卷之一百九十八 列傳第一百廿五

將軍家臣八

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 天野遠景
  2. 仁田忠常
  3. 下河邊行平
  4. 下河邊政義
  5. 葛西清重
  6. 八田知家
  7. 首藤經俊
  8. 首藤俊綱
  9. 金子家忠
  10. 熊谷直實

天野遠景

天野遠景(あまの とおかげ)は、姓を藤原といい、木工助為憲(もくのすけ ためのり)の子孫である。祖父の景澄は入江権守と称した(注:『尊卑分脈』によれば、景澄の父・清定が入江権守と称したという)。父の景光は藤内と称し、代々伊豆天野邑に住んだため、これを氏とした。遠景は初め内舎人(注:『天野系図』による)となり、藤内とも称し、やがて民部丞となった(注:『東鑑』『天野系図』による)。源頼朝が挙兵すると、遠景はこれに従い、工藤茂光・土肥実平らとともに平兼隆を討って功をあげた。石橋山の戦いで頼朝が窮地に陥った際、遠景は諸将とともに力戦すること数度に及び、頼朝はついに脱出することができた。その後、伊東祐親が駿河へ向かい平氏に尽力しようとしているのを遠景が察知し、祐親を生け捕りにして黄瀬川まで連行し、頼朝のもとに参上した(注:『東鑑』による)。

壽永年間、頼朝は源義仲に、その子・義高を人質として鎌倉へ送らせようとし、遠景と岡崎義実に命じて越後へ赴き義仲を説得させた。遠景は義仲に会って利害を懇切に説き、義仲はこれに従って義高を護送して帰らせた(注:『源平盛衰記』による)。三年、頼朝は一条忠頼を殺そうとし、これを誘い出して館に招き、酒宴を張って、あらかじめ工藤祐経に命じて斬らせようとした。しかしその時になって祐経は難色を示したため、小山田有重がこれを察し、その二子を促して討たせようとした。頼朝はさらに遠景に命じ、忠頼に迫って殺させた。忠頼の従者・山村小太郎らは刃を抜いて突きかかり、警護の兵士の多くが傷を負った。小太郎が遠景に斬りかかろうとすると、遠景は魚板を投げつけてこれを倒し、従者たちがこれを斬った。この年、遠景は源範頼に従って西海で平氏を討ち功をあげ、頼朝は書を賜ってこれを称え、やがて鎮西守護となった(注:『東鑑』による)。

文治二年、遠景は筑紫奉行となり、また数か所の地頭職となった。源義経が西へ逃れると、頼朝はその一党に鬼界島に匿われている者があるのではと疑った。三年、宇都宮信房を鎮西に遣わし、遠景とともにこれを討たせた。これより先、薩摩の阿多忠景が罪を得て島中に匿われていたため、筑後守平家貞(注:原文は「家真」とあるが、ここで訂正する)に討伐を命じたものの、風波が険しく進むことができず引き返していた。この時になって遠景は人を島に遣わして偵察させ、詳しく要領を得た。四年、頼朝に上書して言った。「私はすでに人を鬼界島に遣わして様子を探らせており、これを攻め取ることは実に難しくありません。そこで鎮西の兵士を募りましたが、応じる者はきわめて少ないのです。信房は直ちに赴いて襲おうとしていますが、私は兵が少ないためこれを固く止めております。どうか教書を賜り、出発できるようにしていただきたい。」ちょうどその頃、摂政・九条兼実らがこれを聞いて頼朝に諭して言った。「海外への遠征は、近頃聞いたことがありません。害ばかりで利がないおそれがあります。あなたはよくお考えなさい。」頼朝はそこで中止した。まもなく信房が海路の詳細な地図を作成し、これを鎌倉に送った。頼朝はこれを見て意を決し、ついに遠景と信房に命じてこれを攻めさせた。島の者たちは降伏して従った。事が終わると鎌倉に帰り、髪を剃って名を蓮景と改めた(注:『東鑑』による)。

建仁二年、比企能員(ひき よしかず)が北条氏を滅ぼそうと謀った。北条時政は遠景と仁田忠常(にった ただつね)に命じて兵を出しこれを襲わせようとした。遠景は言った。「一人の老人を殺すのに、どうして兵を煩わせる必要がありましょうか。呼び出して誅殺すればよいのです。」そこで能員を呼び出した。遠景と忠常は鎧を内に着込み刃を持って戸口に潜み、能員が到着するのを窺って、突然飛び出して斬った。建久年間、遠景は治承以来の戦功を詳しく記録し、恩賞を望んだが、源実朝はこれを取り上げなかった(注:『東鑑』による)。子の政景は六郎と称し、和泉・肥後守となった(注:『天野系図』による)。

