卷之二百二十 列傳第一百卌七

歌人三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次15
  1. 藤原長能
  2. 橘永愷
  3. 平兼盛
  4. 藤原實方
  5. 藤原顯季
  6. 藤原清輔
  7. 僧顯昭
  8. 藤原通俊
  9. 藤原敦賴
  10. 藤原範永
  11. 平棟仲
  12. 藤原經衡
  13. 源兼長
  14. 源賴家
  15. 源賴實

藤原長能

藤原長能(ふじわらのながとう)は、権中納言長良の玄孫で、伊勢守倫寧の子である(注:尊卑分脈による)。和歌の名手として知られ、藤原道信(ふじわらのみちのぶ)・藤原実方(ふじわらのさねかた)・源道済(みなもとのみちなり)らと並び称された(注:八雲御抄による)。円融・花山・一条の三代に仕え、従五位上に叙せられた。伊賀守に任じられた(注:長能集・中古歌仙伝による)。

藤原公任(ふじわらのきんとう)が客を集めて惜春の歌会を催したとき、時はちょうど三月の小の月の晦日の夜であった。長能は「心憂き(こころうき)、年にもあるかな(としにもあるかな)、二十日余り(はつかあまり)、九日と云ふに(ここのかというに)、春の暮れぬる(はるのくれぬる)。」と詠んだ。公任はこれを難じて、「春はどうして三十日を待たずに暮れてしまうのか」と言った。長能はこれを深く恥じ、家に帰って病に伏せった。病が重くなったとき、公任は人を遣わして見舞わせた。長能は「先日の惜春の歌をあなたに難じられ、恥じ悔いる思いが極まって、ついにこのようになってしまった」と言った。公任はこれを聞いて大いに悔いた。長能はほどなく亡くなった(注:袋草子・十訓抄による)。

橘永愷

橘永愷(たちばなのながやす)は、左大臣諸兄の十世の孫である(注:橘氏系図による。別本では十一世とする)。遠江守忠望の子で、兄の肥後守元愷の養子となった。永愷は文章生となり、肥後進士と号した(注:中古歌仙伝による)。生まれつき和歌を好んだ。当時、藤原長能が歌人として世に名高かったので、永愷はその門を訪ねて和歌の要諦を尋ねた。長能は「山深み(やまふかみ)、落ちて積もれる(おちてつもれる)、紅葉の(もみじの)、乾ける上に(かわけるうえに)、時雨降る也(しぐれふるなり)。」の一首を示して、「歌の体裁はこのようであるべきだ」と言った。永愷は深く感銘を受け、ついに長能に師事するようになった。和歌における師弟関係は、これに始まるという(注:袋草子・中古歌仙伝による)。

のちに剃髪して名を能因(のういん)と改めた(注:橘氏系図による)。摂津(せっつ)の古曾部(こそべ)に住んだので、世に古曾部入道と称された(注:袋草子・中古歌仙伝による)。

かつて藤原兼房(ふじわらのかねふさ)と同じ車に乗って二条東洞院に至ったとき、能因は急に車を下りた。兼房が怪しんでわけを尋ねると、能因は「ここは才女伊勢御(いせのご)の旧跡で、庭の松が今もなお残っている。礼を失してこのまま通り過ぎるわけにはいかない」と答えた。数十歩ほど歩いてその松が見えなくなってから、ようやく車に戻った。彼が和歌にゆかりのあるものを重んじることは、これほどであった(注:袋草子・八雲御抄による)。

藤原節信(ふじわらのときのぶ)という、物好きな人物がいた。ある日能因に出会い、たいそう意気投合した。能因が懐の錦の袋を探って一片を取り出し、「これは長柄橋(ながらばし)の橋杭の朽木である。私はこれを長年大切にしてきたが、今日はあなたのために取り出そう」と言うと、節信は喜び、自分も懐を探って干からびた蛙を取り出し、「これは井手(いで)の蛙である」と言った。二人は互いにそれを愛で合い、大いに楽しんで別れたという(注:袋草子による)。

