卷之八十 列傳第七

后妃七

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次19
  1. 藤原中宮(妍子)
  2. 藤原皇后(娀子)
  3. 藤原氏
  4. 藤原綏子
  5. 藤原中宮(威子)
  6. 籟子皇后
  7. 藤原中宮(嫄子)
  8. 藤原皇后(嬉子)
  9. 藤原生子
  10. 藤原延子
  11. 章子中宮
  12. 藤原皇后(寬子)
  13. 藤原皇后(歡子)
  14. 馨子中宮
  15. 藤原皇后(茂子)
  16. 藤原昭子
  17. 源基子
  18. 某氏
  19. 藤原氏

藤原中宮(妍子)

三条天皇の藤原中宮、諱は妍子(けんし)。摂政藤原道長の第二女で、上東門院(彰子)の同母妹である(注:日本紀略、大鏡裏書、栄花物語による)。寛弘元年(1004年)、正四位下を授けられ尚侍となった(注:日本紀略、大鏡裏書による)。まもなく従三位に叙せられ(注:日本紀略、一代要記による)、寛弘七年には従二位に進んだ(注:一代要記による)。このとき帝はまだ東宮の位にあり、妍子を迎え入れた(注:大鏡裏書、今鏡、一代要記による。栄花物語は寛弘六年の出来事とするが誤りである。また日本紀略の寛弘三年・七年の条にはいずれも妍子入内の記事が重出しており、三年の条には「東宮に入る」、七年の条には「初めて東宮に入る」とある。おそらく三年の記事は入内の日取りを内々に定めたことを記したものであろうが、文意が明らかでないためここでは採らない)。

后は容姿が美しく、髪の長さは身の丈を超えていた。道長は衣服や調度を十年ほどかけて整え、その華美なさまは上東門院入内の儀を上回るものであった。これより先、宣耀殿女御(娍子)が帝の寵愛を独占していたが、妍子が入内すると帝の心はしだいに移り、常に妍子のもとに渡るようになった(注:栄花物語による)。

寛弘八年(1011年)、帝が即位すると女御となった(注:日本紀略、大鏡裏書による)。当時、中宮の冊立はまだ定まらず、世間では様々な噂が飛び交っていた。帝は宣耀殿女御に和歌を贈り、冊立が思うようにいかない胸中を寄せた。帝は妍子を后に立てたいと思い、たびたび道長に諭したが、道長は「宣耀殿女御は多くの皇子を産んでおりますので、先に冊立なさるべきです。私の娘のことは、どうかしばらくお待ちください」と奏上した。帝はこれを喜ばなかった。道長はさらに奏上し、急いで宣旨を下させた(注:栄花物語による)。

長和元年(1012年)二月、妍子は中宮に立てられた(注:日本紀略、栄花物語、大鏡裏書による)。帝からの使者がしきりに訪れたという(注:栄花物語による)。

長和二年七月、陽明門院(禎子内親王)を出産した(注:日本紀略、栄花物語による。浦木案ずるに、陽明門院は諱を禎子という)。翌年正月、后は宮中に帰った(注:栄花物語は長和二年十一月のこととするが、ここでは日本紀略に従う)。その一月余り後、宮中で火災があり、后は帝とともに太政官の朝所に避難し(注:栄花物語は「松下曹司に避難した」とするが、ここでは日本紀略に従う)、その後京極第に移り住んだ。長和四年、内裏が新造されると帝はそちらに移ったが、后は従わず、後に一条院に移った。さらにその後枇杷第に移ったが、枇杷第が火災に遭ったため、后は帝とともに高倉第に移り、やがて三条院に移った。帝が崩御すると、后は一条第に退出した(注:栄花物語による)。

