卷之一百三十九 列傳第六十六

藤原實資、藤原資平、藤原能信、藤原伊周ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原實資

藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、幼名を大学丸(だいがくまる)といった(注:『大鏡』による)。参議斉敏(さんぎ・ただとし)の子である。祖父の実頼(さねより)が実資を養子として迎え(注:『公卿補任』『大鏡』『栄花物語』による)、たいへん可愛がった。実頼の秘蔵の宝物や荘園は、みな実資のものとなった(注:『大鏡』による)。実資は若い頃から要職を歴任し、長保三年、権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねた(注:『公卿補任』による)。当時、左大臣藤原道長(ふじわらのみちなが)は代々権勢のある外戚の家に生まれたうえ、天皇の后の父でもあり、朝政をほしいままにして権勢を振るっていた。三条天皇(さんじょうてんのう)が即位すると、道長の驕り高ぶりはいっそう甚だしくなった。朝廷の公卿たちは上から下まで道長にへつらい取り入ろうと必死になり、朝廷の規律は日に日に緩んでいった。実資だけは毅然として節を曲げず、天皇もひそかに彼を頼りにしていた(注:『小右記』『大鏡』『栄花物語』を参照してまとめた)。

はじめ宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)が入内して寵愛を受け、小一条院(こいちじょういん)を生んだ。枇杷中宮(びわのちゅうぐう)が立后したのち、天皇は続けてこの女御を皇后に立てようとしたが、道長を憚って決めかねていた。道長は天皇の意向を察して、表向きは賛成するふりをしながら、内心では妨げようとしていた。冊立の当日になると、道長にへつらう廷臣たちは、皇后職に任じられることを恐れて、みな中宮のもとへ逃げ込み、朝廷の命令を避けようとした。天皇が使者を遣わして呼び出させても、誰も応じず、汚い言葉で勅使を罵る有様だった。参議藤原正光(ふじわらのまさみつ)などは瓦礫を投げつける始末であった。実資はちょうど病気であったが、これを聞いて、「天に二つの太陽がなく、士に二人の主君がないように、私がどうして権臣を恐れて朝命をおろそかにできようか」と言い、すぐさま病をおして中納言藤原隆家(ふじわらのたかいえ)らとともに参内し、めでたい儀式に列席した。天皇はこれを深く徳とし、ひそかに実資の子の資平(すけひら)に諭して言った。「私は長らく東宮にいて、世の中の事情を知らなかった。かつては『いったん帝位に即けば、何事も思い通りにいくだろう』と思っていたが、実際はそうではなかった。昨日の立后の儀では、公卿以下みな左大臣を憚って勅命に従わなかった。ただ大将(実資)だけが取り仕切ってくれ、その忠誠には深く感じ入っている。今後は万事、大将と相談することにしよう。そなたはこのことをひそかに伝え、大将に知らせてほしい。決して漏らしてはならぬ」と。実資はこの勅諭を聞いて大いに喜び、「禄を食む身として、常に功なくして禄を受ける咎めを恐れております。臣たる者の道として、どうして仰せに従わずにいられましょうか」と言った。

やがて道長が病に伏すと、当時「実資や隆家らは道長の病を喜んでいる」との噂が流れた。実資は、「この噂はどこから出たものか。栄誉も恥辱も天命によるもの、気にかけるまでもない」と言った。そのころ天皇は長らく眼を患っており、道長はこれに乗じて後一条天皇(ごいちじょうてんのう)に譲位するよう迫り、皇長子の小一条院を皇太弟に立てて、実資を東宮傅(とうぐうのふ)にしようとした。実資はそのつど固辞して、「私は近衛府の長官を務めてすでに十六年になります。老いが日に日に迫り、警護の任も怠りがちになりましょう。そのうえ要職を兼ねることは、なおさら私の堪えられるところではありません」と言い、この話は立ち消えとなった。

