卷之一百九十六 列傳第一百廿三

將軍家臣六

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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畠山重忠

畠山重忠(はたけやましげただ)は、幼名を氏王丸(うじおうまる)といい、武蔵国(むさしのくに)の出身である。その先祖は平高望(たいらのたかもち)の子である良文(よしふみ)にさかのぼる。良文は武蔵国村岡(むらおか)に住み、忠頼(ただより)を生んだ。忠頼は村岡二郎と称し、将常(まさつね)を生んだ。将常は武蔵守となり、武基(たけもと)を生んだ。武基は秩父別当(ちちぶべっとう)と号し、武綱(たけつな)を生んだ。武綱は源頼義(みなもとのよりよし)に従って陸奥(むつ)の賊を討ち功績を挙げ、重綱(しげつな)を生んだ。重綱は下野権守(しもつけごんのかみ)・武蔵留守所総検校(むさしるすどころそうけんぎょう)となり、秩父権守と号し、重弘(しげひろ)を生んだ。重弘は重能(しげよし)を生んだ。重能は畠山荘司(はたけやましょうじ)となり、三浦義明(みうらよしあき)の娘を娶って重忠を生んだので、荘司二郎と称した(注:ここは『尊卑分脈』『平氏系図』『畠山系図』を参照して記した)。重能は源義平(みなもとのよしひら)に従い、大蔵(おおくら)で源義賢(みなもとのよしかた)を攻めて功を立てた(注:『源平盛衰記』による)。

治承(じしょう)四年、源頼朝(みなもとのよりとも)は以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて兵を挙げ、平氏討伐に立ち上がった。伊豆(いず)・相模(さがみ)の豪傑たちは先を争って馳せ参じた。当時、重能とその弟の小山田有重(おやまだありしげ)はともに京にあったが、平氏は重能の一族がみな頼朝に属していることを嫌い、二人を京にとどめて帰さなかった(注:『平家物語』による)。そのため重忠は頼朝の召集に従わなかった。八月、頼朝が石橋山(いしばしやま)に拠ったとき、大庭景親(おおばかげちか)は武蔵・相模の兵を率いてこれを撃破した。重能の一族である渋谷重国(しぶやしげくに)、および有重の子の稲毛重成(いなげしげなり)は、景親とともに頼朝を攻めた。重忠もまた五百余騎を率いて芋金江山(いもがねえやま)に陣を布いた。時に年十七であった。折しも三浦義澄(みうらよしずみ)・和田義盛(わだよしもり)らが兵を率いて頼朝を助けに向かっていたが、途中で頼朝敗北の報を聞いて引き返す道すがら、重忠の陣のそばを通りかかり、義盛が大声でこれを挑発した。重忠は部下に「われらと三浦氏との間にはもとより遺恨はない。しかし彼らが先に仕掛けてきた以上、一矢を報いぬわけにはいかぬ」と言い、追って小坪(こつぼ)まで至ると、使者を義盛のもとに送ってこう伝えさせた。「重忠と貴殿らとの間にはもとより些かの隔たりもなく、刃を交えるべき筋合いはない。しかし父や叔父がともに京にいるため、やむなく兵を挙げて平氏に応じたのである。今、貴殿らは源氏に属し、われを挑発する。もし応じなければ、父や叔父に申し開きが立たぬ。あえて一戦を求める。」義盛もまた使者を送ってこう返答した。「そなたの父君は大介(だいすけ、三浦義明)の女婿であり、そなたはその外孫にあたる。孫でありながら祖父に逆らうとは何事か。しかも佐殿(すけどの、頼朝)は院宣を奉じて平氏を討とうとしておられる。そなたが今これに逆らえば、のちに悔いても及ばぬ。よくよく思案されよ。」そこで重忠の部将である榛沢成清(はんざわなりきよ)が義盛の陣に赴いてこう説いた。「三浦氏と秩父氏は、ともに義を等しくする一族であり、もとより苦楽を共にすべき間柄である。源氏に付き平氏に属したのは、一時の情勢に引かれたに過ぎない。両家いずれが勝つかはまだ分からぬのに、私闘をもって兵を構えるのは甚だよろしくない。