卷之二百七 列傳第一百卅四
將軍家臣十七
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
畠山國清
¶畠山国清(はたけやまくにきよ)の六代前の祖先は義純といい、左馬頭足利義兼の子である。(注:尊卑分脈による。)かつて北条時政は娘婿の畠山重忠を殺し、その娘を義純に再嫁させ、重忠の所領を与えたことから、畠山氏を名乗るようになった。(注:畠山系図による。)父は家国といい、尾張守であった。(注:尊卑分脈、畠山系図による。)国清は左近衛将監、阿波守、左京大夫を歴任し、修理大夫となった。(注:尊卑分脈、太平記による。)建武二年、足利直義(あしかがただよし)に従い、矢矧(やはぎ)鷺坂で新田義貞を防いだ。翌年、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って京都で戦い、そのまま尊氏に従って筑紫(つくし)へ落ち延び、直義とともに菊池武敏(きくちたけとし)を攻めてこれを破った。また尊氏に従って延暦寺を攻め功があり、紀伊国の守護となった。(注:太平記による。)延元元年、大冢惟正(おおつかこれまさ)を八木で攻めたが、勝てなかった。(注:和田系図裏書文書による。)
¶正平四年、高師泰(こうのもろやす)に代わって河内石川の砦を救援し、楠正儀(くすのきまさのり)と対峙した。国清の一族である直宗(なおむね)は、上杉重能(うえすぎしげよし)とともに高師直(こうのもろなお)を妬み、直義に讒言した。直義はこれを信じ、高氏一族を滅ぼそうと謀った。この企みが漏れ、師直は逆に直義を廃し、直宗と重能を殺した。まもなく、尊氏の庶子である直冬(ただふゆ)が肥後に拠ったため、師直は尊氏に自らこれを討つよう勧め、師直は後詰めの軍を率いた。直義はその隙に乗じて大和へ逃れ、越智某(おちのなにがし)を頼った。国清は石川の陣を引き払い、千余人を率いて直義のもとへ馳せ参じた。六年、直義は桃井直常(もものいただつね)に命じて京都で尊氏・義詮(よしあきら)を攻めさせた。尊氏軍は敗れ、西海へ逃れた。直義はそこで石塔頼房(いしどうよりふさ)を遣わしてこれを追わせたが、播磨の光明寺で戦い、逆に包囲されてしまった。国清は三千余騎を率いてこれを救援した。尊氏は包囲を解いて去り、兵庫へ向かおうとした。国清と頼房は御影浜(みかげのはま)で行き会ったところ、敵軍が大声をあげて迫ってきた。国清は伏兵に矢を射させ続けたため、尊氏は支えきれず、師直らとともに逃げて松岡城に立てこもったが、今にも陥落しそうであった。折しも饗庭氏直(あえばうじなお)(注:氏直の名は園太暦による。)がひそかに坂を出て、国清の陣を訪れ和議を申し入れた。国清はこれに答えて言った。「錦小路殿(にしきこうじどの、直義)は常々私に書状を賜り、こう戒めておられます。『私が兵を挙げたのは将軍を仇として憎んでのことではない、師直兄弟を少し懲らしめようとしたに過ぎない。お前はこの意をよく汲み取り、戦に臨んでもみだりに執事(師直)兄弟を害してはならない。』その書状は今も残っている。」そう言って数通を示すと、氏直は帰ってこれを報告し、こうして和議が成った。師直・師泰は降伏して出たが、道中で殺された。(注:太平記による。)その後また不和が生じ、国清は直義に従って越前へ逃れ、細川顕氏(ほそかわあきうじ)、桃井直常とともに八相山(はっそうやま)で尊氏を防いだが、うまくいかなかった。国清と顕氏は直義に再び和議を結ぶよう勧め、直義もその気になって出向いて尊氏と会おうとしたが、直常に阻まれて取りやめとなった。国清と顕氏はこの和議がまとまらなかったことに憤り、直義のもとを去って尊氏に従い、(注:園太暦、天正本太平記による。)薩埵山(さったやま)で直義を攻めた。直義は敗れ、伊豆へ逃れた。尊氏は国清および仁木頼章(にきよりあきら)らを遣わして直義を誘い出させ、鎌倉に幽閉し、ついに毒殺した。(注:太平記による。)これより先、尊氏は次男の基氏(もとうじ)を鎌倉に置き、関東管領とした。尊氏が新田義宗を破って京都へ帰るに及び、国清を鎌倉執事として残した。(注:喜連川系図による。)後に剃髪し、道誓(どうせい)と号した。(注:尊卑分脈、畠山系図、喜連川系図、太平記による。)
