卷之二百三十 列傳第一百五十七
叛臣
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
源義仲
¶源義仲(みなもとのよしなか)は、幼名を駒王丸(こまおうまる)といった(注:『源平盛衰記』による)。左衛門大尉源為義の孫にあたる。父の義賢(よしかた)は春宮帯刀(とうねりのたちはき)であったが(注:『源平盛衰記』『尊卑分脈』による)、久寿二年、甥の義平に殺された。義仲はその第二子で、当時わずか二歳であった(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。東鑑では二歳を三歳とし、死んだ年を三十一歳としている。元暦元年から逆算すると久寿元年で三十一年になるので、これによれば実際の生年は久寿元年ということになる。東鑑の記述には食い違いがある)。義平は義仲が後の禍いになることを恐れ、畠山重能に命じて捜し出させて殺そうとした。しかし重能は幼く弱い義仲を憐れみ、殺すに忍びなかった。ちょうど斎藤実盛が武蔵に来たので、重能はひそかに事情を告げ、駒王を実盛に託した。実盛は七日間これをかくまったが、当時東国の武士の多くは源義朝の配下であったため、実盛もついに逃れることができないと悟り、信濃へ送り、乳母の夫である権守中原兼遠(なかはらのかねとお)に託した。兼遠はわが子のように大切に育て、木曾山のふもとに住まわせた(注:『源平盛衰記』による。乳母の夫については『東鑑』による)。保元・平治の乱で源氏一門はほとんど死に絶え、兵馬の実権はことごとく平氏の手に帰した(注:『平治物語』による)。義仲は幼いながらも家門の衰退を深く痛み、慨然として一族のために復讐する志を抱き、遊びのときも常に武芸を専らにしていた(注:『源平盛衰記』による)。立ち居振る舞いや受け答えは同年輩の子供たちを大きく超え、郷里の人々の注目を集めた。成長するにつれ体格は堂々として力は人並外れ、あわせて騎射にも巧みで、飛ぶ鳥や走る獣を射て当たらないことがなかった。兼遠はこれを天賦の才だと考えた(注:『長門本平家物語』による)。十三歳になると、高祖の源義家の故事にならって石清水八幡宮に詣で、自ら元服して名を義仲と改め、木曾次郎と称した(注:『平家物語』による)。たびたび京へ往来し、平氏の動静をうかがっていた。治承四年、以仁王が兵を挙げて平氏を討とうとし、諸国の源氏に令旨を下した。義仲は父方の従兄弟にあたる源頼朝がこれに応じたのを見て、信濃で兵を集め、十日ほどで千余人に達した。平宗盛はこれを聞いて恐れ、中原兼遠を呼び出して責め、義仲を捕らえて送るよう命じた。兼遠は表向きこれを承知し、誓約書を差し出した。宗盛は信じてこれを許した。兼遠は信濃に戻ると、義仲に大族の根井幸親を頼らせ、四方に檄を飛ばして兵を募らせた(注:『源平盛衰記』による)。下野の足利氏、甲斐の武田氏、上野の那和氏らが皆味方につき、勢いは日ごとに強まった(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。那和については異本『平家物語』、甲斐武田については『玉海』による)。九月、頼朝が大庭景親と石橋山で戦った。義仲はこれに応じて兵を挙げようとしたが、その時平氏方の笠原頼直が義仲を攻めようとしていた。義仲は兵を出して援軍に向かわせると、頼直は戦わずに逃げ去った(注:『東鑑』による)。養和元年六月(注:『玉海』『吉記』『一代要記』『皇帝紀抄』および本書の寿永二年三月の条によって訂正した。詳しくは城長茂伝を参照)、越後の城長茂(じょうのながもち)が攻めてきた。長茂はまず津張宗清らを権田越へ向かわせ、自らは四万の兵を率いて横田荘に陣を敷いた。義仲はこれを聞き、二千余騎を率いてこれを迎え撃った。一族の井上光盛(いのうえみつもり)が保科党三百余騎を率い(注:一族については『尊卑分脈』による)、筑摩川を渡って先陣を進め、偽って赤い旗を掲げた。長茂はこれを味方の一族が引き返してきたものと思い、使者を送って光盛を止めさせようとした。ところがまもなく光盛は突然旗を変え、まっすぐ長茂の陣の背後を衝き、義仲もまた兵を放って呼応して攻撃した。長茂軍は大いに崩れ、人馬は川に溺れ、死者は非常に多かった。長茂はほうほうの体で越後に逃げ帰り、義仲は追って国府まで至ると、越後の兵で降伏する者が相次いだ(注:『長門本平家物語』による)。九月、中宮亮平通盛(たいらのみちもり)と但馬守平経正(たいらのつねまさ)が兵を率いて攻めてきたが、義仲は越前でこれを大敗させた(注:『東鑑』『百練抄』による)。越前・越中・加賀の豪族たちはこれを聞いて大いに恐れ、互いに相談して言った。「今、源氏と平氏が兵を構え、諸国は騒然としている。関東はことごとく右兵衛佐(頼朝)に属し、北国の多くは木曾冠者(義仲)に属している。それなのに我々はどちらにつくべきか決めかねている。ぐずぐずしていれば、必ず攻めてこられるだろう。むしろ進んで従うべきだ」と。そして相率いて義仲に味方した。義仲はこれに詐りがあるのではと疑ったが、新たに従った者たちは誓約書を差し出した。義仲は大いに喜び、良馬をそれぞれ一頭ずつ与えた。これより北陸道はことごとく義仲に帰し、兵勢はますます強くなった。武田信光(たけだのぶみつ)は義仲の遠縁にあたる。娘を義仲の子義高に嫁がせて誼を結ぼうと使者を送って意向を伝えたが、義仲はこれを喜ばず、こう答えた。「娘があるなら志水冠者(義高)に与え、身の回りの世話をさせよう。もし正式な妻にというのであれば、私は望まない」。信光は怒り、そこで頼朝に義仲のことを讒言して言った。「義仲は越後を制してより北国を思うままに動かし、勢いはますます強大になっている。それゆえ小松大臣(平重盛)の娘を宗盛の養女とし、義仲の妻にしようとひそかに文を通わせている。義仲はすでにこれを承知した」と。頼朝はこれを聞いて大いに怒った。その頃、叔父の源行家(みなもとのゆきいえ)は頼朝と不仲になり、義仲のもとに逃げ込んでいた。頼朝はますます怒り、兵を率いて信濃に向かった。義仲は将士を集めてこれを難詰した。樋口兼光らは「事ここに至っては、富部・大井に拠って砦を固め、これを防ぐべきです」と言ったが、義仲はしばらく考え込んでから言った。「保元の乱以来、我が一族はとかく互いに殺し合い、人の笑いものになってきた。今、平氏がまだ滅びていないのに兵衛佐(頼朝)と怨みを結ぶのは、良い策とは言えない。私はしばらく事を避けよう」。そして越後へ退いた(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。頼朝は義仲が兵を引いたと聞き、自らも兵を引いて武蔵に戻り、義仲に使者を送って言った。