卷之一百九十二 列傳第一百十九

將軍家臣二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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北條時政

北条時政(ほうじょうときまさ)は平氏を姓とし、四郎と称した。伊豆国北条の出身である。その先祖は鎮守府将軍平貞盛(たいらのさだもり)に発する。貞盛の子維将(これまさ)は維時(これとき)を生み、維時は直方(なおかた)を生み、直方は維方(これかた)を生んだ。維将から四代の間、代々守や介の官を歴任した(注:北条系図、印本尊卑分脈による)。維方は僧聖範(しょうはん)を生み、聖範は時方(ときかた)を生んで(注:北条系図、印本尊卑分脈の一説による)伊豆介となったが(注:尊卑分脈による)、曾祖父にあたる直方の養子となった(注:北条系図による)。時方は時家(ときいえ)を生み、時家は従五位下に叙せられた。これが時政の父である(注:北条系図、印本尊卑分脈による。従五位下の位は系図に基づく。帝王編年記は時方を時政の父とするが、これは誤りである)。時政は人となり、表面は温厚で重々しいが、内には深い謀略を秘め、権謀によって人心をよく掌握した(注:東鑑、増鏡による)。源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆に流されると、時政は伊東祐親(いとうすけちか)とともにこれを監視した(注:異本平治物語、曾我物語による)。頼朝は初め祐親の家に身を寄せたが、後に逃れて時政のもとに帰した(注:源平盛衰記、曾我物語による)。時政の娘政子(まさこ)は頼朝と通じたが、時政はこれを知らぬふりをして、かえって頼朝への待遇をしだいに厚くしていった(注:東鑑、源平盛衰記、曾我物語による)。

治承(じしょう)四年、源頼政(みなもとのよりまさ)は以仁王(もちひとおう)に勧めて、頼朝や諸国の源氏に平氏追討の令旨を下させた。頼朝は時政を招いて方略を相談した(注:東鑑、源平盛衰記による)。時政は言った。「坂東八か国の将士は、源氏の恩を受けなかった者はおりません。平氏に従属しているのも、死を免れたいがためにすぎません。いま平広常(たいらのひろつね)は藤原忠清(ふじわらのただきよ)に讒言され、平氏はまさに彼を召し出して罪に問おうとしております。もし君がこれに甘言をもって誘えば、広常は必ず馳せ参じるでしょう。千葉常胤(ちばつねたね)、三浦義明(みうらよしあき)は、一族が強く兵も多く、日頃から信義に篤く、旧恩に背いて朝命に逆らう賊にはなりますまい。この三人を味方につけることができれば、坂東八か国の将士は、たとえ背こうとしても、寡弱な勢いでその間に孤立することはできなくなります。東国がひとたび服従すれば、北国、西国もまたなびくでしょう。大庭景親(おおばかげちか)は平氏に服従し、その勢いはしだいに盛んになっております。畠山重能(はたけやましげよし)、小山田有重(おやまだありしげ)は平氏に属して京にありますが、重能の子重忠(しげただ)、有重の子重成(しげなり)は必ずこちらには来ないでしょうし、その兵力もいずれも景親に劣りません。いま兵を挙げるにあたっては、まずこれを撃破すべきです」。頼朝はその言葉を深く納れた(注:源平盛衰記による)。未幾(いくばくもなく)頼政は敗死し、平清盛(たいらのきよもり)は源氏一族を殲滅して後患を絶とうとした。頼朝は害に遭うことを恐れ、事が発覚しないうちに兵を挙げようと謀り、まず目代の平兼隆(たいらのかねたか)を撃つことにした。兼隆は山木(やまき)に館を構え、険阻な地形を頼みとしていた。頼朝は人を遣って山川の要害をひそかに調べさせ、時政を召してその道筋を軍勢に示させた。佐々木定綱(ささきさだつな)らの八十五騎を発し、時政を将として夜に兼隆を襲わせた(注:東鑑、源平盛衰記による)。

