卷之八十一 列傳第八

后妃八

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次39
  1. 藤原中宮(賢子)
  2. 藤原道子
  3. 藤原經子
  4. 源師子
  5. 藤原氏
  6. 源氏
  7. 藤原氏
  8. 源氏
  9. 源氏
  10. 衹園女御
  11. 賀茂女御
  12. 篤子中宮
  13. 藤原茨子
  14. 王氏
  15. 藤原氏
  16. 藤原氏
  17. 藤原中宮(璋子)
  18. 藤原皇后(泰子)
  19. 藤原皇后(得子)
  20. 橘氏
  21. 藤原氏
  22. 藤原氏
  23. 藤原氏
  24. 紀氏
  25. 藤原中宮(聖子)
  26. 源氏
  27. 藤原氏
  28. 藤原皇后(多子)
  29. 藤原中宮(呈子)
  30. 藤原中宮(忻子)
  31. 平皇后(滋子)
  32. 源懿子
  33. 藤原琮子
  34. 藤原氏
  35. 高階榮子
  36. 藤原成子
  37. 坊門局
  38. 紀氏
  39. 源氏

藤原中宮(賢子)

白河天皇の藤原中宮、諱は賢子(けんし)。右大臣源顕房(あきふさ)の娘で、関白藤原師実の養女となった。延久三年、東宮に入った(注:扶桑略記、一代要記、今鏡、栄花物語による)。御息所となり(注:今鏡による)、麗景殿を居所とした(注:栄花物語による)。

帝(白河天皇)の即位に伴い女御となり、従四位下に叙せられた(注:一代要記、今鏡による)。承保元年六月、中宮に立てられた(注:扶桑略記、一代要記、今鏡、栄花物語による)。敦文(あつふみ)親王、堀河天皇、郁芳門院、令子内親王、恂子内親王(原文は「慎子」)を産んだ(注:皇胤系図、皇胤紹運録による)。

応徳元年九月、病が重くなったが(注:扶桑略記、栄花物語による)、帝は宮中からの退出を許さなかった。賢子は宮中で崩御した。享年二十八。帝は哀しみに耐えず、その遺骸を抱いて離れようとしなかった。権中納言源俊明が「帝たる者は死者に近づくべきではありません。別の宮にお移しなさいませ」と奏上すると、帝は「私自身から先例を作ろう」と答えた(注:古事談による。享年二十八は扶桑略記、一代要記による)。

備後守(経成、姓は不詳)の四条高倉第で殯(もがり)が行われた(注:中右記永久二年の条による。備後守の記述は今鏡による)。十月、鳥部野で火葬された(注:今鏡による)。醍醐山に円光院を建てて遺骨を納め(注:百錬抄、古事談による)、朝廷は三日間政務を停止した。帝は悲しみのあまり、ほとんど眠ることも食べることもできなかった(注:扶桑略記、栄花物語による)。

これ以後、帝は諸々の節会に姿を見せなくなり(注:百錬抄、栄花物語による)、丸一年政務を止め(注:扶桑略記による)、毎月仏像を作らせた(注:扶桑略記、栄花物語による)。円徳院・勝楽院を建立し、常行堂を設けて賢子の冥福を祈った(注:一代要記、今鏡による)。堀河天皇の即位に伴い、皇太后と追尊された(注:一代要記、今鏡、中右記による)。

藤原道子

女御藤原道子(みちこ)は、内大臣藤原能長の娘である(注:一代要記、中右記、栄花物語による)。延久元年、東宮に入り(注:扶桑略記、一代要記による)、御息所となった(注:今鏡による)。延久五年、女御となり(注:一代要記、今鏡による)、従四位下に叙せられ(注:一代要記による)、承香殿を居所とした(注:今鏡による)。

善子内親王を産んだ。その後自邸に退出し、再び宮中に入ることはなかった(注:一代要記、今鏡による)。承保二年、准三宮とされた(注:一代要記による)。善子内親王が伊勢斎宮となると、輿を同じくして斎宮に赴いた(注:一代要記、今鏡による)。長承元年八月、薨去した。享年九十一(注:中右記による)。承香殿女御と称された(注:中右記、今鏡による)。

藤原經子

典侍藤原経子(けいし)は、従三位藤原経平の娘である(注:中右記による)。覚行法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、仁和寺御伝、中右記による)。

源師子は、中宮賢子の同母妹である(注:尊卑分脈による)。上東門院に仕えていたが、帝(白河天皇)がひそかにこれを寵愛した(注:栄花物語による)。覚法法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、仁和寺御伝、今鏡、栄花物語による)。

源師子

源師子(もろこ)は、中宮賢子の同母妹である(注:尊卑分脈による)。上東門院に仕えていたが、帝(白河天皇)がひそかにこれを寵愛し(注:栄花物語による)、覚法法親王を産んだ(注:皇胤紹運録、仁和寺御伝、今鏡、栄花物語による)。