「今、平氏は驕り高ぶり、朝廷を軽んじている。法皇は激しく怒り、我が一族に逆賊を討ち滅ぼすよう命じられた。これは私と貴殿が枕を高くして眠らず力を尽くすべき、王室の危機である。しかるに叔父の十郎蔵人(行家)は国に報いる忠義を持たず、みだりに私怨によって私を陥れようとしている。近頃聞くところでは、蔵人は貴殿のもとに身を寄せているという。貴殿はこれをかばって疑わないというが、貴殿の真意がどうなのか計りかねる。もし二心がないのならば、蔵人を捕らえて送ってほしい。さもなくば、志水冠者(義高)をこちらに寄越してほしい、私の子として養おう。この二つのいずれにも応じないのであれば、貴殿と雌雄を決するほかない」と。義仲はまたこれを難詰した。小室忠兼は言った。「兵を避けて弱みを見せたのは、大きな功業を成し遂げられなくなることを恐れてのことです。今、頼朝の望みに従わなければ、東と北とで新たに争いが起こります。戦が始まれば、どうして平氏を討つ暇がありましょうか。将軍(義仲)に別に叛意がないのであれば、早々に御曹司(義高)を人質に出すのが良いでしょう」。今井兼平は言った。「亡き帯刀殿(義賢)は悪源太(義平)に殺され、すでに以前から確執の種が開かれています。佐殿(頼朝)もまた将軍に対する猜疑と防備を怠らないでしょう。誰が事の終わりを保証できましょうか。早く縁を絶つべきです」。義仲はついに忠兼の言に従い、義高を人質として送ることにし、こう返答した。「蔵人と貴殿の間に確執があるとは知らず、また通信して招き寄せたわけでもない。ただ一族のよしみを大切に思い、来て館で食を与えていただけである。敵がまだ除かれていないのに、どうしてあえて別の企てをしようか。蔵人は私にとっても叔父であり、義理として見捨てることはできない。ご命令に従い、子を送る。まだ幼くて分別もつかないが、どうか良く見てやってほしい」(注:『源平盛衰記』による)。義仲は兵士の妻たちをすべて呼び集めて言った。「右兵衛佐(頼朝)が私に人質を求めている。拒めば必ず攻めてくるだろう。そうなれば、そなたたちの夫は戦場で命を落とすことになる。それゆえ私は愛児を鎌倉へ割いて送ることにした」。妻たちは皆泣いて感謝した(注:『長門本平家物語』による)。寿永二年四月、右近衛中将平維盛(たいらのこれもり)らが大軍を挙げて攻めてきた。義仲は将の仁科守弘・林光明らを越前に派遣し、燧(ひうち)城に拠らせた。平泉寺の長吏斉明(さいめい)は配下千人を率いて味方についた。燧城は南は荒乳中山、北は柚尾木辺に連なり、東は越前の白峰に接し、西は三国港に至る、北陸道随一の要害であった。木や石を積んで日野川をせき止めたため、川の水があふれて道は海のようになり、敵軍は進めず、数日にわたって対峙した。斉明は「我が兵は少なく、最後まで持ちこたえられそうにない」と考え、矢文で敵軍に堤をひそかに切り崩す方法を教え、敵の兵を手引きした。敵軍は先を争ってこれを攻め、城は陥落した。敵軍は勝ちに乗じて、次々に諸城を陥落させた。五月、維盛は部将の越中前司平盛俊を般若野に駐屯させた。義仲は今井兼平に六千の兵を率いさせてこれを撃退させた。義仲は越後を発って越中に入り、五万の兵を得た。無動寺に至り、兵器を整え軍を整列させ、白山社に詣で、僧覚明(かくめい)に文を作らせて大勝を祈願し、進んで般若野に至った。義仲は将士に命じて言った。「敵は多く我が方は少ないので、平原広野では不利である。私はまず礪波(となみ)の北麓に陣を敷こうと思う。敵は必ず山中の猿ヶ馬場に兵をとどめ、我が軍の様子をうかがうだろう。私は兵を分けて南麓から出し、前後から挟み撃ちにすれば、勝てないはずがない」。そして北麓に陣を敷いた。維盛らは案の定、猿ヶ馬場に陣を敷いた。敵は兵を十万に分け、礪波・志雄の二道から並んで進み、越中に入ろうとした。義仲は今井兼平に言った。「横田河原の戦いでは、我らは三千の兵で敵の四万を破った。今、我が方は五万、敵は十万、一人で二人に当たる勘定になる。しかも敵軍は進んでくるうちに疲れ果てているので、こちらは楽な体勢で疲れた敵を待ち、一戦で破ることができる」。そこで兵を七隊に分け、行家らの諸将を分道してともに進ませた。自らは精兵三万を率い、小矢部川を渡って埴生に駐屯した。そばに神社があったので土地の者に尋ねると、「八幡社である」と答えた。ここでも覚明に文を作らせて戦勝を祈願させたところ、その時白い鳩が旗竿の上に飛んできた。義仲は馬から下りて拝伏した。黒坂に陣を進め、敵と百余歩の距離で対峙した(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。一日中矢を射合い、義仲は夜討ちをしかけようと考え、あえて時を延ばした。日が暮れると、樋口兼光に兵三千を率いさせ、太鼓や法螺貝を千ほど持たせて、中山からそれらを打ち鳴らしながら進ませた。今井兼平・根井幸親らは五部隊、合わせて一万余の兵で、黒坂を南北から囲んで進んだ。義仲は近くの村から牛四、五百頭を集めさせ、角に松明を縛りつけて追い立てて放った。兵士たちがその後ろから叫び声を上げて突撃し、山谷を震わせたので、敵軍は混乱した。争って南の谷へ逃げ込み、崖谷に身を投げて死んだ者は一万八千余人にのぼった。人馬が折り重なって死体は丘のようになった。敵将の参河守平知度(たいらのとものり)、右兵衛佐平為盛(たいらのためもり)、および館貞康の首級を得た。維盛はかろうじて逃げ延び、散り散りになった兵を収めて加賀へ走り、宮腰の佐良嶽に立てこもった。源行家は配下の兵を率いて志雄山に向かったが、戦いは不利であった。義仲はこれを聞き、自ら四万騎を率いて駆けつけた。敵将平盛俊は維盛の敗北を聞き、佐良嶽に逃げ込んだ。義仲は敗走する敵を追って加賀に至り、平岳野に陣を敷いた。両軍は兵馬を休め、対峙したまま戦わなかった。ちょうどその頃、義仲方の秣(まぐさ)取りが敵軍の斥候に捕らえられ、秣取りは偽って「今夜襲撃がある」と言った。敵は「大雨と暴風でどうしてそんなことができようか」と問うと、秣取りは「林の中に古い祠があり、その材木を取って松明にし、攻め口を照らそうとしているのだ」と答えた。敵軍は大いに恐れ、兵を収めて夜のうちに逃げ去った。安宅まで来ると川の水が大いに増しており、溺死した者は千余人にのぼった。夜が明けると、橋を断ち切って守りを固めた。六月、義仲は行家の軍と合流し、進んで安宅の渡しに至った。当時、水は濁って底が見えず、皆渡ることができずにいた。林光明が馬十頭を放って試したところ、水はわずかに馬の腹に達する程度であった。義仲は兵を指揮して川を渡らせ、篠原で大いに戦った。敵軍は敗走した。義仲はそのまま追撃して成合・並松まで至り、次々に敵を破って瀬尾兼康(せのおかねやす)および斉明らを捕らえた。