卷之一百五十一 列傳第七十八
藤原敦光、清原賴業、藤原兼光
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原敦光
¶藤原敦光(ふじわらのあつみつ)は、式部大輔(しきぶのたいふ)明衡(あきひら)の子であり、大内記(だいないき)敦基(あつもと)の異母弟である(注:尊卑分脈による)。若い頃から学問に励み、対策(策問による官吏登用試験)に合格した。堀河・鳥羽・崇徳の三代の天皇に仕え、式部丞・大内記を歴任し、文章博士(もんじょうはかせ)を兼ね、大学頭に進み、式部大輔に転じた。
¶保延元年(1135年)、天変地異が相次いで起こり、飢饉や疫病が広がり、沿海地方が騒がしくなり、盗賊が相次いで蜂起した。帝は儒者たちに意見を論じ奏上させた。敦光は古今の事例を引いて上疏し、次のように述べた。
¶「天変地異は、人主を戒めるためのものです。およそ吉凶の兆しは、天文をつかさどる役所がこれを奏上します。昔の人はこう言いました。『日食や月食が起こり、風雨が時ならず吹き荒れ、怪しい星が現れることは、いつの世にもないわけではない。しかし君主が聡明で政治が公平であれば、たとえこうした現象が同時に起こっても、害をなすことはない。』後漢の永元年間、日食という異変があったとき、公卿・大夫たちは皆、意見書を奏上しました。詔により、寛容で謀略に長け、地方統治の才ある郎官三十人が選ばれ、選ばれた郎官には出向いて地方長官を補わせました。我が朝でも弘仁の聖代には、賢才を登用し、これを取り立てて侍中とし、郎官に選びました。新たに任命した日には、それぞれに一つの都市を治める重任を授けました。それ以来二十四代、三百年余りにわたって、天下は一つの規範のもとに治まり、道を異にすることはありませんでした。しかし近年に至って、風俗が乱れ薄れ、恩典もまだらになっています。徳が先代の聖なる政道に及ばないならば、なおさら明時の皇化を助けるべきです。
¶そもそも疫病が起こるのは、政治が時令(季節に応じた政治のきまり)に違反することによるものです。天平十三年(741年)には、勅により天下に釈迦牟尼仏像を造らせ、大般若経を写させて、疫病を払い豊作を祈らせました。弘仁四年(813年)には、京畿の百姓が病人を捨てることを禁じ、法令を定めて遺骸を覆い葬る道義にかなうようにしました。思いますに、和漢を問わず、災異があるたびに、賢良の士を推挙したり、老人を優遇したり、貧民を救済したり、あるいは租穀を免じたり、調庸を減じたり、徭役を省いたりしてきました。よろしく旧来の規範に従い、寛大な恤みの政策を行うべきです。
¶王者の八政のうち、食は第一のものです。昔の人はこう言いました。『寒さに苦しむ者は尺玉(貴重な宝玉)を欲しがらず粗末な衣を思い、飢えた者は千金を顧みず一椀の食を美味と思う。』数年分の蓄えがなければ、どうして凶作・飢餓の憂いを免れられましょうか。
¶そもそも国が衰弊していく兆しには、由来があります。
¶第一に、宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)を祀らないことです。祈年祭(としごいのまつり)・月次祭(つきなみのまつり)・神今食(じんこんじき)・神嘗祭(かんなめさい)・新嘗会(にいなめえ)は、朝廷の重要な行事です。その祭祀はかろうじて存続しているものの、儀礼は次第に簡略になっています。神今食には天皇が中和院に行幸し、神嘗祭には大極殿に行幸されるのが本来の姿で、その威儀の盛んなさまが、おのずと神の心を感じさせるものです。昔、孔子(仲尼)は、告朔(こくさく)の儀に供えるいけにえの羊を惜しんで、礼を大切にしました。小事を通じて大事を諭すもので、決して常の規範に背くものではありません。よろしく万事、旧来の儀式に従い、これを実行すべきです。諸国にある大小の神社は、破損しても修理されず、多くが倒壊して跡形もなくなっています。国司は祭祀の場に臨まず、神職も修理の営みをせず、まして代々その家に伝わる者でない者が、どうして宗廟社稷の務めを理解し、謹んで誠を尽くし、斎み慎んで礼を行うことができるでしょうか。
