卷之二百九 列傳第一百卅六
將軍家臣十九
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
高師直
¶高師直(こうの もろなお)は、右中弁(うちゅうべん)高階峰緒(たかしなの みねお)の子孫である。峰緒から九代のちの子孫にあたる惟真(これざね)の代に、姓を単に「高(こう)」と称するようになった(注:『高階系図』による)。以後、子孫は代々足利氏(あしかがし)に仕えた(注:『太平記』による)。師直の父師重(もろしげ)は右衛門尉(うえもんのじょう)を務めた(注:『系図』による)。師直は足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事(しつじ、家宰)となり、右衛門尉に任じられた。元弘年間、尊氏が挙兵するとこれに従い、六波羅(ろくはら)探題を滅ぼす戦いに加わった(注:『太平記』による)。まもなく武蔵守(むさしのかみ)に任じられた。延元元年、尊氏が兵を挙げて京に攻め入った際にも従軍し、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵を伊岐洲社(いきすしゃ)で撃って破った(注:『太平記』『梅松論』による)。続いて権大納言藤原師基(もろもと)を西山(にしやま)の峰堂で破り、また中納言藤原隆資(たかすけ)を東寺(とうじ)で迎え撃ったが、このときは形勢不利となって退いた。そこへ土岐頼直(とき よりなお)が援軍に駆けつけたため、師直は再び出撃してこれを破った。
¶延元三年、左近衛少将源顕信(あきのぶ)を男山(おとこやま)に包囲した。顕信の兄で鎮守府大将軍の北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は界浦(さかいのうら)に陣を敷いていた。師直は「和泉・河内はもともと南朝方の勢力圏であり、顕家がそこにあって和田・楠木らの諸将と結べば、その勢いは制しがたい」と考え、精鋭を選んで安倍野(あべの)に顕家を襲い、これを討ち取った。このとき脇屋義助(わきや よしすけ)は北国の兵を発し、尊氏を攻めて男山への援護としようとしていた。尊氏は師直に急いで戻るよう命じたが、師直は顕信が背後から追ってくることを恐れ、間者を送って男山の神殿に放火させ、籠城側の兵糧・物資を焼き尽くさせた。義助は逡巡して進まず、南朝方の軍は孤立して兵糧も尽きてしまった(注:『太平記』による)。師直はさらに左近衛少将源持定(もちさだ)・源家房(いえふさ)の軍を撃破した(注:『院家雑雑跡文』『元弘日記裏書』による)。顕信は力尽きて河内(かわち)へ敗走し、義助もまた兵を引いて帰った。
¶正平二年、細川顕氏(あきうじ)・山名時氏(やまな ときうじ)は楠木正行(くすのき まさつら)と戦い、大敗を喫した。翌年、正行は京へ向けて進軍した。尊氏は師直に迎え撃つよう命じ、師直は六万の兵を率いて四条畷(しじょうなわて)に至った。士卒を分け、佐々木高氏(ささき たかうじ)・武田氏信(たけだ うじのぶ)(注:氏信については『武田系図』による)・県下野守(あがた しもつけのかみ)らにそれぞれ一隊を率いさせ、自らは大軍を率いて後方に控えた。下野守は正行の前衛部隊と交戦したが、敗れて退いた。氏信は進んでその後続部隊と戦った。高氏らは精兵を放って突撃させ、大いにこれを破った。正行は特に決死の兵三百を選んで鋭く進撃させた。師直の前衛にあった細川清氏(きようじ)・仁木頼章(にき よりあきら)らは、代わる代わる進んで戦ったがいずれも敗れた。