卷之一百七十五 列傳第一百一

金谷經氏、江田行義、大館氏明、大井田氏經ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 金谷經氏
  2. 江田行義
  3. 大館氏明
  4. 大井田氏經
  5. 里見時成
  6. 細屋秀國

金谷經氏

堀口貞満(ほりぐちさだみつ)は三郎と称した(注:『太平記』による)。上野(こうずけ)国の生まれである。祖父は家貞(いえさだ)といい、新田政義(にったまさよし)の三男にあたる。もとは堀口を氏としていた。父の貞義(さだよし)は左馬権頭(注:『尊卑分脈』による)、武者所頭人(注:『建武二年記』による)を務めた。貞満は大炊助(おおいのすけ)、美濃(みの)守であった(注:『尊卑分脈』による)。新田義貞(にったよしさだ)が挙兵すると、貞満は上将として従い、北条高時(ほうじょうたかとき)を攻めるにあたり巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、赤橋盛時(あかはしもりとき)を斬った。鎌倉(かまくら)はこうしてついに平定された(注:『太平記』による)。義貞が高師泰(こうのもろやす)と矢矧川(やはぎがわ)で対峙した際には、貞満が奮戦してこれを破った(注:『梅松論』による)。

延元元年、天皇が再び延暦寺(えんりゃくじ)に御幸した際、足利尊氏(あしかがたかうじ)は偽って恭順の意を伝え、京への還幸を請うた。天皇はひそかにこれを許した。御車が出発しようとしたとき、藤原実世(ふじわらのさねよ)が急使を走らせて知らせたが、義貞はまだ信じなかった。貞満は義貞に言った。「今朝、江田行義(えだゆきよし)と大館氏明(おおだてうじあき)が慌ただしく中堂へ向かうのを見ましたが、その足取りは尋常ではなく、心中ひそかに怪しんでおりました。いままたこの知らせがあった以上、必ず理由があるはずです。どうか見に行かせてください。」そして行在所に馳せ参じると、供奉の臣たちが儀を導き、三種の神器を捧持していた。貞満は軽く会釈すると、御車の轅にすがりついて涙ながらに訴えた。

「御車はすでに出発の支度が整っておりますのに、臣義貞はいまだにどこへ行幸なさるのかも知らされず、外にはただ噂ばかりが伝わっております。陛下が尊氏の狡猾な計略をお聞き入れになり、六軍がそろって京師(きょうし)にお戻りになるとのこと。義貞にいったい何の罪があって、かくも一朝にして見捨てられねばならぬのでしょうか。かつて元弘の初め、逆臣がほしいままに奸悪をふるい、御車は震え動くほどの騒乱に見舞われました。義貞は身を奮い立たせ、朝敵を憎んで討伐の詔を奉じ、逆賊を討ちました。旬日の間に賊軍を滅ぼし尽くし、天下を平定して天子の御憂いを解きました。その迅速さはこの通りでございます。陛下にお仕えする将帥のうち、中興の功において義貞に勝る者がございましょうか。尊氏が恩を裏切って乱を起こすに及んでは、義貞はまた義兵を集め、しばしば大討伐を敢行いたしました。堅陣を打ち砕き鋭鋒をくじき、万死に一生を得たことも数知れません。前後を通じて失った者は、一族百三十二人、親兵八千余人にのぼります(注:今川家本・北条家本・南都本では「百三十二人」を「百六十三人」とし、今川家本・北条家本・西源院本・南都本では「八千」を「一万」としている。いずれが正しいかは分からない)。こうしてついに凶徒を海のかなたに追い払い、京畿は安らかになったのです。しかるにこのところ反乱が相次ぎ、逆賊の炎が再び燃え上がっております。官軍はしきりに敗れ、しかも外からの援軍は来ません。これはひとえに、陛下の聖徳がいまだ万民に行き渡らず、大いなる信が人々に示されていないことによるものでございましょう。義貞にいったい何の罪がありましょうか。今日の還都の御車をもはや押しとどめることができないと仰せられるのでしたら、どうか義貞の一族で存命の者五十三人を召し出し、みなこの御車の前で死を賜り、そのうえで御出発くださいますよう願い奉ります。」

その言葉つきは激しく、声も涙もともにあふれ出た。天皇は恥じ入った様子を見せ、ついに皇太子を義貞に託し、義貞は北へ越前(えちぜん)へと向かった。貞満もこれに従った。鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が陸奥(むつ)の兵を率いて西へ上ったとき、貞満はちょうど美濃の根尾徳山(ねおとくやま)におり、兵一千を率いて馳せ参じた。その後の消息は分からない(注:『太平記』による)。

