卷之二百 列傳第一百廿七

將軍家臣十

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字

北條泰時

北条泰時(ほうじょうやすとき)は、右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)北条義時(ほうじょうよしとき)の長男である。幼名を金剛といい、江馬太郎(えまたろう)と称した。かつて徒歩で外出した際、多賀重行(たがしげゆき)に出会ったが、重行は馬から下りようとしなかった。源頼朝(みなもとのよりとも)はこれを聞いて激怒し、重行を叱って言った。「礼というものは老いも若きも区別せず、相手に応じて敬意を払うべきものだ。金剛のような者であっても、お前などと同列ではない。」重行は嘘をついてそのような事実はないと言い張った。頼朝はますます怒り、泰時に事実を問いただした。泰時は重行が罪に問われることを恐れ、重行の言う通りに答えた。頼朝は泰時が人の過ちをかばう度量を持つことを褒め、剣を与えて称えた。泰時が十三歳になった時、幕府に召され、頼朝自らの手で元服の冠を加えられ、頼時(よりとき)と名乗ったが、後に今の名に改めた。成長するにつれて、寛大で思慮深く、見識も度量も人並み外れていた。

頼朝が亡くなると、子の源頼家(みなもとのよりいえ)が跡を継いだが、驕り高ぶって政務を怠り、寵臣たちと日夜蹴鞠(けまり)にふけっていた。建仁元年(1201年)、大風と洪水が起こり、穀物に被害が出た。泰時はひそかに中野能成(なかのよしなり)に語った。「蹴鞠は風流な遊びであるから、将軍がこれを好まれるのは構わない。しかし時勢に応じて取捨すべきものだ。今は災いや異変が相次いで起こり、民は飢えて青ざめた顔をしている。天文博士を召して、この災いの原因を尋ね、恐れ慎んで天の意に応えるべきである。それなのに今は民を顧みず、日々遊び場におられ、佞臣たちと戯れ交わっておられるのは、まことによろしくない。建久年間、亡き将軍(頼朝)が百日にわたり海辺で遊ぼうとされた際も、天文博士が天変を告げたためにすぐに中止された。将軍という重い任を担う身であれば、その振る舞いを慎まないでよいはずがない。あなたは今、将軍に親しく信任されているのだから、機会を見て諫めてはどうか。」能成はこれを将軍に申し上げたが、返事はなかった。

たまたま伊豆国北条(ほうじょう)で大飢饉が起こり、泰時は現地に赴いて視察した。出発しようとしたところ、僧の観清(かんせい)がやって来て告げた。「将軍は先ほどの諫言をお聞きになり、あなたが父祖の身分を越えて意見を述べたことに腹を立てておられます。あなたのためを思えば、病と称してしばらく北条に身を避けられれば、十日も経たぬうちに事は収まるでしょう。」泰時は答えた。「あえて諫言をしようとしたのではない。ただ側近の者に愚かな考えを漏らしたまでのことだ。もし私を罪に問おうとされるのであれば、避けようが避けまいが同じことだ。私は明日、用事があって北条へ赴く。すでに旅支度を調えているのであって、あなたの言葉によってそうするのではない。」そう言って旅の荷物を見せると、頼家もまた泰時を罪に問うことはなかった。

これより先、北条の民が飢えていたとき、泰時は米を貸し与え、秋になれば元本と利息を返済させることにしていたが、風害に遭って返済できなくなり、人々は連れ立って流浪しようとしていた。泰時は北条に到着すると、借財のある者をすべて集め、借用証文を取り出して焼き捨て、酒食をふるまい、一人につき米一斗を与えた。父老たちは大いに喜んだ。(注:『東鑑』による。)

建暦(けんりゃく)元年(1211年)、泰時は修理亮(しゅりのすけ)に任じられた。(注:『関東評定伝』『将軍執権次第』による。)建保(けんぽう)の初め、和田義盛(わだよしもり)が北条氏を滅ぼそうと謀り、土屋義清(つちやよしきよ)らを誘って兵を挙げ、軍を三隊に分けた。一隊は幕府を囲み、一隊は義時の邸を包囲し、一隊は大江広元(おおえのひろもと)の邸を取り囲んだ。広元はちょうど客を招いて宴を張っていたが、変事を聞いて幕府に駆けつけた。幕府の守りは手薄で、将士は恐れおののいた。泰時は弟の朝時(ともとき)や足利義氏(あしかがよしうじ)らとともに兵を率いてこれを防いだ。義盛の子の義秀(よしひで)は力が強く戦いに巧みで、幕府方の兵は総崩れとなった。ちょうど危難に駆けつけた兵士が火を放ち、幕府の邸はことごとく焼けた(注:『明月記』には、広元が客としてその邸におり、酔って火を放ったとある。どちらが正しいかは分からない。)。将軍源実朝(みなもとのさねとも)はこれを避けて法華堂(ほっけどう)に逃れた。義盛は勢いに乗って攻め、夕暮れから明け方まで戦ったが、義盛の兵は精鋭ぞろいで、一人が百人に当たらぬ者はなかった。義時は将士を励まし、自ら矢弾の下に身をさらした。義盛はやや退いて前浜(まえはま)に陣を敷いた。泰時は兵をまとめて中下馬橋(なかげばばし)を守り、足利義氏や八田知尚(はったともひさ)らを遣わしてこれを追撃させた。

翌日、横山時兼(よこやまときかね)が来て義盛の軍と合流し、三千の兵で法華堂を直接攻めようとした。義氏や近江守源頼茂(みなもとのよりもち)らが道を遮ったため、義盛は前進できず、若宮大路(わかみやおおじ)で転戦した。千葉成胤(ちばしげたね)や相模・武蔵の兵たちも、変事を聞いて援軍に駆けつけた。このとき義秀は義清や古郡保忠(ふるごおりやすただ)とともに騎馬を連ねて駆け回り、幕府方の兵はたびたび退却させられた。泰時は法華堂に使者を送って言わせた。「我が軍は数は多いものの、敵兵の勢いは猛烈です。何らかの方策を講じるべきです。」実朝は大いに驚き、広元を召して、鶴岡八幡宮に願文を捧げさせた。まもなく義清が流れ矢に当たって死に、義盛の軍勢は衰え、義盛父子はついに敗死した。