¶十三年、武蔵・上野の土豪たちが和田義興(わだよしおき)を擁して兵を挙げようとしたので、国清は計略をもって義興を誘い出して殺した。この頃、尊氏はすでに世を去り、長男の義詮が新たに家督を継いでいたが、人々は不安を抱き、みな義詮と基氏は結局は不仲になるだろうと考えていた。国清はこの両者をあなどり、これに乗じて機会をうかがい、兵を動かして権威をほしいままにしようと考え、基氏に説いて言った。「近ごろ世間では将軍ご兄弟が相容れぬと言われ、必ず兵乱が起こるだろうとのことです。私に兵をお貸しくだされば南へ攻め入り、疑いを解いてみせましょう。」基氏はこれを良しとした。十四年、関東八か国の兵を動員するよう命じた。国清はまず人望を得ようとして、諸将士にへつらい、へりくだった言葉をかけて誠意を示し、ひそかに手厚い恩賞を与えた。将士はみなこれに応じ、こうして大軍を率いて京都へ向かった。その兵力は二十万と号した(注:園太暦では数万とする)。武具は精良で新しく、軍容はまことに盛んであった。諸国の有力者たちは道の両側からこぞって見物し、行在所(あんざいしょ、朝廷の仮の御所)もこれに震撼した。国清は義詮と道を分けて南へ攻め入った。翌年、義詮は尼崎に軍を留め、国清は津々山(つつやま)に陣を進めて官軍に迫り、官軍五百余騎が降伏した。たびたび官軍と小競り合いを繰り返し、兵を放って掠奪させ、ついに数城を攻め落とした。楠正儀は金剛山に退き入り、国清はそのまま義詮とともに軍を引き上げて京都へ帰った。
¶そもそも国清は西へ上った当初から、仁木義長(にきよしなが)が権勢をほしいままにしているのを妬み、ひそかにこれを除こうと図っていた。この時になって、日頃から義長と仲の悪い細川清氏(ほそかわきようじ)らを引き入れ、日夜酒宴を重ねるうちにしだいに親密になり、そこで彼らに説いて言った。「今日は皆様と酒を酌み交わしておりますが、何を隠すことがありましょうか。私が西へ上ったのは、実は義長を誅するためなのです。あの者のふるまいは、神仏をないがしろにし、狩猟や漁労にふけり、幕府を軽んじ、法令を犯しています。先の吉野攻めの折も、我が方が勝てば憂え、負ければ喜んでいたのです。この心底はいったいどういうことでしょうか。私は将軍のためにこの者を除きたいと願っています。」その場にいた者たちはみなこの謀に同意した。折しも和田正忠(わだまさただ)、楠正儀が兵を挙げ、譽田(こんだ)を攻めようとしたので、国清は防御にかこつけて、共謀した者たちと兵七千を率い、まず四天王寺へ馳せ向かった。正儀らはたちまち退いた。国清はもともと官軍と戦うつもりはなかったので、そのまま寺中に駐屯した。数日後、ついに兵を返して義長を攻めた。京都に着く頃には、義長はすでに東国へ逃げ去っていた。ところがまもなく官軍が再び蜂起し、紀伊・和泉・河内の諸城を攻めたため、京畿は騒然となり、一時は大騒動となって、その責任は国清に帰せられた。国清は狐の皮を腰にまとうのを好んでいたため、当時の人々はこれを憎み、「狐媚歌(こびのうた)」を作って彼を風刺した。役者や子供たちがこれを歌う声が街中に満ちた。国清は自分に禍が及ぶことを恐れ、ひそかに逃げて鎌倉へ戻った。義長の部下である参河守護代の西郷某(さいごうなにがし)は、吉良満貞(きらみつさだ)とともに矢矧(やはぎ)で兵を挙げ、尾張の小河某(おがわなにがし)らがこれに応じて小河に砦を築き、国清の帰路を塞いだ。国清は難儀しながらも、ようやく帰りつくことができた。そもそも国清が南方へ攻め入った際、将士たちは物資と食糧が尽き、多くが逃げ帰っていた。国清は鎌倉に帰り着くと、彼らの所領をことごとく没収した。将士たちが訴え出てもこれを聞き入れなかった。担当の役人がたまたまこのことを申し出ると、そのたびに罷免して罰した。十六年、将士千余人が相連れ立って基氏のもとへ赴き、国清の罷免を願い出た。基氏はそこで国清が内紛を引き起こした罪を数え立てて追放した。