敵は大いに崩れ、武器や輜重を捨てて、間道づたいに逃げ帰って京師に至った。義仲は斉明の裏切りを憎み、まもなくこれを斬った(注:『源平盛衰記』による)。瀬尾兼康は釈放したが、今井兼平が諫めて言った。「兼康の目つきは尋常でなく、殺しておかなければ必ず後の禍いとなります」。義仲は聞き入れなかった(注:『平家物語』による)。まもなく義仲・行家は京へ入ろうとし、東山道と北陸道の二方面から並んで進んだ。越前国府に至り、諸将と相談して言った。「聞くところによれば、比叡山の僧兵が険しい地に拠って備えを固めているという。これでは容易に京へ入ることができない。どうしたものか」。覚明が言った。「たとえ平氏が山法師たちを厚い利で誘ったとしても、三千の衆徒がすべて一心であるはずがありません。その中には我らに心を通わせる者も必ずいるはずです。牒状を送って誘いましょう」。義仲はこれに従った。近江の蒲生まで進み、山法師の返事を待った(注:『源平盛衰記』による。『保暦間記』も参照した)が、兵糧が尽きてしまった。百済寺から徴発し、米五百石を得た。義仲は喜び、村里五か所を与えて香華の資とした。延暦寺の僧幸明(こうみょう)は覚明と親しく、覚明を訪ねてきた。義仲は幸明に言った。「聞くところでは、山門の衆徒は平氏に味方し、我が義軍を拒もうとしているという。それゆえ先に衆徒に牒状を送り、味方につくか敵対するかの道理を諭したが、まだ承諾を得ていない。どうかそなたが急ぎ赴いて、私に代わって衆徒を説得してほしい。衆徒が我らに従うなら、山上に火を上げて合図としてほしい」。幸明は戻って義仲の意向を諭した。衆徒はことごとくこれに応じ、義仲は大いに喜んだ。七月、覚明を先導として湖を渡り山に登り、総持院に宿営した。平氏はこれを聞いて大いに恐れ、養和帝(安徳天皇)を奉じて西海へと落ち延びた。義仲はまた湖を渡り、篠原・野洲の兵を率いて瀬田から京師に入り、行家もまた宇治から到着した(注:『源平盛衰記』による)。
¶二人の将は蓮華王院で法皇に拝謁し、平氏追討の宣旨を賜った(注:『玉海』『吉記』『平家物語』『源平盛衰記』による)。詔により京師に義仲の邸宅が与えられた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。これより先、源頼朝は鎌倉におり、ほぼ関東を平定していた。諸国はこれに呼応し、平氏は日ごとに追い詰められていた。法皇が功績を論じたところ、頼朝が第一、義仲が第二とされ、義仲は従五位下に叙され、左馬頭に任じられて越後守となった(注:『玉海』による)。義仲はこれを喜ばず、伊予守に改めて任じられた(注:『百練抄』『源平盛衰記』による)。また昇殿を許された。法皇は平氏の旧領五百余か所を没収し、そのうち百四十か所を義仲に与えた。行家は将士への恩賞を求めたが、義仲はこれを聞き入れなかった。八月、法皇は養和帝(安徳天皇)が西海へ都落ちしたことを受け、新たな天皇の擁立を議論した。ある論者は「世が乱れているときは年長の君を立てるべきだ。故三条宮の子である北陸宮をこそ即位させるのがよい」と言った。北陸宮はかつて出家していたが、乱を避けて北国にいた。義兵が起こると、義仲はこれを奉じて京へ入っていた。ここに至り、義仲もまた北陸宮を帝位に即かせようとした。大蔵卿高階泰経を通じてこれを奏上させたが、法皇はもとより高倉帝の二人の皇子のいずれかを立てようと考えており、その奏上に逆らいがたく思いながらも、僧俊堯に命じて義仲の真意を探らせ、次のように諭させた。「国家の慣例では、正統を継ぎ祖法を守る者を貴ぶ。今、故院(高倉院)の皇子二人が現に在世しているのに、もし本宗を廃して庶孫に求めるならば、人も神も安んじないであろう。卿はこれに異議を唱えぬように」(注:『玉海』による)。義仲は改めて奏上して言った。「誰を立てるかという議論は極めて重いことで、私ごときが敢えて口出しすべきことではありません。しかし既にお尋ねをいただいた以上、どうして胸の内を明かさずにいられましょうか。かつて陛下が御位をお降りになった後、平氏がのさばり朝廷を侮ったため、故三条宮が義を唱えられました。その功業は成りませんでしたが、大義はすでに天下に示されております。今その御子を見捨てて別の方を立てるとなれば、義に馳せ参じた将士たちは何を頼みとすればよいのでしょうか」(注:『源平盛衰記』による)。法皇はこれを廷臣に議論させた(注:『玉海』による)。皆「義仲の奏上にも理はある。ただ北陸宮はかつて出家していたのだから、帝位に即くのはふさわしくない」と言った。しかし義仲の凶暴な威勢を恐れて決めかねた。占いの役人に命じ、高倉帝の二人の皇子と北陸宮について占わせたところ、三宮(高倉院第三皇子)が吉と出た。法皇は能姫丹波の言葉を容れ、四宮(高倉院第四皇子、後の後鳥羽天皇)に心を寄せていた。再び占わせると、四宮も吉と出て、三宮は吉凶相半ばし、北陸宮は凶と出たので、ついに四宮を立てることとなった。義仲は大いに怒って言った。「年齢からいえば北陸宮を立てるべきであり、占いからいえば三宮を立てるべきである。どうして四宮を立てることができようか。事既にここに至っては、故三条宮のために痛恨とせずにおれようか」(注:『玉海』『源平盛衰記』を参考にした)。まもなく義仲は次第に驕り高ぶるようになり、配下の兵は京師で好き放題に振る舞い、院の御領をはじめ公卿の荘園を損なわせ、民家の財産を略奪させたため、京中は騒然となった。法皇が頼朝を召そうとすると、義仲はこれを喜ばず、これを妨げようとした。頼朝は使者を送り、義仲が自分を討とうとしていると訴え、また自分は京へは入らない方が都合が良い旨を述べさせた。そこで法皇は義仲に上野・信濃の二国を与え、その掠奪暴虐を鎮めようとし、頼朝と義仲を和解させようとした。そしてその旨を頼朝に諭した。頼朝もまた東海・北陸・東山の三道に宣旨を下し、平氏が奪った国領や荘園を本来の持ち主に返させるよう求めた。勅はその求めに従い、命令に従わない者は頼朝が糺し処罰させることとした。しかし義仲を憚って、北陸道には宣旨を下さなかった(注:『玉海』による)。当時平氏は屋島に立てこもっており、行家がこれを討つことを求めると、法皇は許した。義仲は「行家は勇者は勇者ですが、たびたび敗北を喫しています。改めて人選をすべきです」と奏上した。法皇は改めて義仲に命じ(注:『源平盛衰記』による)、自ら御剣を手に取って義仲に賜った(注:『玉海』による)。義仲は京を発って播磨に至り、まず足利義清・高梨高信・海野幸広を派遣してこれ(平氏)を撃たせた。十月、義仲は播磨から備中に向かおうとし、瀬尾兼康を先導役とした。兼康は板倉に拠って防ぎ守った。