卷之一百七十二 列傳第九十九
新田義貞
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
新田義貞
¶新田義貞(にったよしさだ)は、通称を小太郎といった(注:印本の『尊卑分脈』には太郎とあり、『増鏡』には小四郎とあるが、いずれも誤りであろう)。上野国新田郡(こうずけのくににったぐん)の人で、源義家(みなもとのよしいえ)から十代目の子孫にあたる。義家の子義国が義重を生み、義重が義兼を生み、義兼が上西門院蔵人義房を生み、義房が政義を生み、政義が政氏を生み、政氏が基氏を生み、基氏が朝氏を生み、朝氏が義貞を生んだ。代々新田郡・世良田(せらだ)などの邑を領有していたため、新田氏を名乗るようになった(注:『尊卑分脈』による。世良田については『太平記』による)。
¶元弘三年(1333年)春、天皇(後醍醐天皇)が隠岐(おき)へ配流されていたころ、護良親王(もりよししんのう)は吉野山に拠り、楠正成(くすのきまさしげ)は千剣破山(ちはやさん、注:千早城)に城を構え、それぞれ兵を集めて回復を図っていた。北条高時(ほうじょうたかとき)は兵を分けてこれを攻めさせた。護良親王は敗れて逃走したため、幕府軍は正成攻めに専念することとなった。
¶このとき義貞は千剣破攻めの軍に従っていたが、内心ひそかに朝廷への帰順を志しており、家臣の船田義昌(ふなだよしまさ)に密かに謀って言った。「昔、源氏と平氏が朝廷にあって互いに勢力を牽制し合っていた。我が家は代々将としての器量を備え、一族の中でも重んじられてきた。それが勢いを失ったために他家に駆り立てられ従うことになったのは、決して我が本意ではない。近頃、相模入道(北条高時)の振る舞いは放埒を極めており、自ら滅亡を早めている。今こそ兵を挙げてこれを討ち、天子のご心配を除いて我が家の名声を振るうべき時である。しかしこの事は、しかるべき命を受けてでなければ行えぬ。聞くところによれば大塔宮(おおとうのみや、護良親王)は近くの山中に身を潜めておられるという。そなた、私のためにその令旨(りょうじ)を得てくれぬか」。
¶大塔宮とはすなわち護良親王のことである。義昌は策を用いてこれを求め、令旨を得た。その文面は綸旨(りんじ、天皇の命令書)の体裁にならったもので、次のようにあった。「徳をもって万国を治めるのは明君の徳であり、乱を治めて四海を鎮めるのは武臣の節義である。近年、北条高時は朝廷の憲法を蔑ろにし、ほしいままに逆威を振るってきた。積もり積もった悪業の極みにより、天誅はすでに明らかである。ここに宸襟(しんきん、天子のお心)を安んじようとして義兵を挙げようとするのは、まことに叡感(えいかん、天子の御感)の深いところである。その功に対する褒賞は決して軽いものではない。速やかに征伐の策を巡らし、静謐の功を成し遂げるべきである」(注:考えるに、親王が下される書は本来「令旨」と称すべきであるが、ここで綸旨の体裁を用いているのは疑わしい。『増鏡』によれば、このころ護良親王はしばしば密使を船上山の行在所に送っていたという。義貞に下された書が令旨の体裁によるものかどうかは明らかでない。しかし他に証拠となる資料もないため、ひとまず本書の文章に従っておく)。
¶義貞は大いに喜んだ。翌日、病と称してついに本国へ退き帰った。日々一族や子弟を集め、北条高時討伐を謀った。夏、高時方の軍勢が京都で敗れた。そこで幕府はさらに大軍を発し、諸郡県に軍糧を課した。世良田はもとより富裕な土地であったため、特別に六万銭を課し、五日以内にと期限を切り、役人を遣わして里民を督促させたが、その取り立てはあまりに厳しく急なものであった。義貞はその役人を捕らえて処刑し、晒し首にした。
¶高時は大いに怒り、兵を差し向けて攻めようとした。義貞はそこで弟の義助(よしすけ)とともに、大館宗氏(おおだてむねうじ)、その子の幸氏・氏明・氏兼、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、および弟の行義、岩松経家(いわまつつねいえ)、里見義胤(さとみよしたね)、江田行義(えだゆきよし)、桃井尚義(もものいなおよし)ら百五十人を率い、生品明神(いくしなみょうじん)の祠前で挙兵し、新田氏の旗印である中黒(なかぐろ)の旗を立て、令旨を拝読して、笠懸野(かさかけの)へと出兵した。