国清は弟たちおよび従者三百余人とともに伊豆へ向かい、途中小田原に宿泊したところ、土肥掃部助(どひかもんのすけ)が襲ってきたが、国清はこれを撃退した。そのまま伊豆に入り、二人の弟とともに三津(みと)・金山・修禅寺の三城に分かれて拠った(注:北条家本では「三津」を「三戸」とする。北条家本・南都本では「金山」を「長浜」とする)。翌年、基氏は平一揆(へいいっき)を遣わし、兵三万をもって攻めさせた。平一揆は葛山備中守(かづらやまびっちゅうのかみ)と事情があって争いを起こした。国清の家臣である遊佐(ゆさ)・神保(じんぼう)らはこれを察知し、夜に乗じてこれを襲った。敵は互いに疑い恐れ合い、戦わずして引き上げた。基氏は自ら箱根に出陣し、新田義一(にったよしかず)(注:義一の名は喜連川系図による)に兵を率いさせて攻めさせた。国清は勢いが窮まり、三津・金山の城に火を放って、修禅寺に逃げこもった。そもそも国清は執事の職を十余年も務め、その妹が基氏の妻となっていたことから、権勢は非常に盛んで、関東の将士でこれになびかない者はいなかった。しかし兵を挙げる日になると、危難に駆けつける者は一人もいなかった。親しい旧知の者でさえ多くが離反した。糧食は日に日に乏しくなり、逃げ出そうにも身を寄せる先がないことを恐れた。そこで嘆いて言った。「私は新田義興を殺したことを悔いている。」こうして数か月にわたり城を固く守った。基氏は偽って使者を送り降伏を勧めたので、国清はついに僧衣を着て降伏し、弟の義深(よしふか)を基氏の陣営に遣わし、自分は伊豆国府にとどまって数日を過ごした。基氏は国清らを不意打ちにして殺そうとし、兵を遣わして道を塞がせた。夜、ある人が国清に告げて言った。「明朝、思いがけない処分が下されるでしょう。」国清はすぐさま弟の義熙(よしひろ)(注:義熙の名は尊卑分脈による。天正本では「国熙」、毛利家本では「義国」とする)に目配せし、近くまで出かけるふりをして、一人の下僕に力仕事の荷物を持たせ、徒歩で藤沢の仏寺へ逃げ込んだ。寺の僧は馬二頭と僧二人を用意してくれ、昼夜を分かたず馳せて京都に至り、七条の仏寺に身を隠した。さらにそこを去って宇治に住み、楠正儀を頼って帰順を願い出た。正儀はこれを退けて朝廷に取り次がなかった(注:西源院本では朝議が許さなかったとする)。ついに大和・山城の間をさまよい、餓死した。(注:太平記による。)子の義清(よしきよ)は左近衛将監(注:畠山系図による)、阿波・陸奥守を務めた。弟に義深がいる。(注:尊卑分脈による。)
畠山義深
¶畠山義深(はたけやまよしふか)は、三郎と称した(注:尊卑分脈、畠山系図による)。尾張・能登・越中・河内・河泉・摂津の守を務めた(注:畠山系図による)。ほどなく伊豆守護となり、国清に従って鎌倉に住んだ。国清が追放されるに及んで、これに従って伊豆へ逃れた。翌年、基氏が義深を招き、偽って伊豆守護職に復させた。義深が基氏の箱根の陣営に赴いたところ、にわかに国清が出奔したと聞いて大いに驚き、どうすればよいか分からず、結城直光(ゆうきなおみつ)のもとへ行って命を助けてくれるよう頼んだ。その時基氏は陣を引き払って帰ろうとしていたので、直光は義深を大きな長持(ながもち)に入れ、底に穴を開けて空気を通し、これを担いで鎧櫃(よろいびつ)の後ろに続かせ、ついに脱出させることができた。その後京都に住み、足利義詮がその罪を許し、越前守護に任じ、諸将とともに足利高経(あしかがたかつね)を秈山(しなやま)で攻めた。数か月後、高経は死に、その子義将(よしゆき)が降伏して出たため、越前は平定された。義深はその任にあって、なかなかの治績を上げた(注:太平記による)。天授五年、死去した(注:尊卑分脈、畠山系図による)。享年四十九(注:常楽記による)。そもそも義深は国清が出奔したと聞き、ひそかに逃亡の計画を立てた。その家臣である遊佐性阿(ゆさしょうあ)はその様子を察知し、人に気づかれないようにしようと、あえて左右の者たちと酒を飲み格闘の遊びに興じて笑い合い、その形跡をくらました。義深の一行がすでに遠くまで行った頃、事がしだいに漏れ、兵士が急に来てこれ(性阿)を捕らえようとした。性阿はそこで僧衣をまとって逃げたが、途中で人に気づかれ、旅宿に入って自殺した(注:太平記による)。譽田性意(こんだしょうい)もまた義深の家臣で、駿河まで逃げたが、今川範国(いまがわのりくに)に捕らえられた。その子の弥三郎(やさぶろう)が身代わりに死のうと願い出たところ、性意はこれを見て、自分の子ではないと言った。弥三郎はなおも強く言い張ってやめなかったので、範国は思うところあって二人とも釈放した(注:毛利家本、天正本太平記による)。義深の子は基国(もとくに)・深秋(ふかあき)である(注:尊卑分脈による)。