乱が平定されると泰時の功に恩賞が与えられ、陸奥国遠田郡(とおだぐん)の地頭職が下賜された。泰時は辞退して言った。「義盛は以前から公(将軍)に恨みを抱いており、また私の亡き父にも遺恨があったために叛乱を起こしたのであり、幕府の将士の多くが死傷しました。私は父のために賊を除いたにすぎず、子としての務めを果たしたまでです。どうして恩賞を受けることがありましょうか。どうか賜り物は将士たちにお与えください。そうすれば双方ともに納得がゆくことでしょう。」実朝が再三にわたって諭したので、泰時はようやくこれを受けた。(注:『東鑑』による。)まもなく式部少丞(しきぶのしょうじょう)となった(注:『関東評定伝』による)。讃岐守(さぬきのかみ)を兼任するよう命じられたが、固く辞退して就かなかった(注:『帝王編年記』による)。その後累進して従五位上となり、駿河守(するがのかみ)を経て武蔵守(むさしのかみ)に転じた(注:『関東評定伝』による)。

承久(じょうきゅう)三年(1221年)、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が北条義時を討とうとした。義時はこれを聞いて泰時を召して言った。「事態はすでにこうなった以上、計画を定めねばならぬ。」泰時は言った。「昔、平清盛(たいらのきよもり)が主君をないがしろにし臣下を虐げたため、亡き将軍(頼朝)は詔を受けてこれを一掃し、上下ともに安堵いたしました。それ以来、幕府は代々朝廷にお仕えし、あえて礼を失うことはございませんでした。今、罪もないのに討たれようとしているのは、讒言を弄する者が帝の御耳を誤らせたのではございませんか。とはいえ、天下はすべて王の土地です。今いきなり抵抗するのは、臣たる者の道ではありません。自ら身を縛って御所に参上し、ただ仰せに従うのがよいでしょう。それでもなお天子の怒りが解けなければ、一族すべてが刑に服したとしても、何を悔いることがありましょうか。もし赦しを賜れば、山林に身を隠して余生を保てばよいのです。」義時はしばらく黙り込んでから言った。「お前の言う通りにするのは、政治が正しく国がよく治まり、賢明な君主が上に立っている場合のことだ。上皇が即位されて以来、政令は乱れ、人々は怒りと恨みを抱いている。それでもかろうじて災いを免れているのは、幕府が治めているからにほかならない。もし幕府が衰えて、政治がひとつの筋道から出るようになれば、民はどうなるであろうか。下から上を犯すのは、たとえ神仏の罰が恐ろしいとしても、決して自分一人のためではなく、天下の憂いに代わって憂えているのだ。もし志を遂げ、暗愚な君を廃して明君を立て、皇統の基を万世に固めることができれば、宗廟の御霊もこの心をきっとご覧になるであろう。それに私は決して御所を脅かそうとしているのではない。ただ国を誤らせる佞臣を除きたいだけだ。お前は早く出発せよ。」そして泰時に北条政子(ほうじょうまさこ)へこのことを報告させた。(注:『明恵伝』による。)

政子は泰時、北条時房(ほうじょうときふさ)、北条朝時に命じて兵を挙げ西へ上らせた。泰時と時房は東海道を進んだ。(注:『東鑑』『承久記』による。)まもなく泰時は単騎で引き返し、義時は驚き怪しんだ。泰時は言った。「号令や部署についてはすでにお聞きしました。もし上皇御自ら軍を率いて親征されたなら、どう対処すればよいのでしょうか。」義時はしばらくしてから言った。「よい問いだ。もし御輿(みこし、上皇の親征)に出会ったならば、兜を脱ぎ弓を緩めて、身を朝廷の下役人に委ねよ。しかし諸将を率いて軍を進める場合には、力を尽くして死力を尽くし、進むことはあっても退くな。もし軍が敗れたなら、私は二度とお前に会うことはできぬであろう。」(注:『東鑑』による。)そこで泰時は朝時らと道を分けて並び進んだ。

上皇は美濃(みの)・尾張(おわり)に将士を派遣して要害を固め、東海道・東山道の二道に当たらせた。別に越中(えっちゅう)にも兵を派遣して北陸道を守らせた。五月、泰時は東海道から、武田信光(たけだのぶみつ)・小笠原長清(おがさわらながきよ)らは東山道から進軍した。信光らは大井戸(おおいど)を攻め破り、大内惟信(おおうちこれのぶ)は敗走した。大豆戸(まめど)などを守っていた将たちも、その勢いを見ただけで潰走した。山田重忠(やまだしげただ)は洲股(すのまた)を守っていたが、軍を返して防戦し、泰時はこれを撃退した。そして信光・長清と合流してともに進んだ。朝廷側の軍議では、諸将を宇治(うじ)・勢多(せた)・淀(よど)・芋洗(いもあらい)に分けて配置した。時房は勢多を攻め、重忠は川に臨んで防ぎ守った。時房は戦いが不利となり、兵を収めて退いた。

泰時は宇治を攻めた。佐々木広綱(ささきひろつな)と熊野・奈良の僧兵一万余騎がこれを守っていた。折しも雨が激しく、泰時は栗子山(くりこやま、注:『承久記』では巌橋〈いわはし〉とする)に陣を敷き、夜明けを待って進発しようとした。三浦泰村(みうらやすむら)は夜を冒して兵を進め、川を挟んで矢戦を交えた。足利義氏もこれに続いて進んだ。泰時は二将が軽々しく進んでかえって敗れることを恐れ(注:『東鑑』『承久記』による)、自らも続いて出発しようとした。雨はますます激しくなり、軍中の鎧や馬はぐっしょりと濡れ、兵士たちは疲れ果て、首をすくめて群れ固まり、身を挺して官軍に抗いながらも、みな疑い恐れる思いを抱いていた。泰時は顔色ひとつ変えず、平然として兵を励まし進んだ。(注:『承久記』による。)

