卷之一百四十一 列傳第六十八
源經信、源基綱、藤原齊信、源俊賢ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
源經信
¶源経信(みなもとのつねのぶ)は、民部卿(みんぶきょう)源道方(みなもとのみちかた)の六男である(注:『公卿補任』による)。博識で多芸多才であり(注:『公卿補任』『古今著聞集』による)、和歌に秀で、藤原公任(ふじわらのきんとう)と並び称された(注:『八雲御抄』『古今著聞集』による)。長元(ちょうげん)の初め、従五位下に叙せられ、参河権守(みかわのごんのかみ)となった。長暦(ちょうりゃく)・寛徳(かんとく)年間には刑部少輔(ぎょうぶのしょう)・少納言・左馬頭(さまのかみ)を歴任した。永承(えいしょう)年間には正四位下に進んだ(注:『公卿補任』による)。円融院八講(えんゆういんのはっこう)の折、経信は法会に赴く途中、北野廟(きたののびょう、菅原道真を祀る北野天満宮)の前を通ったが、車から下りなかった。人がその理由を怪しんで尋ねると、経信は答えた。「四位の者は二位の者を拝礼しない、これは礼式に定めのあることである。菅公(かんこう、菅原道真)が存命のとき、その位は二品を超えなかった。没して神となったからといって、どうして非礼な扱いを受けるいわれがあろうか。」(注:『古事談』『東斎随筆』による)天喜(てんぎ)・治暦(じりゃく)年間には左右の中弁(ちゅうべん)・蔵人(くろうど)を歴任し、右大弁(うだいべん)に進み、参議に任ぜられ、伊予権守(いよのごんのかみ)を兼ねた。延久(えんきゅう)の初め、中宮権大夫(ちゅうぐうごんのだいぶ)となり、大蔵卿(おおくらきょう)を兼ね、重ねて正三位に叙せられ、左大弁に転じた(注:『公卿補任』による)。帝(みかど)が住吉(すみよし)に参詣した折、群臣が和歌を献じ、経信がその序を作った。その歌には「沖つ風 吹きにけらしな 住吉の 松の下枝を 濯ふ白波」とある。後日、経信は子の俊頼(としより)に語った。「『古今集』に載る躬恒(みつね)の住江(すみのえ)の歌は、いわば大臣に任ぜられたようなものだ。その大饗(たいきょう)の日にたとえれば、私の歌は中門に入り、史生(ししょう)の席に着く程度であろう。」俊頼は言った。「父上がどうして躬恒より劣るということがありましょうか。今から論じれば、父上の歌はさながら一人の大納言が静かに南階を昇り、大臣と対座するようなものです。」経信はこれを喜んだ(注:『袋草子』『古今著聞集』『十訓抄』による)。経信は人に語って言った。「躬恒の歌は、老翁が錦の帽子をかぶり、琵琶を弾じながら紫檀の几(き)に寄りかかり、遠くを眺めて詩を吟じているようなものだ。これに対抗できるのは、ただ私のこの歌だけである。」(注:『十訓抄』による。○按ずるに『三五記』には、あるいはこの歌を評して「松の下の緑苔、山風の清らかな地に、八十歳の老翁が錦の帽子をかぶり、紫檀の几に寄りかかり、虎の皮に座って和琴を弾じ望み見ているようだ」と言ったとある。また、帝が経信に「そなたの歌と躬恒の歌はどちらが勝るか」と問うたところ、経信は「私の歌は躬恒に対抗しうるものであり、実のところは躬恒の上に出ている」と答えたともいう。その自負のほどはこのようであった。『袋草子』にもこの話が載るが、内容はこれとやや異なる。)承保(じょうほう)元年、皇后宮権大夫(こうごうぐうごんのだいぶ)となり、勘解由長官(かげゆのちょうかん)を兼ねた。ほどなく権中納言(ごんちゅうなごん)に任ぜられた(注:『公卿補任』による)。白河帝(しらかわてい)が西河(にしかわ、大堰川)に行幸した折、詩・歌・管絃の三船を用意し、当代の名手を選んでそれぞれの得意とするところに従って分乗させた。