北条から山木へは二つの道があった。ちょうど三島神社の祭礼にあたっていた。時政が牛鍬(うしくわ)大路を通ろうとすると往来が絶えず、人目を怪しまれるおそれがあったため、蛭島(ひるがしま)の道を取ろうとした。頼朝は聞き入れず、「事を挙げる初めに、なぜ間道を用いる必要があろうか。蛭島は狭く、騎馬には不便である。まっすぐ大路へ向かうがよい」と言った(注:東鑑による)。すでに出発した後、時政を呼び戻して「私はこの一挙に成否を決するつもりだ。今日のことは、どのように知らせてくれるのか」と尋ねた。時政は「勝てば火を放って煙を揚げ、敗れれば使者を馳せさせて知らせましょう。どうか速やかにご決断ください」と答えた。そこで定綱らを分けて、別に兼隆の驍将である堤信遠(つつみのぶとお)を撃たせ、時政は自ら子の宗時(むねとき)、義時(よしとき)らを率いて兼隆を襲った。兼隆は力を尽くして拒み、時政はやや退いた。頼朝は人を木に登らせて煙を望ませたが、久しく見えなかったため、佐々木盛綱(ささきもりつな)および加藤景廉(かとうかげかど)、堀親家(ほりちかいえ)を遣って時政を助けさせ、ついにこれに勝って兼隆を斬った。時政はそのまま頼朝に従い、大庭景親と石橋山(いしばしやま)で戦ったが、兵は敗れた。頼朝は土肥山(どひやま)に逃れ、景親はこれを追撃してほとんど追いついた。時政父子は引き返して戦ったが、力尽きて頼朝に従うことができなかった。日が暮れてから、ようやく合流することができた(注:東鑑、源平盛衰記を参考にした)。頼朝は箱根山に身を隠して僧良暹(りょうせん)の難を避け、土肥へ向かおうとした。時政に間道を通って甲斐(かい)へ赴かせ、武田一族のもとへ行かせた。時政は途中まで来て、「敗走の後で、行き先も定まっていない。主将の居所を告げなければ、武田氏は疑って応じないだろう」と考え、そのまま土肥に引き返し、岩浦(いわうら)から船で安房(あわ)へ向かい、三浦義澄(みうらよしずみ)らと海上で行き合った。頼朝もほどなく到着した。時政はまた甲斐へ赴き、武田信義(たけだのぶよし)らの精兵二万を得て、駿河(するが)の黄瀬川(きせがわ)で頼朝勢と合流した(注:東鑑による)。

頼朝が鎌倉に入り、政子を伊豆から迎えると、時政はその舅であることから、いっそう重んじられるようになった。頼朝には寵愛する姫がおり、伏見冠者広綱(ふしみのかじゃひろつな)(注:姓は伝わらない)の家に住まわせて、ひそかに行き来していた。時政の妻牧氏(まきうじ)がこれを政子に告げると、政子は元来嫉妬深く、すぐさま牧氏の父宗親(むねちか)に命じて広綱を追い立てさせ、その家を打ち壊して辱めさせた。広綱は姫を連れて大多和義久(おおたわよしひさ)の家に逃げ隠れ、事の次第を頼朝に訴えた。頼朝は外出にかこつけて義久の家に赴き、宗親を呼び出して面と向かって責め、宗親の髻(もとどり)を自ら切り落とした。時政はこれを恥として、頼朝に告げずに北条へ帰ってしまった。頼朝は時政の勝手な振る舞いに怒ったが、しばらくして和解した(注:東鑑による)。

文治(ぶんじ)元年、頼朝は義経(よしつね)を討とうとして自ら兵を率いて黄瀬川まで至った。義経は逃走した。そこで時政に兵一千を率いさせ(注:兵数は玉葉による)、京都を守衛させて義経を捜索させたが、捕らえることはできなかった(注:東鑑による)。頼朝はそこで悪人を取り締まると口実を設け、時政に奏請させて、「国衙(こくが)に守護を置き、荘園に地頭を置いて、それぞれの所在で悪人を捕らえさせたい」と申し出させた。朝廷の議論はこれを難色とした(注:東鑑、玉葉、保暦間記による)。時政は繰り返し論じ議して、ついに申請どおりの許可を得(注:源平盛衰記による)、七か国の地頭職を管掌することになったが、まもなくこれを辞退した。これより先、国司や荘園領主は、私的に平氏の親党や家人を多く地頭に任じていた。時政はその名簿を調べて朝廷に納め、頼朝はこれによって軍功のあった家人を分けて守護・地頭に任じた(注:東鑑による)。朝廷の権威が振るわなくなったのは、実にここに由来する(注:神皇正統記、増鏡による)。このころ平氏の遺児は民間に身を寄せ、残党は山野に隠れ潜み、公卿や士庶で義経と親しい者も多かった(注:東鑑、源平盛衰記による)。しかも戦乱の後で盗賊が横行していた。時政は京都に一年余り滞在し、政務は繁忙を極めたが、機敏に対処して滞りなく、その処置はことごとく頼朝の思惑にかない、京都は平穏を保って、その手腕が評判となった。帰任するにあたり、鎌倉殿(頼朝)もこれを惜しみ、後任を自ら推挙するよう命じた。時政は頼朝の意を汲んで従弟の時定(ときさだ)を推薦し、時定は京都の警衛にあたって、これもまた大いに名声を得た(注:東鑑による)。