兵を退いて日頃の誼みを全うするに越したことはない。」義盛はこれを重忠の本意と見て、これを許した。ところが義盛の弟の義茂(よしもち)は和議が成ったことを知らず、馬を躍らせて陣に突入した。重忠は「義盛は和を装い、われらの不備を突いて襲ってきたのだ」と考え、兵を放って迎え撃った。義澄・義盛が救援に駆けつけ、重忠方の壮士で死んだ者は五十余人に上った(注:五十余人は『吾妻鏡』による。本書では「五」を「三」に作る)。重忠は大いに怒り、陣を冒して進み、義茂を討ち取ろうとした。義茂は矢を放って重忠の馬に命中させ、馬は倒れたが、成清が自分の馬を重忠に与え、本田親恒(ほんだちかつね)とともに再び先の和議を申し入れ、両軍はようやく兵を収めて退いた(注:『源平盛衰記』による)。一日置いて、重忠は一族の河越重頼(かわごえしげより)らとともに、金子(かねこ)・村山(むらやま)の諸党三千余騎を率いて相模に至り、三浦一族を衣笠城(きぬがさじょう)に攻めてこれを落とした(注:『吾妻鏡』『源平盛衰記』による)。まもなく頼朝の軍勢は勢いを増し、兵を率いて武蔵に至った。重忠はこれに降ろうとしたが、小坪・衣笠の一件があったため、なお迷って決しかねていた。成清は言った。「われらは源氏に四代にわたる恩があり、平氏に従ったのは一時の権勢に過ぎない。近親が敵となるのは武家の常であり、近くは保元(ほうげん)の乱がそれである。小坪・衣笠の戦いは思いがけず起こったことだ。私が思うに、佐殿は決して深くお咎めにはなるまい。もしためらって参上しなければ、必ず攻めて来られよう。速やかに参じて帰順するに越したことはない。」重忠はこれをもっともとし、兵を率いて武蔵に赴き、長井の渡し(注:長井の渡しは『吾妻鏡』による)で降参を願い出た。頼朝はこれを責めて言った。「そなたはどうして三浦一族を攻め、衣笠城を落としたのか。今になって降ると言われても、わたしはそなたを信じられぬ。もし平氏がそなたの父や叔父を手先に用いれば、親子で兵を交えることになるのではないか。」重忠は答えた。「臣は愚かで進退の分別を知らず、ただ父や叔父が京にあるために、やむなく兵を出して責めを塞いだまでのことです。小坪・衣笠の一件は、臣の本意ではありませんでした。将軍が三浦の者たちにお尋ねになれば、事の次第はおのずと明らかになりましょう。」頼朝はまた重忠の背旗を見てなじった。「わたしの旗と同じではないか。わたしに逆らおうというのか。」重忠は言った。「昔、八幡殿(はちまんどの、源義家)が清原武衡(きよはらのたけひら)を討ったとき、臣の高祖父である武綱は徴発に応じ、真っ先に馳せ参じました。八幡殿はこれを賞め、この旗をお授けになり、先鋒とするよう命じられ、武綱はついに戦功を立てました。父の重能もまたこの旗を掲げ、悪源太殿(あくげんたどの、源義平)に従って大蔵館(おおくらやかた)を滅ぼしました。源氏にとって縁起のよい旗であることから吉例と名付けられ、伝わって臣に至ったのです。今日の出陣も、将軍が基業を開かれる始めであるゆえ、これを掲げて参上したまでのことです。」頼朝はそこで土肥実平(どひさねひら)・千葉常胤(ちばつねたね)に諮った。二人は言った。「重忠の申すところは、まことに筋道が通っております。その人柄は誠実であり、これを許して用いれば、必ず一方面を制するに足る人物です。さもなくば、相模・武蔵の将士はみな『畠山ですら許されぬのなら、まして我らはなおさらだ』と思い、二度と参じては来ますまい。」頼朝はこれをもっともとし、重忠に「わたしが天下を平らげる間、そなたには常にわたしの先駆けを務めてもらいたい」と告げ、藍色の皮一枚を与えて旗の上に付けさせ、他と区別する印とした。畠山氏の旗に小紋の藍革を付けるのは、これに始まる。まもなく武蔵・相模の武士たちも、後れることを恐れて次々と降った(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。