三船がすでに川の中流に浮かんでいたが、経信はまだ到着していなかった。帝は不快に思われた。しばらくして、経信は来て川辺にひざまずいた。「船を戻していただきたい」と呼びかけ、そのまま管絃の船に乗り込み、琵琶を弾じ、詩歌を献じた。帝は喜ばれた。これは経信が詩・歌・管絃の三事すべてに優れていたため、あえてどの船に乗るとは言わなかったからであった(注:『古今著聞集』『十訓抄』による)。この逸話は公任の話とよく似ており、世間ではともに称え讃えた。内裏の御府(ぎょふ)に玄象(げんじょう)・牧馬(ぼくば)という二面の琵琶があり、世に名器と伝えられていた。帝は経信を召し、試みに牧馬を弾かせ、さらに問うた。「この二つの器のうちどちらが優れているか。」経信は奏上した。「昔、一条帝が源信明(のぶあきら)・信義(のぶよし)の兄弟にこれを試させたところ、信明が玄象を弾き、弟の信義が牧馬を弾いたときは牧馬が勝りました。ところが互いに持ち替えて弾かせると、今度は玄象が勝りました。してみれば器そのものに優劣があるのではなく、ただ弾く人の巧拙によるだけなのです。」そう言って玄象を弾いてみせたところ、果たしてその言葉のとおりであった(注:『古今著聞集』による)。承暦(じょうりゃく)の初め、正二位に叙せられた。四年、高麗王が使者を遣わして名医丹波雅忠(たんばのまさただ)を求めてきたため、この件は公卿の議に付された。経信は遅れて到着すると言った。「高麗王の病が、我々に何の関わりがあろうか。」結局、雅忠は遣わされなかった(注:『十訓抄』『続古事談』による。○承暦四年の件は『百錬抄』による)。永保(えいほう)の初め、民部卿を兼ね、ほどなく権大納言に転じ、皇后宮大夫を兼ねた。嘉保(かほう)元年、太宰権帥(だざいのごんのそち)となり、二年に任地の大宰府に赴いた(注:『公卿補任』による)。途中、筑前(ちくぜん)の筵田駅(むしろだのうまや)に宿った折、ちょうど八月十五夜にあたり、宿の邸内には大きな槻(つき)の木があって月を隠していた。経信はこれを伐らせ、一晩中琵琶を弾じ、詩を朗吟した。その風流はこのようであった(注:『古今著聞集』による)。承徳(じょうとく)元年、任地の大宰府で薨去した。享年八十二(注:『公卿補任』による)。経信は生まれつき聡明で機敏であり、事に臨んでよく決断した。ある人が某社の社頭で狐を射たことがあった。その社では狐を神として祀っていたため、この事は朝廷の議に及び、法によって処罰しようとした。経信はこう言った。「白龍が魚の姿となって泳げば、漁師の豫且(よしょ)の網にかかるものだ(注:高貴なものも姿を変えれば思わぬ災いに遭うということ)。」これによってその者は罪を免れることができた(注:『続古事談』による)。源定通(みなもとのさだみち)が童殿上人(わらわてんじょうびと)であったとき、朝廷の議でこれに官職を与えようとした。経信は言った。「かつて童子で任官した者は、ただ宇治関白(藤原頼通(ふじわらのよりみち))の牛飼い童だけであると聞く。」満座の者は笑い、この話は結局立ち消えとなった(注:『古事談』による)。延喜(えんぎ)以後、見るべき和歌はなく、ただ公任と経信だけがあった。経信の歌はほとんど古風に迫るものであったが、世にこれを見分ける者はいなかった。後人はこれを評して「楚(そ)に屈原(くつげん)がいたようなものだ」と言った。このころ藤原通俊(みちとし)もまた歌をもって自負しており、常に経信・大江匡房(おおえのまさふさ)らと互いに論じ合っていた。匡房の才は通俊よりわずかに優れていた。通俊は白河帝の命を奉じて『後拾遺集』を撰したが、経信はこれに対して『難後拾遺集』を著した。おおよそ朝廷の和歌会には、経信が加わらないことはなかった。あるときは判者(はんじゃ)を務め、あるときは序文を書き、世に「天下の判者」と称された(注:『八雲御抄』による)。かつて桂里(かつらのさと)に住んでいたことから、桂大納言と称された(注:『尊卑分脈』による)。その日記は『帥記(そちき)』という(注:『仁和寺書籍目録』による)。子に基綱(もとつな)、俊頼(としより)がいる(注:『尊卑分脈』による)。俊頼については「歌人伝」にある。