藤原範国(ふじわらののりくに)が伊予に赴任したとき、能因はこれに従った。その年はひどい日照りで、百姓は苦しんでいた。範国は能因に、「和歌は神明を感動させると聞く。どうか私のために三島(みしま)の神に雨乞いの歌を捧げてくれ」と言った。能因はそこで「天の川(あまのがわ)、苗代水に(なわしろみずに)、堰下せ(せきくだせ)、天降ります(あまくだります)、神ならば神(かみならばかみ)。」の一首を詠んで奉った。するとたちまち空に雲が興り、三日間大雨が降った。遠近の田はことごとく潤い、枯れかけた苗もみな生き返ったという(注:金葉集・源俊頼無名抄・十訓抄・古今著聞集による。範国は実国、実岡とも書かれる)。

のちに陸奥(むつ)に旅し、白河の関(しらかわのせき)を過ぎるときに「都をば(みやこをば)、霞と共に(かすみとともに)、たちしかど(たちしかど)、秋風ぞ吹く(あきかぜぞふく)、白河の關(しらかわのせき)。」の歌を詠んだ(注:後拾遺和歌集による)。能因は自らこれを絶唱だと考えていた(注:十訓抄・古今著聞集による。本書によれば、能因は都にいながらたまたまこの歌を得て、自らの絶作だと思い、「自分はまだ陸奥に行ったことがないのにこの歌を作った」と言ったところ、人々はこれを偽りだと考えた。そこで能因は家に閉じこもって日数を重ね、肌を風雨や日光にさらして遠出をしたふうを装い、それから人に「私は陸奥に旅して白河の関を過ぎ、この一首を得た」と語ったのだという。ただし袋草子には、能因が陸奥を旅して『八十島記』を著したとあり、これによれば先の話は後人の付会かもしれない。ひとまず参考として付記しておく。)。

常に人に語って言うには、「和歌を上達させたいなら、深く愛好することが必要だ。長く愛好すれば、自然と神の域に入る」と。著書に『玄玄集』があり(注:袋草子・八雲御抄による)、また『歌枕』を編纂して世に広めた。

平兼盛

平兼盛(たいらのかねもり)は、是忠親王(これただしんのう)の曾孫である。父の篤行(あつゆき)がはじめて平の姓を賜り、太宰大弐に任じられた(注:皇胤紹運録による)。兼盛は和歌に優れ(注:日本紀略・八雲御鈔による)、また文才にも富んでいた。若い頃大学に入り、試験に及第した(注:本朝文粋による)。天暦年間に越前権守となり、その後山城介・大監物を経て、従五位上駿河守にまで至った(注:本朝文粋・歌仙伝による)。天徳年間、宮中で歌合が催され、兼盛は歌を奉った。その日、兼盛は衣冠を正して陣座に端座し、自分の歌が勝ったと聞くと、他の結果を尋ねることもなく、拝舞して退出したという(注:袋草子による)。正暦元年に亡くなった(注:日本紀略・歌仙伝による)。当時の人々は彼を歌仙と称えた(注:日本紀略・尊卑分脈による)。

藤原實方

藤原実方(ふじわらのさねかた)は、左大臣師尹(もろただ)の孫である。父の定時(さだとき)は侍従であった(注:尊卑分脈・中古歌仙伝による)。叔父の権大納言済時(なりとき)の養子となった(注:栄華物語による)。一条帝に仕え、侍従・右兵衛権佐を歴任し、従四位上に叙せられ、左近衛中将にまで至った(注:中古歌仙伝、栄華物語による)。

和歌に優れ、かつて東山に遊んだとき、にわかに雨が降ってきたので、実方は花の下に寄ってこれを避けた。そのとき詠んだ和歌は、時の人々に絶作と称えられた。翌日、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)が帝の側でこれを盛んに褒め称えたところ、そばにいた藤原行成(ふじわらのゆきなり)が「あの人は驕り高ぶっている。歌の言葉は美しいとしても、取り立てて言うほどのものか」と言った。実方はこれを聞いて大いに怒った(注:撰集抄による)。

たまたま行成と殿上で言い争いになり、実方は怒りを抑えきれず、行成の冠を取って地面に投げつけた。帝はその無礼を怒り、実方を中将の職から罷免した。しかしその才を惜しみ、「そなたは歌枕を探してまいれ」と言って、陸奥守に任じ責めを負わせた(注:十訓抄・古事談・源平盛衰記による。歌枕とは、歌に詠み込まれる名所のことをいう)。任地に赴くにあたり、殿上に召されて酒を賜り、位一階を進められた(注:権記・日本紀略による)。長徳四年、任地で亡くなった(注:尊卑分脈・中古歌仙伝による)。