¶第二に、仏事を信じないことです。福を招く術は、仏の教えを根本とし、仏に帰依する要は、清浄を第一とします。それゆえ宝亀三年(772年)十一月の詔には、『毎年正月、天下の諸国国分寺で吉祥悔過(きちじょうけか)の法要を行い、飢饉の災いを救うことを恒例とせよ』とありました。しかし今、朝廷の中では儀礼が整っていても、地方の隅々では、恐らくおろそかになっているでしょう。国分寺は名ばかりで実がないと聞き、講読師にも智徳ある僧はいません。これで霊験を得ようとするのは、木の梢に蓮の花を求めるようなものです。恒例の斎会も臨時の仏事も、天皇のお心は深くとも、施しは乏しいままです。これは役人たちが怠慢で、諸国の財政が窮乏していることによるものです。
¶第三に、農耕の時を奪うことです。中古以来、高堂大廈(壮麗な邸宅)の造営が実に盛んで、築山や池を造る労役が絶えることなく、人々は休む間もなく、民は肩を休める暇もありません。昔、衛の霊公は宛春(えんしゅん)の諫めに従って厳寒の中の労役を取りやめました。まして農繁期に民を使役すれば、必ず農事を損ないます。土木の工事を休止し、農耕の時を奪ってはなりません。
¶第四に、租税の取り立てを重くすることです。田畑が増えないのに租税ばかりが増えることは、昔も今も人々を傷めてきました。魏の文侯の時代、租税が年ごとに倍になったとき、ある人がこれを祝いました。文侯は言いました。『今、戸口は増えていないのに租税が年ごとに倍になっている。これは課税が過重なだけであって、祝うべきことではない。』これにより魏の国はよく治まりました。聞くところによると、近年は検田(田畑の実地調査)による増減の確認もなく、農民の貧富も究めず、無理に肥沃な田地だと称して租税を徴収しているといいます。土地が広く民が富んでいる所はそれでよくても、土地が狭く民が貧しい所は、ひそかに人心を失うことになります。富む者は少なく貧しい者が多いのが実情であり、広くこれを論じれば、まことに苛酷と言うべきです。また検田を行ったとしても、その基準にひどく差があれば、国の興亡はおのずと知れます。国の治まり具合に応じて、役人の褒貶(評価)を行うべきです。
¶第五に、奢侈を禁じないことです。漆器に彩色した酒樽でさえ、その奢りが議論されました。粗末な衣と質素な食事は、長く倹約の美徳として伝えられています。漢の文帝が露台の造営をやめたことや、斉の桓公が紫の衣を退けたことは、治世における立派な行いとして、後世に語り継がれる美談です。ところが今、天下の人々は、住居も衣服も、すでに定めを超え、車馬や従者の数も、多くが規模を超えています。しばしば禁令を出しても、なお改めようとしません。俗にこう言います。『都で大袖の衣が流行れば、地方では反物が大量に使われ、都で太い眉が流行れば、地方でも額の半分を剃るようになる。』世の好むところは、ただ時の風潮に従うのみです。まして金銀の装飾品は彫刻が一様でなく、紅や紫の衣服には無駄な費用がかさんでいます。よろしく従来の詔を尋ね、当時の華美を止めるべきです。
¶第六に、学校が廃れていることです。天下が貴ぶべきは賢才のみであり、宝とすべきは穀物のみです。皇朝では宮城の南、左側に大学寮を置いて聖人の師を尊び、右側に穀倉院を置いて米穀を蓄えました。しかし今、学舎は荒れ果て、雑草が生い茂っています。釈奠(せきてん、孔子を祀る儀式)の供物も整えるのに苦労し、学問を志す若者たちには身を置く場所がありません。唐の太宗は即位したばかりの頃、都で飢饉が起きた際、熱心に人材を求め、才能ある者を選ぶことに努め、政治から旧弊を改めて、しばしば豊作をもたらしました。願わくは聖代の遺風に倣い、早く明時の新たな教化を施すべきです。
¶第七に、国庫が空虚なことです。そもそも役所の食糧倉庫は、久しく空になっています。諸国の租税も、すでに納入が少なくなっています。まして官に納める封戸の収入は、名ばかりで実がなく、位に列する臣下たちも月々の俸禄にあずかれません。公務に励む者たちも、この困窮の中で身を保つのが難しい有様です。いわゆる『家に衣食が欠ければ、たとえ父母であってもその妻子を制御できず、身に凍えと飢えが切迫すれば、たとえ巣父(そうほ)や許由(きょゆう)のような高潔な隠者であっても、その節操を守ることはできない』というものです。また諸国からの大糧(諸国から都に納める食糧)の支給もほとんどありません。下級の役人たちは、衣食にも事欠く有様です。以上の七つの事柄は、一つとして廃してよいものはありません。