寿永(じゅえい)二年、重能・有重は平維盛(たいらのこれもり)に従い、加賀(かが)で源義仲(みなもとのよしなか)を攻め、安宅(あたか)の港に陣を布き、三百余騎を率いて(注:『長門本平家物語』では五百余とする)篠原嶽(しのはらだけ)で戦った。重能は敵が川を渡るのを見て、兵を督励して進んだ。義仲は樋口兼光(ひぐちかねみつ)に「赤旗を掲げて来るのは何者か」と問うた。兼光は「畠山重能です」と答えた。義仲は「畠山は武蔵の名族、匹敵するに足る相手だ。そなたがまず当たれ」と命じた。兼光は陣を張って進み、重能は激しく戦い、しばらくして両軍は退いた(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。やがて京が陥落すると、平宗盛(たいらのむねもり)は養和帝(ようわてい)を奉じて西海へ落ち延びようとしたが、重能・有重の家族が関東にいることから、二人を斬ろうとした。筑後守(ちくごのかみ)平貞能(たいらのさだよし)がこれを諫めて止めた(注:『吾妻鏡』『長門本平家物語』を参照した。諸本の『平家物語』では、これを諫めて止めたのは平知盛であるとする)。重能兄弟は御輿に従って淀(よど)まで至った。宗盛は二人に東国へ帰るよう諭したが、重能は「家族を顧みて主君を見捨てるのは、志ある者の恥とするところです」と答え、あくまで供をしたいと願った。宗盛は聞き入れなかった。重能らはやむなく別れを告げ(注:『源平盛衰記』による)、ついに源氏に属した。有重はのちに鎌倉にあり、頼朝が一条忠頼(いちじょうただより)を殺したとき、有重は子の稲毛重成・榛谷重朝(はんがやしげとも)とともにこの一件に関与した(注:『吾妻鏡』による。重能のその後の事跡はこれ以後見えず、諸書にも考証すべき記載がない)。寿永三年、頼朝は弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を遣わして義仲を討たせ、重忠は五百余騎を率いて義経に従い宇治(うじ)に赴いた。義仲は東国の軍勢が大挙して迫ると聞き、将士を遣わして橋板を撤去させ防戦させた(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。東軍は川を渡れず、義経は諸将の考えを聞こうとして「水勢が衰えるのを待って渡るべきか、それとも道を変えて淀・芋洗(いもあらい)を経るべきか」と議した。重忠は進み出て言った。「この川の流れが速いことは人々の言うとおりですが、荒れ狂うほどのものではありません。春には雪解け水で増水し、減ることはあっても増えることはないほどですが、治承(じしょう)の戦いのとき、足利忠綱(あしかがただつな)はこれを渡っております。彼とて鬼でも神でもなく人間です。重忠が諸軍のために試してみましょう。」そう言って兵士たちを励まし、乱流の中を渡った。重忠の馬は矢に当たったので、水底を潜って進み、大串重親(おおくしのしげちか)が馬を失って溺れかけているのを助け、岸に押し上げると、予備の馬に乗り換えて進んだ(注:『平家物語』による。『源平盛衰記』には次のように異なる話が伝わる。重忠が兵を指揮しているのを、義仲の将である根井幸親(ねのいゆきちか)がその姿を望み見て「あれは範頼ではない、きっと義経であろう」と言い、弓を引いて射たが誤って馬に当たった。重忠は馬を肩に担いで水底を潜り渡ったという。幸親は「大将が最初の一矢を誤った以上、重ねて射るべきではない」と言って盾の後ろに退いたとも伝える。本文とは食い違いがあり、いずれが正しいか分からない)。諸軍が続いて渡り、大いに戦ってこれを打ち破った。義仲の従弟である長瀬義員(ながせよしかず)が出て重忠を迎え撃とうとしたが、重忠が刀を振るってまっすぐ進むと、義員は戦わずして逃げた(注:諸本の『平家物語』では「義員」を「重綱」に作る。白本には「重経」とあり、重忠に討ち取られたとする)。