卷之一百六十一 列傳第八十八

城長茂、遠藤盛遠、平知康

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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城長茂

城長茂(じょうのながもち)は、初名を資職(すけもと)といい、四郎と称した(注:『長門本平家物語』による。諸書では長茂を勇用と記すものもあり、また永茂・資茂・助茂とも書く。四郎も二郎と書かれることがある)。長茂は鎮守府将軍・平維茂(たいらのこれもち)の子孫である。維茂の子である繁茂(しげもち)は出羽介(でわのすけ)となって秋田城(あきたじょう)を守り、その子孫は「城」を氏(うじ)とするようになった。長茂の父は久郎資国(きゅうろうすけくに)といい(注:『平氏系図』による)、世に「鬼九郎(おにのくろう)」と呼ばれた(注:『長門本平家物語』『源平盛衰記』による)。母は清原武衡(きよはらのたけひら)の娘である。長茂は身の丈七尺、容貌は堂々として立派であったという(注:『吾妻鏡』による)。代々越後(えちご)に住み、その国の豪族として、国人たちからは「白河御館(しらかわのおんたち)」と呼ばれていた(注:『玉葉』による)。兄は太郎資長(たろうすけなが)といった(注:『玉葉』『吉記』『長門本平家物語』による。資長は助長・資永とも書かれ、また資職・資元と書く例もあるが、おそらく誤りであろう)。

治承四年、源義仲(みなもとのよしなか)が信濃(しなの)で挙兵すると、資長は朝廷に「甲斐(かい)・信濃を討ち平らげるにあたっては、私自身の手勢のみで事にあたりたく、他人の力を借りるつもりはございません」と奏上した。十二月、朝廷は資長を越後守に任じ、義仲討伐を命じた。翌年二月、任命の辞令が越後に届くと、資長はこれを拝命し、ただちに五千の兵を発して信濃へ向かおうとした。ところがその途上で中風(卒中)を患い、亡くなってしまった。長茂はこれを深く悲しみ、兄の志を継いで義仲討伐を果たそうと決意した。

六月(注:本書「養和元年六月三日」の条には「二月二十五日、長茂は筑摩川で敗れた」とあるが、この記述は六月の条の下に置かれている。しかし二月二十五日は実は兄資長が没した月日であり、してみるとこれは本来資長についての記述であって、その本文が脱落したものではないかと疑われる。しかし今となっては確かめようがない。ここでは改めて本書「寿永二年三月」の条、および『帝王編年記』『玉葉』『吉記』『一代要記』『歴代皇紀』『皇帝記抄』によって年月を訂正した)、長茂は越後・出羽(でわ)の兵六万を招集し、三隊に分けて信濃へ向かわせた。浜小平太(はまのこへいた)らに兵一万を率いさせて筑摩越(ちくまごえ)へ向かわせ、津張宗親(つばりのむねちか、一に「津破」とも書く)には兵一万を率いて殖田越(うえだごえ)へ向かわせた。長茂自身は四万の兵を率いて信濃に進み、義仲と横田河原(よこたがわら)で戦った。しかし長茂軍は大敗し、長茂は単身で越後へ逃げ帰り、国府(こくふ)にこもって守りを固めた。義仲はすぐさま追ってきて、越後の国人の多くがこれに降った。長茂は形勢を支えきれず、ついに会津(あいづ)へと逃れた(注:『長門本平家物語』による。『吾妻鏡』には、養和元年八月十三日、平姿長〈すけなが〉が宣旨により源義仲を討ったが、九月三日に急病で没したとある。また四郎永用(初名資茂)が兄資元の跡を継いで義仲を討ち、寿永元年十月九日に筑摩川で敗れたとも記す。『平家物語』には、養和元年二月一日に助長を越後守として義仲討伐にあたらせたが、六月十六日、信濃へ出陣しようとした夜に急病で没したとある。また、寿永元年五月二十四日に助茂を越後守としたところ、助茂は「兄助長が死んだ直後のこの任命は不吉です」と辞退を願い出たが許されず、そのため名を長茂と改めたとも記す。そして九月二日、横田河原で戦いに敗れたとする。『源平盛衰記』には、城太郎資職が名を資永と改め、二郎資茂が名を永茂と改めたとある。養和元年六月二十五日、資永は勅命により義仲を横田河原で討とうとしたが敗れ、出羽金沢(かなざわ)へ逃走した。八月二十五日、朝廷は資永を越後守として義仲討伐にあたらせたが、九月三日、いよいよ出陣しようとする矢先に急病で没した。永茂はこれを六波羅(ろくはら)に報告し、そのため九月二十六日、平通盛(たいらのみちもり)らに援軍を出すよう命が下ったという。諸書の記述にはこのような食い違いがあり、ここに併せ記して後の考証に備える)。