源基綱
¶源基綱(みなもとのもとつな)は、承徳(じょうとく)の初め、蔵人に補せられ、さらに参議に任ぜられた。康和(こうわ)・長治(ちょうじ)年間には重ねて正三位に叙せられ、権中納言を拝した。永久(えいきゅう)四年、太宰権帥を兼ね、正二位に至った。翌年、任地の大宰府で薨去した(注:『公卿補任』による)。享年六十八(注:『尊卑分脈』による)。基綱は琵琶に優れ、藤原宗俊(むねとし)・政長(まさなが)らと並び称された(注:『古今著聞集』による)。基綱が太宰府に赴任するにあたり、白河法皇は直々に勅を下して言った。「卿は老齢の身で遠く任地に赴く。琵琶の秘曲は、思うにきっと伝授しておくべき相手があろう。」基綱は奏上した。「私の二人の息子は愚かで、いずれもその器ではありません。孫娘はまだ幼いのですが、性質はたいへん聡明で、二人の息子の及ぶところではありません。私の会得したものは、すべて彼女に伝えて余すところはありません。」基綱が薨じた後、帝(法皇)はその言葉を思い出し、その孫娘を召し出して、琵琶を与えてこれを弾かせた。娘はまだ齢わずか十三であったが、その秘曲のことごとくを演奏することができた。帝は大いに感じ入り、賞賛した(注:『十訓抄』、および『体源鈔』を参照した)。
藤原齊信
¶藤原斉信(ふじわらのただのぶ)は、太政大臣藤原為光(ふじわらのためみつ)の次男である(注:『公卿補任』による)。資質は英明で機敏、故実典礼に通じていた(注:『愚管抄』による)。寛和(かんな)・正暦(しょうりゃく)年間には、左近衛中将を重ねて歴任し、蔵人頭に補せられ、備中(びっちゅう)・播磨(はりま)などの権守を兼ね、後に参議に任ぜられた。長保(ちょうほう)年間には従三位に叙せられ、権中納言となり、右衛門督(うえもんのかみ)を兼ね、検非違使別当(けびいしのべっとう)に補せられた。寛弘(かんこう)の初め、帝が松尾(まつのお)および平野(ひらの)の社(やしろ)に行幸した際、斉信は行幸の行事役を務めた。車駕が宮中に還った後、特に従二位に抜擢され、その席次は藤原時光(ときみつ)・藤原公任の上に置かれ、世はこれを栄誉とした。ほどなく正二位に昇り、権大納言に転じた。長和(ちょうわ)年間には按察使(あぜち)を兼ねた。寛仁(かんにん)四年、大納言となった(注:『公卿補任』による)。万寿(まんじゅ)年間、踏歌節会(とうかのせちえ)が行われた。右大臣藤原実資(さねすけ)が内弁(ないべん)を務め、陣の座に着いて宣命(せんみょう)を拝み読んだ。帝が席を立って内に入られると、右近衛中将源師房(もろふさ)が警蹕(けいひつ、先払いの声)を唱えるはずのところ、斉信が傍らからこれを唱えてしまい、居合わせた人々は皆驚き呆れた(注:『古今著聞集』による)。藤原行成(ゆきなり)がこの失態を扇に書き記していたところ、その子の行経(ゆきつね)がこれを持って参内した。左近衛少将源隆国(たかくに)が誤ってその扇を手に取り、結局この一件が人々の間に知れ渡ってしまった。斉信はこれを恨んだ(注:『古今著聞集』『古事談』による)。行成は弁明して言った。「私には他意はなく、ただ常に礼儀の次第を尋ね究めていただけだ。朝会があるたびに退出してからこれを書き留めていた。だから念のため書いておいたにすぎず、忘れないための備えであった。それが我が子がたまたま誤って持ち出してしまっただけで、私は本当に何も知らなかったのだ。」当時の人々は、行成と斉信が折り合いが悪かったため、行成がわざと子にそう仕向けて、知らなかったふりをさせたのだろうと考えた(注:『古事談』による)。長元(ちょうげん)八年、薨去した。享年六十九(注:『公卿補任』による)。