寛仁三年、刀伊(とい)が西海を侵した。勅符が太宰府に下り、これを討つよう命じた。藤原隆家は当時権帥(ごんのそち)であったが、勅符が届く前に管内の兵を発して撃退し、都に勝利を報告した。公卿たちは褒賞について評議した。権大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)、中納言藤原行成(ふじわらのゆきなり)らは、「下された勅符には褒賞を約する文言があったが、勅符が届く前にすでに兵を発したのだから、褒賞を加えるべきではない」と言った。実資はこれに反論して、「昔、寛平年間に新羅(しらぎ)が対馬を侵したとき、島司の文室善友(ふんやのよしとも)は勅符を待たずに賊を撃退し、朝廷はこれに褒賞を与えた。功績が認められる以上、勅符が届いたかどうかを問う必要があろうか。これで褒賞しなければ、この先誰が奮って戦おうか」と述べた。権大納言藤原斉信(ふじわらのただのぶ)もこの意見に賛同し、ついにその通りとなった(注:『小右記』による)。

治安元年、右大臣に任じられ(注:『公卿補任』『日本紀略』による)、まもなく皇太弟の傅を兼ねた(注:『公卿補任』による)。万寿三年、牛車に乗ったまま宮門を通ることを許され、序列に従わず直接殿上に上ることが認められた(注:『日本紀略』による)。長暦元年、従一位に叙された(注:『公卿補任』による)。永承元年に薨去し、享年九十であった(注:『公卿補任』『扶桑略記』『栄花物語』による。ただし『尊卑分脈』は寛徳二年薨去、享年九十二とする)。世に後小野宮(のちのおのみや)と称された(注:『尊卑分脈』による)。日記の名は『小右記』という(注:『仁和寺書籍目録』による)。

実資は生まれつき聡明で公正な性格で、権勢家にへつらうことがなかった。かつて上東門院(じょうとうもんいん)が入内する際、道長は当代の名だたる歌人たちに屏風歌(びょうぶうた)を作らせようとした。藤原公任が撰者の筆頭となり、花山法皇(かざんほうおう)も自ら御製を寄せられた。実資だけはこれを拒んで作らず、嘆いて言った。「上達部(かんだちめ)に列する身でありながら、大臣の命を受けて屏風歌を作る者があろうか。私はこれまで聞いたことがない。まして法皇のような尊いお方にお願いするなど、なおさらのことだ。公任殿は名門の生まれで、検非違使の職にある身、当然凡俗とは一線を画すべきなのに、あれほどまでにへつらうとは、いったいどういう了見か」。道長は人を遣わして懇ろに頼んだが、実資は固く辞退して作らなかった。

後一条天皇が中宮を立てた際、百官がみな集まった。道長は実資に、「私が和歌を詠むから、そなたは唱和してくれるか」と言い、実資は承諾した。しかしその和歌が出されると、その内容は天下を我が物とするような意味合いのものであった。実資はその驕り高ぶりを嫌い、言葉を取り繕って唱和しなかった(注:『小右記』による。藤原清輔(ふじわらのきよすけ)の『袋草子』がこの『小右記』の一件を引いて「唱和しなかった秀歌」の故実としているのは誤りである)。

天皇が不吉な夢を見て気に病んでいたとき、ある者が「最勝王経を講じて厄を払うのがよいでしょう」と進言した。実資は、「そもそも仏の教えとは、まつりごとを正すためのものではないでしょうか。政務が道理にかなっていれば、災いはおのずと収まるものです。陛下におかれましてはよくよくお考えください」と述べ、天皇はその言葉をもっともだとした(注:『小右記』による)。

園城寺(おんじょうじ)の僧明尊(みょうそん)が、関寺(せきでら)の牛が自ら迦葉仏(かしょうぶつ)を名乗る夢を見た。そこで弟子たちを率いてその牛を拝みに行くと、朝野を挙げてこぞってこれに従う者が続出した。実資だけは行かなかった(注:『今昔物語』による)。