頼朝が薨去すると、頼家(よりいえ)がその職を継いだ。時政は従五位下に叙せられ、遠江守(とおとうみのかみ)に任じられ(注:東鑑、将軍執権次第による)、政所別当(まんどころべっとう)となって軍事を統括した。頼家は放埒で遊興にふけって節度がなく、人々は皆その家業を継ぐ器量のないことを知っていた。時政はこれを諫めようとせず、黙って身を保つばかりであった。頼家が重病になると、政子は関東・関西の守護職を分けて、頼家の子一幡(いちまん)とその弟千幡(せんまん)にそれぞれ授けた。一幡の外祖父にあたる比企能員(ひきよしかず)は北条氏を滅ぼそうと図ったが、事が漏れた。時政はちょうど仏事を営もうとして名越(なごえ)の邸に帰っていたところ、政子は人を遣って急を知らせた。時政は馬の手綱を控えて思案し、そのまま大江広元(おおえのひろもと)のもとへ行って謀り、「能員は近年権勢をかさに人を陵ぎ、それは世の知るところである。いま将軍の病弱に乗じて、命を偽って乱を起こそうとしている。私は事の発覚する前にこれを誅殺したいが、いかがか」と言った。広元は「誅殺するかどうかは、あなたの判断に任せる」と答えた。時政の心はここに定まった。荏柄社(えがらしゃ)の前まで来て、天野遠景(あまのとおかげ)、仁田忠常(にったただつね)に「能員は異心を抱いている。今日これを誅殺するので、お二方に働いていただきたい」と言った。遠景は「あの老いぼれに何ができようか。呼び出して誅すれば、一人の力で十分だ」と言った。そこでさらに広元を招いて相談し、ひそかに計画を定めた。時政は自ら甲冑をまとって備え、弓の巧みな者二人を小門の内に立たせ、遠景と忠常は西南の戸口に伏せさせた。手筈が整うと、仏事にかこつけて能員を招いた。能員が来ると、遠景と忠常はこれを捕らえて殺した。能員の子宗員(むねかず)は一幡を擁して小御所(こごしょ)に立てこもった。時政は子の義時を遣り、諸将を率いてこれを攻めさせ、一族をことごとく滅ぼし、あわせて一幡も殺した。能員と姻戚・親交のあった者はみな罪に問われた。頼家は病がやや癒えるとこれを聞き、和田義盛(わだよしもり)と忠常に時政を誅殺するよう命じた。義盛はひそかにその謀を時政に告げた。時政は政子と謀り、頼家を伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉し、千幡を自分の家に迎えて跡継ぎに立てた。これが実朝(さねとも)である(注:東鑑による)。翌年、頼家は伊豆で弑逆された(注:保暦間記による)。