正行は勝ちに乗じて奮戦し、師直方の将兵はなぎ倒されるように敗走した。師直は奮い立って「師直はここにいるぞ。お前たちは私を見捨てて逃げるのか、それでどの面下げて将軍にお会いできるのか」と叫んだ。これにより兵はいくらか持ち直したが、正行は師直に狙いを定め、まっすぐその本陣に突き進んだ。上山六郎左衛門高元(かみやま ろくろうざえもん たかもと)が師直と偽って名乗り出て、自ら五人を斬り倒したのち討ち死にした(注:高元については『常楽記』、五人については天正本『太平記』による)。正行はその首を師直のものと信じて回し見せたが、その隙に師直は脱出した。正行は師直が死んでいないことを知り、これをおびき出そうとしていったん兵を収めて退いたが、師直はその意図を察して追撃しなかった。高師冬(こうの もろふゆ)が兵を出して追撃すると、正行は引き返して戦いこれを破った。正行は再び師直に向かって進み、その距離は数十歩にまで迫った。師直の軍勢は散り散りとなり、左右にはわずか七、八十騎が残るのみであった。須々木四郎(すすき しろう)(注:諸本の『太平記』では丹二郎とする)が落ちていた矢を拾い集めてこれを射た。正行らは身に数本の矢を受けて進むことができなくなり、ついに互いに刺し違えて死んだ。師直はそのまま進んで吉野(よしの)を攻め、行宮(あんぐう、仮の御所)に火を放って引き揚げた。
¶この戦いのとき、高元は師直の軍にあって従軍していたが、たまたま平服のまま師直の本陣を訪れていた。にわかに正行の軍が突入してきたため、高元は慌てて自分の陣へ戻る暇がなく、とっさに師直の鎧を取って身に着けた。師直の従者はこれを怒って引き止めようとしたが、師直は「これは今日、私の身代わりとなって死んでくれる者だ。たとえ万金に値する名高い鎧であろうと、どうして惜しむことがあろうか」と言い、高元を励まして送り出した。高元はこの言葉に深く感じ入り、ついに師直の身代わりとなって討ち死にしたという。
¶師直はたびたび戦功を立て、もともと尊氏から厚く信任されていたため、その威勢と権力は比類がないほどであった。一族の重臣や古参の武将たちでさえ、師直の機嫌の良し悪しを見て一喜一憂するほどであった。その一方で師直は驕り高ぶって淫らで奢侈を好む性質で、粗暴に威を振りかざし、その悪辣さを恣にしたため、恨み苦しむ者が多かった。かつて故護良親王(もりよししんのう)の生母の邸宅を接収し、増築修繕して住まいとした。門や殿舎、廊は壮麗を極め、隣り合って並んでいた。さらに皇族や公卿の子女を数多く奪い取っては、あちこちの隠れ家に分けて囲い、毎夜通っては淫らな行いに耽った。京の人々はこれを評して「執事殿が神社巡りをすれば、どの神も供物にありつけないものはない」と噂した。二条前関白の妹君に迫って我がものとし、子の師夏(もろなつ)をもうけた(注:『太平記』による)。時が経つにつれて二人の情愛はやや冷め、女性の側も武人を伴侶とすることを常々快く思っていなかった。大納言藤原冬信(ふゆのぶ)がひそかに手紙を贈ってこの女性を誘惑したところ、師直は激怒し、ひそかに人を遣わして冬信の邸に放火させたが、冬信はかろうじて難を逃れた(注:天正本『太平記』による)。塩冶高貞(えんや たかさだ)の妻は美貌であったため、師直はあらゆる手を尽くして言い寄ったが応じられず、そこで高貞を陥れてその妻を奪おうと企み、ついに謀反の疑いをかけて誣告した。高貞は一族を連れて出雲(いずも)へ逃れた。師直は怒って「もっと早く手を打たなかったのが悔やまれる、あの美しい女を逃してしまった」と言った。急いで尊氏に願い出て追討の兵を出させ、その際必ず妻を生け捕りにするよう言い含めた。追手が追いついたが、高貞の妻は道中で命を落とした。高貞は出雲に着いてからこれを聞き、自殺した。その淫虐ぶりはおおよそこのようなものであった。