頼通(よりみち)が関白であったとき、京の女たちが笠をかぶり足袋を履くことを厳しく禁じた。これに違反する者があると、役人はその笠や足袋を剥ぎ取って取り締まった。実資はこれを非難して、「都の女たちが笠をかぶり顔を覆って寺社に参るのも、善良な信心の表れである。したいようにさせればよいではないか。まして公の政に何の妨げにもならない。今、定めるべき法令は他にいくらでもあろうに、なぜこのような些事にこだわるのか」と述べた(注:『小右記』による。『著聞集』には、後朱雀天皇(ごすざくてんのう)が廷臣の装束が長すぎることを嫌い、その弊害がしだいに華美に流れるのを実資と相談してどう正すか話し合ったとある。実資は「愚臣がまずこの件で咎めを受けたとして、門を閉ざして家に籠りましょう。そうすれば廷臣たちは禁令がなくとも自ら改めるでしょう」と奏上し、数日参内を止めたところ、廷臣たちは粛然として旧に復したという。しかしこれは『大鏡』に載る藤原時平(ふじわらのときひら)の話と大筋で同じであり、おそらく伝聞の誤りであろうから、ここでは採らない)。

実資は若い頃から身持ちが良く、それを人にあざけられることがあったが、実資は気にかけず、ますます自らを戒め励んだ。あるとき新しい邸宅に引っ越したところ、炉の火が簾に飛び火し、たちまち建物に燃え広がった。人々が騒ぎ立てて消火に駆けつけたが、実資はこれを止めた。人がその理由を怪しむと、実資は、「小さな火がにわかに起こったのだから、もはや消し止めることはできない。これは天災というものだ。たとえ消し止めたとしても、これより大きな別の災いが起こらないとも限らない」と言い、静かに車に乗って外へ出て、ただ笛一つだけを携え、他は一切顧みなかった。人々はその闊達さに感服した(注:『十訓抄』による)。

道長がかつて物の怪に憑かれたとき、実資が見舞いに訪れた。すると物の怪が取り憑いた人の口を借りて、「賢い者がやって来る。この人には会いたくない」と言うなり、たちまち退散する様子を見せ、道長の病はすぐに癒えた(注:『古事談』による)。当時の人々は実資を「賢右府(けんうふ)」と呼んだ(注:『十訓抄』『今昔物語』『尊卑分脈』による)。

ただし実資は普請を好む性分で、一年中修理や増築を絶やすことがなかった。斧や槌の音が絶えず響き、その様子はほとんど東大寺の造営にも比べられるほどで、これによりかなり世間の批判を招いた(注:『大鏡』による)。

実資は初め子がなく、兄高遠(たかとお)の子資高(すけたか)と、弟懐平(かねひら)の子資平(すけひら)を養子とした(注:『尊卑分脈』『大鏡』を参照してまとめた)。後に実子を二人もうけ、一人を資頼(すけより)、もう一人を某といった。某は出家して良円(りょうえん)と称した(注:『大鏡』による)。資高は従四位下筑前守(ちくぜんのかみ)となった(注:『尊卑分脈』による)。資頼は伯耆守(ほうきのかみ)(注:『小右記』『大鏡』による)、刑部少輔(ぎょうぶのしょう)(注:『小右記』による)を経て、正四位下摂津守(せっつのかみ)に至った(注:『尊卑分脈』による)。かつて後一条天皇が除目(じもく)をご覧になった際、摂津国司の欠員が生じたが、その場で執筆(しゅひつ)を務めていた実資が自ら関白に願い出て、「天暦(てんりゃく)以来の旧臣であるこの実資は、七代の朝廷に仕えてまいりました。この勤労に免じて、摂津国司の職を賜りたく存じます」と申し出た。天皇はただちにこれを許した。実資は拝謝し、こうして資頼をその職に任じた(注:『古事談』による)。