この政変の際、人々は皆危惧の念を抱いたが、時政は将士に告げ諭して、人心はもとのように落ち着いた。こうして時政の威権は天下に並ぶ者がなくなり、諸将もあえて対等の者として扱うことはなくなった(注:東鑑による)。時政の子はそれぞれ母を異にしていたが、牧氏(まきうじ)は最も後に娶った妻で、陰険で驕り高ぶっていた。時政はこれを寵愛し畏れて、その言うことはすべて聞き入れた。平賀朝雅(ひらがともまさ)と畠山重忠(はたけやましげただ)はいずれも時政の娘婿であったが、重忠の妻は牧氏の生んだ子ではなかった(注:保暦間記による)。重忠の子重保(しげやす)は朝雅と口論となり、朝雅はこれを牧氏に讒言した。牧氏は機に乗じて重忠父子に謀反の疑いをかけ、これを殺すよう求めた。時政は兵を遣って重保を殺し、さらに諸将を遣って重忠を二股川(ふたまたがわ)で殺させた。人々はこれを冤罪だと考えた(注:東鑑による)。牧氏は朝雅もまた源氏の傍流であることから、時政に迫って実朝を殺し朝雅を立てさせようとし、ひそかに兵士を集めた。政子は三浦義村(みうらよしむら)、結城朝光(ゆうきともみつ)らに実朝を連れ出させ、義時の家に移らせた。義村の計略により、兵を率いて実朝の命と偽り、あたかも時政を誅殺するかのような形をとって、時政に剃髪を強い、牧氏とともに北条へ追放した(注:東鑑による。愚管抄も参考にした。なお保暦間記によれば、牧氏は時政と謀って実朝を私室に招き、浴室で弑逆しようとしたが、事が漏れたため、政子が義時を呼んで急を告げ、義時は自ら時政の家に馳せつけて実朝を抱いて連れ帰ったという。実朝は心中なお疑い不安であったため、義時は事の真相を詳しく告げ、ただちに時政を誅殺するよう命じたが、義時は表向き殺したことにして、牧氏とともに伊豆に幽閉したという。これは本文とやや異なる)。建保(けんぽう)三年、時政は腫れ物を患って亡くなった。享年七十八(注:東鑑、北条系図による)。法名は明盛(みょうせい)(注:北条系図による)。浄福寺(じょうふくじ)と号した(注:将軍執権次第、鎌倉将軍系図抜粋による。北条系図には願成就院(がんじょうじゅいん)と号したとある。東鑑によれば、頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討った際、時政は伊豆北条に仏堂を建てて願成就院と号し、その勝利を祈願したという。奥州平定の後、頼朝の別館をその祠の傍らに建てるため地を掘ったところ、古い額が出土し、そこには「願成就院」と書かれていた。時政はこれを修繕して祠の額とした。これによれば願成就院は頼朝のために設けられたもので、時政の住居ではないため、ここでは採用しない。また太平記によれば、かつて時政が江島(えのしま)の弁才天の祠に詣で、子孫の繁栄を七日の期限をもって祈願したところ、満願の夜、容貌端麗な一人の女が現れて時政に告げた。「そなたの前世は箱根山の僧であった。三十六部の法華経を写し、六十六か国の霊地に納めた。この功徳によってこの世に再び生を受け、子孫が代々国の実権を握るであろう。ただし行いが道を外れれば、七代を経ることはできまい」と。言い終えると龍に変じて海に入り、三枚の大きな鱗を残した。時政はこれを旗印に取り入れ、それ以来代々三つ鱗の形を家紋として伝えたという。この話は荒唐無稽であるが、いまここに付記しておく)。

子には宗時(むねとき)、義時(よしとき)、時房(ときふさ)、政範(まさのり)がいた。宗時は頼朝に従って石橋山で戦死した(注:東鑑、北条系図による)。義時と時房にはそれぞれ別に伝がある。政範は牧氏の生んだ子で、たいそう鍾愛された(注:東鑑による)。従五位下に叙せられ、左馬権助(さまのごんのすけ)となったが、早世した(注:東鑑、北条系図による)。娘は十一人おり、長女が政子である。頼朝の薨去後、政子は朝廷内外を意のままに動かし、将軍の廃立をも行った。北条氏が権力を専らにしたのは、実にここに由来する。詳しくは列女伝に記す(注:「擅制」以下は諸書の大意を取った)。他の娘たちはみな公卿や将帥に嫁いだ。一門の繁栄は、これに並ぶものがなかった(注:北条系図による)。

