による。)建長年間、病により髪を剃り、法名を願智といい、まもなく死去した。(注:『東鑑』による。)子の頼景・景村・泰盛・時盛・重景・顕盛・長景・時景は、いずれも一時に名を顕した。(注:『尊卑分脈』による。)
¶時盛は丹後守に任じられ、髪を剃って名を道智と改めた。文永年間、事に連座して所領を没収された。正応五年、死去した。(注:『関東評定伝』による。)景村は大室三郎と称した。(注:『尊卑分脈』による。)時盛は左衛門尉に任じられ、評定衆となり、髪を剃って名を道供と改めた。建治年間、事に連座して所領を没収された。弘安八年、高野山で死去した。(注:『関東評定伝』による。)重景は左衛門尉に任じられた。弘安年間、泰盛とともに殺された。孫の高茂は秋田城介となった。(注:『尊卑分脈』による。)顕盛は左兵衛尉・加賀守に任じられ、評定衆となった。弘安三年、死去した。(注:『関東評定伝』による。)孫の時顕、曾孫の高景は、いずれも秋田城介を継いだ。高景は讃岐権守となった。後醍醐帝が隠岐に配流された際、北条高時の使者として京師に入り、(注:『尊卑分脈』による。)光厳院を擁立した。(注:『太平記』による。)長景は左衛門尉・美濃守を歴任し、髪を剃って名を智海と改めた。時景は左衛門尉に任じられ、髪を剃って名を智玄と改めた。(注:『関東評定伝』による。)弘安年間、泰盛とともに殺された。(注:『尊卑分脈』による。)
安達泰盛
¶安達泰盛(あだち やすもり)は九郎と称した。父の死後、秋田城介の職を継ぎ、評定衆となった。(注:『関東評定伝』による。)馬術に優れることで世に知られた。(注:『徒然草』による。)弘安年間、陸奥守を兼ね、秋田城介の職を辞することを願い出て、子の宗景(むねかげ)に代わらせることを許された。まもなく髪を剃り、名を覚真と改めた。(注:『関東評定伝』による。)泰盛は日頃から北条氏と婚姻関係を結んでおり、娘はまた時宗に嫁いで貞時(さだとき)を生んだ。貞時が執権となると、勢いを頼んでほしいままに振る舞った。貞時の家宰である左衛門尉平頼綱(たいらのよりつな)もまた驕り高ぶり、大いに権勢を弄んで、泰盛と互いに軋轢を生じた。そして宗景は父にも増して狂躁で奢侈であり、自ら曾祖父景盛は実は賴朝の子であると称し、ついに源氏に改姓した。頼綱はこれによって貞時に説いて言った、「宗景は密かに野心を抱いております。改姓の一件は、最も隠しようのない証拠です。」貞時はこれを信じ、ついに泰盛父子を殺し、その一族を滅ぼした。かつて三浦泰村が殺された際、人々は皆その冤罪を思ったが、あえて明言する者はいなかった。ここに至って、泰盛らもまた讒言によって死んだ。後に頼綱もまた乱を謀って誅殺され、人々はこれを因果応報と考えた。(注:『保暦間記』による。)
後藤實基
¶後藤実基(ごとう さねもと)は、鎮守府将軍藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である。曾祖父の尾藤左衛門尉公広は、後藤内則明の養子となった。はじめ河内守源賴信(みなもとのよりのぶ)は、備後守藤原公則(ふじわらのきんのり)の子である少納言藤原惟忠(ふじわらのこれただ)の子則経を養子とした。則経は賴信に仕え、則明を生んだ。(注:『尊卑分脈』による。)則明は伊予守源賴義(みなもとのよりよし)に従って安倍貞任(あべのさだとう)を攻め、いわゆる七騎の一人であった。(注:『尊卑分脈』『陸奥話記』による。○『陸奥話記』では六騎とする。)公広は後藤氏を名乗り、孫の実遠は左衛門尉となり、実基を生んだ。実基は右兵衛尉となった。(注:『尊卑分脈』による。)