義仲は大いに怒り、急いでこれを攻撃した(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。義仲が播磨に至ったことは『歴代皇紀』『一代要記』『百練抄』による)。閏十月、義清・高信・幸広らは平重衡らと水島で戦って敗死した(注:『源平盛衰記』による)。義仲は屋島を攻めようとしたが、ちょうど「頼朝が弟の義経に数万の兵を率いさせて京師に入らせた」と聞き、兵を引いて戻った。法皇は使者を遣わしてこれを止めようとしたが、義仲は詔に従わず、ついに京へ戻り義経に備えた(注:『源平盛衰記』には、義仲がまさに備中を発とうとしていた十一月二日、樋口兼光が京から行家に法皇の密旨として義仲討伐を告げたため、義仲が急ぎ軍を京へ戻したとある。この時平氏の一族は室津におり、行家は追討を口実に出陣したが実は義仲を避けたのだという。しかし本書によれば、義仲は閏月十五日に京へ入り、十一月に行家とともに追討の勅を受けたとされる。盛衰記の記述は誤りと思われるので採らない)。義仲は法皇に奏上して言った。「水島の戦いでは平氏が一時的に利を得ましたが、その勢いは長くは続きません。山陰道の兵士の多くが備中にいますので、これを防ぐには十分です。陛下におかれましてはこれ以上ご心配には及びません」。義仲は行家とひそかに謀り、法皇を奉じて北国へ向かおうとしたが、行家は従わず、かえってこれを密告した。法皇は驚いて法印静賢を遣わし、義仲を諭させて言った。「卿が朕を奉じてどこかへ連れて行こうとしていると聞く。また朕の命令によらず兵を挙げて関東へ向かおうとしているとも聞く。聞くところが事実であれば、卿の真意は何であるか分からない」。義仲は奏上して申し開きをした。「私には陛下に対する二つの恨みがございます。先に頼朝をお召しになったとき、私はこれを不可としましたが、私の言葉は聞き入れられませんでした。また東海・東山・北陸の諸道に宣旨を下し、『もしこの宣旨に背く者があれば、頼朝の命令に一切従って追討せよ』とされました。これは実に私の遺恨とするところです。私はただ関東へ赴いて頼朝との怨みを解こうとしているだけで、御輿を奉じて戦場に臨むようなことは断じてございません。陛下がどこからそのような流言をお聞きになったのか、私は甚だ恐れております。どうか勅を賜って頼朝討伐をお命じいただき、御教書を一通お与えください。それを東国の将士に示したく存じます。これが私の願いです」。静賢が去った後、義仲は行家がこの事を漏らしたのだと考え、法皇の御所に赴き、静賢および高階泰経の前で誓約書を差し出して奏上した。「私を讒言する者は必ず私の親族の中にいるはずです。どうかその者を見つけ出し、思う存分にしたく存じます」。法皇は慰めて諭した。「巷で聞いたという話は、卿の一党から出たものではない。朕はもとよりこれを信じてはおらぬ。心に懸けることはない」。義仲はさらに「頼朝への宣旨や御教書がもし陛下のお考えから出たものでないならば、それを取り仕切った者を調べて罰していただきたい」と奏上したが、聞き入れられなかった。義仲の兵士による略奪はますますひどくなり、民は苦しんだ。法皇もまたひそかに備えを固めた。十一月、法皇は主典代の景宗(注:景宗の姓は不明)を遣わして義仲を譴責させて言った。「卿はしきりに謀反はないと申し立てているが、証拠がすでに挙がっている。どうして身の潔白を証明するのか。先に西海への出陣を命じたのに、卿は源九郎(義経)への備えを口実にぐずぐずして出陣しない。よからぬ企みがあるのではないか。実にそのようなことがないのであれば、速やかに西海へ赴くように」。義仲は答えて言った。「讒言や誹謗がしきりに起こっておりますが、幸いにもお調べをいただいております。私には異心などなく、すでに誓約書でも明らかにしております。今さら何を申し上げましょうか。西征の命を承りながら未だ出陣しないのは、実は頼朝の代官が数万の兵を率いて京師に入ってくることを恐れているためです。もし彼らが京師に入らないようにしていただければ、すぐにでも西海へ赴くことができます」。法皇は義仲に重ねて勅を下して言った。「頼朝が献上するものがあり、そのために使者を京師に入らせるのであって、率いる兵も多いというのも他意はない。卿は疑うことのないように」。義仲は内心不満であったが、あえて逆らわなかった(注:『玉海』による)。法皇はまた検非違使平知康(たいらのともやす)を遣わし、配下の統制を諭させた。義仲は知康への応対がおごり高ぶり、言葉も無礼であった。義仲は知康をからかって言った。「都の子供らは、卿のことを鼓判官と呼んでいる。卿はまるで人に打たれる鼓のようなものではないか」。知康は憤り、京に戻って詳しくその様子を法皇に奏上し、ついに義仲討伐を勧めた。法皇は延暦寺座主・園城寺長吏に詔を下し、僧兵を召して法住寺殿を守らせ、知康に軍事を統括させた。義仲はこれを聞いて怒り、側近たちに言った。「私は真っ先に義兵を挙げ、逆臣を西海に追い払った。これはまたとない功績ではないか。それなのに何の罪があって、にわかに誅罰を受けようとしているのか。今、東西の道は寸断され、兵糧の運搬も続かない。私は五万の兵を擁して京師を鎮護しているが、朝廷は兵糧を給付してくれず、兵士は餓死寸前である。もし富裕な者の蓄えを奪い取らなければ、どうして兵を養えようか。また軍国において最も貴重なのは馬である。馬を痩せさせれば、将士も勇ましく戦えなくなる。そのため近郊の田の麦を刈って馬に飼わせている。兵士による略奪は、実に飢えと疲れから出たものであり、いまだかつて王公卿士の邸宅に押し入り財産を奪ったことはない。身分の貴賤こそ違えども、飢えと渇きの切実さは同じである。牛馬がいかに強くとも、食べ物がなければ役に立たない。事には権宜(臨機の処置)というものがあり、なぜこの点にばかりこだわるのか。これはすべて鼓判官の仕業である。私はこれから彼を討ち破りに行く。そなたたちも早く備えをするように」。樋口兼光・今井兼平は懸命に諫めて言った。「今、私的な確執によって至尊(法皇)に怨みを構えれば、神明は必ずこれを罰するでしょう。身を引いて朝廷に帰参し、知康を罪に問うて過ちを晴らすのが良いでしょう。今からでも遅くはございません。よくお考えください」。しかし義仲は性格が頑固で自分の考えを押し通す質で、望んだことは必ず成し遂げようとした。義仲は兼光らに言った。「私は信濃で兵を起こして以来、いまだかつて人に弱みを見せたことはない。たとえ至尊であろうとも、どうしておとなしく手をこまねいて制せられよう。もしそなたたちの言葉に従い、御所の下で罪を待てば、かえって鼓判官に討ち殺されるだけだ。義仲の生死はこの一戦で決する。そなたたちは、匹夫を敵とするより、国王を敵とする方を選べ」。そしてついに兵を挙げて反旗を翻した。