小山朝政

小山朝政(おやまともまさ)は小四郎と称した。下野国(しもつけのくに)の人で、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である。秀郷は平将門(たいらのまさかど)を討った功により下野守に任じられた(注:東鑑、尊卑分脈を参考にした)。曾祖父の行尊(ゆきたか)は下野介となり、行政(ゆきまさ)を生んだ。行政は政光(まさみつ)を生み、政光は小山四郎(おやましろう)と称して下野大掾(しもつけのだいじょう)となった。政光は朝政を生んだ(注:尊卑分脈による)。朝政は足利忠綱(あしかがただつな)と同族であったが、ともに地方の豪族として互いに勢力を競っていた。以仁王が平氏追討の令旨を下すと、朝政はこれに応じようとして忠綱に告げたが、忠綱は聞き入れなかった。信太義広(しだよしひろ)が頼朝を襲おうと図り、兵を率いて下野に入り、朝政と忠綱を誘ったところ、忠綱はこれに応じたが、朝政は逆にこれを撃とうとした。折しも父の政光は京都で宿衛の任にあり、留守を守る勢力は手薄であったため、朝政はいったん偽って義広に応じるふりをした。義広が来て軍議を交わすと、朝政はひそかに兵を率いて野木(のぎ)の社に出て陣を敷き、林の茂みに伏兵を設けて待ち構えた。義広が社の前を通り過ぎると、伏兵が起こって木に登り大声で叫び、その声は谷にとどろき、義広はその兵の多寡を測りかねた。義広の軍は大いに動揺し、朝政はこれに乗じて奮い撃ち、多くの死傷者を出させた。義広は矢を放って朝政に命中させ、朝政は馬から落ちてほとんど死にかけたが、折しも弟の宗政(むねまさ)が鎌倉から援軍に駆けつけ、力戦してこれを救った。義広は社の西南に退いて陣を敷いたが、朝政と宗政は合流してこれを撃った。ちょうど疾風が吹き起こり、砂塵が目を塞いだため、義広の兵は再び戦うことができず、ついに逃げ散った。下河辺行平(しもこうべゆきひら)は古我(こが)の高野(こうや)の渡し場を占拠して退路を断ち、これをさらに打ち破った。足利有綱(あしかがありつな)らもまた小手指原(こてさしがはら)の小堤(こづつみ)でこれを撃った。義広は信濃(しなの)へ逃れ、朝政はそこで宗政を遣って鎌倉へ勝利を報告させた。頼朝が没すると、義広に与した者たちの領地のうち、朝政には常陸(ひたち)の村田下荘(むらたしものしょう)の地頭職が授けられ、特に書状を賜ってその功を賞された(注:東鑑による)。

寿永(じゅえい)三年、源範頼(みなもとののりより)に従って一ノ谷(いちのたに)で平氏を討ち、続いて西海(さいかい)まで従軍した。軍中では食糧が乏しくなり、将士の多くは東国へ帰りたいと思った。ひとり朝政と宗政だけは千葉常胤らとともによく艱苦に耐え、意気込んで攻め戦った。頼朝は自筆の書状を下してこれを褒めた。源義経は朝政を兵衛尉(ひょうえのじょう)に推挙した。文治(ぶんじ)年間、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)追討に従軍し、泰衡が敗走すると、朝政は物見岡(ものみがおか)まで捜索に赴いたが、泰衡はすでに逃げた後であった。朝政らは泰衡が残していった兵と戦い、これを殲滅した。かつて頼朝が出陣した際、下野の古多橋(こたばし)に宿営した。朝光(ともみつ)が馬を献上し、その側に一人の従者がいた。政光がその名を尋ねると、頼朝は「これは本朝無双の勇士、熊谷直家(くまがいなおいえ)である」と答え、その戦功を大いに称えた。政光は笑って言った。「わが身を捨てて主君に尽くすのは、武士として当然のことです。彼のどこがそれほど優れているというのでしょうか。彼には従う兵がないため、単身で奮戦し、それゆえに世に称賛されているにすぎません。私ども政光の一族は、常に従兵を遣って力を尽くさせております。これが彼と異なる所以です」。そして朝政らを顧みて、「お前たちはこの度、単身で戦って功を立て、無双の名を得るがよい」と言った。朝政らはこれを聞いて奮い立って力戦し、兵卒もまたよく力を発揮した。凱旋の日、政光の家臣で功のあった者に旗幟や弓矢を賜って、その功を表彰した。翌年、頼朝に従って京都に上り、将士の中で特別な功のあった者を選んで任官させた際、朝政は右衛門尉(うえもんのじょう)に任じられた(注:東鑑による)。まもなく左衛門尉(さえもんのじょう)(注:東鑑、小山家譜による)、検非違使(けびいし)(注:小山家譜、尊卑分脈による)に任じられ、従五位下に叙せられて下野守となった(注:東鑑、小山家譜、尊卑分脈による)。

