卷之九十五 列傳第廿二

皇子十

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次33
  1. 【白河】七子
  2. 敦文親王
  3. 覺行法親王
  4. 覺法法親王
  5. 聖慧法親王
  6. 僧行慶
  7. 僧圓行
  8. 僧靜證
  9. 【堀河】二子
  10. 最雲法親王
  11. 僧寬曉
  12. 【鳥羽】八子
  13. 通仁親王
  14. 君仁親王
  15. 本仁親王
  16. 道慧法親王
  17. 覺快法親王
  18. 最忠法親王
  19. 道果法親王
  20. 僧真譽
  21. 【崇德】二子
  22. 重仁親王
  23. 僧元性
  24. 【後白河】九子
  25. 守覺法親王
  26. 以仁王
  27. 圓慧法親王
  28. 定慧法親王
  29. 靜慧法親王
  30. 道法法親王
  31. 承仁法親王
  32. 僧真禎
  33. 僧恒慧

【白河】七子

白河天皇には八人の皇子がいた。中宮藤原氏(なかのみや ふじわらし)は第一子敦文親王(あつふみしんのう)と堀河帝(ほりかわてい)を生んだ(注:『栄華物語』による。また『皇胤紹運録』『百錬抄』による)。典侍藤原経子(てんじ ふじわらのけいし)は第三子覚行法親王(かくぎょうほっしんのう)を生んだ(注:覚行の生年を推せば実際には第二子である。しかし堀河帝が第三子にあたる。諸書が堀河帝を第二子とするのは、中宮の子だからであろう。ここでは諸書の説に従っておく。『仁和寺御伝』『長秋記』が第五子とするのは誤りであろう)。宮人源師子(げんじし)は第四子覚法法親王(かくほうほっしんのう)を生んだ(注:『釈家官班記』『諸門跡譜』による)。藤原氏は第五子聖慧法親王(しょうえほっしんのう)を生んだ(注:『釈家官班記』による)。源氏は僧行慶(ぎょうけい)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による。『諸門跡譜』は第十二子とするが、これは皇女も数に入れて順序を付けたためであろう。よって採らない)。源氏は僧円行(えんぎょう)を生んだ(注:『今鏡』による)。僧静証(じょうしょう)は、生母が誰であるか分からない(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)。

敦文親王

敦文親王(あつふみしんのう)は、承保二年、中宮のもとから関白師実(かんぱく もろざね)の東三条第(ひがしさんじょうてい)に移された。帝がそこにお出ましになり、親王に立てた。歌舞や宴楽が催され、一同心ゆくまで楽しんで帰った(注:『扶桑略記』による)。承暦元年秋、華山院(かざんいん)にあって痘瘡(とうそう、天然痘)を患った。帝は憂え恐れ、様々な方法で祈祷させ、八社に幣帛(へいはく)を奉った(注:『水左記』による)。九月に薨去し、四歳であった(注:『水左記』、および『中右記』大治四年条による。『扶桑略記』『一代要記』『栄華物語』はいずれも八月とする。『愚管抄』は三歳とするが誤りである。『源平盛衰記』にはこうある。かつて帝は世継ぎがないことを憂い、園城寺(おんじょうじ)の僧頼豪(らいごう)に命じて修法により祈らせた。帝は「効験があれば望みのままに褒美を与えよう」と詔した。まもなく敦文が生まれ、帝は大いに喜び、頼豪を召して褒賞した。頼豪は園城寺に戒壇を建てることを願い出た。帝は驚いて言った。「朕はそなたの望みは官位や領地程度のものだと思っていた。今の願いのようなことをすれば、比叡山との争いを引き起こすことになる。そもそも世継ぎを求めたのは天下のためである。それが争いを招き禍をもたらすようでは、朕の本意ではない。」頼豪は怒って寺に帰り、絶食して死のうとした。帝はこれを憂え、かねて頼豪と親交のあった大江匡房(おおえのまさふさ)を遣わして説得させた。頼豪は匡房に言った。「あなたは勅命を受けて来られたのか。私の命はもう旦夕に迫っており、人に会いたくはない。旧交のよしみで、会って別れを告げるだけだ。そもそも綸言(りんげん、天子の言葉)は汗のようなもので、一度出せば取り消せぬはずなのに、今はそれが覆された。親王は私が得たものだ、必ず取り返してみせる。」そう言って戸を閉ざし、二度と口を開かなかった。匡房は帰ってこれを奏上し、帝は大いに恐れた。頼豪はついに死んだ。まもなく敦文は夭折し、当時の人々は頼豪の霊の祟りだと噂した。『愚管抄』『平家物語』も同様の説を伝える。しかし『水左記』を調べると、この年の十月二十日の条に、頼豪が源俊房(みなもとのとしふさ)の子である僧に証覚(しょうかく)の戒を授けたとある。これによれば、三書の説が事実に反することは明らかであり、よって採らない)。