また兵を七隊に分けて法住寺殿を包囲し、今井兼平に三百余騎を率いさせて瓦坂へ向かわせ、自らは四百余騎を率いて西門へ向かった。知康は塀に登って大声で罵った。義仲は怒り、風に乗じて火を放った。御殿や建物はことごとく焼け野原となった。知康は矢一本も射ずに逃げ去った。官軍は大敗し、公卿や宮人は兵士たちに辱めを受けた。座主明雲(みょううん)、および長吏円慧法親王(えんねほっしんのう)もまた乱兵に射殺された。そして帝は間院殿に移され、法皇は摂政藤原基通の邸宅に移され、公卿たちは幽閉された。義仲は望みを遂げると、将士に大言壮語して言った。「天下のことは私の思うがままだ。そなたたちも公卿の位が欲しければ、それぞれ望みどおりにしてやろう。私が帝になろうかとも思うが、帝は幼い子供であり、私は今さら子供になるわけにはいかない。院になろうかとも思うが、院は老いた法師であり、これもまた法師になりたくはない。ただ摂政を見るに、年齢も釣り合い、体裁もふさわしいので、私はその地位に就きたいと思う。今後、そなたたちは私のことを摂政殿と呼ぶように」。今井兼平が諫めて言った。「そもそも摂政とは大織冠(藤原鎌足)の子孫が代々世襲してきた職です。他の姓の者が任じられたことは決してありません」(注:『源平盛衰記』による)。義仲は「それならば判官代になろう」と言ったが、兼平は「それは良い官職ではありません」と言った(注:『長門本平家物語』による)。義仲はしばらく思案した末に言った。「それならば私は院の御厩別当になろう。良馬を思う存分乗り回せるのは、なんと痛快なことか」。そして自ら別当になった(注:『源平盛衰記』による)。義仲は幼い頃から北の辺境に身を潜めていたため、容姿こそ立派であったが、振る舞いは粗野であった。当時の人々はこのことを語り草にして笑いものにした(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。前関白藤原基房(もとふさ)には格別美しい娘がおり、基房はこれを溺愛して女御か皇后にしようと期していたが、義仲はこれを無理に娶ってしまった(注:『源平盛衰記』による)。そして妻の兄である権大納言師家(もろいえ)を摂政にしようとしたが、大臣に欠員がなかったため、基房と謀って藤原基通の摂政の地位を奪い、藤原実定を借りて内大臣とし、師家を内大臣兼摂政とした。そして中納言藤原朝方、参議藤原基家、太宰大弐藤原実清、大蔵卿高階泰経、参議平親宗、右近衛中将源雅賢、右馬頭源資時、肥前守源康綱、伊豆守源光遠、兵庫頭藤原章綱、越中守平親家、出雲守藤原朝経、壱岐守平知親、能登守高階隆経、若狭守源政家、備中守源資定、左衛門尉平知康ら、文武四十余人の官職を停止した(注:『玉海』『源平盛衰記』による)。基房は事あるごとに諭し、禍福を説いた。義仲は次第に凶暴さを収め、罪に問うていた廷臣たちへの監禁を緩め、法皇を六条東洞院の邸宅に移した(注:『源平盛衰記』による)。法皇もまた義仲に平氏の旧領すべてを総領させ、その心を喜ばせようとした(注:『吉記』『百練抄』による)。まもなく義仲は左馬頭を辞し、従五位上に叙された(注:『玉海』『東鑑』による)。頼朝は義仲の驕り高ぶった振る舞いを聞き、弟の範頼・義経に大軍を発してこれを討たせた(注:『源平盛衰記』による)。伊勢に至り、東海道・東山道の二道で荘園を本来の持ち主に返さない者を糾察すると宣言した。これより先、国中の人々は皆義仲の兵士の横暴に苦しんでおり、鈴鹿山に拠って頼朝に呼応し、義仲・行家の兵と対峙していたので、義仲はまた兵を派遣してこれを撃たせた(注:『玉海』による)。この頃、「室山・水島の戦いで平氏が連勝し、京師に攻め入ろうとしている」という流言が飛んだ。義仲は「前後から敵を受けては、私の事業はもはや成し遂げられない」と考え、平氏と講和して共に頼朝を討とうとした。宗盛および二位尼(平時子)に書を送り、その一族の娘を妻に迎えたいと請うたが、宗盛はこれを聞き入れなかった(注:『長門本平家物語』『源平盛衰記』による。『玉海』には、義仲が一尺の鏡を鋳造し、八幡神の御神体を模して、その背に誓約の文を鋳込んで送り、和親を求めたとあるが、当時様々な浮説が乱れ飛んでいたため、本書は聞いたところに従って記したのであり、必ずしも確実ではない。よってこれは採らない)。
¶寿永三年正月、義仲は従四位下に叙され(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』では正五位下とする)、まもなく征夷大将軍に任じられた(注:『東鑑』『職原抄』『源平盛衰記』による。『玉海』『百練抄』では征夷を征東とし、『職原抄』『盛衰記』には「大」の字がない)。法皇は義仲の暴虐に厭き、表向きは優遇するふりをしながら、内心では義経らの力を借りてこれを除こうと考えており、そのためこの官職を授けたのであった。義仲はこれに気づかず、大いに得意になった。宗盛が和睦を求めると、法皇はこれを義仲らに議論させたが、義仲は不可とした。まもなく範頼・義経が大軍を率いて宇治・瀬田から並んで攻め寄せ、平氏もまた鎮西をほぼ制圧し、四国を経て福原に戻り、大挙して京師に攻め入ろうとしていると聞き、義仲は慌てふためいた。この月十七日、行家が義仲に叛いて河内の石川城に拠った。義仲は樋口兼光に五百余騎を率いさせて撃破し、首級七十余を得た。東国の軍勢が次第に迫ってきたので、義仲は今井兼平・源義弘に五百余騎を率いさせて瀬田へ向かわせ、根井幸親・楯親忠に三百余騎を率いさせて宇治へ向かわせ、橋を落として守らせた。二十日、東国の軍勢はすでに川を渡っており、幸親らは支えきれずに兵を引いて戻った(注:『源平盛衰記』による)。義仲が分けて派遣した諸将はまだ戻っておらず、兵は少なく勢いも孤立していた(注:『玉海』による)。あらかじめ軍が敗れた場合には法皇を奉じて北陸へ逃れる算段をしており(注:北陸については『玉海』による。本書には西海とあるが誤りである)、屈強な兵二十人を選んで自ら供とし、西洞院の邸宅で法皇を守らせていた。ここに至り、法皇に奏上して言った。「東国の賊がすでに迫っております。醍醐寺へお避けになるのがよろしいでしょう」。法皇はこれに従わなかったため、義仲は階下まで至り、剣に手をかけ目をいからせて、しきりに行幸を促した。宮中の者は皆顔色を失った。法皇はやむを得ず御所を出ようとした。その時、義仲の兵士が馳せてきて、敵が木幡・伏見まで来ていると報告した。義仲はそこで百余騎を率いて出陣した。幸親・親忠の散った兵が集まってきて、その勢はようやく三百余騎になった。東国の軍勢はすでに七条・八条・法性寺柳原に満ちあふれ、旗指物が空を覆っていた。義仲はこれを望み見て、従う兵士たちに言った。「私の命はもはや今日限りだ。