寛仁二年(1018年)十月、皇太后となった(注:日本紀略、大鏡裏書、一代要記による)。治安二年、枇杷殿に移った。万寿四年(1027年)三月、体調を崩した。折しも陽明門院が入内しようとしていた時期であり、后は病をおして事に当たったため、病状はいっそう重くなった(注:栄花物語による)。九月、髪を切って尼となり、その日のうちに崩御した(注:日本紀略、栄花物語による)。享年三十四(注:日本紀略、扶桑略記、大鏡裏書による)。大峰寺前野で火葬され(注:日本紀略による)、遺骨は木幡に納められた(注:栄花物語による)。世に「枇杷太后」と称された(注:今鏡、大鏡裏書、徒然草による)。遺言により、喪服の着用や哭泣の儀、国忌・山陵の制はすべて停止された(注:日本紀略による)。

藤原皇后(娀子)

藤原皇后、諱は娍子(せいし)。大納言藤原済時(なりとき)の娘である(注:日本紀略、一代要記による)。かつて村上天皇が済時に箏を授けたが、娍子はそれを伝授されて秘曲を極めた。帝(三条天皇)がまだ東宮であった頃、ある僧がしきりに宮中に出入りしており、ある夜娍子のことを話題にすると帝の心が動き、その僧に意向を伝えさせた。済時は大いに喜んでこれを承った。正暦二年、東宮に入り宣耀殿を居所とした(注:栄花物語による)。当時十九歳であった。小一条院、敦儀(あつのり)親王、敦平(あつひら)親王、師明(もろあきら)親王、当子(とうし)内親王、禔子(ていし)内親王を産んだ(注:大鏡、栄花物語、皇胤紹運録による)。

中宮(藤原彰子)が入内した際、娍子は侍女に「世の流れがこうなることは、私も元より承知していた。今さら驚くことではない。ただ子どもたちを育て、仏道に帰依するだけである。とはいえ我が子の行く末を思うと、案じずにはいられない」と語った(注:栄花物語による)。

帝の即位に伴い従四位下を授けられ(注:日本紀略による)、女御となった(注:日本紀略、一代要記による)。宣耀殿女御と称され(注:大鏡、栄花物語による)、また堀河女御とも称された(注:一代要記による)。

長和元年二月、中宮(妍子)が立てられた。帝はさらに娍子を后に立てたいと望んだが、道長を憚って言い出せなかった。娍子は自ら身を引き、恨みがましいそぶりは見せなかった。道長が帝に冊立を勧めると、帝は「大納言の娘が后になった例は近頃はない。世間の批判を招きはしないか」と言った。道長は「済時に官位を追贈すればよいだけのこと。何の差し支えがありましょうか」と答えた。帝はこれをよしとし、済時の墓に使者を遣わして太政大臣を追贈させた(注:栄花物語による)。

四月、娍子は皇后に立てられた(注:小右記、日本紀略、栄花物語、一代要記、大鏡裏書による)。道長は世間の批判に押されて帝に冊立を勧めたのであって、本心からのことではなかった。この日、大臣以下の多くの公卿は中宮(妍子)の御所に集まっており、帝が使者を遣わして召したが、参上する者は一人もいなかった。帝は怒ったが、どうすることもできなかった(注:小右記による)。皇后宮職を置いても、皆これを避けて就こうとしなかった。娍子はひどく不満であったが、帝はこれを気の毒に思った(注:栄花物語による)。

長和五年、帝は後一条天皇に譲位し、小一条院を東宮に立てた。寛仁元年、帝(三条上皇)が崩御した(注:大鏡裏書、栄花物語による)。寛仁三年、落飾した(注:日本紀略、大鏡裏書による)。万寿二年三月、崩御し、西院に葬られた(注:日本紀略、栄花物語による)。遺言により、国忌・山陵の制、喪服の着用、哭泣の儀はすべて停止された(注:日本紀略による)。

藤原氏

女御藤原氏は、関白藤原道隆の娘で、六条皇后(定子)の同母妹である(注:大鏡裏書、栄花物語による)。長徳元年、東宮に入り尚侍となった(注:日本紀略、栄花物語による)。寵愛を受けて女御となり(注:栄花物語による)、淑景舎女御と称された(注:日本紀略、大鏡裏書、栄花物語による)。長保四年八月、突然吐血して急死したが、世間では皇后がこれに毒を盛ったのだと噂した(注:栄花物語による)。