¶上杉重能(うえすぎ しげよし)・畠山直宗(はたけやま ただむね)は師直と折り合いが悪く、その所業を常々憎み、たびたび足利直義(あしかが ただよし)にこれを訴えた。しかし直義は取り合わなかった。これより先、尊氏は政務を直義に委ねていた。直義は常々僧妙喆(みょうてつ)(注:本書は「吉」に作るが誤りで、今『鎌倉大草紙』により改める)を篤く敬い、公卿や武将たちも競って施しをし奔走したため、一時は都じゅうがこの僧に傾倒するほどであった。師直・師泰兄弟は常々この僧を嘲笑って「この坊主にどれほどの才学があるというのか」と言い、一度もその門をくぐることがなかった。道で行き会っても馬に乗ったまま通り過ぎ、見向きもしなかった。妙喆はこれを恨みに思い、話のついでにたびたび師直を悪く言った。直宗・重能はこれに乗じてますますその讒言を進言し、直義もこれを受け入れるようになった(注:『太平記』による)。直義は甥の直冬(ただふゆ)を中国探題に任じ、外部からの後ろ盾として備えさせた(注:『園太暦』『太平記』による)。
¶直義は何かの用事にかこつけて師直を呼び出し、これを討ち取ろうとした。粟飯原清胤(あいはら きよたね)らは初めこの謀に加わっていたが、途中で考えを変えた。師直が招きに応じて座に着いたとき、清胤は目配せしてことの急変を知らせ、師直はこれを察して逃げ帰った。その夜、清胤は師直のもとへ赴き、計画のすべてを打ち明けた。師直はこれ以後、病と称して兵を集め身辺を固めた。折しも師泰(もろやす)は石川河原(いしかわがわら)で楠木正儀(まさのり)と対陣していたが、師直は使者を送ってこれを知らせ、都じゅうは騒然となった。赤松則村(あかまつ のりむら、円心)の子則祐(そくゆう)らは、七百の兵を率いていち早く師直を救援に駆けつけた。師直はこれをねぎらって「三条殿(直義)は我が一族を滅ぼそうと謀り、事態はすでに切迫している。それゆえ私は将軍にお伝えし、兵を挙げて讒言する者を誅そうとしているのだ。将士の多くは私に味方しており、京の都について心配するには及ばない。ただ右兵衛佐殿(直冬)は中国地方におり、必ず兵を率いて助けに来るだろう。この件についてはあなたに労を取っていただきたい」と述べ、名刀「懐剣」を贈った。則村は播磨(はりま)へ戻り、中国路を遮断して直冬の援軍を断った。やがて山名時氏・今川頼国(いまがわ よりくに)・細川清氏・仁木頼章・土岐頼康(とき よりやす)・佐々木秀綱(ひでつな)らも、事変を聞いて馳せ参じた。そのほか味方に付く者も非常に多く、その兵力はおよそ五万に達した。
¶尊氏は大いに恐れ、直義を呼んで共に対策を協議した。このとき直義に応じる将兵はわずか七千であったが、尊氏の邸に付き従って来てみると、そこは静まり返って兵備もなかったため、次第に離反する気持ちを抱くようになり、あちこちで師直の方へ逃げ帰り、残ったのはわずか千人ほどであった。師直の勢いはますます盛んになり、ついに兵を進めて尊氏の邸を包囲した。尊氏は人を遣わして「お前は何かにかこつけて私を討とうというのか」と詰問させたが、師直は「私にほかの意図はございません。今日はただ讒言する者を捕えて、自分に罪のないことを明らかにしたいだけです」と答え、兵を指揮してさらに迫った。尊氏はやむを得ず直義の政務を停止させ、重能・直宗を配流に処した。これにより師直は包囲を解いて退き、兵を遣わして妙喆を捕らえようとしたが、妙喆はすでに逃げ去っており、行方は知れなかった。また中国地方の兵に直冬を攻めさせるよう命じ、尊氏は自分の子義詮(よしあきら)を直義に代えて立て、師直はそのまま執事の地位にとどまった。