逃げたい者は去るがよい」。将士たちは皆言った。「人は誰しも死なぬ者はおりません。禄を食む者は、その事に殉じて死ぬべきです」。義仲は喜び、自ら将士を督励して決戦に臨んだ。畠山重忠らに当たり、縦横に敵陣へ突入しては出るということを何度も繰り返した。幸親・親忠らの精鋭百余騎は、ことごとく戦死した。義経は三百余騎の兵を放って激しく攻め立て、義仲はついに大敗し、わずか七、八十騎を率いて法皇の御所へ向かった。近衛少将藤原成経は門を閉じて入れなかった。義経は猛者十一騎を率いて次々に矢を射た。義仲はまたも敗走した。義経の兵はこれを追撃した。義仲は戦いながら逃げ、三条河原に至った。勅使河原有直とその弟有則が三百余騎を率いて追い迫り、大声で叫んで言った。「北陸道の朝日将軍(注:『平家物語』には、義仲が左馬頭に任じられたとき朝日将軍の院宣を賜ったとあるが、諸書に確たる根拠はなく、おそらく義仲の自称であろう)、どうして敵に背を見せるのか。それでは源氏一門の名声を地に落とすことになりはしないか」。義仲は馬を返して奮戦し、有直の兵は崩れ散り、有直も傷を負って逃げ去ったが、東国の兵は続々と追ってきて攻めた。義仲に従う騎馬武者たちは力の限り奮戦し、死者も多く出た。ここに至って残るはわずか十三騎となった。義仲は瀬田へ向かおうとし、三条白河を通った。畠山重忠が川を隔てて遠くから呼びかけた。義仲は馬を返して矢戦をした。まもなく範頼が三万騎を率いて瀬田から進んできた。今井兼平は国分寺に陣取っていたが、戦って勝てず、源義弘は戦死した。兼平は兵を引いて戻る途中、粟津で義仲に出会った。義仲は喜び、兼平の手を握って言った。「私は先ほど京師で自害しようと思ったが、そなたに一目会いたいと思い、ここまで難儀してやってきた。今、兵は敗れ力は尽き、身にも重傷を負っている。捕虜になるのは恥辱であるから、自害するほかない」。兼平は言った。「名のある将は死を忍んで恥をすすぐものです。今、頼朝は東国に拠り、平氏は西海におり、将軍(義仲)が北国にお戻りになれば、天下は三分され、鼎の脚のように並び立つことになります。将軍はまず越前へお戻りください。私、兼平がここに留まって敵を防ぎます」。そして散った兵を集め、四、五百騎を得た。まもなく東国の軍勢が大挙して押し寄せ、義仲配下の二河頼重は三十騎でこれに当たり、力戦して死んだ。一条忠頼らが次々に攻めかかってきた。義仲は残った兵を励まし、包囲を突破すること数度に及んだ。範頼が兵を進めて挟み撃ちにしたため、義仲の兵はついに戦い尽くして全滅し、従う者はただ兼平一人だけとなった。義仲は兼平に言った。「私はいつも薄い鎧を着けて非常に軽く感じていたが、今日はさらに重く感じる」。兼平は言った。「鎧がどうして急に重くなりましょうか。将軍の鋭気が挫け、これほど気弱になられたのではありませんか」。そして粟津の松原を指さして言った。「将軍はあそこまで行って自害なさってください。私、兼平が追手を防ぎます」。義仲は「私はそなたと共に死にたい」と言い、馬に鞭打って共に進もうとした。兼平は義仲の馬の轡を取って諫めて言った。「将軍は体が疲れ果て、馬も弱っています。もし戦の最中に命を落とせば、恥辱となりはしないでしょうか」。義仲は単騎で前方の林に向かって馬を走らせた。日は暮れかかり、水田を横切ろうとした。馬が疲れ果てて動かなくなり、鞭を打っても進まなかった。義仲は窮地に陥った。石田為久(いしだためひさ)が矢を放って義仲の顔面を射抜き、義仲は目が眩んで馬のたてがみに突っ伏し、追ってきた騎馬武者に討たれた(注:『源平盛衰記』による)。時に年三十一であった(注:『東鑑』『八坂本平家物語』による。『源平盛衰記』は三十七とするが誤りである)。義経は義仲の首を京師に送り(注:『源平盛衰記』『百練抄』による)、髻に赤い帛を結び、「賊源義仲」と書いて首を剣に刺し(注:『源平盛衰記』による)、東の獄門の樗(おうち)の木にさらした(注:『源平盛衰記』『百練抄』による)。義仲には二人の子があった(注:『長門本平家物語』には義高・力寿・鶴王・余名王の四子が載っているが、他の書には見当たらない)。義高と義宗である。
¶義高(よしたか)は志水冠者(しみずかじゃ)と称し(注:『尊卑分脈』による。名は『東鑑』による。本書には義基とあるが誤り)、鎌倉に人質として送られた。義仲は「そなたはよく頼朝に仕え、疎んじられ排斥されることのないようにせよ。自らの力で身を立てることができれば、一方の任務を期待できよう」と戒めた。そして頼朝の使者に付き添わせて送った。義高の家臣海野幸氏(うんののゆきうじ、注:名は『東鑑』による。本書には行氏とある)は義高と同い年であったため、特に供をするよう命じられた(注:『源平盛衰記』による)。頼朝は自分の娘を義高の妻とした。義仲が誅殺されるに及び、頼朝は義高を殺そうとしたが、侍女がこれを察知して義高の妻に告げた。そのため義高は屋敷を抜け出して逃げることができた。義高は双六を好み、幸氏がその相手をしていた。その夜、幸氏は義高の寝所に入り、夜具をかぶって寝たふりをした。翌日一人で双六をしているように見せかけ、外の者には気づかれなかった。まもなく頼朝は義高が逃げたことを聞いて大いに怒り、堀親家に命じて追わせた。入間川原に至って捕らえ、これを斬った(注:『東鑑』による)。義宗(よしむね)は木曾四郎と称した(注:『尊卑分脈』による)。
樋口兼光
¶樋口兼光(ひぐちかねみつ)は姓を中原といい、信濃権守中原兼遠の子で、樋口二郎と称した(注:『源平盛衰記』による)。弟の兼平、根井幸親、楯親忠とともに義仲に仕え、義仲の爪牙となり、世に木曾四天王と称された(注:『平家物語』による。『源平盛衰記』では楯親忠を高梨忠直とする)。礪波の戦いでは、兼光は三千の兵を率いて篠原から平氏軍を襲撃してこれを破った。平氏は退いて篠原に立てこもった。義仲は追撃して安宅に至り、遠く敵陣を望み見て兼光に「兵は何人ほどか」と尋ねた。兼光は「三百に過ぎません」と答えた。義仲は「その将は誰か」と尋ねると、「畠山重能です」と答えた。義仲は「それは関東の精鋭である。そなたが先鋒となってこれを打ち破れ」と言った。兼光は兵百五十を選んで魚鱗の陣を敷き、まっすぐ敵陣に突入して敵二百余人を殺したが、自らも百騎を失い、両軍は引き分けとなった(注:『源平盛衰記』による。諸本の『平家物語』には、今井兼平・落合兼行が五百騎を率いて先陣を切り、畠山重能・小山有重らと決戦して両軍とも死傷者が多く、重能は散った兵を収めて退き、兼光は兼行とともに三百騎を率いて高橋長綱と戦いこれを斬ったとある。どちらが正しいかは分からない)。源行家が義仲に背いて石川城に拠ると(注:『平家物語』では長野城とする)、兼光は五百の兵を率いてこれを攻め落とし、首級七十余を得た。