官軍は橋を取り払っていたので、兵士たちは橋桁づたいに進み、死者が次第に増えていった。泰時は平等院(びょうどういん)で兵を休ませ、まず芝田兼義(しばたかねよし)に川の浅瀬を探らせた。兼義は戻って「牧島(まきしま)なら渡れます」と報告した(注:『東鑑』『承久記』による)。そこで兼義・春日貞幸(かすがさだゆき)・佐々木信綱(ささきのぶつな)・中山重継(なかやましげつぐ)・安東忠家(あんどうただいえ)らは、馬の轡(くつわ)を並べて渡り始めた。兼義と貞幸の馬は矢を受けて倒れ、貞幸は水に沈んで死にかけたが、従者に救われた。泰時は自ら灸を据えて貞幸を蘇生させた。折からの雨で川の水は増水しており、武蔵・相模の兵で溺死する者は八百余人にのぼった。

官軍は勝ちに乗じて鬨(とき)の声をあげた。泰時は子の時氏(ときうじ)を呼んで言った。「我が軍はまさに不利になろうとしている。今こそ大将たる者が命を投げ出すときだ。お前は急いで川を渡れ。」時氏は六騎とともに渡った。泰時もまた渡ろうとした。貞幸は馬を制して諫めたが、泰時は聞き入れなかった。貞幸は偽って言った。「鎧を着けたまま渡れば、沈まぬ者はおりません。どうか鎧をお脱ぎください。」泰時が馬を下りて鎧を脱ごうとする間に、貞幸は馬を引いて立ち去ってしまった。泰時はついに川を渡ることができなかった(注:『東鑑』による)。義時はこれを聞いて、貞幸の功は先陣を切ること以上のものだと評した。まもなく五百余の兵が時氏の後を追って進んだが、負傷者が甚だ多かった(注:『承久記』による)。

尾藤景綱(びとうかげつな)は民家を取り壊して筏(いかだ)を作り、軍勢はみな渡ることができた。官軍はこれを防ぎきれず、前中納言源有雅(みなもとのありまさ)、参議藤原範成(ふじわらののりしげ)らは敗走した。時氏はこれを追撃し、大いに打ち破った。毛利季光(もうりすえみつ)・三浦義村(みうらよしむら)は淀・芋洗を攻めてこれを破った。時房もまた勢多で勝利を収め、官軍は一気に崩れ去った(注:『東鑑』による)。

三浦胤義(みうらたねよし)と山田重忠は都に戻って上皇に事の次第を奏上したが、上皇は門を閉ざして中に入れなかった。諸将は自殺する者もあれば、逃亡する者もあり(注:『東鑑』『承久記』を参照)、ついに都は陥落した。上皇は泰時に宣旨を下し、罪を廷臣たちに帰した。その経緯は「義時伝」に記す。泰時は時房とともに六波羅(ろくはら)に入って居を構え、政務を統括し、藤原忠信(ふじわらのただのぶ)や源有雅らを捕らえて幽閉したが、その他の公卿や官軍に加わった武士たちの多くは、罪を問わずに放免し、努めて寛大な処置をとった(注:『東鑑』による)。

そして義時の意向を受けて、幼い仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)を廃し、後堀河天皇(ごほりかわてんのう)を立て、後鳥羽上皇を隠岐(おき)に、土御門上皇(つちみかどじょうこう)を土佐(とさ)に、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)を佐渡(さど)にそれぞれ流した(注:『東鑑』『承久記』『百錬抄』『歴代皇記』による)。

泰時は六波羅に四年間在任したが、元仁(げんにん)元年(1224年)、義時が亡くなったため、泰時は鎌倉に戻り、執権の職を継いで時房とともに将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)を補佐した。泰時は喪に服してまだ一月も経っていなかったため、職に就くことを望まなかったが、大江広元に相談した。広元は言った。「あなたは重い任を負い、幕僚の上に立つ身です。国の安危や興廃に関わることであり、一日たりとも空けてはなりません。今日まで延ばしたことすら、すでに遅すぎると言えましょう。」そこで泰時はようやく政務を執り始めた(注:『東鑑』による)。

北条政子は義時の所領を子供たちに分け与えようとし、泰時に配分の案を作らせた。泰時は弟たちに多く分け、自分の取り分は非常に少なくした。政子は問うた。「お前はなぜ自分の取り分をそんなに少なくするのか。」泰時は謝って言った。「この身は執権の任にありますから、何を求めることがございましょう。ただ弟たちをいたわることだけを心がけております。」政子は長い間感嘆した(注:『東鑑』による。『太平記』『明恵伝』も参照)。

泰時の継母藤原氏は、兄の伊賀光宗(いがみつむね)と謀り、「娘婿の藤原実雅(ふじわらのさねまさ)を将軍に立て、自分の産んだ子の政村(まさむら)を執権にしよう」と企てた。光宗らは日夜これを謀議していたが、ある人がその企てを聞いて泰時に告げた。泰時は言った。「それは事実無根で信じがたい話だ。しかし何かの事にかこつけて乱の種を作る者がいることは恐れねばならぬ。事にあたっている数人の者以外は、自分の家に出入りさせないようにしよう。」