子の貞祐(さだすけ)は掃部助であった(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。堅田(かたた)に身を隠して住んでいた。足利義詮(あしかがよしあきら)が東へ逃れた際、貞祐は兵五百を率いて真野浦(まののうら)で迎え撃ち、佐々木秀綱(ささきひでつな)を斬った。その後の消息もまた分からない(注:『太平記』による)。

一井貞政(いちのいさだまさ)は貞満の叔父で、大蔵大輔を務め、常に義貞の陣中に従っていた。建武の初め、武者所に直勤した(注:『建武二年記』による)。後に子の政家(まさいえ)とともに金崎城(かねがさきじょう)で戦死した(注:『尊卑分脈』による)。

一族の氏政(うじまさ)は兵部大輔であった。脇屋義助(わきやよしすけ)が越前で挙兵したとき、氏政はちょうど居山城(いやまじょう)にいたが、兵五百を率いて進み攻め、香下(こうげ)・鶴沢(つるさわ)など十一の城を落とし、千余人を降した。そのまま義助と合流し、足利高経(あしかがたかつね)を撃ち退けた。まもなく義助が美濃へ敗走すると、氏政は平泉寺(へいせんじ)の衆徒と結んで挙兵しようと図ったが、応じてもらえなかった(注:『太平記』による)。そこで十三騎を率い、白昼、敵の砦の間を通り抜けて(注:北条家本・西源院本・南都本の『太平記』による)鷹巣城(たかのすじょう)に入った。城が落ちると、その行方は分からなくなった(注:『太平記』による)。

江田行義

金谷経氏(かなやつねうじ)は、新田義貞の一族で、治部大輔・修理大夫を務めた。建武の初め、義貞に従って足利尊氏を討ち、功があった。天皇が吉野(よしの)に行幸されると、経氏は播磨(はりま)で挙兵し、吉河(よしかわ)・高田(たかだ)など諸族を率いて丹生(にう)の要害で北路を塞ぎ、官軍に呼応した。その後、脇屋義助に従って伊予(いよ)に赴いたが、義助が病没するに及び、細川頼春(ほそかわよりはる)が水軍を率いて河江城(かわえじょう)を攻めようとした。義助の部下たちは経氏を大将に推し、戦艦五百艘を出してこれを救援させた。ちょうど海上で敵と遭遇したが、敵の船はみな楼櫓を備えており、上から我が軍を射た。経氏は快速の小舟でこれに立ち向かった。戦いはたけなわとなり、暴風が起こって、味方の船と敵の船とは東西に分かれてしまった。やがて日が暮れて風がやむと、諸将は船を返して伊予へ戻ろうと相談した。経氏はこれを承知せず、こう言った。「いま脇屋殿がこの世を去られ、大事は去ってしまった。我々が生き延びたところで、何ほどのことがあろうか。ただ血戦して死を決するのみである。」そして船を備後(びんご)へ進め、鞆城(とものじょう)を攻めてこれを取り、大可島(たいがしま)に拠った。敵兵三千が攻め寄せ、十日にわたって戦い、互いに勝敗があった。やがて頼春がすでに河江城を落とし、進んで大館氏明の世田城(せたじょう)を攻めようとしていた。そこで河野通郷(こうのみちさと)らは援軍を送って氏明を救おうと相談した。このとき手勢はなお二千あったが、経氏は「兵は多くても心が一つでなければ役に立たない。少数でも精鋭にしくはない」と考え、よく戦う者を選んで三百人を得ると、みな曼陀羅を書いて標識とし、凶日を選んで出発した。敵兵七千が千町原(せんちょうばら)で迎え撃ってきた。経氏は馬を馳せて突撃し、敵勢は総崩れとなった。経氏は自らも激しく戦い、およそ十数合を交え、敵兵七百を斬った。味方も多く死んだが、ついに頼春を討ち取ることはできなかった。経氏は残兵を集め、通郷および得弾正(とくだんじょう)・日吉大蔵(ひよしおおくら)・杉原与一(すぎはらよいち)ら十七騎とともに、包囲を破って備後へ落ち延びた(注:『太平記』による)。正平六年、足利義詮が東へ逃走した。経氏は兵五十余人を率いて八幡(やわた)に至り、京師に入ろうとした。敵兵数百が攻め寄せ、防戦したが勝てず、割腹して死んだ。殉死した者は三十余人であった(注:『房玄法印記』による)。

