卷之一百六十七 列傳第九十四
藤原道平、藤原經忠、藤原師基、藤原定房ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原道平
¶藤原道平(ふじわらのみちひら)は、関白兼基(かねもと)の長男である(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。家の号を二条(にじょう)という(注:『尊卑分脈』による)。永仁年間、侍従となった(注:『公卿補任』による)。左近衛少将に任じられ、従三位に叙せられ、右近衛中将に転じ、従二位に進み、権中納言を拝命した。正安元年、権大納言に遷り、正二位に進んだ(注:『公卿補任』『一代要記』による)。乾元二年、右近衛大将を兼ねた(注:『公卿補任』『一代要記』『歴代皇紀』による)。藤原実家(さねいえ)は席次がもとは道平の下であったが、にわかに准大臣となったため、道平は不満に思って快く思わず、そのため職を辞し、門を閉ざして参内しなかった(注:『公卿補任』による)。徳治の初め、召し出されて左近衛大将となり、内大臣を拝命した。まもなく大将を辞した。延慶二年、右大臣となった(注:『公卿補任』『一代要記』『歴代皇紀』による)。正和年間、皇太子傅を兼ねた(注:『公卿補任』『一代要記』による)。左大臣従一位に転じ、関白となり(注:『公卿補任』『一代要記』『歴代皇紀』による)、氏長者となって、牛革の兵仗を賜った。まもなく左大臣を辞した(注:『公卿補任』『一代要記』による)。後醍醐帝が即位すると、関白を辞した。嘉暦二年、再び関白となった。元徳二年、罷免された。元弘の末、天皇の車駕が伯耆(ほうき)にあったとき、詔により再び道平を左大臣・氏長者とし、内覧を許した(注:『公卿補任』『歴代皇紀』による)。天皇が京師に還幸すると、道平を召して還宮の儀を議させたところ、その言うところは意にかなった(注:『増鏡』による)。右大臣藤原経忠(つねただ)とともに政務を補佐させ、関白は改めて置かなかった(注:『天正本太平記』による。○『増鏡』には道平に万機を専ら総べさせたとあるが、これは誤りであろう)。建武元年、再び皇太子傅を兼ね、内覧・氏長者を辞し、兵部卿を兼ねた。二年に薨じ(注:『公卿補任』による)、享年四十八(注:『歴代皇紀』『尊卑分脈』による。○『公卿補任』には四十九とあるが誤りである)。後光明照院と称された(注:『尊卑分脈』『続三代集』『作者部類』による)。
¶藤原経忠。経忠は関白家平(いえひら)の子で、家の号を近衛(このえ)という(注:『尊卑分脈』による)。正中の初め、右大臣を拝命した。元徳二年、道平に代わって関白となり、従一位に叙せられた。まもなく罷免された。建武元年、再び右大臣となった(注:『公卿補任』による)。道平とともに寵任を受けた(注:『天正本太平記』による)。二年、左大臣となった。足利尊氏(あしかがたかうじ)が光明院を戴いて京師で帝を称するに及び、経忠は関白の任を受けた。経忠は自らの立場に安んじなかった。翌年、みずから抜け出して吉野(よしの)に至り(注:『公卿補任』による)、そのまま左大臣となった(注:『神皇正統記』による)。後村上帝はその邸で位を受けた(注:『吉野拾遺』による)。正平七年に薨じ(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、享年五十一(注:『公卿補任』による)。堀河殿と称された(注:『尊卑分脈』『続古今和歌集』『作者部類』による)。子に経家(つねいえ)がいる(注:『尊卑分脈』による)。
¶道平には二人の子、良基(よしもと)と良忠(よしただ)がいる。良基には別に伝がある。道平の弟を師基(もろもと)という。
藤原經忠