仁田忠常

仁田忠常(にった ただつね)は四郎と称し、伊豆の人である(注:『曾我物語』による。名は『東鑑』による。原文には「忠綱」とある)。頼朝に仕えて親しく用いられた。範頼に従って西海で平氏を討ち、頼朝は書を賜って褒め称えた(注:『東鑑』による)。富士野の狩に従った際、曾我祐成兄弟が襲来し、忠常は祐成を撃って斬った(注:『曾我物語』による)。比企能員を殺した際にもまた諸将に従い、一幡を攻めてこれを殺した。その後、源頼家は密かに忠常と和田義盛に命じて北条時政を誅殺させようとしたが、たまたま時政が忠常を招いてその功労を賞したため、従者たちはその出てくるのが長く遅いのを怪しみ、事が漏れて殺されたと思い込み、家に帰ってこれを告げた。弟の五郎と六郎はそこで政子のもとにいる北条義時を攻めたが勝てず、火を放って死んだ。忠常はその途中で変事を聞いて駆けつけたが、加藤景廉に殺された(注:『東鑑』による。『曾我物語』の記す忠常の死はこれと異なるが、ここでは本書に従う)。

下河邊行平

下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)は、鎮守府将軍藤原秀郷の子孫である。父の行義は小山政光の弟で、下総下河辺荘の荘司となり、これを氏とした(注:『尊卑分脈』による)。行平は平氏に属していたが、密かに源頼朝に心を通わせていた。源頼政が以仁王を奉じて挙兵したと聞くと、使者を伊豆に遣わし、詳しくその様子を告げた。頼朝は大いに喜んだ。後に将士の功を論じた際、行平はもとのまま荘司とされた。養和の初め、小山朝政が野木宮で志田義広を破った際、行平は兵を率いて援軍に赴き、古河で義広を撃ってこれを再び破った。当時、鎌倉は草創期にあって民情は疑い恐れており、頼朝は行平と北条義時・結城朝光ら十人に命じ、毎夜寝所に宿直させて警備とした。その親任ぶりはこれほどであった。頼朝に従って鶴岡八幡宮に詣でた際、左中太常澄という者がいて、かつての主君・長狭常伴のために頼朝を刺そうと謀り、密かに供の列に紛れ込んでいた。頼朝はこれを見て怪しんだ。まだ言葉を発しないうちに、行平がこれを捕らえて差し出した。頼朝は喜んで言った。「今日の事は危急であった。そなたはよくこれに対処した。この功に報いよう。望みを聞き入れよう。」行平は言った。「私の知行地では、毎年馬を貢納しており、百姓が皆これを苦しんでおります。どうかこれを免除していただきたい。」頼朝は言った。「およそ功があって賞せられる場合、その栄誉とするところは爵位や俸禄であろう。そなたの求めるものは、それとは違うのではないか。」そして直ちに下総の厩別当に命じて速やかにこれを免除させた(注:『東鑑』による)。

壽永年間、源範頼に従って西海で平氏を討った。まもなく鎌倉に召還され、良弓と酒肴を献上した。頼朝は問うて言った。「西征の将士は皆兵糧に乏しく、逃げ帰る者まで出た。そなたは長く任務にあたって年を越したのに、いつも豊かであった。賄賂を受け取っていたのではないか。」行平は言った。「私は西海にあって、実に窮乏がひどく、武具を軍糧に換えておりました。豊後へ赴くにあたっては、諸将は皆参州(三河守範頼)から船を借りましたが、私は着ていた鎧を売り、別に小舟を一艘雇い、身には戦装束をつけずそのまま陣中に進み入り、美気敦種を斬りました。その時、この弓を売る者がおり、作りが実に精巧でしたので、私はこれを手に入れて献上しようと思い、着物を脱いでこれと交換しました。酒食については、留守を守る家臣が持ってきたものです。もしなお疑いがおありでしたら、諸将にお尋ねください。」頼朝はその実直さに感嘆し、酒を賜って言った。「そなたには忠勲がある。守護の職をもって賞するとしよう。かつてそなたが経てきた土地で、どこを望むか。」行平は言った。「播磨を賜りたく存じます。かの地には須磨・明石という景勝の地がございます。」頼朝は承諾したが、実現しなかった(注:『東鑑』による)。

文治年間、京では盗賊が多く、頼朝は行平と千葉常胤を遣わしてこれを鎮めさせた。常胤は病があったため、行平が先に京に到着し、その夜のうちに兵を分けて捜索し、盗賊八人を捕らえて斬り、首をさらした。その処置は北条時政のやり方に倣ったもので、検非違使庁には知らせなかった。群盗は驚き恐れて皆逃げ去った。まもなく鎌倉に帰り、頼朝に従って藤原泰衡を討ち、畠山重忠とともに阿津賀志山(あつかしやま)で西木戸国衡を攻め破った。泰衡が逃げ隠れるに及んで、頼朝は行平・小山朝政らを遣わし、物見岡まで跡を追って泰衡を捜索させた。着いてみると泰衡はまた逃げていたため、その兵数十人をことごとく殺した。行平は弓術に優れ、建久の初め下総に帰って住んだ際、頼朝は自ら書状を作って呼び寄せ、頼家に弓を学ばせた。これによりその恩寵はますます厚くなった。また書を賜り、行平の子孫が永く一族に列することを許した。かつて頼朝が泰衡を征伐した際、諸将にそれぞれ武具を献上させ、行平に鎧兜を作らせたところ、兜の後ろに笠標(かさじるし)を付けた。頼朝は不審に思って言った。「笠標は本来、鎧の袖にあるべきものではないか。」行平は言った。「これは先祖秀郷の作り方でございます。武士は戦いに臨んで必ず一番乗りを期し、自ら名乗りを上げて敵に聞かせるものです。また笠標を設けるのは、味方の軍が背後からこれを見て目印とするためです。もしこれを袖に移し置くとすれば、それは将軍のお心次第でございましょう。」頼朝はこれを良しとした(注:『東鑑』による)。子の行綱は左衛門尉となった(注:『尊卑分脈』による)。弟に政義がいる。