藤原氏

藤原氏は、参議藤原師兼の娘である(注:一代要記、歴代皇紀による)。聖慧法親王を産んだ(注:一代要記、歴代皇紀、皇胤紹運録、今鏡による)。

源氏

源氏は、陸奥守源有宗の娘である(注:陸奥守の記述は今鏡による。有宗という姓は尊卑分脈による)。備前と称された。郁芳門院に仕えていた(注:中右記による)。帝(白河天皇)がこれを寵愛し、僧円行を産んだ(注:中右記、今鏡による)。

藤原氏

藤原氏は、木工権頭藤原季実(すえざね)の娘である。恂子(じゅんし)内親王を産んだ(注:皇胤紹運録、今鏡、中右記による。季実という姓は尊卑分脈による)。

源氏

源氏は、備中守源政長の娘である。僧行慶を産んだ(注:皇胤紹運録、今鏡による)。

源氏

源氏は、参河守源頼綱の娘である。官子内親王を産んだ(注:台記久安二年の条、今鏡、中右記による)。

衹園女御

祇園女御は、姓氏が明らかでない。中宮(賢子)が崩御した後、後宮には帝の意にかなう者がいなかった。この女御は宮中で身分の低い立場にあったが、帝(白河天皇)はこれを見て気に入った。後宮で並ぶ者のない寵愛を受け、待賢門院を養育し、祇園を居所とした。そのため宣旨を賜ることはなかったものの、世には祇園女御と称され、また白河殿とも称された(注:今鏡による)。さらに東御方とも称された(注:仁和寺諸堂記による)。

あるいは蔵人源仲宗の妻であったともいう。帝が譲位した後、宮中に入って寵愛を受け、仲宗は隠岐に流されたという(注:東鑑による。蔵人の記述は尊卑分脈による。尊卑分脈には隠岐を讃岐とする)。またあるいは、女御が祇園にいた頃、帝がたびたびお忍びで通っており、女御が懐妊すると平忠盛に下賜されたともいう(注:平家物語による)。女御はかつて仁和寺に堂を建て、仏像百体を安置したという(注:仁和寺諸堂記による)。

賀茂女御

賀茂女御も、やはり身分の低い出自であった。姉を宇礼志岐(うれしき)、妹を伊波比遠(いわいお)といい、賀茂県主重助の二人の娘である。ともに宮中に入り寵愛を受けた。世に賀茂女御と称された(注:今鏡による)。

【堀河天皇】

篤子中宮

堀河天皇の中宮、諱は篤子(あつこ)。後三条天皇の第四女である(注:皇胤紹運録、一代要記、貴女鈔、中右記永久二年の条による。斎院記は第七女とする)。陽明門院(禎子内親王)の養女となった。治暦四年、内親王となった。延久元年、三品に叙せられ(注:中右記による)、延久五年、賀茂斎院となった(注:中右記、斎院記、貴女鈔、一代要記による。今鏡は延久元年のこととする)。後三条天皇の崩御に伴い、斎院を退いた(注:中右記、一代要記による)。

承暦三年、准三宮とされ(注:中右記、扶桑略記による)、陽明門院の封邑千戸を給わった(注:兵範記仁安二年の条、扶桑略記による)。寛治五年、女御となり(注:一代要記、歴代皇記、中右記による)、寛治七年二月、中宮に立てられた(注:扶桑略記、中右記による)。関白師実を仮の父として(注:扶桑略記による)、賀陽院で三日にわたり饗宴が催された(注:扶桑略記、後二条関白記による)。このとき篤子は三十四歳で、帝(堀河天皇)より十九歳年上であった(注:中右記、今鏡による)。

長治元年、堀河院に移った(注:百錬抄による)。嘉承二年、薙髪して尼となった(注:一代要記、中右記による。一代要記には嘉承三年とする本もあるが誤りである)。永久二年十月、堀河院で崩御した。享年五十五(注:中右記、百錬抄、一代要記、帝王編年紀、後拾遺往生伝による)。

雲林院の掌侍堂で殯が行われた。朝廷は五日間政務を停止した。遺言により、常用の御車を用いて殯所に赴かせ、宮司数人がこれに従った。哭泣の儀や喪服の着用は行わず、賻物の贈与や国忌・山陵の制も設けられなかった(注:中右記による)。中宮は篤く仏法を信仰し、四十年余りにわたって阿弥陀経を誦し、崩御に至るまで怠ることがなかった(注:後拾遺往生伝による)。毎日法華経を供養し(注:中右記による)、証菩提院を建立した(注:中右記、一代要記、百錬抄による)。

藤原茨子

女御藤原茨子(しし)は、大納言藤原実李(さねすえ)の娘である(注:一代要記、貴女鈔による)。承徳二年、女御となり(注:本朝世紀、一代要記による)、承徳三年、従四位上に叙せられた(注:一代要記による)。鳥羽天皇を産んだ。