八月、朝廷は長茂を越後守に任じ、これにも義仲追討を命じた(注:『玉葉』『吉記』『百錬抄』『長門本平家物語』による。『吾妻鏡』には養和元年八月十三日、城四郎資長を越後守としたとあるが、四郎とは長茂のことであって資長ではない。諸書はいずれも長茂が八月十五日に越後守に任じられたとしており、してみると『吾妻鏡』は長茂の事跡を誤って資長のこととしたものと思われる)。しかしそのころには越後はことごとく義仲に切り取られており、長茂はついに越後の国務を執ることができなかった。

やがて平氏が滅びると、源頼朝(みなもとのよりとも)は長茂の身柄を捜し求めて捕らえ、梶原景時(かじわらのかげとき)の屋敷に幽閉した。頼朝は僧の定任(じょうにん)と親しく、長茂もまたこの定任と交誼を結んでいた。そのため定任はしばしば長茂を頼朝に推挙し、頼朝も長茂を赦して用いようという気になり、御簾の内に座して長茂を召し出した。居並ぶ重臣たちが左右に列座するなか、長茂には卑屈な様子など少しもなく、進み出て上座にのぼり、頼朝に背を向けて座った。頼朝はついに一言も発しなかった。定任は恥じ入り恐れをなし、景時が長茂を叱りつけて退出させた。長茂は昂然と席を立って出て行った。

文治五年、頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討伐した際、景時は頼朝に「囚われの身の長茂は勇猛さにかけては並ぶ者がありません。将軍にはぜひこれをお用いいただきたい」と進言した。頼朝はこれを許した。長茂は自ら「すでに囚われの身となった以上、もはや我が家の旗を掲げることはできません。別の旗を賜りたく存じます」と申し出た。しかし頼朝はかえって長茂の家の旗をそのまま用いるよう命じた。長茂は喜んで「私は再びこの旗を掲げることができるのだ」と言い、そのためかつての家臣たちが少しずつ集まってきた。軍が新渡戸(にわとべ)に至ったころ、頼朝は諸将に配下の兵の名簿を提出させた。長茂の手勢は二百余人にのぼり、頼朝はその多さを不審に思った。景時は「長茂はもともと数百人の兵を養っておりましたが、敗れたときに皆散り散りになっておりました。この地は長茂の郷里に近いため、彼が今回の遠征に加わったと聞いて、馳せ戻ってきたのでございましょう」と説明した。頼朝はこれを聞いて喜んだ。

頼朝が没して頼家(よりいえ)が跡を継ぐと、長茂は密かに謀反の心を抱くようになった。建仁元年、天皇が法皇のもとへ参内した際、小山朝政(おやまともまさ)がその行列に供奉した。長茂は兵を率いて京に入り、朝政の邸を攻め囲んだが、朝政の家来たちがこれを撃退した。長茂は矛先を転じて法皇の御所を襲い、四方の門を閉ざして、頼家追討の宣旨を賜るよう迫った。しかし応答はなかった。長茂は事が成らぬと悟ると吉野(よしの)に逃げ隠れ、髪を剃って僧となった。しかし頼家の探索は厳しく、ついに長茂は捕らえられて誅殺された。

長茂の甥にあたる小太郎資盛(こたろうすけもり)は、その仇を討とうとして越後の鳥坂(とりさか)に砦を築いてこれに拠った。頼家は佐々木盛綱(ささきもりつな)を差し向けてこれを攻めさせた。資盛の兵は死力を尽くして戦い、矢は雨のように降り注いで、盛綱の軍には多くの死傷者が出た。資盛の叔母は名を阪額(はんがく)といい、勇猛で力が強く弓の名手であり、兵略にも通じていた。髪を束ねて子どものような髪形にし、腹巻をまとって櫓(やぐら)の上から矢を射かけ、放つ矢はことごとく命中した。信濃の人・藤沢清親(ふじさわきよちか)は城の背後に回り込み、山の上から阪額を狙い撃ちにして、その両の股を射抜いた。阪額は倒れ伏し、そのまま捕らえられた。資盛の軍は敗れて散り散りに逃げ、清親は阪額を連れて鎌倉に到着した。頼家は阪額を召し出して引見した。阪額は御簾の前まで進み出たが、容貌は粗野で醜くとも、屈するような様子は少しもなかった。浅利義遠(あさりよしとお)は、阪額を自分の妻としたいと頼家に願い出た。