藤原綏子

尚侍藤原綏子(すいし)は、関白藤原兼家の第三女である。永観二年、尚侍となった(注:大鏡裏書は永延元年とするが、ここでは大鏡に「尚侍となった時十一歳であった」とあるのに基づく)。容姿に優れていた(注:栄花物語による)。永延元年、東宮に仕え(注:一代要記による。大鏡・栄花物語は帝が元服した年に入宮したとするが誤りである)、麗景殿を居所とした(注:栄花物語による。系図には麗景殿女御と称するとあるが誤りである)。

寵愛を受けた。帝はまだ幼く、綏子と親しくたわむれ、夏の日に氷を綏子に与えて「そなたが私を深く愛しているなら、これを持って私の命を待て」と言った。綏子はそれを捧げ持ち、手の色が変わるまで放さなかった(注:大鏡による)。従二位を授けられた(注:日本紀略による。年月は考証できない。一代要記には長保元年正月に正二位を授けられたとあるが、要記の誤りであろう)。

後に参議源頼定と密通し(注:栄花物語、大鏡、一代要記による)、事が露見したため宮中を退出した。帝はその懐妊を聞き、摂政道長に命じて事実を調べさせたところ、果たして事実であった。帝はこれを憎んだが、兼家への配慮からそのまま不問に付した(注:大鏡による)。寛弘元年二月、薨去した。享年三十一(注:日本紀略、一代要記、大鏡裏書による)。

【後一條天皇】

藤原中宮(威子)

後一条天皇の藤原中宮、諱は威子(いし)。摂政藤原道長の第三女(注:小右記、日本紀略、大鏡裏書、栄花物語による)、上東門院の同母妹である(注:大鏡裏書による)。長和元年、尚侍となり従三位に叙せられた(注:日本紀略、大鏡裏書による。長和元年の記述は大鏡裏書による)。寛仁二年、宮中に入り女御となり(注:小右記、日本紀略、大鏡裏書による)、飛香舎を居所とした(注:左経記、今鏡による)。帝(後一条天皇)はまだ幼く、后の化粧道具などを玩具にして遊び、日々親しみ睦まじく過ごした(注:栄花物語による)。

十月、皇后に立てられ中宮と称された(注:小右記、日本紀略、栄花物語による)。后の兄藤原教通は自分の娘を入内させ子を生ませたいと帝に願い出た。帝は内心これを喜んだが、后を憚って許さなかった。后は嫉妬深い性質で、帝より九歳年上であった。常に寵愛が他に移ることを恐れ、警戒を怠らなかった。そのため敦康親王の娘嫄子(げんし)や、兄賴宗の娘延子も、ついに入内がかなわなかった(注:栄花物語による)。

万寿三年、懐妊して宮中を退出した。十二月、章子内親王を産んだ(注:日本紀略、一代要記、栄花物語による)。万寿四年正月、宮中に戻った。この年、道長の喪に遭い、再び退出した。長元元年三月、宮中に戻った(注:日本紀略による)。長元二年二月、馨子内親王を産んだ(注:日本紀略、一代要記による)。

長元九年、帝が崩御し、后は鷹司殿に移った(注:日本紀略による)。九月、疱瘡を患い(注:扶桑略記、栄花物語による)、落飾して尼となった(注:栄花物語による)。崩御、享年三十八(注:扶桑略記、栄花物語による)。園城寺北の桜本に葬られた(注:大鏡裏書による)。世に大中宮と称された(注:扶桑略記による)。

【後朱雀天皇】

籟子皇后

後朱雀天皇の皇后、諱は禎子(ていし)。三条天皇の娘である。長和二年七月、上東門第で誕生した。守り刀を賜ったが、皇女に刀を賜るのはこれが始めである。帝(三条天皇)が渡御して自ら后を抱き、そのまま宮中に引き取って育てた(注:栄花物語による)。

十月、内親王となった。長和四年、着袴の儀を行った(注:日本紀略による)。准三宮とされ(注:日本紀略、一代要記による)、年官・年爵を給わり、本来の封戸に加えて千戸が加増された(注:日本紀略による)。