行家は身一つで逃げ、兼光は紀伊まで追った。まもなく義仲の軍が不利になったので、捕虜を解放し兵をまとめて急ぎ京師へ戻った。鳥羽の秋山まで来ると、従う兵は次第に逃げ去り、従者はわずか三十騎となった。東国軍は兼光が来ると聞き、朱雀の作道でこれを迎え撃った。兼光が四塚まで来ると、児玉党は兼光と姻戚関係にあったため、降伏を勧め、兼光はついに降伏した。児玉党は源範頼・源義経のもとに赴き、兼光の死罪を許すよう願い出た。かつて法住寺の乱のとき、兼光は兵を放って公卿や宮人を数多く辱めていた。そのため宮人たちは口をそろえて「兼光は義仲の猛将である。生かしておけば必ず後の禍いとなる」と言った。朝廷の議論はついに死罪と決した。義仲・義平(注:原文のまま。義高か)の首が京師を引き回された際、兼光をその後ろに従わせ、翌日朱雀で斬った(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。弟は兼平。
今井兼平
¶今井兼平(いまいかねひら)。兼平は今井四郎と称した。燧城が守りきれなくなると、兵六千を率いて越中に入り、平盛俊と般若野で遭遇して交戦した。朝から夕暮れまで戦い、これを大いに破って二千余人を斬った。義仲が法住寺殿を攻めたとき、兼平は三百余騎を率いて瓦坂から進み、御殿に火を放ち(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)、自ら主水正清原近業(きよはらのちかなり)を射殺した(注:『八坂本平家物語』では近業を親業とし、如白本では友業とするが、ここでは『玉海』『源平盛衰記』に従う)。東国の軍勢が攻めてきたので、源義弘とともに五百余騎を率いて瀬田でこれを防ぎ、橋を落として守った。稲毛重成・榛谷重朝と戦い、義弘は戦死した。兼平は宇治がすでに破られ、敵が京師に入ったと聞き、残った数百の兵を率いて引き返した(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。粟津で義仲に出会い、散った兵が次第に集まって四、五百騎ほどになった。さらに東国の軍と戦い、義仲の兵はほとんど死傷し尽くした。兼平は義仲に自害を勧め、自らは単騎で追手を防いだ。義仲の死を見届けると、大声で叫んで言った。「私は今井四郎兼平である」。そして敵陣に突入して戦った。人々はその勇猛さを恐れて近づく者がなかった。矢筒を見るとまだ八本の矢が残っていたので、これを射て八騎を倒し、さらに大声で叫んで言った。「日本無双の勇士が、今まさに自害する。そなたたちはこれを見て手本とせよ」。そして太刀の切っ先をくわえ、馬から身を投げて死んだ(注:『源平盛衰記』による)。
今井鞆絵
¶今井鞆絵(いまいともえ)。兼平の妹鞆絵(ともえ)は美しく勇猛で、武芸に優れ、義仲の寵愛を受けていた。戦のたびに一部隊を任され、北国の戦いではどこへ行っても功績を挙げた。義仲が敗れ、従う騎馬武者がわずか十三人となったとき、鞆絵もその中にいた。東国の兵が追撃してくると、鞆絵は激しく防ぎ戦い、東国の兵はたじろいだ。義仲が四宮河原に至ったとき、従う騎馬はわずか七人となったが、鞆絵はまだそこにいた。遠江の人内田家吉(注:『源平盛衰記』による。諸本の『平家物語』では御田師重、如白本では恩田為重とする)は自ら六十人力を称し、鞆絵と馬を並べて組み合ったが、鞆絵はたちまちその首を斬り、義仲に見せに持っていった。義仲は憐れんで言った。「惜しい勇士が、一人の女に討たれたものだ。私もまた誰の手に死ぬか分からない。後の世の人はきっと『義仲は死に臨んでもなお女を連れていた。それではせっかくの名声を汚すだけだ』と言うだろう。そなたはここから立ち去るがよい」。鞆絵は強く同行を願ったが、義仲は懇ろに慰め諭した。鞆絵は嗚咽しながら国へ帰った。時に年二十八であった(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』も参考にした)。後に尼となり、越後の友杉に住んだという(注:『長門本平家物語』による。『源平盛衰記』には、後に頼朝が鞆絵の勇猛を聞いて鎌倉に召し、森五郎に嫁がせようとしたが、鞆絵は死を決していた。和田義盛が妻として乞い受け男子を生んだ、これがいわゆる朝夷名三郎義秀である。和田氏が敗れると、鞆絵はひそかに越中に逃れ、石黒氏を頼って尼になり、九十一歳で世を去ったとある。しかし『東鑑』によれば和田氏が滅んだのは保元元年で、その時義秀は三十八歳であったという。今、元暦元年の義仲敗死の年を基準に逆算すると、義秀の生年はその九年前ということになり、辻褄が合わないため、この説は採らない)。
根井幸親
¶根井幸親(ねのいゆきちか)は姓を滋野といい、左衛門尉滋野国親の子である。根井小弥太と称した(注:『滋野系図』による)。義仲が初めて兵を起こしたとき、平氏は中原兼遠を呼び出して責めた。兼遠は偽って誓約書を差し出し、義仲を捕らえて送ると約束して戻ったが、その誓いに背きたくはなかった。そこで義仲を幸親に託し、時勢を見て動くようにさせた。幸親はこれを承知し、ひそかに指示を出して、本国と近隣の兵を招いたところ、味方につく者が日ごとに増えた(注:『源平盛衰記』による)。養和元年、幸親は城長茂の軍を横田川原で破った(注:『長門本平家物語』による)。まもなく平通盛が攻めてくると、義仲はこれを迎え撃ち、幸親は先鋒となって越前の水津でこれを破った(注:『東鑑』『百練抄』による)。礪波の戦いでは、二千の兵を率いて弥勒山に登り、諸将とともに敵を挟み撃ちにして大いに破り、敗走する敵を追って加賀に至った。幸親は二百五十騎を率いて飛騨景高の五百騎に当たり、激しく戦って両陣とも死傷者はほとんど出尽くした。幸親は景高の馬を射て、景高は馬から落ちた。幸親もまた馬から下り、白兵戦となった。景高の刀が折れると、幸親は「人の危難に乗じるのは勇ではない」と考え、自らも刀を投げ捨てて組み合い、ついに景高を討ち取った。義仲が法住寺殿を攻めたとき、幸親は円慧法親王を射殺した。東国の軍が京師に入ると、幸親は子の親忠とともに三百余騎を率いて宇治へ向かったが、戦いは不利で兵を引いて退いた。東国の兵がこれを追い、幸親は戦いながら退いた。河口源三と船越小二郎が並んで幸親に迫ると、幸親は左右の手を広げてこれを迎え撃った。源三と小二郎は馬を進めて左右から幸親を抱え込もうとしたので、幸親は二人を脇に挟みつけ、小二郎の帯を引いて投げ、泥沼に投げ込んで死なせた。源三は鞍にしがみついて動かなかったので、幸親は馬もろとも共に身を投げて死なせた。東国の兵はたじろいで、あえて進もうとする者はいなかった。幸親はそこで散った兵を収めて京師へ戻った。六条河原で義仲に出会い、東国の兵と大いに戦って、ついに陣中で戦死した(注:『源平盛衰記』による)。
