卷之二百十 列傳第一百卅七
將軍家臣二十
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
赤松則村
¶赤松則村(あかまつのりむら)は、初めは次郎と称した。(注:出典は赤松系図・太平記)父は茂則(しげのり)といい、(注:赤松系図では「則」を「範」に作る)具平親王(ともひらしんのう)の子孫である。(注:赤松系図の一本によれば、茂範は正五位に叙せられ左衛門佐となり、次郎左衛門と称し、播磨守に任じられたという)代々播磨に住んだ。祖父の久範(ひさのり)は左衛門尉で、初めて赤松を氏とした。(注:尊卑分脈による。赤松系図の一説では五世祖の家範が初めて赤松と称したという。赤松略譜には、八世祖の侍従季房が播磨守となり赤松と称したとある)則村は早くから禅の教えを崇拝し、剃髪して円心(えんしん)と号した。(注:赤松系図)性格は闊達で大志を抱き、人の下に甘んじることを望まなかった。元弘の乱に際し、子の則祐(のりすけ)が兵部卿護良親王(もりよししんのう)の令旨を持って到着すると、則村は深くこれを名誉とした。本国播磨の佐用荘苔縄山に城を築いて挙兵すると、馳せ参じる者は千余人に及んだ。そこで兵を出して杉坂山の里を守らせ、山陽・山陰の二道を遮断した。元弘三年春、中国地方の兵が六波羅の援護に赴くと、則村は子の貞範(さだのり)に命じてこれを舟坂山で防がせ、(注:貞範については赤松系図による)伊東惟鞏(いとうこれとも)ら二十余人を捕らえたが、皆その死罪を免じ、手厚くもてなした。惟鞏らは恩に感じ、三石山に戻ってこれを拠点とし、則村のために守りについた。これにより兵勢はますます盛んになり、進んで周辺の郡県を平定し、摩耶山に城を築いてこれを守った。北条時益(ほうじょうときます)が兵五千を派遣して攻めてきたが、則村は敵を険しい場所におびき寄せ、則祐らに高所から連射させた。敵軍が動揺したところに乗じて兵を放って突撃し、大いにこれを破った。北条仲時(なかとき)・時益は再び兵一万を発してこれを攻めたので、則村は城を出て迎え撃とうとし、あらかじめ敵軍の行程を見積もって「到着は明日になるはずだ」と言った。折しも急な雨が降り、民家に入って雨宿りをした。ところが敵兵が突然到来し、則村は飛び出して血戦したが、手勢はわずか五十余人で衆寡敵せず、兵は次第に討たれて、残るはただ六騎となった。則村はそこで笠を巻いて目印とし、敵兵の中に紛れ込んだ。(注:太平記)たまたま敵将が馬に乗ろうとしているのを見て、則村は身分の低い者を装い、下馬してその乗馬を助けるふりをしたが、敵将は気づかなかった。そこで再び馬に乗り、敵勢に向かって戦いに赴くような様子を見せてこれを欺き、馳せ戻って本軍に合流した。(注:諸本の太平記)翌日、進んで瀬川で敵を攻め、これを大いに破り、数百人を殺し、あるいは捕虜とした。勝ちに乗じて夜のうちに京師に向かい、民家に火を放って、その明かりを頼りに進んだ。別に左衛門佐藤原忠俊(ふじわらのただとし)を(注:忠俊については金勝院本による)派遣して七条に向かわせた。翌日、則村は桂川まで進み、敵兵二万が川を挟んで陣を布いた。則祐が単騎で真っ先に渡ると、則村は全軍を率いて渡らせた。敵兵は気勢を削がれ、戦わずして逃げ去った。則村は長駆して京師に入った。忠俊が先に進み、民家に火を放った。光厳院(こうごんいん)は六波羅に避難した。その時すでに日は暮れており、則村は兵が少なく疲れていたため、軍をとどめて進まなかった。にわかに敵が騎馬で背後から挟み撃ちにし、我が軍は大敗した。