治安三年、上東門第で着裳の儀を行った(注:小右記、日本紀略、栄花物語による。上東門第の記述は小右記による)。太皇太后自らこれを執り行った。太后は紀貫之の書写した古今集、兼明親王の書写した後撰集、小野道風の書写した万葉集を禎子に賜ったが、これらはいずれも円融院の后から一条天皇に伝わった品であった(注:栄花物語による)。勅により一品に叙せられ(注:小右記、日本紀略、一代要記による)、乳母に位階を賜った(注:小右記、日本紀略、栄花物語による)。

摂政藤原道長は誰よりも禎子を大切にしており、病が重くなった際、子弟に「私が一品宮(禎子)に恩を感じ、これを忘れぬこと。お前たちも私の心を汲んで、敬い仕えて怠るな」と遺言した(注:栄花物語による)。

万寿四年、東宮に入り(注:小右記、日本紀略、今鏡による。万寿四年の記述は小右記、日本紀略による)、御息所となった(注:小右記、今鏡による)。後三条天皇の后、良子内親王、娟子内親王を産んだ(注:日本紀略、栄花物語、今鏡による)。

長暦元年二月、中宮に立てられた。三月、女御藤原嫄子が中宮に立てられたため、禎子は改めて皇后と称されるようになり(注:栄花物語、一代要記による)、陽明門院を居所とした。両宮(禎子と嫄子)が並び立ったことを禎子はよしとせず、宮中に戻ろうとしなかった(注:栄花物語による)。まもなく嫄子(中宮)が薨去し、帝は女御生子を迎え入れた。そのため禎子は四年間宮中の外で過ごした。長久元年、折しも生子が宮中を退出したため、禎子と後三条天皇(当時の皇子)は宮中に入った(注:春記による)。

帝(後朱雀天皇)の崩御後、薙髪して尼となった。永承六年、皇太后と尊ばれ(注:中右記寛治八年の条による)、治暦四年、太皇太后となった(注:中右記寛治八年の条、女院小伝、公卿補任、一代要記による)。延久元年、陽明門院の号を奉られた(注:一代要記、女院小伝による。今鏡は治暦二年二月のこととするが誤りである)。年官・年爵・封戸は以前のままとされた(注:一代要記による)。嘉保元年正月、崩御した。享年八十二(注:中右記、百錬抄による。扶桑略記は八十五とするが誤りである)。

藤原中宮(嫄子)

藤原中宮、諱は嫄子(げんし)。敦康(あつやす)親王の娘で、関白藤原頼通の養女となった(注:栄花物語、愚管抄、今鏡による)。長暦元年、弘徽殿に入り(注:扶桑略記、栄花物語による。弘徽殿の記述は今鏡による)、後宮で並ぶ者のない寵愛を受けた(注:栄花物語、今鏡による)。女御となり正四位下に叙せられた(注:編年残篇、一代要記による)。三月、中宮に立てられた(注:扶桑略記、栄花物語、中右記大治五年の条による)。祐子内親王、禖子(ばいし)内親王を産んだ。長暦三年八月、崩御した。享年二十四(注:扶桑略記、栄花物語、今鏡による。栄花物語は九月とする)。世に弘徽殿中宮と称された(注:今鏡による)。

藤原皇后(嬉子)

藤原皇后、諱は嬉子(きし)。摂政藤原道長の第四女で(注:歴代皇紀は第五女とし、今鏡・一代要記は第六女とするが、ここでは大鏡裏書、扶桑略記に従う)、上東門院の同母妹である(注:大鏡裏書、栄花物語、今鏡による)。生まれつき聡明で、髪の長さは身の丈を超えていた(注:栄花物語による)。

寛仁二年、尚侍となり、寛仁三年、従三位に叙せられた(注:大鏡裏書、栄花物語、今鏡による)。治安元年二月、皇太子宮に入り御息所と称された(注:一代要記による)。道長が薙髪したことに伴い頼通の娘という扱いとなり、登華殿を居所とした(注:大鏡による。登華殿の記述は栄花物語による)。

