卷之二百一 列傳第一百廿八

將軍家臣十一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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北條時賴

北条時頼(ほうじょうときより)は、時氏の子である(注:『北条系図』による)。幼名は戒寿、通称は五郎といった。嘉禎三年(1237)、祖父泰時の邸で元服し、将軍藤原頼経(よりつね)が自ら烏帽子親となって加冠し、名を授けた(注:『東鑑』による)。まもなく左兵衛少尉に任じられ(注:『東鑑』『関東評定伝』による)、左近衛将監に転じて従五位上に叙された(注:『東鑑』による)。寛元二年(1244)、頼経は職を子の頼嗣(よりつぐ)に譲った。同四年(1246)、時頼は兄経時(つねとき)に代わって執権となった(注:『東鑑』『帝王編年記』による)。

時頼の従父(いとこ)にあたる光時(みつとき)は頼経の寵を得ており、ひそかに時頼に代わってその職を奪おうと謀った(注:『保暦間記』による)。このため人心は騒然とし、わけもなく群衆が鎌倉に集まり、民は荷を背負って難を避けた。時頼はそこで兵を用いて幕府に入る者を防いだ。夜半、武士たちはこぞって甲冑をまとい旗を掲げ、幕府と時頼邸に分かれて攻め入った。夜が明けても騒動は収まらず、時頼は兵を配して警戒した。頼経は使者を時頼邸に遣わしたが、時頼は拒んで迎え入れなかった。光時は逃れられぬと悟り、髪を切って罪を請うたので、時頼はこれを伊豆に流し(注:『東鑑』による)、頼経の廃立を求め(注:『保暦間記』『歴代皇紀』による)、三浦光村(みうらみつむら)らに命じて頼経を京へ護送させた。光村は頼経の前で涙を流し、内心ひそかに頼経を再び迎え入れようという志を抱いていた。京から戻ると、その企ては一層激しくなり、ひそかに自分の所領に武具を運び入れ、反乱を起こそうとした。兄の泰村(やすむら)はこれを知りながら制止しなかった(注:『東鑑』による)。

時頼の外祖父安達景盛(あだちかげもり)は、泰村と権勢を争って仲が悪く、そのため泰村に異心があると時頼に告げた。時頼は泰村が功臣の家柄で姻戚でもあることから、なお心を開いて信頼し、従来どおり厚く遇していたので、泰村の子駒石丸とは父子の約束まで結んでいた。あるとき時頼が泰村の家を訪れると、泰村の一族がことごとく集まっており、それぞれ酒宴の支度にかこつけて奥に入ったまま出て来ず、様子が尋常でなかった。時頼は初めて怪しんだ。夜になって甲冑の触れ合う音が聞こえたので、変事があるのではと案じ、そっと退出して帰った。泰村は驚き恐れて弁解した。時頼はひそかに人を遣わしてその動静を探らせ、いよいよ謀反の企てがあることを知り、厳重な守備を命じた。近隣諸国の兵士がわれ先にと集結してきたので、泰村は恐れをなし、使者を送って謝罪し、兵を解くよう願い出た。時頼はこれを許し、人々に守備を解かせ、書状を送って言い聞かせ、誓紙まで添えた。泰村は喜び感じ入ったが、その返事が届かぬうちに、にわかに景盛が孫の泰盛(やすもり)に兵を率いさせて泰村を攻めさせた。泰村は驚き慌て、兵を出してこれに応戦した。時頼はやむを得ず、掃部助北条実時(さねとき)に命じて幕府を守衛させ、弟の時定(ときさだ)を遣わして兵を率いてこれを討たせ、泰村の隣家に火を放たせた。折からの強風で火勢は激しく燃え広がり、泰村の兵は支えきれなくなり(注:『東鑑』による)、一族こぞって法華堂に逃れて自害した(注:『東鑑』『五代帝王物語』『保暦間記』による)。時頼はこの焼き討ちの一件を京都に奏上し、諸国の守護・地頭に命じてその場で泰村の一党を捕らえさせ、大須賀胤氏(おおすがたねうじ)・東素暹(とうそせん)を遣わして、泰村の妹婿である千葉秀胤(ちばひでたね)父子を上総一宮で襲い討たせた(注:『東鑑』による)。