藤原資平

藤原資平(ふじわらのすけひら)は、長徳年間に侍従に任じられ、従四位上に叙された(注:『公卿補任』による)。三条天皇が即位すると、父実資のゆえに大変目をかけられた。天皇はその勤勉な性格を評価し、清要の職に就けようと、弁官や蔵人頭(くろうどのとう)に擬したが、道長がそのたびに妨げた(注:『小右記』による)。長和四年、ついに蔵人頭に任じられた。長暦年間に累進して正二位に至った。治暦元年、大納言に任じられ、三年に薨去した。享年八十二であった(注:『公卿補任』による)。かつて『水真余流記(すいしんよりゅうき)』『決戸記(けっとき)』を著した(注:『仁和寺書籍目録』による)。子は資房(すけふさ)、資仲(すけなか)。

資房は参議正三位となった(注:『尊卑分脈』による)。日記の名は『春記(しゅんき)』という(注:『仁和寺書籍目録』による)。子は資宗(すけむね)、公房(きんふさ)。資宗は正四位下右馬頭(うまのかみ)となった(注:『尊卑分脈』による)。公房は参議正三位となった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

資仲は長元年間に讃岐権守(さぬきのごんのかみ)、侍従、右近衛少将を歴任した。長久・延久の間に官位を重ね、権中納言に至った。承暦四年、太宰権帥(だざいのごんのそち)となった。寛治元年に薨去し、享年六十七であった(注:『公卿補任』による)。かつて『節会抄(せちえしょう)』を著した(注:『仁和寺書籍目録』による)。子の顕仲(あきなか)は和歌に優れ、従四位下左兵衛佐(さひょうえのすけ)となった(注:『尊卑分脈』による)。かつて白河天皇(しらかわてんのう)の宴に侍った際、「柳糞池水(やなぎくそいけのみず)」の和歌を詠み、勝間田池(かつまたのいけ)に事寄せて興を託した。しかしその池はすでに久しく廃れていたため、人々はその見当違いを笑い、彼を「勝間田兵衛(かつまたひょうえ)」と呼んだ(注:『袋草子』による)。

藤原能信

藤原能信(ふじわらのよしのぶ)は、摂政道長の第五子である。寛弘年間に従五位上に叙され、侍従、兵衛佐(ひょうえのすけ)、蔵人を歴任した。長和の初め、中宮権亮(ごんのすけ)を兼ね、累進して左近衛権中将となり、従二位に叙された。寛仁元年、権中納言に任じられ、正二位に叙された。まもなく権大納言に昇進し、陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。

後朱雀天皇(ごすざくてんのう)がまだ東宮であったころ、道長はその娘嬉子(きし)を妃として差し出した。嬉子は後冷泉院(ごれいぜいいん)を生んだが、正式な后位に就くことなく薨去した。後朱雀天皇が即位すると、禎子内親王(ていしないしんのう)を中宮に立て、能信は中宮大夫を兼ねた。それ以前、后妃はおおむね藤原氏の摂関家から出ていた。当時、能信の兄頼通(よりみち)が関白であったが、后に立てられる娘がいなかったため、妻の姪の嫄子(げんし)を養女として後宮に入れた。そこで中宮の呼称を皇后に改め、嫄子を中宮と称した(注:『栄花物語』『愚管抄』を参照してまとめた)。これにより能信は皇后宮大夫となった(注:『公卿補任』『栄花物語』による)。

寛徳二年、天皇が病に伏し、後冷泉天皇に譲位して、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)を東宮に立てようとした。頼通はこの遺言を受けて退出した(注:『愚管抄』『十訓抄』による)。能信は頼通がこの案に反対していることを知り、自ら天皇の御床近くに寄り、わざと問うように申し上げた。「陛下は第二の宮を、いずれの僧にお預けになるおつもりですか」。天皇は、「何を言うのだ。朕はこの宮を東宮に立てるつもりである。先に関白に相談したところ、『まだその時期ではありません』と言われたので、そのままにしてあるのだ」と答えた。能信は、「陛下のお考えがすでにそうであるならば、早くお決めになるべきです。今日を過ぎてはなりません」と申し上げた。その日のうちに尊仁親王(たかひとしんのう)を皇太弟に立てた。これが後三条天皇である。能信は東宮大夫となり、世にその直言が称えられた(注:『今鏡』『愚管抄』による)。治暦元年に薨去し、享年七十一であった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。