仁木賴章
¶仁木頼章(にきよりあきら)は、二郎三郎と称し、その先祖は足利義清(あしかがよしきよ)から出た。義清の孫の実国(さねくに)は参河国仁木に住み、仁木太郎と称した。実国の玄孫にあたる義勝(よしかつ)が頼章を生み、頼章は周防・伊賀守、左京大夫、兵部大輔を歴任した(注:尊卑分脈、梅松論、太平記による)。足利尊氏が兵を挙げると、頼章は弟の義長とともに常にその軍に従った。尊氏が反旗を翻すに及び、頼章は矢矧鷺坂(やはぎさぎさか)で新田義貞と戦ったが、うまくいかなかった。まもなく尊氏に従って竹下(たけした)で官軍を破り、そのまま京都に入った。尊氏が筑紫へ落ち延びるにあたり、途中で頼章を丹波へ遣わし、久下(くげ)・長沢(ながさわ)・萩野(はぎの)・波波伯部(ほうかべ)らとともに高山寺城に拠らせた(注:太平記による)。尊氏が再び京都に入ると、頼章は今川頼貞(いまがわよりさだ)とともに丹波・但馬の兵を率い、先陣として京都に至った。義貞が尊氏の東寺の陣営を攻めると、頼章は上杉重能らとともにこれを撃退した(注:梅松論による)。新田義顕(にったよしあき)が金崎(かねがさき)に拠ると、頼章は丹波・美作の兵を率い、塩津(しおつ)からこれを攻めに向かった。正平年間、高師直に従い、楠正行(くすのきまさつら)と四条畷(しじょうなわて)で戦い、また桃井直常と白河で戦った。尊氏が西へ逃れ、子の義詮を石龕寺(せきがんじ)に残すと、頼章と義長にこれを補佐させた。義詮に従って京都に入ったが、この頃尊氏と弟の直義は内々に不和であったため、頼章兄弟および細川頼春(ほそかわよりはる)、土岐頼康(ときよりやす)、佐々木高氏(ささきたかうじ)、石塔頼房、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、桃井直常らは、それぞれ党派を分けて自国へ逃げ帰った。頼章は温泉に浴すると口実をつけて有馬へ逃れ、義長は伊勢へ逃れた。尊氏が東へ向かい直義を討つに及び、頼章兄弟はこれに従って薩埵山で直義を攻め、敗走させた。また尊氏に従い、新田義宗と小手差原(こてさしがはら)で戦い、功を立てた。足利直冬が尊氏を攻めようとし、山名時氏(やまなときうじ)がこれに応じた。この時頼章は尊氏の執事として、丹波守護として佐野城にいた。時氏が兵を率いて城下を通ったが、頼章はその鋭鋒を恐れて出撃しなかった。尊氏は直冬・桃井直常と京都で戦った。頼章は丹波・丹後の兵三千を率い、嵐山に陣を敷いた。頼章は臆病で、成り行きを見守るばかりで進もうとせず、後に義詮に従って吉野を攻めた(注:太平記による)。十三年、剃髪して道璟(どうけい)と号した(注:尊卑分脈による)。翌年、死去した(注:尊卑分脈、園太暦による)。享年六十一(注:尊卑分脈による)。子の義尹(よしただ)は(注:本書では頼夏の子とする説もある)、中務少輔、兵部大輔となり(注:尊卑分脈、太平記による)、丹波守護に補せられた。山名師義(やまなもろよし)が小林重長(こばやししげなが)を遣わして丹波を攻略させると、義尹は和久(わく)に出陣し、義詮に急を告げた。義詮は諸将を遣わしてこれを助け、重長は戦わずして退いた(注:太平記による。急を告げたことは天正本による)。そもそも頼章は細川和氏(ほそかわかずうじ)の子である頼夏(よりなつ)を養って自分の子とし(注:本書では清氏の子とする説もある)、三郎と称し、左京権大夫、中務少輔となった。頼章の弟は義長である(注:尊卑分脈による)。
仁木義長