正治(しょうじ)元年、播磨守護(はりまのしゅご)となった。建仁(けんにん)の初め、京都で宿衛の任についた。上皇の御幸に際し、朝政もこれに従った。折しも越後(えちご)の城長茂(じょうながもち)が謀反を企て、兵をもって朝政の宿所を囲んだが、朝政の家臣がこれを撃退した。まもなく鎌倉に退いて居した。比企能員(ひきよしかず)が北条氏を滅ぼそうと図った際には、朝政は二人の弟や畠山重忠らとともにこれを撃って平定した。ある人が宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の謀反を讒言したため、実朝は特に朝政に命じて、兵を率いて誅殺に向かわせようとした。朝政は言った。「頼綱と私には姻戚の縁がありますが、私情を捨てて公務に従うべきものです。もし頼綱が防戦するならば、力を尽くさぬわけにはいきません。ただ、この使命を一身に引き受けることは、実に忍びないことです。あえて辞退いたします」。そしてひそかに書状をもって頼綱にこの事情を諭した。頼綱はこれによって陳謝し、罪を免れることができた。承久(じょうきゅう)の乱に際しては、朝政は老臣として鎌倉にとどまり、軍議に参画して兵士の差配にあたった(注:東鑑による)。暦仁(りゃくにん)元年、亡くなった。享年八十四。これより先に剃髪しており、法名を生西(しょうさい)といった(注:東鑑、小山家譜による。剃髪の記述は東鑑による。家譜の一説に寛喜元年に四十三歳で没したとあるのは誤りである)。子の朝長(ともなが)は左衛門尉に任じられた。承久の乱では武田信光(たけだのぶみつ)とともに東山道を進み、尾張(おわり)の大井戸(おおいど)で官軍と戦って功があり、京都へ攻め上った(注:東鑑による)。弟に宗政、朝光がいる。

小山宗政﹝長沼﹞

長沼宗政(ながぬまむねまさ)は下野の長沼(ながぬま)の邑を領し、これによって長沼を氏とした(注:尊卑分脈では「長」を「中」につくる)。従五位下に叙せられ、淡路守(あわじのかみ)に任じられた(注:結城家譜、東鑑補遺による)。源範頼に従って平氏を撃ち、功があった。建保(けんぽう)の初め、ある人が「畠山重忠の子である僧重慶(じゅうけい)が日光山(にっこうさん)に拠って謀反を企てている」と告げた。源実朝は宗政を遣ってこれを捕らえさせた。宗政はその首を斬って献上した。実朝は人を遣って宗政を責めさせて言った。「先に重忠は無実の罪で命を落とした。まことに哀れなことである。いま重慶に謀反の企てがあったとしても、しょせん一人の僧にすぎず、何ほどのことができようか。私がお前を遣ったのは、もともと取り調べたうえで、追って処置を決めるつもりであった。それをお前は勝手に斬ってしまうとは、あまりに軽率ではないか」。宗政は目を怒らせて言った。「彼の謀反の形跡はすでに明らかで、疑う余地はありませんでした。もし私が生け捕りにして連れて参れば、あるいは侍女などがその命乞いをする者もあったかもしれません。将軍がそれに従って彼を助命なさらぬとも限りません。それゆえ私はまず斬ってから献上したのです。それに、亡き将軍(頼朝)はかつて私の戦功を嘉して、いずれ格別の褒賞を与えようとされましたが、私はその命を固くお断りし、代わりに蟇目箭(ひきめや)を賜って、東海十五か国の不法の徒を取り締まることを願い出ました。将軍(頼朝)はもとより武備を重んじられ、ついにこれをお聞き入れくださいました。今日のこの処置も、理由のないことではありません。私がひそかに見るところ、将軍(実朝)の近頃の御振る舞いは、武事を講じることなく、ただ和歌や蹴鞠に耽り、婦女を寵愛して将士を疎んじておられます。没収した所領はすべて寵愛する女たちに与えられ、榛谷重朝(はんがやしげとも)の邑は五条局(ごじょうのつぼね)に、中山重政(なかやましげまさ)の邑は下総局(しもうさのつぼね)に賜っております。これがどうして政治として正しいことでしょうか」。その言葉つきは激しく抗弁するものであった。実朝は怒り、宗政は一月余り謹慎したが、兄の朝政が陳謝してようやく赦された(注:東鑑による)。延応(えんおう)二年、亡くなった。享年七十九(注:東鑑補遺による)。宗政はかねてより自らの勇武を誇り、一門の中で自分に及ぶ者はいないと自負していた。弟の朝光が讒言を受けた際、同列の者たちは連署して梶原景時(かじわらかげとき)を弾劾し、朝光の無実を訴えたが、宗政もこれに加わりながら、後の禍を恐れて署名の押印を拒んだ。当時の人々はこれを大いに恥ずべきこととした(注:東鑑による)。