大館氏明

江田行義は又二郎と称した(注:『太平記』には三郎とある)。その先祖は新田義重(にったよししげ)に出る。父は有氏(ありうじ)という(注:『尊卑分脈』による。江田の名は『太平記』による。本書では行義を世良田(せらだ)と称しているが、別に江田三郎行氏という人物がいる。その祖の満氏(みつうじ)は行義の従祖にあたり、初めて江田を称した。いずれが正しいかは分からない)。新田義貞が挙兵すると、行義はこれに従って鎌倉を攻め、功があった(注:『太平記』による)。建武の初め、武者所頭人となり、兵部少輔に任じられた(注:『建武二年記』による)。足利尊氏が京師を犯すに及び、丹波(たんば)の人久下時重(くげときしげ)らがこれに呼応し、大江山(おおえやま)に拠った。行義は兵三千を率いてこれを討ちに行き、時重の弟の長重(ながしげ)を斬ると、残りの者たちは潰走した。そのまま延暦寺に還幸の供をし、諸将とともに東坂下(ひがしさかもと)を守った。園城寺(おんじょうじ)や京師での戦いでも、いずれも功があった。尊氏が西へ逃れると、西国では尊氏に応じる者が多かった。朝議は義貞にこれを討たせることとしたが、義貞が病にかかったため、行義と大館氏明に兵二千を率いて先発させ、赤松則村(あかまつのりむら)を室山(むろやま)で撃ち破らせた。義貞はそこで出発し、進んで則村を白旗城(しらはたじょう)に包囲し、弟の義助と行義および大井田氏経(おおいだうじつね)を分遣して船坂山城(ふなさかやまじょう)を攻めさせ、これを陥落させた。行義は勝ちに乗じて美作(みまさか)に入り、兵を分けて奈義能仙(なぎのせん)の菩提寺城(ぼだいじじょう)を包囲させた。まもなく尊氏が海陸から東へ上り、要地を占めようとしたため、使者を遣わして行義を呼び戻した。行義はそこで三城の包囲を解いた。山里(やまざと)で義貞と合流し、兵庫(ひょうご)で尊氏を防いだが、利を失って引き返し、また延暦寺への還幸の供をし、東坂で敵を防いで功があった。義貞に従ってしばしば京師の争奪に出たが、勝つことができなかった。天皇が京師に還幸するに及び、義貞は皇太子を奉じて越前へ赴いたが、行義は大館氏明とともに還幸の供をして京師に入った。ところが尊氏方に寝返り、かえって捕らえられ幽閉された。天皇が再び吉野へ行幸すると、四方で勤王の兵が挙がった。行義は丹波にひそかに逃れ、安達(あだち)・本荘(ほんじょう)氏らと謀を通じ、高山寺(こうざんじ)で挙兵してこれに応じた(注:『太平記』による)。その後の消息は分からない。

大井田氏經

大館氏明は、祖父の家氏(いえうじ)が初めて大館を氏とした人で、新田政義の次男である(注:『尊卑分脈』による)。父の宗氏(むねうじ)は、新田義貞が挙兵した当初、真っ先に馳せ参じ、鎌倉を攻めた。宗氏は左軍を率い、江田行義とともに極楽寺坂(ごくらくじざか)に入り、大仏貞直(おさらぎさだなお)を撃ち破ったが、ついに陣中で戦死した。氏明は左馬助となり、兄の幸氏(こううじ)(注:『尊卑分脈』には弟とある)とともに源顕家に従い、延暦寺への援軍として入った。幸氏は佐々木氏頼(ささきうじより)の観音寺城(かんのんじじょう)を攻めてこれを落とし、敵五百人を斬った。坂本(さかもと)に至ると、顕家は一両日馬を休ませようとした。氏明は言った。「馬は遠くから来て疲れており、もしまた休ませれば、足が重くなって使い物にならなくなります。しかも敵は我らが到着したと聞けば、思いもよらぬうちに急いで攻めてくるでしょう。むしろ暁を待って四方から大いに喊声を上げ、敵の不意をつくべきです。そうすれば必ず勝てましょう。」顕家をはじめ諸将はこれをもっともとし、そのまま進撃して園城寺を攻め落とした。義貞が足利尊氏を西国に追撃しようとした際、たまたま病にかかったため、氏明と江田行義に二千余人を率いて先発させ、赤松則村を室山で撃ち破らせると、軍勢は大いに奮い立った。この知らせが届くと、義貞は兵を率いて西へ出発し、後に行義とともに還幸の供をして京師に入り、尊氏方に帰順した。天皇が南の吉野へ行幸するに及び、氏明はひそかに逃れて行宮に参じた。伊予守護となり、任地に着くと、土居(どい)・得能(とくのう)氏と勢力を合わせて攻略にあたった(注:本書「諸国宮方蜂起」の条には、氏明は伊予へ逃れたとある。ここでは脇屋義助が伊予へ向かった条に従う)。脇屋義助が没するに及び、伊予の官軍は相次いで壊滅していった。氏明はそのとき世田城に拠っていたが、十余日にわたって包囲された。これより先、城中の精兵の多くは金谷経氏の戦いで戦死しており、そのうえ兵糧も尽きていた。敵がすでに城に迫ると、氏明は親兵十七人を率いて奮戦してこれを退け、城に戻ると割腹して死んだ(注:『太平記』による)。