¶仁木義長(にきよしなが)は、二郎四郎と称し、越後守、右馬権頭、修理亮、右京大夫を歴任した(注:尊卑分脈による。太平記、梅松論も参照)。足利尊氏が菊池武敏と多々良浜(たたらはま)で戦った際、尊氏軍は甲冑や馬の備えが十分でなく、足利直義は宗像宮司(むなかたぐうじ)宗像政弼(むなかたまさすけ)から贈られた甲冑を義長に与えた(注:政弼の名は金勝院本による)。義長はこれを身に着け、先頭に立って力戦し、自ら数人を斬ったので、これによって士気は百倍にも高まった。武敏は敗走し、義長と一色頼行(いっしきよりゆき)は肥後まで追撃した(注:頼行の名は尊卑分脈による)。武敏が逃げ出すと、進んで内河義直(うちかわよしなお)の八代城を攻め、これを敗走させた。尊氏が京都を攻めるにあたり、義長と頼行は筑紫に留まって守り、まもなく京都へ帰った(注:梅松論による。太平記も参照)。尊氏が新田義宗らと金井原(かないがはら)で対峙した。義長は頼章と手勢の兵三千を分けて、茂みの中に伏せた。やがて尊氏軍が敗走すると、新田義興・脇屋義治(わきやよしはる)は兵を放って徹底的に追撃した。義長はそこで突然立ち上がって奮戦し、義興らはにわかに魚鱗の陣を敷いたが、義長もまた陣を整えてこれに当たり、討ち取った敵は非常に多かった。義興・義治は敗走した。尊氏の挙兵以来、義長はたびたび戦功を立て、参河・伊勢・伊賀など四か国の守護となり、所領は数百か所に及んだ。人となりは凶暴残忍で、賞罰を思うままに行い、驕り高ぶることが甚だしかった。かつて鶴岡八幡宮に参詣した際、社殿の中で人を殺したことがある。また男山八幡宮の神人(じにん)を殺害したこともあった。伊勢にいた時には、神戸(かんべ)三郡を強引に占拠した。祭主がこれを京都に訴え出たところ、後光厳院(ごこうごんいん)は尊氏に命じて書状を下し、返還するよう責めさせた。義長は祭主が自分を訴えたことに怒り、神路山(かみじやま)・五十鈴川(いすずがわ)で思うがままに狩猟漁労にふけり、まったく意に介さなかった(注:太平記による)。京都にいた頃には細川清氏の邸地を奪い取り、清氏は怒って攻めようとしたが、尊氏が仲を取り持って治まった(注:園太暦による)。また参河の人である星野行明(ほしのゆきあき)が国元で勝手に清氏に属したことに怒り、その所領を没収した。さらに土岐頼康、佐々木氏頼(ささきうじより)の所領を奪おうと企てた。このため諸将は義長を憎んでいた。折しも足利義詮が吉野を攻めるにあたり、義長に兵三千を率いさせて西宮に出陣させた(注:園太暦では兵五百とする)。畠山国清もまた兵を率いて西へ上ったが、日頃から義長を妬んでおり、これを陥れようと図っていた。一方義長は功を独り占めにしようとし、国清の兵が盛んなのを忌み嫌い、その失敗を願っていた。国清の先鋒が龍門山(りゅうもんざん)で戦ったと聞くと、手を打って笑い、「お前たちの全軍が裸で逃げ出すことになれば、それもまた一興というものだ」と言った。まもなく国清は京都に帰ると、ひそかに諸将を集めて義長を殺そうと謀った。折しも官軍が譽田城を攻めたので、国清は応援にかこつけて諸将とともに四天王寺へ赴き、引き返して義長を攻めることを相談した。義長はこれを聞きつけ、義詮に説いて言った。「国清・清氏が兵を分けて四天王寺から向かってくると聞いております。これは私を口実にして乱を企てようとしているのです。どうかこれに備えさせてください。」義詮は言った。「それは根も葉もない噂であろう。もし事実であれば、私がそなたとともにこれを誅する、誰が抗えようか。」義長は大いに喜び、兵を集めて七千余人を得ると、言った。「国清の十万の兵といっても、それほど精強なわけがあろうか。」そして甥の頼夏に二千余人を率いさせ四条大宮を守らせた。弟の頼勝(よりかつ)を東寺に遣わし、千余人を率いて民家に火を放たせた。自らも兵を整えて備えた。義詮が国清に内通するのを恐れ、頼夏とともに兵を率いて義詮の邸を守らせた。内外の出入りを禁じ、自分勝手に事を進め、綸旨(りんじ)や教書を求めて、国清・清氏を討とうとした。その夜、義詮は佐々木高氏と謀ってひそかに脱出した。