陣を立て直して再び戦ったがまた敗れ、ついに山崎(やまざき)に逃れた。改めて散り散りになった兵を集めた。偽って左近衛中将源定平(みなもとのさだひら)を聖護院宮(しょうごいんのみや)と称し、男山(おとこやま)および山崎に陣を布いて、水陸両路を扼した。北条仲時・北条時益が兵を派遣して攻めてきたので、則村はこれを聞くと兵を率いて先に出発し、京師まで三里ほどの地点で、道沿いに三か所の伏兵を置いた。敵が来ると第一の伏兵が現れ、盾を構えて矢を射たが、敵は戦わずに通り過ぎた。第二の伏兵が現れ、縦横に突撃した。第三の伏兵がその後方を断ち切ろうとすると、敵は驚き振り返って大いに崩れた。ほどなく源定平・僧良忠とともに六波羅を攻めたが、うまくいかなかった。時に帝は船上山(せんじょうさん)に行幸されており、左近衛中将源忠顕(みなもとのただあき)に詔して、兵を率いて則村を助けさせた。北条高時(たかとき)もまた足利尊氏(あしかがたかうじ)・名越高家(なごえたかいえ)を派遣して援護させた。まもなく尊氏が朝廷に帰順すると、則村は高家と久我畷(こがなわて)で戦い、部下の佐用範家(さようのりいえ)が高家を射殺し、敵軍は崩壊した。則村は東寺(とうじ)に陣を進め、源忠顕は竹田に向かい、足利尊氏は神祇官(じんぎかん)に陣を布き、三方から迫った。敵は堀を深く掘り柵を連ね、陣営が連なり、守備は非常に厳重であった。則村の部下の妻鹿常宗(めがのつねむね)は膂力(りょりょく)があり、堀を飛び越えて土塁を踏み倒し、堀を平らにしてしまった。則村はそこで兵を指揮して奮戦し、その外陣を破った。(注:禅林諸祖伝には、則村の旗には巴文が描かれ、北条氏の旗には魚鱗文が描かれていた。この日、軍中で童謡が歌われ、「魚鱗は水に属するもの、巴も水紋である。水をもって水に敵対するゆえに勝敗がつかない。もし龍を加えれば勝つだろう」と言った。則村がその言葉に従って旗に龍を描くと、戦いに大勝したという。しかしここではこの説を採らない)則村はそのまま進み、源忠顕・足利尊氏とともに六波羅を包囲した。北条仲時・北条時益は光厳院を奉じて東へ逃れたが、道中でことごとく誅殺され、この功績では則村が最も大きかった。そこで諸子を率いて兵庫(ひょうご)で車駕(帝の乗り物)を出迎えると、帝は駐輦(ちゅうれん)してじきじきにこれをねぎらい、「回復の功績は、そなたの忠義によるものである」と仰せられ、錦の直垂(ひたたれ)を賜り、供をして京師に入った。(注:錦の直垂を賜ったことは赤松系図による)当時、護良親王は志貴山(しぎさん)におられ、則村はそこに参じて従った。護良親王が征夷大将軍に任じられ、諸軍を率いて京師に入ると、則村は兵千人を率いて先陣を務めた。当時、朝廷は功臣の位階・封地を定めるにあたり、異論が入り乱れ、賞罰の基準は一定しなかった。則村の功績を評価し、播磨守護職を賜ったが、まもなく理由もなくその職を奪われ、ただ佐用荘のみを領するにとどまった。(注:太平記。赤松略譜によれば、藤原元清・忠が則村を讒言してその職を削らせたという)これにより則村は大いに不満を抱き、常に心穏やかでなかった。(注:赤松略譜)足利尊氏が東征するに及び、子の貞範がこれに従った。尊氏の謀反の兆しが次第に露わになると、則村はひそかにこれに与し、たまたま丹波(たんば)で兵が起こり、守護の碓井盛景(うすいもりかげ)を攻めた。盛景が援軍を求めたが則村は応じず、ついに尊氏の命と称して近隣諸郡の兵を招集した。(注:太平記)