万寿二年八月、後冷泉天皇を出産し、産褥のため薨去した(注:日本紀略、大鏡裏書、栄花物語による)。享年十九、舟岡の西に葬られた(注:日本紀略、大鏡裏書による。栄花物語は石蔭とする)。帝(後朱雀天皇)は和歌を作ってこれを悼んだ(注:栄花物語、新千載和歌集による)。正一位を追贈された(注:日本紀略、続本朝文粋、大鏡裏書による)。後冷泉天皇の即位に及び、皇太后と追尊され(注:大鏡裏書、今鏡、中右記による)、国忌が定められた(注:今鏡、中右記嘉承二年の条による)。

藤原生子

女御藤原生子(せいし)は、関白藤原教通の長女である(注:栄花物語、一代要記、歴代皇紀、尊卑分脈による。今鏡は第二女、印本の尊卑分脈は第三女とするが誤りである)。書と和歌に優れていた(注:栄花物語による)。

長暦三年、凝華舎に入り女御となった(注:扶桑略記、一代要記、栄花物語による。凝華舎の記述は栄花物語による。栄花物語には入宮前からすでに御匣殿と称されていたとあるが、他の書には見えず、考証できない)。長久二年、正二位を授けられた(注:一代要記は寛徳元年に従三位、永承元年に正二位に進んだとするが、ここでは扶桑略記に従う)。

帝(後朱雀天皇)は生子を后に立てようとし、教通も娘を格別に愛して后にしたいと望んだが、この話は実現しなかった。帝の崩御に及び、教通の邸に退いて、いつまでも帝を慕い続けた(注:栄花物語による)。永承五年、従一位に進み(注:一代要記による)、後に准三宮とされ、年官・年爵を給わった(注:栄花物語による)。天喜元年、尼となった(注:一代要記、今鏡による)。天喜五年、三井寺の真如院の落慶を祝った(注:扶桑略記、僧綱補任による)。治暦四年、薨去した(注:今鏡による)。享年五十六(注:本書の治安三年の条に「年十一」とある記述による逆算)。梅壺女御と称され(注:栄花物語による)、また弘徽殿女御とも称された(注:今鏡による)。

藤原延子

女御藤原延子(えんし)は、右大臣藤原賴宗の娘である(注:一代要記、歴代皇紀、栄花物語による)。幼い頃修子内親王に養育され、三条宮を居所とした。容姿に優れ、書や箏の演奏を得意とした。長久三年、修子内親王の願いにより宮中に入り、麗景殿を居所とした(注:中右記嘉保二年の条、一代要記による)。まもなく女御となった(注:中右記嘉保二年の条、扶桑略記、栄花物語、今鏡による)。

寛徳元年、従四位上に叙せられた(注:中右記嘉保二年の条、一代要記による)。懐妊した折に帝(後朱雀天皇)が崩御したため、賴宗の邸に退出し、正子内親王を産んだ(注:栄花物語、皇胤紹運録、今鏡による)。永承三年、従三位に進み、永承五年、従二位となった(注:中右記嘉保二年の条、一代要記による)。康平三年、賴宗は自分の封戸五百戸を延子に分け与えることを願い出た。延久五年、尼となった。嘉保二年六月、薨去した。享年八十(注:中右記による。本書には「尼となった」の記述の下に「年五十四」との注があり、これによれば享年七十六となる。いずれが正しいか明らかでない)。麗景殿女御と称され(注:栄花物語、今鏡による)、また高倉女御とも称された(注:中右記による)。

【後冷泉天皇】

章子中宮

後冷泉天皇の中宮、諱は章子(しょうし)。後一条天皇の娘である。万寿三年十二月、中納言藤原兼隆の邸で誕生した(注:日本紀略、栄花物語による。日本紀略には正月とする本もあり、今鏡は九月とするが誤りである)。万寿四年、内親王となり(注:日本紀略による)、特別に別封百戸を賜った(注:小右記による)。