重忠は京に進み入り、義仲と六条河原(ろくじょうがわら)で戦い、その将である二河頼致(にかわよりむね)を斬り、義仲は敗走した。そこで重忠は義経とともに法皇(ほうおう)に拝謁し、諸軍は義仲を追撃した。重忠は義仲を取り逃がすことを恐れ、みずからも兵を率いてこれを追った。三条河原(さんじょうがわら)に至り、川を隔てて矢を射合ううち、義仲がやや退いたので、重忠はついに川を渡った。このとき一騎の兵が奮戦して陣に切り込んできた。重忠が成清に「あの奮戦する者は何者か」と問うと、成清は「義仲の愛妾の鞆絵(ともえ)という者で、今井・樋口の妹です」と答えた。重忠は笑って「それは義仲の寵愛する女だ。生け捕りにしてやろう」と言い、兵を指揮して馳せ向かった。義仲が救援に駆けつけ、数合斬り結んだ。重忠が鞆絵の鎧の袖を捉えようと迫ると、鞆絵は鞭を振るって疾走し、馬が跳ねて袖がちぎれたので、重忠は手を離して去らせた。範頼・義経による平氏討伐の際、重忠は範頼の配下にあった。梶原景時(かじわらかげとき)が範頼に属するに及び、重忠はその驕り高ぶった態度を嫌い、その指揮を受けることを恥じ、また義経の武才に心服していたため、ついに義経の配下に移った。義経は喜んで「重忠の武勇は並ぶ者がない。これを景時に代えたのは実に大きな利益だ」と言った。重忠は義経に従って鵯越(ひよどりごえ)を越え、一ノ谷(いちのたに)で平氏を攻めて功を立てた(注:『源平盛衰記』による)。

文治(ぶんじ)三年、伊勢(いせ)の神人(じにん)である貴部(きべ)の大領(だいりょう)家綱(いえつな、注:家綱の姓は原文に欠けている)が、「重忠の目代(もくだい)が神戸(かんべ)で乱暴を働いている」と訴えた。頼朝は怒り、重忠の所領を削って千葉胤正(ちばたねまさ)の屋敷に拘留した。重忠は七日間絶食し、口を閉ざして何も語らなかった。胤正がこれを報告すると、頼朝は大いに驚き、重忠を釈放して召し出した。重忠は拝謝したのち、同輩たちにこう語った。「およそ所領を受ける者は、目代を選ぶことに慎重であるべきだ。わたしは常々清廉であることを心がけてきたのに、今、不心得者を任じてしまい、自らこの恥辱を招いた。」頼朝は重忠に元の所領を返したが、伊勢の沼田御厨(ぬまたのみくりや)だけは取り上げて吉見頼綱(よしみよりつな)に与えた。重忠が武蔵に帰ると、梶原景時はその隙に乗じて「重忠は恨みを抱いており、一族を集めて菅谷(すがや)に拠って謀反を企てている」と讒言した。頼朝は結城朝光(ゆうきともみつ)・下河辺行平(しもこうべゆきひら)らを召してこれを協議させた。朝光は言った。「先に重忠は目代の不正のために、しばらくお咎めを受けましたが、あのときもひたすら自らの落ち度を認め、恨む様子は少しもありませんでした。あの人物は生まれつき忠実で、神を敬い義を重んじる者であり、決して異心を抱くような者ではありません。召し出して、直接その心情をお確かめになるのがよろしいでしょう。」頼朝はこれをもっともとし、行平が重忠と親しいことから、行平を遣わして召させた。行平が事の次第を告げると、重忠は大いに憤って言った。「わたしに何の不満があろうか。それなのに、これまでの功績を自ら捨てて、たちまち謀反人にされてしまった。真心をもって奉公してきたことは、幕下(ばっか、頼朝)もご存じのはずだ。それなのに讒言に陥れられ、自ら申し開きをする術もない。そなたは頼朝の命を受けて来たのだから、わたしを討とうというのだろう。」そう言って刀を抜き自害しようとした。行平は慌ててこれを止めて言った。「そなたは常々、偽りのない人物だと自称していたのに、なぜ今、これほどまでに人を疑うのか。誠意をもって人に接するのは、わたしとてそなたに引けを取らぬ。そなたは将軍の血縁であり、わたしもまた四代の将軍の子孫だ。互いに戦って雌雄を決するに値する間柄ではないか。どうしてわたしが謀をもってそなたを陥れる必要があろう。」重忠はそこで杯を勧め、日頃の親しみを尽くしたのち、行平とともに鎌倉に至り、景時に対して申し開きをした。