¶延元元年、尊氏が京師に迫ると、則村・範資(のりすけ)は細川定禅(ほそかわじょうぜん)とともに兵を率いてこれに合流した。(注:梅松論・太平記による)尊氏は則村に播磨守護を授けた。(注:天正本太平記)則村・範資は定禅とともに官軍を山崎で大破し、(注:梅松論・太平記による)京師まで追撃した。尊氏は敗れて兵庫に逃れると、則村はひそかに進言して、「兵士たちは疲れ果てており、事を成し遂げることはできません。しばらく筑紫(つくし)へ逃れ、休息して英気を養い、じっくりと再挙を図るべきです。細川一族は四国を治め、私は播磨にあって中国地方を抑えます。鎮西では少弐貞経(しょうにさだつね)がおり、大友貞宗(おおともさだむね)も従軍しております。力を合わせて東に向かい敵を制すれば、数か月のうちに洛水(京の川)で馬に水を飲ませることができましょう。私が天の時を察するに、大将軍が西にあって拠点を構える者が有利です。また戦いは旗指物を目印とするもの。今、官軍はみな錦の御旗を掲げていますが、我らはこれを掲げることができず、どうして悪名を免れましょうか。鎌倉幕府が滅んで以来、持明院統(じみょういんとう)の上皇は内心不満を抱いておられます。もしその院宣を請い、錦の御旗を掲げて指揮すれば、天下の兵で従わぬ者はないでしょう。これこそ今の良策です」と述べた。尊氏はすべてこれに従った。(注:梅松論)則村はそこで白旗峰(しらはたのみね)に城を築いたが、まだ完成しないうちに、江田行義(えだゆきよし)・大館氏明(おおだちうじあき)と室山(むろやま)で戦い、不利となった。新田義貞(にったよしさだ)が斑鳩(いかるが)の駅まで至ると、則村は使者を送って偽って、「元弘の草創の際、則村はしばしば大敵をくじき、いささか微力を尽くしました。しかし論功の日には恩賞がきわめて薄く、これが朝廷を恨む所以でありました。しかし則村はかねてより兵部卿親王の格別な恩を蒙っており、死んでも忘れません。もし朝廷が私の罪を咎めず、綸旨をもって播磨守護に復していただけるなら、重ねて後日の働きをお示ししたく存じます」と言わせた。義貞はこれを信じ、京師に馳せ参じて奏上し、往復に十日余りを要した。則村はその間に城壁を修理し終え、そこで義貞に「本国の守護職は、将軍がすでにこれを許しております。今さら翻るような綸旨に煩わされることはありません」と返答した。義貞は怒って包囲攻撃し、一月余りに及んだ。則村はひそかに則祐(のりすけ)および得平秀光(とくひらひでみつ)を筑紫に遣わし、尊氏を説いて、「義貞は兵を分けて備前・備中・播磨・美作の諸城を攻めていますが、久しく落とせず、軍は疲れ兵糧も尽きております。将軍が至ったと聞けば、必ず風を望んで潰走するでしょう。今、白旗城は数十日にわたり包囲され、城中の食糧は乏しく、(注:城中食乏、梅松論による)陥落は目前です。もし白旗城が落ちれば、他の城も持ちこたえられません。中国地方の要衝はことごとく敵の手に落ちるでしょう。将軍が百万の兵を率いていても、それでは事の役に立ちません」と述べた。尊氏はそこで兵を率いて出発した。義貞はこれを聞くと、急いで包囲を解いて去った。児島範長(こじまのりなが)が義貞の軍に馳せ参じたが、則村はこれを那波(なわ)で迎え撃ち、範長は自殺した。(注:太平記)則村は室津(むろつ)で尊氏と合流し、足利直義(ただよし)に従い、楠正成(くすのきまさしげ)と湊川(みなとがわ)で戦ってこれを破った。(注:梅松論)正平五年、則村は死んだ。享年七十四。(注:常楽記・赤松系図)法雲寺(ほううんじ)と称された。(注:赤松系図)子は範資・貞範・則祐・氏範(うじのり)である。(注:太平記・赤松系図)氏範には別に伝がある。