帝(後一条天皇)は章子と馨子(けいし)内親王を愛し、飛香舎の東西に分けて住まわせた(注:栄花物語による)。長元三年十一月、着袴の儀を行った。封戸千戸が加増され、年官・年爵を給わり、准三宮として一品を授けられた(注:日本紀略、栄花物語による)。

長元九年四月、後一条天皇が崩御した。章子は母后(威子)に従って鷹司殿に退出した。九月、母后が崩御した。十月、馨子内親王とともに上東門院に移った。もともと帝は後朱雀天皇に譲位するにあたり、章子をその后にしようと考え、早く着裳の儀を行わせようとして、蔵人普清に命じて衣服や調度を作らせていた。朝夕自ら検分し、この上なく精巧なものに仕上げさせていたが、折しも帝が崩御したため、この話は立ち消えとなった(注:栄花物語による)。

長暦元年十二月、東宮に入り(注:栄花物語、扶桑略記による)、飛香舎を居所とした(注:栄花物語による。女院小伝には帝の受禅に伴い女御となったとあるが、他の書には見えない)。上東門院は京極殿を章子に与えた。永承元年七月、京極殿に移り、中宮に立てられた(注:栄花物語による)。

治暦四年、皇太后と改められ(注:今鏡、女院小伝による)、延久元年三月、尼となった(注:一代要記は承保元年とするが、ここでは歴代皇紀、帝王編年記、女院小伝に従う)。延久元年七月、太皇太后と尊ばれた(注:公卿補任、一代要記、女院小伝による)。承保元年六月、二条院の号を奉られた(注:栄花物語、一代要記による)。旧例では、天子を生んでいない者には院号を奉らないことになっていたが、この一件は通例と異なるため、受領(院分国の任命)は行われなかった。上東門院はこの院分を章子に譲るよう願い出た(注:栄花物語による)。

章子は後一条天皇のために菩提樹院を東山陵のそばに造営し、御影を安置して怠りなく供養を行った。またそのそばに堂を建て、八講・五十講を修して冥福を祈った(注:栄花物語、今鏡による)。長治二年九月、崩御した。享年八十(注:百錬抄、歴代皇紀、女院小伝による)。

藤原皇后(寬子)

藤原皇后、諱は寛子(かんし)。関白藤原頼通の娘である(注:扶桑略記、一代要記、栄花物語による)。永承五年、入内し、まもなく従四位下を授けられて女御となった。永承六年二月、皇后に立てられた(注:扶桑略記、中右記大治二年の条による)。中宮(章子)と並び立ち、待遇に差はなかった。正月の大饗は、両宮が年ごとに交互に行った(注:栄花物語による)。

天喜元年五月、母の喪に遭い宮中を退出した。九月、宮中に戻った。天喜二年、后の母源祇子(みなもとのぎし)に従二位が追贈された(注:扶桑略記による)。治暦四年四月、中宮と改称された(注:公卿補任、今鏡、一代要記による)。この月、帝(後冷泉天皇)が崩御した。十二月、尼となった(注:今鏡、帝王編年記による)。

延久元年、皇太后と尊ばれ(注:公卿補任、一代要記による)、承保元年六月、太皇太后となった(注:中右記大治二年の条、栄花物語による)。応徳元年九月、住吉社・四天王寺に参詣した(注:扶桑略記、栄花物語による)。大治二年八月、宇治の別業で崩御した。享年九十二。四条宮と称された(注:中右記、一代要記、歴代皇紀による。台記は大治元年の崩御とするが誤りである)。

藤原皇后(歡子)

藤原皇后、諱は歓子(かんし)。関白藤原教通の第三女である(注:栄花物語、一代要記、歴代皇紀、今鏡による)。容姿は豊かで艶やかであり、琵琶を得意とし、書画にも優れていた(注:栄花物語による)。