そもそも頼朝は北条時政(ほうじょうときまさ)に京都の守護を命じており(注:『東鑑』による)、それ以来、常に信頼の厚い者を交代で派遣するのが慣例となっていた(注:『東鑑』『帝王編年記』を参照)。このとき、京畿(けいき)の情勢が定まったばかりで人心が動揺しやすかったため、時氏と従弟の北条時盛(ほうじょうときもり)を六波羅に派遣して京都を警護させた(注:『東鑑』による)。畿内・西海の軍事を統括する任務は、これ以後、子弟の中から優れた者を選んで交代で務めさせることとし、六波羅探題(ろくはらたんだい)の南方・北方の両職はついに常設の役職となった(注:『将軍職権次第』『太平記』を参照)。

光宗兄弟は親しくしていた三浦義村の家に頻繁に出入りし、あるいは継母のもとを訪れて、互いに誓約を交わしていた。侍女がその話をわずかに聞き、泰時に告げて言った。「事の本末は分かりませんが、『互いに裏切らない』という言葉を交わしておられます。その振る舞いはひどく秘密めいており、まことに怪しく思われます。」泰時は言った。「彼らが兄弟で裏切らないと約束するのは、天倫の親しみを篤くすることであり、これ以上の善事はない。」

しかし光宗の企ては次第に露わになり、根も葉もない噂が街に満ちた。政子は義村の家に赴いてこれを諭した。翌日、義村は泰時のもとに参って言った。「亡き権大夫(義時)は義村の勲功を過分にお褒めくださり、陸奥四郎殿(政村)の烏帽子親(えぼしおや)となって、愚息の泰村を実の子のように扱ってくださいました。その御恩の厚さを思えば、あなたと四郎殿とをどうして軽重をつけましょうか。ただ世が平穏無事であることだけを願っております。近頃光宗らがひそかに異心を抱いておりましたが、私はその間に立って、ひそかにその企てを挫きました。これもまた義村がご奉公申し上げる所以でございます。」泰時はことさら喜びも怒りも顔に出さず、平然とした様子のまま、ゆっくりと言った。「私は政村に対して些かも含むところはない。どうして愛憎などございましょうか。」

しかし様々な疑いが渦巻き、将士たちが競って集まってきたため、政子は頼経を奉じて泰時の邸に移り、数日議論を重ねて決着をつけ、実雅を追放し、光宗を流罪とし、その他の一党についてはすべて罪を問わなかった(注:『東鑑』による)。

嘉禄(かろく)元年(1225年)、北条政子が亡くなり、泰時は時房とともに政務を執った。後に評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置し、重要事項は合議によって決するようにした(注:『関東評定伝』による)。

ある日、鎌倉で理由もなく騒ぎが起こり、将士たちが旗を掲げ甲冑を着けて幕府に駆けつけ、泰時の邸の門に集まった者はほとんど数百騎に及んだ。泰時は平盛綱(たいらのもりつな)・尾藤景綱(びとうかげつな)らに海辺へ馬を走らせ、「謀反人がいる、兵士たちは後に続け」と呼ばわらせた。稲瀬川(いなせがわ)まで来たところで、盛綱らは振り返って諭した。「実は何の変事もない。ただ諸君の騒ぎを鎮めようとしただけのことだ。命令もないのに勝手に兵を挙げるとは、いったいどういうつもりか。もし謀反の心がないのであれば、夜が明けきらないうちに早々にその旗を差し出すがよい。」これに応じて旗を差し出した者は十余人であった。翌日、泰時は彼らを召し出して言った。「事の急を聞いて命令に従ったことは、その信義を賞すべきである。しかし今後は決してみだりに動揺してはならぬ。」そしてすべての旗を返し、彼らの姓名を記録して帰らせた。

寛喜(かんき)年間、諸国が大飢饉に見舞われたため、米九千石を放出して貧民を救済した。また美濃(みの)や大久礼(おおくれ)など千余町の田租を免除し、宿場や渡し場を設けて流民に施しを与えた。頼るべき縁者のもとへ行きたい者には、道のりに応じて食糧を与え、その地に留まりたいと願う者には、その地の荘園に命じて世話をさせた(注:『東鑑』による)。

裕福な家に頼って食糧を借りた庶民については、翌年の豊作を待って元本を返済させることとし、その利息は泰時が代わりに支払った。荘園を持たない者や貧しい者については、元本利息ともに泰時が肩代わりして支払った。自らは食事の膳を切り詰め、衣服や器も古びたものをそのまま使い続けた。節倹に努め、自ら人々の先頭に立って範を示した(注:『太平記』『明恵伝』による)。

嘉禎(かてい)二年(1236年)、泰時は従四位下に叙せられ、まもなく左京権大夫(さきょうごんのだいぶ)を兼ねた(注:『東鑑』『関東評定伝』『将軍職権次第』による)。徳を施し恵みを与え、法令を整え、謙虚な態度で人々に接し、事の是非を判断するにあたっては、有力な一族や豪族であっても特別扱いすることはなかった。

武田信光(たけだのぶみつ)と海野幸氏(うんののゆきうじ)が上野(こうずけ)と信濃(しなの)の境界を争った際、幸氏に証拠があったため、泰時は幸氏の言い分を正しいとした。ある人が「信光は恨みを抱き、泰時を襲おうとしている」と告げた。泰時は言った。「人の恨みを恐れて是非を分けなければ、どうして政をとることができようか。信光が私に何をできるというのか。建保年間、和田義盛が一族数十人を率いて甥の胤長(たねなが)の命を助けてほしいと願い出たことがあった。私の亡き父(義時)はその願いを聞き入れなかっただけでなく、胤長を自ら縛り上げ、義盛の面前を通らせて役人に引き渡した。後に義盛は兵を挙げて叛いたものの、機を逃さず討ち取ることができたのは、私心のない正しい判断があったからにほかならない。」信光は驚き恐れ、「子孫は永久に異心を抱かない」と記した誓書を送ってきた。泰時はこれを諸将に示し、皆に誓書を提出させた。