¶平治の乱では、源義平(みなもとのよしひら)に属して待賢門(たいけんもん)を守り、平重盛(たいらのしげもり)を攻めてこれを退けた。進んで六波羅(ろくはら)を攻め、敗走する敵を東三条(ひがしさんじょう)まで追い、大木戸八郎(おおきどのはちろう)を射殺した。まもなく義朝が敗走すると、実基は龍華越(りゅうげごえ)まで従った。もともと義朝は京師にあったとき、幼い娘を実基に託していた。この時に至って尋ねて言った、「私は妻に頼んでこの子を匿わせている。心配には及ばぬ。」義朝は喜んで、「お前がこの子を育て上げよ」と言った。実基はどうしても供をしたいと固く願ったが、聞き入れられず、そのまま京師に戻り、心を尽くしてその娘を養育した。娘は成長すると、中納言藤原能保(ふじわらのよしやす)に嫁いだ。(注:『平治物語』による。)賴朝が挙兵すると、実基は義経に従って義仲を攻めた。(注:『源平盛衰記』による。)屋島の戦いでは、佐藤継信(さとうのつぐのぶ)らとともに進み、行宮を焼き払った。平氏の軍は大いに潰えた。(注:『平家物語』による。)子がなかったので、一族の佐藤仲清の子基清を養って跡継ぎとした。(注:『尊卑分脈』による。)
後藤基清
¶後藤基清(ごとう もときよ)は左衛門尉・検非違使に任じられた。(注:『尊卑分脈』『東鑑』による。)一ノ谷・屋島の戦いでは、父に従って功績があった。(注:『東鑑』による。○『平家物語』も参照した。)建久年間、平知盛(たいらのとももり)の子知忠(ともただ)が、紀二郎大夫友方(きのじろうたいふともかた)らとともに、法性寺(ほっしょうじ)のそばに潜伏し、挙兵を謀った。藤原能保は鎌倉に守備の兵を求めた。賴朝は基清を遣わしてこれに備えさせた。基清は子の基綱とともに兵を率いて知忠を襲い、士卒は矢に当たって死傷する者が多かった。基清は建物の材木を取り壊して堀を埋め、進んで攻めた。知忠は自殺し、残党はことごとく平定された。(注:○諸本の『平家物語』を参照した。)はじめ賴朝は基清を讃岐守護としたが、賴家が跡を継ぐに及んでこれを奪った。これが賴家が父の政治を改めた最初のことであり、当時の人々はこれを非難した。建保年間、掃部権助平正重(かもんごんのすけたいらのまさしげ)が京師にあって乱を謀ったので、基清はこれを撃って斬った。(注:『東鑑』による。)承久の役では朝廷方に味方し、軍が敗れて降伏し、罪は斬罪にあたるところであった。子の基綱は日頃から幕府方にあり、これを願い出て父を斬った。(注:『東鑑』『承久記』による。)基綱は左衛門尉・検非違使となり、佐渡守に任じられた。康元元年、死去した。(注:『関東評定伝』による。)
加藤景廉
¶加藤景廉(かとう かげかど)は、鎮守府将軍藤原利仁(ふじわらのとしひと)の八世の孫である。利仁の孫吉信(よしのぶ)は加賀介となり、子孫が繁栄して本国の豪族となった。景道(かげみち)の代に至って、これもまた介となり、加藤と称し、源賴義に従って陸奥の役に赴き、いわゆる七騎の一人であった。景道は景員を生み、加藤五と称した。(注:『尊卑分脈』による。○原本は景清に作り、『源平盛衰記』は景貞に作るが、今は『東鑑』に従う。○按ずるに『源平盛衰記』には、僧能因の子である月次蔵人が伊勢へ行き、柳馬入道の娘婿となって加藤五景員を生んだとあり、これとは大きく異なる。ひとまず備考として付す。)景員には二子があり、光員は加藤太と称し、景廉は加藤次と称した。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。