後三条天皇がまだ東宮であったころ、能信は妻の兄藤原公成(ふじわらのきんなり)の娘茂子(もし)を養女として後宮に入れ、茂子は白河天皇を生んだ(注:『栄花物語』『今鏡』『愚管抄』による)。白河天皇が即位すると、外祖父にあたる能信に太政大臣を追贈した(注:『扶桑略記』による)。白河天皇は常々、「朕はこの人がいなければ、この帝位に就くことはできなかった」と言っていた(注:『愚管抄』による)。おしなべて能信について語るときには、名を呼ばず「大夫殿(たいふどの)」と称した。その尊崇されたさまはこれほどであった(注:『今鏡』『愚管抄』による)。

藤原伊周

藤原伊周(ふじわらのこれちか)は、幼名を小千代(こちよ)といった(注:『大鏡』『栄花物語』による)。関白道隆(みちたか)の第二子である(注:『公卿補任』『栄花物語』による)。才能も容姿も人並み優れ、とりわけ道隆に愛された(注:『栄花物語』による)。兄の道頼(みちより)は祖父兼家(かねいえ)の養子となっていたため(注:『大鏡』『栄花物語』による)、早くから顕職に抜擢され、累進して中納言となった(注:『栄花物語』による)。伊周は正暦年間に参議に任じられ、権中納言を拝した(注:『公卿補任』による)。道隆は伊周の官位が道頼に及ばないことを常々気にかけ、にわかに大納言に遷し(注:『栄花物語』による)、正三位に叙した。さらに叔父の道長らを飛び越えて内大臣に任じ(注:『公卿補任』による)、時に伊周は二十一歳であった(注:『大鏡』による)。

道隆はやがて病を得て政務を執れなくなり、伊周に朝廷の政務を代行させるよう願い出た。また勅命により、「文書や宣旨は、まず関白を経てから天皇の御覧に供する」と定められた。しかし伊周は、「政務は私に一任されるべきであり、なぜわざわざ関白を経る必要があろうか」と考えた。道隆はこれに従い、伊周を関白にするよう願い出たが、天皇はこれを許さず、ただ伊周の望むままに振る舞うことを許した(注:『小右記』による)。

道隆が薨去すると、伊周は喪中の身でありながら朝政に不当に関与し、多くのことを取り決めた。まず衣服の制度を改めては、「父の職を継ぐのは必ずこの私だ」と自ら称した。しかし叔父の道兼(みちかね)は身分も声望も重かったため、ひそかにこれを憂え、外祖父の高階成忠(たかしなのなりただ)に呪詛を行わせた。まもなく道兼が関白となると、伊周は憤り恨んだ。ところが道兼はほどなく薨去し、伊周は望みが果たされたと喜んだ(注:『栄花物語』による)。

はじめ東三条太后(ひがしさんじょうのたいごう)や道長は伊周と折り合いが悪かったが、伊周は中宮の兄として天皇に親しく寵愛されていた(注:『大鏡』による)。太后はもともとその人柄を嫌い、この者がひとたび権力を握れば国政を誤らせかねないと考えていた(注:『愚管抄』による)。そこでしばしば天皇に道長を関白とするよう願い出て、天皇もやむを得ずこれを聞き入れた。伊周はますます憤り、当時の世論もその身の程をわきまえないさまを非難した(注:『大鏡』『栄花物語』『愚管抄』による)。