景時は「そなたに本当に謀反の心がないのなら、誓紙を差し出すべきだ」と言った。重忠は答えた。「もし人が、わたしが権勢に頼って財貨を強奪していると言うのなら、深く恥じ入るところだ。しかし今、いわれのない謀反人という汚名を着せられたのは、かえってわたしの勇名を示す結果になったに過ぎない。とはいえ、わたしは源氏の興隆に巡り会い、身を幕府に委ねて、いまだかつて二心を抱いたことはない。それなのに突然讒言を被ったのは、まことに不幸なことだ。わたしの心と言葉には食い違いがない。どうして誓紙などを煩わせる必要があろうか。そもそも誓紙とは不正を防ぐためのものであり、わたしのこの真心は幕下がご存じのことだ。そなたはこのことを申し上げてくれ。」景時がこれを頼朝に伝えると、頼朝は黙って何も言わなかった。そして召し出された際も、ただ時候の挨拶を交わしただけで、糾問には一切及ばず、事はそのまま収まった。文治五年、頼朝は自ら藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討つべく出陣し、重忠は先鋒として国見沢(くにみざわ)に陣を進めた。泰衡は熱借山(あつかりやま)に砦を築き、山下に幅五丈の堀を掘り、川の流れを引き入れて水を溜め、庶兄の西木戸国衡(にしきどくにひら)に守らせていた。重忠はまず人夫を出し、堀を埋めて攻め口を通させた。泰衡の将である金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)は数千の兵を率いて山下に陣を布いていた。重忠は小山朝光(おやまともみつ)・加藤景廉(かとうかげかど)らとともに進撃してこれを打ち破った。秀綱は退いて大木戸(おおきど)に帰り、国衡と合流した。頼朝は軍中に翌日山を越えるよう命じた。その夜、三浦義村(みうらよしむら)・葛西清重(かさいきよしげ)ら七人は先陣を切ろうとして、夜のうちにひそかに重忠の陣の下を通り過ぎた。成清は重忠にこう告げた。「あなた様は先鋒として、ここに陣を布いておられます。それなのに諸将が先を争って身を挺して進もうとしております。どうかこれを引き止めてください。さもなければ幕府に訴え、軍法をもって処すべきです。」重忠は言った。「わたしはすでに先鋒を務めている。たとえ他人が先に敵を破ろうとも、わたしに功がないわけではない。それに人の先陣を妨げることは、わたしの望むところではない。黙ってその功を見過ごすに越したことはない。」そう言って知らぬふりをして通した。清重らは果たして激しく戦い、多くの首級を挙げた。翌朝、頼朝が大木戸に迫ると、国衡はこれを力戦して防いだ。重忠は朝光らとともに攻めかかり、大いにこれを破った。奥州軍は総崩れとなり、国衡は逃走した。和田義盛が矢を放ってその腕に命中させ、大串重親が追いついてこれを斬った。重忠はその首を頼朝に献上した。この話は義盛の伝に詳しい。泰衡はついに部下に殺され、その首級が本陣に届けられた。頼朝は重忠と義盛にこれを検分させた。宇佐美実政(うさみさねまさ)は泰衡の勇将である由利維平(ゆりこれひら)を生け捕りにしたが、天野則景(あまののりかげ)が遅れて到着し、とどめを刺した。捷報を献上する段になって、二人はどちらの功かを争って決着がつかなかった。頼朝はひそかに二人の鎧と馬を確認させ、景時に維平へ問わせた。景時は維平に「そなたは泰衡の勇将であるから、偽りは申すまい。そなたを捕えた者はどのような鎧をつけていたか」と尋ねた。維平はその横柄な態度に怒り、目を怒らせて言った。「そなたは佐殿の家来であろうに、何と傲慢な物言いをするのか。故御館(こみたち、藤原秀衡)は鎮守府将軍の正統な後継者であり、そなたの主君ですら軽々しくそう呼ぶべきではない。まして、そなたはわれらと同輩の身でありながら、よくもそのような言葉を口にできるものだ。運が尽きて捕らえられるのは、勇士として常のこと。わたしは断じてそなたの問いには答えぬ。」