○『尊卑分脈』が光員を景廉の弟とするのは誤りである。)父子ともに勇猛の名があったが、景廉は最も猛々しく勇敢で、腕力は人並み外れており、当時の人々に称賛された。(注:『源平盛衰記』による。)嘉応年間、勅命により源為朝を伊豆で誅殺することになった。景廉は兄光員とともにこの遣わされた軍勢の中にいた。為朝は官軍が到着したと聞くと、従者を解散させ、自ら刃に伏して死んだ。屍は柱にもたれて倒れず、様子はなお生きているかのようで、人々はその勇猛さを畏れ、あえて近づく者がなかった。景廉は身を挺して刀を振るい、その首を斬った。(注:『保元物語』による。)父景員は伊勢に住んでいたが、平氏の家臣伊藤某(いとうぼう)と怨みを結び、これを殺した。そこで二子を連れて東国へ逃れ、千葉・畠山を頼ったが、両氏とも罪に及ぶことを恐れ、あえて匿おうとしなかった。そこで工藤茂光(くどうのしげみつ)のもとへ身を寄せた。茂光は三戸二郎(さんのへじろう)という者と仲が悪く、兵を構えて争っていた。日頃から景廉兄弟の名を聞いており、その力を借りようとして、喜んでこれを庇護し、妹を景員の妻とした。当時、賴朝は伊豆にあり、関東の豪傑の多くが心を寄せていた。景廉兄弟はこれに頼るべきことを知り、常に往来して仕えた。賴朝もまたその才を見抜き、誠意をもって遇した。(注:『源平盛衰記』による。)賴朝が挙兵しようとしたとき、北条時政を遣わして目代平兼隆の山木館を襲わせ、景廉らを自分の護衛として留めた。出発に際して時政と、「事が成就すれば速やかに火をあげよ」と約束した。しばらく経っても火があがらず、賴朝は疑い恐れて、景廉を遣わして援護に赴かせ、父義朝の秘蔵の眉尖刀を取ってこれに与えて言った、「夜戦には長い武器が有利だ。お前は速やかに兼隆の首を斬って来い。」(注:○『東鑑』『源平盛衰記』を参照した。)景廉は山木へ馳せ向かった。時政の戦いは思わしくなく、景廉は従兵の洲崎三郎(すさきさぶろう)らとともに、進んで門に迫った。敵は矢が尽き兵も疲れて防ぐことができず、門を破って三人を射殺した。関屋八郎(せきやはちろう)という弓の名手がいて、呼ばわって言った、「敵将は誰か。私にはまだ矢が一本残っている。試してみたい。」景廉は洲崎を振り返って言った、「私が前に出て相手をすれば、必ず逃れられまい。思うに佐殿(賴朝)がいらっしゃる限り、私はいたずらに死ぬわけにはいかない。お前が私に代わって死んでくれぬか。」洲崎は門の中へ進み入り、自ら景廉と名乗ると、矢が胸を貫いて死んだ。景廉はその後に踏み込み、ついに関屋を斬り、さらに進んでもう一人を殺した。兼隆の寝室に至ると、兼隆は戸口に立って敵を待ち構えていた。景廉は兜を肩にかけ、眉尖刀を戸の間から突き入れた。兼隆は急いでこれを斬りつけたが、刀は鴨居に当たって阻まれた。景廉は突き入って刺し殺し、館に火を放って焼き、眉尖刀に首を掲げて馳せ帰り、これを献上した。賴朝は大いに喜んだ。(注:『源平盛衰記』による。)石橋山の戦いに敗れ、賴朝が杉山へ逃れる際、敵兵が迫り情勢は甚だ危うく、賴朝は力戦した。景廉は手綱を取って引き返し、父兄とともに留まって数合の防戦をし、その間に賴朝はようやく山中に身を潜めることができた。景廉父子はよじ登るようにして追いつき、将士も次第に集まってきたが、賴朝はこれを諭して散り散りに去らせた。景廉は父兄とともに筥根山に隠れ、三日間食べなかった。景員は二人の子に言った、「私はもう老いた。たとえ逃れ得たとしても、命は長くあるまい。お前たちは壮健なのだから、いたずらに死んではならぬ。私を捨てて去り、源家の所在を求めるがよい。」景廉らはこれに逆らうことができず、父を走湯山(そうとうさん)の僧に託し、光員とともに密かに伊豆へ赴いたが、土地の人々に怪しまれた。兄弟は道を分けて去り、駿河の大岡牧(おおおかのまき)で再会し、ついに富士山(ふじさん)に隠れた。まもなく賴朝の軍勢は大いに振るい、進んで駿河に至ると、景廉兄弟は武田信義に従って目代橘遠茂を撃ち、これを破った。(注:『東鑑』による。)