実方はかつて笠島(かさしま)を通りかかったとき、道端に小さな祠があった。実方が里人に「これは何の神か」と尋ねると、里人は「世に伝わるところでは、これは京の出雲路の道祖神の娘で、父に罪を得てこの地に追いやられたのだという。土地の者が祠を建てて祀っており、たいそう霊験あらたかである。馬から下りて敬意を表すべきだ」と答えた。実方は「それなら卑しい神ではないか」と言って、下馬せずに通り過ぎた。すると乗っていた馬が急死し、実方もほどなく亡くなった。人々はこれを神の祟りだと考え、その祠の傍らに実方を葬ったという(注:源平盛衰記による)。実方は歌人としての名声がたいへん高く(注:八雲御鈔・今昔物語による)、その祠は賀茂(かも)の橋本にあり、在原業平(ありわらのなりひら)の巌本の祠と並び称され、後世和歌を学ぶ者は皆これに祈ったという(注:徒然草による)。子の朝元(とももと)は従四位下陸奥守で、同じく和歌に優れていた(注:今昔物語・尊卑分脈による)。

藤原顯季

藤原顕季(ふじわらのあきすえ)は、春宮大進隆経(たかつね)の第二子で、大納言実季(さねすえ)の養子となった(注:尊卑分脈・公卿補任による)。和歌に優れ、その作風はおのずと一家をなした。常に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を敬慕していた。これより先、藤原兼房が夢に人麻呂を見たので、画工にその姿を描かせ、のちに白河帝に献上した。顕季はその像を借りたいと奏請し、右衛門大夫信茂にこれを模写させ、藤原敦光(ふじわらのあつみつ)に賛を作らせ、源顕仲(みなもとのあきなか)にそれを書かせた。元永の初め、源俊頼(みなもとのとしより)らを招いてこれを祭った。以後、毎年これを恒例とした(注:古今著聞集・十訓抄による)。帝はこれを聞いて、勅により讃岐の里海士(さとあま)の邑を祭田として賜った(注:東常縁聞書による)。

兼房が描かせた元の像はのちに火事で灰燼に帰し、世では顕季が模写させたものを本物として扱った。顕季はこれをたいそう大切にし、和歌の道に通じない者には、たとえ実の子であっても伝えないと自ら誓っていた。顕季の子の顕輔(ふじわらのあきすけ)はとりわけ和歌に優れていたので、ついにこれを授けたという(注:古今著聞集・十訓抄による)。

顕季は播磨・美作の守を歴任し、修理大夫に任じられた。天仁の初め、次々と昇進して正三位に至った。天永年間には太宰大弐となり、修理大夫は元のままであった。保安年間に薨去した。享年六十九(注:公卿補任・尊卑分脈による)。六条烏丸(ろくじょうからすま)に邸を構えたので、世に六条修理大夫と称された(注:尊卑分脈による)。著書に『明月抄』がある(注:仁和寺書籍目録による)。孫は清輔(きよすけ)。

藤原清輔

藤原清輔(ふじわらのきよすけ)。清輔の父の顕輔は、堀河・鳥羽・崇徳・近衛の四代に仕え、正三位左京大夫・皇太后宮亮にまで至った(注:公卿補任による)。和歌に優れ、当代随一の存在であった(注:尊卑分脈による)。崇徳帝の勅を奉じて『詞花和歌集』を撰した(注:八雲御鈔・勅撰次第による。ここまでは藤原顕輔についての記事である)。

清輔は和歌にとりわけ優れ、藤原俊成(ふじわらのとしなり)・僧西行(さいぎょう)と並び称された(注:八雲御鈔による)。当初は下位の役人として仕え、自らの不遇を嘆いて、その思いを和歌に詠んで表した。鳥羽上皇はこれを憐れみ、五位を授けた(注:袋草子による)。その後さらに昇進して正四位下、太皇太后宮大進、長門守を兼ねるに至った(注:尊卑分脈による)。

日頃から歌学に没頭し、日夜研究を重ねていた。ある人がその実力を試そうとして、めったに知られていない事柄について尋ねたところ、清輔は淀みなく答え、詳しく明快に説き明かしたので、聞く者は皆驚き感服した。『万葉集』を好んで読み、人に「良い歌を作りたいならば、古い歌集を読むことが肝要だ」と語っていたという(注:鴨長明(かものちょうめい)の無名抄による)。