¶日暮れになると、一族の大井田経隆(おおいだつねたか)、および里見・鳥山・羽川の諸氏が、二千人ほどの兵を率いて越後から到着した。義貞は驚きかつ喜んで言った。「今日のことはまだ報せる暇もなかった。諸君はどうしてこれほど早く駆けつけてくれたのか」。経隆は馬上で身をかがめて答えた。「四日前、越後に触れを出す者があり、『公が勅を奉じて挙兵された』と言っておりました。それゆえ急いで支度をして道を急いだのです。遠方の一族もこれに続いて到着することでしょう」。言い終わらぬうちに、越後・甲斐・信濃の源氏の一族千余人もまた馳せ参じた。
¶進んで武蔵国に至ると、上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵士たちが申し合わせもなく集まり、その軍勢はすでに二万余人となった(注:本書には二十万とあるが、ここでは金勝院本に従う)。その勢いは大いに振るった。
¶北条高時の将である桜田貞国(さくらださだくに)と入間河(いるまがわ)で戦い、一日に三十余度も交戦した。翌日にはまた久米川(くめがわ)で戦い、貞国は敗れて分陪(ぶばい)へと逃げ去った。高時は弟の泰家(やすいえ)を遣わして兵を率いさせ、これを助けさせた。義貞は進んで攻めたが大敗し、退いて堀金(ほりがね)を守った。
¶ちょうどそのとき、相模の人・三浦義勝(みうらよしかつ、注:『大多和家譜』には義行とあるが、いずれが正しいか分からない)が六千余人の兵を率いて味方に加わった。義貞は厚く礼を尽くしてこれを迎え、軍事について尋ねた。義勝は答えた。「天下が二つに分かれ、英雄が次々と現れれば、勝敗はしばしば入れ替わるのが常です。しかし最後にどちらに帰趨するかは、必ずや天の意向によって定まるものです。公の事業がどうして成就しないことがありましょうか。幸いにも私の兵を公の軍勢に加えますので、どうか進んで戦うことをお勧めいたします」。
¶義貞は言った。「あの敵は新手で意気盛んである。我が方の疲れた兵をもってしては、その鋭鋒を犯すことは難しいであろう」。義勝は言った。「明日の戦い、私が公のために必勝をお約束いたします。そもそも戦に勝って将が驕り兵が怠るのは、武信君(注:趙の将軍)が敗れた所以です。昨日間者を遣わして敵情を探らせたところ、その将は驕りが甚だしいとのこと。これはまさに宋義(そうぎ)の轍を踏むことになりましょう。私めの手兵を先陣として公の前を行かせていただきたい」。義貞はこれに従った。
¶翌朝、義勝は先鋒となり、旗を巻いて静かに進み、義貞がこれに続いた。三方から迫り攻めたところ、敵兵は驚いて潰走し、北条泰家はかろうじて身ひとつで逃げのびた。小山秀朝(おやまひでとも)・千葉貞胤(ちばさだたね)は、高時の別将である金沢貞将(かねさわさだゆき)を鶴見(つるみ)で破った(注:鶴見については『梅松論』による)。
¶義貞の軍勢はますます盛んになり、進んで関戸(せきど)に一日留まった後、軍を三手に分けた。義貞・義助は化粧坂(けわいざか)を通り、堀口貞満・大島某がこれを守った(注:金勝院本『太平記』には義前とある)。巨福呂坂(こぶくろざか)は某が通り、大館宗氏・江田行義は極楽寺坂(ごくらくじざか)を通って、民家を焼き払いながら鎌倉に迫った。一日一夜のうちに六十五度の合戦があった。
¶義貞は堀口貞満とともに勝利を収め、山内(やまのうち)に進み入った。大館宗氏は極楽寺坂を攻めたが敗死し、その部下は潰走した。そこで義貞は精兵二万を率い、夜のうちに間道をたどって極楽寺坂へ向かった。敵兵数万が坂の上に立てこもって固く守り、柵を築いて要路を塞ぎ、海岸には多くの戦船を並べていたため、義貞の軍は容易には通ることができなかった。
¶義貞はそこで馬を下り、海に臨んで兜を脱ぎ、ひれ伏して祈った。「天子はまさに逆賊に迫られ、西の地へと遷られました。臣義貞、あえて斧鉞(ふえつ、注:征伐の権を象徴する武具)を執り、深く敵地に入り、国難を鎮め王化を正すことを志しております。伏して八部龍神(はちぶりゅうじん)に祈願いたします。臣の忠誠をお汲み取りいただき、潮を退かせて道を開いていただきたく存じます」。そして腰に佩いていた金装の太刀を解いて、海中に投じた。夜が明けると潮が引いて砂浜が二十余町も露わになり、敵の戦船はみなその潮にさらわれて漂い去った。