覺行法親王

覚行法親王(かくぎょうほっしんのう)は、先の賀茂斎(かものいつき)であった佳子内親王(かしないしんのう)がわが子として養育した。永保三年、仁和寺(にんなじ)の牲信親王(せいしんしんのう、性信親王)の弟子となった。応徳二年、剃髪した(注:『仁和寺御伝』による)。初めの名を覚念(かくねん)といった(注:『中右記』『諸門跡譜』、および『仁和寺御伝』が引く大江匡房の『灌頂記』による。『山槐記』治承三年条には本名を行信とする)。寛治六年、一身阿闍梨(いっしんあじゃり)となった(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』『中右記』による)。承徳二年、円宗寺(えんそうじ)・法勝寺(ほっしょうじ)両寺の検校(けんぎょう)に任じられた(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』による)。康和元年、親王となった。法親王(ほっしんのう)の称はここに始まる(注:『一代要記』『仁和寺御伝』『僧綱補任』による)。四年、三品(さんぼん)に叙された(注:『仁和寺御伝』『中右記』による)。尊勝寺(そんしょうじ)長吏(ちょうり)に任じられ(注:『仁和寺御伝』による)、二品(にほん)に進んだ(注:『一代要記』『仁和寺御伝』による)。長治二年十一月、薨去し、三十一歳であった(注:『一代要記』は三十二歳とする)。中御室(なかのおむろ)と称された(注:『山槐記』治承三年条、『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による)。覚行はかつて光孝帝(こうこうてい)の陵(みささぎ)を発掘させたことがあった。その時、民部卿源俊明(みんぶきょう みなもとのとしあきら)が、粗末な車で行幸する夢を見た。訳を尋ねると、「小松帝(こまつてい、光孝帝)の陵が何者かに発掘された」との答えであった。俊明は自ら伊勢の大神宮に参詣してこれを訴え、裁定を受けて帰った。「その者は死に値する」との託宣であったという。まもなく覚行は薨去した(注:『長秋記』による)。

覺法法親王

覚法法親王(かくほうほっしんのう)は、師子王宮(ししおうのみや)と称された(注:『仁和寺御伝』『今鏡』による)。長治元年、覚行法親王の弟子となり、仁和寺に入って剃髪し、名を真行(しんぎょう)といった(注:『仁和寺御伝』による)。のち行信(ぎょうしん)と改めた(注:『中右記』、『長秋記』大治四年条による。『仁和寺御伝』は行真とする)。さらに後に今の名に改めた。天仁二年、一身阿闍梨となった(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』による)。天永三年、親王となった(注:『仁和寺御伝』『中右記』による)。永久元年、円宗寺長吏に任じられた(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』による)。翌年、法勝寺・尊勝寺両寺の検校に任じられた。元永元年、最勝寺(さいしょうじ)長吏に任じられた(注:『歴代皇紀』は永久元年のこととする)。天治二年、仁和寺検校に任じられた(注:『仁和寺御伝』による)。大治二年、直ちに二品に叙された(注:『一代要記』『仁和寺御伝』『僧綱補任』による)。三年、円勝寺(えんしょうじ)検校に任じられた(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』による)。保延三年、牛車(ぎっしゃ)に乗ったまま宮中に出入りすることを許された(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』『僧綱補任』による)。五年、成勝寺(じょうしょうじ)検校に任じられた。久安元年、歓喜光院(かんぎこういん)長吏に任じられた(注:『仁和寺御伝』による)。仁平三年十二月、薨去し、六十三歳であった(注:『一代要記』『仁和寺御伝』による。『兵範記』は六十二歳とする)。高野御室(こうやのおむろ)と称された(注:『皇胤紹運録』『仁和寺御伝』による)。覚法は密教を究め、また書と和歌にも優れていた(注:『今鏡』による。和歌については『諸門跡譜』による)。かつて南院(なんいん)および無量寿院(むりょうじゅいん)を創建した(注:『仁和寺諸堂記』による)。

聖慧法親王

聖慧法親王(しょうえほっしんのう)は、仁和寺の華蔵院(けぞういん)に住んだ(注:『仁和寺御伝』による)。天永三年、一身阿闍梨となった。保安四年、親王となった(注:『歴代皇紀』による)。大治二年、三品に叙された(注:『歴代皇紀』『中右記』による。『歴代皇紀』は長承元年に二品に進んだとし、『皇胤紹運録』は無品とするが、いずれも誤りである)。長承元年、牛車に乗ったまま宮中に出入りすることを許された(注:『中右記』による)。保延三年二月、薨去し、四十四歳であった(注:『中右記』『歴代皇紀』による。『釈家官班記』は四十六歳とする)。長尾宮(ながおのみや)と称された(注:『中右記』『今鏡』による)。

僧行慶

僧行慶(ぎょうけい)は、僧行尊(ぎょうそん)の弟子となり(注:『撰集抄』『僧綱補任』による)、円満院(えんまんいん)に住んだ(注:『諸門跡譜』による)。かつて笙窟(しょうのいわや)で修法を行ったことがある(注:『撰集抄』による)。大治四年、一身阿闍梨となった(注:『中右記』による)。保延元年、四天王寺(してんのうじ)別当となった(注:『僧官補任』による)。久安元年、権僧正(ごんのそうじょう)に任じられた(注:『台記』『歴代皇紀』による)。仁平二年、園城寺長吏となった(注:『僧官補任』による)。三年、僧正となり(注:『歴代皇紀』による)、後に大僧正(だいそうじょう)にまで至った(注:『今鏡』『諸門跡譜』による)。和歌にすぐれ(注:『作者部類』による)、狛僧正(こまのそうじょう)と称された(注:『今鏡』『諸門跡譜』『皇胤紹運録』による)。また桜井僧正(さくらいのそうじょう)とも称された(注:『帝王編年記』『撰集抄』『皇胤紹運録』による)。