下河邊政義

下河辺政義(しもこうべ まさよし)は四郎と称した。志田義広を撃って功をあげ、頼朝は常陸南郡を賜った。政義はその郡に課役が多いことを憂え、頼朝に訴えた。頼朝は常陸目代に書を下して言った。「政義は外にあっては軍務を掌り、内にあっては政事に労している。それゆえ南郡をもって賞したのである。しかし聞くところによれば、毎年の公課が繁多で、百姓が苦しんでいるという。今後は正税以外、徴発してはならない。」この年、源範頼に従って西海で平氏を討った。まもなく、鹿島の神官・中臣親広が、政義が神宮領の橘郷を掠め取ったと訴え、頼朝は政義と親広を召して対決させた。親広は政義の非を言い立てたが、政義は争わなかった。頼朝は笑って言った。「神官に屈するとは、日頃の勇はどこにいったのか。」政義は言った。「私は鹿島の神が勇士を保護すると聞いております。畏れ敬わずにいられましょうか。私に言い分はございますが、あえて自ら申し述べません。」文治年間、河越重頼が源義経に連座した事件で、政義は重頼の娘婿であったため、それゆえ食邑を没収された。政義は膂力があり、頼朝が永福寺を造営した際、諸将に自ら土木を運ばせた。政義は畠山重忠らとともに梁材を引いたが、その力は数十人分に匹敵した。見る者は皆驚いた(注:『東鑑』による)。

葛西清重

葛西清重(かさい きよしげ)は武蔵の人で、姓は平氏、秩父氏の別族である。秩父別当武基の弟を武常という。武常は常家を生んだ。常家は康家を生み、豊島三郎と称した。康家は清光を生み、豊島権守と称した。清光は清重を生み、葛西三郎と称した(注:『平氏系図』による。『源平盛衰記』も参照した。清重の先祖は代々武蔵に住み、父祖は皆豊島と称していた。しかし清重が葛西と称したのは下総にあり、おそらく清重がその地をも兼ね有していたため、これを氏としたのであろう)。勇猛でありながら物を慈しんだ(注:『沙石集』による)。源頼朝が敗れて安房へ逃れた際、小山朝政・下河辺行平および清光・清重に檄を飛ばし、「兵を募って集まるように」と告げた。特に清重には次のように諭した。「そなたはもとより源氏に忠節を尽くしてきた(注:本書によれば、当時清重はまだ頼朝に属していなかった。ここで忠節を尽くしたというのは疑わしい。しかし小坪・衣笠の戦いには秩父一族が皆加わっているのに清重の名だけが見えないのは、すでに頼朝に款を通じていたためかもしれない。ひとまず疑いを残して後の考証を待つ)。しかし江戸・河越の間に隔てられており、進退を決めがたいのではないかと恐れる。早く海を渡って来るがよい。」その言葉はことのほか懇切であった。頼朝が上総に赴くと、遠近から従う者が非常に多かった。しかし江戸重長はかつて大庭景親に与していたため、降伏しようとしなかった。頼朝は使者を遣わして重長を招いた。翌日、また清重に使者を遣わし、清重に重長を誘い出して殺させようとした。江戸氏と葛西氏は同族である。頼朝は清重に二心がないと考え、それゆえこれを図るよう命じたのである。まもなく頼朝が兵を率いて武蔵に入ると、清重と清光がまず先に従った。ほどなく重長も一族の畠山・河越らとともに、皆降伏してきた(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』は清重が重長とともに降伏してきたとし、頼朝が浮橋を造らせた話を載せているが、本書によって考えると、その説は疑わしい。今はいずれも採らない)。頼朝が重長の所領を奪って清重に与えようとした。清重は辞退して言った。「所領を増やし邑を賜るのは、一族を庇護するためです。我が身一つの豊かさ貧しさは、問うところではありません。今、江戸氏は私にとって一族であります。もし罪があって所領を奪うのであれば、どうか他の人にお授けください。」頼朝は怒って言った。「そなたが賜り物を受けないなら、そなたの所領もまた没収するであろう。」清重は言った。「私が今これによって罪を得るのは、まことに私の運命の窮まりであり、私の力の及ぶところではありません。しかし受けるべきでないものを受けることは、私もまた承知いたしません。」頼朝は感じ入って悟り、重長の地を没収しなかった(注:『沙石集』による。本書はその年月を詳らかにしていないため、ひとまずここに付す)。頼朝が佐竹秀義を討って帰る途中、武蔵を通過した際、丸子荘を清重に賜り、その家に宿泊した。清重は妻に自ら食膳を執らせてこれをもてなした(注:『東鑑』による)。