¶以前、直義が政務を執っていたころは、師直もその厳正さを恐れてあえて悪事を働くことはなかった。しかし直義が退けられるに及んで、内外の思惑がことごとく師直のもとに集まるようになると、その驕り高ぶりはますます甚だしくなり、ついに重能・直宗を配流先で圧迫して自殺に追い込み、さらに直義をも殺そうと図った。直義は恐れをなして髪を剃り、引きこもった。師直は直義の外部との交際を厳しく遮断させた(注:『太平記』による)。正平五年、義詮に従って土岐頼明(よりあき)を攻め、これを捕虜として連れ帰った(注:『園太暦』『祇園執行日記』天正本『太平記』による)。
¶このとき直冬は筑紫(つくし)にあり、石見(いわみ)の人三角入道(みすみ にゅうどう)が兵を挙げてこれに呼応した。師泰が出向いて攻めたが、数か月経っても勝てなかった。直冬に呼応する兵士は日ごとに増え、西国は大いに乱れた。尊氏が誰を鎮圧に遣わすべきか尋ねると、師直は「将軍ご自身が赴かれるのでなければ無理でしょう。なぜなら、鎮西の人々は皆『将軍と右兵衛佐殿(直冬)は、表面では争っていても内心はそうではないのかもしれない』と噂しており、それゆえ疑いを抱いて形勢をうかがっているのです。今、将軍のご出陣を聞けば、人々もどちらに付くべきかをはっきりと悟り、たちまち敵は瓦解するでしょう」と答えた。尊氏はこれを聞き入れ、出陣の日を定めた。師直はこの機に乗じて直義を殺し、後の禍根を絶とうとしたが、直義はその夜のうちに出奔した(注:『太平記』による)。師直はまず直義を捜し出してから出陣すべきだと願い出たが、尊氏はこれを聞き入れなかった(注:『園太暦』による。『太平記』には、直義が出奔すると諸将が師直の邸に集まり、しばらく京にとどまって捜索するよう願い出たが、師直はこれを聞き入れず、翌日尊氏とともに出発した、とある)。
¶やがて師直は、直義が内侍原好専(ないしのはら こうせん)のもとにいると聞き、尊氏に勧めて好専に書状を送りこれを討たせようとした。直義は越智伊賀守(おち いがのかみ)を頼って逃れ、そこでいったんは謝罪して帰順した。しかし、かねて師直に恨みを抱いていた将兵たちは、こぞって直義のもとへ馳せ参じた(注:天正本『太平記』による)。翌年、尊氏は備前(びぜん)にあって直義が挙兵したと聞き、軍を返してこれを討とうとした。師直は使者を送って師泰を呼び寄せ、子の師夏には備前にとどまらせ、師泰が到着するのを待って共に引き返した。師直は尊氏とともに兵を率いて引き返し、京で桃井直常(もものい ただつね)を攻めてこれを破った。ところが翌日、尊氏の軍は自ら崩れ、師直もこれに従って播磨へ敗走し、書写山(しょしゃざん)に立てこもった。直義は石塔頼房(いしどう よりふさ)らを差し向けて攻めさせたが、折しも師泰らの軍が到着し、共に頼房を光明寺(こうみょうじ)に包囲した。このとき尊氏方の陣は「引き尾」、師直方の陣は「泣き尾」と呼ばれる地形にあり、人々はこれを不吉な前兆だと噂した。