¶斉信は文辞に優れて華麗であり、才芸にすぐれていた。源俊賢(としかた)・藤原公任・藤原行成とその名声は互いに肩を並べ、世に「四納言(しなごん)」と称された(注:『愚管抄』による)。薨去するに及び、朝野の人々はこれを惜しんだ(注:『栄華物語』による)。藤原伊周(これちか)はかつてこう論じた。「公任と斉信は、いわば詩の好敵手と言える。相撲にたとえれば、公任は相手を倒すのが巧みだが、斉信を倒すことはできない。文章にかけては、これも伊周の認めるところであった。」(注:『江談抄』による)後二条帝(ごにじょうてい)が清暑堂(せいしょどう)の神楽(かぐら)を執り行った際、公任が拍子を打つ役を務めることになっていた。このとき斉信は席次に従って公任の上座に座っていた。公任は、斉信は管絃に巧みではないだろうと思い、必ず辞退するはずだと考えて、試しに役を譲ろうとした。ところが斉信は辞退することなくこれを打ち、終始律にかなっていた。事が終わった後、公任は斉信に「あなたはいつこれを習得したのか」と尋ねた。斉信は答えた。「これもまた朝廷の儀式の一つであり、知らずにいるわけにはいかないので、いささか学んでおいたまでのことだ。」(注:『古事談』『十訓抄』による)斉信の子は多かったが皆夭折し、弟の公信(きんのぶ)を養って子とした。そしてほどなくして斉信は没した(注:『栄華物語』による)。また、右衛門督藤原懐平(かねひら)の子である経任(つねとう)を養子とした。経任は参議・左兵衛督(さひょうえのかみ)・検非違使別当・権中納言を重ねて歴任し、正二位に叙せられ、権大納言に至った。治暦(じりゃく)二年、薨去した(注:『公卿補任』による)。
源俊賢
¶源俊賢は、左大臣源高明(みなもとのたかあきら)の三男である。円融・花山(かざん)・一条(いちじょう)の三朝に仕え、侍従を歴任し、備後介(びんごのすけ)・左近衛少将を兼ね、蔵人に補せられ、右中弁に任ぜられ、太皇太后宮権亮(たいこうたいごうぐうごんのすけ)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。俊賢は日ごろから関白藤原道隆(みちたか)と仲がよく、道隆はひそかに俊賢に語って言った。「蔵人頭は昔からその人選が重んじられている。今、才能をもって世に称えられている者は誰であろうか。」俊賢は答えた。「私を超える者はおりません。」道隆はうなずき、そのまま俊賢を蔵人頭に抜擢した。これにより俊賢は常に道隆の恩義を徳としていた(注:『古事談』による)。その後、従四位下に叙せられ、右兵衛督(うひょうえのかみ)を兼ねた。長徳(ちょうとく)元年、参議に任ぜられ、ほどなく勘解由長官・右近衛中将・治部卿(じぶきょう)・播磨守を兼ね、重ねて正三位に叙せられた。寛弘年間には権中納言に任ぜられ、正二位に叙せられた。寛仁(かんにん)元年、権大納言に任ぜられたが、ほどなく上表してこれを辞し、民部卿となった。万寿(まんじゅ)四年、薨去した。享年六十九(注:『公卿補任』による)。俊賢がかつて関白藤原頼通に従って北山に遊んだ折、道中に堂舎があった。一行が中に入ろうとすると、俊賢はこれを止めて言った。「近ごろ北の方角は塞がっておらず、おそらく不吉な穢(けが)れがあるだろう。」確かめてみると、果たして遺体を載せた車が廊下の下に置かれていた。一同はこれに感嘆し、敬服した(注:『古事談』『十訓抄』による)。二人の子に顕基(あきもと)、隆国がいる(注:『尊卑分脈』による)。隆国については別に伝があり、顕基については「隠逸伝」にある。