壽永三年、源範頼に従って西海で平氏を討ち功をあげ、頼朝は書を賜ってこれを褒めた。文治年間、頼朝に従って藤原泰衡を討った。畠山重忠らがすでに阿津賀志山の軍を破ったとき、頼朝は翌朝山を越えて城を攻めようとし、手はずはすでに定まっていた。この時重忠が先鋒であったが、清重は三浦義村らとともに六騎で、夜のうちに密かに重忠の陣営を通り過ぎ、山を越えて一番乗りをし、まっすぐ城門に突入した。城兵はこれを防ぎ戦ったが、清重は自ら数人を殺し捕らえた。陸奥が平定されると、頼朝は陸奥にいる家臣たちに、皆清重の指図に従うよう命じた。また清重に平泉郡内の検非違使所の事務を管掌させた。この戦いにおいて、頼朝は清重の功が最も多いとして重い任務を委ね、さらに伊沢・磐井・牡鹿の地数か所を割いてこれに報いた。頼朝が鎌倉に帰るにあたり、清重を留めて陸奥を鎮撫させた。この年、陸奥は穀物が実らず、そのうえ戦乱もあって、民は生業に安んじなかった。頼朝は清重に窮民を救済させた。清重は交易市場を設けて有無を通じさせ、国中は大いに治まり、頼朝は感心して賞した。泰衡の旧将・大河兼任が出羽で挙兵し、陸奥に転じて入ってくると、頼朝は諸将に命じてこれを討たせた。千葉胤正は請うて言った。「葛西清重は勇猛比類ありません。私はかつて共に事に当たり、上総で功をあげました。今、彼とともに行くことを願います。」頼朝はこれを許した。当時清重はなお陸奥にいたので、そこで書を下して胤正に従い兼任を討たせた。兼任は敗走した。清重は使者を馳せて鎌倉に状況を報告し、あわせて将士の功を奏上した。まもなく頼朝は伊沢家景を陸奥留守とした。おおよそ陸奥の事は、もっぱら清重と家景に奉行させた。建久の初め、頼朝に従って京に上った。頼朝は推挙して兵衛尉とした。かつて頼朝が武芸に優れた親臣十一人を選び、毎夜寝所に宿直させたとき、清重もこれに与った。後に那須野で狩りをした際にも、また武芸に優れた親臣二十一人を選び、独り弓矢を帯びることを許したが、清重は再びこれに与った(注:『曾我物語』には、清重が富士野の狩に従い、鹿を追って崖の間に落ち、馬が動けなくなったが、清重は手綱を緩めて徐々に降り、人馬ともに無傷であったので、見る者が驚き感嘆したとある。頼朝はその優れた技量を褒め、常陸小栗邑を授けたという。しかし本書の富士野の狩の記事には清重の名が載っていないため、今はこれを採らない)。おおよそ頼朝の出入りには、いつも付き従わないことはなかった。清重が陸奥にあった時、その母が家にあって病にかかると、頼朝は使者を遣わして見舞い、あわせてこれを清重に知らせた。その親しく遇されることはこのようであった。承元年間、千葉・三浦らの一族とともに、京に入って滝口に直宿した(注:『東鑑』による)。

和田義盛の乱に際し、清重は力戦して功があった(注:『沙石集』による)。後に壱岐守となり、髪を剃って壱岐入道と称した。承久の役では、老齢のため従軍せず、大江広元らとともに鎌倉に留まって軍謀に参画し、兵士を調達し派遣した。伊賀光宗らが乱を起こすに及んで、人心は騒然とし、鎌倉は騒がしくなった。政子は清重と小山・結城の諸将に命じ、力を合わせてこれを鎮撫させた(注:『東鑑』による)。子の清親は伯耆守となった。朝清は三郎左衛門と称した。時重は七郎左衛門。重村は河内守となった(注:『秩父系図』による。『東鑑』も参照した。系図の一説には重村を清秀に作る)。

八田知家

八田知家(はった ともいえ)は姓を藤原といい、四郎と称し、下野の人である。その先祖は関白道兼から出ている。父の宗綱は下野守となり、八田権守と称し、知家を生んだ。知家は左衛門尉・筑前守となった(注:『尊卑分脈』による。本書には、知家はもとは源義朝の子で、宗綱の養子になったとあるが、真偽は不明である。『宍戸系図』には、知家の母は宗綱の子・朝綱の娘で八田局と称したとある。平治の乱の際、知家は宗綱の家に匿われ、宗綱が養って子とした。しかし『保元物語』にはすでに下野の人・八田四郎とあるので、これより先に知家はすでに下野にいたことが知られる。しかも『東鑑』には、宗綱の娘は小山政光に嫁ぎ頼朝の乳母になったとある。系図はこれによって誤りが生じたものと思われるため、今はこれを採らない)。保元の乱では源義朝に属した(注:『保元物語』による)。頼朝が挙兵すると、知家の兄・宇都宮朝綱は京にいたが、知家は頼朝のもとに帰参し、範頼・義経に従って西海で平氏を討った。文治年間、頼朝が藤原泰衡を討った際、知家と千葉常胤を別に東海道の将帥とし、常陸・下総の兵を率いて阿武隈川で合流させ、戦功があった。泰衡が滅びると、その叔父・樋爪俊衡が降伏し、頼朝は知家の陣営に幽閉するよう命じた。俊衡は年齢が非常に高く、自ら進んで捕らえられ、まったく口をきかず、日夜仏経を誦していた。知家はもとより仏を崇めていたため、深くこれを憐れみ、頼朝に赦免を請うた(注:『東鑑』による)。