はじめ女御が懐妊した際、その母が賀茂社に参詣し男子の誕生を祈った。すると夢に神が衣の袂に降りて「生まれるのは男子である。梁の間に物があるので、それを取るがよい」と告げた。驚いて目覚め、探ってみると銀の龍が見つかった。後にこれを鳥羽天皇に献上し、四条坊門に祠を建てて神の降りた衣を祀った。

また、ある女がやって来て女御とその侍女に「お腹の子は皇子であり、その貴さは言葉に尽くせない。右の尻に黒子があるはずだ」と告げた。侍女はこれを后の兄藤原公実に告げた。公実がその女を見ようとしたところ、たちまち姿が見えなくなった。生まれてみると、果たしてその言葉の通りであった(注:台記康治元年の条、続古事談による)。

康和五年正月、卒去した。享年二十八(注:百錬抄、一代要記による。卒年は本朝世紀による)。従二位を追贈された(注:本朝世紀、一代要記、中右記による)。鳥羽天皇の即位に伴い皇太后を追贈された。天仁元年七月、勅により転輪院に国忌が置かれた(注:中右記、百錬抄による)。

王氏

王氏は、神祇伯康資王の娘である(注:皇胤紹運録、貴女鈔、斎院記による)。後冷泉天皇の藤原皇后に仕えていた(注:今鏡による)。帝(堀河天皇)がこれを寵愛し、悰子(そうし)内親王を産んだ(注:皇胤紹運録、貴女鈔、斎院記による)。

藤原氏

藤原氏は、伊勢守藤原時経の娘である。最雲法親王を産んだ(注:一代要記、今鏡による。皇胤紹運録には時経を時綱とする)。

藤原氏

藤原氏は、近江守藤原隆宗の娘である。僧寛暁を産んだ(注:皇胤紹運録、今鏡による。隆宗という姓は尊卑分脈による。皇胤紹運録の一説には大納言源師忠の娘ともあるが、いずれが正しいか明らかでない)。

【鳥羽天皇】

藤原中宮(璋子)

鳥羽天皇の藤原中宮、諱は璋子(しょうし)。大納言藤原公実の娘である(注:尊卑分脈、一代要記、貴女鈔、女院小伝による)。白河天皇の養女として宮中で育てられた。成長すると藤原忠通に嫁がせる話があったが、事情があって実現しなかった。折しも白河天皇が帝(鳥羽天皇)の配偶を選ぶにあたり、忠通の父忠実に娘を差し出すよう勅命を下したが、忠実はかたく辞退した。白河天皇はこれを不満に思い、方針を変えて璋子を帝の后とすることにした(注:愚管抄による)。

永久五年、従三位に叙せられ女御となった(注:女院小伝による)。元永元年正月、中宮となった(注:愚管抄、女院小伝による)。寛平以後、大納言の娘で后となった例は、三条天皇の藤原皇后(娍子)と璋子の二人だけである。

元永二年、懐妊して里第に退出した。五月、崇徳天皇を出産した。出産にあたり軽罪の囚人を赦免した(注:中右記による)。詔には「かの高禖(子授けの神)への礼に応え、御降誕の時を迎えるにあたり、書経にも『一人慶あれば、兆民これに頼る』とあるではないか。よろしく重い網(刑罰)を緩め、聖瑞を堯門(皇統)に望むべし」とあった(注:朝野群載による)。また僧寛助に命じて西対で孔雀経法を修させた(注:中右記による)。

まもなく禧子(きし)内親王(上西門院)を産んだ(注:中右記長承元年の条、歴代皇紀、帝王編年紀による。上西門院の記述は一代要記、女院小伝、貴女鈔による)。

大治二年、再び懐妊して里第に退出した。白河天皇は白河の伊豆堂に行幸し、仏像二百余体の開眼供養を行い、仁和寺で修法を行わせて安産を祈った(注:中右記による)。九月、後白河天皇を出産した。出産にあたり囚人を赦免した(注:源平盛衰記による)。道仁親王、君仁親王、本仁親王も、いずれも璋子の所生である(注:皇胤紹運録、百錬抄による)。おおよそ閑院家から出て栄達を遂げた者は、皆この后の縁による(注:愚管抄、今鏡による)。

崇徳天皇の即位に伴い、待賢門院の号を奉られた(注:帝王編年紀、女院小伝、貴女鈔、今鏡による)。后は篤く仏法を信仰し、法金剛院・円勝寺を創建し、興福寺に仏堂を、円徳院・泉殿・賀茂の数か所に塔を建て、また法金剛院に金泥の大蔵経を安置した(注:百錬抄による)。帝(鳥羽天皇)や崇徳天皇に付き従って熊野に参詣した(注:中右記による)。