承安二年、和歌の尚歯会(しょうしかい、長寿を祝う会)を催し、当時の老齢の歌人たちを宝荘厳院に集めた。会に集まったのは七人で、散位藤原敦頼(ふじわらのあつより)は八十四歳、神祇伯顕広王(あきひろおう)は七十八歳、日吉禰宜祝部成仲(ほうりのなりなか)は七十四歳、式部大輔藤原永範(ながのり)は七十二歳、右京権大夫源頼政(みなもとのよりまさ)と清輔は六十九歳、前式部少輔大江維光(これみつ)は六十三歳であった。それぞれが和歌を作ってその感慨を述べ、清輔自らその序文を書いた。世にこれを盛事として伝えたという(注:古今著聞集・百錬抄による)。

これより先、二条帝の勅を奉じて『続詞花和歌集』を撰していたが、その書が完成する頃に帝が崩御した。帝の御覧を経ることができなかったため、正式な勅撰集には列せられなかった(注:八雲御鈔による)。著書に『奥義抄』『初学抄』『一字抄』『牧笛記』『今撰集』『袋草子』『和歌題林』がある(注:八雲御鈔・仁和寺書籍目録による)。

治承元年に亡くなった。藤原兼実(ふじわらのかねざね)はかつて清輔に和歌を学び、常にその才を称え、紀貫之(きのつらゆき)や藤原公任に比するほどであった。清輔の死に際して、兼実は「歌道は途絶えてしまった」と嘆いたという(注:玉海による)。弟に僧顕昭(けんしょう)がいる。

僧顯昭

僧顕昭(けんしょう)もまた和歌に優れていた(注:尊卑分脈・作者部類による)。僧寂蓮(じゃくれん)と親しく、二人は会うたびに目を怒らせ気を張って、激しい議論を戦わせた。顕昭は独鈷(とっこ、密教法具)を手に持って批評し、寂蓮も顔を上げて負けじと言い争った。当時「独鈷顕昭、螳頸寂蓮(かまくびじゃくれん)」という評判があったという(注:清案抄による)。

このころ、藤原俊成が『六百番歌合』の判詞をつけたが、顕昭はこれを読んで納得がいかず、自ら陳状(注:異議申し立ての文書)を作って論駁した(注:顕昭陳状による)。顕昭はかつて官位のないことを憂え、自著の『日本紀歌注』を奉り、また心境を述べる歌を作った。これにより法橋の位を叙されたという(注:明月記・十訓抄・沙石集による)。著書に『古今和歌集鈔』『袖中抄』がある。

藤原通俊

藤原通俊(ふじわらのみちとし)は、太宰大弐経平(つねひら)の次男である(注:公卿補任による)。学識は和漢にわたり、政治の道理に深く通じていた。応徳二年、太宰府から「筑後国高良の上宮の石硯と高座の階段に、めでたい花が生じました」との報告があり、この件が公卿に諮られた。通俊は次のように論じた。「智覚禅師の『感通伝』に載るところによれば、高座の四隅に異花が咲いただけでなく、右手の五指から白蓮が咲き出たこともあったという。とはいえこれは自然の瑞祥ではなく、ただその法力の妙を示したものにすぎない。今回、高座の石硯にわけもなく花が咲いたことも、めでたい兆しとするに十分であろう。ただし寛和年間に信濃国が白雉を献上した折、当時の議論では『およそ瑞祥は、その方角の色に合致するものを正とする』とされた。これに照らせば、たとえめでたい兆しであっても、方角の色を詳しく調べたうえでその吉凶を判断すべきである」。おおよそ大きな議論に加わるたびに、その論は精確で、筋道立って明快であることはみなこのようであったという(注:史官記による)。

白河帝はその才をことのほか重んじ、大江匡房(おおえのまさふさ)と並んで近古の名臣と称された(注:古事談による)。通俊はかねてより和歌に長じていることを自負しており、源経信(みなもとのつねのぶ)や大江匡房らとしばしば論争を交わしていたが、自分より優れた才を妬み、歌集を撰することで一時の名声を独占しようとした。そこで『拾遺集』以後の和歌を撰進したいと奏請した。白河帝はもとよりこの企てに意志を持ちながらまだ実行に移していなかったので、通俊の奏上を見て大いに喜び、これを許した。通俊は勅を奉じたものの、職務が多忙であったため、数年を経てようやく完成させた。これを『後拾遺和歌集』と名づけた。また『続新撰和歌集』も編んだ(注:八雲御鈔による)。