¶義貞は大いに喜んで言った。「かつて貳帥(にすい、注:唐の李愬)は山を刺して泉を得、神功皇后は珠を投じて潮を退かせたという。和漢千古の不思議な出来事に、私は今まさに巡り合ったのだ」。大声で兵を指揮し、まっすぐ鎌倉へと攻め入った。坂を守っていた敵兵は驚き慌て、防ぎ戦う暇もなかった。江田行義・堀口貞満らの諸軍は次々と競い進んだ。至る所で火を放ち、折しも風が激しく吹き荒れて幕府の邸宅は延焼した。婦女の叫び声が煙と炎の中に満ちた。軍勢は勢いに乗じて四方から攻め戦い、殺戮する者数知れなかった。北条高時はついに葛西谷(かさいがやつ、注:東勝寺)に逃れ、一族をあげて自害した。挙兵してからここに至るまで、およそ十五日で鎌倉は平定された。
¶そこで三組の使者を馳せ遣わし、勝利を行在所(あんざいしょ)に奏上した。義貞はそのまま鎌倉に留まり、北条高時の子である邦時(くにとき)や狩野重光(かのうしげみつ)らを捕えて誅殺し、余党を徹底的に探索した。降伏し帰順する者たちを慰撫して受け入れ、その威望は日に日に高まっていった。関八州(かんはっしゅう)の豪傑たちで、義貞の命令に従わぬ者はなかった。
¶このとき天皇は隠岐から船上山(せんじょうさん)に行幸されており、官軍が京都を回復したことにより、都へ還幸されようと議していた。群臣は北条高時がまだ滅びていないことを理由に諫めたが、天皇はこれを聞き入れず出発された。行幸の一行が兵庫に至ったちょうどそのとき、義貞からの報せが届いた。天皇は大いに喜び、使者に官位を授けた(注:官位を授けたことは天正本による)。そして遥かに義貞へ左馬助(さまのすけ)の官を授けた。
¶建武元年(1334年)、義貞は朝廷に参内し、従四位上に叙され、左兵衛督(さひょうえのかみ)に任ぜられた(注:義貞が左兵衛督となったのが今年か翌年かは明らかでない。ひとまずここに記しておく)。あわせて播磨守(はりまのかみ)を兼ね、上野・播磨二国の守護を管轄した(注:考えるに、この年赤松則村(あかまつのりむら)が播磨守護であったから、一国に同時に二人の守護を置くはずはない。本書によれば則村はほどなく守護職を剥奪されたとあるので、義貞への授与はおそらくこの時のことであろう。ひとまず旧文に従っておく)。京都の宿衛(しゅくえい、警護)にあたった。
¶このころ天皇は足利尊氏(あしかがたかうじ)を寵愛し重用しており、その言葉を信じて用いていた(注:『太平記』による)。護良親王を捕らえ、尊氏の弟直義(ただよし)に引き渡して鎌倉に幽閉させた。義貞は尊氏と同族であったが、以前からわずかな確執があって折り合いが良くなかった。尊氏はもとより異心を抱いており、内心義貞を憚って、常にこれを除こうと謀っていたが、まだ実行には至っていなかった(注:『太平記』『梅松論』を参照し取り合わせた)。
¶建武二年(1335年)秋(注:二年は天正本による)、北条時行(ほうじょうときゆき)の軍が鎌倉を襲い、直義は護良親王を殺害して逃走した。朝廷はまだこれを知らず、あらためて尊氏を遣わして時行を討たせた。尊氏はそのまま鎌倉に拠って朝命に背き、関東にあった義貞の一族の所領をことごとく奪い取り、抗弁の上表文を出して兵を募ったが、それはいずれも義貞を討伐することを名目にしたものであった。
¶義貞はこれを聞くと、自らの管轄内にある足利氏の所領をすべて没収し、上疏してその逆謀の状を陳述して言った。
¶「官軍が勝利を収めつつあった当初、南には楠正成があり、西には赤松円心(あかまつえんしん)があって、四方に義兵が蜂起し、六軍(りくぐん、官軍)は虎のごとく機をうかがっておりました。当時、足利尊氏は東国の賊(北条氏)の命に従い、一族をあげて京都に入りましたが、官軍が勝ちに乗じているのを見て、死を免れようとする下心があり、様子見をして態度を決めかね、なお二心を抱いておりました。名越高家(なごえたかいえ)が敗れるに及んで、ようやく丹波国で官軍に合流したのです。そもそも義旗が京都に迫り、賊将が首を差し出す事態にならなければ、彼が独り武器を執って強敵に立ち向かうことなど、あり得たでしょうか。それにもかかわらず、功績はわずかなのに恩賞は重く求め、人の忠誠と功労を猜疑し、偽りの讒言を重ねて陥れようと図っております。その言葉の裏を推し量れば、その逆心は明らかであります。
¶そもそも臣が綸旨を賜り上野で挙兵いたしましたのは五月八日のことでございます。尊氏が官軍に付いて六波羅(ろくはら)を攻めましたのは同月七日のことでございます。両地の道のりは八百余里も離れており、この一日のうちに情報が伝わるはずがございません。それにもかかわらず、臣が京洛での賊軍の敗北を聞いてから挙兵したのだと偽って奏上しております。これがその罪の一つでございます。