太政大臣為光(ためみつ)の二人の娘が、身寄りなく鷹司第(たかつかさてい)に住んでいた。伊周はその姉と密通しており、花山法皇(かざんほうおう)もまたその妹の美しさを聞き及んで、手紙で言い寄ったが応じてもらえなかった。法皇はたびたびその邸をのぞき見に訪れた。伊周は法皇が姉のほうと通じているのではないかと疑い、弟の隆家(たかいえ)にこれを告げた。隆家は、「兄上、ご心配なく。私が始末をつけましょう」と言った。長徳元年、隆家は乱暴者数人を率い、夜、法皇が役所からお帰りになるのを待ち伏せ、矢を放って脅そうとしたが、誤って御衣に命中させてしまった(注:『百錬抄』ではこれを二年正月の出来事とするが、今『小右記』の元年七月二十七日の条を調べると、元年の出来事であることは明らかである。よってここでは本書に従う)。

この事件はたちまち都中に伝わり、天皇もおおよそのことは耳にしていたが、法皇の体面を思って急いで追及することはしなかった。伊周はまた太元法(たいげんぽう)を修して東三条太后を呪詛した。もとより太元法は朝廷が公に修する法であり、臣下の身で行えるものではなかった。この事が発覚すると、天皇は激怒した。二年四月、検非違使を遣わして伊周らを捕らえさせ、勅使が「伊周を太宰権帥(だざいのごんのそち)に、隆家を出雲権守(いずものごんのかみ)に落とす」との勅命を伝えた。伊周は恐れおののいて邸から出ようとせず、検非違使がその邸を取り囲んだ。伊周は夜半にひそかに囲みを抜け出し、木幡(こはた)の先祖の墓に詣でて別れを告げた(注:『小右記』『百錬抄』『古事談』はいずれも愛宕山(あたごやま)に逃げ隠れたとするが、どちらが正しいかは分からない)。

これより先、中宮(伊周の妹定子)は懐妊しており、伊周の邸に身を寄せていた。翌日、天皇は中宮に伊周を邸から出すよう咎めたが、中宮はそこにはいないと言い張った。天皇は激怒し、厳しく捜索させた。検非違使は邸に入ってくまなく捜索した。その夕方、伊周は木幡から邸に戻り、兄弟はついに配所へと向かった。伊周は道中で病に倒れ、天皇はこれを聞いて哀れみ、「伊周は播磨(はりま)に、隆家は但馬(たじま)に留め置け」との勅命を下した。この秋、伊周は母の病を聞いて逃げ帰り、西京(にしのきょう)に身を隠した(注:『栄花物語』による)。天皇は再び検非違使に命じて筑紫(つくし)へ移させた(注:『公卿補任』『栄花物語』による)。三年、恩赦にあって都に戻った(注:『公卿補任』『大鏡裏書』『扶桑略記』による。ただし『栄花物語』は長徳四年に皇子敦康(あつやす)が生まれてすぐに伊周兄弟を召し戻したとするが、これは誤りである)。

長保元年、中宮は皇子敦康を生んだ(注:『日本紀略』『小右記』による)。二年、道長の娘の女御彰子(しょうし)が中宮に立てられた(注:『日本紀略』による)。これにより中宮の呼称を皇后に改めた。まもなく皇后(定子)は崩御した(注:『日本紀略』『百錬抄』による)。三年、伊周は元の官位に復した(注:『公卿補任』『百錬抄』による)。五年、従二位に進んだ(注:『公卿補任』による)。寛弘二年、勅命により大臣の下、大納言の上に列し、朝政に参与することとなった(注:『公卿補任』『百錬抄』『小右記』による)。五年、准大臣となり、封戸千戸を賜り、まもなく正二位に叙され、儀同三司(ぎどうさんし)となった(注:『公卿補任』『職員抄』『尊卑分脈』による)。