¶子の親忠(ちかただ)は楯六郎と称した(注:『滋野系図』『源平盛衰記』による)。義仲に従ってたびたび戦功を挙げ、幸親とともに六条河原で戦死した(注:『源平盛衰記』による)。
浅原為頼
¶浅原為頼(あさはらためより、注:浅は朝とも書く)は八郎と称し、甲斐の人で、小笠原氏の支族である。容貌は堂々として腕力があり、強弓を引くことに優れていた。生まれつき無頼で、家業に従事せず、常に諸国で徒党を集めて群盗となり、民間はこれに大いに苦しめられていた。朝廷は所在の役人に命じて捕らえさせようとしたが、捕らえることができなかった(注:『保暦間記』による)。正応三年の春、為頼はひそかに京師に至った。夜、二人の子とともに甲冑をつけて禁中に馬で乗り入れ(注:『歴代皇紀』による)、女嬬(女官)に「主上はどちらに休んでおられるか」と尋ねた。女嬬は偽って「御病気でお休みです」と答えた。さらに「寝殿はどちらか」と尋ねると、「南殿の丑寅の隅です」と答えた。為頼は言われた通りに入っていった。女嬬は急いで内に入り、長姫を通じて変事を告げた。当時帝は実際には中宮の御所におられたので、婦人の服を着て春日殿へ避難した。宮人の中には宝器を持って帝に従う者もあり、皇太子を抱いて常磐井殿に避難する者もあった(注:『増鏡』による)。為頼はすでに寝殿に入っており、中宮の衛士景宗(注:景宗の姓は不明)が格闘して傷を負った。二条京極の篝屋の兵五十余人が外から入り、門を押し破って追いかけた。為頼は逃れられないと悟り、二人の子とともに紫宸殿に至り、それぞれ腹を切って死んだ。三人の遺骸をまとめて六波羅へ送った(注:『増鏡』『島津家・今川家本太平記』による)。当時射た矢を検めたところ、太政大臣を討つと為頼の名で六本刻まれていた(注:『保暦間記』による)。また為頼が帯びていた刀は、もと参議藤原実盛の家に伝わる宝刀で、名を鯰尾といった。実盛父子はこの一件に連座して捕らえられた(注:『増鏡』『保暦間記』『島津家・今川家本太平記』『歴代皇紀』による)。そもそも伏見帝が即位したとき、亀山上皇は後嵯峨帝の遺詔にかなわないとしてこれを怒っていた(注:『増鏡』による)。為頼が禁中を犯したことは、世間では上皇がそうさせたのだと噂された。権大納言藤原公衡は後深草帝に奏上し、上皇を六波羅に遷すよう請うたが、聞き入れられなかった。そこで伏見帝の詔を偽って作り、罪を上皇に帰そうとした。そこで上皇は誓約書を作って北条時宗に与え、自らの潔白を証明した。この一件はこうして解決した(注:『増鏡』『保暦間記』『島津家・今川家本太平記』による)。
藤原公宗
¶藤原公宗(ふじわらのきんむね)は、内大臣藤原実衡の子である。正中二年、参議に任じられ、左近衛中将を兼ねた。元徳二年、次第に昇進して権大納言となり、正二位に叙された(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。承久の乱のとき、先祖の某公経(きんつね)が北条義時と内応し、義時はこれに深く恩義を感じていた。そのため藤原家は代々鎌倉と結びつき、互いに支え合って、その勢いは朝野を圧倒し、朝廷中で比肩する者がなく、后妃も多くこの家から出た。北条高時が誅殺されて以来、公宗は内心穏やかでなく、常に北条氏の復興を願っていた。高時の弟泰家(やすいえ)をかくまい、日夜共に謀反を企てていた。家臣の三善文衡(みよしのぶんこう)は公宗を説いて言った。「国の興亡を知ろうと思えば、政治の善悪を観察するのが一番です。政治の善悪を知ろうと思えば、賢臣が用いられているか退けられているかを見るのが一番です。今、朝廷に立って節義を守っている者は、ただ藤原藤房(ふじふさ)一人だけです。彼は諫言が聞き入れられず、身を引いて姿を消しました。時勢のほどが知れましょう。公はどうして速やかに旧臣を召し集めて、鎌倉の復興を図らないのですか」。公宗はそこで泰家に京師で乱を起こさせようと謀った。高時の子時行(ときゆき)は関東で兵を挙げ、名越時兼は北国で兵を挙げた。建武二年、ひそかに帝を弑逆しようと図り、北山の邸宅に浴室を造り、床下に多くの刃を仕込み、仕掛けを設けて帝を陥れられるようにした。これが完成すると、帝を招いて遊宴を催し、唐の華清宮の行幸になぞらえようとした。帝はこれを許した。その夜、帝は夢の中で、神泉苑からやってきた婦人が「前に虎狼あり、後に雄羆あり」と言うのを見た。帝は目覚めてこれを怪しんだ。北山への行幸の途中、神泉苑を過ぎるとき池の神に祈ったところ、水が俄かに沸き立った。帝はますますこれを怪しみ、車を止めて進まなかった。そこへ公宗の弟公重(きんしげ)が急を告げに駆けつけたので、車はすぐに引き返した。帝は左近衛中将源定平、および結城親光・名和長年に勅を下し、兵を率いて公宗とその弟俊季(としすえ)を捕らえさせた。俊季は逃げ延びたが、定平らは公宗を捕らえた。公宗は泣いて言った。「我が家は代々深いご寵愛をいただき、かたじけなくも姻戚に連なる身。どうして謀反などという不満を抱きましょうか。願わくは我が家を妬み憎む者が仕組んだことでございましょう」。帝は勅して「定平の邸宅に幽閉せよ」と命じた。親光に命じて三善文衡を拷問させると、三日目に白状したので、六条河原で斬った。帝は大臣を処刑することを望まず、公宗を出雲へ流すこととした。出発に臨み、名和長年らはついに公宗を誅殺し、あわせて外戚の右兵衛佐藤原氏光も斬った(注:『太平記』による。氏光を斬ったことは天正本による)。当時、公宗の妻は身ごもっており、数か月後に出産して、仁和寺のそばに身を隠していた。帝は定平に命じてその居所を捜させた。侍女の春日局が出てきて使者に応対し、偽って「奥方は思い悩まれるあまり、ついに流産され、生まれた子は育ちませんでした」と答えた。そしてこう和歌を詠んで誓った。「偽りを、糾の森に、置く露の、消しにつけて、濡るる袖かな」。帝はその言葉を憐れみ、そのまま不問に付した。この子は後に成長して実俊(さねとし)と名乗り(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『太平記』による)、後光厳院に仕え、官位は右大臣にまで至った(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。公宗は琵琶の演奏に優れていたが、謀反を企てていた頃、北野社に七日間参籠して祈願し、たまたま「玉樹」の曲を奏でた。木工頭孝重(注:姓は不明)はこれを聞いて言った。「玉樹とは亡国の音である。しかもその弾き方には、殺気立った音があまりに多い」。まもなく果たして事は敗れたという(注:『太平記』による)。