小山朝光﹝結城﹞

結城朝光(ゆうきともみつ)は小山七郎(おやましちろう)と称した(注:東鑑による)。下総(しもうさ)結城(ゆうき)の邑を領したことから、結城とも称した(注:結城家譜による)。その母は八田氏(はったうじ)で、源頼朝の乳母であった(注:東鑑、結城家譜による)。頼朝が兵を挙げると、母はこれを連れて隅田(すみだ)の駅まで参上し、この子を側近くに仕えさせてほしいと願い出た。頼朝は自ら元服の儀を執り行い、宗朝(むねとも)という名を与えて近臣に加えた(注:東鑑による)。後に今の名(朝光)に改めた(注:東鑑、結城家譜による)。信太義広(しだよしひろ)の乱の折、頼朝は鶴岡(つるがおか)の社に参詣した。拝礼を終えて「事の首尾はどうであろうか」と尋ねたところ、剣を捧げて側に控えていた朝光が、とっさに「敵はすでに私の兄によって滅ぼされました」と答えた。頼朝は喜んで振り返り、「これはお前が自分で考えて言ったのではあるまい。きっと神の霊が乗り移ったのであろう。もし本当ならば、お前に厚く褒美を取らせよう」と言った。この日、果たして朝政からの戦勝の知らせが届いた。そこで義広に与した者たちの領地を分けて朝光に賜った。時に朝光は十五歳であった。これによって頼朝の寵遇はいっそう厚くなった。成長するにつれ弓馬に巧みとなり、頼朝は親しく信頼できる武芸に優れた者を選んで寝所の警護にあたらせたが、朝光もその一人に選ばれ、外出には必ず付き従った。文治年間、頼朝に従って藤原泰衡を討った際、泰衡は兵を遣って阿津賀志山(あつかしやま)を守らせたが、朝光は真っ先に攻め入ろうとし、ひそかに山の麓まで至って、畠山重忠らとともに真っ先に敵と刃を交えた。大軍がこれに乗じて攻めかかり、敵兵は敗走した。さらに進んでその城を攻めると、朝光らは死力を尽くして戦った。勝敗が決しないので、朝光と宇都宮朝綱(うつのみやともつな)は、あらかじめ勇猛な者七人を選んで夜陰に紛れて敵の背後にひそかに回らせ、高い丘に登って喚声を上げ矢を連射させた。敵兵は大軍による挟み撃ちと思い込み、驚き慌てて大いに崩れ潰えた。朝光はこれを追撃してその副将金剛秀綱(こんごうひでつな)を斬った。頼朝はかつて源氏一門や千葉、三浦の諸将、朝政、朝光らを召し、自ら子の実朝を抱いて彼らに託して、「この子は私が深く慈しむ者である。お前たちは力を合わせてこれを助け支えてほしい」と言った。頼朝が薨去すると、朝光はこの格別な待遇を深く感じ、あらためて幕府に仕えることを忍びなく思い、出家してその冥福を弔おうとしたが、頼朝から後事を託されたことがあったため、果たせずにいた。ある日、人々の中でその心情をわずかに口にした際、「忠臣は二君に仕えず」という言葉が出た。梶原景時(かじわらかげとき)はこれを讒言し、頼家(よりいえ)はこれに惑わされて、朝光を誅殺しようとした。阿波局(あわのつぼね)がひそかにこれを朝光に告げたため、朝光は大いに恐れ、三浦義村のもとを訪れて相談した。義村はそこで同僚たちを率い、朝光とともに連署して景時を弾劾し、朝光の無実を訴えた。景時はついに罪を得て、朝光は難を免れることができた。和田義盛の乱では、朝光は佐々木義清(ささきよしきよ)らとともに大倉(おおくら)に陣を敷いてこれを防ぎ、義盛は突破できずに退いた(注:東鑑による)。