藤原公任
¶藤原公任は、関白藤原頼忠(よりただ)の長男である(注:『公卿補任』による)。天元(てんげん)三年、清涼殿(せいりょうでん)で元服し、帝が自ら冠を授けた(注:『日本紀略』による。○帝が自ら冠を授けたことは『扶桑略記』による。○按ずるに『略記』はこれを二年の事とするが、おそらく誤りであろう)。正五位下に叙せられた(注:『日本紀略』『公卿補任』『歌仙伝』による)。ほどなく侍従となった。永観(えいかん)・寛和(かんな)年間には左近衛権中将に任ぜられ、尾張(おわり)・伊予(いよ)の権守を兼ね、正四位下に進んだ。永祚(えいそ)の初め、蔵人頭に補せられ、備前守(びぜんのかみ)を兼ねた。正暦(しょうりゃく)三年、参議を拝した。長徳・長保年間には左右の衛門督(えもんのかみ)・検非違使別当を兼ね、中納言に任ぜられ、正三位に叙せられた(注:『公卿補任』による)。人となりは聡明で機敏、多くの技芸に広く通じ、詩作に優れ、音楽に巧みで、和歌には最も秀でていた(注:『大鏡』『十訓抄』『古今著聞集』を参照した)。源俊賢・藤原行成とともに納言となり、典礼を司ったが、朝廷の儀式や式目については公任の手になるものが多かった。議論する者は「立ち居振る舞いの礼儀作法については、公任の見識には及ばない」と評した(注:『江談抄』による)。寛弘の初め、藤原斉信の位次が公任を超えた。公任はこれに不満を抱き、病と称して参朝せず、上表して辞職を願い出たが、許されなかった。帝は右中弁藤原経通(つねみち)を邸宅に遣わして従二位に叙し、参朝を促した(注:『続古事談』による)。ほどなく権大納言に任ぜられ、正二位に進み、按察使を兼ねた(注:『公卿補任』による)。摂政藤原道長(みちなが)が公卿らとともに大井川(おおいがわ)に遊んだ折、詩・歌・管絃の三船を浮かべ、それぞれの才に応じて選び乗せた。道長は公任に「あなたは多芸多才であるが、どの船に乗るか」と尋ねた。公任は和歌の船に乗ることを願い出た。後日、公任は人に語って言った。「もし私が歌と同じように詩を作れたなら、必ず名を世に広めていたであろう。あのとき詩の船に乗らなかったことが悔やまれる。」(注:『大鏡』『古事談』による。○『十訓抄』『袋草子』『古今著文集』では、詩と歌の両方の船とする。)万寿(まんじゅ)元年、愛娘を亡くし、悲しみが尽きることなく、ついに上表して官を辞し、出家しようと考えた。しかし子や孫がこれに従うことを承知しないだろうと恐れ、堂を造ると口実をつけて方角の忌みを避けるふりをし、北山の長谷(はせ)の別荘に入って、そのまま髪を剃って僧となった。性質はもともと色を好まず、その妻もすでに先立って尼となっていたので、以後は独り住まいをし、常に静かな暮らしを楽しんだ(注:『栄華物語』による)。長久(ちょうきゅう)二年、薨去した。享年七十六(注:『扶桑略記』による)。世に四条大納言(しじょうのだいなごん)と称された(注:『栄華物語』による)。著書には『北山抄(ほくざんしょう)』『和歌九品論義(わかくほんろんぎ)』『新撰髄脳(しんせんずいのう)』『前十五番名所和歌集』、および『深窓秘抄(しんそうひしょう)』『金玉集(きんぎょくしゅう)』などの書がある。また『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』を撰し、婿の藤原教通(のりみち)に授けた(注:「また撰し」以下は『十訓抄』による。婿の姓名は『栄華物語』による)。公任は高岳相如(たかおかのすけゆき)に学問を学んだので、『朗詠集』の中には彼の句が多く載せられている(注:『江談抄』による)。