永承二年、入内した(注:扶桑略記、栄花物語、一代要記による)。永承三年、女御となった。永承五年、関白頼通の娘(寛子)が新たに入内し、まもなく皇后となった。歓子はこれを恨みに思い、教通の邸に退出した。帝(後冷泉天皇)が召しても宮中に戻らず、ついに兄の僧静円のいる小野の山房に身を寄せ、仏道に深く思いを寄せるようになった(注:栄花物語による)。

永承六年、准三宮とされ、年官・年爵を給わり、封戸千戸を賜った(注:扶桑略記、一代要記による)。治暦四年、皇后に立てられた(注:扶桑略記、帝王編年記、中右記大治五年の条による)。

かつて二条東洞院の邸にあった頃、最勝王経を書写していると、雷がその部屋に落ち、衣裳がすべて焦げるほどであった。しかし后は目を閉じて端座したまま、身に何の害もなかった。これ以来、いっそう仏道への思いを深くした(注:古事談、十訓抄、今鏡を参照してまとめた)。

承保元年、皇太后と尊ばれ(注:栄花物語、一代要記、帝王編年記による)、まもなく落飾して尼となった(注:一代要記、帝王編年記による)。自邸を寺とし、常寿院と号した(注:門葉記、元亨釈書による)。僧慶曜を招いて真言・止観を講じさせ、また自ら五部大乗経を書写した(注:元亨釈書による)。

后が小野にいた頃、ある日大雪が降り、白河天皇が雪見に出た。近侍の者が帝に、あるいは小野へ行幸なさるのではと考え、こっそり馬を走らせて后に知らせた。后は落ち着いて供応の用意を整えた。果たして帝が訪れ、牛車の上から雪を眺めた。近侍の者は后の命を受けて盃酒を供した。左右の者は帝が邸内に入らないことを訝しんだ。帝は「私はただ雪を眺めているだけだ。何もわざわざ中に入る必要はない」と言い、使者を遣わして美濃国の荘園を献じ、急な供応への礼とした(注:今鏡、古今著聞集、十訓抄を参照してまとめた)。

康和四年八月、崩御した。享年八十二(注:百錬抄、一代要記、帝王編年記による)。世に小野皇太后と称された(注:古今著聞集、十訓抄、古事談、東斎随筆による)。

【後三條天皇】

馨子中宮

後三条天皇の中宮、諱は罄子(けいし)。後一条天皇の娘である。長元四年、内親王となった。二品を授けられ、賀茂斎院となり、准三宮とされた。封戸千戸が加増され、近侍の人々にも叙爵が行われた(注:日本紀略による)。

后は生まれつき温順な性質で、帝(後一条天皇)と母后(威子)はこれを深く愛し大切にした。近侍の者が参上するたびに、必ず斎院(罄子)のもとに来たかどうかを尋ね、まだ来ていないと聞くと、がっかりした様子を見せた。帝が崩御すると斎院の任を解かれ、母后とともに暮らした。母后が崩御すると、上東門院のもとに移った(注:栄花物語による)。

永承六年、上東門院は罄子を東宮(後三条天皇)に入れ、頼通・教通らも万事にわたって手厚く仕えた(注:栄花物語による。永承六年の記述は編年残篇による。扶桑略記の後三条紀には「斎女御罄子内親王」とあり、栄花物語や本文もみな斎院と称している。目録には女御と記されているが、年月は考証できない)。

后は皇子・皇女を産んだが、いずれも夭折した(注:扶桑略記、栄花物語による)。延久元年七月、(章子・寛子両宮とともに)並んで中宮とされた(注:扶桑略記は六月とするが、ここでは公卿補任、中右記大治五年の条に従う)。延久三年、新しい宮殿が完成し、后は弘徽殿・登華殿の両殿を居所とした。延久五年、帝が薙髪すると、后もまた尼となった。承保元年、皇后と改称された(注:栄花物語による)。

寛治七年九月、崩御した。享年六十五(注:一代要記、帝王編年記による。扶桑略記は六十二とするが誤りである)。尼となって後は西院を居所とし(注:栄花物語による)、西院皇后と称された(注:一代要記による)。

藤原皇后(茂子)