官位は権中納言従二位にまで至った。康和元年に薨去した。享年五十三(注:本朝世紀・公卿補任による。尊卑分脈には五十七とあるが、おそらく誤りであろう)。中納言藤原保実(ふじわらのやすざね)の子の定通(さだみち)を養子とした。定通は康和の初め右少弁となったが、わずか七日で亡くなった。世に「七日弁」と呼ばれたという(注:尊卑分脈による)。

藤原敦賴

藤原敦頼(ふじわらのあつより)は、内大臣高藤(たかふじ)の末裔で、治部丞清孝(きよたか)の子である。崇徳朝に仕え、従五位上左馬助となった(注:尊卑分脈による)。

保延四年、馬寮使(めりょうし)を務めた。旧例では、任務が終わると馬部(めのとも、馬寮の下級官人)らに手振り(祝儀)の装束を与えることになっていたが、敦頼はこれを受け取っておきながら渡さず、「これは借り物であって、後日改めて本物を与えるつもりだ」と偽った。その後馬部らが何度も催促したが、敦頼はついに与えなかったので、馬部らは大いに恨みを抱いた。翌年、敦頼は斎王の行列を先導する次第使(しだいし)となり、一条大宮を通りかかったところ、馬部数十人が突然駆け寄り、口を極めて罵り責め立て、衣冠や襪(しとうず)、帯まで剥ぎ取った。敦頼は裸のまま逃げ出したという。当時「裸馬助(はだかのうまのすけ)」という評判が立ったという(注:古事談による)。

のちに剃髪して道因(どういん)と号した(注:古今著聞集による)。日頃から和歌に没頭しており、八十歳になっても毎月徒歩で住吉(すみよし)社に参詣し、秀歌が得られるよう祈った。和歌の会があると、年老いて耳が遠かったため、いつも講師のそばに詰め寄って座り、飽きることなく熱心に耳を傾けた。その打ち込みようはこれほどであった。

藤原忠実(ふじわらのただざね)がかつて鏡の邑(かがみのむら)の傀儡師(くぐつし)を召してその芸を見たとき、傀儡師はたまたま源俊頼の作った和歌を謡った。俊頼はその場に居合わせ、これを聞いて喜んだ。当時の人々はこれをうらやましがったという。僧永縁(えいえん)は世に名を得たいと望み、盲目の芸人に賄賂を贈って自分の歌を謡わせた。敦頼もまた盲目の芸人に頼んだが、賄賂を贈らずに謡うよう求めたため、世の人々に嘲笑されたという。

藤原俊成が勅を奉じて『千載和歌集』を撰したとき、敦頼はすでに亡くなっていたが、俊成はその苦心を偲んで、その歌十八首を採録した。のちに俊成の夢に敦頼が現れて礼を述べたので、俊成はさらに二首を加えて採録したという(注:鴨長明の無名抄による)。

藤原範永

藤原範永(ふじわらののりなが)は、尾張守仲清(なかきよ)の子である(注:尊卑分脈による)。和歌によって世に名を知られ、平棟仲(たいらのむねなか)・藤原経衡(ふじわらのつねひら)・源兼長(みなもとのかねなが)・源頼家(みなもとのよりいえ)・源頼実(みなもとのよりざね)と並び称され、「和歌六党」と号された(注:大江匡房記・八雲御抄による。続古事談では棟仲を棟実に作る。また一説には棟仲・経衡・義清・頼家・重成・頼実の六人を六党とするともいう)。範永はその筆頭であった(注:八雲御抄による)。

かつて遍照寺の歌会で「山家の秋月」を詠んで、「住む人も(すむひとも)、無き山里の(なきやまざとの)、秋の夜は(あきのよは)、月の光も(つきのひかりも)、寂しかりけり(さびしかりけり)。」と詠んだ。藤原公任はこれを見てたいそう褒め、その草稿に「範永とは何者か。よくぞ和歌の体をとらえたものだ」と書き付けた。範永はこれを聞いて大いに喜び、その草稿を譲り受けて錦の袋に納め、大切に扱ったという(注:袋草子・十訓抄による)。