¶尊氏の子義詮(よしあきら)が百余人を従えて鎌倉に入ったのは六月三日のことでございます。臣が百万の軍勢を率いて凶悪な首魁(北条高時)を殲滅いたしましたのは五月二十二日のことでございます。それにもかかわらず、幼く弱き者(義詮)に頼って功績を立てたのだと偽って称しております。これがその罪の二つ目でございます。
¶尊氏はいまだ何の命も受けていないにもかかわらず、ほしいままに都に禁令を施し、親王の兵卒を晒し首にして処刑いたしました。司(つかさ、正式な権限)にないままに刑を執行したこと、これがその罪の三つ目でございます。
¶戦乱の後、遠国はいまだ静まっておりませんでしたので、皇子(成良親王)に命じて東国に幕府を開かせました。それにもかかわらず尊氏は恩寵を誇るあまり、勢力を張り威信を立てることを企み、将軍の位名を覬覦(きゆ、密かに狙うこと)しております。これがその罪の四つ目でございます。
¶尊氏は自ら東八国の管領を称し、兵を養って恩顧を固め、民を害して利益を収めております。臣たる者にあるまじきその行いは、あらためて弁ずるまでもございません。これがその罪の五つ目でございます。
¶天運は復さぬということはございませんが、政令が一つに帰し、治世が古の姿に返りましたのは、実に兵部卿親王(護良親王)のお力によるものでございます。それにもかかわらず尊氏はさまざまに讒言を構え、親王を流刑に陥れました。これがその罪の六つ目でございます。
¶親王を貶められたのは、天子の御心のうちにあったことであり、その驕慢な心を懲らしめようとの思し召しでございました。それにもかかわらず尊氏は公議を口実にして私怨を逞しくし、親王を捕えて牢獄に幽閉いたしました。これがその罪の七つ目でございます。
¶足利直義は北条時行に逼られて戦わずに退きましたが、その際すでに人を遣わして親王に刃を向けさせました。この大逆無道の振る舞いは、もはや言葉にすることもできません。事の詳細はまだ公式には聞こえておりませんが、世間の噂ではすでに知れ渡っております。これがその罪の八つ目でございます。
¶この八つの逆罪を、放置して問わずにおりましたならば、国家を支える四維(しい、綱紀)はまさに絶え、八柱(はっちゅう、天地を支える柱)は傾かんとし、後で悔いても及ばぬことになりましょう。彼らはまさに悖逆(はいぎゃく)をほしいままにしようとし、そのためにまず忠義の者を排除しようとしております。伏して願わくは、天子におかれましては明らかにご照覧いただき、詔を下して尊氏・直義以下の逆党を討伐していただきたく存じます」。
¶この上奏文が奏上されると、公卿の議に下された。参議藤原清忠(ふじわらのきよただ)は進言した。「両者の上奏を比べてみますに、尊氏の罪の方が重いと存じます。また親王殺害の一件も、これで初めて天聴に達しました。もしそれが事実であれば、その罪は赦されるべきではございません」。ちょうどそのころ、護良親王の侍女が鎌倉から帰って事の次第を上奏し、南海道・西海道の諸国からも尊氏の謀反を告げる書状が数十通も届いたため、ついに足利尊氏討伐の詔が下された。
¶中務卿尊良親王(たかよししんのう)を東国管領とし、義貞を大将軍節度使として、六万七千余人の兵を率いて東海道より進ませた。大智院宮(だいちいんのみや)・弾正尹忠房親王(ただふさしんのう)は権中納言藤原実世(ふじわらのさねよ)ら七千人を率い、別に東山道より進んだ。
¶義貞が天皇に拝謁して出立する日、軍容を整えて参内したが、その武具甲冑は鮮やかで盛んなものであった。旧来の制度では、大将軍が出征するとき、宮中で儀式を行い、節刀(せっとう)と駅鈴(えきれい)を授けることになっていた。しかし治承年間、平維盛(たいらのこれもり)が東国征伐に赴いた際には節刀を授けられなかった。その出征が不利に終わったことから、朝廷の議では改めて礼を整えてこれを遣わすこととした。義貞もまた、平正盛(たいらのまさもり)が源義親(みなもとのよしちか)を討伐した故事にならい、船田義昌を高倉(たかくら)にある尊氏の邸宅に遣わして包囲させた。三度鬨(とき)の声をあげ、二本の鏑矢(かぶらや)を放ち、門柱を斬りつけてから出立した。