康治元年、法金剛院で薙髪し(注:台記、百錬抄、一代要記による)、法名を真如法(しんにょほう)といった(注:一代要記、女院小伝による)。鳥羽上皇と崇徳天皇がその場に臨席した(注:台記による)。仁和寺女院と称された。

后が幼い頃、白河天皇はことのほか可愛がり、懐に抱いて育てた(注:今鏡による)。やや成長すると、ついに私通するようになった。中宮となってからもなお醜聞が絶えなかった。帝(鳥羽天皇)はこれをかなり察知しており、そのため崇徳天皇を愛さず、「叔父子(おじご)」であると評するほどであった(注:古事談による)。

白河法皇の崩御後、璋子への寵愛はしだいに衰えた。当時美福門院が新たに寵愛を得ていた(注:今鏡による)。散位源盛行という者がおり、その妻津守島子は后の侍女であった。このため盛行は后の意を受け、広田社の巫女朱雀を呼び寄せて美福門院を呪詛させた。事が発覚し、検非違使を遣わして盛行らを捕らえ、あわせて西宮神殿で銀の筥を発見し、盛行は流罪に処せられた(注:台記、百錬抄による。津守の記述は百錬抄による)。后の乳母の子である僧信朝も日吉社で呪詛を行い、検非違使に捕らえられた。当時の人々はこれを后の仕業と見なした。これにより后はついに薙髪し、崇徳上皇とともに三条高倉殿に同居した。

久安元年四月、体調を崩し、自ら回復しないことを悟って生前供養(逆修)を行った。八月、鳥羽法皇が見舞いに訪れると、そのまま崩御した(注:台記による)。享年四十五(注:一代要記、女院小伝による)。法皇は磬(けい、仏具)を打ち鳴らして哭泣し、遺言に従って石窟に葬った(注:台記による)。朝廷は五日間政務を停止した(注:園太暦による)。

法皇は仏像三体を造り、金泥で五部大乗経・法華経を書写し、また璋子が生前に書き残したものを集め、金泥でその紙背に自ら阿弥陀経を書写した。崇徳上皇もまた弥勒像を描き、自ら弥勒経を書写した。近衛天皇は円勝寺で百人の僧を供養し、法皇と崇徳上皇もこれに臨んで冥福を祈った(注:台記による)。

藤原皇后(泰子)

藤原皇后、諱は泰子(たいし)、初名は勲子(くんし)。関白藤原忠実の娘である(注:中右記、貴女鈔、女院小伝による)。帝(鳥羽天皇)の即位当初、白河天皇は忠実にその娘を差し出すよう命じたが、忠実は辞退してそのままになった。帝が譲位した後もなお、白河法皇はこれを迎え入れようとした(注:愚管抄による)。

長承二年に至り、ついに帝(鳥羽上皇)の宮に入った。当時三十九歳であった(注:愚管抄、一代要記による。三十九歳の記述は女院小伝による)。長承三年、従四位下に叙せられ准三宮とされた。勅には「功があれば必ず報い、その模範を史書に残し、徳を積めばその余慶があり、佳き道を子孫に伝えるものである。従四位下藤原勲子は、三代の朝廷を輔弼した忠実の長女であり、四徳を備えた淑やかで美しい賢女である。今その恩恵の輝きを禄封の授与に分かち、その誉れを後宮の礼にならって准ずることとする。よろしく邑五百戸を授け、あわせて内外官の年爵の三分の一を与えるべし」とあった(注:中右記による)。

まもなく皇后に立てられた(注:中右記、今鏡による)。美福門院(得子)が入内すると、泰子への寵愛はしだいに衰えた(注:今鏡による)。保延五年、賀陽院の号を奉られた(注:一代要記、帝王編年記、貴女鈔による)。永治元年、宇治の小松で薙髪し(注:歴代皇紀による)、法名を清浄理といった(注:女院小伝による)。

仁平二年、美福門院とともに帝(鳥羽法皇)に従って天王寺に参詣した(注:百錬抄による)。久寿二年、病を患い、十二月、土御門第で崩御した。享年六十一(注:台記、女院小伝による。土御門第の記述は百錬抄による)。福勝院の護摩堂に葬られた(注:台記、百錬抄による)。

藤原皇后(得子)

藤原皇后、諱は得子(とくし)。中納言藤原長実の娘である(注:尊卑分脈、一代要記、女院小伝、今鏡による)。帝(鳥羽上皇)は薙髪の後、その美しさを聞いて迎え入れ、大いに寵愛した(注:今鏡による)。

保延二年、従三位に叙せられた(注:一代要記、女院小伝による)。叡子内親王、八条院、近衛天皇、高松院を産んだ(注:今鏡による)。保延五年、女御となった(注:一代要記、歴代皇紀、女院小伝による)。永治元年、准三宮とされた(注:女院小伝による)。近衛天皇の即位に伴い、皇后と尊ばれた(注:一代要記、女院小伝、今鏡による)。久安五年、美福門院の号を奉られた(注:一代要記、女院小伝による)。