僧圓行

僧円行(えんぎょう)も同じく有尊(ゆうそん)の弟子となり、園城寺に住んだ(注:『中右記』による)。法眼(ほうげん)に叙された(注:『中右記』『今鏡』『帝王編年記』『皇胤紹運録』による)。

僧靜證

僧静証(じょうしょう)は、園城寺の羅惹院(らじゃいん)に住み(注:『中右記』『皇胤紹運録』による)、阿闍梨となった(注:『皇胤紹運録』による)。

【堀河】二子

堀河天皇(ほりかわてんのう)には三人の皇子がいた。贈皇后(ぞうこうごう)藤原氏は鳥羽帝(とばてい)を生んだ(注:『一代要記』『歴代皇紀』『百錬抄』『皇胤紹運録』による)。宮人藤原氏は第二子最雲法親王(さいうんほっしんのう)を生んだ(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『今鏡』による。第二子とするのは『釈家官班記』による)。藤原氏は僧寛曉(かんぎょう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『今鏡』による)。

最雲法親王

最雲法親王(さいうんほっしんのう)は、僧仁豪(にんごう)の弟子となった(注:『帝王編年記』『天台座主記』による)。飯室(いいむろ)に住み(注:『帝王編年記』による)、後に円融房(えんゆうぼう)に住んだ(注:『天台座主記』『僧官補任』による)。大治年間、法性寺座主(ほっしょうじざす)となった(注:『中右記』による)。保元元年、天台座主となり、権僧正に任じられた(注:『歴代皇紀』『僧官補任』『愚管抄』による)。皇子が天台座主となったのはこれが最初である(注:『帝王編年記』『僧官補任』『諸門跡譜』による)。三年、親王となった(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』『釈家官班記』による)。応保二年二月、薨去し、五十八歳であった。円融房座主と称された(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』による。『天台座主記』は五十九歳とする)。また七条宮(しちじょうのみや)とも称された(注:『一代要記』による)。

僧寬曉

僧寛曉(かんぎょう)は、仁和寺の華蔵院に住み(注:『一代要記』『僧綱補任』『仁和寺諸院』による)、東大寺別当に任じられた(注:『歴代皇紀』『僧綱補任』による)。仁平三年、権僧正となり(注:『台記』『歴代皇紀』による)、後に大僧正にまで至った(注:『歴代皇紀』『僧綱補任』による)。平治元年正月、薨去し(注:『一代要記』『歴代皇紀』『僧綱補任』による)、五十七歳であった(注:『歴代皇紀』による)。

【鳥羽】八子

鳥羽天皇(とばてんのう)には十一人の皇子がいた。中宮藤原氏は崇徳帝(すとくてい)、第二子通仁親王(みちひとしんのう)、後白河帝(ごしらかわてい)(注:『百錬抄』『今鏡』による)、第五子本仁親王(もとひとしんのう)を生んだ(注:『百錬抄』『一代要記』『今鏡』による)。皇后藤原氏は近衛帝(このえてい)を生んだ(注:『一代要記』『歴代皇紀』による)。更衣紀氏(こうい きし)は第六子道慧法親王(どうえほっしんのう)、第七子覚快法親王(かくかいほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『今鏡』による)。橘氏は僧真誉(しんよ)を生んだ(注:『撰集抄』による。この書では第八子とするが、諸書は近衛帝を第八子とするので、この「第八子」は「第九子」の誤りであろう。しかし他に考証する材料がないため、これ以上は採らない)。最忠法親王(さいちゅうほっしんのう)(注:『皇胤紹運録』による)、および道果法親王(どうかほっしんのう)(注:『一代要記』による)は、いずれも生母が分からない。

通仁親王

通仁親王(みちひとしんのう)は(注:『百錬抄』『一代要記』『歴代皇紀』による)、生まれつき盲目であった(注:『中右記』『帝王編年記』による)。天治元年、親王となった(注:『歴代皇紀』による)。大治四年閏七月、薨去し、六歳であった(注:『中右記』『百錬抄』による)。目宮(めのみや)と称された(注:『皇代記』『愚管抄』による)。

君仁親王

君仁親王(きみひとしんのう)は、まだ襁褓(むつき、おくるみ)にあった頃に息が絶えたことがあった。白河帝(しらかわてい)は「この子は天位に即く運命にあるはずだから、死ぬことはない」と言い、僧行尊(ぎょうそん)に祈らせたところ、たちまち蘇生した。このことから人々は将来に期待をかけた(注:『今鏡』『源平盛衰記』による)。しかし体は萎えて骨がないかのようで、口も利けず言葉を発することができなかった(注:『台記』『歴代皇紀』『今鏡』による)。天治二年、親王となった(注:『歴代皇紀』による)。保延六年、六条院(ろくじょういん)で剃髪した(注:『歴代皇紀』による)。康治二年十月、薨去し(注:『台記』『歴代皇紀』による)、十九歳であった(注:『歴代皇紀』による)。痿宮(なえのみや)と称された(注:『皇代記』『愚管抄』による)。