建久元年、頼朝が京に上ろうとし、諸将が皆集まったが、知家はまだ到着していなかった。頼朝はこれのため出発しなかった。正午になってようやく到着すると、頼朝はこれを咎めた。知家は謝って言った。「前駆・後隊は、誰に命じられましたか。」頼朝は言った。「前駆はすでに畠山重忠に命じたが、後隊はまだその人を得ていない。」知家は千葉常胤を推薦するよう請い、頼朝はこれに従い、そこで出発した。その親任ぶりはこれほどであった。知家の所領は多気義幹の所領と境を接しており、勢力を争って互いに仲が悪かった。たまたま頼朝が富士野で狩りをした際、曾我祐成兄弟が父の仇を討ち、遠近が騒ぎ動揺した。知家はこの変事を聞いて赴こうとし、そこで義幹を陥れようと謀り、密かに人を使って義幹に誘いをかけて言わせた。「知家がまもなく襲ってくる。備えをすべきである。」義幹はこれを信じ、兵を整えて自ら守った。さらに使者を遣わして義幹に告げさせた。「将軍の狩りには警戒があると聞く。諸将は皆集まっている。私はあなたと共に行くつもりだ。」義幹はますます疑って聞き入れなかった。知家は富士野に到着すると、頼朝に義幹に陰謀があると讒言した。頼朝は義幹を呼び出し、知家と対決させたが、義幹は自らの潔白を明らかにすることができず、ついに罪を得た。頼朝が薨去し頼家が跡を継ぐと、知家は北条時政・大江広元らとともに政事に参画した(注:『東鑑』による)。後に髪を剃り、尊念と号し(注:『清河源氏系図』による)、没した。子は知重・宗政・知尚・時家である(注:『尊卑分脈』による)。

知重は小田氏と称した。養和の初め、頼朝が弓の巧みな者を選んで寝所に宿直させた際、知重もこれに加わった。建久の初め、頼朝に従って参内し、父のゆえをもって左兵衛尉に任ぜられ、後に常陸介となった。宗政は宍戸四郎左衛門と称した。和田義盛の乱では、義秀と格闘して勝てず死んだ(注:『東鑑』による)。知尚には別に伝がある。時家は高野氏と称し、伊賀守に任ぜられた(注:『尊卑分脈』による)。文永年間、評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。曾孫の知宗、およびその二子の時知・貞知は、相続いて六波羅頭人となった。時家の弟・義勝には家長という子がいた。知家はこれを養って子とし、中条氏と称し(注:『尊卑分脈』による)、評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。出羽守に任ぜられた。承久の乱の際、幕府の宿老は皆鎌倉に留まったが、家長もこれに加わった(注:『東鑑』による)。

首藤經俊

首藤経俊(すどう つねとし)は、刑部丞俊通の子である。その先祖は藤原秀郷から出ている。秀郷の玄孫・公光は相模守となり、公清を生んだ。公清は助清を生んだ。参河に住み、主馬首となり首藤と号し、助道を生んだ(注:『東鑑』には「資通」に作る)。源頼義の陸奥の役に従い、勇名があり、いわゆる七騎の一人である。助道は親清を生んだ。親清は義通を生んだ(注:本書の一説には助道の弟とする)。山内と号し(注:『首藤家譜』によれば、俊通が初めて山内に住み、山内首藤と称したという)、刑部丞に任ぜられ、俊通を生んだ。滝口となった(注:『尊卑分脈』による。『首藤家譜』の一説には、俊通の五世祖・権大納言藤原長家が通家を生み、公光の養子として出されたとある。上野介・下野守を歴任した。通家は在任中に子を生み、任期が満ちて京へ連れ帰った。美濃の席田を通過する際、郡司の守部資信がこれを自分の子にほしいと請い、名を資清といった。成長すると守藤大夫と称し、頼義に仕え、後に主馬首となり、それゆえ首藤と称した。その由来を述べるところは本書と異なる。しかし本書の一説にもまた、助清はもとの姓を守部氏といい、それゆえまた守藤とも称したとある。家譜の記述と合致するため、ひとまず付して参考に備える)。保元元年、源義朝に従って禁旅に属し、力戦して功があった(注:『尊卑分脈』『保元物語』による)。平治の乱で義朝が敗走した際、平氏の軍が進撃し、俊通は力戦して死んだ(注:『平治物語』による。『尊卑分脈』も参照した)。