二条天皇が生まれてまもなく生母を失うと、后(美福門院)がこれを引き取って養育した(注:今鏡による)。近衛天皇が病に伏すと、后は崇徳上皇と藤原頼長の呪詛によるものだと考え、これにより崇徳上皇を恨むようになった。近衛天皇が崩御すると、当時の人々は崇徳上皇の皇子重仁親王に期待を寄せたが、后は以前の恨みからこれを立てることを望まず、帝(鳥羽法皇)に後白河天皇を立てるよう勧めた(注:保元物語による)。このため後白河天皇は后を母のように敬い仕えた(注:玉葉嘉禎元年の条、今鏡による)。崇徳上皇は大いに失望した。保元の乱は、実にこの后に端を発するものであった。

保元元年、鳥羽法皇が病に伏すと、后は鳥羽の成菩提院で薙髪し(注:保元物語による)、法名を真性定といった(注:女院小伝による。本書には「一に真浄空に作る」とある)。法皇は崩御に臨み、後事を憂えて北面の武士十人に誓書を后に奉らせた(注:愚管抄による。本書には源為義・平清盛ら十人の名が挙げられているが、保元物語の記述とは合致しない。いずれが正しいか明らかでない)。鳥羽の宮に関する事柄は、すべて后の裁断に委ねられた(注:今鏡による)。

乱が起こると徴兵が行われ、源義朝ら十人は皆その命に従った。后はまた偽の遺詔を作り、平清盛を召し出した。乱はまもなく平定された(注:保元物語による)。

后はかつて観禅光院・金剛勝院を創建し(注:百錬抄、帝王編年記による)、法勝寺で金泥の大蔵経の開眼供養を行った(注:台記、百錬抄による)。永暦元年十一月、押小路殿で崩御した(注:山槐記による)。享年四十四(注:百錬抄、女院小伝による)。朝廷は三日間政務を停止した(注:山槐記による)。

もともと帝(鳥羽法皇)は后のために鳥羽の東殿に塔を建て、蔵人所としていた(注:百錬抄、山槐記による)。しかし后はひそかに高野山に堂を営み、遺骨をそこに納めるよう遺言していた。この時に至って、后の弟である備後守時通が高野山に赴き、これを納めた(注:今鏡による)。

橘氏

橘氏は、修理大夫橘俊綱の娘である。藤壺女御と称された。僧真誉を産んだ(注:撰集鈔による。本書には姓が欠けているため、ここでは尊卑分脈により補った)。

藤原氏

藤原氏は、左大臣藤原実能の娘である(注:台記、山槐記、今鏡による)。美福門院に仕え、春日局と称された(注:台記、山槐記による)。帝(鳥羽法皇)がこれを寵愛し、頌子内親王を産んだ(注:台記、山槐記、今鏡による)。

藤原氏

藤原氏は、中納言藤原実衡の娘である。高松宮を産んだ(注:皇胤紹運録、帝王編年記、今鏡を参照してまとめた。皇胤紹運録には実衡の娘が産んだ一女が記されているが称号が記されていない。帝王編年記や今鏡には高松宮とあるが、生母については記されていない。尊卑分脈を調べると、実衡の父と弟がともに高松と号しているため、高松宮とは実衡の娘の所生であり、その母方の家名にちなんだ称であると考えられる)。

藤原氏

藤原氏は、参議藤原家政の娘である(注:尊卑分脈、一代要記、皇胤紹運録、今鏡による)。三条局と称され、待賢門院に仕えた(注:百錬抄、今鏡による)。帝(鳥羽法皇)がこれを寵愛し、妍子内親王を産んだ(注:一代要記、皇胤紹運録、今鏡による)。

保延四年、河内守俊賢(姓は不詳)の子成賢によって普賢堂で殺害され(注:百錬抄、一代要記、今鏡を参照してまとめた)、俊賢はこの罪により京外に追放された(注:今鏡による)。

紀氏

紀氏は、石清水別当紀光清の娘である(注:皇胤紹運録、紀氏系図、今鏡による)。美濃局と称された(注:皇胤紹運録、紀氏系図による)。はじめ白河法皇に仕えていたが(注:今鏡による)、鳥羽法皇がこれを寵愛し、道慧法親王、覚快法親王、双林寺宮を産んだ(注:紀氏系図、今鏡による。皇胤紹運録の一本には高松院を紀氏の所生とするが誤りである)。

【崇德天皇】

藤原中宮(聖子)

崇徳天皇の藤原中宮、諱は聖子(せいし)。関白藤原忠通の娘である。大治三年、従三位に叙せられ(注:一代要記、女院小伝による)、大治四年、女御となった。大治五年二月、中宮に立てられた(注:長秋記、女院小伝による)。後冷泉天皇の四条后(寛子)以来、執政の娘で后となった者はおよそ八十年にわたっていなかった。聖子の立后を、当時の人々は藤原氏の中興と評した(注:中右記による)。