宝治元年(1247)、六波羅の鎮将であった相模守北条重時(しげとき)を呼び戻し、執権の連署とした(注:『東鑑』『将軍執権次第』による)。建長元年(1249)、重時は陸奥守に転じ、時頼が代わって相模守となった(注:『将軍執権次第』『関東評定伝』による)。同三年(1251)、正五位下に進んだ(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。頼経は自分が時頼によって廃されたことを怒り、京都で兵を集め、これに応じる者が相当数あった(注:『保暦間記』による)。事が発覚する前に、たまたま佐佐木氏信(ささきうじのぶ)が長久連(ちょうくれん)や僧了行(りょうぎょう)らを捕らえ、時頼が取り調べさせたところ、事の次第がことごとく明らかになった(注:『東鑑』『保暦間記』による)。久連らを誅殺・配流し(注:『東鑑』による)、頼嗣を京都へ送り返し、宗尊親王(むねたかしんのう)を迎えて鎌倉の主とした(注:『東鑑』『将軍執権次第』による)。また関白兼経(かねつね)の娘を養女として親王の妃に納めた(注:『東鑑』『帝王編年記』による)。康元元年(1256)、時頼は病にかかって出家し、法名を道崇、号を覚了坊といった。かつて山内に最明寺を建てていたが、このとき退いてそこに住み病を養い、子の時宗がまだ幼かったので、その職を武蔵守北条長時(ながとき)に委ねたが、なお軍政には参与していた(注:『東鑑』による)。

ある日、諏訪某という者が伊具四郎(いぐしろう)を鶴岡からの帰りにうかがい、途中で射殺した。当時は暗くて犯人がわからず、諏訪を捕らえて念入りに取り調べたが、長らく決着がつかなかった。時頼は諏訪を呼び、人払いをして言った。「伊具が殺され、犯人が長らく明らかにならぬ。しかしお前の家僕は『事はお前から出た』と言っている。すでに評議で死罪と決まった。今さらどれほど言い逃れをしても、それはかなうまい。ありのままを話せば、なお生きる道が開けよう。」諏訪は感じ入って涙を流し、自ら白状して言った。「伊具は以前、私の所領を奪ったことがあります。それゆえ私は恨みを晴らしたのです。」そこで晒し首を命じた(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。

時頼はすでに職を退いていたが、諸国の役人の中に私情を挟んで民を苦しめる者がいるのではないかと案じ、自らみすぼらしい服装をして遊行僧を装い、ひそかに諸方をめぐり歩いて世情を探った。冤罪に苦しむ者がいれば、その事情を尋ねた(注:『増鏡』『太平記』による)。あるときは「私はかつて鎌倉に仕えていた者だ。お前のために訴えてやろう」と言い、自ら書状をしたためて与え、「これを持って鎌倉に行け」と言うと、その人はそれに従い、冤罪はついに晴れた(注:『増鏡』による)。摂津の難波浦まで行き、日が暮れて宿を求めた。その家は壁も傾き崩れ、年老いた尼が一人で住んでおり、自ら炊事をして食事を供した。時頼は、その尼が卑しい労役に慣れていない様子を見て、不審に思い尋ねた。尼は涙をはらはらと流しながら言った。「私の家は代々この邑を領してまいりましたが、不幸にも夫を亡くし子を失い、家は衰え果て、ついに人に奪われてしまいました。訴え出るすべもなく、二十年余りひとり暮らし、命をつなぐばかりでございます。」時頼はこれを憐れみ、鎌倉に帰るとその旧領を返させた(注:『太平記』による)。そのほか通った土地でも、ひそかに実情を調べただし、その善悪に応じて賞罰を行った。これによって諸国の守護・郡司は自ら身を慎み、風俗は篤くなり、民の暮らしは豊かで安らかになった(注:『増鏡』『太平記』による)。弘長三年(1263)、時頼は没した。享年三十七(注:『東鑑』『関東評定伝』による)。