経俊は滝口三郎と称し、また刑部丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた。源頼朝が挙兵すると、安達盛長が檄を伝えて経俊に諭した。経俊は傲慢な態度でこれを礼遇せず、大言して言った。「人は貧賤に至ると、心を失い節操を失うものだ。佐殿(頼朝)の微力をもって、隆盛な平氏を撃とうとするのは、たとえるなら蟻塚が富士山と高さを争い、老鼠が猫の頭上の物を窺うようなものだ。相応しくない者にその謀に与することは、私はしない。」ついに大庭景親に従ってこれを攻めた(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』も参照した。『盛衰記』では、俊綱の子・三郎利氏が、弟の四郎利宗に語ったこれこれの言葉があるとするが、『尊卑分脈』および『首藤系図』を考えるに、俊綱に子はなく、『東鑑』にもそのような記事は見えない。『盛衰記』の石橋山の戦いの記事には、頼朝の将士を攻めた者の姓名として滝口三郎経俊とあるので、『東鑑』が経俊の事とするのが正しいと思われる。それゆえ今は両書を参照した)。経俊は頼朝の鎧の袖を射当てた。後に頼朝に降伏したが、頼朝はこれを殺そうとした。経俊の母は頼朝の乳母であったため、自ら幕府に赴いて哀訴して言った。「亡き夫・助道は八幡殿(源義家)にお仕えし廷尉禅室(源義朝)の乳母夫となり、代々功労がありました。平氏の乱の際、俊通は頭殿(義朝)に従い、砂上に骸をさらしました。経俊が景親に与したのは、一時の保身のためだけでございます。当時将軍に逆らった者は、今では多くが赦免を受けております。どうか先祖の功に免じて、経俊の罪を贖わせてください。」頼朝は答えず、そこで鎧を取り出して示した。矢じりは袖に残り、篦を切った跡には姓名を記した箇所がなお残っていた。母は涙を流して退出した。まもなく頼朝はこれを赦した。壽永三年、波多野経通・大井実春とともに志田義広を伊勢の羽取山で撃ち、その首を得た(注:『東鑑』による)。

文治元年、源義経が敗走した際、その将・伊勢義盛が来襲したが、経俊はこれを防ぎ戦って破り、ついに義盛を斬った(注:『源平盛衰記』による)。元久元年、平氏の残党が伊賀・伊勢で挙兵した。経俊は当時両国の守護であったが、兵が少なく防ぎ守ることができず、守護所を捨てて逃げた。平氏はついに二国を攻略した。平賀朝雅がこれを撃って平定し、経俊もまた散った兵を集めてこれを助けた。源実朝は経俊を責め、その職を奪った(注:『東鑑』による)。嘉禄元年、死んだ。享年八十九(注:『首藤系図』による)。子の通基は幼名を持寵丸といい、中山六郎と称した。平賀朝雅が鎌倉で罪を得て松坂へ敗走した際、通基がこれを射殺した(注:『東鑑』『首藤系図』による。中山は系図による)。経俊の弟に俊綱がいる(注:『尊卑分脈』による)。

首藤俊綱

首藤俊綱(すどう としつな)は、保元元年、父の俊通とともに源義朝に従い、力戦して功があった(注:『保元物語』による)。平治の乱で、源頼政は六条河原に陣を敷き、兵を控えて進まなかった。義朝の子・義平はその日和見ぶりを憎み、俊通らの精兵を率いて陣に突き進んだ。俊綱は矢に当たり馬から落ちそうになった。俊通は声を励まして言った。「傷を受けたのはわずか一矢だけだ。お前はなぜこれを我慢できないのか。」俊綱は無理に鞍にしがみついた。義平は斎藤実盛に命じて言った。「俊綱の傷は急所に当たっている。壮士を惜しむべきだ。敵に討ち取られてはならない。」実盛はそこで刀を抜いて俊綱に向けて言った。「そなたの傷は重く生きられない。御曹司(義平)は敵に討ち取られることを望まれない。そなたはむしろ私の手にかかって死ぬがよいか。」俊綱は感じ喜んで言った。「将軍(義平)は若いのに、士を厚遇することがこれほどまでとは。」そこで刃を受けて死んだ(注:『平治物語』による)。俊綱の弟・俊秀は幼くして孤児となり、園城寺の僧・慶秀がこれを引き取って弟子とした。成長すると勇敢で膂力があった。以仁王が敗れた際、これに従って南へ向かった。敵兵が光明山まで追いつき、王は流れ矢に当たって薨じた。俊秀は苦戦し、十余人を殺傷して、ついに奈良へ逃れた(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による。諸本の『平家物語』はいずれも俊秀が力戦して死んだとしている)。