泰時は兄弟の情に篤く、あるとき評定所にいたところ、賊が弟の朝時の邸を囲んでいると聞き、まっすぐに駆けつけて助けた。戻った後、平盛綱が諫めて言った。「あなたは天下のために自重されるべきです。軽々しく危難に赴かれるのはよろしくございません。たとえ朝廷の賊であっても、まず形勢を見極めて方策を立てられるべきです。盛綱らに命じてくだされば十分に対処できましょう。今後お慎みにならなければ、非難や禍を招くことを恐れます。」泰時は言った。「人がこの世に生きる上で、肉親を大切にすることが何よりも大事だ。人が我が弟を殺そうとしているのに、座視して救わなければ、人は私を何と言うだろうか。それこそ最大の非難を招くことではないか。朝時が賊に囲まれたことは、他人にとっては些細な事であっても、私にとっては建保・承久の乱に劣らぬ大事なのだ。」朝時はこれを聞いて、いっそう泰時を敬い重んじた。

泰時は執権の職に長く在り、政治の要諦を講じ学び、訴訟の裁決は公平であった。玄蕃允三善康連(げんばのじょうみよしやすつら)らと相談して、法令五十条を定め、これを貞永式目(じょうえいしきもく)と名づけた。暇のある日には弓術を講じ、子孫を教え導き、文人を招いて政務について語り合った。孫の経時(つねとき)を戒めて、「政治を行うには学問によらねばならぬ。お前もこのことに心を留めるように」と言った(注:『東鑑』による)。

仁治(にんじ)三年(1242年)、四条天皇(しじょうてんのう)が崩御されたが、皇太子はいなかった。この訃報が鎌倉に届いたとき、泰時はちょうど時房と酒宴を楽しんでいた。泰時は座を立って嘆いて言った。「皇位はこの上なく重く、神と人とが仰ぐところである。私が口を閉ざして黙り、朝廷の廷臣たちだけに策を決めさせれば、国の安危がどうなるか分からない。」そこで部屋に閉じこもって思案し、寝食を忘れるほどであった。心の中では土御門天皇(つちみかどてんのう)の皇子を即位させようと考えていたが、あえて自分一人で決めようとはしなかった。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に参詣してくじを引くと、果たして自分の思うところと一致した。

そこで秋田城介(あきたじょうのすけ)安達義景(あだちよしかげ)を京都に遣わし、その皇子を即位させることとした。義景は出発に際して尋ねた。「もし佐渡院(順徳上皇)の皇子がすでに即位しておられたら、どういたしましょうか。」泰時は言った。「よい問いである。そのために、あなたにわざわざ行ってもらうのだ。もしそうであれば、その方を廃するように。」義景は京都に入り、前内大臣源定通(みなもとのさだみち)に会って泰時の意向をすべて伝え、ついに土御門天皇の皇子を即位させた。これが後嵯峨天皇(ごさがてんのう)である(注:『増鏡』『保暦間記』『五代帝王物語』を参照)。

この年の六月、泰時は亡くなった。享年六十(注:『関東評定伝』『将軍職権次第』『平氏系図』による。『五代帝王物語』は寛元元年に亡くなったとするが誤りである。『歴代皇記』は享年六十余りとし、『帝王編年記』『保暦間記』はいずれも六十二とする)。法名は観阿(かんあ)(注:『保暦間記』『将軍職権次第』による)、 号は常楽寺(じょうらくじ)(注:『将軍職権次第』による)。

泰時は執権の職に十八年在り、政治は公平で訴訟の裁きも道理にかない、民衆はみな安んじて生業に励んだ。しかし泰時は自らの分限をわきまえ、高位に昇ることはなく、また一族や将士のために官職を求めることもなかった(注:『神皇正統記』による。十八年という年数は『保暦間記』による)。

官位の任命があるたびに、天皇から従四位に叙するとの詔が届いても、泰時は控えめに辞退した。そのたびに陰陽助(おんみょうのすけ)安倍忠尚(あべのただひさ、注:姓は『安倍系図』による)を召して言った。「私には功労もないのに、身分不相応な高い地位に進んでいる。無事に生涯を終えることは難しいのではないかと恐れる。神明に祈って、この寵愛を保てるようにすべきだ。」そこで家の庭で泰山府君(たいざんふくん)を祀った。政治には鋭意打ち込み、政庁に出る際には、必ず誰よりも先に赴かないことはなかった。

守護や地頭にはいつも「権勢を頼んで職務を私するようなことがあってはならない」と戒めていた。国司や荘園領主からの訴えを受けたときは、六波羅に召してこれを取り調べた。召しにすぐ応じず、鎌倉に上申文を出し、京都で滞在して期限に遅れた者には、その分の弁償をさせた。鎌倉に身を置きながら衛府(えふ)や内舎人(うどねり)の官を帯びていながら、朝廷への奉仕を怠る者には、それぞれ相応の額の銭を朝廷に納めさせた。

泰時は清廉な生き方を貫き、音楽や女色、遊興を好むことはなかった。用水路を開き、橋を修繕するなど、民の利益になることであれば、知る限り行わないことはなかった。諸将と交代で幕府に宿直し、年老いてもなお一層これに励んだ。宿直の際、家の若党が敷物を用意して差し出すと、泰時はこれを叱って退け、「私的な物をこのような公の場に設けるべきではない。お前は人にお仕えする身でありながら、まだこの礼儀もわきまえないのか」と言った。

かつて法華堂に参詣した際、堂の下で拝礼した。寺僧が堂に上るよう勧めたが、泰時は「将軍がご存命の頃でさえ、みだりに近づくことはできなかった。亡くなられた後に、どうして安易に礼を欠くことができようか」と言った(注:『東鑑』による)。