時頼は禅の教えを深く信じ、その趣旨にほぼ通じており、宋僧道隆(どうりゅう)のために鎌倉に建長寺を創建し、そこに住まわせた。臨終に際しては衲衣(のうえ)をまとって縄床にのぼり、坐禅をして偈を作った。「業鏡高く懸かる、三十七年、一槌打ち砕けば、大道坦然たり。」後深草上皇は使者を遣わして弔い、諸将士は身分の親疎を問わず悲しみ慕って慟哭し、出家する者が非常に多かったため、諸国の守護に命じて出家を禁じさせるほどであった。その人心を得ていたことはこれほどであった(注:『東鑑』による)。時頼は、泰時の没後に綱紀が緩み訴訟が頻発するようになったのを見て(注:『太平記』『増鏡』による)、在職中に行った施策では、ひたすら貞永式目を守り、頼朝父子三代の将軍の旧制に従った(注:『東鑑』による)。士庶はこぞって心服し、天下は治まっていると称された(注:『増鏡』による)。かつて将軍頼嗣に上申して、文武をあわせ修めるよう勧めた。そこで縫殿頭中原師連(もろつら)・安達義景(よしかげ)・小山長村(おやまながむら)ら数人を選び、頼嗣の側近に置いて顧問に備えさせた。また『貞観政要』一部を装丁して献上した。しばしば将士に騎射を試させ、その優劣を比べた(注:『東鑑』による)。時頼は性質が倹約質素で、食事は二品を用いなかった。ある夜くつろいでいたところ、たまたま一族の父にあたる宣時(のぶとき)が訪れた。時頼は手に杯を挙げて言った。「一人で飲むより卿とともに楽しむに越したことはないが、深夜で肴がないのはどうしたものか。」宣時はすぐに立って台所に入り、紙燭の明かりで残り味噌を探し出してこれを肴に供し、二人は夜通し酒を酌み交わし、大いに楽しんで終えた。その質素なことはこれほどであった(注:『徒然草』による)。

時頼には七人の子があった。時輔(ときすけ)・時宗・宗時・政宗・政頼・僧時厳・宗頼である。時輔は初め名を時利といい(注:『平氏系図』による)、通称は三郎、式部大輔となった。文永の初め、六波羅南方に居した(注:『将軍執権次第』による)。時輔は母の身分が低く(注:『北条系図』による)、時頼は時宗を家督とした。時輔は内心つねに不満を抱いていた。時宗が家督を継ぐと、その下に立つことを恥じ、ひそかに謀反の志を蓄えた。事が発覚すると(注:『保暦間記』による)、時宗は北条義宗(よしむね)に命じてこれを討たせた。時輔はこれに抗って死んだ(注:『五代帝王物語』『関東評定伝』による)。時宗はその一党もあわせて誅殺した。時宗については別に伝がある。宗政(むねまさ)は右近衛将監・武蔵守となり、評定衆をつとめた。弘安四年(1281)、没した(注:『関東評定伝』による)。子の師時(もろとき)は、時宗の養子となり、相模守となって貞時に代わり執権をつとめた(注:『平氏系図』『帝王編年記』などによる)。応長元年(1311)、没した(注:『北条系図』『将軍執権次第』による)。宗時は遠江守。政頼は通称を三郎といった(注:『平氏系図』による)。時厳は号を桜田禅師といい、その子治部大輔貞国(さだくに)は、元弘の乱で鎌倉で敗死した(注:『太平記』による)。宗頼は修理亮。弘安の初め、鎮西守護となり、長門に出て住み、任地で没した(注:『北条系図』による)。