赤松範資
¶赤松範資(あかまつのりすけ)は、則村の挙兵以来常に従って力戦し、その功により信濃守となった。延元元年、足利尊氏が朝廷に叛旗を翻すと、範資は京師にあり、播磨に逃げ帰ろうとして国兵を率いてこれに応じ、途中で細川定禅(ほそかわじょうぜん)と出会った。定禅は喜び、則村が元弘の年に京師に入った先例にならって、範資を先鋒とするよう請い、(注:梅松論には則村が兵を率いて定禅に会ったとあるが、どちらが正しいかは分からない)芥川(あくたがわ)に陣を布いた。尊氏はすでに山崎まで至っていたが、官軍がこれを阻んで進めなかった。範資の弟の貞範は尊氏軍に従っていたので、範資はそこで書状を送って状況を告げ、あわせて力を合わせて官軍を撃つことを約し、かつ戦いの時期を定めると、尊氏は大いに喜んだ。翌日、進んで範資らと合流し、脇屋義助(わきやよしすけ)を攻めてこれを敗走させた。これにより官軍はことごとく敗れ、尊氏は進んで京師を陥落させた。またその後、細川顕氏(あきうじ)および高師直(こうのもろなお)に従って、楠正行(くすのきまさつら)と誉田(こんだ)・四条畷(しじょうなわて)で戦った。まもなく尊氏は弟の直義(ただよし)と争いを起こして兵を構えたので、尊氏は敗れて播磨に逃れ、松岡城に立て籠もった。範資および高師直・師泰らわずか五百人ほどがこれに従ったが、事が治まると帰還した。(注:太平記)摂津守護職に補任された。後に剃髪して法名を世範(せはん)といい、世に七条赤松氏と称された。子は光範(みつのり)・直頼(なおより)・範実(のりざね)・則春(のりはる)で、(注:赤松系図。範実については太平記による)光範は従五位下に叙せられ、検非違使・信濃守となり、(注:尊卑分脈)摂津守護職を継承した。正平年間、足利義詮(あしかがよしあきら)に従って吉野を攻めたが、帰還後に佐々木高氏(ささきたかうじ)に讒言され、守護職を罷免された。後に細川清氏(きようじ)とともに官軍を誉田で防いだ。直頼・範実・則春は、ともに叔父の則祐(のりすけ)に養われた。(注:則村については赤松系図による)直頼は十三歳の時、父に従って松岡城にいた。足利尊氏が酒宴を催して今生の別れとしたとき、範資は直頼を戒めて、「私は今、将軍のために殉死しようとしている。お前はまだ幼く、しかも則祐はかねてお前を養子にしたいと望んでいるから、故郷に帰り、叔父に仕えることをなお私に仕えるのと同じようにせよ。さもなければ僧となって私の冥福を祈るがよい」と言った。直頼は顔つきを改めて、「世の中の是非は、私もすでにおおよそ分別がついております。どうして大人が死ぬのを見ながら生きて帰ることに耐えられましょうか」と答え、決して命に従わず、その気迫はまことに雄々しかった。事が治まると、父に従って帰った。山名師義(やまなもろよし)が播磨に入ると、直頼は大山路を塞いでこれを防いだ。師義は進めず、丹波に転じた。直頼は後に掃部助(かもんのすけ)となった。範実は彦五郎と称し、足利義詮に従って吉野を攻め、細川清氏とともに先陣を切って龍泉城を陥落させた。後に朝廷方に帰順し、清氏とともに義詮を攻めたが、則祐に招かれて帰り、再び義詮に属した。(注:太平記)則春は近江守となった。(注:尊卑分脈)
赤松貞範