本仁親王

本仁親王(もとひとしんのう)は、大治四年、親王となった(注:『中右記』『仁和寺御伝』による)。保延元年、覚法法親王の弟子となり、仁和寺の北院に入った(注:『中右記』『仁和寺御伝』による)。六年、剃髪して名を信法(しんぽう)と改め、後に覚性(かくしょう)と改めた(注:『仁和寺御伝』『皇胤紹運録』による)。久安三年、一身阿闍梨となった(注:『仁和寺御伝』による。『歴代皇紀』は元年のこととする)。保元三年、直ちに二品に叙された(注:『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。仁和寺・円宗寺・法勝寺・尊勝寺・円勝寺・成勝寺・四天王寺などの諸寺の円堂、および観音院・金剛院・勝院・歓喜院・光勝院・光明院・転輪院などの諸院を、次々に掌った(注:『仁和寺御伝』による)。仁安二年、総法務(そうほうむ)となり、綱所(ごうしょ)を賜った。総法務の制度はここに始まる(注:『仁和寺御伝』『釈家初例抄』による。綱所については『御伝』による)。覚性は資質にすぐれ、書や詩歌をよくし、みずから金字の大蔵経(だいぞうきょう)を書写し、延暦寺の澄憲(ちょうけん)にこれを高野山へ運ばせて供養させた(注:『今鏡』による)。嘉応元年十二月、薨去し、四十一歳であった(注:『仁和寺御伝』『東寺長者補任』による)。紫金台寺(しこんだいじ)を創建してそこに住んだので、紫金台寺御室(しこんだいじのおむろ)と称され(注:『仁和寺御伝』『仁和寺諸堂記』による)、また泉殿御室(いずみどののおむろ)とも称された(注:『仁和寺御伝』による)。

道慧法親王

道慧法親王(どうえほっしんのう)は、保延四年、証金剛院(しょうこんごういん)で剃髪し(注:『一代要記』による)、円満院に住んだ(注:『僧官補任』『諸門跡譜』による)。久安二年、一身阿闍梨となった(注:『一代要記』による)。保元三年、四天王寺別当に任じられた(注:『僧官補任』による)。永暦元年、親王となり、園城寺長吏に任じられた(注:『歴代皇紀』による)。仁安元年、再び四天王寺別当を兼ねた(注:『僧官補任』による)。三年四月、薨去し、三十七歳であった(注:『歴代皇紀』による)。法輪寺(ほうりんじ)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。

覺快法親王

覚快法親王(かくかいほっしんのう)は、天養元年、僧行玄(ぎょうげん)の弟子となり、青蓮院(しょうれんいん)に入った(注:『台記』『僧官補任』による)。久安二年、剃髪して一身阿闍梨となった(注:『一代要記』による)。初めの名を円性(えんしょう)といった(注:『一代要記』『僧官補任』『諸門跡譜』による)。六年、権大僧都(ごんのだいそうず)に任じられた(注:『台記』による)。嘉応二年、親王となった(注:『釈家官班記』による)。治承元年、天台座主となった。三年、座主を罷免された(注:『帝王編年記』『玉海』『天台座主記』による)。後に無動寺(むどうじ)検校に任じられ(注:『玉海』『僧官補任』による)、三昧院(さんまいいん)・成就院(じょうじゅいん)の二院を兼ね領した(注:『玉海』による)。覚快は修験の法に通じ、保元の変の際には勅命を受けて仏眼法(ぶつげんほう)を修した(注:『愚管抄』による)。養和元年十一月、薨去し(注:『玉海』『天台座主記』『愚管抄』『諸門跡譜』による)、四十八歳であった(注:『天台座主記』『長門本平家物語』による。『歴代皇紀』は四十九歳、『源平盛衰記』は四十四歳とする)。法性寺座主と称された(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。

最忠法親王

最忠法親王(さいちゅうほっしんのう)は、延暦寺(えんりゃくじ)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。

道果法親王

道果法親王(どうかほっしんのう)は、永暦元年、親王となった(注:『一代要記』による)。

僧真譽

僧真誉(しんよ)は、わずか七歳の時に、生母である橘氏が亡くなった。勅命により青蓮院に入って僧となり、冥福を祈った。やがて法眼に叙されたが、ある日突然院を出て行方が知れなくなった。時に十八歳であった。勅命で諸国に捜索させたが見つからなかった。後に、ある人が筑前国(ちくぜんのくに)に赴いた際、土地の人がこう語った。「昔、御笠郡(みかさぐん)の小野山(おのやま)の中に一人の僧がいた。素性は分からない。常に念仏を唱えており、漁師や猟師を見ると涙を流して念仏を勧めた。一年ほどそこにいたが、ある時忽然と姿を消してしまった。」その僧は庵の壁にこう書き残していたという。「かつては天台宗の僧として、その境地は三千世界の貫首(かんじゅ、天台座主のような高僧)にまで達した。しかし今はこの小野山の中に棲み、ただ阿弥陀仏の来迎を得ることを願うのみである。」また和歌を書き付けて言う。「世中は(余能奈加波)、憂節繁き(宇岐布志志藝岐)、吳竹の(玖禮多計能)、なと色變で(奈妬以呂加倍底)、綠成るらん(美妬利奈流羅牟)。」末尾には「久寿二年三月九日、青蓮院法眼真誉」と記されていた。さらに木の皮を削り、そこにこう書き付けた。「心から(古古呂加羅)、倉橋山の(玖羅波志夜麻能)、世を渡り(余遠和多利)、とはむともせず(斗波牟斗毛世孺)、法道をは(能利能美知遠波)。」人々はその筆跡を愛おしみ、切り取って珍重した。この時になって初めて、その人物が皇子であったことが知られた(注:『撰集抄』による)。

【崇德】二子

崇徳天皇(すとくてんのう)には二人の皇子がいた。掌侍(ないしのじょう)源氏は僧元性(げんしょう)を生んだ。宮人藤原氏は重仁親王(しげひとしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『今鏡』による)。