¶さらに尊氏は畠山国清(はたけやま くにきよ)らを頼房の後詰めに向かわせたが、尊氏・師直はこれを御影浜(みかげはま)で迎え撃って大敗し、狼狽して松岡城(まつおかじょう)に逃げ込んだ。城内は狭く、兵士でひしめき合っていた。そこで兵士たちを城の外に出させ、城門を閉じさせた。人々は怒って「執事殿はこれほど薄情なのか、最後まで頼りにできようか」と言い、皆去っていった。このため城中に残っていた将兵たちも、あちこちで逃げ出していった。当初二万と号した兵も、この時点で残ったのは赤松範資(のりすけ)らわずか五百余人にすぎなかった。尊氏が師直に「饗庭氏直(あいば うじなお)(注:氏直については『園太暦』による)や海老名六郎(えびな ろくろう)はまだいるか」と尋ねると、師直は「すでに逃げ去りました」と答えた。さらに「長井治部(ながい じぶ)や佐竹加賀(さたけ かが)はいるか」と尋ねると、「これもすでに去りました」と答えた。尊氏はもはや逃れられないと覚悟し、師直らと今生の別れの酒を酌み交わした。ちょうどそこへ氏直が畠山国清の陣から戻り、和議が成立したことを告げた。
¶師直は師泰と相談して「将軍には赤松の城にとどまっていただき、自分たちは四国へ逃れよう」と言い、さらに「三条殿(直義)は私を深く恨んでおられる。しかし髪を剃り落として罪を認めれば、あるいは許されるかもしれない」と言った。薬師寺公義(やくしじ きみよし)は言った。「昔、源為義(みなもとの ためよし)は髪を剃って罪を認めましたが、子の義朝(よしとも)でさえその命を全うさせることができず、ついに僧衣を血で染める結果となりました。あなた方が今日僧形になって降伏したところで、無事でいられる道理がありましょうか。ただ恥をさらすだけになりましょう。また四国へ逃れようにも、船の用意が必要です。しかし今船の手配もできておらず、追手がすぐそこまで迫っています。誰がこれを防ぎ切れましょうか。しかも細川顕氏の大軍が三石(みついし)にいると聞きます。将軍が赤松へ向かわれると知れば、彼らは必ず妨げとなるでしょう。進むこともできず、退くにも拠り所を失います。ここは手持ちの兵で潔く戦い、生死を決するほかありません。」師直・師泰はうなだれたまま答えず、ただ何とか死を免れたい一心であった。公義は泣いて嘆き、「行き詰まり運も尽き、迷って引き返すこともできず、ついにここまで至ってしまったか」と言い、髪を剃って元可(げんか)と号し、姿を隠して高野山(こうやさん)に入った(注:『太平記』による)。
¶尊氏は直義とひそかに約定を結び、師直兄弟を誅殺することにした(注:『園太暦』による)。師直らはなおそのことに気づかず、髪を剃り落として降伏した。師直は道常(どうじょう)、師泰は道勝(どうしょう)(注:『系図』では道昭とする)と改名し、僧衣を着て笠をかぶり、馬に乗って尊氏の後に従った。人々は指を弾いて「出家の功徳は来世を救うためのものだが、この者たちは今生さえ免れがたいだろう」と噂した。師直は尊氏に追いつこうとして、袖を上げて顔を隠し、馬を速めて通り過ぎようとした。上杉顕能(あきよし)は父の仇であるとして、兵士に命じて馬を駆けさせその前を遮らせた。三浦八郎左衛門(みうら はちろうざえもん)の従卒二人が無礼な言葉で「お前は何者の坊主だ、そのように笠をかぶって顔を隠すとは」と言い、その笠を剥ぎ取ると、頭巾も少しずれて顔の半分が露わになった。三浦は薙刀でこれに斬りつけた。師泰はこれを見て逃げ去ろうとしたが、吉江時宣(よしえ ときのぶ)(注:時宣については金勝院本『太平記』による)が槍を引き抜いてこれを突いた。師泰は衣の下に隠していた刀を抜こうとしたが、時宣の従卒が鐙を押して馬から落とし、これを斬った。一族十数人も皆、顕能の兵に殺された。顕能は重能の子である(注:『太平記』による)。