¶尊氏は兵を発して矢矧川(やはぎがわ)で防ごうとした。義貞は川から離れた場所に陣を敷き、弓手を出して矢を射させ敵を誘い出した。敵は果たして川を渡って攻めてきたので、官軍は交代で戦い、殺傷した数はおびただしいものであった。その夜のうちに、敵は鷺坂(さぎさか)へと逃げ去った。
¶宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、および尾張昌能(おわりまさよし)・仁科某(にしなぼう)・愛曾某(あいそぼう)らが、三千余の兵で鷺坂を攻め、再び敵を破って敗走させた。足利直義は二万余人を率いて援軍に来て、手越川(てごしがわ)の東に陣を敷いた。義貞は義助らに川を渡らせてこれを撃たせた。日が暮れて初めて兵を引き上げたが、討ち取った敵は数え切れぬほどであった。夜半、義貞はひそかに兵を遣わし、敵の陣営に迫って乱射させた。敵勢は驚き乱れ、鎌倉へと逃げ帰った。
¶義貞は連戦連勝を重ね、降伏させた敵兵は前後で数万人にのぼり、進んで伊豆国府に入った。尊氏は窮まり果ててなすすべを知らなかったが、義貞は東山道の軍がまだ到着していなかったため、伊豆国府に数日留まった。その間に敵の散兵が再び集まり、すでに投降していた者までもが再び叛いて敵に付き、その数三十万と号して、竹下(たけのした)・箱根の険しい地に出て守りを固めた。
¶義助は尊良親王に従って竹下を攻めたが利あらず、官軍は敗走した。義貞は足利直義と箱根で戦った。義貞は高所に拠って軍を指揮し、諸軍は勢いに乗じて奮い戦い、あと少しで勝利を収めるところであった。しかし翌朝、尊良親王方の敗北を聞くと、全軍が大いに恐れをなし、逃亡し降伏する者がほとんどとなった。
¶船田義昌が諸陣営を巡視したところ、旗や幕は厳然と残っているのに、ひっそりと人の声一つ聞こえなかった。急いでこれを義貞に告げた。義貞は側近わずか百人ほどとともに陣営を捨てて退いた。尾張昌能・菊池武重(きくちたけしげ)、および十六騎の一党が後から追いつき、戦いながら退いた。浮島原(うきしまがはら)に至って、甲斐源氏の兵五百余を撃ち破って降伏させた。散り散りになった兵がしだいに集まり、七千余人を得た(注:『太平記』による)。
¶天竜川(てんりゅうがわ)に至ると、折しも川の水が急に増水し、兵馬もまた疲れていたため、三日間そこに留まり、民夫を徴発して家屋を解体して浮橋を作らせた。義貞は東岸に留まって殿(しんがり)を務め、味方の渡り終えるのを待ってから前進した(注:『太平記』による。『梅松論』も参照し取り合わせた)。
¶軍勢は浮橋を撤去しようとしたが、義貞は怒って言った。「我らは新たに敗れた後でさえ、なお橋を作ることができたのだ。まして勝っている敵であればなおのことであろう。舟を焼き橋を壊すのは、昔の人が決戦を挑む際にしたことである。今もしこれによって敵を防ごうとすれば、敵は我らの臆病を笑うであろう。私はそれを深く恥じる」。そこで土地の者に橋を守らせて立ち去った(注:『梅松論』による)。
¶矢矧(やはぎ)の駅に至ると、兵はまたも多くが逃亡した。宇都宮公綱は言った。「ここに滞在してさらに数日を過ごせば、恐らく敵の徒党が前方の道を遮ることになりましょう。どうか急いで軍を近畿の地に移し、葦の茂る中州や水路を頼みとして備えていただきたい」。諸将もまた「遠い辺境に長く留まっていては、宮中に思わぬ変事が生じるかもしれない」と言った。義貞はこれに従い、退いて尾張に駐屯した。
¶ちょうどこのころ、京都では政治が乱れ、諸国が朝廷に背いて尊氏に呼応したため、朝廷は震え驚き、急いで義貞を呼び戻した。延元元年(1336年)春、尊氏が京都に迫り、民衆は騒然となった。家屋を壊して財産を運び出し、山林に逃げ隠れる者が相次いだ。軍勢もまた多くが逃げ去り、残っている者にも戦意はもはやなかった。
¶義貞はそこで将兵を分けて諸方の道を守らせ、自らは一万の兵を率いて大渡(おおわたり)を拠点に敵を防いだ。水中に杭を打ち込み、橋の上には矢倉を建て、橋板を三間ほど取り外し、桁は切断せずに残しておいた。岸を守る兵に敵を罵らせて誘い出させた。敵の五百余人が筏に乗って渡ろうとしたが、杭に阻まれて進めなかった。我が軍がこれに向けて矢を射続けたところ、たちまち水勢が激しくなって筏が壊れ、敵はことごとく溺死した。
¶橋を守る兵はさらに敵を罵って誘い出した。敵は勇力ある者三人を選んで矢倉の下まで至らせ、柱を引いてほとんど折らんばかりにした。我が軍はわざと退くふりをしたところ、敵はこれに乗じて先を争って進んだ。橋が崩れ落ち、溺れ死ぬ者は千余人にのぼった。しかし翌日、敵は山崎(やまざき)を破り、そのまま京都へ長駆した。