藤原皇后、諱は茂子(もし)。中納言藤原公成(きんなり)の娘である。后の叔母の夫にあたる大納言藤原能信が、后を我が子のように愛し育てた。容姿に優れていた。帝(後三条天皇)が東宮であった頃、御息所として迎え入れた(注:尊卑分脈、栄花物語を参照してまとめた)。

白河天皇(注:扶桑略記、百錬抄、中右記大治四年の条による)、聡子・俊子・佳子・篤子の四内親王を産んだ(注:栄花物語、尊卑分脈による。皇胤系図は基子の所生とするが誤りである)。

康平五年六月、薨去した(注:扶桑略記、栄花物語による)。帝はこれをひどく悼んだ(注:栄花物語による)。宇治に葬られ(注:江家次第、拾芥抄による)、滋野井女御と称された(注:栄花物語による)。延久三年、従二位を追贈された(注:扶桑略記、今鏡による)。白河天皇の即位に伴い、皇太后と追尊され(注:中右記嘉承二年の条、扶桑略記による)、国忌・山陵の制が定められた(注:扶桑略記、江家次第による)。陵は今宇治陵と称される(注:江家次第による)。能信には太政大臣正一位が、その妻祉子(しし)には正一位が追贈された(注:扶桑略記、古事談による)。

藤原昭子

女御藤原昭子(しょうし)は、右大臣藤原賴宗の第三女である(注:一代要記、歴代皇紀による。尊卑分脈の一説には藤原能信の娘とあるが誤りである)。治暦二年、東宮に入り女御となった(注:栄花物語目録による)。延久三年、新しい宮殿が完成すると承香殿を居所とした。帝(後三条天皇)の崩御後、尼となり堀河院を居所とし、はじめは承香殿女御と称され、後に堀河女御と称された(注:栄花物語による)。

源基子

女御源基子(もとこ)は、参議源基平の娘である(注:扶桑略記、栄花物語、皇胤紹運録による)。はじめ聡子内親王の侍女であったが、帝(後三条天皇)が一目見て寵愛し、格別の恩顧を受けた(注:栄花物語による)。御息所となり、従五位下を授けられた(注:扶桑略記による)。その待遇は内親王に匹敵するものであった。

基子は紫雲が立ちのぼる夢を見て、まもなく懐妊し、宮中を出て藤原経平の邸に身を寄せた。帝はたびたび使者を遣わして見舞った。聡子内親王の邸に出入りする近臣たちは、必ず基子の様子をうかがうよう命じられた。出産に臨んで容体が危ぶまれると、帝と聡子内親王はこれを案じ、使者が絶え間なく往来した。

延久三年、実仁親王を出産した。帝は大いに喜び、基子を女御に進めた。当時宮中では内々に「基子はしょせん更衣にすぎまい」と言われていたが、女御に任じる宣旨が下ると、聞いた者は皆驚いた。ある人は「基子は小一条院の孫であり、賴宗の外孫にあたる。だからこそ帝は特にこれを重んじられたのだ。もし父の官位を問題にしないというのであれば、後冷泉天皇が頼通を憚ったような例からしても、このような処遇はなされなかったはずだ」と評した。基子は凝華舎に入り、梅壺女御と称された(注:栄花物語による)。

延久四年、帝が白河天皇に譲位し、実仁親王を皇太弟とした。これにより基子は准三宮とされ、年官・年爵を給わり、封戸五百戸を賜った。延久五年、輔仁親王を出産した(注:扶桑略記、栄花物語による。封戸の記述は扶桑略記による)。帝の崩御後、尼となった(注:栄花物語による)。長承三年七月、薨去した。享年八十八(注:中右記による。長秋記は八十六とする)。

某氏

掌侍某氏は、美濃守経国(つねくに)の娘である。侍従内侍と称された。藤原有佐(ありすけ)を産んだ(注:尊卑分脈、今鏡による)。

藤原氏

藤原氏は、近江守実経の娘である。帝(後三条天皇)が東宮であった頃、これを寵愛した。皇子を産んだが、夭折した(注:栄花物語による)。