¶藤原師基は、正和年間、参議・右近衛中将を経て、権大納言に任じられた。文保元年、正二位に叙せられた(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。元弘三年、大宰権帥を授けられ、筑紫探題北条英時(ほうじょうひでとき)を討ちに赴いた。まだ出発しないうちに、英時が誅殺されたので中止となった。延元元年、足利尊氏が京師を犯した。勅命により師基は峰堂に陣を敷いてこれを防いだが、勝てなかった(注:『太平記』による)。まもなく兵部卿を兼ねた(注:『公卿補任』による)。尊氏が再び京師を犯すと、師基は行幸に従って延暦寺(えんりゃくじ)に赴き、そこで勅を奉じて北国へ赴き、兵三千余を調達して戻った。このとき官軍は新たに敗れたばかりであったが、師基の兵を頼みとして士気が大いに振るった。そこで左近衛中将新田義貞(にったよしさだ)は内野から、師基は千葉貞胤(ちばさだたね)・宇都宮公綱(うつのみやきんつな)らとともに河原から、京師で尊氏を進撃した。尊氏は兵を分けて師基を防いだ。師基は五条河原(ごじょうがわら)で戦い(注:『太平記』による)、多くを斬殺した。しかしまもなく赤松則祐(あかまつのりすけ)に敗れて退いた。天皇の車駕が京師に還ると、師基は河内(かわち)に逃れ隠れた(注:『金勝院本太平記』による)。のちに吉野に至り、左大臣に任じられ、従一位に進んだ(注:『公卿補任』による)。足利直義(あしかがただよし)が帰順を申し出たとき、師基はその願いを容れるべきだと論じ、帝はこれに従った(注:『太平記』による)。正平六年、関白を拝命した(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『太平記』による)。八年、官軍が京師を回復すると、勅により師基と藤原公賢(きんかた)を遣わし、還幸以前の庶務を参決させた(注:『園太暦』による)。京師に還ると関白を辞し、髪を剃った(注:○『公卿補任』『太平記』を参照)。十五年、征夷将軍陸良親王(むつよししんのう)が銀高で反乱を起こした。勅により師基は千余人の兵をもってこれを討った。一昼夜戦い(注:○「一昼夜」は西源院本による。○見行本には「三」に作るものもある)、ついにこれを打ち破って敗走させた。翌年、細川清氏(ほそかわきようじ)らとともに足利義詮(あしかがよしあきら)を京師で討ち、敗走させた(注:『太平記』による)。二十年に薨じた(注:『大乗院年代記』による。○『新葉和歌集』には光明台院入道前関白左大臣の歌三首が載っており、これは師基のことであろう。『細々要記』にも、師基は薙髪して光明台院と号したとある)。
¶子に教基(のりもと)(注:『尊卑分脈』による)、教忠(のりただ)がいる。教基は正平八年、山名時氏(やまなときうじ)とともに足利義詮を京師で討った(注:『園太暦』による)。のちに関白左大臣となった(注:○『天授元年歌和』『新葉和歌集』『公卿補任』を参照)。教忠は右近衛大将であった(注:『源太暦』による)。正平七年、奈良(なら)で戦死した(注:『園太暦』『河野文書』による)。
藤原師基
¶藤原定房(さだふさ)は、正二位権大納言経房(つねふさ)の子孫である(注:『尊卑分脈』による)。父は経長(つねなが)といい、権大納言であった(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による)。家の号を吉田(よしだ)という(注:『尊卑分脈』による)。定房は建治・徳治の間、参議・右衛門督・検非違使別当を経て、権中納言に任じられ、正三位に至った。元亨二年、権大納言に遷った(注:『公卿補任』による)。後醍醐帝がまだ藩邸(親王時代の邸)にあったとき、定房がこれに仕えて教え導いたので、そのために特に手厚い寵愛を受けた(注:『増鏡』による)。