はじめ、吉野の行宮に怪しい鳥がいて、夜になると鴉のように鳴いた。天皇はこれを忌み嫌い、衛士に命じて射させたが、ついに命中させることができなかった。ちょうど氏明が伊予から名鷹を献上したので、勅命により大納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)がこれを飼い育てた。ある日、郊外で鷹を放つと、鷹は突然前方の林の中に飛び入り、たちまち一羽の鳥を捕らえた。その鳥は鶴ほどの大きさで、旋回しながら地に落ちた。その姿は羽毛が黒く、翼の長さは七尺ほどもあった。人々はみな「これがあの鴉の声で鳴いていたものだろう」と言い、そのまま打ち殺すと、怪異はついに絶えた。しかしその鷹も胸を傷めて死んでしまったという(注:『吉野拾遺』による)。

氏明には二人の子、義冬(よしふゆ)と氏清(うじきよ)がいた。氏清は幼いころ、京師の海蔵院(かいぞういん)で学問を修めた。成長した後、正平十年、吉野に赴いて行宮に仕えた。十六年、母方の実家である伊勢(いせ)国司源顕能(みなもとのあきよし)の部下に身を寄せ、伊賀(いが)の関岡城(せきおかじょう)に住んだ。文中二年、仁木義長(にきよしなが)と鈴鹿山(すずかやま)で戦い、仁木義信(にきよしのぶ)を斬った。そのまま顕能の兵と合流し、ともに義長を攻めて大いに破りこれを敗走させた。顕能はその功をたたえ、大館の姓を関岡氏に改めさせ、自分の娘を娶らせた(注:『関岡家始末』による)。橋本正高(はしもとまさたか)が紀伊(きい)で挙兵すると、足利義満(あしかがよしみつ)は山名義理(やまなよしまさ)・細川頼元(ほそかわよりもと)らを遣わしてこれを攻めさせた(注:『花営三代記』『関岡家始末』による)。正高が援軍を求めたので、氏清は兵を率いて義理らを山口山中(やまぐちさんちゅう)で撃ち退けた。氏清は国司の娘婿として、たびたび戦功を立て、国内の兵士たちは服部(はっとり)・拓植(つげ)などの諸氏に至るまで、みな服従しないものはなく、氏清を「伊賀守」と呼んで実名を呼ぶ者はいなかった。応永十九年に没した。享年七十六。子は氏隆(うじたか)という(注:『関岡家始末』による)。