景時は恥じ入り、赤面して頼朝に「あの醜い虜(とりこ)は口を極めて罵るばかりで、それ以上の言葉はありませんでした」と報告した。頼朝は景時に無礼があったことを見抜き、改めて重忠にこれを命じた。重忠は自ら座を設けてもてなし、ゆっくりとこう尋ねた。「武人が捕虜となることは、昔からあることで、恥とするには当たらぬ。わたし自身、二品(にほん、頼朝)といえども、かつて六波羅(ろくはら)で辱めを受けたことがある。しかし一旦奮い立てば、天下を平定するに至った。貴殿もいま囚われの身にあるとはいえ、どうしてこのまま朽ち果てることがあろうか。貴殿の勇名は六郡(ろくぐん)に鳴り響いており、それゆえ将士たちは貴殿を捕らえた功を我こそはと争って決着がつかずにいる。この者たちの優劣は、貴殿の一言にかかっている。貴殿を捕えた者は、どのような鎧馬であったか。ぜひお聞かせ願いたい。」維平は言った。「貴殿はいわゆる畠山殿ではないか。応対に礼儀があり、先の者のような傲慢さとは違う。貴殿にならば申し上げぬわけにはいかぬ。わたしを捕えた者は黒糸縅(くろいとおどし)の鎧をつけ、鹿毛(かげ)の馬に乗っていた。その後は大勢が群がり集まり、記憶にない。」重忠はこれを頼朝に報告し、頼朝はそれが実政であったと知り、維平を重忠に預けて厚く遇させた。陸奥が平定されると、頼朝は論功行賞を行った。三浦義村らへの恩賞はかなり手厚いものであった。重忠には葛岡郡(くずおかぐん)が与えられたが、その地は狭小であった。重忠はひそかに親しい者にこう語った。「わたしは先鋒を命じられていたが、大木戸の戦いでは他の者に先を越されてしまった。それを知りながら止めなかったのは、功を同輩に分け与えたかったからだ。その恩賞のありさまを見ると、まさにわたしの思ったとおりになった。」(注:『吾妻鏡』による。)頼朝はかつて将士の座次を三列に分けたが、重忠は三浦・梶原とともに第一列に列せられた。重忠が重んじられていたことは、これほどのものであった(注:『源平盛衰記』による)。

頼朝が薨去すると、頼家(よりいえ)が跡を継いだ。頼朝の遺言により、重忠と忠直(ただなお)がこれを補佐することとなった。建仁(けんにん)二年、頼家は比企能員(ひきよしかず)に密命を下し、北条氏を討たせようとした。この企ては露見し、北条時政(ほうじょうときまさ)は能員を誘い出して殺した。能員の子や甥、婿たちは、頼家の子である一幡(いちまん)の屋敷に拠って抵抗した。重忠は義盛らの諸将とともに、北条義時(ほうじょうよしとき)に従ってこれを攻めた。敵兵は死力を尽くして戦い、諸将はやや後退したが、重忠は精鋭を選んで突撃し、敵は支えきれず、屋敷は火に包まれて全員が死んだ。元久(げんきゅう)元年、実朝(さねとも)が妻を迎えるにあたり、重忠の長男である重保(しげやす)は北条政範(ほうじょうまさのり)らとともに京へ迎えに赴いた。重保は平賀朝雅(ひらがともまさ)のもとを訪れたが、重忠と朝雅はともに時政の娘婿であり、しかも重忠の妻は時政の先妻の子であった。重保は朝雅と酒を酌み交わすうちに口論となり、同席の客が仲裁して事なきを得た。しかし朝雅はなお怒りを収めきれず、重保父子のことを妻の母である牧氏(まきうじ)に悪く言った。牧氏はこれを根に持ち、ひそかに時政に讒言した。時政は重忠を殺そうと考え、稲毛重成(いなげしげなり)と謀った。重成はその意を受けて、重忠が謀反を企てていると告げた。そこで時政はひそかに義時・時房(ときふさ)と相談した。二人はこう諫めた。「重忠はたびたび勲功を立て、ひたすら忠義一筋に生きてきた者です。それゆえ将軍もその誠意をよくご存じで、後事を託されたのです。しかも能員の変の折には、あちらを離れてこちらに付いたのですから、これはまさに子や婿としての情誼の厚さを示すものではありませんか。今さら何の恨みがあって、にわかに異心を抱くというのですか。父上が一方の言い分だけを軽々しく信じて、いきなり誅殺に及び、もし後で誤りだったと悔いても、取り返しがつきましょうか。