伊周は常々、「敦康親王は後に必ず帝位に即かれるだろう」と言っていたが、中宮彰子が皇子敦成(あつひら)を生むと、大いに落胆した。ちょうどそのころ、「伊周が高階明順(たかしなのあきのぶ)とともに敦成親王を呪詛している」との噂が流れた。道長は明順を呼び出して詰問し、明順は不安と恐れのあまり数日で死んだ(注:『栄花物語』による)。六年、伊周は呪詛の一件に連座して参内を止められたが、まもなく赦された(注:『公卿補任』『日本紀略』『百錬抄』による)。

七年、病が重くなった。臨終に際して子女を戒めて言った。「私はかねてより、男の子には高い官職に昇らせ、女の子には后妃とさせようと思っていた。今、命運がこのように尽きようとしていることは、いかんともしがたい。おまえたちは決して身を誤って人に笑われ、私の名を辱めるようなことをしてはならない。道雅(みちまさ)よ、おまえは低い地位にあることを恥じて世におもねり権勢にこびるくらいなら、いっそ山林に身を隠して僧になるほうがましだ」。また隆家には、「我らの宿願は遂げられず、恨みを抱いたまま冥途に入る。今、道雅をおまえに託す。よく教え導いてやってほしい」と言った。享年三十七で薨去した(注:『栄花物語』による)。世に帥内大臣(そちのないだいじん)と称された(注:『公卿補任』による)。子の道雅は従三位左京大夫(さきょうのだいぶ)。顕長(あきなが)は従五位上縫殿頭(ぬいどののかみ)となった(注:『尊卑分脈』による)。

藤原隆家

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、幼名を阿古(あこ)といった(注:『大鏡』による)。一条天皇の御代に、次々と官位を重ねた。正暦五年、従三位に進んだ。長徳元年、中納言に任じられ、時に十七歳であった(注:『扶桑略記』では長徳二年、十七歳とする)。二年、出雲権守(いずものごんのかみ)に落とされ、道中で病を得て但馬(たじま)に留め置かれた(注:『公卿補任』による)。ちょうど母が病に伏していたので、外祖父の高階成忠(たかしなのなりただ)が隆家に代わって上書し、帰国して母を養うことを願い出たが、聞き入れられなかった(注:『扶桑略記』『本朝文粋』による)。まもなく伊周とともに恩赦にあって都に帰り、兵部卿(ひょうぶきょう)となった(注:『公卿補任』『大鏡』『栄花物語』による)。

これ以来、隆家は交際を絶ってめったに外出しなかった。あるとき道長が賀茂社に参詣し、公卿がみな供をした際、隆家は列の後方に加わっていた。道長はその不満を気にかけて、同じ車に乗せて語らい、誓って言った。「世間ではそなたが以前咎めを受けたのは私が奏上して決めたことだと言うが、当時はただ詔旨を奉じて事を行ったまでで、私が何か口を挟んだであろうか。もし私が独断でそうしたのなら、今日どうしてこの社に参ることができようか。天の神々がご覧になっている、決して偽りではない」。

道長が廷臣たちと酒宴を催したとき、酒たけなわになって、「このような席は、隆家がいなくては楽しくない」と言い、書状を送って招いた。座にいた客たちはみな酔いつぶれ、衣を脱いで騒ぎ立てていた。隆家が到着すると、みな威儀を正した。道長は隆家にも衣を脱ぐよう促したが、隆家は承知しつつもなかなか応じなかった。藤原公信(ふじわらのきんのぶ)が後ろから隆家の衣を剥ぎ取ると、隆家は色をなして、「私はもともとおぬしらに侮り弄ばれるような者ではない。それを今このような目にあわされるとは」と言い、居並ぶ者たちはみな顔色を失った。道長は笑って、「今日は皆でしばし戯れているだけだ。そなたも無理にそう気張らずともよい」と言い、自ら立って隆家の袍(ほう)を脱がせると、隆家はようやく機嫌を直した(注:『大鏡』による)。