重仁親王

重仁親王(しげひとしんのう)は、生まれるとすぐ美福門院(びふくもんいん)がわが子として養育した(注:『台記』による。『今鏡』の傍注に代賢門院(だいけんもんいん)が養育したとあるのは誤りである)。永治元年、親王となった(注:『一代要記』による)。久安六年、元服(げんぷく)し、美福門院の子として三品に叙された(注:『台記』による)。近衛帝が崩御するに至り、世間では「重仁が皇統を継ぐはずだ」と噂した。しかし後白河帝が即位したため、朝野はみな失望し、重仁自身も大いに憤った。保元の変(ほうげんのへん)は、実にここに端を発している。乱が敗れるに及び、重仁は僧になろうとして逃げ出し、女性の乗る車に乗って仁和寺へ向かった。朱雀門(すざくもん)を過ぎたところで検非違使(けびいし)平実俊(たいらのさねとし)が呼び止めて奏上し、重仁は中御門東洞院(なかのみかどひがしのとういん)に幽閉され、実俊に厳重に見張らせられた。まもなく赦免された。僧寛曉の弟子となり、仁和寺の華蔵院に入って剃髪した(注:『愚管抄』『今鏡』『保元物語』を参照してまとめた)。法名を空性(くうしょう)といった(注:『皇胤紹運録』による)。応保二年正月、薨去し、二十三歳であった(注:『一代要記』による。年齢は本書の保延六年生誕の記事に基づく)。

僧元性

僧元性(げんしょう)は、上西門院(じょうさいもんいん)がわが子として養育した。真言の法を受け(注:『今鏡』による)、仁和寺の華蔵院に住んで法印(ほういん)に叙された(注:『皇胤紹運録』による)。和歌を大いに得意とした。崇徳帝が讃岐(さぬき)で崩御した際、覚性親王が使者を遣わして弔問した。元性は和歌を詠んで応えた。「憂きながら(宇岐奈我羅)、其松山の(曾能麻豆夜麻能)、形見には(加多美耳波)、今宵ぞ富士の(古余比曾布治能)、衣をば著る(古呂毛遠波岐流)。」これを聞いた人々は皆哀れに感じ入った(注:『今鏡』による)。

【後白河】九子

後白河天皇(ごしらかわてんのう)には十一人の皇子がいた。贈皇太后(ぞうこうたいごう)藤原氏は二条帝(にじょうてい)を生んだ。皇太后平氏は高倉帝(たかくらてい)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『歴代皇紀』による)。宮人藤原成子(ふじわらのなりこ)は第二子守覚法親王(しゅかくほっしんのう)(注:『仁和寺御伝』による)、第三子以仁王(もちひとおう)を生んだ(注:『百錬抄』による。『諸門跡譜』『釈家官班記』などの諸書は守覚を第四子とし、『玉海』などは以仁を第二子とする。これはおそらく、守覚が剃髪した僧であるため他の皇子の後ろに序列付けられ、以仁が第二子とされたのであろう。今、生年から推せば、守覚が第二子、以仁が第三子であることは明らかである)。某氏は第五子円慧法親王(えんえほっしんのう)、第六子定慧法親王(じょうえほっしんのう)(注:『諸門跡譜』による)、第七子静慧法親王(せいえほっしんのう)(注:『釈家官班記』による)、僧恒慧(こうえ)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。源氏は第八子道法法親王(どうほうほっしんのう)(注:『仁和寺御伝』による。『諸門跡譜』『釈家官班記』などの諸書は第九子とし、『皇胤系図』は第十子とする。今、生年から推してこれを正した)、僧真禎(しんてい)を生んだ。紀氏は承仁法親王(しょうにんほっしんのう)を生んだ(注:『天台座主記』による)。

守覺法親王

守覚法親王(しゅかくほっしんのう)は、初めの名を守性(しゅしょう)といった。保元元年、覚性親王の弟子となり、仁和寺に入った。永暦元年、剃髪した。仁安三年、一身阿闍梨となった。嘉応二年、仁和寺・円宗寺・円融寺(えんゆうじ)・円教寺(えんぎょうじ)などの諸寺、および勝院・光明院・法金剛院(ほうこんごういん)などの諸院を次々に掌り、親王となった。承安二年、六勝寺(ろくしょうじ)長吏となった(注:『仁和寺御伝』による)。安元二年、直ちに二品に叙された(注:『歴代皇紀』『仁和寺御伝』『玉海』『顕広王記』『釈家官班記』による。『帝王編年記』は三品とするが誤りである)。文治二年、牛車に乗ったまま宮中に出入りすることを許された(注:『仁和寺御伝』による)。建仁二年八月、薨去し、五十三歳であった(注:『帝王編年記』『仁和寺御伝』による)。喜多院御室(きたいんのおむろ)と称された(注:『帝王編年記』『仁和寺御伝』『釈家官班記』による)。守覚は修法にすぐれ、悉曇(しったん、梵字・梵語の学)に精通し(注:『今鏡』による)、和歌をよくした(注:『作者部類』『諸門跡譜』による)。かつて『修法要鈔(しゅほうようしょう)』六巻を著した(注:『仁和寺御伝』による)。