かつて具平親王(ともひらしんのう)と和歌について論じたとき、公任が「貫之(つらゆき)は歌仙である」と言うと、親王は「どうして人麻呂(ひとまろ)に及ぼうか」と言った。公任はこれに納得しなかった。後日、それぞれが優れた歌十首を選んで議論したところ、八首は人麻呂が勝り、一首は優劣がつかず、貫之がわずかに一首勝ったのみであった(注:『古事談』『袋草子』による)。公任は内心納得せず、退いて自ら歌仙三十六人の秀歌を撰び、左右に組み合わせた。これが今日まで伝わっている(注:『袋草子』による。○左右に組み合わせたことは藤原為家(ためいえ)の『弘長歌合(こうちょううたあわせ)』序による)。子に定頼(さだより)がいる。
藤原定賴
¶藤原定頼は、姿かたちが美しく、和歌に優れ(注:『栄華物語』による)、あわせて書にも巧みであった。寛弘年間には侍従、右近衛少将を歴任した。長和(ちょうわ)三年、右中弁となり、中宮権亮(ちゅうぐうごんのすけ)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。この年、帝が春日社(かすがしゃ)に行幸されようとしており、定頼が行事役を務めていた。このとき定頼の従者が敦明親王(あつあきらしんのう)の従者と争いになり、定頼は怒って従者に命じて相手を打たせ、瀕死の状態にまで至らせた。親王はこれを帝に訴え、帝はたいそう激怒し、蔵人藤原永信(ながのぶ)に勅して宣旨(せんじ)を下させ、検非違使を遣わして定頼の従者を捕らえさせようとした。ところが当時政務を執っていた中務丞(なかつかさのじょう)源光成(みつなり)、進士(しんし)橘為通(たちばなのためみち)、左大臣道長らが奏上した。「もろもろの官司の役人や進士の者たちを捕らえるのは、軽々しく行うべきことではありません。本来なら勅命は私どもを通して伝えられるべきところ、永信が直接宣旨を下しました。まずは永信の罪を論ずべきと存じます。」これにより帝はいったん宣旨を差し止めた。その後、定頼の従者は捕らえられ、定頼の行事役は停止された。長和五年、大嘗会(だいじょうえ)が行われ、定頼が行事を務めるはずであった。しかし摂政藤原頼通はかねてより定頼が怠惰でものごとをおろそかにする性質であることを知っており、右少弁藤原資業(すけなり)を代わりに用いた。そして人々に語って言った。「定頼の才能は、賢いといえば確かに賢い。しかし怠慢もまたはなはだしい。私は聞いている、博識で優雅な才人というものは、文筆にも管絃にも通じないところがないものだと。しかし世間で怠け者として知られている者もいる。定頼はその類ではないだろうか。」(「白者」とは、世に名の知られた者という意味である。)(注:『小右記』による)定頼はかつて関白頼通の言葉と偽って源顕定(あきさだ)を嘲弄したことがあった。頼通はこれを聞いて、面と向かって定頼を責めて言った。「摂関たる者が、どうして人を嘲弄しようか。」これにより定頼は半年近くも参朝を停止された。思うに顕定は頼通の側に、定頼は藤原教通の側についていたので、互いにこのような思いを抱いていたのであろう(注:『江談抄』による)。寛仁(かんにん)元年、正四位下に叙せられ、蔵人頭に補せられた(注:『公卿補任』による)。定頼はかつて殿上人たちとともに尚侍(ないしのかみ)の直廬(じきろ、詰所)で酒を飲み、藤原兼房(かねふさ)と互いにからかい合ったことがあった。兼房は怒ってこれを辱め、藤原資業は定頼に退出するよう勧めた。兼房が定頼の冠を奪おうとすると、定頼は逃げてこれを免れた。兼房はその家まで追いかけ、門の中に瓦礫を投げ入れ、大声で罵ってから帰っていった。世間はこれを、定頼が蔵人頭でありながら威厳が行き届いていないと非難した(注:『小右記』による)。