方角の忌みを避けるため定房の邸に行幸したことがあり(注:『歴代皇紀』による)、特に従一位を授けられた(注:『公卿補任』『増鏡』による)。定房の家では先祖代々、子弟で近衛府の官に任じられた者がいなかったが、帝は特にその子宗房(むねふさ)を近衛少将に任じた(注:『増鏡』による。○左近衛か右近衛かは未詳)。帝が西国へ落ち延びたとき、定房は都に留まって光厳院(こうごんいん)に仕えた(注:『天正本太平記』による)。帝が還幸すると内大臣に任じられ、民部卿を兼ねたが、まもなく内大臣を辞した(注:『公卿補任』による)。延元元年、足利尊氏が反逆して京師を犯し、天皇の車駕はあわただしく延暦寺に行幸した。定房は宮中に馳せ入り、歴代の宝器を取り集めて、行在所まで追いついて届けた。尊氏が再び来襲すると、また従って延暦寺に赴いた。まもなく従って京師に還った(注:『太平記』による)。翌年、光明院がその民部卿の職を奪った。定房は吉野に逃れ、一年余りで薨じた(注:『公卿補任』による)。
¶定房は父経長より代々朝廷の典故に通暁していた。その日記を『吉続記』という(注:『吉続記』による)。そもそも後深草帝(ごふかくさてい)・亀山帝(かめやまてい)は、いずれも後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子で、相次いで即位した。しかし上皇はとりわけ亀山帝を寵愛し、その子孫に永く皇統を伝えさせようとした。後宇多帝(ごうだてい)が生まれると、すぐに東宮に立てた。ところが後深草帝は譲位した日に、特別に長講堂領を与えられ、これをその御料とした。これはのちの世に自分の子孫にもこれを伝えようという意図からであった。上皇が崩じるにあたり、大宮院(おおみやいん)及び北条時頼(ほうじょうときより)に遺詔して、「謹んで朕の命じたところを変えてはならない」と告げた。しかしその後、時頼の子時宗(ときむね)は後深草帝の意向を受け継ぎ、伏見帝(ふしみてい)を立てて後宇多帝の東宮とした。伏見帝が立って二年後、時宗の子貞時(さだとき)はまたその皇子胤仁親王(たねひとしんのう)を援立して東宮とした。これが後伏見帝(ごふしみてい)である。そこで後宇多上皇は定房を鎌倉(かまくら)に遣わし、先帝の詔に背いていることを理由に貞時を責めた。貞時はやむなく、上皇の皇子である後二条帝(ごにじょうてい)を立て、そのため後深草・亀山両統が交互に位に就くことを取り決め、十年を限りとした。後二条帝が崩じると、貞時は先の議を執って、後伏見帝の弟花園帝(はなぞのてい)を立てた。しかし東宮はまだ定まらず、ある者は後二条帝の子邦良(くによし)を立てるべきだと論じた。亀山法皇はもとよりその孫を深く愛しており、これに位を受けさせようとして、後宇多法皇と謀り、再び定房を遣わして貞時を説得させた。こうして後醍醐帝が花園帝の後を継いで即位した。後宇多法皇はまた邦良が幼くして父を失ったことを憐れみ、後醍醐帝の東宮とするよう命じたが、帝の本意は皇子尊良(たかよし)を立てることにあり、常に邦良と折り合いがよくなかった。後宇多法皇が崩御するに及んで、帝はついに邦良を廃そうとした。貞時の子高時(たかとき)が不可としたため、これは止んだ。まもなく邦良が薨じ、帝は改めて皇子護良(もりよし)を立てようとしたが、高時はさらに後伏見帝の皇子量仁(かずひと)を立てた。帝は怒り、「臣下が皇位継承に口を出すことなど、昔から聞いたことがない。まして先朝の遺詔は鏡に懸けたように明らかである。それをたびたび違えるとは、天の咎めをどうするつもりか」と述べた。そこで再び定房を遣わして高時に詔して言った、「朝廷では代替わりのたびに紛紛として往復が絶えず、ついに天意にかなうことがない。