夜明けに、義長と頼夏は義詮に将士の前に出るよう求めたが、義詮の姿がないことを怪しみ、門を閉ざして大々的に捜索したが見つからなかった。これによって人心は離れ動揺し、みな逃げ去って、残った者はわずか三百余人であった。敵軍が次第に近づくと、義詮はどうしてよいか分からず、間道を通って伊勢へ逃れた。頼勝は丹後へ逃げ、頼夏は丹波へ逃げた。尾張の人である小河某(おがわなにがし)・東池田某(ひがしいけだなにがし)は、小河荘に拠った。参河守護代の西郷某および吉良満真(きらみつざね)は矢矧に陣を張り、いずれも義長に呼応したが、みな相次いで敗れた。石塔頼房は伊賀・伊勢の兵を集め、義長の叔父である義住(よしずみ)(注:義住の名は毛利家本による。義長の叔父であることは尊卑分脈による。分脈では義任とする)を大将に推し立て、近江の葛木山(かつらぎやま)に陣を敷いて、佐々木氏頼らと戦った。義住は敗れて降伏した。義長は伊勢にあって兵三千余人を擁していたが、この頃には逃亡する者が非常に多く、わずか五百余人で長野城に拠るのみとなった。佐々木氏頼、土岐頼康が攻め寄せ、二年にわたり対峙した。義長の軍は兵糧が日に日に乏しくなり、一族の者たちの多くが降伏した。そこで吉野へ使者を送り、帰順した。二十年、さらに義詮に降伏を願い出た。義詮はその昔の功を思い、罪を許して京都へ帰らせた(注:太平記による)。その後剃髪した。天授二年、死去した(注:後愚昧記別記による)。子の満長(みつなが)は右馬助となった(注:尊卑分脈による)。
石塔賴房
¶石塔頼房(いしどうよりふさ)は、足利氏の庶流である。足利泰氏(あしかがやすうじ)の養孫である頼茂(よりしげ)がその子となり、石塔四郎と称した。頼茂は義房(よしふさ)を生み、義房は頼房を生んだ(注:尊卑分脈による)。頼房は右馬頭、中務大輔となった(注:尊卑分脈、太平記による)。足利直義が高師直を殺そうと謀ったが失敗し、大和へ逃れて越智某(おちのなにがし)のもとに身を隠した際、頼房は越智とともに直義に帰順するよう勧めた(注:天正本太平記による)。詔を奉じて足利尊氏を討つべく、兵を率いて男山(おとこやま)に拠り、京都をうかがった。やがて尊氏が播磨の書写山(しょしゃざん)へ逃れると、直義は頼房および上杉朝房(うえすぎともふさ)を遣わして兵を率いてこれを追撃させた。光明寺に駐屯して尊氏と対峙した。この時高師泰が石見から戻って尊氏を救援し、軍勢は再び盛んになった。頼房は直義に増援を求めた。にわかに尊氏が攻めてきたが、頼房らは力戦してこれを連破した。直義はさらに畠山国清、上杉義依(うえすぎよしより)を援軍として遣わした。尊氏は退いて兵庫に陣を敷いたが、頼房はさらにこれを撃破した。まもなく直義に従って越前へ逃れたが、尊氏が兵を率いて攻めてきた(注:太平記による)。頼房は桃井直常とともに近江の八相山で迎え撃ったが、敗れた。頼房は観音寺城に身を隠した(注:天正本太平記による)。その後父の義房とともに直義に従って鎌倉へ赴き、薩埵山で尊氏を防いだが、軍は敗れて降伏した。義房は鎌倉にあって、ひそかに別の企てを抱いていた。折しも新田義興らが鎌倉を攻めようとし、書状をもって義房を誘った。義房はこれに応じようとし、頼房を呼んで言った。「薩埵山の敗戦では、死をこらえて生を祈った。降将の身となり、仁木・細川らに屈辱を受け、鬱々として日を過ごしている。今、新田氏に属して当世に功を立て、子孫に栄誉を残そうと思う。お前も共にすべきだ。」頼房は愕然として顔色を変え、言った。「人の臣下でありながら二心を抱くのは、武士の恥とするところです。私は深く将軍に頼りにされており、常にその恩に報いたいと思っております。昔から父子が兵を構えることもありますが、それもまた各々がその主君のためなのです。私はこのことを将軍に告げないわけにはまいりません。父子の恩義はこれで断たれることになりますが、二度とお目にかかることはできますまい。」そのまま立ち去って尊氏の軍に従った(注:太平記による。天正本ではこれを義基の事とする)。その後帰順し、刑部卿を授けられた(注:尊卑分脈、太平記による)。足利直冬、山名時氏、細川清氏が相次いで帰順を願い出ると、詔をもってこれを許した。頼房および吉良一族を遣わし、兵を率いてこれを助けさせた。またともに細川氏春(ほそかわうじはる)らを摂津で討った。まもなく楠正儀らとともに赤松光範(あかまつみつのり)の多田部城(ただべじょう)を攻め、その町並みに火を放って引き上げた(注:太平記による。園太暦も参照)。その後再び背き、吉良義真(きらよしざね)とともに足利義詮に降伏した(注:毛利家本、天正本太平記による)。