¶寿永三年、源範頼に属して、平氏を西海に攻めた。範頼が周防から豊後へ赴いた際、景廉は病が重かったが、無理に起きて従軍した。手紙を父に送って言った、「日頃、常に側にお仕えするよう命を受けておりましたが、緩急の場に臨んでは、困難を辞退すべき日ではありません。西海への従軍中に病にかかり死に瀕しておりますが、たとえ病で命を終えたとしても、将軍がこれを軍務における死と見なしてくださるなら、死してなお余りある栄誉です。」景員はこの書状を幕府に持参し、賴朝はこれを読んで深く嘆息し、見舞いの手紙を送り、厩の馬一頭を賜った。病が少し癒えると、速やかに鎌倉へ戻った。藤原泰衡を攻めた際にも、景廉兄弟は従軍して功績があった。梶原景時が罪を得たとき、景廉は日頃親しくしていたことに連座して所領を没収された。実朝が横死すると、髪を剃って名を妙髪と改め、覚蓮房と称した。承久三年、死去した。子は景朝・景義。景朝は加藤判官と称した。嘉禎年間、弟景義と伯父光員から伝わった所領を争い、景朝は政子の書状を証拠として出し、景義は言い分に窮して、景朝にこれを領させることとなった。(注:『東鑑』による。)
工藤茂光
¶工藤茂光(くどう しげみつ)は伊豆の名家である。六世祖藤原為憲は木工助となり、そのため工藤と称した。高祖維景は駿河守となり、曾祖維職は伊豆押領使となった。祖父維次は狩野九郎と称した。父は家次といい、やはりその号を襲った。茂光は伊豆介となり、狩野介と称した。(注:『尊卑分脈』『工藤系図』による。○按ずるに茂光を狩野介と称するのは、思うに伊豆権介でありながら狩野に住んでいたため、介の呼称を用いたのであろう。他にも三浦介などにこの類がある。)保元年間、源為朝が大島に流されると、島民を虐げ、貢物を掠め取った。嘉応二年、茂光は京師に赴いてこれを訴え、朝廷の議は茂光に武蔵・相模の兵を発して討伐するよう命じた。茂光はたやすくこれを撃ち平らげた。(注:『保元物語』による。)賴朝が挙兵すると、まず平兼隆を襲うよう命じ、茂光らは密かにその謀に与った。(注:『東鑑』による。)石橋山の敗戦の後、賴朝は土肥の杉山に逃げ隠れた。茂光は賴朝の足跡を求めて進んだが、体が肥満していて歩行に不便で、険しい所に臨むと息が上がって進めなかった。子の親光がこれを支えて歩かせた。茂光は言った、「佐殿は尋常の人ではない。お前たちは最後まで身を委ねるべきだが、決して二心を抱いてはならぬ。道は険しく敵は迫っており、両方とも助かることはできぬ。敵に捕らえられるくらいなら、お前の手にかかって死んだ方がましだ。」親光は忍びず、ためらってしばらく時を過ごしたが、茂光は自ら腹を切って伏した。外孫の田代信綱がこれを止めようとしたが間に合わず、親光は涙を収めてその首を落とした。(注:『源平盛衰記』による。)