しかも後深草帝の子孫にはもとより長講堂領がある。即位の日に至ってもなお併せてこれを保ち、その富をますます増している。亀山帝の子孫は、潜龍(位につかぬ間)であってもまた別に御料を持っており、まことに理不尽である。どうしても十年交代の議を通そうというのであれば、いっそのこと在位十年の間は、長講堂領を我が皇統に付すのがよかろう」と。しかし高時はついにこの命を奉じることなく、天下はとうとう大いに乱れた(注:○『吉続記』『神皇正統記』『太平記』『異本太平記』『梅松論』を参照)。
¶定房には二人の子がある。長子の宗房は中納言となった。後村上帝が京師の回復を図り、住吉社に立ち寄って、侍臣に幣帛と馬を神に献じさせたところ、たまたま祠の前の松が理由もなく折れた。宗房は奏上して、「妖異は徳に勝つことができません。何を恐れることがありましょうか」と述べた。伊達(だて)・有雅(ありまさ)はこれを聞いて嘆じて、「昔、殷の帝は徳を修めたので、桑と穀(こく)の木が生えるという妖異を払うことができた。今、これに勝るだけの徳があるかどうかわからない。私が見るところ、天皇の車駕は必ず京師には入れないであろう」と言った。まもなく男山(おとこやま)まで至ったが、うまくいかずに戻り、果たして有雅の言葉のとおりとなった(注:『太平記』による)。宗房は官は大納言で終わった(注:『新葉和歌集』『尊卑分脈』による)。次子の守房(もりふさ)は従一位大納言に至った。定房はかつて資房(すけふさ)を養って子としたが、官は参議に至った(注:『公卿補任』による)。
藤原定房
¶藤原為冬(ためふゆ)は、権大納言為世(ためよ)の子で、左近衛中将に任じられ、正四位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による)。足利尊氏が反逆したとき、中務卿尊良親王に従って東国へ征討に赴いた。尊良は竹下(たけのした)で兵を破られ、退いて佐野原(さのはら)へ逃れた。賊軍が追撃してくると、為冬は戦ってこれに死んだ(注:『太平記』による)。尊氏はもともと為冬と旧交があり、特にその死を哀惜した(注:『梅松論』による)。子の為重(ためしげ)は、後小松帝(ごこまつてい)の時に従二位権中納言に至った(注:『公卿補任』による)。当初、藤原為遠(ためとお)が後円融院(ごえんゆういん)の勅を奉じて『新後拾遺集』を撰んでいたが、完成しないうちに死んだ。為重が改めて勅を奉じてこれを続成したが、のちに盗賊に殺された(注:『尊卑分脈』『拾芥抄』による)。次子の為胤(ためたね)は左近衛中将となり、のちに僧となった(注:『尊卑分脈』による)。
藤原為冬
¶藤原光継(みつつぐ)は、参議光泰(みつやす)の子である(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。○『尊卑分脈』の一本には光泰の孫で光教(みつのり)の子とあるが、いずれが正しいかわからない)。家の号を堀河(ほりかわ)という(注:『尊卑分脈』による)。正中・嘉暦の間、蔵人頭・宮内卿を経て、参議に任じられ、従三位に叙せられた。後醍醐帝が都から追われて流離するに及び、都を出て光厳院に仕え、正三位に昇った。帝が都に還ると、従三位に降ろされた。建武元年、再び正三位に進み、まもなく信濃(しなの)国司となった(注:『公卿補任』による)。足利尊氏が反逆すると、大智院宮(だいちいんのみや)及び弾正尹宮(だんじょうのいんのみや)が東山道からこれを征しに赴き、光継は二千の兵をもってこれに合流し、大井城を攻め落とした。翌年、尊氏のあとを追って京師に至り、諸将とともに尊氏を討って敗走させた(注:『太平記』による)。まもなく従二位に叙せられ、権中納言に任じられた。信濃国司はもとのままであった(注:『公卿補任』による)。帝が再び延暦寺に行幸すると、光継はこれに供奉した。天皇の車駕が京師に還ると、光継は河内に逃れ隠れた(注:『異本太平記』による)。延元三年、奈良で戦死した(注:『公卿補任』による)。子は光季(みつすえ)・光有(みつあり)である(注:『尊卑分脈』による)。