¶師直には四人の子があり、師友(もろとも)・師詮(もろあきら)・久直(ひさなお)・師夏(もろなつ)という。師友は豊前守(ぶぜんのかみ)で、父とともに殺された(注:『系図』による)。師詮は武蔵将監(むさしのしょうげん)と称した。師直が死ぬと、師詮は民間に逃げ隠れていたが、山名時氏が足利義詮を攻めた際、阿保忠実(あぼ ただざね)らが師詮を大将に推してこれを防がせたものの、戦いに敗れて自殺した。久直はその後の消息が分からない。師夏は武蔵五郎(むさしごろう)と称した(注:『太平記』による。あわせて『園太暦』も参照)。師直が殺されたとき、師夏はまだ十三歳であった。軍士は師夏を捕らえ、「お前は生きたいか」と偽って問うた。師夏は父が死んだと聞き、「ああ、今さら生きていて何になろうか」と言い、そのまま殺された(注:『太平記』による。享年十三は『常楽記』による)。師直の弟が師泰である(注:『系図』は師泰を兄とするが、ここでは『常楽記』『太平記』に従う)。
高師泰
¶高師泰(こうの もろやす)は越後守(えちごのかみ)に任じられ(注:『系図』『太平記』による)、尊氏の侍所(さむらいどころ)を務めた(注:天正本『太平記』による)。建武二年、北条時行(ほうじょう ときゆき)討伐に従軍し、相模川(さがみがわ)で戦ってこれを大破した(注:『太平記』『梅松論』による)。延元元年には別働隊を率いて金崎城(かねがさきじょう)を攻めた。瓜生保(うりゅう たもつ)らは新田義治(にった よしはる)を擁して杣山(そまやま)で挙兵した。師泰は兵六千を分けてこれを攻めたが、落とすことができなかった。翌年、瓜生保は兵を率いて金崎城の救援に向かったが、師泰は今川頼貞(いまがわ よりさだ)に命じて要害で迎え撃たせ、これを大破して瓜生保および里見時成(さとみ ときなり)らの首級を挙げた。当時、金崎城は包囲されて日が経ち、城中の兵糧は尽きて情勢は日ごとに悪化していた。ある部下が師泰に「近ごろ城中では馬を水浴びさせていません、おそらく兵糧が尽きて馬を食べているのでしょう、今攻めれば落とせます」と進言した。師泰は将兵を督励して急襲させ、城中では兵糧が絶えてすでに十日余り、兵士は皆疲れ果てて武器を取っても戦うことができなかった。尊良親王(たかよししんのう)および新田義顕(よしあき)は自害し、城は落ち、皇太子(恒良親王)を捕らえて連れ帰った。
¶延元三年、鎮守府大将軍北畠顕家が大軍を率いて鎌倉を破り、勝ちに乗じて進撃してきた。尊氏は将兵と協議し、ある者は「鎮西へ赴いて兵を集め、引き返して攻めるべきだ」と言い、またある者は「宇治・瀬田の二橋を落として防ぎ守るべきだ」と言った。師泰は「昔から橋を落として守った者は数多くありますが、それで勝ったという話は聞いたことがありません。なぜなら、攻める側は兵力が常に十分であるのに対し、守る側は地の利に自ら制約されるからです。兵力が十分であれば士気は盛んになり、地勢に制約されれば士気は衰える、これが敗因なのです。今また同じ轍を踏もうとするのは、得策とは言えません。近江・美濃の間に出兵し、都の外で敵を掃討することを願います」と述べた。尊氏はこれを受け入れた。師泰は一万の兵を率いて美濃に至り、黒地川(くろちがわ)・藤川(ふじかわ)の二つの川の間に陣を敷いて必死の覚悟を示した。顕家は進むことができず、兵を引いて伊勢(いせ)へ向かった。師泰は雲出川(くもづがわ)まで追ったが、勝ちきれずに引き返した(注:『太平記』による。「追至」以下は『難太平記』『三刀屋文書』による)。