寛仁四年、参議に任ぜられ、右大弁を兼ねた。治安(じあん)二年、従三位に叙せられた。長元(ちょうげん)年間には権中納言に任ぜられた。長久(ちょうきゅう)三年、勅を奉じて宮殿の額(がく)を書き、特にこれを賀して正二位に叙せられ、ほどなく兵部卿(ひょうぶきょう)を兼ねた。寛徳(かんとく)二年、病により免ぜられ、髪を剃った。翌年、薨去した。享年五十一(注:『公卿補任』による)。かつて一条帝が大井川に行幸した折、定頼は父の公任とともにお供をした。帝が群臣に命じて和歌を献じさせたとき、公任は内心ひそかに定頼が秀歌を詠むことを願っていた。やがて講師(こうじ、歌を読み上げる役)が定頼の名を呼び上げた。定頼の歌は「水も無く 見えこそ渡れ 大井川」であった。公任はがっかりして顔色を変えた。ところが「きしの紅葉は 雨とふれども」の句が読み上げられるに及んで、公任は喜んで「これを秀歌と言ってもよいだろう」と言った(注:『西行談抄』による)。
藤原行成
¶藤原行成は、右近衛少将藤原義孝(よしたか)の長男であり、祖父の伊尹(これただ)が養って子とした。寛和年間には侍従となり、左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)に任ぜられた。永祚・正暦年間には備後権介(びんごのごんのすけ)を兼ね、従四位下に叙せられた。長徳元年、蔵人頭に抜擢された(注:『公卿補任』による)。かつて行成が藤原実方(さねかた)と殿上で言い争いになったとき、実方は怒りを抑えきれず、行成の冠を取って中庭に投げ捨てた。行成はあえてこれに逆らわず、主殿司(とのもりづかさ)に冠を取らせて身につけると、静かに「どうしてこのようなことになったのか」と言うだけであった。帝はたまたま御簾越しにこれを見て、「器量がこれほどであるならば、政務を任せるに十分だ」と思われた(注:『古事談』『十訓抄』による)。ちょうど蔵人頭源俊賢が参議に転じることになったとき、帝は「そなたに代わる者は誰がよいか」と問うた。俊賢は行成を推薦した。帝は「身分がまだ低く、にわかに抜擢するのは難しい」と言われた。俊賢は言った。「行成の才能は人並み外れており、献策を司る役目には十分でございます。どうして官位が浅いことをもって、その登用を妨げてよいでしょうか。そもそも人の上に立つ者は、人を見抜くことを務めとすべきです。人を見抜けば、賢者はますます徳を進め、小人は自ら戒めを抱くようになります。そうでなければ政事に誤りがないということはありえません。どうか陛下、これをお察しください。」帝はその言葉をもっともだと思われ、翌日行成を蔵人頭に補した(注:『大鏡』による)。これより先、行成は不遇な日々が長く続き、鬱々として楽しまず、髪を剃って世を逃れようと考えていた。俊賢は日ごろから行成の才を高く評価しており、これを慰めて諭した。「困窮するか栄達するかは天命によるものだ。志を曲げてはならない。あなたには家に伝わる宝があるか。」行成は言った。「私には一振りの剣があり、代々伝わる重宝である。」俊賢は言った。「これを急いで売って資金とし、栄達を祈るのがよい。私もまた力を尽くして推挙しよう。」(注:『古事談』による)その後、行成が納言に任ぜられ、その席次が俊賢の上になったとき、行成は昔の恩義を深く感じ、着座するたびに席を譲ったという(注:『古事談』『大鏡』による)。ほどなく民部権大輔(みんぶごんのたいふ)、左右の中弁・大弁を歴任し、大和権守(やまとのごんのかみ)を兼ねた。長保三年、参議に任ぜられ、侍従を兼ね、従三位に叙せられた。寛弘年間には皇太后宮権大夫を兼ね、民部卿となり、権中納言に任ぜられた。長和の初め、正二位に至った。寛仁年間には太宰権帥を兼ね、権大納言に転じた。万寿三年、按察使を兼ねた。翌年、薨去した。享年五十六(注:『公卿補任』による)。