青砥藤綱

青砥藤綱(あおとふじつな)は上総の人で、父は藤満といった(注:『弘長記』による)。かつて時頼が鶴岡に参詣して斎戒し宿った夜、夢に神が告げて言った。「お前が世をよく治めたいなら、青砥某を用いるべきだ。」目覚めた時頼は、翌日書状を下して藤綱を召し出し、いくつかの所領を与えた。藤綱はその理由を怪しんで尋ねたので、時頼はありのままを告げた。藤綱は辞退して言った。「仏典に実相のないことをたとえて『夢幻泡影の如し』と申します。今、夢によって私をお用いになれば、後日また夢によって私をお斬りになるのでしょうか。功もないのに賞を受けるのは、これを国賊と申します。私にはいまだわずかな功績もなく、あえてお受けすることはできません。」時頼はその言葉を賢しとし、いよいよ敬い一目置くようになり、朝廷に奏して左衛門尉に任じ、引付衆とした。ある人が徳宗領と田をめぐって争い、その言い分は正しかったが、周りの者は皆時頼をはばかって、結局その田は徳宗領に属することとなった(注:『太平記』による。当時、北条氏の家督を徳宗と称した。『梅松論』による)。藤綱はこの一件を再審議し、その田を本来の持ち主に返させた。本来の持ち主は喜び、銭三百貫を包んで、ひそかに藤綱の庭内に置いて立ち去った。藤綱は憤って言った。「訴訟を裁いて公平を保つのは、どうしてお前一人のためであろうか。もし私を公平だと思うならば、相模殿(時頼)こそ賞せられるべきである。お前の贈り物など、どうして私を汚すことができようか。」そう言って銭をその家に送り返した。かつて夜道を歩いて滑川を渡る際、あやまって銭十文を水に落とした。藤綱はただちに従者に命じて銭五十文で松明を買わせ、水を照らして探させ、ついにこれを拾い出した。ある人がわずかな銭を拾うのに多くの銭を使ったと嘲ったところ、藤綱は顔をしかめて言った。「お前たちは世を治めることに考えが及ばぬのが甚だしい。十文はわずかとはいえ、これを失えば天下の財貨を永久に損なうことになる。五十文は私にとっては損だが、これもまた人のためになる。あわせて六十文、その利益はやはり大きいではないか。」これを聞いた者は感服した。藤綱は時頼・時宗の二代に仕え、所領は数十か所に及んだが、家財に頓着せず、身の処し方は清廉倹約で、衣食は粗末なものを用い、刀の鞘にも漆を塗らなかった。外出するときは、いつも一人に木刀を持たせて後ろに従わせた。官職を授かり、衛府の太刀を帯びるべき身分になっても、藤綱は飾り立てることなく、ただ弦袋を添えるだけであった。生来施しを好み、俸禄として得たものはことごとく貧しい者たちに分け与えた。在職中は廉潔剛直で、権勢のある者を恐れなかった。このため、よこしまな役人は影をひそめ、人々は自ら身を慎み、一時にして風俗はがらりと改まった。今日に至るまで鎌倉の美事を語る者は皆時頼・時宗を称えるが、実は藤綱の補佐によるところが多いという(注:『太平記』による)。

北條時宗

北条時宗(ほうじょうときむね)は、幼名を正寿、通称を相模太郎といい、時頼の子である(注:『北条系図』による)。わずか七歳で宗尊親王の邸で元服し、宗尊親王から時宗の名を賜った。幼くして弓を習い、早くからその技量で知られた。弘長元年(1261)、宗尊親王が極楽寺邸で弓を見物し、小笠懸を命じたところ、居合わせた者は皆その作法に不慣れだとして辞退した。時頼が時宗を呼んでこれを命じると、時宗は馬に乗って場に臨み、一発で的を射抜いた。時に年十一であった。宗尊親王は感嘆してやまなかった。時頼は喜んで言った。「この子には確かに家業を継ぐ器量がある。」この年、時宗は左馬権頭に任じられ、従五位下に叙された。文永元年(1264)、連署となった。同二年(1265)、功労により従五位上に進み、但馬権守を兼ね、まもなく相模守に転じた(注:『将軍執権次第』、『帝王編年記』『関東評定伝』などによる)。同三年(1266)、宗尊親王の近習が時宗の暗殺を謀った。事が発覚すると、時宗は北条政村らと協議し、「宗尊親王を廃して京都へ送り返し、その子惟康を立てる」ことにした。同五年(1268)、左馬権頭を辞したが、相模守は元のままであった。もともと時頼が出家したとき時宗はまだ幼く、北条長時・北条政村が相次いで執権の職務を代行していたが、ここに至って時宗が執権となった(注:『将軍執権次第』『関東評定伝』による)。

元国は高麗を介して国書を献じ、通交を求めてきたので、時宗はこれを朝廷に奏上した(注:『関東評定伝』『五代帝王物語』などによる)。朝廷の評議では、前権中納言菅原長成(ながなり)に返書の草案を作らせることとし(注:長成の官位は『公卿補任』による)、時宗の意見を求めた。時宗は、蒙古の国書の文言が無礼であるとして返書を出すべきでないと考え、結局これを退けた(注:『五代帝王物語』による)。同八年(1271)、高麗が使者を遣わして元国の来寇を告げた。ほどなく元は趙良弼(ちょうりょうひつ)を遣わし、国書を持たせて朝貢を求めてきた。時宗はいずれも大納言藤原実兼(さねかね)を通じてこれを奏上した。後嵯峨上皇は公卿と協議し、「長成の起草した文書に少し手を加えて返書とするのがよい」とした(注:『吉続記』『帝王編年記』などによる)。しかしこれも結局返書を送らなかった(注:『五代帝王物語』による。本書はその経緯を詳らかにしないが、当時の事情を推考すると、時宗が聞き入れなかったために返書を送らなかったのであろう)。同十一年(1274)冬、元軍が西方の辺境に来寇したが、鎮西の将士がこれを迎え撃って退けた(注:『歴代皇紀』『八幡愚童訓』による)。