¶子は親光(注:『源平盛衰記』による。)・宗茂・維光・行光。(注:『尊卑分脈』による。)親光は狩野工藤五郎と称し、藤原泰衡討伐に従い、三浦義村らとともに先陣を切り、力戦して死んだ。(注:『東鑑』による。)宗茂は狩野介の称を継ぎ、子の宗時は狩野新介と称した。維光は工藤二郎と称した。行光は民部武者所となった。(注:『尊卑分脈』による。)田代信綱の父は為綱といい、(注:○姓は不明。)伊豆守に任じられ、茂光の娘を娶って信綱を生んだ。任期が満ちて京師に帰る際、信綱を茂光に託して養わせ、田代冠者と号した。(注:『長門本平家物語』による。○『尊卑分脈』も参照した。)年はようやく十一であった。折しも賴朝が伊豆にあり、信綱は赴いて仕えた。石橋山の敗戦の際、追手が急に迫ってきたが、信綱は高い木に登って矢を射かけ、賴朝はその隙に逃れることができた。(注:『源平盛衰記』による。○原本には異説として、賴朝は従兵を散らして加藤景廉とともに甲斐へ逃れたとあるが、他に徴すべき書がないので、今は採らない。)後に鎌倉に従って入り、深く重用された。(注:『東鑑』による。)寿永年間、源義経に従って源義仲を討ち、また一ノ谷・屋島の戦いにも従い、いずれも功績があった。(注:『東鑑』『源平盛衰記』による。)
工藤景光
¶工藤景光(くどう かげみつ)は工藤荘司と称し、茂光の一族である。賴朝が挙兵すると、景光は子の行光とともにこれに馳せ参じた。賴朝が大庭景親に敗れた後、杉山に隠れていたとき、景親の弟俣野景久(またののかげひさ)が賴朝の逃走路を遮ろうとして、兵を率いて駿河に至った。景光は安田義定(やすだのよしさだ)とともに彼志太山(かのしだやま)で景久に遭遇し、戦ってこれを破った。(注:○彼志太山は、一本に波太山に作る。)景光は弓の名手で、賴朝が富士野で大規模な狩りを行った際、狩りで獲物を射た者に餅を賜う礼があった。景光はそのとき選ばれた第一の射手で、賴朝は真っ先に彼を召してこれを賜った。狩場に臨むと、一頭の鹿が飛び出した。景光はこれを見て、「これは私の獲物だ」と言い、弓を引き絞って待った。人々は皆注目した。一発は当たらず、追いかけて三発放ったが、いずれも当たらなかった。そこで弓を投げ捨てて嘆いて言った、「私は十一歳の頃から狩猟を業としてきた。今すでに七十余歳になるが、射れば必ず当ててきた。それなのに今、心が乱れて、鹿を逃してしまった。これはどうして山の神の仕業ではないだろうか。私の命はここで尽きるのだ。」夕暮れになると、果たして病が起こり、ついに起き上がれなくなった。子は行光。(注:『東鑑』による。)
工藤行光
¶工藤行光(くどう ゆきみつ)は小二郎と称した。陸奥の役では、弟の祐光および狩野親光・三浦義村・葛西清重(かさいのきよしげ)・藤原清近(ふじわらのきよちか)・河村秀清(かわむらのひできよ)とともに、夜、密かに熱借山(あつかしやま)を越え、西木戸に迫った。泰衡の兵に伴藤八(ばんのとうはち)という力自慢の者がおり、六郡無双と称されていた。行光はこれを撃って斬った。翌日、大軍が続いて進み、国衡らは敗走した。敵将金剛別当の子秀方は幼くして戦いに優れていたが、行光の従兵藤五がこれを撃って斬った。陸奥がことごとく平定されると、賴朝は軍を整えて岩井郡に至り、厨川(くりやがわ)に館を構え、その郡を行光に賜った。行光は杯酒と垸飯(おうばん)を献じた。賴朝が鎌倉に帰った当時、陸奥は平定されたばかりで、民心はまだ安定しておらず、根も葉もない噂が飛び交って、「義経らがなお生きており、密かに鎌倉を襲う謀をしている」と人々を驚かせた。賴朝は行光および由利維平(ゆりのこれひら)・宮六傔仗国平(みやのろくけんじょうくにひら)らを遣わしてこれに備えさせた。行光は腕力があり、賴朝が永福寺を創建した際、諸将はみな自ら下働きの労役に服したが、行光は畠山重忠らとともに棟木を挽き、その力は数十人分に匹敵し、見る者を驚かせた。