¶興国元年、尊氏は師泰に東国を討たせ、師泰は遠江(とおとうみ)へ赴いて井伊城(いいじょう)を攻め、これを落とした。ところがまもなく宗良親王(むねよししんのう)が散った兵を集め、再び井伊城に拠った。師泰は再び数か月にわたって包囲攻撃し、ついに城は陥落した(注:『保暦間記』『鶴岡社務記』も参照)。親王は越後(えちご)へ逃れた(注:『李花集』による)。師泰は戦功を頼みに驕り高ぶるようになり、あるとき東山(ひがしやま)の枝橋(えだばし)に別荘を営もうとしたが、その土地には菅原氏の墳墓があったため、菅原在登(すがわら ありのぼり)にこれを譲るよう求めた。在登は改葬を待ってから譲りたいと願い出た。師泰は怒って「あれはわざと惜しんで、言い逃れをして私を欺いているのだ」と言い、すぐに人夫を遣わして木を伐り墓を掘り起こさせ、遺骨を打ち捨てて、その土地に別荘を建ててしまった。ある人がその傍らに次のような歌の札を立てた。「亡き人の 標の卒塔婆 掘り捨てて 墓無かりける 家作りかな」。師泰はこれを在登の仕業と疑い、ひそかに力士を遣わして在登とその子在弘(ありひろ)(注:在弘の名は『菅原系図』『常楽記』による)を刺し殺させた。かつて師泰がこの別荘を作っていたとき、大納言藤原隆蔭(たかかげ)の家臣がその地を通りかかり、人夫があまりに酷使されているのを見て、師泰をやや非難した。師泰はこれを聞いて激怒し、その家臣を追って捕らえ、人夫の服を着せて土を運ばせ石を引かせて辱めたので、見る者はこれを醜く思った。その凶暴で無慈悲なことは、おおよそこのようなものであった。
¶正平三年、楠木正儀を攻めて石川河原に陣を敷いたが、兵を放って掃部寮(かもんりょう)(注:掃部寮については『園太暦』による)や寺社の香火料の荘園を略奪させ、ことごとく奪い取った。さらに仏塔の相輪を取って茶釜に鋳直させ、軍士たちも多くこれに倣った。和泉・河内にあった仏塔で、破壊されなかったものはなかった。直義との争いが起こると、包囲を解いて京へ帰った。直義は途中に使者を送って「師直はその職にふさわしくない、今後はお前の子に代えよう」と慰め諭した。師泰は「枝を伐って根にまで及ぼそうという策略は、すでに承知している。近いうちに直接お目にかかって申し上げよう」と言い、そのまま甲冑を着けた兵三千と歩卒七千を率い、それぞれに盾を持たせて武装のまま京に入った。事態はほどなく収まった。正平五年、三角入道を攻め、続けてその五つの城を陥落させた。国内三十二の砦は、その勢いを見ただけで逃げ散った。三角入道は城に籠って固く守ったため、師泰は長い包囲陣を築いてこれを苦しめた。翌年、尊氏が直義に敗れて播磨へ逃れ、書写山に籠ると、師泰は兵を引き返して救援に向かい、途中で上杉朝定(ともさだ)らと戦ってこれを破った。さらに進んで尊氏と合流し、石塔頼房を光明寺に包囲した。和議が成立すると、師直とともに殺された(注:『太平記』による)。
¶師泰の子師世(もろよ)は左近衛将監(さこんえのしょうげん)であったが、これも父とともに誅殺された(注:『園太暦』による)。師泰の弟師茂(もろしげ)は駿河守(するがのかみ)であった(注:『系図』『太平記』による)。尊氏が筑紫へ落ち延びたとき、菊池武敏(きくち たけとし)が数万の兵を率いてこれを迎え撃とうとした。このとき尊氏の兵はわずか五百ほどにすぎず、軍中は震え上がった。折しも九州の豪族松浦(まつら)・神田(こうだ)の二氏が、尊氏の軍を大軍が到着したものと見て、武装を解いて降伏してきた。尊氏はこれを真心からのものではないと疑い、警戒を厳重にするよう命じた。師茂はこれを諫めて「人の心は変わりやすく、まことに測りがたいものです。しかし今日、人を味方につけなければ、どうしてこの危機を乗り切れましょうか。たとえ彼らが再び背く心を抱いたとしても、こちらが誠意をもって接すれば、なぜ役に立たないことがありましょうか。将軍はどうか疑いをお持ちになりませんように」と述べた。尊氏はこれをもっともだとして受け入れ、これ以後、降伏してくる者が相次ぎ、筑紫はことごとく従うようになった。師茂のその後の消息は分からない。師茂の弟師重(もろしげ)(注:『太平記』では師直の甥とするが、ここでは『系図』に従う)は豊前守であった。延元元年、尊氏に従って延暦寺を攻め、西坂本(にしさかもと)で戦って大敗し、傷を負って逃げることができず、ついに斬られてその首をさらされた(注:『太平記』による)。