¶義貞は兵を率いて急ぎ引き返し、天皇を奉じて延暦寺に立てこもった。敵の将細川定禅(ほそかわじょうぜん)は園城寺(おんじょうじ、三井寺)に拠って砦とし、行在所を攻めようとしていた。ちょうどそのとき鎮守府将軍源顕家(みなもとのあきいえ)が陸奥・出羽の兵五万を率いて救援に駆けつけたため、義貞はこれと謀って園城寺を攻めることとした。
¶夜、諸将を遣わして山の麓に陣を敷かせた。延暦寺の僧兵は如意ヶ嶽(にょいがたけ)に移って屯した。数百艘の水軍を湖上に浮かべ、側面からの射撃に備えさせた。夜明けとともに、諸軍は大津の民家に火を放って進撃したが、うまくいかず退いたところ、敵は勢いに乗じて追撃してきた。民家の火が燃え盛っていたため、湖上の水軍は雨のように矢を乱射したが、進むことができなかった。義貞は兵を放って突撃させ、これを打ち破った。
¶進んで園城寺に迫った。栗生顕友(くりゅうあきとも)らが真っ先に城壁を登って門を奪った。義貞は寺内に攻め入って火を放った。如意ヶ嶽の僧兵はこれを見下ろし、山を下って敵の背後に出た。堂宇をことごとく焼き払い、内外は騒然となった。煙に乗じて奮い戦い、討ち取った首は七千三百余級にのぼった。定禅は京都へ逃げ去り、顕家は軍を陣立てして引き上げた。
¶義貞は単独で三万余の兵を率いて敵の後を追い、山階(やましな)で追いついて、狭い場所に追い詰めてこれを撃った。敵は驚いて逃げ惑い、互いに踏みにじり合って、倒れた死体が道に連なった。
¶義貞はこうして京都に入ると、軍を三手に分けた。一手は将軍塚(しょうぐんづか)へ、一手は真如堂(しんにょどう)へ、一手は二条河原(にじょうがわら)へと向かった。尊氏もまた自ら兵を率いて迎え撃った。河合森(かわいのもり)から七条河原まで、人馬がひしめき合い、南北一里余りにわたって連なった。義貞は華頂山(かちょうざん)に登ってこれを望み見て言った。「敵勢は我が方の倍もある。ここは奇策をもって取るべきである」。
¶軍中で互いに顔見知りの者を選び、五十人ごとに一隊とした。全部で千余人を得て、旗を巻き笠印を外させ、園城寺の敗残兵と偽らせて敵陣に紛れ込ませ、「両軍が交戦したところで事を起こせ」と申し合わせた。やがて諸軍が接戦となったが、尊氏の軍は数こそ多いものの統制がとれておらず、我が軍は進んだり退いたりを繰り返した。
¶正午から酉の刻(夕方)まで、六十余度も交戦し、そのたびに勝利を収めた。先に紛れ込ませておいた兵が、にわかに中黒の旗を掲げ、尊氏の左右で大声をあげて起った。敵勢は驚き乱れて同士討ちをはじめ、どちらへ向かえばよいか分からなくなり、大敗して逃げ去った。諸軍は桂川(かつらがわ)まで追撃してから引き上げ、そのまま京都に駐屯した。
¶その夜のうちに、細川定禅が引き返して襲撃してきた。ちょうど部隊が散らばって出ていたため、防ぎ戦う者がいなかった。船田義昌らは乱兵に殺され、義貞は大敗して坂本(さかもと)へと退いた。尊氏は再び京都に入った。
¶ちょうど大智院宮および忠房親王が東山道の兵二万を率いて坂本に到着し、軍勢は再び盛り返した。義貞はそこで諸将と申し合わせ、夜に乗じて同時に進撃することとした。楠正成・名和長年(なわながとし)・結城宗広(ゆうきむねひろ)は下松(しもまつ)に陣し、源顕家は山科(やましな)に陣し、藤原実世は赤山(あかやま)に陣した。延暦寺の僧兵は鹿谷(ししがたに)に陣し、義貞は北白河(きたしらかわ)に屯した。
¶夜が明けると、僧兵は進んで神楽岡(かぐらおか)を攻め落とした。楠正成らは足利高経(あしかがたかつね)を出雲路(いずもじ)で撃ち破り、顕家は兵を挙げて尊氏方と四条河原で戦った。義貞は三万余人をもって敵陣を衝いた。敵は旗印を見て驚き、「中黒の旗が来たぞ」と言うと、風を望んだだけで崩れ潰えた。義貞は服装を変えて単騎で深く敵中に入り、尊氏を狙撃したが討ち取れず、そこで道を分けてこれを追った。日が暮れたため、正成の計略に従って坂本の陣へと戻った。尊氏は再び京都に入った。