吉良滿貞
¶吉良満貞(きらみつさだ)は、参河国吉良の人である(注:難太平記による)。高祖父の長氏(ながうじ)は、足利泰氏の弟で、吉良太郎と称した(注:尊卑分脈による)。祖父の貞義(さだよし)は左京大夫、上総介を務めた。父の満義(みつよし)は左兵衛佐、中務大輔であった。満貞は吉良三郎と称し、左京大夫、治部大輔を歴任した(注:尊卑分脈、太平記による)。足利尊氏が勤王の挙兵を謀った際、貞義がその一族の長老であったことから、まず上杉憲房(うえすぎのりふさ)を遣わして知らせに来させたところ、貞義は力を尽くしてその計画に賛同した(注:難太平記による。族祖であることは尊卑分脈による)。こうして一族を挙げてこれに従い、後にはみな尊氏に従って反旗を翻した。正平七年、天皇が男山に行幸された際、満貞は石塔頼房とともに兵五千を率い、駿河から入って援護した。神楽岡(かぐらおか)の戦いでも、ともに官軍に属し、細川清氏と戦ってこれを破った。十五年、畠山国清が東へ逃走した際、満貞は参河守護代の西郷某とともに兵を率いて矢矧でこれを迎え撃とうとした。折しも義詮が大島義高(おおしまよしたか)を守護としたため、満貞はこれと戦って敗れ、ついに背いて義詮に降伏した。十六年、宇都宮・黒田の一族とともに、官軍を大渡(おおわたり)で防いだ(注:太平記による)。後に剃髪し、名を省堅(しょうけん)と改めた(注:尊卑分脈による)。
小笠原貞宗
¶小笠原貞宗(おがさわらさだむね)は、幼名を豊松(とよまつ)といい、彦五郎と称し、信濃国の人である。左京大夫長清(ながきよ)の六代の孫にあたる。父は宗長(むねなが)といい、信濃守であった。貞宗は従五位下に叙せられ、右馬助、治部大輔、信濃守となり、信濃守護に補せられた(注:尊卑分脈、小笠原系図による。系図では正四位下とする)。飛驒・遠江などの国の政務を管轄した。元弘の乱では、北条高時に応じて官軍を防いだ。その後罪を悔いて功を立てることを願い出て、天皇は貞宗に信濃・飛驒の兵を発するよう勅命を下し、新田義貞に従って武蔵野・鎌倉で戦い、いずれも功を立てた(注:小笠原家譜による)。建武二年、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、また義貞に従ってこれを討った。後に離反して尊氏に降った。
¶天皇が延暦寺に行幸されると、尊氏は軍を進めてこれを攻めたので、貞宗は甲斐・信濃の兵を率いて勢多(せた)に至ったが、延暦寺の僧徒たちが橋を落としてこれを防いだ。そこで野路(のじ)に陣を敷き、官軍の輸送路を押さえた(注:「官軍の輸送路を押さえた」の原文五字は太平記による)。脇屋義助(わきやよしすけ)が攻めてきたが、迎え撃ってこれを敗り、鏡山(かがみやま)に拠った。官軍がさらに攻めてきたが、これも敗り、伊吹山に退いて陣を敷き、尊氏にこれを報告した。折しも尊氏は近江に出兵して官軍の輸送路を断とうと相談し、佐々木高氏を遣わして援護させた(注:梅松論による。貞宗目安抄によれば、貞宗はこの年近江守護を辞したとされる。おそらく貞宗が辞職を願い出て、高氏がこれを望んだため、尊氏が両方の願いを聞き入れたのであろう。今となっては詳しいことは分からない)。貞宗はすでに官軍を破っていたので、その功によって近江を管轄することになったが、高氏が到着すると、自ら尊氏に願い出て近江を得たと称した。貞宗は大いに失望し、これを棄てて京都へ赴いた(注:諸本の太平記を参照)。まもなく義貞が皇太子を奉じて金崎城(かねがさきじょう)を守った。尊氏はそこで貞宗に命じ、信濃の兵を発してこれを攻めさせた。貞宗は精鋭八百をもって危険を冒して力戦したが、うまくいかず引き上げた。鎮守府大将軍源顕家(みなもとのあきいえ、北畠顕家)が鎌倉を破って西へ上ると、貞宗はまた兵を発してこれを追った。美濃に至り、芳賀禅可(はがぜんか)とともに自貴渡(じきのわたし)で防ぎ戦ったが、大敗し、かろうじて逃れて帰った(注:太平記による)。