金子家忠

金子家忠(かねこ いえただ)は十郎と称した。その先祖は平家高望から出ている。父の家範は武蔵金子邑に住み、これを氏とした(注:『村山系図』による)。保元元年、家忠は源義朝に属し、白河殿を襲い、為朝が守る西河原門を攻め、自ら姓名を名乗って前に進んだ。為朝は怒って言った。「彼は私の矢を避けなかった。私はその勇を愛する。彼を引っ張ってこい。私はその顔を見よう。」高間四郎が進み出て組み打ちになり、家忠がこれを倒すと、四郎の兄・三郎が家忠を斬ろうとしたが、家忠は三郎を刺し殺し、あわせて四郎を斬った。首藤家末が前に進んでこれを射ようとすると、為朝は言った。「勇士である。捨て置け。私が後日志を得れば、彼を臣下にしよう。」(注:『保元物語』による)。平治の乱で、義平に属して六波羅を攻め、力戦して刀が折れ、これを安達遠基に乞うた。遠基は予備がなく、従者が帯びていた太刀を取ってこれに与えた。家忠は大いに喜び、敵軍に進み入って多くの首級を得た(注:『平治物語』による)。三浦義明が衣笠城に拠った際、家忠は畠山重忠らとともに、家来三百人を率いてこれを攻め、奮い勇んで血戦し、鎧の上には矢が針鼠の毛のように刺さったが、ついに二つの門を奪った。義明は杯に酒を用意してこれをねぎらって言った。「今日の戦いは、多くが武蔵・相模の精鋭であったが、そなたはことに勇壮であった。どうか快く飲んで奮戦してほしい。」家忠は弓を杖にして三杯を飲み、使者に謝して言った。「私の志気は倍増しました。城を落とすのはまもなくのことでしょう。」踊り上がって進んだ。義明は嘆じて言った。「壮士である。一人で千人に当たるというべきだ。」義盛に命じてこれを射させ、藤平実国がこれを斬ろうとした。家忠の弟・余一近範が家忠を担いで去ろうとしたが、三浦余一が急いでこれに迫ると、近範は家忠を捨てて引き返して戦い、余一はこれに敵しきれないと見て逃げた。近範はこれを追いついて斬り、また担いで去った。後に家忠と近範は源頼朝のもとに帰り、たびたび従軍した(注:『源平盛衰記』による)。子の家高は大蔵丞となった。家高の子・時家は六郎と称した。承久の乱では北条氏に属し、戦功があった(注:『村山系図』による)。

熊谷直實

熊谷直実(くまがい なおざね)は二郎と称し、鎮守府将軍平貞盛の後裔である。祖父の左衛門尉盛方は、かつて北面の武士として仕えたが、法に触れて誅せられた。当時、父の二郎大夫直貞はまだ幼く、乳母とともに逃れて武蔵に至り、小澤氏を頼った。成長すると胆力と勇気が人に優れていた。熊谷郷に大きな熊がいて害をなしており、郷里の人々はこれを苦しみとし、共に約束を定めて言った。「熊を殺せる者を、党の長として立てよう。」直貞は年十六で山に入り熊を殺した。郷里の人々は喜んで彼を私党の旗頭とし、それゆえ熊谷を氏とした。直実は幼くして父を失い、兄の直正とともに、伯母の夫・久下直光の家で育てられた(注:『熊谷家譜』による)。直実は気概があって剛直で、かつて直光に代わって京で番役についた際、同輩たちは代人であることをもってこれを軽んじ侮ったので、直実はこれに堪えられず、屈辱を抑えて、直光に断ることなく、中納言平知盛に仕えた。直光は怒ってその所有地を奪った。直実は郷里に帰ったが、たまたま源頼朝が挙兵すると、直実は大庭景親らとともにこれを攻め、後に頼朝に降った(注:『熊谷家譜』によれば、直実はかつて梶原景時と共に降伏しようと約束していた。頼朝が真名鶴崎に逃れて自害しようとした際、直実は景時とかつて約束があったことをもってこれを止めた。景時が追いついてから、直実はついに前の議を申し出て、頼朝を戸口から脱出させたという。『東鑑』『盛衰記』とは異なるが、ひとまず参考として残しておく)。頼朝が佐竹秀義を攻めた際、直実は平山季重らとともにこれに赴き、一番乗りして討ち取り、その功は最も多かった。頼朝はこれを深く評価し、教書を下して直光の奪った所領を回復させ、代々地頭職とさせた(注:『東鑑』による)。