建治元年(1275)、元は再び杜世忠(としゅうちゅう)・何文著・撒都魯丁らを遣わし、長門の室津に至らせた。時宗は杜世忠らを捕らえるよう命じ、鎌倉に連行してことごとく斬らせた(注:『関東評定伝』による)。そこで北条実政(さねまさ)を筑紫探題として軍務を統轄させた(注:『帝王編年記』による)。鎮西の将士を選抜して沿岸の防備にあたらせた。京都大番役を一時停止し、国費を節約して民の負担を軽くし、あらかじめこれに備えた(注:『関東評定伝』による)。翌年春、高麗征討のため兵を発しようとし、西海道および山陰・山陽・南海の諸道に命じて戦艦を修造させ、武具を補わせた(注:『野上文書』『薩摩文書』による)。ほどなく元の将夏貴(かき)・范文虎(はんぶんこ)が周福・欒忠を使者として遣わしてきたが、これも捕らえて博多で斬った(注:『関東評定伝』による)。弘安四年(1281)、元は大軍を興し、その将范文虎らを遣わして水軍を率いさせ、大宰府に来寇させた(注:『関東評定伝』『一代要記』『歴代皇紀』による。范文虎については『元史』による)。時宗は宇都宮貞綱(さだつな)に中国地方の兵を率いさせてこれを防がせた(注:『宇都宮系図』による)。到着しないうちに暴風が吹き荒れ、元軍は悉く海に沈んだ(注:『一代要記』『歴代皇紀』『関東評定伝』『保暦間記』による)。同七年(1284)、時宗は没した。享年三十四。法名は道果、号は宝光寺。子は貞時である(注:『平氏系図』『将軍執権次第』による)。

北條貞時

北条貞時(ほうじょうさだとき)は、幼名を幸寿といった(注:『北条系図』による)。弘安五年(1282)、左馬権頭となった(注:『将軍執権次第』『帝王編年記』による)。同七年(1284)、父の跡を継いで執権となった。時に年十四。翌年、相模守に任じられた(注:『平氏系図』『帝王編年記』『保暦間記』などによる)。外戚の安達泰盛(あだちやすもり)とその子宗景(むねかげ)は、恩寵をたのんでおごり高ぶっていた。内管領の平頼綱(たいらのよりつな)は権勢を争って両者を陥れようとし、貞時にひそかに讒言して言った。「先ごろ宗景は、亡き右大将(源頼朝)の落胤であると偽り称し、勝手に源氏の姓を名乗っております。これはとりもなおさず将軍の地位を望む志にほかなりません。」貞時はこの言葉を信じ、調べてみると事実らしき形跡があったので、兵を発して泰盛父子を誅殺し、その一族郎党をことごとく滅ぼした。頼綱はそれでもなお欲望が満たされず、次男の安房守を将軍に立てようと企てたが、貞時はこれを知らなかった。数年後、頼綱の長男宗綱(むねつな)がその陰謀を告げたので、貞時はそこで頼綱と安房守を誅殺し、宗綱を佐渡に流した。まもなく召し返して父の職を継がせたが、後にまた罪を得て上総に配流された(注:『保暦間記』による)。

正応二年(1289)、将軍惟康親王(これやすしんのう)を廃して京都へ送り返し、皇弟久明親王(ひさあきしんのう)を迎えて将軍に立てた(注:『増鏡』による)。同三年(1290)、北条時輔の子が三浦頼盛(よりもり)とともに謀反を企てたので、貞時はこれを捕らえて誅殺した(注:『保暦間記』による)。同五年(1292)、高麗がその臣金有成(きんゆうせい)を使者として遣わし(注:『東国通鑑』による)、「あらためて元と通信するのがよい。さもなくば再び兵を用いることになろう」と告げてきた(注:『公卿勅使参宮次第』による)。貞時は有成を召し出して拘留し帰さなかったので、元はついに日本をうかがう野心を絶った(注:『東国通鑑』による)。正安三年(1301)、たびたび昇進を重ねて従四位上に至った。まもなく職を辞して出家し、法名を崇演、号を最勝園寺といった。応長元年(1311)、没した。享年四十一(注:『平氏系図』『将軍執権次第』『帝王編年記』などによる)。