(話は遡るが、)そもそも繁茂が生まれたとき、赤子の姿が忽然と消えてしまったことがあった。父の維茂は悲しみながら方々を探し求めたが、四年経っても見つからなかった。ところがある夜、夢のお告げによって狐塚(きつねづか)でこれを見つけ出し、家に連れ帰った。その際、狐が老翁の姿に化けて現れ、繁茂に刀と髪梳き用の櫛(くし)を授けたといい、その刀は代々家に伝えられた。しかし資盛が敗れたのち、その刀の行方はついに分からなくなってしまった(注:『吾妻鏡』による)。

遠藤盛遠

遠藤盛遠(えんどうもりとお)は、父を茂遠(もちとお)といい(注:諸本『平家物語』による。『源平盛衰記』は盛光、『遠藤系図』は為長、『元亨釈書』は持遠と記す)、左近衛将監(さこんえのしょうげん)であったが、年老いても子がなく、長谷寺(はせでら)に参詣して子を授かるよう祈願した。その妻はある夜、鳶(とび)の羽が袖に入る夢を見て身ごもり、やがて盛遠を生んだ。盛遠は乳飲み子のうちに両親を失い、春木道善(はるきどうぜん)の家で養い育てられた。少し成長すると、粗暴で手のつけられない子となり、日々村の子どもたちを引き連れては牛馬を打ち据え、田畑を踏み荒らすので、人々はこれに手を焼いていた。十三歳のとき、一族の遠藤遠光(えんどうとおみつ)が元服の儀を執り行って名を与えた。盛遠は体格が大きく壮健で、身のこなしが敏捷かつ剛勇で、武芸に精通していた。しかし本来は情の深い性質で、幼くして両親を失ったことを人に語るたびに、涙を流して両親を慕い悲しんだという(注:『源平盛衰記』による)。

父の縁により上西門院(じょうさいもんいん)の北面(ほくめん)の武士となり、また院の武者所(むしゃどころ)にも任じられた。十八歳のとき、左衛門尉(さえもんのじょう)源渡(みなもとのわたる)の妻・袈裟(けさ)を誤って殺してしまい、悲しみと悔恨に苛まれて身の置き所もなかった(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。そこで髪を剃って出家し、名を文覚(もんがく)と改めた。修行に励むことは実に猛烈であった。真夏の炎暑にも真冬の厳寒にも、野宿して草むらに臥し、滝に打たれて微動だにせず立ち続けるなど、あらゆる苦行を重ね、幾度となく死に瀕した。名だたる山川や古い神社仏閣で赴かぬ所はなく、野を歩き野に宿り、ついには断食にまで及んだ。

高雄山(たかおさん)の神護寺(じんごじ)のかたわらに住んでいたが、堂宇が荒れ果てているのを嘆き、これを修復して亡き父母の冥福に資したいと考え、勧進の趣意書を作って広く士民に寄進を募った。ある日、法住寺殿(ほうじゅうじどの)に参上して奏上しようとしたが、ちょうど法皇が群臣と宴を催しており、笙(しょう)の音や歌声が沸き立つばかりで、取り次いでくれる者もなく、日が暮れても返答が得られなかった。文覚は激しく怒り、側近たちが自分を妨げているのだと思い込んで、そのまま御殿の庭に押し入り、大声で勧進の趣意書を読み上げたので、宮中は驚き騒然となった。検非違使(けびいし)の平資行(たいらのすけゆき)が叱りつけて追い払おうとすると、文覚は趣意書の軸でその頭を打ち、胸を突いて倒してしまった。北面の武士たちが騒ぎ立てて進み出た者は十人ほどであった。文覚は左手に趣意書を持ち、右手には懐に隠していた小刀を抜いて振りかざしたので、法皇は慌てふためいて座を立って退いた(注:『平家物語』『源平盛衰記』を参照し合わせた)。