后は腹の張りを患い、懐妊したものと思われた。臨月になって修法により祈禱すると、まもなく水のようなものが出て、もとの体調に戻った(注:続古事談による)。結局子を産むことはなく、近衛天皇を養育した(注:今鏡による)。

近衛天皇の即位に伴い、皇太后と尊ばれた(注:一代要記、女院小伝、今鏡による)。久安六年、皇嘉門院の号を奉られた(注:台記、一代要記、女院小伝による)。崇徳上皇が讃岐に移されると、后は嘆き悲しみ、髪を断って尼となった(注:百錬抄、一代要記、女院小伝、今鏡による)。法名を清浄慧といった(注:女院小伝による。女院鈔には蓮覚とある)。

養和元年、病を患った。自ら回復しないことを悟り、毎日僧湛教のもとで戒を受けた。病が重くなると、後白河法皇が書状を送って言い残すことはないかと尋ねたが、后はただ甥の藤原良通のことを託しただけであった(注:玉葉による)。十二月、九条殿で崩御した(注:一代要記、歴代皇記による)。享年六十一(注:一代要記、歴代皇記、保暦間記による。百錬抄、帝王編年記、女院小伝は六十歳とする)。

最勝金剛院に葬られた。后はあらかじめ石造りの塔を造らせ、自ら銘を書いていた。葬儀にあたりこれが建てられた。遺言により、葬儀や冥福を修する儀式はすべて簡素にするよう定められていた(注:玉葉による)。

源氏

源氏は、参河権守源師経の娘である。僧元性を産んだ(注:皇胤紹運録、今鏡による)。

藤原氏

藤原氏は、法勝寺執行信縁の娘である(注:台記、尊卑分脈による)。兵衛佐局と称され、中宮(聖子)に仕えていた。帝(崇徳天皇)がこれを寵愛し、後宮で並ぶ者のない待遇を受けた。僧の娘であったため身分は低かったが、当時大蔵卿源行宗が和歌に優れ帝の近習として仕えており、藤原氏は彼を父のように頼っていた。信縁が没すると、しばらく頼るところがなかったが、まもなく重仁親王を産むと、寵愛はいっそう厚くなった。後に帝に従って讃岐に赴いたが、帝の崩御後は京に戻って薙髪した(注:今鏡による)。

【近衛天皇】

藤原皇后(多子)

近衛天皇の藤原皇后、諱は多子(たし)。右大臣藤原公能の娘である。叔母の夫にあたる左大臣藤原頼長がこれを養女とした(注:百錬抄、一代要記、歴代皇記、今鏡による)。聡明で書画に優れ、音律に通じ、箏・琵琶を得意とした(注:今鏡による)。

久安四年、従三位に叙せられた。久安六年正月、女御となり(注:台記、別記による)、三月、皇后に立てられた(注:台記、別記、一代要記、歴代皇記、帝王編年紀による)。

久寿二年、帝(近衛天皇)が崩御した。保元元年、養父頼長の一件により近衛河原に幽居した(注:源平盛衰記による)。この年、後白河天皇が立つと、多子は皇太后と尊ばれた(注:帝王編年紀による)。保元三年、太皇太后となった(注:公卿補任による)。

二条天皇はその美しさを聞き、勅命により父公能に宮中に入れさせようとした。群臣は皆これを不可とし、後白河法皇もたびたび諫言したが、帝は聞き入れず「天子には父母はいない。なぜ私の意のままにさせぬのか」と言った。永暦元年、ついに宮中に入った。当時の人々はこれを「二代の后」と呼んだ。

治承の末、都が福原に移されると、多子は近衛河原に留まった。兄の藤原実定が福原から帰京し、月夜にこれを訪ねた(注:平家物語、源平盛衰記による)。多子は琵琶を抱いて秋風楽を奏で、実定は笛を吹き、侍女の小侍従は箏を弾いた。その音色は哀しく切なく、居合わせた者は皆涙を流した(注:源平盛衰記による)。

建仁元年十二月、崩御した。享年六十二(注:帝王編年紀による。本書には享年六十三とあるが、ここでは台記・別記の久安四年に九歳とある記述、および本書の久安六年に十一歳とある記述により訂正した)。

藤原中宮(呈子)

藤原中宮、諱は呈子(ていし)。太政大臣藤原伊通の娘である(注:台記、一代要記、歴代皇紀、女院小伝、尊卑分脈、今鏡による)。はじめ美福門院の養女となっていた(注:台記による)。鳥羽法皇は帝(近衛天皇)にこれを迎えさせようとした。当時関白忠通の妻は呈子の叔母にあたっていたため、法皇は忠通に呈子を養女とさせた上で入内させた(注:台記、今鏡による)。