里見時成

大井田氏経(注:『太平記』では「井」を「江」に作る)は、越後(えちご)の人で、新田義重の子孫である。父の経隆(つねたか)は遠江(とおとうみ)守であった(注:『大井田系図』には経隆の孫とある)。氏経は弾正少弼を経て式部大輔となった(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。元弘の初め、氏経は父とともに新田義貞に従って挙兵し、北条高時を誅して功があった。足利尊氏が謀反するに及んでは、また従って箱根(はこね)で戦った。さらに諸将とともに天皇の還幸を護衛し、延暦寺を守った。まもなく尊氏が西へ逃れ、義貞は詔を奉じてこれを討ったが、西国はことごとく賊の手に落ち、官軍は久しく功を上げられずにいた。児島高徳(こじまたかのり)が熊山(くまやま)で挙兵すると、義貞は進んで三石(みついし)を包囲し、氏経もまた進んで福山城(ふくやまじょう)に拠ったが、兵はわずか二千であった。足利尊氏とその弟の直義(ただよし)が海陸から並び進んできたため、城中からは弟の脇屋義助と氏経ら諸将を遣わしてこれに応じさせた。氏経は畑時能(はたときよし)らとともに、船坂を挟み撃ちにしてこれを陥落させた。義助は守備が整わず、士気が動揺していた。氏経は忠義をもって励まして言った。「命を受けて賊の進路を阻んでいるのだ。どうして敵の兵が多いと聞いて、戦わずに逃げてよいものか。今日こそ、我らが命を賭すべき時である。」人々は改めて奮い立ち、勇気は百倍となった。翌日、直義は兵二十万を率いて山のふもとに至り、旌旗と人馬は数里にわたって満ちあふれた。先鋒三千が城に迫ったが、氏経は兵たちに騒ぎ立てぬよう戒めた。敵が三度喊声を上げると、こちらも太鼓を打ってこれに応じ、その声は山谷に響き渡った。敵は驚いて「源氏の将は実によく守っている。城が小さいからといって侮ってはならぬ」と言い、そこで一斉に四方から攻め上ってきた。城兵は矢を射かけ、敵の死傷者は数え切れないほどであった。氏経はそこで精兵千騎を率い、城門を大きく開いて大声を上げて突撃した。敵は総崩れとなり、人馬は谷に転落し、死者が重なり合った。氏経は直義の旗を望み見て馬を返して向かったが、しばらく戦ううちに、それが直義の陣ではないと知り、敵の背後を突いて出た。従っていた五百騎を失い、振り返ると物見櫓に火の手が上がっているのが見え、敵兵がすでに城内に入ったことを知った。氏経は人々に「今日の戦いはこれまでだ」と言い、残兵をまとめて東へ馳せた。十数度戦いながら進み、夜明けに三石に至ると、そのまま義助とともに兵を率いて山里で義貞と合流し、摂津(せっつ)で尊氏を防いだが勝てず、義貞を京へ帰した。また天皇の還幸の供をして延暦寺に登った。義貞が北へ向かうと、氏経もこれに従った。越前に至り、足利高経と戦って功を挙げた。まもなく義貞が戦死し、官軍は振るわなくなった(注:『太平記』による)。氏経は越後で没し、子に経景(つねかげ)がいる(注:『大井田系図』による)。

細屋秀國

里見時成(さとみときなり)は、越後の人で、新田氏の一族である(注:名は金川家本による)。伊賀守であった。新田義貞に従って北条高時を討ち、これを平定した。また従って足利尊氏を討った。義貞が皇太子を奉じて金崎(かねがさき)に至ったとき、時成は脇屋義治(わきやよしはる)らとともに杣山(そまやま)を守った。足利尊氏の軍が金崎を包囲し、年を越すと、城中は非常に困窮した。義治は時成および瓜生保(うりゅうたもつ)らに兵五千を率いさせて救援に向かわせた。尊氏方の今川頼貞(いまがわよりさだ)は兵二万を率いて敦賀(つるが)に陣を敷き、険阻な地に拠って迎え撃った。時成は軽騎兵を率いて指揮を執ったが、戦は不利となり、ついに保らとともに討ち死にした。里見義氏(さとみよしうじ)(注:本書には「時義」に作るものもあり、いずれが正しいか分からない。『尊卑分脈』には伊賀守義成の孫とある)は大炊助であった。新田義貞に従って足利尊氏を討ち、そのまま越前守として赴いた。金崎城が落ちると、新田義顕(にったよしあき)とともに自害した(注:『太平記』による)。

細屋秀国(ほそやひでくに)は新田氏の一族である(注:秀国の名は金勝院本『太平記』による)。右馬助であった。新田義貞に従って越前へ赴いた。足利尊氏は足利高経に越前府に陣を敷かせ、これに備えさせた。秀国は兵三千を率いて長碕(ながさき)の河合川口(かわいかわぐち)に砦を築き、しだいに敵に迫った。高経の軍は敗れ、黒丸城(くろまるじょう)に退いて拠った。秀国は藤原行実(ふじわらのゆきざね)・船田経政(ふなだつねまさ)とともに追撃してこれを攻めたが、落とすことができなかった。義貞が戦死すると、官軍は潰滅した(注:『太平記』による)。その後の消息は分からない。