¶さらに、諸国の土民は課役を逃れるため、あるいは神人(じにん、神社に仕える者)と称し、あるいは悪僧となって、領内を横行し、国務に反抗しています。加えて、京中に住む浮食の大商人たちは、都の近くで物を借り、遠国でこれを三倍の利で貪り、あるいは春の時期にわずかな物を貸し与え、秋の収穫期に大きな利益を取り立てています。もし返済の時期が遅れれば、ほとんど一生の蓄えを傾けてしまうほどです。困窮した民はこれに耐えかね、一家をあげて逃亡し、妻子を売って彼らの奴婢とする者もいます。天下が衰え果てているのは、まさにこれが原因です。
¶思いますに、延喜年間、式部大輔三善清行(みよしのきよゆき)朝臣が意見書で述べたように、『天下の出費は昔の十分の一にも及ばない』とされ、それでも当時は嘆かれました。それに比べて今の時代は、もはや延喜の頃の十分の一どころではなく、国の衰耗は明らかです。戸令には『およそ水害・旱害・蝗害で不作となった地には、少しでも食糧を支給し賑わせよ』とあり、賦役令には『およそ田に水害・旱害・虫害・霜害による不作があれば、国司は実情を検分し、詳しく記録して朝廷に申し上げ、租税や課役を免除せよ』とあります。よろしくこれらの令の条文に従い、速やかに徳政を施して、民を安んずるべきです。
¶そもそも海陸の盗賊が起こるのは、すべて飢えと寒さから邪な心が生じることによるものです。いわゆる『渇いた馬は水を守り、飢えた犬は肉を守る』というものです。刑罰を用いても、それだけでは治安を正すことは難しいものです。戸口が豊かになり、衣食が満ち足りれば、辺境は安寧となり、賊も自然と消え去ります。延暦五年(786年)四月十九日の格文に従って、良吏を選び、姦悪や盗賊を除くべきです。ただし国には定まった刑罰があり、誰もこれを免れて懲らしめられないわけにはいきません。たとえ一方の網にかかるだけであっても、最終的には天下の静謐をもたらすことになります。そもそも世を治める道は、寛容と厳格をともに用いることにあります。去る承平六年(936年)、南海の賊の首領藤原純友(ふじわらのすみとも)が徒党を組んで屯集したとき、紀淑人(きのよしひと)朝臣を伊予守に任じて、追捕の任にあたらせました。賊徒はその寛大で仁愛のある人柄を聞いて、二千五百余人が過ちを悔いて帰順し、首領クラスの者三十余人も自ら降伏しました。そこで衣食や田地を与え、農業に励ませました。このように、善良な官吏がそれぞれ任地に赴いて党類を探し出し、もし帰順する者があれば、田地や物品を分け与えてこれを先導とすれば、国は富み刑罰も明らかになる、これもまた一つの策です。
¶そもそも太宰府は外国の使者が往来する地であり、鎮守府は遠方の異民族と接する境界です。もし威厳をもって外地に示すことがなければ、恐らく風聞が異国にまで及ぶ恐れがあります。たとえ天下が事なき世であっても、どうして不測の事態への備えを怠ってよいでしょうか。安きにあって危うきを忘れないことは、昔からの明らかな戒めです。」
¶敦光は学問が内典(仏教)・外典(儒学など)にわたって該博で、通じていないものはなかった。『本朝帝紀』『続本朝秀句』を撰した。当時の文章や銘・賛は、必ず敦光に起草させた(注:続本朝文粹による。○『本朝帝紀』『続本朝秀句』を撰したことは、仁和寺書籍目録による)。天養元年(1144年)、没した(注:尊卑分脈・一代要記による)。子の有光(ありみつ)・永光(ながみつ)・成光(なりみつ)は、いずれも学問をもって朝廷に仕えた(注:尊卑分脈による)。
清原賴業
¶清原頼業(きよはらのよりなり)は、初め顕長(あきなが)と名乗り、後に頼業と改めた。左大臣夏野(かやの)の子孫であり、大外記祐隆(すけたか)の子である(注:清原系図による)。大外記・明経博士に任じられ、特別の勅命により明法(みょうぼう、法律学)も兼ね学ぶことを許され、高倉天皇の侍読(じどく、御進講役)を務めた。