¶行成は性質が正直で誠実であり(注:『古事談』による)、多くの才芸を備えていたが(注:『愚管抄』による)、とりわけ書法に優れ、当代随一であった(注:『十訓抄』『江談抄』による)。世には兼明親王(かねあきらしんのう)や藤原佐理(すけまさ)と並び称された(注:『江談抄』による)。一条朝で勅を奉じて宮闕(きゅうけつ)の禁門(きんもん)の額を書いた。帝はこれを褒め称え、特に位を進めた(注:『公卿補任』による)。当時、勅により僧空海(くうかい)が書いた美福門(びふくもん)の額を修復することになり、行成は空海の肖像を用意し、大江以言(おおえのもちとき)に文を作らせてこれを祭って告げた後に手を加えた。世に伝えられるところでは、「昔、小野道風(おののみちかぜ)が空海の書いた額の字をそしり非難したところ、たちまち手が震えて字を書けなくなった。行成はそのたたりを恐れたのであろう」という。その慎み深さはこのようであった(注:『古今著聞集』による)。およそ行成は額を書くたびに、必ずその裏に位署と姓名を書き記した。佐理はそうしなかった。後の人が両者の書を見分けにくいと疑うようなときも、これによって判別がついたという(注:『徒然草』による)。後一条帝は戯れに、侍臣にそれぞれ扇を御前に出させ、その趣向の巧拙を見て優劣を評した。これを殿上扇合(でんじょうおうぎあわせ)といった。行成がまだ世に知られていなかったころ、この催しがあった。人々は競って金銀珠玉で扇を飾り立て、その美しさを誇った。行成はただ扇の柄に漆を塗り、黄色の紙を用いて、楽府の句を数句書きつけただけであったが、楷書と草書を半々に交え、筆の勢いは格別に優れていた。帝はこれを手に取って賞美すること尽きることなく、取り上げて秘蔵された(注:『古今著聞集』による)。行成は初め急に職事(しきじ)に補せられ、弁官(べんかん)に任ぜられたので、そのため礼典に多くの誤りがあった。しかし次第に習熟するにつれて、かえって同輩の中でも優れた者となった。当時の人々は「これは学問に励んだ力によるものだ」と評した(注:『古事談』による)。四納言がかつて集まって蹴鞠(けまり)をしたとき、鞠が場外にそれて落ちた。公任は戯れて言った。「この中にもし大臣大将の子でない者がいれば、鞠を拾ってくるべきだろう。」これは行成を暗に指したものであった。行成はむっとして言った。「ああ、もし人が長寿を保つことができれば、大臣大将になることなど、どうして得難いことがあろうか。しかし不幸にも早くに世を去ったために、あなた方からこのような侮りを受けるのだ。」公任は黙り込み、言葉を発したことを恥じた(注:『十訓抄』による)。長保年間には、外祖父源保光(やすみつ)の旧宅を寄進して世尊寺(せそんじ)を創建した(注:『日本紀略』『百錬抄』による。○外祖父については『尊卑分脈』による。○按ずるに『大鏡』では、世尊寺はもと伊尹の旧居であったとする)。後世、行成の書法を伝えて「世尊寺家様(せそんじけよう)」と称した(注:『尺素往来』による)。その日記を『権記(ごんき)』といい、また『東宮年中行事(とうぐうねんちゅうぎょうじ)』二巻を著した(注:『仁和寺書籍目録』による)。子に実経(さねつね)、良経(よしつね)、行経がいる(注:『栄華物語』『尊卑分脈』による)。行経は藤原長家(ながいえ)の養子となり、立ち居振る舞いは上品で優雅であり、和歌に優れていた(注:『栄華物語』による)。寛徳年間には参議に任ぜられた。永承(えいしょう)年間には兵部卿を兼ね、従二位に至った(注:『公卿補任』による)。書に巧みで、父の書風をよく受け継いだ。子孫が代々書をもって世に名を知られた(注:『尊卑分脈』による)。