よくよく真偽を見極めてから事を図っても、遅くはありますまい。」時政は不機嫌な様子で席を立った。牧氏はこれを聞くと、人を遣わして義時にこう伝えさせた。「重忠の謀反はすでに明らかであり、わたしは家や国に禍が及ぶことを恐れて、遠州(えんしゅう、時政)に告げたのです。それなのに、あなたはよこしまな心で重忠をかばい立てするとは、どういうつもりですか。継母だからといって、わたしを讒言する者に仕立てようというのですか。」義時は恐れてこれに従った。これより先、稲毛重成は策をめぐらして重保を鎌倉に呼び寄せ、時政は実朝の命と称して兵を遣わし重保の屋敷を囲ませた。重保は奮戦して討ち死にした。重成はまたその子某(なにがし)を菅谷(すがや)に遣わし、重忠を欺いて「鎌倉に一大事が起きたので、急ぎ参られよ」と告げさせた。重忠はこれを信じ、鎌倉へ向かおうとした。当時、重忠の二人の弟のうち、長野重清(ながのしげきよ)は信濃(しなの)に、重宗(しげむね)は陸奥(むつ)にあったため、ともに従うことができなかった。重忠はわずか百三十余騎を率いて出発した。鎌倉ではものものしく警戒態勢が敷かれ、義時・時房が諸将を総督して、それぞれ道を分けて武蔵に向かった。従軍する者は非常に多く、山野を埋め尽くすほどであった。重忠が二股川(ふたまたがわ)まで進んだところで、初めて重保が殺されたことを知った。義時が攻め寄せてきたので、親恒・成清は重忠にこう進言した。「大軍が突然押し寄せてきました。この勢いには到底かないません。武蔵に引き返して要害に拠り、防戦するに越したことはありません。」重忠は言った。「危難に臨んで家を忘れるのが、大将たる者の本分だ。まして重保はすでに死んでしまった以上、わたしに何の未練があって故郷に帰ろうか。かつて梶原景時は死を恐れて逃亡し、その骸を道に晒して世の笑い者となった。わたしには疚しいところは何もないのに、どうしてその二の舞を演じられようか。」そこで鶴峰(つるがみね)に陣を布いた。安達景盛(あだちかげもり)は野田与一(のだよいち)・加治宗季(かじむねすえ)ら七人を率いて、兵を進めて攻めかかった。重忠はこれを望み見て「景盛はわたしの弓馬の友だ」と言い、子の重秀(しげひで)に命じてこれに当たらせた。数合斬り結ぶうちに、重忠は鋭鋒を挫き堅陣を破り、多くの死傷者を出させた。宗季をはじめ壮士の多くが討ち死にした。夕暮れどき、重忠は愛甲季隆(あいこうすえたか)の矢に当たって討ち死にした。時に年四十二であった。無実の罪による死であったため、人々はみな嘆き惜しんだ(注:『愚管抄』には、軍勢が重忠の勇猛を恐れて近づけず、重忠はついに自害したとある)。配下の者たちも、あるいは戦死し、あるいは自害した(注:『吾妻鏡』による)。重忠は多くの兵を擁し、武蔵国随一の勢力を誇り、勇武は並ぶ者がなく、頼朝の遺言によって頼家の補佐を託されていた。時政はかねてより重忠を忌み嫌い、何かにかこつけて除こうとしたため、この禍にあったのである(注:『吾妻鏡』『愚管抄』『保暦間記』を参照した)。義時は首級を鎌倉に送った。時政が合戦の顛末を尋ねると、義時はこう答えた。「重忠の親族の多くは他所におり、率いていた兵はわずか百余騎に過ぎませんでした。これを見れば、謀反を企てた者とは思えません。どうしてこれほどの讒言が通ったのでしょうか。まことに哀れむべきことです。」時政は黙って何も言わなかった。この日、稲毛重成とその子の小沢重政(おざわしげまさ)、弟の榛谷重朝、重朝の子の重季(しげすえ)・秀重(ひでしげ)は、みな殺された(注:『吾妻鏡』による)。