¶三日後、義貞はまた諸将とともに襲撃し、尊氏は敗れて兵庫へと逃げ去った(注:『太平記』による)。義貞はしばしば京都へ帰還した。翌日、諸将を率いて兵庫に急ぎ向かい、足利直義を豊島河原(てしまがわら)で撃ち破り、さらに細川和氏(ほそかわかずうじ)を瀬河(せがわ)で破った。ちょうど土居通治(どいみちはる)・得能通言(とくのうみちとき)が水軍を率いて馳せ参じたため、これとともに直義を打出駅(うちでのえき)でも撃ち破った。尊氏はついに海に浮かんで西へと逃げ去った(注:『太平記』『梅松論』を参照し取り合わせた)。
¶義貞は降伏させた兵一万余人をまとめて軍を引き上げ、その功により左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)に任ぜられた。一月ほどすると、山陰・山陽の諸国が再び挙兵して尊氏に呼応した。義貞に山陰・山陽十六国の管轄を命じる詔が下り、これを討伐に向かわせた。
¶ちょうどそのとき義貞は病に倒れ、進軍できなかった。まず江田行義・大館氏明(おおだてうじあき)ら二千余人を播磨へ先発させた。義貞は病が癒えるとほどなく出発し、賀古河(かこがわ)に数日留まったところ、集まった兵士は六万余人となり、進んで斑鳩(いかるが)の駅に至り、赤松則村の白旗城(しらはたじょう)攻めを図った。則村は偽って降伏を願い出た。義貞はこれを信じ、急使を出して朝廷の裁可を求めた。その往復に十余日を要したが、その間に則村はすでに城の備えを修繕し終え、そこで無礼な言葉を発して朝廷を非難した。
¶義貞は怒り、城を幾重にも取り囲んで昼夜攻め続け、必ず攻め取ろうと期していたが、一月を経ても落とすことができなかった。そこで義助および江田行義・大井田氏経(おおいだうじつね)ら二万余人を分けて遣わし、石橘和義(いしばしかずよし)を船坂山(ふなさかやま)で攻めさせた。ちょうど児島高徳(こじまたかのり)が熊山(くまやま)で挙兵してこれに呼応したため、前後から挟み撃ちにしてこれに勝った。義助は進んで三石城(みついしじょう)を囲み、江田行義は進んで美作(みまさか)を攻略し、大井田氏経は備中の福山城(ふくやまじょう)を占拠した。
¶やがて尊氏は大軍を率い、海路から東へ上ってきた。直義は陸軍を率いて福山城を攻めた。氏経は敗れて退き、義助の軍と合流した。義助は急使を馳せて敗報を告げた。義貞は返答して言った。「敵は水陸から同時に進んでいる。もし陸軍を防ごうとすれば、恐らく水軍がまっすぐに都を犯すことになろう。ここはひとまず摂津(せっつ)に陣を退いて両軍を扼(やく)し、帝都を守るべきである。囲みを解いて、山里へ引き上げ合流するがよい」。そして美作に使者を遣わして行義を召し寄せた。
¶義貞はついに白旗城の囲みを解き、退いて賀古河の西に二日留まり、義助・行義らの到着を待った。折しも長雨で水かさが増し、味方の兵は多く、敵兵もまた迫っていた。人々は義貞に諸将を率いて舟を用意し、先に渡るよう請うた。義貞は言った。「我が軍がまだ渡り終えぬうちに敵が急に迫れば、我らの退路は断たれ、人々は必ず死ぬと覚悟するであろう。いわゆる背水の陣とはこれのことである。それに私は諸軍が渡り終えるのを待ってから出発しても、遅くはない」。
¶そこでまず、傷を負った兵や馬が疲れて乗るに堪えない者から順に出発させた。夜が明けて水が引くころ、義助らの軍もまた到着し、皆でともに川を渡って兵庫に至ったが、士卒は逃亡して半数を超えていた。急使を馳せて朝廷に報告すると、朝廷はみな恐れおののいた。そこで楠正成を遣わし、ともに敵を防がせることとした。
¶義貞は正成と会い、朝議とその方策について尋ね、こう述べた。「敵の勢いは盛んで、敗残の兵を駆り立てて対抗させようとするのは、まことに難しいことである。ただ去年関東で軍を失い、それが世間の議論を招いたことがあった。今また勅を承けて西へ出陣しながら、いまだ一城も抜けぬうちに、敵の大軍が迫ると聞いて急に引き返すのは、私はひそかにそれを恥じる。それゆえ命を懸けて一戦を交えたいと思う。勝敗の行方は、もはや意に介するところではない」。
¶正成は言った。「機を見て進み、時に応じて退くのが将たる者の道でございます。世間のとりとめもない議論など、どうして気にかけることがございましょう。公は去年高時を殲滅し、今年の春には尊氏を打ち破って敗走させました。これは天子の御運によるものとはいえ、また公の武略によるものでもございます。公の用兵について、誰が異論を挟めましょうか」。義貞はこれを聞いて心が晴れ、夜通し酒を酌み交わした。