下総国(しもうさのくに)の地頭がかつて荘園領主と年貢の滞納をめぐって争ったことがあった。泰時は自ら訴訟を聴いた。双方の訴えと弁明を聞くと、荘園領主の言い分の方が要領を得ていた。地頭は手を打って「私の負けだ」と言った。人々はその降参の早さを笑った。泰時は言った。「私は長く訴訟を聴いてきた。たとえ道理に合わなくとも、繰り返し言い争って万に一つの僥倖を望むのが、訴訟をする者の常である。お前の言い分は、まったく道理がないわけではなかった。それなのに相手の言葉を一度聞いただけで、すぐに自分から降参したのは、称賛に値することだ。」そう言って感じ入り、涙を拭った。荘園領主もまた感動して、地頭の滞納の負債を軽くしてやった(注:『沙石集』による)。

泰時がある日早くに外出した際、途中で刀傷を受けて死んでいる者を見かけた。評定衆と協議し、急いで人を四方に走らせて捜索させたところ、血に濡れた衣を着た者を捕らえた。取り調べると罪を白状し、それは博打(ばくち)がもとで人を殺したものであった。そこで博打を厳しく禁じる命令を下した(注:『東鑑』による)。

三河国(みかわのくに)本野原(もとのはら)は荒涼として広く、旅人は道に迷いがちであった。泰時は土地の者に柳を植えさせ、旅人の便宜を図った。民はこれを慕い、周の召公(しょうこう)が甘棠(かんとう、やまなし)の木の下で善政を行った故事にちなんで、その木を愛したのと同じように慕った(注:『東関紀行』による)。

泰時は民の労力を惜しみ、大がかりな土木工事は行わなかった。自分の邸の塀の板も粗末で薄く、家の中が透けて見えるほどであった。ある人が「土塀を築き堀を設けて、万一に備えられてはいかがですか」と言ったところ、泰時は答えた。「塀や堀を設けるのは小さな事業ではあるが、それでも民の労力を費やすことになる。それに私は主君にお仕えして落ち度がなく、身も家も無事に保たれている。もし天命を失えば、たとえ鉄の塀があったとしても、何の役に立とうか。」これを聞いた者は、泰時の見識の高さを称賛した(注:『沙石集』による)。

かつて泰時は人にこう語ったことがある。「私が京都にいた頃、栂尾(とがのお)の僧高弁(こうべん、明恵〈みょうえ〉)と語り合ったことがある。高弁はこう言った。『あなたは病を治す者を見たことがありますか。優れた医者はその病の原因をよく見極め、寒熱のどこに中(あた)っているかを詳しく調べた上で薬を投じるので、たちどころに治らないことはありません。世の政治を行う者が、その原因を見極めずにみだりに賞罰を行えば、姦計や偽りがますます起こり、風俗は日ごとに悪くなっていきます。それでは良い政治を行おうとしても、その方法がありません。これはたとえるならば、凡庸な医者が病の原因のありかを知らずに、いい加減に治療を施すようなものです。その病を治そうとすればするほど、病はますます重くなり、治療は成功しません。それは人に欲心があるからであり、欲心が一たび芽生えれば、様々な災いが競い起こるのです。あなたは政治の実権を握っておられるのですから、自ら先頭に立って励めば、成し遂げられないことがありましょうか。』私はまた尋ねた。『たとえ自分一人が努めて行ったとしても、人々がそれに従わなければどうすればよいのか。』高弁は答えた。『それは難しいことではありません。あなた自身の心にかかっているのです。昔の人はこう言いました。「その身が真っ直ぐであれば影は曲がらず、その政治が正しければ国は乱れない」と。正しいということは、欲がないということです。あなたの心に誠にこれを保つことができれば、人々はみなその徳に感化されて満足することを知り、努めずとも自然に行われるようになり、良い政治もほぼ実現するでしょう。もし争い事や訴訟が一つでも起これば、まず自分自身を反省して厳しく戒めるべきであり、相手に罪を負わせてはなりません。たとえば、身が正しくないのに影が曲がっていることを憎むようなものです。自分の身を正さずに影に罪を負わせようとしても、そんなことができるでしょうか。』私が不十分ながらも執権の任を務め、罪や過ちを免れることができたのは、高弁の力によるものである。」(注:『明恵伝』による。)

泰時が亡くなると、都でも田舎でも、身分の高い者も低い者も、まるで父母を失ったかのように悲しんだ(注:『百錬抄』による。『保暦間記』も参照)。

子は時氏(ときうじ)・時実(ときざね)である(注:『平氏系図』による)。時氏は従五位下修理亮(しゅりのすけ)。承久の戦いでは泰時に従って朝廷方の軍を打ち破った。将士を大切にし礼を尽くす人柄で、父の風格を備えていた。元仁元年(1224年)、掃部助(かもんのすけ)北条時盛とともに六波羅を鎮め、南方・北方に分かれて治めた。寛喜二年(1230年)、任を解かれて鎌倉に戻った。この年、亡くなった。享年二十八(注:『東鑑』による)。

四人の子は経時(つねとき)・時頼(ときより)・為時(ためとき)・時定(ときさだ)である(注:『平氏系図』による)。時頼には別に伝がある。為時は従五位上、時定は従五位下で、いずれも遠江守(とおとうみのかみ)となった。時氏の弟の時実は、その配下の者に殺された(注:『東鑑』に脱漏がある)。

北條經時

北条経時(ほうじょうつねとき)は弥五郎(やごろう)と称した。文暦(ぶんりゃく)元年(1234年)、小侍所別当(こさむらいどころべっとう)に補せられ、まもなく左近衛将監(さこんえのしょうげん)を拝命した(注:『東鑑』による。『関東評定伝』では「左」を「右」とする)。評定衆となった(注:『関東評定伝』による)。仁治三年(1242年)、泰時が亡くなると、経時が執権の職を継いだ(注:『関東評定伝』『保暦間記』による)。寛元(かんげん)元年(1243年)、正五位下に叙せられ、武蔵守となった(注:『将軍執権次第』による)。寛元四年(1246年)、病により職を弟の時頼(ときより)に譲った。剃髪し、まもなく亡くなった。法名は安楽(あんらく)(注:『将軍執権次第』による)、蓮華寺(れんげじ)と号した(注:『平氏系図』による)。