兵衛尉(ひょうえのじょう)橘公朝(たちばなのきんとも)が文覚に「宣旨が下った。すぐに立ち去るがよい。立ち去らねば捕らえるぞ」と告げた。文覚は答えて「私はかねてより、皇室のお力添えを賜ってこそ、この宿願を果たせると考えてきた。積年の志が遂げられぬのならば、生きていて何になろうか。仏法のためにこの身を捨てることこそ、まさに私の望むところである。たとえこの首の血で御殿の庭を汚すことになろうとも、決して立ち去りはしない。この願いが叶うか否かは、ひとえに帝のご裁断にかかっている」と言い放ち、声を張り上げて諫言し、法皇を口汚く罵った(注:『源平盛衰記』による)。安藤武者右宗(あんどうのむしゃすけむね)が進み出て文覚を捕らえようとすると、文覚はその腕を刺した。それでも右宗は文覚を放さず、衛士たちが群がってこれを取り押さえ縛り上げ、ついに獄に下した(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。

文覚は獄中でも日々悪態をつき、朝廷を呪詛し続けた。恩赦にあって出獄したのちも、その意気は少しも衰えることなく、怒りと恨みをぶちまけては皮肉を口にし、憚るところがなかった。この事情が朝廷に聞こえると(注:『源平盛衰記』による)、朝廷は伊豆守(いずのかみ)源仲綱(みなもとのなかつな)に命じて文覚を捕らえさせ、伊豆へ流罪とした。遠江(とおとうみ)の天竜灘(てんりゅうなだ)を通過する際、大風が吹き荒れて船が今にも転覆しそうになり、船中の人々は泣き叫んだが、文覚は平然と詩を口ずさみながら、枕を高くして横になっていた。船頭がしきりに祈祷して災いを祓うよう求めると、文覚は起き上がって大声で「これは文覚の乗る船である。龍神ともあろうものが、なぜこれを阻もうとするのか」と叫んだ。すると間もなく風はやみ、船頭たちは居並んで拝み、文覚を神のごとくに崇めた。そもそも文覚は出発に臨んで、「我が志は必ず遂げられるはずだ。今回の旅で死ぬことはあるまい。もしそうでなければ、神が我が命を奪うがよい」と自ら誓いを立てていた。実際、三十一日間も断食しながら、平生と変わらぬ様子で談笑していたという。

伊豆に着くと、奈古屋寺(なごやでら)に住んだ(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』も参照し合わせた)。自ら人相見に長けていると称し、遠近から多くの人が慕い集まった。前右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)源頼朝もまた伊豆に流されていたが、かねてより文覚に会いたいと望んでおり、安達盛長(あだちもりなが)を介して文覚の弟子・相照(そうしょう)に意向を伝えさせ、文覚のもとを訪れて対面した。文覚は衝立(ついたて)を隔てて座り、目を怒らせたまま何も語らなかった。しばらくして突然、「ああ、そなたは、亡き下野殿(しもつけどの)〈源義朝〉の御子ではないか。流されてこのような有様になるとは、まことに哀れなことよ」と言った。そしてにわかに立ち上がって礼を尽くし、「私はかつて諸国を巡り歩き、いわゆる源氏の一族という者たちにも会ってきたが、いずれも大事を成し遂げるには足りない者ばかりであった。ところが今、幸いにも公の心のありようが落ち着いており、将帥たるにふさわしい器量を備えておられるのを見た」と述べ、続けて漢の高祖と楚の項羽の興亡の故事を引いて頼朝を激励した。

別の日、文覚はさらにこう説いた。「その昔、源平両氏は共に天下の兵権を握っていたが、源氏は次第に衰え、平家がその志を得た。太政入道〈平清盛〉は勢いに乗じて機に投じ、もっぱら権勢をほしいままにしてきたが、その罪は積もり積もって、すでに天命は彼から去っている。嫡子の重盛(しげもり)は人並み優れた才略の持ち主であったが、不幸にも早世してしまった。その他の者たちは皆凡庸で、世を救う器ではない。私はこれまで多くの人相を見てきたが、吉凶の兆しなど掌を指すようにたやすく分かる。そのなかでも、公ほど貴い相を持つ者はいない。公はまさに真っ先に義兵を挙げ、恨みを晴らし恥をそそぐべきである。古人も『天が与えるものを受け取らねば、かえってその咎めを受ける。時が至っても行動しなければ、かえって災いを受ける』と言っている。どうか速やかにご決断あれ」。頼朝は内心たいそう喜んだが、文覚の言葉が狡猾な策略で、かえって我が身の累(わずらい)となるのではないかと懸念し、ただ「はいはい」と謙遜して受け流すにとどめた。