壽永三年、源義経に従って源義仲を攻めた。義仲は宇治橋を撤去してこれに備えた。軍が河のほとりに至ると、季重が応募して先に橋桁に乗り、渋谷重助・佐々木定綱がこれに続き、直実もまた進もうとした。子の直家は年十六で、父に続いて進んだ。直実はこれを戒めて言った。「橋桁は危険極まりない。私でさえこれを難しいと思う。お前はまだ幼く弱い。たとえるなら木の実がまだ堅くなっていないようなものだ。多くの兵が到着するのを待ち、互いに頼り合って渡るべきだ。」直家は笑って言った。「子供とてどうして秋の未熟な果実でしょうか、実が堅いか脆いかなど関係ありません。父上はいつも目まいに苦しんでおられます。子が助けるべきでしょう。」そこで共に橋桁に乗った。直実は矢を放ち、義仲の兵・藤太兼助を討ち取った(注:『源平盛衰記』による。異本の『平家物語』では、先に橋桁に乗った者として直実父子は挙げられていない)。一の谷の戦いで、義経が鵯越に至ろうとした際、直実は夜、密かに直家に言った。「私は先に宇治川を渡った時、心では一番乗りを望んでいたが、佐々木高綱に先を越され、深く残念に思った。明日は城門に迫り、我が志を遂げよう。」直家は言った。「陣中に平山季重の姿が見えません。おそらく彼にもこの志があるのでしょう。九郎殿(義経)もいつも士卒の先頭に立とうとされます。今、九郎殿に従っていては、どうして一番乗りができましょうか。父上は早く出発なさるべきです。」直実は喜び、そこで父子で城の西門に向かった。その時まだ夜が明けておらず、父子は自ら姓名を名乗って挑戦した。城兵は櫓の上から雨のように矢を連射し、城門は開かなかった。ただ無駄死にするだけと思い、父子はしばらく休んだ。そこへ季重が果たして到着した。ちょうど城中で音楽を奏でていたので、直実は嘆じて言った。「高貴な人々の風流はこのようなものか。我らはこの人々を相手に殺し合いをする、なんと不幸なことか。」やがて門が開き、季重が先に入り、直実父子がこれに続いた。城兵の平盛嗣・藤原忠光およびその弟の景清らが、精鋭二十余騎でこれを囲んだ。直家は矢に当たり、父に向かって矢を抜いてほしいと請うた。直実は言った。「傷は重くない。私もその暇がない。お前はしばらく待て。」再び馬を馳せて血戦し、諸軍が進撃して、城はついに陥落した。平氏は海へ逃れ、直実は追いついて平敦盛を斬った(注:『源平盛衰記』による。本書の下文には、直実が敦盛の首を義経に請い、その所持していた笛とともに敦盛の父・経盛に送ったとあるが、事情はいささか疑わしい。また『東鑑』などの諸実録にはこの記事が見えないため、採らない)。季重は姓を日奉といい(注:『平山系図』による)、平山武者所と称し、右衛門尉となった(注:『東鑑』による)。後に頼朝が一の谷の戦功を論じた際、「直実は早く城門に到達したが、先に入ったのは季重である」と言い、季重を第一とした(注:『源平盛衰記』による)。頼朝が鶴岡で流鏑馬を見た際、直実に的を立てるよう命じた。直実は憤って言った。「射る者は馬に乗り、的を立てる者は徒歩です。優劣があるようで、私はあえて命に従いかねます。」頼朝は諭して言った。「器量に応じて事を任せるのであって、私は初めから優劣をつけているわけではない。それに的を立てることは卑しい役目ではない。新日吉祭の御幸の日には、的を立てるのは滝口の木工所の者たちである。これは的を立てることが射る者より貴くないということになろうか。今その理由を明らかにして決めたのだ。そなたは拒んではならぬ。」直実はあくまで従わず、頼朝は怒ってその所領を削った(注:『東鑑』による)。

建久三年、久下直光と土地の境界を争った。頼朝が自ら裁決し、何度も詰問したが、直実はもともと口下手で、自らうまく弁明することができず、大いに怒って言った。「梶原景時が直光に肩入れし、巧みな言葉で先に取り入っている。私を非があるとするのはもっともなことだ。証拠の文書など何の役にも立たない。」そこでこれを庭に投げ捨て、走り出て侍所を出て、刀を抜いて髷を切り、目をいからせて大声で叫んで言った。「私は二度とここには参らぬ。」ついに家に帰らず、馬を馳せて西へ向かった。頼朝はこれを聞いて、人を遣わし方々で行く手を遮って引き止めさせた。直実が京へ向かおうとした途中、走湯山の僧・専光に出会い、専光は初心に立ち返るよう懸命に諫めたが、直実は聞き入れず(注:『東鑑』による)、ついに京へ走り、新黒谷の僧・源空(法然)のもとに投じて弟子となり、名を蓮生と改めた(注:『黒谷上人伝』による)。数年経って鎌倉に来て頼朝に謁見し、自らもっぱら仏道に帰依したと語った。兵法や武芸の要諦について語り合うに及んでは、聞く者は皆感嘆した。頼朝はしきりに引き留めたが、聞き入れずに去った。承元二年九月十四日に死んだ。あらかじめ死期を知り、これを直家に告げた。直家が駆けつけると、果たしてその言葉の通りであった(注:『黒谷上人伝』には建久二年に死んだとある)。直家は小次郎と称し、頼朝はかつて小山政光に「直家は本朝無双の勇士である」と語ったことがある(注:『東鑑』による)。直実もまたかつて下文を賜り、「日本第一剛の者」と称された(注:『神皇正統記』による)。父子ともに評価され重んじられたことはこのようであった。承久の乱では、北条時房に従って勢多で戦った。直家は言った。「敵はまだ破れない。皆はなぜ休まないのか。」そこで皆と共に地に伏した。飛んでくる矢が雨のように降っても、じっと伏して動かず、時房もまた戦をやめるよう命じた(注:『承久記』による)。子の直国は平内左衛門尉と称し、勢多で戦死した(注:『東鑑』『承久記』による)。