行光には三人の壮士がいて、藤五・藤三郎・美源二といった。賴家が芝田二郎(しばたのじろう)を誅殺した際、藤五・藤三郎はちょうど陸奥から鎌倉へ赴く途中でこの事を聞き、馳せ戻って戦いに加わり、十余人を射殺した。芝田はついに敗れた。賴家は日頃からその勇名を聞いており、三人を召して引見し、その勇猛さを愛でて、一人を府に召し抱えようとした。行光は辞退して言った、「亡き幕下(賴朝)が平氏を滅ぼされて以来、亡き父景光はしばしば従軍して戦い、万死に一生を得たのは、皆この者たちの力によるものです。今、将軍は天下の精鋭を集め、ことごとく幕下に配しておられ、もとより不足はございません。私にはただこの三人の武士があるだけで、生死をともにする間柄でございます。どうかこれをお許しくださいますよう。」賴家はその言葉をもっともとし、無理強いはせず、杯酒を賜って引き取らせた。(注:『東鑑』による。)
比企能員
¶比企能員(ひき よしかず)は藤四郎と称した。(注:○『愚管抄』には能員は阿波の人とあるが、安房の誤りかと思われる。今は考証する術がない。)その家系の由来は詳らかでない。伯母の夫である掃部允某は、武蔵国比企郡の少領となり、三人の娘があった。掃部允が死去すると、伯母は髪を剃って尼となり、世に比企禅尼と呼ばれた。能員を養って自分の子とし、比企氏を名乗らせた。(注:『東鑑』による。)長女は丹後内侍といい、二条院に仕え、惟宗広言(これむねのひろこと)と私通して島津忠久(しまづのただひさ)を生み、後に関東に戻って安達盛長に嫁いだ。次女は河越重頼(かわごえのしげより)に嫁ぎ、その次の娘は伊東祐清(いとうのすけきよ)に嫁いだ。(注:『吉見家譜』による。)禅尼はかつて源賴朝の乳母を務めており、賴朝が伊豆にあったとき、国人は平氏を恐れて、あえて物資を援助する者がいなかった。禅尼は遠く二十年にわたって食糧を送り続け、一度も絶えることがなかった。また盛長・重頼・祐清にも援助させ、賴朝は深くこれに感謝した。(注:○『東鑑』『吉見家譜』を参照した。)賴朝が挙兵すると、能員は常に幕下にあり、次第に親しくされるようになった。寿永三年、信濃で源義高(みなもとのよしたか)の残党を撃った。この年、源範頼に従って平氏を撃った。賴朝が藤原泰衡を撃った際には、能員は宇佐美実政(うさみのさねまさ)らとともに、別に上野の兵を率いて、北陸道から越後を経て、出羽の念種関に出て、泰衡の将田河行文(たがわのゆきふみ)・秋田致文(あきたのむねふみ)を斬り、郡邑を平定した。途中、陸奥で賴朝と合流した。翌年、泰衡の旧臣大河兼任(おおかわのかねとう)が乱を起こすと、能員は東山道の兵を率いてこれを平定した。賴朝は禅尼への待遇が最も厚く、たびたびその家に赴いて宴を催した。(注:『東鑑』による。)盛長の娘を範頼に嫁がせ、重頼の娘を義経に配し、祐清の妻を平賀義信(ひらがのよしのぶ)に再嫁させるよう命じた。(注:『吉見家譜』による。)忠久には大隅・薩摩・日向三か国の守護職を授けた。能員は右衛門尉に任じられ、検非違使となった。賴家が生まれると、能員の妻をその乳母とした。賴朝が薨去し、賴家が立つと、能員の娘は賴家に寵愛され、若狭局と呼ばれ、子の一幡(いちまん)を生んだ。建仁年間、賴家の病が篤くなると、政子は関西の地頭職を弟の千幡(せんまん)に分け与えた。能員は憤慨し、一幡の母に命じて密かに賴家に告げさせ、北条氏を滅ぼそうとした。賴家は能員を召してこれを謀った。ちょうど政子がこれを密かに聞き、急いで時政に報せた。時政は使者を能員のもとに遣わして、「私は仏事を営んでおります。