¶その家には代々弓馬と乗馬の術が伝えられていたが、貞宗に至ってその技はきわめて精妙の域に達した。後醍醐天皇は昇殿を許し、これに師事してその術を習った。天皇はかつて鞍の据え方を知りたいと思われ、貞宗に馬に乗らせ、自らその鞍の上に近づいて試みられたところ、大いに称賛し、画工に命じてこれを図に描かせ、秘府に収めさせた。またかつてその射術を伝授された際、天皇は「騎射の巧みさは、天から授かったものである」と仰せられ、書を賜って武人の模範として褒め称えられた。旗印には「王」の字を用いたが、後に菱の紋に改めた(注:小笠原家譜による。本書および小笠原系図はともに、貞宗はこの時正三位に叙せられたとするが、公卿補任などの書には記載がないため、これは採らない)。そもそも天皇は犬追物(いぬおうもの)が生き物を傷つけるものであるとして、これを廃するよう勅命を下されていた。貞宗は「歩射と騎射とは、武事において一方だけを廃してはならない。そして馳せ駆ける稽古としては、犬追物が最も重要である」と考え、光明院(こうみょういん)に上書してその復活を願い出た。勅命によりこれが許された(注:小笠原家譜、貞宗目安抄による)。
¶貞宗は晩年に自ら家譜を著し、あわせてその序文を作って子孫を戒めた。その大意は次のようなものである。「我が家には代々弓馬の術が伝えられている。兵部(ひょうぶ、貞純親王)以来、左京兆(さきょうちょう、長清)に至って、一家をなすに至った。犬追物・草鹿(くさじし)などの法は、これが新たに定めたものである。妖魔を追い払って国家を守り、将府に仕えて賊を制するには、この術がなくてはならない。すべて我が子孫は、慎重にしてこれを失わぬようにせよ。」兵部貞純親王(さだずみしんのう)、左京兆長清は、いずれも貞宗の遠祖である。子孫がよくその遺訓を守ったので、代々その術によって名を顕した(注:小笠原家譜による)。貞宗は今川某、伊勢某(注:二人の名は伝わっていない)とともに武家の礼節を議定し、一書にまとめて「三儀一統(さんぎいっとう)」と題した(注:小笠原伝行小系図による)。禅の教えを深く尊び信じ、元僧正澄(げんそうしょうちょう)について法を受け、大いに悟るところがあり、剃髪して名を泰山(たいざん)と改めた。かつて信濃に開善寺(かいぜんじ)を創建し(注:小笠原家譜、小笠原系図による)、世に開善寺入道と呼ばれた(注:尊卑分脈、小笠原系図による)。正平五年、死去した。享年五十七。崇光院(すこういん)はその葬儀を弾正台(だんじょうだい)に命じて監護させ、世はこれを格別の栄誉とした。著書に「修身録」がある(注:小笠原系図による)。四人の子があり、政長(まさなが)・宗政(むねまさ)・宗満(むねみつ)・政経(まさつね)という。
¶政長(まさなが)は従五位下に叙せられ、兵庫頭(注:尊卑分脈による)、信濃守護となり、飛驒・越後・遠江などを管轄し、父祖の業を最もよく受け継いだ。かつて足利尊氏に仕え、京都に入るのに従い、武者所に直勤した。そこで兵士の騎射を訓練した。延元・正平の間、たびたび官軍を防いで功を立てた(注:本書にはまた、光明院がかつて愛玩していた籠の鳥を逃がしてしまい、政長に命じてこれを射止めさせたところ、政長は蟇目(ひきめ)の矢を用いてこれを射て、鳥を傷つけずに捕らえたので、人々はますますこれを称賛したとある。この話は「吾妻鏡(あづまかがみ)」にある小山朝村(おやまともむら)が鳥を射た話とよく似ており、おそらく本書がこれを剽窃して政長の射術を誇張したものであろうから、これは採らない)。宗政(むねまさ)は孫二郎と称した。宗満(むねみつ)は彦三郎と称し、掃部助、刑部少輔となった。政経(まさつね)は七郎と称し、勇名があり、修理亮、弾正少弼となった(注:小笠原家譜による)。