藤原光繼
¶藤原雅忠(まさただ)(注:○「雅」は「正」に作るものもある)は、家の号を坊門(ぼうもん)という(注:○考えるに、雅忠がすでに坊門を家号としながら「忠」を名に用いているのは、清忠(きよただ)の一族であろう。しかし系図には雅忠が載っておらず、今は考証のしようがない)。近衛の将に任じられた(注:左近衛か右近衛かは未詳)。元弘の役に際し、足利尊氏がすでに帰順を申し出ていたが、帝はなお疑いを持ち、雅忠に赤松則村(あかまつのりむら)とともに郷兵数百人を率いて岩蔵(いわくら)に屯させ、不測の事態に備えさせた。そして僧良忠(りょうちゅう)らとともに進んで六波羅(ろくはら)を討った。延元年間、行幸に従って延暦寺に赴き、中務卿尊良親王とともに西坂で敵を防ぎ、そこで死んだ(注:『太平記』による)。
藤原雅忠
¶藤原康長(やすなが)は、関白師通(もろみち)の子孫である。曾祖父の雅平(まさひら)が初めて法性寺(ほっしょうじ)と称した。父は従三位親康(ちかやす)である。康長は左近衛中将・左兵衛督に任じられた(注:『尊卑分脈』による。○左兵衛督は『太平記』による)。正平七年、足利義詮が男山を攻めたとき、帝は康長にこれを防がせた。康長は淀川(よどがわ)を天険とし、橋を撤去して対峙した。ところが山名師義(やまなもろよし)が二千の兵をもって、流れを乱して渡ってきたので(注:『太平記』による)、官軍は驚き乱れた(注:『天正本太平記』による)。康長は身を挺して奮戦し、みずから敵三人を斬って退いた。追ってきた敵兵が口々に、「大将までもが人に背を向けて逃げるのか」と叫んだ。康長は「何の難しいことがあろうか」と言い、馬を返して引き返して戦った。男山に至るまで、実に十七度も繰り返した。敵が本営に迫ると、康長は兵八百を選び、笠に印を付けさせ、夜に細川清氏の陣を襲い、これを大いに破った。まもなく帝は包囲を突いて吉野に帰ることとなり、戎服(いくさ装束)で馬に乗り、兵士に紛れさせた。公卿や将士の多くは戦って死んだ。一宮有種(いっくありたね)が追いついて、あわや帝に迫らんとした。康長は大いに罵って、「貴様らに我が腕の力を思い知らせてくれよう」と言い、馬から下りて大刀を振るってこれを打ち倒した。それでも敵はなお追いすがって矢を雨のように射かけてきた。康長は身を挺して転戦し、包囲を破ったので、帝はそのおかげで脱出することができた。のちに大納言藤原隆俊(たかとし)に従い、山名時氏とともに足利義詮を攻めたが、その後の消息はわからない。
藤原康長
¶藤原行房(ゆきふさ)は、従二位経尹(つねただ)の子である。家の号を一条(いちじょう)といい、その祖先の行成(ゆきなり)以来、代々能書をもって知られた家であった(注:『尊卑分脈』による)。行房は官が蔵人頭(注:印本『尊卑分脈』『太平記』による)・左近衛中将に至った。笠置城(かさぎじょう)が陥落するに及び、行房は敵の手に落ちた(注:『太平記』による)。まもなく逃げ帰り、隠岐(おき)への行幸に従った(注:『増鏡』『太平記』による)。仕える態度がきわめて慎み深かったので、帝はことのほか目をかけた。ところが光厳院が即位し、悠紀(ゆき)・主基(すき)の屏風歌を書く者を選ぶこととなった際、都にはその適任者がいないというので、行房を呼び戻すべきだと議された。帝はこれを聞き入れて悵然(ちょうぜん)とした(注:『増鏡』による)。翌年、天皇の車駕が京師に還った。このとき供奉の諸臣はことごとく武装であったが、特に行房と藤原光守(みつもり)にだけは勅命により文官の装束のまま供奉させた。新田義貞は行房の妹婿である(注:○底本には「女」とあるが、今は『尊卑分脈』に従う)。延元年間、義貞が皇太子を奉じて北国へ赴いたとき、行房もこれに従った。金崎城(かねがさきじょう)が陥落すると、行房はこれに死んだ(注:『太平記』による)。