¶赤松貞範(あかまつさだのり)は、筑前守となった。建武二年、足利尊氏に従い、東に向かって北条時行(ほうじょうときゆき)を討った。時行の軍が敗れ、箱根の水飲嶺(みずのみのみね)に立て籠もると、貞範は険しい地形をものともせず突撃してこれを破った。時行は退いて相模川を挟んで陣を布いたが、貞範は諸軍とともに夜ひそかに川を渡ってこれを攻め敗走させた。ついで尊氏に従い、竹下(たけのした)で官軍を防いだ。後に美作(みまさか)守護となった。(注:太平記)剃髪して名を世貞(せてい)と改めた。(注:赤松系図)山名時氏(やまなときうじ)が美作に入ると、貞範は弟の則祐らとともにこれを防いだが勝てなかった。(注:太平記)子の顕範(あきのり)は従五位下に叙せられ、出羽・越前・伊豆などの守および中務少輔(なかつかさのしょう)となった。(注:赤松系図諸本による)
赤松則祐
¶赤松則祐(あかまつのりすけ)は、初め僧となり延暦寺(えんりゃくじ)に住んで護良親王(もりよししんのう)に仕え、(注:赤松系図)権律師(ごんのりっし)に任じられた。(注:赤松系図・新拾遺集)帥律師(そちのりっし)と称し、妙善(みょうぜん)と号した。あるいは自天(じてん)ともいう。(注:尊卑分脈)元弘の乱に際し、護良親王が僧兵を率いて賊を防いだが、僧兵はまもなく叛いたので、親王は大和(やまと)に逃れ、則祐は村上義光(むらかみよしてる)・平賀三郎(ひらがさぶろう)らとともにこれに従った。十津川(とつかわ)に半年ほど身を潜め、再び親王に従って吉野に逃れる途中、敵に行く手を阻まれたが、則祐らは心を尽くして支え、ようやく脱出することができた。親王は大いに喜び、義光・三郎と並べて三傑と称した。親王が吉野に城を築き、味方の兵を集めると、則祐もまた令旨を請うて播磨に帰り、則村に挙兵を勧め、ともに摩耶城(まやじょう)を守った。賊が攻めてくると、則村はこれを迎え撃って破り、兵を収めて城に戻ろうとした。則祐は、「賊は全軍をあげて戦いに来て、今すでに敗れて帰るところで、兵は疲れ馬も弱っています。我々が勢いに乗じて追撃すれば、誰がこれを防げましょうか。六波羅もたちどころに奪えるでしょう」と言った。則村はこれをもっともだと思い、そこで進んで桂川まで至ると、賊の新手二万が対岸に陣を布いていた。則祐は馬を躍らせて渡ろうとしたが、則村はこれを止めて、「足利忠綱(あしかがただつな)・佐々木盛綱(ささきもりつな)が宇治(うじ)や藤戸(ふじと)を渡ったのは、あらかじめ深浅の場所を知っていたからだ。今は上流の雪が解けて水勢が激しく増しており、馬で耐えられるものではない。たとえ馬が達者で渡り切れたとしても、どうして一人で行って万の敵に当たれようか」と言った。則祐は聞き入れず、「敵は多く我らは少ない、有利なのは速戦にある」と言い、単騎で流れを渡って真っ先に進んだ。則村の兵三千がこれに続くと、賊は勢いに恐れをなして潰走した。則祐・貞範は騎馬四騎とともに敗走する敵を追い、まっすぐ六波羅の西門に至って後続の軍を待った。(注:西門については諸異本による)その時すでに日は暮れており、賊兵が四方から集まってきたので、則祐・貞範は目印を取り去って賊の中に紛れ込んだが、賊はこれに気づき、「赤松の兵は川を渡ってきたのだから、その鎧や馬が濡れている者は、すべて捕らえて斬れ」と命令した。則祐らは逃れられないと悟り、大声を上げて奮戦したが、従っていた騎馬の者は皆討ち死にし、貞範ともはぐれてしまった。則祐は身一つで脱出して本軍に戻り、再び散った兵を集めて七条で戦ったが、また敗れた。ほどなく足利尊氏に従って叛旗を翻した。(注:太平記)則村が死ぬと、播磨守護職を継ぎ、あわせて備前(びぜん)・美作の守護職を兼ねた。(注:尊卑分脈)