重忠は生まれつき篤実な人柄で、控えめな態度で自らを律していたが(注:『吾妻鏡』による)、それでいて威厳があった。同輩たちは重忠がそばにいると、たとえ夏の暑い盛りに涼を求めているときでも、居ずまいを正して畏まったという。人々に敬われ畏れられていたことは、これほどのものであった(注:『愚管抄』による)。かつて重忠は栂尾(とがのお)に高弁(こうべん)を訪ねようとしたことがあった。高弁の弟子たちは遠くに立ち上る砂塵を望み見て「京で火事だ」と言ったが、高弁は「そうではない。きっと勇士がやって来るのだろう。これはその前触れだ」と言った。しばらくして重忠が到着し、華厳(けごん)について語り合って帰っていったという(注:『吾妻鏡』による)。また重忠には並外れた怪力があった。長居(ながい)という者が、自らの膂力を頼んで「今、わたしの力は関東随一であり、恐れるべき者はただ畠山二郎だけだ」と豪語していた。頼朝はこれを疎ましく思い、重忠に相撲を取らせた。重忠は長居の肩を押さえつけて地に伏せさせ、長居は骨が砕けて息絶えた(注:『古今著聞集』による)。頼朝が永福寺(ようふくじ)を建立した際、諸将はみずから手を下して工事にあたった。重忠は佐々木広綱(ささきひろつな)・城長茂(じょうのながもち)らとともに自ら棟木を挽いたが、その働きぶりは数十人分の仕事に匹敵した。重忠は一丈ほどもある大石を捧げ持って、池の中に据えたこともあった。頼家が波多野盛通(はたのもりみち)に景時の残党である勝木則宗(かつきのりむね)を捕らえさせたとき、盛通は後ろから則宗に組みついた。則宗はもともと力が強く、右手を抜いて刀を取り、盛通を刺そうとした。ちょうどそばにいた重忠が左手を伸ばして則宗の腕を握ると、骨が砕けた。盛通はそのすきに則宗を縛り上げて捕らえた。頼家は盛通に恩賞を与えた。真壁紀内(まかべきない)という者が、日頃から盛通と折り合いが悪く、頼家にこう告げた。「則宗を捕らえたのは重忠であって、盛通ではありません。」頼家が召してこれを問うと、重忠は「臣は実際には関与しておりません」と答えた。そして退出したのち紀内を責めて言った。「およそ武士たる者は、邪心のないことを貴ぶべきだ。そなたは盛通に恨みがあるからといって、なぜ自分がこれを捕らえたと言わなかったのか。盛通は勇猛な者であり、重忠の手を借りるような人物ではない。」重忠が功を人と争わなかったことは、みなこの通りであった(注:『吾妻鏡』による)。かつて頼朝は生唼(いけずき)という駿馬を持っていた。義仲討伐に際して、諸将の多くがこれを望んだが、頼朝は惜しんで与えず、佐々木高綱(ささきたかつな)に賜った。高綱がただ一騎で富士川(ふじかわ)へ向けて進んでいたとき、重忠は田子浦(たごのうら)に宿営していたが、遠くに馬のいななきを聞いて「不思議だ。あれは生唼の声だ。誰に与えられたのだろうか」と言った。従者は「軍馬は数千頭もおり、足の速い馬も多うございます。それなのに殿が生唼だと言い切られるのは、少々当てにならないのではありませんか。蒲殿(かまどの、範頼)や梶原殿が強くお願いしても賜ることができなかったほどのものを、まして他の者に与えられるはずがありません」と言い、人々もひそかにこれを笑った。重忠は「わたしの耳は誤らぬ。そなたたちは待っていよ」と言った。言い終わらぬうちに、果たして生唼が姿を現した。人々はその耳の確かさに感服した(注:『源平盛衰記』による)。

重忠の子には、重保(しげやす)、重秀(しげひで)、そして僧である重慶(ちょうけい)がいた。重保は六郎と称し、父より先に殺された。重秀は小二郎と称し、父と同じ日に討ち死にした。僧の重慶は、建保(けんぽう)の初め、日光山(にっこうさん)の陰に隠れ住み、亡命者を集めていた。この事が鎌倉に聞こえ、実朝は長沼宗政(ながぬまむねまさ)を遣わしてこれを捕らえさせた。宗政は重慶を斬ってその首を献上した。実朝は怒って言った。「重忠の罪は誅殺されるほどのものではなく、わたしは今もそれを深く惜しんでいる。その子が僧となっていたのだから、たとえ何か企てるところがあったとしても、いったい何ができようか。わたしは生け捕りにしてその真偽を質したいと思っていたのに、そなたはなぜあらかじめ伺いを立てず、勝手に誅殺したのか。」そう言って宗政に幕府への出仕を停止する罰を科した(注:『吾妻鏡』による)。