¶二人の子があり、行実(ゆきざね)・成朝(なりとも)という(注:『尊卑分脈』による)。行実は近衛少将となり(注:○「行実」の名は異本による)、父とともに皇太子に従って北国へ赴き、飽和(あくわ)に屯した。脇屋義助(わきやよしすけ)が鯖並(さばなみ)で敵に遭遇し、火をあげて急を告げると、行実は二百余人を率いて馳せ救い、まもなく五百余の兵を率いて足利高経(あしかがたかつね)を黒丸城(くろまるじょう)に攻め、黒龍社(こくりゅうしゃ)の前で戦ったが、うまくいかずに退き、その後の消息はわからない。行房の妹は後醍醐帝の後宮に入り、掌侍(ないしのじょう)となって勾当(こうとう)を務め、器量が優れていた。新田義貞は夜の宿直の折、彼女が月下で琴を弾くのを見て心を惹かれ、ひそかに和歌を贈ってその思いを伝えたが、返事はなかった。帝はこれを聞いて彼女を憐れんだ。延元の初め、天皇の車駕が京師に還ると、内々の宴を催して義貞に酒を賜り、あわせて掌侍を添えて与えた。義貞はもっぱらこれを愛して離れがたく、もはや征討に赴く志を失ってしまった。そうして留まっているうちに、ついに元凶(尊氏)が命を長らえ、消えかけていた火種が再び燃え上がり、天皇の車駕はまた流離することとなって、中興の事業は成らなかった。世の論者はこれを遺憾に思った。義貞が北国へ赴くにあたっては、道中の険しさのため彼女を連れて行かなかった。のちに迎えに行かせたが、着いた時にはすでに義貞は戦死しており、掌侍は再び京師に帰った。ちょうど敵がその首級を京師にさらしていた。掌侍はその下に赴いて泣き、その哀しみは道行く人の心を動かした。ついに髪をおろして尼となり、京の西の往生院(おうじょういん)のそばに住んだ(注:『太平記』による)。
藤原行房
¶源定平(さだひら)は、初め良定(よしさだ)といい、陸奥(むつ)守定成(さだなり)の子である(注:『尊卑分脈』『赤松系図』『太平記』による)。家の号を中院(なかのいん)といい、後醍醐帝に仕えて左近衛中将に任じられた。帝が笠置に行幸した際、定平は大納言藤原師賢(もろかた)に従って延暦寺に赴いた(注:『太平記』による)。軍が敗れると行在所に逃れた(注:『南都本太平記』による)。行在所が陥落すると、山崎に逃れ隠れた。赤松則村が兵を起こして六波羅を攻めたが、大敗した。そこで定平を奉じ、聖護院宮(しょうごいんのみや)と偽って称し、山崎に陣を敷き、そのまま兵を率いて鳥羽(とば)から入り、再び六波羅を討ったが、またうまくいかなかった。六波羅が平定されるに及び、征夷大将軍護良親王に従って京師に還った。当時、大仏高直(おさらぎたかなお)らが奈良に拠っていたので、勅により定平は楠正成(くすのきまさしげ)らとともにこれを討って降し、そこで還った。藤原公宗(きんむね)が謀反を企てると、勅により定平及び伯耆守名和長年(なわながとし)らを遣わし、捕らえて斬った。新田義貞が兵庫(ひょうご)で足利尊氏を防いだとき、定平もこれに従い、力戦したが敗れて還り、行幸に従って延暦寺に赴いた。勅により定平は兵を率いて宇治(うじ)に屯したが、戦いはうまくいかなかった。天皇の車駕が京師に還ると、定平は河内東条(とうじょう)に逃れ隠れた(注:『太平記』による。○「東条」は金勝院本による)。