以仁王

以仁王(もちひとおう)は、幼い頃から聡明で、書をよくし音律を好み、笛を吹くことに優れていた。才能と名声は早くから知られ、人々は大いに将来を期待した。しかし母の身分が高くなかったため寵愛を受けられず、親王になることができなかった(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。永万元年、密かに大宮第(おおみやてい)で元服した(注:『顕広王記』『平家物語』『源平盛衰記』による)。常に鬱々として楽しまず、琴歌に心を紛らわせていた。少納言宗綱(しょうなごん むねつな)は人相を見ることに優れていた(注:本書では宗綱を藤原維長(ふじわらのこれなが)とするが、今は『玉海』養和元年条の記述に基づいてこれを正した。ただし姓が分からず、他に考証する材料もない)。かつて以仁にこう告げたことがある。「あなたは最終的には天位に昇るはずです。天下への望みを捨ててはなりません。」以仁は密かにこれを心の支えとしていた。治承四年四月、前兵庫頭源頼政(みなもとのよりまさ)は平氏を滅ぼそうと謀り、ある夜以仁のもとを訪れて、大事を挙げるよう勧めた。以仁はこれを承諾し、ついに自ら最勝親王(さいしょうしんのう)と称した。その檄文は令旨(りょうじ)と呼ばれ、蔵人(くろうど)源行家(みなもとのゆきいえ)を遣わしてこれを諸国に伝え諭させた。詳しくは頼政の伝に記す(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。最勝親王の称は『源平盛衰記』による)。まもなく事が露見し、朝廷の議で以仁は源以光(みなもとのもちみつ)と改名させられ、土佐(とさ)に流されることになり、検非違使源兼綱(みなもとのかねつな)・源光長(みなもとのみつなが)らを遣わして兵を率いてその邸を包囲させた(注:『玉海』『百錬抄』『山槐記』による)。以仁は左兵衛尉長谷部信連(はせべののぶつら)の計略に従い、女性の服を着て密かに邸を出て園城寺に入り、法輪院(ほうりんいん)に身を寄せた。僧兵たちは力を合わせてこれを守った。頼政もほどなく駆けつけ、僧兵たちと相談して延暦寺・興福寺の二寺に牒状(ちょうじょう)を送り、援軍を求めた。両寺はこれを承諾した。しかしまもなく延暦寺が約束を翻したため、情勢は長く支えきれなくなった(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。頼政は以仁を奉じて奈良へ向かった(注:『玉海』『明月記』『山槐記』『百錬抄』による)。以仁は金堂に入って蝉折(せみおれ)の笛を吹き、「万秋楽(まんしゅうらく)」を奏でて仏に笛を供えると、馬に乗って出発した。もとより騎馬に慣れておらず、その上疲れて眠気を催していたため、六度も落馬した。平等院(びょうどういん)に入って休息した。平知盛(たいらのとももり)・平重衡(たいらのしげひら)らが攻め寄せ、頼政は僧兵たちとともに力戦してこれを防いだ。しかし味方の兵は潰え、以仁は井手渡(いでのわたし)まで逃れ、光明山(こうみょうさん)の鳥居の前を過ぎたところで流れ矢に当たって落馬し、薨去した。従者はみな遅れ、ただ僧覚尊(かくそん)と舎人黒丸(とねり くろまる)の二人だけが支え合い、馬に乗せて運ぼうとした。しかし平景高(たいらのかげたか)の従兵がこれに迫り、その首を斬った。時に三十歳であった(注:『長門本平家物語』『源平盛衰記』を参照してまとめた。『顕広王記』永万元年条には「年十六」との記述があり、これに基づけばこの年は三十一歳のはずだが、どちらが正しいかは分からない)。三条宮(さんじょうのみや)と称され(注:『玉海』による)、また高倉宮(たかくらのみや)とも称された(注:『山槐記』『皇胤紹運録』『平家物語』『源平盛衰記』による)。景高はその首を平氏の諸将に示した。以仁は長らく人目を避けて暮らしていたため、その顔を知る者は少なく、諸将は首の真偽をひどく疑った。そこでかつて以仁が寵愛した女性を呼んで見させたところ、その女性は一目見て涙を流し、そこで初めてそれが以仁であると知られた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。『愚管抄』には、以仁の学問の師である宗業(むねなり)を呼んで見させたとある)。  以仁には某という子がおり(注:『玉海』『明月記』による)、他は皆僧となった。真性(しんしょう)、道尊(どうそん)、法円(ほうえん)(注:『皇胤紹運録』による。『天台座主記』『諸門跡譜』『源平盛衰記』を参照した)、道性(どうしょう)である(注:『玉海』による。『皇胤紹運録』には以仁王の子に仁誉(にんよ)がいるとあるが、異本の『紹運録』や他の書には見当たらないため、参考として付記するにとどめる)。某は以仁が敗れた後、剃髪して東国へ逃れた(注:『明月記』による)。まもなく前讃岐守重秀(さきのさぬきのかみ しげひで、姓は不明)に従って北国に身を隠した。源義仲(みなもとのよしなか)はこれを奉じ、髪を伸ばさせ元服させて、越中(えっちゅう)の宮崎(みやざき)に邸を営んで住まわせた(注:異本『平家物語』『源平盛衰記』による)。世に北陸宮(ほくろくのみや)と称され(注:『玉海』による)、木曾宮(きそのみや)(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)、還俗宮(げんぞくのみや)とも称された(注:『明月記』『平家物語』『源平盛衰記』による)。寿永二年、平宗盛(たいらのむねもり)が安徳帝(あんとくてい)を奉じて西海へ落ち延び、京には主がいなくなった。法皇(後白河法皇)は次の天子を立てることを議し、ある者は「北陸宮はすでに年長であるから、これを立てるべきだ」と主張した(注:『源平盛衰記』による)。法皇は高倉帝の皇子たちの中から選んで立てようとし、守貞(もりさだ)・尊成(たかひら)の二皇子について占わせた。義仲は以仁の功をたてに、北陸宮を立てようとした。法皇は使者を遣わしてこれを諭したが、義仲は強く主張して譲らなかった。法皇は廷臣たちと協議したが、皆これを不可とした。しかし義仲の言を無視することも難しく、改めて占い直すことにした。そこで再び二皇子と北陸宮について占ったところ、北陸宮は大凶と出て、結局立てられることはなかった。文治元年、源頼朝(みなもとのよりとも)がこの人物を京へ入らせた(注:『玉海』による)。その後嵯峨(さが)に住み、孫王(そんのう)と称された。源の姓を賜りたいと願い出たが許されなかった。寛喜二年、没した(注:『明月記』による)。今屋殿(いまやどの)と称された(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』は野依宮(のよりのみや)とするが、本書では野依宮を以仁の娘としている)。真性は宣陽房(せんようぼう)に住み、大僧正・天台座主・無動寺検校・天王寺別当となった(注:『僧官補任』による)。書写宮(しょしゃのみや)と称され、また城興寺(じょうこうじ)とも称された(注:『皇胤紹運録』による。『源平盛衰記』は「城」を「盛」に作る)。道尊は八条院(はちじょういん)のもとで養育されたが、以仁が敗れると、平頼盛(たいらのよりもり)がこれを引き渡すよう求めてきた。女院はこれを匿って出さなかった。しかし兵士たちがその門に迫ったため、道尊はわずか七歳ながら自ら出て捕らえられることを願い、六波羅(ろくはら)に拘束された(注:『源平盛衰記』『玉海』『山槐記』『東鑑』を参照した。七歳とするのは『諸門跡譜』により推し、諸本の『平家物語』に従った。『源平盛衰記』は八歳とするが誤りである)。平宗盛が死罪を免れるよう願い出て(注:『源平盛衰記』による)、道尊はついに仁和寺に入り守覚法親王のもとで法を受けた。初めは蓮華光院(れんげこういん)に住み(注:『諸門跡譜』による)、大僧正・東寺長者・東大寺別当となった。安貞二年、没した。西院(さいいん)と称され(注:『東寺長者補任』による)、また安井宮(やすいのみや)とも称された(注:『皇胤紹運録』『平家物語』による)。法円は円満院に住み、権僧正・園城寺長吏となり、嵯峨僧正(さがのそうじょう)と称された(注:『諸門跡譜』による)。道性は年少の頃から法器の人と称された。文治三年、没し、十八歳であった(注:『玉海』による。『源平盛衰記』にも守覚法親王の弟子道尊が十八歳で没したとあるが、これは『源平盛衰記』が道性を道尊と誤ったものであろう)。