経時は弓の名手であり、かつて藍沢(あいざわ)で狩りをした際、蟇目矢(ひきめや)をつがえて熊を射たところ、弦の音とともに熊は倒れて死んだ(注:『東鑑』による)。二人の子はいずれも僧となり、隆政(りゅうせい)・頼助(らいじょ)といった(注:『北条系図』による)。

伊賀光季

伊賀光季(いがみつすえ)は、佐藤朝光(さとうともみつ)の長男である。朝光は左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を歴任し、伊賀守(いがのかみ)となった。武事に老練であり、実朝はかつて側近の勇猛な者を選んで、休息の間の北側に交代で宿直させることとしたが、特に朝光と和田義盛に命じて宿直に加え、閑暇の折の相談相手とした。朝光の娘は北条義時の後妻となった(注:考えるに、『尊卑分脈』は北条政村の妻とするが、これは誤りである)。このため父子は特別の恩遇を受けた。建保三年(1215年)、朝光が亡くなると、義時は自ら葬儀に立ち会って取り仕切った。光季は左衛門尉・検非違使となり(注:『東鑑』による)、伊賀判官(いがのほうがん)と称された(注:『東鑑』『帝王編年記』『承久記』による)。

承久(じょうきゅう)の初め、源実朝が暗殺された。これより先、藤原季時(ふじわらのすえとき)が京都守護を務めていたが、この変事を聞いて剃髪し出家した。北条義時は京都に何か変事があった場合に備えて、光季を派遣して警護に当たらせた。まもなく大江親広(おおえのちかひろ)も派遣し、ともに京都を鎮めさせた(注:『東鑑』による)。

承久三年(1221年)、後鳥羽上皇が北条氏を討とうとして、親広と光季を召した。光季は藤原公経(ふじわらのきんつね)からの知らせを受けて、すでに事態が急迫していることを知っていたので、こう答えた。「近頃、兵馬が群れ集まり、根も葉もない噂が巷に満ちております。私の職務は警護でありますから、事があれば真っ先に知らされるはずですが、いまだ詔命を聞いておりません。今になって私をお召しになるとは、私はひそかに困惑しております。あえてお断りいたします。」再び勅命が下り、「事は直接会って伝えるべきものだ。すぐに参上し、逆らってはならぬ」とあった。光季は言った。「命を受けて敵に向かうのは、臣たる者の分である。しかし軽々しく宮中に参内することは、私の与り知るところではない。」そして参内しなかった。

従者たちは鎌倉へ逃げるよう勧めたが、光季は言った。「私の職務は警護にある。それなのに禍が起きた際にまず逃げ出したのでは、どうして自らの罪を償ったことになろうか。それに今は道中も塞がれており、逃げようとしても逃げられようか。道中で行き倒れになって自ら醜名を残すくらいなら、ここで命を落として二心のないことを明らかにする方がましだ。」このとき従者の多くは逃げ去り、残った者はわずか二十七人であった。

長男の光綱(みつつな)は十四歳で、壽王冠者(じゅおうかじゃ)と称していた。光季は言った。「お前はまだ幼く弱い身だ。親しい者のもとに身を寄せて、成長を待って幕府に仕えるがよい。」光綱は言った。「父上が節義に殉じようとしておられるのに、子である私がどうして立ち去ることに耐えられましょうか。」光季はこれを喜んだ。

翌朝、京極(きょうごく)の二つの門を閉ざし、高辻(たかつじ)の土門を開いて待ち構えた。正午になると官軍が攻めて来た。従者たちがこれを迎え撃ち、官軍は進むことができず、京極門を斬り破ろうとした。光季は従者を叱りつけて門を開かせた。左衛門尉の間野時連(まのときつら)が真っ先に進んだが、光季がこれを射て、時連は退いた。検非違使三浦胤義(みうらたねよし)が進み出て、光季を朝敵と呼ばわった。光季は言った。「お前が主君を欺き乱を起こしたことは、私はよく知っている。それでもなお口を利くつもりか。今こそお前を許さぬ。」そう言って矢を放ち、胤義の弓に命中させた。

光綱は検非違使佐々木高重(ささきたかしげ)が来るのを見て、矢を手に取って言った。「かつてあなたは私に元服の冠を加え、婿になる約束をしてくださいました。今まさに死のうとするにあたって、あえて頂いた矢をお返しして、お別れのしるしといたします。」そう言って矢を放ち、高重の胸に命中させたが、年若く腕の力が弱かったため、鎧を貫くことはできなかった。高重はこれを哀れに思い、涙を流して立ち去った。

官軍は先を争って攻め込み、従者たちは散り散りに逃げた。ただ贄田三郎(にえたさぶろう)だけが弟の四郎とともに力の限り戦い、三郎は深手を負って自害した。光季は自邸に火を放った。まず光綱を殺してから火の中に投げ入れ、自らも腹を切り、その屍に伏して焼け死んだ。贄田四郎もまた自害した(注:『承久記』による)。

光季の子は光綱・季村(すえむら)(注:『東鑑』による)、時重(ときしげ)である(注:『尊卑分脈』による)。政子は光季の孤児四人を呼び出し、涙を流して慰め、「お前たちはみな父に似ている。忠義と節操に励み、家の名誉を落としてはならぬ」と言った(注:『東鑑』による)。季村については、嘉禄年間、泰時が政子の意を受けて、光季の旧領であった常陸国(ひたちのくに)塩籠荘(しおごめのしょう)を季村に与えた(注:『東鑑』に脱漏がある)。時重は検非違使となった(注:『尊卑分脈』による)。光季の弟は光宗である。