吉野に至り、大納言を拝命した(注:『新葉和歌集』による。○考えるに、『阿蘇社文書』に、興国・正平の頃、中院前中納言なる者が征西大将軍懐良親王(かねよししんのう)に従って筑紫に赴き、軍務を執ったとある。おそらくこれは定平のことであろう。しかし本書には名が記されておらず、今は考証のしようがない)。のちに僧となり、その後の消息はわからない。二人の子があり、定清(さだきよ)・雅平という(注:『尊卑分脈』による)。定清は左近衛中将となり、越中(えっちゅう)守に任じられた(注:『赤松系図』による)。建武年間、能登(のと)国司に遷った。足利氏が反逆すると、越中守護普門利清(ふもんとしきよ)が兵を挙げてこれに応じた。定清は本国の石動山(いするぎやま)に拠ってこれを防いだ。大軍が攻め寄せると、定清は僧徒を率いて苦戦し、これに死んだ(注:『太平記』による)。
源定平
¶藤原清忠は、左近衛中将俊輔(としすけ)の子である。五世の祖隆清(たかきよ)は、建保年間に参議・左兵衛督であった。初め坊門を家としたが、その後坊門を称するようになった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』を参照)。清忠は大蔵卿・興福寺造長官を経て、左大弁・参議に任じられ、従二位に叙せられた(注:『公卿補任』による)。建武二年、足利尊氏が謀反を企て、上表して新田義貞討伐を求めた。義貞も上表して尊氏の罪を数え上げ、あわせて護良親王を殺害した事を告げた。詔により公卿の会議が開かれたが、みな発言する者がなかった。清忠ひとりが進み出て、「私が義貞の言うところを見るに、尊氏の八つの逆罪はいずれもその罪に当たります。かつ親王殺害の事が事実であれば、尊氏の罪は誅殺してもなお足りません。関東からの知らせが届くのを待って、その上でその罪を決するのがよいでしょう」と述べた。ちょうど護良親王薨去の知らせが届いたので、そこで尊氏討伐の詔が下された。延元元年、尊氏は鎮西で兵を挙げ、水陸から進撃して迫り、京畿は大いに震え上がった。義貞は兵庫に屯して要衝を守った。詔により河内守楠正成が義貞の援護に赴いた。正成は建策して、「賊の勢いは容易に当たることができません。義貞を呼び戻し、天皇の車駕を延暦寺に行幸させ、賊を京師に入れるにまかせて、その糧道を断つのがよいでしょう。私は義貞と呼応して進み、一挙にこれを殲滅できましょう」と述べた。公卿はみな、「軍事のことは将帥である臣下に任せるべきである」と言った。清忠は、「王師が東征してから賊が西へ敗走するまで、その威霊の及ぶところ、寡をもって衆を制さなかったことはありません。これは天の助けであって、戦略によるものではありません。まして今、賊が率いる兵は、必ずしも先日東から来た兵より多いわけではありません。しかも節度使(将帥)がいまだ一戦も交えないうちに、陛下がたやすく京師を捨てられるのですか。一年のうちに再び延暦寺へ行幸されることになれば、それによって何をもって万乗の重みを示すというのでしょうか。私が思うに、速やかに正成を遣わし、都の外で決戦させるのがよいでしょう」と述べた。帝はその言葉を容れた。正成は兵庫に至り、尊氏の軍と交戦したが、ついにこれに戦死した。官軍は敗れ、尊氏は進んで京を陥れた。帝はついに再び延暦寺に行幸した。尊氏が降伏を願い出るに及び、清忠は行幸に従って京に還った(注:『太平記』による)。まもなく吉野への行幸に従った。延元三年に薨じた(注:『公卿補任』による)。清忠は在官中、藤原定房とともに帝の寵愛を受け、しばしば御下問にあずかった。二人が相次いで薨去するに及び、帝はことのほか悼み惜しんで歌を詠んだ、「言とはむ、事さえ稀に、成りにけり、我が世の末の、ほとぞのなるる」(注:『新葉和歌集』による)。