久安六年、従三位に叙せられ女御となり(注:台記、女院小伝、尊卑分脈による)、まもなく中宮となった。帝の崩御後、薙髪し、法名を清浄観といった(注:女院小伝、尊卑分脈による)。後白河天皇の即位に伴い皇后と尊ばれ、保元三年、皇太后となった(注:帝王編年紀、女院小伝、尊卑分脈による)。仁安三年、九条院の号を奉られた(注:玉葉、女院小伝、尊卑分脈による)。安元二年九月、崩御した(注:玉葉、百錬抄、顕広王記による)。享年四十六(注:百錬抄、顕広王記による。女院小伝、後宮略伝は四十二歳とする)。

【後白河天皇】

藤原中宮(忻子)

後白河天皇の藤原中宮、諱は忻子(きんし)。右大臣藤原公能の娘で、近衛皇后(多子)の姉である(注:一代要記、歴代皇紀、今鏡による)。久寿二年、入内した(注:台記、帝王編年記による。女御となった記事は欠けており、考証できない)。

保元元年十月、中宮に立てられ、承香殿を居所とした(注:今鏡による)。平治元年、皇后と改められた(注:帝王編年記、今鏡による)。承安二年、皇太后となった(注:玉葉、帝王編年記による)。承元三年八月、崩御した。享年七十六(注:帝王編年記による)。

平皇后(滋子)

平皇后、諱は滋子(しげこ)。兵部少輔平時信の娘である(注:女院小伝、平氏系図による)。はじめ小弁と称され(注:愚管抄、古今著聞集による)、後に東御方と称された(注:玉葉による)。格別の寵愛を受けた(注:愚管抄、古今著聞集による)。

仁安元年、従三位に叙せられ(注:女院小伝による)、仁安二年、女御となった(注:玉葉、百錬抄、女院小伝による)。高倉天皇を産んだ。高倉天皇の即位に伴い、皇太后と尊ばれた(注:帝王編年記、女院小伝、今鏡、古今著聞集による)。翌年、建春門院の号を奉られた(注:公卿補任、一代要記、貴女鈔による)。

高倉天皇が滋子の御所を訪れる際は、簾越しに拝礼した。官人たちはその栄華を盛んに褒めそやしたが、后は「前世の因縁によるもので、私の与り知るところではありません」と語り、聞く者は皆感心した(注:古今著聞集による)。

后はかつて帝(後白河法皇)に従って安芸の厳島や有馬温泉に行幸したことがある(注:玉葉、百錬抄による)。篤く仏法を信仰し、最勝光院を創建した(注:百錬抄、元亨釈書による)。

安元元年、熊野に参詣して神恩に報い宿願を祈った。草鞋を履いて徒歩で四十日をかけて本宮に至り、社前で自ら胡飲酒を舞った。にわかに大雨が降り衣裳がすっかり濡れたが、意に介さず最後まで舞い続けた(注:長門本平家物語による)。

翌安元二年六月、体調を崩した。詔により天下に大赦を行い、通常の赦免では許されない者まですべて赦された(注:吉記、百錬抄による)。后は自ら回復しないことを悟り、院号や年官・年爵・封戸を辞退し(注:玉葉、吉記による)、薙髪して戒を受けた(注:吉記による)。

七月、法性寺殿で崩御した。享年三十五(注:一代要記による)。かつて蓮華王院のそばに法華三昧堂を建立しており、崩御の頃にちょうど完成したため、そこに葬られた(注:玉葉、百錬抄による)。詔により天下に哭泣の儀を行わせ、殺生を禁じた(注:長門本平家物語による)。高倉天皇は自ら法華経を書写し、その冥福を祈った(注:百錬抄による)。

源懿子

女御源懿子(いし)は、大納言藤原経実の娘である。左大臣源有仁の養女となった(注:尊卑分脈、今鏡による)。帝(後白河天皇)がまだ即位前であった頃にこれを迎え入れ(注:今鏡による)、女御となった(注:一代要記、尊卑分脈による)。康治二年六月、二条天皇を出産した。その数日後に卒去した。二条天皇の即位に伴い、皇太后と追尊された(注:今鏡による)。平治元年、国忌が定められた(注:年中行事による)。

藤原琮子

女御藤原琮子(そうし)は、内大臣藤原公教の娘である(注:尊卑分脈、一代要記、歴代皇紀、今鏡による。一代要記の一説や皇胤紹運録には公能の娘とあるが誤りである)。女御となり、凝華舎を居所として梅壺女御と称された(注:今鏡による)。後に薙髪して尼となった(注:一代要記による)。