文覚は頼朝の心中を察すると、懐から一つの髑髏(どくろ)を取り出し、これを亡き義朝(よしとも)の首であると偽って、「私が獄にいたとき、これを盗んで隠し持っておりました。私が流罪にならずに済んでいたなら、公にお目にかけて亡き父君に会わせて差し上げられたものを」と言い、はらはらと涙を流した。頼朝は内心これをいぶかしく思いながらも、その言葉を聞いて、むせび泣いた。文覚は落ち着いた様子で頼朝に「私はかねてより神護寺を修復したいと願ってきたが、いまだ果たせずにいる。公がいつか志を遂げられた暁には、これを成し遂げたいものだ」と言った。頼朝は「この身は囚われの身、どうしてそのようなことに及べようか」と答えた。文覚は「公が本当に大事を興すおつもりならば、院宣を得るのは難しいことではない。私が公のために取り計らってみせよう」と言い、急ぎ福原(ふくはら)に赴いて、院の近臣である前右兵衛督(さきのうひょうえのかみ)藤原光能(ふじわらのみつよし)のもとを訪ね、院宣を求めて戻ってきた。そして頼朝に「公が院宣を得たいのであれば、まず神護寺に荘園を寄進しておくがよい」と告げた。頼朝は「事が成就したあかつきには、一国たりとも思いのままにお応えしよう」と答えた。文覚は筆を執らせ、丹波(たんば)・播磨(はりま)・土佐(とさ)の肥沃な土地十三か所を永代にわたり寺領とする旨を書かせ、そのうえで先の院宣を取り出して頼朝に示した。かくして頼朝はついに挙兵を決意した(注:『源平盛衰記』による。諸本の『平家物語』にはこの院宣の文が載っているが、それぞれ文言が異なる。一つの院宣が出されたはずなのに、写本によって文が違うということがあるだろうか。実録の類を調べても、ほとんど確かな根拠は見当たらない。おそらく文覚は神護寺の復興に並々ならぬ意欲を持っており、頼朝に己の本来の目論見を遂げさせたいがために、院宣を騙って自分の志を遂げようとしたのではないか。あるいは頼朝もひそかにこれに同調し、文覚にそうさせたのかもしれない。英雄の行動は容易には推し量りがたいが、この院宣が偽りであったことは察せられる。『愚管抄』には、世に伝わる話として、光能が法皇の意向であると偽って文覚に頼朝の挙兵を勧めさせたというのは誤りで、文覚がひそかに時勢を察して法皇の名を騙ったのだとある。これによれば、当時すでにこの説があったことになるが、二書〈平家物語・源平盛衰記〉の作者はその実否を究めぬまま、事実として記したものであろう。読者はよくよく見極めるべきである)。

やがて頼朝の大将軍府(幕府)が開かれると、文覚は臆面もなくその威勢を頼み、権威をほしいままに振るった(注:『明月記』による)。こうしてついに神護寺の修復を成し遂げ、その普請は贅を尽くしたものであった。さらに東寺(とうじ)の修復も行い、頼朝の礼遇は日ごとに厚くなっていった(注:『元亨釈書』による)。平氏が滅んだのち、北条時政(ほうじょうときまさ)が京に上り、逃げ隠れている平氏の子孫を探索した。平維盛(たいらのこれもり)の子・六代(ろくだい)が捕らえられて処刑されようとしたが、文覚が救いの手を差し伸べて、これを免れさせた(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。

文覚は生まれつき傲慢で強情な性質で、年老いてもそれが改まることはなかった。山林に身を置きながら、なお朝政を誹謗し続けた。当時、後鳥羽帝(ごとばてい)は遊興を好み、政務を怠りがちであった。帝の兄にあたる守貞親王(もりさだしんのう)には世の人望が集まっており、文覚はひそかに廃立を企てようとしたが、頼朝が健在であったため、あえて事を起こすことはなかった。正治元年、頼朝が没すると、文覚はひそかに不穏な企てを図った。しかしこれが発覚し、佐渡(さど)へ流罪となった(注:佐渡とするのは『帝王編年記』『百錬抄』による。本書の他の箇所では隠岐〈おき〉としている)。