¶正平六年、高師直に従って光明寺城(こうみょうじじょう)を攻めた。折しも美作で兵が起こったと聞き、白旗城(しらはたじょう)に戻ってこれを守った。ほどなく朝廷方に帰順し、護良親王の子の陸良(むつなが)を奉じて尊氏を討つことを願い出た。翌年、離反して足利義詮(よしあきら)に降り、陸良を京師に幽閉した。陸良は脱出して高山寺城(こうざんじじょう)に入り、兵を集めて則祐を討とうとした。則祐は迎え撃って胄山(かぶとやま)でこれを破った。正平十年、佐々木高氏とともに義詮に従い、山名時氏を神南(こうなん)で防いだが、(注:太平記)義詮の軍は敗れて自殺しようとし、則祐・高氏はこれを諫めて止めた。時氏が勝ちに乗じて先を争って進んでくると、則祐はすぐさま立ち上がって陣幕を掲げ、兵に「お前たちは力を尽くして戦い、死をもって主君に報い、名を歴史に残すのだ」と命じた。兵は先を争って奮戦し、時氏を大いに破った。この功により備前・福岡(ふくおか)を加え授けられた。正平十六年、時氏は兵三千を率いて美作の諸城を攻略し、倉懸城(くらかけじょう)を攻めようとした。則祐は貞範らとともに兵二千を率いて倉懸を救援した。山名師義(やまなもろよし)は別に八百騎を分けて待ち構えていたが、則祐らはその兵が少ないのを見て進んで攻撃しようとしたところ、たまたま阿保信禅(あぼしんぜん)らが朝廷方に帰順し、播磨を襲おうとした。則祐は法華山(ほっけさん)など五つの城を築いてこれを守った。使者を讃岐(さぬき)に遣わし、細川頼之(ほそかわよりゆき)に援軍を求めた。(注:原本には「頼旨」とあるが、今は前後の文脈によってこれを訂正した)頼之は備前に至ったが、兵が少ないため進まず、城は陥落した。後に則祐は諸将とともに義詮の万里小路第(までのこうじてい)の造営を助け、その功により削られていた一荘を緩められた。(注:太平記)正平二十四年、甥の光範らを率いて弟の氏範(うじのり)を天王寺(てんのうじ)で攻め、これを敗走させた。(注:花営三代記)建徳二年、建仁寺(けんにんじ)の大龍庵(だいりゅうあん)で死んだ。(注:常楽記)子は義則(よしのり)・義祐(よしすけ)・将則(まさのり)・師範(もろのり)・朝範(とものり)である。(注:尊卑分脈・太平記による。則祐の子については諸系図に異同があり、ここではすべては注記しない)
¶義則は佐々木高氏の外孫にあたり、足利義満(よしみつ)に寵愛された。則祐の死に際して播磨・備前の守護を継ぎ、左近衛将監・上総介・兵部少輔を経て、従四位下大膳大夫(だいぜんのだいぶ)に至った。(注:赤松系図)義満は赤松氏および山名・一色(いっしき)・京極(きょうごく)の各氏を侍所(さむらいどころ)の長官とし、京師にあって訴訟・獄事を裁かせたので、これにより四職(ししき)と称された。(注:武家補任)元中年間、山名氏清(うじきよ)と京師で戦ってこれを破り、その功により美作守護を加え授けられた。美作が服さなかったので、兵を率いてこれを平定した。(注:明徳記)剃髪して名を性松(しょうしょう)と改めた。義祐は摂津の有馬邑(ありまむら)を領したことから有馬氏を称し、出羽守となった。将則は左馬助(さまのすけ)となった。(注:尊卑分脈)元中年間、山名氏清と内野(うちの)で戦い、敗れて死んだ。(注:明徳記・赤松系図)師範は美作権守・近江守となった。(注:赤松系図)朝範は肥前権守となった。神南の戦いで、父に従って陣の西側で真っ先に敗れると、朝範は深くこれを恥じ、敵の一将を討ち取って刺し違えて死のうと望み、山名師義をひそかに狙って攻撃したが、その従兵に傷つけられて目がくらみ倒れた。敵はその喉を刺して捨て置いて去ったが、この戦いが終わると、ついに息を吹き返して生還した。(注:太平記)