尾張・但馬・阿波・摂津・伯耆の守を歴任し、蔵人に補せられ、正四位下に叙せられた(注:尊卑分脈による)。

平棟仲

平棟仲(たいらのむねなか)は、安芸守重義(しげよし)の子で、因幡・周防の守に任じられ、従五位上に叙せられた(注:平氏系図による)。

藤原經衡

藤原経衡(ふじわらのつねひら)は、もとの名を景能(かげよし)といい、参議有国(ありくに)の孫である。父は公業(きんなり)という。経衡は大和守に任じられ、正五位下に叙せられた(注:尊卑分脈による)。

当時、藤原道雅(みちまさ)が和歌に優れた者たちに命じて、八条別荘の障子に貼る歌を作らせたことがあった(注:袋草子による)。経衡は「山家に雪の後、客が門にいる」という題を得て、「雪深き(ゆきふかき)、道にぞ志るき(みちにぞしるき)、山ざとは(やまざとは)、我よりさきに(われよりさきに)、人こざりけり(ひとこざりけり)。」と詠んだ(注:後拾遺和歌集による)。経衡は自ら「自分は年若いので、選者に取り上げてもらえないのではないか」と案じ、こっそり道雅の邸に赴いてその様子をうかがった。道雅は藤原家経(いえつね)とともに歌の優劣を論じ合っており、家経は経衡の歌を挙げて「これに勝るものはない」と評した。経衡はこれを聞いて心から喜び、名乗ることなくそのまま帰ったという(注:袋草子による)。

源兼長

源兼長(みなもとのかねなが)は、もとの名を重成(しげなり)といい、備後守道成(みちなり)の子である。右兵衛佐、備前・讃岐の守に任じられ、正五位下に叙せられた(注:尊卑分脈による)。

祐子内親王(ゆうしないしんのう)家の歌合で、左右六番の歌人を選んだところ、一人足りなくなった。兼長と経衡はともにこの選に加わろうとした。藤原頼通(よりみち)・頼宗(よりむね)がその場に居合わせ、試しに題を出して歌を作らせ、優れたほうをその一人に充てることにした。兼長は「行かなれば(いかなれば)、岸に八重咲く(きしにやえさく)、山吹きの(やまぶきの)、一重に池の(ひとえにいけの)、底に見ゆらむ(そこにみゆらむ)。」と詠み、経衡は「池水に(いけみずに)、咲き掛かりたる(さきかかりたる)、山吹き(やまぶき)を、底に沈める(そこにしずめる)、ゑたと見るなり(えだとみるなり)。」と詠んだ。頼宗は「持(じ、引き分け)」と判定した。持とは優劣がないという意味である。しかし人々の心は兼長に傾いていた。ところがちょうど兼長に父の喪があったため、結局経衡がその一人に充てられたという(注:袋草子による)。

源賴家

源頼家(みなもとのよりいえ)は、左馬権頭頼光(よりみつ)の子である(注:尊卑分脈による)。範永・棟仲らが亡くなった頃、橘為仲(たちばなのためなか)は陸奥にいて、頼家に手紙を送り、「今や歌人はほとんど死に絶え、残るはあなたと私だけだ」と書き送った。頼家は怒って、「為仲は六党と肩を並べるような者ではない。どうして私と対等であろうか」と言ったという。彼が和歌に自負を抱いていたことは、これほどであった(注:袋草子・十訓抄・続古事談による)。官は筑前守従四位下にまで至った(注:尊卑分脈による)。

源賴實

源頼実(みなもとのよりざね)は、頼家の甥である。左衛門尉となり、従五位下に叙せられた(注:尊卑分脈による)。かつて住吉の神に、「私に世を驚かすほどの歌を詠ませてくれるなら、たとえ命が縮まっても本望です」と祈った。やがて「木の葉散る(このはちる)、宿は聞きわく(やどはききわく)、ことぞなき(ことぞなき)、時雨する夜も(しぐれするよも)、時雨せぬ夜も(しぐれせぬよも)。」という歌を得た。その後病に臥せったとき、住吉の神が人に託して「そなたはすでに願いを遂げたのだから、もう起き上がることはあるまい」と告げた。頼実は自ら必ず死ぬことを悟ったという(注:鴨長明の無名抄・今鏡による)。