藤原氏

藤原氏は、右大臣藤原公能の娘で、中宮(忻子)の同母妹である(注:今鏡による)。惇子内親王を産んだ(注:皇胤紹運録、皇胤系図による)。

高階榮子

高階栄子は、僧章尋の娘である(注:帝王編年記による)。はじめ相模守平業房の妻であった(注:尊卑分脈、女院小伝による)。宮中に入り丹後局と称された(注:玉葉、女院小伝による。玉葉には「丹波ははじめ遊女であったが、宮中に入り六条殿と号した」とあり、また「帝が丹波に浄土寺の扁額を賜った」とあり、また「丹後の浄土寺の家に行幸した」ともある。これによれば丹波と丹後は同一人物であるらしい。本書では永寿以前は丹波と書き、文治以後は丹後と書いている。寿永の乱の折、帝が誰を立てるべきか占わせた際、寵姫が夢に見た言葉を奏上したという記事について、玉葉は丹波とし、帝王編年記・東鑑・平家物語・源平盛衰記などの諸書はいずれも丹後としている。すなわち栄子ははじめ丹波と称し、後に丹後と改めたのかどうかも定かでない。一方で山槐記には「承仁法親王の母は遊女で、宮中に入り丹波と号した」とあり、歴代皇紀裏書にも「承仁の母は六条殿」とある。これによれば丹波・六条と称されたのは承仁の母であって栄子ではないことになる。今のところ判断がつかないため、参考として付記しておく)。

従三位に叙せられ(注:玉葉による)、従二位に進み、宣陽門院を産んだ(注:玉葉、皇胤紹運録、女院小伝による。帝王編年記には「殷富門院の母は栄子、宣陽門院の母は成子」とあるが、宣陽門院は帝と六条殿に同居しており、栄子もまた六条院と号したことから、ここでは玉葉などの説に従い、栄子の所生とする)。

帝(後白河法皇)は栄子を大いに寵愛し、その邸が浄土寺にあったことから扁額を賜った(注:玉葉による)。世に浄土寺二位と称された(注:愚管抄、源平盛衰記による)。帝の崩御後、薙髪して尼となった(注:東鑑による)。

栄子は承仁法親王と親密な間柄にあり、かなりの醜聞があった。後鳥羽天皇の時代になっても、なお宮中への出入りを続けた。人となりは巧みに媚びへつらい、主君の意にかなうことに長けていた。また源頼朝の意向をうかがい、朝廷の情勢をひそかに鎌倉へ報じることを常としていた。双方に取り入り、それぞれの歓心を得ていた(注:愚管抄による)。建久六年、頼朝が上洛して六波羅に滞在した際、栄子を招いて手厚くもてなし、砂金三百両を贈った(注:東鑑による)。

藤原成子

藤原成子は、大納言藤原季成の娘である。従三位に叙せられ、高倉三位局と称された(注:仁和寺御伝による)。守覚法親王、以仁王、殷富門院、式子内親王、好子内親王、休子内親王を産んだ(注:皇胤紹運録による。帝王編年記には宣陽門院を産んだとある)。

坊門局

坊門局は、兵衛尉信業の娘である(注:皇胤紹運録、諸門跡譜による。信業の姓は欠けており、皇胤系図には信重とある)。円慧法親王、定慧法親王、静慧法親王、僧恒慧を産んだ(注:皇胤紹運録による。一代要記には「定慧・恒慧の母は備中守大江信忠の娘、静慧の母は丹波」とあり、皇胤系図にも「静慧の母は承仁と同じ」とある。歴代皇紀には「定慧は承仁と同母の兄」とあるが、いずれが正しいか明らかでない)。

紀氏

紀氏は、内膳司紀孝資の娘である。はじめ遊女であったが、召されて宮中に入り、承仁法親王を産んだ(注:天台座主記による。皇胤紹運録には「母は仁操の娘丹波」とあり、遊女であったことは記していない。山槐記には「母は遊女丹波局」とある。歴代皇紀裏書には「母は六条殿」とあり、いずれも仁操の娘であることは記していない。玉葉によれば丹波はまた六条とも称され、すなわち浄土寺二位栄子であるという。諸説が入り乱れて今のところ考証できないため、ひとまず天台座主記の説に従っておく)。

源氏

源氏は、延暦寺の僧仁操の娘である(注:皇胤紹運録、山槐記による)。三条局と称され、道法法親王、僧長禎を産んだ(注:皇胤紹運録による。本書には「承仁の母は仁操の娘丹波」とあるが、山槐記には「承仁の母は遊女丹波」とある。玉葉には「遊女丹波は六条と号した」とあるが、仁操の娘であるとは記していない。仁和寺御伝によれば仁操は左大臣源有仁の弟であるという。尊卑分脈によれば有仁は後三条天皇の皇子輔仁親王の子である。とすれば仁操は帝の曾孫にあたり、有仁の甥ということになる。その娘が遊女であったとは考えにくく、また藤原皇后懿子は有仁の養女であって、仁操の娘は懿子にとっても姪にあたることになるから、遊女であったという説にはなお疑いが残る。今のところ考証のしようがない)。