文覚は激しく怒り罵って、「私はすでに老いさらばえ、余命いくばくもない。たとえ罪があったとしても、なぜ都に近い所に流さず、こんな辺鄙な果てまで追いやるのか。私が死ねば怨霊となって、必ずここに毬杖(ぎっちょう)を持つ小僧〈帝〉を迎えに来てやるぞ」と言った。当時幼い帝が毬打(ぎっちょう)遊びを好んでいたため、このように言ったのである(注:『平家物語』による。本書は別の箇所で、承久の乱の際、帝は果たして隠岐へ配流され、文覚の霊がたびたび現れて帝と言葉を交わし、かつて文覚が言ったことを裏づけたと記している。しかし『帝王編年記』『百錬抄』によれば文覚は佐渡に流されたとあり、本書のこの話は根拠のない付会であるので、ここでは採らない)。

文覚はついに食を断って死んだ。時に八十歳であった(注:『八坂本平家物語』による。『東寺長者補任』を調べると、建仁二年十二月二十五日に勅命により文覚を召したとあるが、他の諸書にはこれに該当する記述が見当たらない。また、その流罪は建久九年五月のこととなっており、『百錬抄』などの記述と食い違うため、これも採らない。○世に『渋柿』と名づけられた鎌倉時代の書簡集があり、そのなかに文覚が頼家に宛てた書状が収められている。無益な祈祷や度を越した狩猟を諫め、忠良の臣を用いて奸邪の者を退けるよう務めるべきことを説いており、その言葉は切実で的確、いかにも文覚の口ぶりそのままのようで、戒めとして書き留めるに値する。しかし諸書を考え合わせると、正治元年正月に頼朝が没して頼家がその跡を継ぎ、三月には文覚が佐渡に流されている。頼家がいかに無道であったとしても、服喪中に狩猟に興じるとは考えにくく、書状の文意にも食い違う点が多い。おそらく後世の人が文覚の名を借りて作ったものであろうから、ここでは採用しない)。

平知康

平知康(たいらのともやす)は左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられ(注:『玉葉』による。『吾妻鏡』では姓を藤原とする)、検非違使を兼ねていた。父の朝親(ともちか)が壱岐守(いきのかみ)であったことから、知康は「壱岐判官(いきのほうがん)」と呼ばれ、後白河法皇(ごしらかわほうおう)に仕えた。鼓(つづみ)を打つことに長けていたため、世間では「鼓判官(つづみのほうがん)」とも呼ばれた。軽薄で冗談や滑稽を好む性格であったが、法皇はこれを寵愛し親しくしていた。

寿永二年、源義仲が京に入ったが、配下の統制がとれておらず、兵士たちは日々町なかに乱入して思うままに略奪をほしいままにした。士民は落胆し、怨嗟の声が沸き上がった。法皇は知康を義仲のもとに遣わして戒めさせたが、義仲は詔を受けても不遜な態度で、知康をじろじろと見つめながら「世間ではそなたを鼓判官と呼んでいるそうだが、それはまさか人に打たれる側の鼓ということではあるまいな。どうしてそんな名がついたのか」と言った。知康は恥じ入り怒りを覚えながら帰り、法皇に「この賊を除かなければ、京は安らかになりません。急ぎ兵を集めてこれを討つべきです」と奏上した。法皇はもとより義仲の振る舞いを憎んでいたため、これに深く同意し、急いで計画を定め、廷臣たちと相談することもなく、知康に軍事を掌らせて、法住寺殿で戦の備えを整えさせた。

天台座主(てんだいざす)明雲(みょううん)と園城寺長吏(おんじょうじちょうり)円慧(えんね)に詔して両寺の僧兵を徴発させたが、それ以外はほとんどが市中のならず者ばかりで、募集に応じて集まった者は二万余人にのぼった。御所の四方の塀に諸仏の画像を掲げて、まじないの力で邪気を払おうとした。これを見る者は、この戦がきっと敗れるであろうことを見抜いていたが、知康は床几に腰かけて矢を抜き取り、矢柄をひねり筈(はず)を回しながら、「私が一矢で賊の首を射抜いてみせよう」と豪語した。