圓慧法親王

円慧法親王(えんえほっしんのう)は、円満院に住み、権大僧都を経て(注:『今鏡』による)親王となり(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)、園城寺長吏に任じられた(注:『愚管抄』『平家物語』『源平盛衰記』『諸門跡譜』による)。仁安三年、四天王寺別当に任じられた(注:『僧官補任』による)。治承四年、以仁王の事件に連座して別当職を奪われ(注:『玉海』『百錬抄』による)、八条宮(はちじょうのみや)と称された(注:『玉海』『皇胤紹運録』『一代要記』『愚管抄』による)。寿永二年、源義仲が京で乱を起こすと、円慧は天台座主明雲(めいうん)とともに僧兵を率いて難に赴いた。法住寺殿(ほうじゅうじどの)が火災に遭うと、密かに逃れたが(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)、少将房(しょうしょうぼう)が付き従った。華山寺(かざんじ)のそばまで来たところ、賊兵が直ちに迫り、円慧を斬ろうとした。少将房が手でこれを防ごうとしたが、賊はその腕を斬り落とし、ついに円慧を殺した(注:『玉海』『愚管抄』を参照した。『源平盛衰記』には、円慧法親王は根井幸親(ねいのゆきちか)に射殺されたとあり、『平家物語』にも矢に当たって死んだとある)。義仲は円慧と明雲の首を六条河原(ろくじょうがわら)にさらしたが、僧行清(ぎょうせい)が密かにその首を奪い取り、いずれも火葬して遺骨を高野山に納めた(注:『源平盛衰記』による。『愚管抄』は行清を顕真(けんしん)とする)。

定慧法親王

定慧法親王(じょうえほっしんのう)は、円満院に住み(注:『僧官補任』『諸門跡譜』による)、大僧都・権僧正を歴任した。寿永三年、四天王寺別当に任じられた(注:『玉海』『皇胤紹運録』『僧官補任』『諸門跡譜』による)。建久元年、親王となり(注:『歴代皇紀』『吉部秘訓抄』による)、園城寺長吏となった。七年四月、薨去した。かつて院宣(いんぜん)に「平等院の長を定慧に付し、その弟子たちに代々受け継がせよ」とあったことから、平等院宮(びょうどういんのみや)と称された(注:『僧官補任』による。『諸門跡譜』を参照した)。また鳥羽宮(とばのみや)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『諸門跡譜』による)、法輪院宮(ほうりんいんのみや)とも称された(注:『諸門跡譜』による)。