貞時は祖父時頼の治績を慕い、職を辞した後、自ら僧衣をまとって諸国を遊歴し、風俗を観察して民の苦しみを尋ね歩いた。当時、前内大臣源通基(みちもと)は後宇多上皇の勘気をこうむり(注:通基の名は『尊卑分脈』による)、所領を奪われて田舎の家に引きこもっていた。貞時は京に至り、たまたまその家の前を通りかかると、その閑寂なたたずまいを気に入り、しばらくそのあたりを行き来していた。すると人が出てきたので、貞時が主人の姓名を尋ねると、その人は詳しく答え、あわせて咎めを受けて退けられた事情を語った。貞時は「大臣がこのように冤罪を負っておられるのなら、どうして鎌倉に訴えて理を申し立てないのか」と言った。その人は答えた。「私どもも以前そう申し上げたのですが、大臣は『上の非を暴き立てて自分の無実を明らかにするのは、臣たる者の道義ではない。たとえわが家がこれによって断絶しようとも、それは運命である。何を嘆くことがあろうか』とおっしゃいます。」貞時はこれを憐れんだ。東国に帰った後、この事を朝廷に上申した。天皇は大いに恥じ悔い、通基の所領を元どおりにした。貞時は風雨にさらされ野宿を重ねて艱苦をなめ尽くし、およそ三年を経て鎌倉に帰った(注:『太平記』による)。

そもそも後嵯峨帝の崩御の後、後深草上皇と亀山帝との間に不和が生じていた(注:『神皇正統記』『増鏡』による)。上皇は使者を遣わして時宗に諭させ(注:『増鏡』による)、「先帝(後嵯峨帝)のもとよりの御意志は、必ずしも嫡流を廃して庶流を立てようとするものではなかった」と言わせた(注:『増鏡』『異本太平記』による)。時宗はそこで大宮院に確かめたところ、初めて先帝の御意志が亀山帝にあったことを知ったが、これを覆すことはできないとしてそのままにした(注:『神皇正統記』による)。後宇多帝が即位するに及んで、後深草上皇は憤懣のあまり出家しようとした。時宗はこれを聞いて心を痛め、そこで議して言った。「先帝の御意志はもっぱら亀山帝にあったとはいえ、本を推し量って言えば、後深草帝は先帝の嫡長子であり、在位中も失徳はなかった。皇太子を立てるならば、後深草帝の御子孫の中から立てるのがよかろう。」そこで急ぎ亀山上皇に奏上し、後深草帝の子熙仁親王(ひろひとしんのう)を後宇多帝の東宮に立てた。熙仁親王はやがて即位し、これが伏見帝である(注:『増鏡』による)。

伏見帝はひそかに自らの地位を固めようと図り、貞時に密かに諭して言った。「先に亀山帝が在位していたとき、そなたの祖先が後鳥羽帝を隠岐に遷したことを深く恨みに思い、報復を期していた。当時は付け入る隙がなかったため、軽々しく動かなかったのだ。もし今、亀山帝の子孫が長く帝位にあって人心がこれに帰し従うようになれば、必ずそなたにとって不利益となろう。朕は先帝の余徳によって、かたじけなくもこの重い位を得ている。そなたと心を一つにして力を合わせ、太平の世を実現させたいと願うばかりで、他意はない。」貞時は深くこれを是として、亀山帝の子孫が再び皇統を継ぐことを望まず、ついに帝と謀を合わせて後伏見帝を立てた(注:『梅松論』による)。これにより後宇多上皇は不快に思い、左中弁藤原定房(さだふさ)を鎌倉に遣わして貞時を責めて言った。「国に二人の主があってはならぬ。どうしてたびたび先帝の詔に背くのか。」貞時はそこで方策を定め、後深草・亀山二帝の子孫が、十年を限りとして交互に帝位に就くこととした。まず両上皇の皇子を立て、順序に従って皇位を伝えさせることにしたのである。このとき後伏見帝は即位してわずか三年で、にわかに後二条帝に位を譲り、事は一応落着した。しかし元弘の乱は、実にここに端を発したのである(注:『神皇正統記』『梅松論』などによる)。

子に高時・泰家がおり、それぞれ別に伝がある。