高師冬
¶高師冬(こうの もろふゆ)は師直の従弟にあたり、師直の養子となった(注:『系図』による)。参河守(みかわのかみ)であった。延元四年、足利尊氏は東国がまだ服従していないことから、師冬にこれを討たせるよう命じた。師冬は兵を率いて下総(しもうさ)へ赴き、近衛少将藤原実寛(さねひろ)を駒城(こまじょう)に攻め、さらに進んで常陸(ひたち)に入り、准大臣北畠親房(ちかふさ)を小田城(おだじょう)に攻めた(注:『保暦間記』『鶴岡社務記』『矢部文書』『結城文書』も参照)。翌年、常陸の二つの城を攻め落とした(注:『鶴岡社縁起』による)。夜襲で駒城を大いに破り、実寛を捕らえた。しかしまもなく親房が兵を送って反撃したため、師冬は防戦したものの不利となり、陣営を焼いて夜のうちに逃れた(注:『鶴岡社務記』『元弘日記裏書』『結城文書』も参照)。
¶興国二年、再び兵を発して小田城を攻め、ひそかに説得の使者を送って城主小田治久(おだ はるひさ)を懐柔した。治久は降伏し(注:『鶴岡社務記』『結城文書』『別府文書』による)、親房は関城(せきじょう)へ逃れた。師冬は進んでこれを包囲し、三戸師親(みと もろちか)(注:師親について金勝院本は氏鎮とするが、ここでは『系図』の一本に従う)を分遣して大宝城(だいほうじょう)を攻めさせたが、源顕時(あきとき)に敗れた(注:『結城文書』による)。師冬はさらに長い包囲陣を築いて二つの城への道を断ち、時には兵を出して挑発した。三年にわたり対峙が続いた末、城中の兵は崩れ兵糧も尽き、親房・顕時はついに城を捨てて西へ逃れた。師冬は兵を移して伊佐城(いさじょう)を攻め、孤立した城は持ちこたえられなかった。主将の伊達行朝(だて ゆきとも)が降伏し、これにより関東はことごとく平定された(注:『結城文書』『別府文書』『税所文書』による)。師冬は京へ凱旋した(注:『鶴岡社務記』による)。
¶まもなく播磨守(はりまのかみ)となり、上杉憲顕(のりあき)とともに足利基氏(もとうじ)を補佐して東国の政務を統轄した。後に憲顕が上野(こうずけ)で挙兵し、足利直義に呼応した。師冬は関東の兵を徴発しようとしたが応じる者はなく、わずか五百の兵を率いて基氏とともにこれを討ちに向かった。ところが軍士が反乱を起こし、基氏を擁して去ってしまった。師冬は甲斐(かい)へ逃れて洲沢城(すざわじょう)に拠ったが、諏訪隆種(すわ たかたね)が兵を率いてこれを包囲した。隆種の軍にいた諏訪真親(さねちか)は「執事殿(師冬)は私に烏帽子親としての恩義があり、父子も同然の間柄です、背くことはできません」と願い出て、城中に馳せ入って戦い、師冬とともに自害した(注:隆種・真親については金勝院本『太平記』による)。三戸師親は三戸七郎(みとしちろう)と称し、師冬の一族の子である。師冬が敗れたとき、師親も傷を負って逃げ去った。のちに尊氏と直義が薩埵山(さったやま)で対陣した際、薬師寺公義が宇都宮氏綱(うつのみや うじつな)を説いて師親を大将に推し、尊氏に呼応させた。師親は陣中でにわかに狂気を発し、自害した(注:『太平記』による。氏綱については天正本『太平記』による)。