寛喜(かんぎ)元年、従五位下に叙せられ、上野介(こうずけのすけ)となった(注:関東評定伝、結城家譜による)。嘉禎(かてい)の初め、評定衆(ひょうじょうしゅう)となったが、まもなくこれを辞し、あわせて上野介の官も辞退した。剃髪して法名を日阿(にちあ)と称し(注:関東評定伝、結城家譜による)、下総に退いて隠棲した。三浦泰村(みうらやすむら)の乱の際には、兵を出して幕府を助けた。その後鎌倉に至り、北条時頼(ほうじょうときより)に会ってこの事に話が及ぶと、義村と日頃からの旧交があったことを述べ、哀惜のあまり涙を流し、さらに「もし私が鎌倉にいたならば、泰村をこれほどの窮地には至らせなかったであろう」と言った。時頼はその忠実さと篤実さを称えた。将士の功を論じる段になると、皆は朝光を賞するのはふさわしくないと言った。時頼は「朝光の失言は、かえってその忠実で飾らない人柄をよく示している。いま些細な嫌疑によって功臣を賞さなければ、政道に傷がつくおそれがある」として、小烏荘(こがらすのしょう)を賜った。建長(けんちょう)六年、亡くなった。享年八十七(注:東鑑、関東評定伝、結城家譜による)。称名寺(しょうみょうじ)と号した(注:結城家譜による)。かつて頼朝に従って東大寺に立ち寄った際、僧徒が何かの事で警護の兵と口論となり、梶原景時がこれをなだめようとしたが、その応対が横柄であったため、僧徒はますます怒って騒ぎ立てた。頼朝はそこで朝光を遣わしたところ、朝光はうやうやしく跪いて礼を尽くし、道理を説くこと的確であったので、僧徒も静まって事は収まった(注:東鑑による)。

子には朝広(ともひろ)、朝俊(とものり)、時光(ときみつ)、重光(しげみつ)、朝村(ともむら)がいた(注:結城家譜による)。朝広は七郎(しちろう)と称し、従五位下に叙せられ、検非違使、左衛門尉、上野介を歴任した(注:結城家譜、東鑑による)。大蔵権少輔(おおくらのごんのしょうゆう)となり、正五位下に叙せられた(注:尊卑分脈による)。承久の乱では北条朝時(ほうじょうともとき)とともに北陸道から進軍し、越中(えっちゅう)の般若野(はんにゃの)で戦って功があった。翌年、将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)が兵を選んで幕府の直属としたとき、朝広もこれに加わった(注:東鑑による)。嘉禄(かろく)年間、僧公暁(こうぎょう)を詐称する者が陸奥(むつ)の白河(しらかわ)で乱を起こしたが、朝広は浅利知義(あさりともよし)とともにこれを撃って平定した(注:東鑑の欠落部分による)。朝俊は平方四郎(ひらかたしろう)と称し、時光は寒河四郎(さむかわしろう)と称し、ともに左衛門尉となった。重光は山河五郎(やまかわごろう)と称し(注:結城家譜、尊卑分脈による)、同じく左衛門尉となり、検非違使に補せられた(注:尊卑分脈による)。朝村は綱戸十郎(つなとじゅうろう)と称し(注:結城家譜、尊卑分脈による)、阿波守(あわのかみ)に任じられた(注:結城家譜による)。朝村は弓の名手で、かつて頼経に従って京都に上った際、関白道家(みちいえ)の邸を訪れたところ、飼われていた鳥がたまたま庭の樹上に逃げ出した。頼経は朝村にこれを射させた。朝村は骲箭(かぶらや)の鏃を削って矢を放ち、これに命中させたが、鳥は骲(かぶら)の中に収まって傷つくことはなく、人々は皆感嘆して称賛した(注:東鑑による)。