長保四年、元の官職に復し、従二位に叙された(注:『公卿補任』による)。隆家はかねてより敦康親王(あつやすしんのう)を東宮に立てたいと望んでおり、一条天皇が危篤になると、御寝所に伺候して遺言を待った。当時、道長の威勢は日ごとに強まっており、天皇は親王を愛しく思いながらも、道長を憚って冊立に踏み切れなかった。隆家は家に帰ると胸を叩いて嘆き憤り、常に鬱々として楽しまなかった(注:『大鏡』による)。

長和年間、皇后宮大夫を兼ねた(注:『公卿補任』による)。隆家はひそかに都を離れたいという思いを抱いており、加えて眼病を患っていた。当時、宋国の医師が筑紫(つくし)に来ており、その治療を受けたいと考えていた。ちょうど大宰大弐(だざいのだいに)に欠員が生じたので、隆家はその職を求め(注:『大鏡』による)、権帥(ごんのそち)に任じられた。任地に赴くにあたり、昼の御座(おまし)で宴を賜り(注:『小右記』による)、正二位に進んだ(注:『公卿補任』による)。任地では政績があり、士民から慕われた(注:『大鏡』による)。

寛仁三年、刀伊(とい)が対馬(つしま)・壱岐(いき)の二島を侵し、壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)を攻め殺して、筑前(ちくぜん)の怡土郡(いとぐん)にまで進入した(注:『小右記』による)。隆家は郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)らに命じてこれを防がせ、かなりの数を討ち取り、あるいは捕らえた。賊はさらに那珂郡(なかぐん)に至ったので、隆家は再び前少監(ぜんのしょうげん)大蔵種材(おおくらのたねき)、藤原明範(ふじわらのあきのり)らを遣わして防がせた。賊船が突然襲来し、警固所を焼き払おうとしたが、府の兵たちが奮戦し、賊は多くが矢に当たって能古島(のこのしま)に退いた。数日後、賊は志摩郡(しまぐん)の船越津(ふなこしのつ)に至った。隆家はあらかじめ権検非違使(ごんのけびいし)財部弘延(たからべのひろのぶ)を遣わして迎え撃たせた。賊は逃げ去ったので、隆家はさらに小弐(しょうに)平致行(たいらのむねゆき)、種材ら数名の将を遣わし、船三十余艘を出して追撃させた。賊が肥前(ひぜん)の松浦(まつら)に至ると、前介(ぜんのすけ)源知(みなもとのさとる)がこれを撃退した(注:『朝野群載』による)。

致行らの船が博多津(はかたのつ)に停泊したまま将たちが動こうとしないと聞いた隆家は、小弐源道済(みなもとのみちなり)を遣わして督励させた。将士たちはみな、「賊船はかなり多いので、戦艦を増やして一斉に出撃すべきです」と言ったが、種材だけは奮い立って、「船を造るのを待って出撃したのでは、賊はすでに逃げ去っているだろう。私は功臣の子孫として恥ずかしながら七十を過ぎた身であり、一人前の役には立たずとも、単身賊に当たって王事に命を捨てたい」と言った。道済はその意気に感じ入り、その意見に同調して兵を率い船を出した。まもなく賊はすでに遠く去っており、そのまま事は終わった(注:『小右記』による)。

隆家は将士たちの功績を朝廷に上申し、朝廷は種材を賞して壱岐守(いきのかみ)とした(注:『大鏡』による)。種材は対馬守春実(はるざね)の孫である。春実は天慶年間、小野好古(おののよしふる)とともに凶賊藤原純友(ふじわらのすみとも)を討った人物である(注:『大鏡』『秋月系図』による)。

この年、隆家は権帥の任を解かれて都に帰った。治安三年、中納言を辞した。まもなく大蔵卿(おおくらきょう)となった。長暦二年、再び太宰権帥に任じられた。長久三年、権帥を辞した。寛徳元年に薨去し、享年六十六であった(注:『公卿補任』『大鏡裏書』による)。子の良頼(よしより)は正三位権中納言、経輔(つねすけ)は正二位権大納言となった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。