¶承安二年(1172年)、宋国が法皇(後白河法皇)に贈った書状に「日本国王に賜う」とあった。朝議ではこれを「非礼である。突き返すべきだ」としたが、当時の議論はまとまらなかった。頼業は次のように述べた。「朱雀・一条両朝の時代、贈られてきた文書の称呼が不敬であったため、突き返して受け取らなかった例があります。承暦年間には、贈られた文書にもやはり『日本国に賜う』とあり、それを受け取ったことがあり、後にこれを非難する議論もありました。ましてや今回贈られたのは明州(めいしゅう)の刺史(地方長官)からのものであって、宋の皇帝からのものではありません。昔は彼我ともに互いに『天皇』と称し、対等な国同士の礼を用いていました。それなのに今このような有様では、これほどの恥はありません。」これを聞いた人々はもっともだと認めた。
¶安元年間、越中権守を兼任した。治承・養和の頃、諸国で兵乱が起こり、官軍は思うように戦果をあげられなかった。内大臣平宗盛(たいらのむねもり)は打つ手がなく、使者を送って頼業に尋ねさせた。「今の情勢を見るに、武力だけで平定するのは難しい。神仏に祈らなければ、事態を救うことはできまい。伊勢大神宮の臨時祭を執り行うべきか、それともアショーカ王(阿育王)の故事にならって八万四千の宝塔を造るべきか。適切な方策を示してほしい。」頼業は答えた。「臨時祭については適任の人に尋ねるべきであり、宝塔の造営も朝廷のお考え次第です。今急ぐべきは、速やかに弊政を改め、訴訟を公正に裁くことです。そうしなければ、国の危亡は目前です。とはいえ、これは私の判断すべきことではなく、公卿・大臣たちが議論すべきことです。」(注:玉海による)
¶文治五年(1189年)、六十八歳で没した(注:清原系図による)。関白九条兼実(くじょうかねざね)は頼業を称えて言った。「頼業は学問が和漢にわたって該博で、当代に並ぶ者がない。国の大器であり、学問の道の棟梁である。朝廷の儀式や先例について相談があるたびに、頼業は古今の事例を引いて証拠とし、精密に弁別・考証するので、多くがその意見に従って用いられた。」頼業はかつて『礼記(らいき)』を読み、その中の「中庸」の篇を独立させて世に示した。本経に基づいて解釈し、旧来の注釈を採らなかった。頼業は宋の朱熹(しゅき、朱子)と同時代の人であったが、朱熹の注釈はまだ日本に伝わっていなかったにもかかわらず、その見解がたまたま暗に一致していたので、人々はこれを奇異なこととした(注:康富記、享徳三年の条による)。
¶子孫は祠を建てて頼業を祀った。後嵯峨天皇はこれに車折(くるまざき)大明神という号を賜った(注:舟橋家蔵本、清原系図による)。伝えられるところによると、ある人がかつて車に乗ってその祠の前を通ったところ、車が突然折れたことから、この名がついたという。子の佐光(すけみつ)・親業(ちかなり)は、いずれも少外記に任じられた(注:○佐光以下は清原系図による)。寿永年間、源義仲(みなもとのよしなか)が反乱を起こして法住寺殿を攻めた際、親業は流れ矢に当たって死んだ(注:玉海、源平盛衰記、平家物語による)。
藤原兼光
¶藤原兼光(ふじわらのかねみつ)は、参議藤原有国(ありくに)の六世の孫である。祖父実光(さねみつ)、父資長(すけなが)はともに中納言を務め、家名を日野(ひの)と称した(注:尊卑分脈による)。
¶兼光は永暦年間、対策に合格し、次々と要職を歴任した。文治年間、権中納言正三位に進み、右兵衛督を兼ねた。建久二年(1191年)、検非違使別当となった(注:公卿補任による)。廃れていた事務を復興させ、庁の職務を整えたので、有能との評判があった。
¶あるとき釜を失った者があり、その隣家に行って釜を捜し出した。隣人はこれに納得せず、役所に訴え出た。そこで兼光がこれを召し出して尋問した。その者は弁明して言った。「私は足が不自由で、いつも地面に手をついて進みます。手を使わなければ一寸も進めないのに、どうして釜を持って逃げることなどできましょうか。」人々はもっともだと思った。しかし釜を失った者はなおも訴え続けた。兼光は釜を被告に与える判決を下して言った。「お前の言い分には理がある。訴えた者の言うことこそ偽りであると私にはわかる。」盗人は喜び、釜を頭に載せて立ち去った。すると兼光はこれを呼び戻して問い詰め、盗人はついに罪を認めた(注:古今著聞集による)。
¶建久六年(1195年)、従二位に叙せられた。翌年、五十二歳で薨去した(注:公卿補任による)。かつて『姉言記』を著した(注:仁和寺書籍目録による)。子の資実(すけざね)は正二位権中納言、太宰権帥を兼ねた(注:公卿補任による)。その日記は『都玉記』という(注:仁和寺書籍目録による)。