義仲の兵が御所の門に迫ると、知康は左手に鉾(ほこ)を、右手に金剛鈴(こんごうれい)を持ち、塀の上に登って舞い踊り、はしゃぎ笑った。そして遠くに義仲の姿を見つけると、大声で「昔は宣旨が読み上げられれば、枯れ木にも花が咲き、飛ぶ鳥も自ら落ちたものだ。今は末世とはいえ、天命はいまだ改まってはいない。おまえは何者だというのか、弓矢を取って至尊にたてつくとは」と罵った。義仲は大いに嘲笑い、兵に合図して前進させた。折しも北風が激しく吹いていたので、義仲の兵はその風に乗じて火を放ち、炎は天を焦がすほどに燃え上がった。知康はこれを見て恐れをなし、塀を乗り越えて逃げ出した。それでも手にはまだ鈴を持っていたため、逃げながらもちりんちりんと音が鳴った。義仲の兵は「鈴を持っている者が首謀者だ」と叫び、われ先にとそこへ殺到した。知康は狼狽して鈴を投げ捨て、逃げ去った。

集められた者たちはもとより戦に慣れておらず、そのうえ大将まで見失ったため、たちまち総崩れとなり、あえて敵に立ち向かおうとする者は一人もいなかった。廷臣の多くが乱兵に辱めを受け、人々はこぞって知康が軽々しく事を荒立て、国を誤り事を破綻させたと咎めた。検非違使の橘公朝(たちばなのきんとも)と左衛門尉藤原時成(ふじわらのときなり)が鎌倉に赴いてこの変事を報告した。頼朝は「義仲に罪があるならば、この頼朝に討たせるべきであった。それを今、軽々しく知康の言葉を信じて、このような大きな争いの種を開いてしまい、宮中を震え驚かせ、国家の体面を大いに損なってしまった。そもそも義仲は代々の武将の家柄であり、もとより北面の武士ごときが当たれる相手ではない。敗れずにいられようか」と言った。

知康は事の発端が自分にあるとして、頼朝に会って自ら弁明しようと考え、鎌倉に赴いた。しかし頼朝はその人となりを嫌い、なかなか面会を許さなかった。知康は侍所(さむらいどころ)に出向き、出入りする者に頼んで取り次いでもらおうとしたが、誰も相手にしてくれなかった。ちょうど頼朝が御簾越しにこの様子を見ていて、子の一万(いちまん)〈頼家〉に鼓を渡し、「あの男は鼓を打つのが得意だそうだ。これを彼に渡して、その腕前を存分に披露させてやるがよい」と言った。一万は言われた通りにした。知康はへつらい媚びることを恥とも思わず、喜んでこれを引き受け、座ったり立ったり頭を下げたりして、およそ見苦しい限りの姿を見せた。頼朝はこれを見物した。知康はその隙にかつての義仲の一件を弁明したが、頼朝は取り澄ました顔で何も答えなかった。知康は恥じ入って退き、その後京へは戻らず、そのまま鎌倉にとどまり住んだ。

頼家の代になると、知康は次第に側近くに親しむようになり、もっぱら巧みなへつらいで機嫌を取ることに努めた。あるとき頼家が母の北条氏(ほうじょうし)〈政子〉を饗応した際、知康もその宴席に連なり、酔いに任せて北条時連(ほうじょうときつら)をからかい、「五郎殿〈時連〉の立ち居振る舞いは人並み外れて優れているのに、その名はまことに不釣り合いだ。時連の『連』とは、銭を貫き通すという意味だろうか。何とも下品なことよ。それとも歌仙の紀貫之(きのつらゆき)の跡を追おうというのか。すぐにでも改めるがよかろう」と言った(注:「連」と「貫」は訓読みが通じ合う)。北条氏はこれを快く思わず、「義仲の変事は、もっぱらこの者のせいで起きたことでした。一度の失敗にも懲りず、その後は義経(よしつね)に与しました。それゆえ亡き将軍〈頼朝〉はこの者を憎み、帯びていた官職を奏上して奪わせたのです。それなのに今、その落ち度を忘れて側近くに侍らせているとは、亡き将軍の御意向にまことに背くことです」と言った。やがて頼家が廃されると、その取り巻きたちはみな罪を得て、知康も鎌倉にいることができなくなり、再び京へ戻っていった(注:『吾妻鏡』による)。