靜慧法親王

静慧法親王(せいえほっしんのう)は、円慧法親王の弟子となり(注:『玉海』による)、聖護院(しょうごいん)に住んだ(注:『諸門跡譜』による)。養和元年、一身阿闍梨に任じられた(注:『玉海』による)。建久二年、親王となった(注:『一代要記』による)。三年、浄妙寺(じょうみょうじ)別当に任じられた(注:『玉海』による)。七年、園城寺長吏に任じられた(注:『僧官補任』による)。建仁三年三月、薨去し、四十歳であった(注:『業資王記』による)。聖護院宮(しょうごいんのみや)と称され(注:『玉海』『業資王記』『百錬抄』『一代要記』『皇胤紹運録』による)、青龍院宮(せいりゅういんのみや)、千光院宮(せんこういんのみや)とも称された(注:『諸門跡譜』による)。

道法法親王

道法法親王(どうほうほっしんのう)は、安元二年、高倉帝がわが子として養育した(注:『玉海』による)。治承三年、守覚法親王の弟子となり、仁和寺に入って剃髪した(注:『仁和寺御伝』『皇帝紀抄』を参照した)。初めの名を尊性(そんしょう)といった。寿永三年、一身阿闍梨となった(注:『仁和寺御伝』による)。文治元年、親王となり(注:『玉海』『仁和寺御伝』『皇帝紀抄』による)、六勝寺検校に任じられた(注:『仁和寺御伝』による)。建久六年、直ちに二品に叙された(注:『一代要記』『帝王編年記』『仁和寺御伝』『東寺長者補任』『釈家官班記』による)。建仁元年、牛車に乗ったまま宮中に出入りすることを許された(注:『百錬抄』『仁和寺御伝』による)。三年、綱所を賜り総法務となり、最勝光院(さいしょうこういん)・最勝四天王院(さいしょうしてんのういん)両院の検校を次々に任じられた(注:『仁和寺御伝』による)。建保二年十一月、薨去し、四十九歳であった(注:『帝王編年記』『皇帝紀抄』『仁和寺御伝』『仁和寺日次記』『釈家官班記』による)。葬儀には後鳥羽帝(ごとばてい)が自ら臨んだ(注:『仁和寺御伝』による)。後高野御室(ごこうやのおむろ)と称され(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『仁和寺御伝』『仁和寺日次記』による)、また西院(さいいん)とも称された(注:『皇胤紹運録』による)。晩年には光明寿院(こうみょうじゅいん)を創建してそこに住んだので、光明寿院御室(こうみょうじゅいんのおむろ)とも称された(注:『仁和寺諸堂記』による)。

承仁法親王

承仁法親王(しょうにんほっしんのう)は、初めの名を最慧(さいえ)といった(注:『歴代皇紀』『天台座主記』による)。建春門院(けんしゅんもんいん)がわが子として養育した(注:『山槐記』による)。安元元年、承仁が七歳の時、右少弁平親宗(うしょうべん たいらのちかむね)に養育を命じ(注:『皇胤紹運録』『山槐記』による)、天台座主明雲の弟子となった(注:『皇胤紹運録』『山槐記』『天台座主記』による)。養和元年、延暦寺に入って剃髪した(注:『玉海』『天台座主記』による。『源平盛衰記』には、ある僧が建春門院の養子となり、安元元年に延暦寺の快修(かいしゅう)の弟子となったが、以仁が敗れると禍が及ぶことを恐れて急いで剃髪した、時に十二歳であった、とある。年齢から推すとこれは承仁と同一人物ではないかとも思われるが、剃髪の事情がまるで食い違っている。しかも当時の座主は明雲であって快修ではないから、この説は疑わしく、今は考証しがたい)。梶井(かじい)に住み(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)、一身阿闍梨・権大僧都となった。建久元年、親王となった。四年、法性寺座主・城興寺検校に任じられた(注:『天台座主記』による)。七年、天台座主となった(注:『帝王編年記』『天台座主記』『僧官補任』『愚管抄』による)。八年四月、薨去し、二十九歳であった(注:『帝王編年記』『天台座主記』による)。かつて高倉帝が崩御し、天子(安徳帝)が諒闇(りょうあん、喪に服す期間)にあった際、承仁の従者たちは皆晴れやかな装束をまとい、衣も帯もきらびやかであったため、世間の批評する者たちはこれを非難した(注:『玉海』による)。法住寺殿の変の際には、明雲とともに法皇に近侍していた。人々が逃げ散ると、賊兵が承仁に迫った。承仁が「私はこの宮であるぞ」と言うと、供の者たちは承仁を抱えて民家に入り、櫃(ひつ)の上に座らせて、ついに難を免れさせた(注:『愚管抄』による)。

僧真禎

僧真禎(しんてい)は、仁和寺に住み、大僧都・広隆寺(こうりゅうじ)別当となった(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。大僧都については『紹運録』による)。太秦宮(うずまさのみや)と称され(注:『皇胤紹運録』による)、また持朋院宮(じほういんのみや)とも称された(注:『一代要記』による)。

僧恒慧

僧恒慧(こうえ)は、法輪院に住み(注:『皇胤紹運録』による)、権僧正となった。後白河帝が崩御した際、故あって喪に臨まず、喪服も着なかった。岡咲碕宮(おかさきのみや)と称された(注:『一代要記』による)。