伊賀光宗

伊賀光宗(いがみつむね)は左衛門尉となり、伊賀一郎左衛門尉(いがのいちろうさえもんのじょう)と称した(注:『東鑑』『尊卑分脈』による)。建保の末、侍所(さむらいどころ)の所司(しょし)五人が置かれ、光宗はその一人となった。承久の初め、政所執事(まんどころしつじ)に転じ、後に朝廷の官を授けられて式部丞(しきぶのじょう)となった。

そもそも北条義時は光宗の妹を娶って後妻とし、政村(まさむら)と娘をもうけた。娘は参議藤原実雅(ふじわらのさねまさ)に嫁いだので、実雅を召して幕府に仕えさせた。政村が元服した際、義時は三浦義村が功労のある古参の武将であることから、元服の冠を加える役を頼み、これによって両家は親密な関係となった(注:『東鑑』による)。

元仁(げんにん)元年(1224年)、義時が重病となったとき、泰時はまだ六波羅から戻っていなかった。義時の妻は光宗と謀り、頼経を廃して実雅を将軍に立て、政村を執権にしようとした。そして光宗兄弟が権勢を思うままにふるっていた。光宗は弟の朝行(ともゆき)・光重(みつしげ)とともに将士たちと密かに結びついた。義時が亡くなると、「武州(泰時)は京都から戻ったら、弟たちを皆殺しにするだろう」という流言が広まり、人々は危惧の念を抱いた。

泰時が鎌倉に戻ると、鎌倉は騒然となった。光宗兄弟はたびたび三浦義村の家を訪れており、その様子は世間で大いに怪しまれていた。また義時の妻の住まいに集まって誓いを立てていた。泰時はこれをかなり知っていたが、あえて問いたださなかった。十日余りすると近国の兵が続々と集まり、城下はほとんど埋め尽くされるほどであった。

政子は夜ひそかに義村の家に赴いて諭した。「武州が戻ってから、世間は騒がしくなっている。聞くところによれば、『光宗兄弟がしきりにあなたの家に出入りし、ひそひそと耳打ちしているというが、これはいったい何事か。武州を除いてその権力を奪おうとしているのではないか』ということだ。承久の変は天命によるものとはいえ、武州の功績は誰よりも大きい。奥州(義時)は幾度も禍乱を鎮めて幕府の基礎を固めてきた。その職を継いで関東の棟梁となるべき者は、武州をおいて誰がいようか。もし武州がいなければ、皆はどうして身を保つことができようか。あなたと政村は父子のように親しい間柄であり、共謀しているのではないかという疑いがないわけではない。よく調整して事を収めるべきだ。」義村はそのようなことは知らないと詫びた。政子は色をなして責めて言った。「あなたは政村を擁立して乱を起こそうとしているのか、それとも正して救おうとしているのか。どちらか一つに決めよ。」義村は答えた。「陸奥四郎殿(政村)には他意はございません。ただ光宗らが勝手に企てを構えているだけです。私が厳しく責め立てて、誓約させましょう。」政子はそこで帰った。

さらに十日ほどすると、将士たちが甲冑を着け旗を立てて先を争って駆けつけ、夜通し騒然とした後にようやく落ち着いた。政子は時房とともに頼経を奉じて泰時の邸に移り、たびたび使者を送って義村を督促した。まもなく義村を召して言った。「私はこちらに若君(頼経)をお抱えしている。あなたは外にいるべきではない。急いでここに参上して伺候するように。」義村は辞退することができなかった。

政子はまた小山(おやま)・結城(ゆうき)らの諸将を召して言った。「主君はまだ幼く弱く、その下で謀反の企てがある。私は老いて病の身であり、事の役には立たないが、皆はどうして亡き将軍(頼朝)の遺した恩を守ろうという気がないのか。心を合わせ力を尽くせば、何を恐れることがあろうか。」

数日後、政子は自ら裁決の場に臨んで言った。「光宗らは藤原実雅を将軍に奉じようとしていた。この企ては既に露見している。しかし実雅は朝廷の高貴な身分であるから、私的に処罰することは難しい。朝廷に奏請して裁いてもらうべきだ。」奥州(義時)の妻と光宗らは皆流罪に処すこととし、その他の一党についてはすべて罪を問わないこととした。まもなく実雅は京都へ追放され、朝行・光重は式部太郎宗義(しきぶたろうむねよし)、伊賀左衛門太郎光盛(いがさえもんたろうみつもり)らとともに逃亡した。政子は館に戻ると、光宗の所領五十二か所を没収し、光宗の伯父にあたる二階堂行村(にかいどうゆきむら)に預けて幽閉させ、ついに信濃(しなの)に流した。義時の妻は北条(ほうじょう)に幽閉し、六波羅に命じて朝行・光重らを捕らえさせ、鎮西(ちんぜい、九州)へ流した。朝廷の議定では実雅の官を剥奪し、越前(えちぜん)に流すこととした(注:『東鑑』による。『保暦間記』も参照)。

光宗は流罪の地で剃髪し、法名を光西(こうさい)といった。翌年、政子が亡くなり、泰時はその冥福を修めるため、光宗らを呼び戻し、光宗に旧領のうち八か所を授けた(注:『関東評定伝』による)。まもなく皆それぞれ任用された。光宗は評定衆となり(注:『関東評定伝』『武家補任』による)、正嘉(しょうか)元年(1257年)に亡くなった。享年八十(注:『関東評定伝』による)。

子は宗義(むねよし)・宗綱(むねつな)である。宗義は左衛門尉。その子光政(みつまさ)は山城守(やましろのかみ)となり(注:『尊卑分脈』による)、引付衆(ひきつけしゅう)となった(注:『関東評定伝』『武家補任』による)。宗綱は左衛門尉となり、評定衆となった。その子光泰(みつやす)もまた評定衆となった(注:『尊卑分脈』による)。