どうかお越しくださいますよう」と言った。能員は謀が漏れたことを知らず、赴こうとした。息子たちは諫めて言った、「あちらには密議がありますから、軽々しく行くべきではありません。たとえ行くにしても、厳重に警備すべきです。」能員は言った、「私がもし武装した者を従えれば、人々は必ず驚き騒ぎ、かえって疑いを招くだけだ。まして仏事を営んでいるのだから、警備など何の必要があろうか。今、将軍の代替わりに際して、あちらは相談すべきことがあるのだろう。」そこで赴き、ついに殺された。従者は逃げ帰ってこの変事を告げた。子の宗員らはその一族とともに一幡を擁して、小御所に拠って防戦した。義時は諸将を率いてこれを攻めた。一族は挙げて奮戦し、火を放って自殺した。忠久もまた連座して守護職を罷免された。(注:『東鑑』による。)
泉親衡
¶泉親衡(いずみ ちかひら)は小二郎と称した。鎮守府将軍源満仲(みなもとのみつなか)の弟下野守満快(みつよし)の子孫である。満快の子甲斐守為満(ためみつ)は、源賴信の娘を娶って為公(ためきみ)を生んだ。為公は信濃守となり、子孫は代々信濃に住んだ。父公衡(きみひら)は泉二郎と称した。親衡は人並み外れた腕力の持ち主であった。(注:『尊卑分脈』による。)建保年間、将軍賴家の子千寿丸(注:○千寿丸は『保暦間記』による。)を奉じて北条氏を滅ぼそうと謀り、僧安念(あんねん)を諸国に巡らせて将士を誘ったところ、応じる者が次第に多くなった。安念は千葉成胤(ちばのなりたね)のもとを訪れたが、成胤は彼を縛って北条義時のもとに送った。義時は取り調べて事情を明らかにし、そこで兵を遣わして親衡を捕らえようとした。親衡は奮戦して多くの死傷者を出させたが、ついに逃亡し、その行方は知れなかった。(注:『東鑑』による。)後世、武勇を語る者は、親衡と朝比奈義秀(あさいなのよしひで)を並び称したという。(注:『太平記』による。)弟公信(きみのぶ)は六郎と称した。和田義盛が兵を挙げて義時を攻めた際、公信は幕府方に属し、戦死した。(注:『尊卑分脈』『東鑑』による。)
河村秀清
¶河村秀清(かわむら ひできよ)は幼名を千鶴丸といった。(注:『東鑑』による。)藤原秀郷の後裔で、佐藤氏の分家である。祖父遠義(とおよし)は筑後守となった。父秀高(ひでたか)は河村と号し、山城権守となった。(注:『尊卑分脈』による。○秀高については『東鑑』による。)秀清の母は源賴朝に仕え、京極局と称した。治承年間、秀清の兄秀義(ひでよし)は大庭景親に属し、石橋山で戦った。景親が死ぬと、秀清は落ちぶれて名を隠し、京極局に養育された。文治五年、賴朝が藤原泰衡を討った際、秀清は年十三で陸奥まで従った。泰衡は熱借山に砦を築き、庶兄国衡(くにひら)にこれを守らせた。秀清は三浦義村ら六人とともに、夜、密かに先鋒畠山重忠の陣営を越えて登り、葛西清重とともに敵陣を犯して格闘し、討ち取った数は頗る多く、続けて味方の大軍が到着した。城が陥落すると、賴朝は自ら名乗ることを許し、秀清を船迫(ふなはさま)の駅に召してこれを問うた。彼が秀高の子であることを知ると、陣中で元服させ、加加美長清(かがみのながきよ)に烏帽子親として冠を加えさせ、今の名を賜り、四郎と称した。承久の役では北条泰時に属し、宇治橋(うじばし)で戦い、首級を得た。(注:『東鑑』による。)伯父義通(よしみち)は波多野三郎と称した。(注:『尊卑分脈』による。○『平治物語』は二郎に作る。)平治年間、源義平に属し、待賢門で戦った、いわゆる十六騎の一人である。(注:『平治物語』による。)