¶翌日、尊氏らの水陸数十万の軍勢が到着し、旗指物は空を覆い、船は海を覆い尽くした。義貞は諸将を配置し、義助に五千余人を率いさせて経ヶ島(きょうがしま)に陣させ、大館氏明には三千人を率いさせて燈籠堂(とうろうどう)の南に陣させ、水軍を防がせた。楠正成には麾下の兵七百余人をもって湊川(みなとがわ)の駅の西に陣させ、陸軍を防がせた。義貞自らは二万五千余人を率いて和田崎(わだのさき)を守り、諸軍を策応させた。
¶敵の先鋒である細川定禅は数百隻の水軍をもって経ヶ島へと進んだ。二百余人が先に船を下りたが、義助の兵がこれを撃って殲滅した。定禅は水軍を指揮して、東の紺辺浦(こんべのうら)へと向かった。義貞は義助・氏明とともに、兵士をことごとく率いて岸伝いにこれを追った。そのすきに尊氏の数千艘に及ぶ大艦隊が和田崎に上陸した。直義の歩兵は須磨(すま)から攻め寄せてきた。楠正成はここで戦死した。
¶義貞は西宮(にしのみや、注:毛利家本・北条家本・西源院本・南都本・天正本にはいずれも脇浜(わきのはま)とある)に至り、定禅の旗印を望み見て言った。「これはみな敵の副将にすぎず、湊川方面から来た者たちである。足利尊氏兄弟こそが真の賊なのだ」。そこで軍を返して生田森(いくたのもり)を背にし、諸将を三か所に分けて陣させ、死力を尽くして戦ったが、ついに敗れた。
¶敵の追撃は急であったため、義貞は自ら殿(しんがり)となって引き返して戦った。馬が矢に当たって倒れたため、道端の塚の上に立って替え馬を待った。敵兵が先を争って詰め寄り取り囲んだが、義貞は矢を射て一人を倒した(注:一人を射斃したことは西源院本による)。敵はこれにひるんで近づかず、代わりに矢を群がらせて射かけた。この日、義貞は名高い甲冑「薄金(うすがね)」を身にまとい、両手に鬼切(おにきり)・鬼丸(おにまる)の二振りの名刀を振るって飛んでくる矢を斬り払い、斬りながらかわしながら、その身の軽さ速さはまるで神のようであった。小山田高家(おやまだたかいえ)が馳せつけ、自分の乗馬を義貞に譲り、自らは徒歩で戦って討ち死にした。義貞はそのおかげで脱出することができ、丹波を経て京都に入った。天皇の行幸はあわただしく、再び延暦寺へと行幸された。
¶尊氏は東寺(とうじ)に入って拠点とし、兵を三方に分けて行在所を犯そうとした。義貞と諸将は東坂(ひがしざか)を守り、堀を掘って橋を架け、物見櫓を連ね、戦船を湖面に鱗のごとく並べた。公卿や僧兵は西坂(にしざか)を守っていたが、地形の険しさを頼んで備えを怠っていた。敵はまっすぐに攻めてきたが、折しも山上に深い霧が立ち込め、目の前もわからぬほどであったため、僧兵はこれに乗じて敵を撃退した。
¶数日後、敵はまた攻めてきて、官軍の戦いは不利となり、急ぎ大講堂(だいこうどう)の鐘を打ち鳴らして急を報せた。義貞は六千の兵を率い、比叡山を馳せ上って宇都宮公綱とともに高所から攻め下った。敵は崩れ潰えて先を争って山を下り、死者は谷を埋めるほどであった。義貞はそこで大嶽(おおたけ)に屯した。朝から夜まで十余日にわたって交戦を続け、そこで初めて軍中で申し合わせをした。東坂・西坂のいずれかに急変があれば、それぞれ鐘を鳴らして知らせ合うことにしたのである。
¶翌朝、猿の群れが乱れて鐘を打ち鳴らしたため、諸軍は敵が来たと思い込み、先を争って東坂・西坂に馳せ集まった。敵陣はこれを見て動揺したため、そこで山を下って攻撃し、大いにこれを打ち破った。敵の人馬は踏みにじられ、死者は折り重なるほどであった。義貞の部下は敵将高師重(こうのもろしげ)を生け捕りにし、僧兵が請うてこれを斬り、辛崎(からさき)に晒し首とした。
¶敵軍は度重なる敗北で兵卒が四方に散らばった。十余日を経て次第に集まってきたが、官軍は敵兵がまだ少なく攻撃できると考えた。公綱らが進んで東寺を攻めたところ、敵は京都の諸所の路地に兵を出してこれを迎え撃った。官軍は敗れて退き、敵の勢いは再び盛んになった。
¶ちょうどそのとき、前権大納言藤原師基(ふじわらのもろもと)が北国の兵三千余人を率いて危難に馳せ参じた。そこで再び東寺を攻めることを謀った。進軍の経路について議論したところ、人々は言った。「京都を経て東寺へ向かうには、町なかの通りが狭い所が多く、進退が甚だ難しい。これが先日敗北を招いた理由である。軍を二手に分け、西は内野(うちの)から、東は河原から、それぞれ火を放って挟み撃ちにするのがよかろう」。しかしちょうどそのとき裏切り者がいて、この計略を敵に密告したが、官軍はそれに気づかなかった。
¶藤原師基らは河原から入り、義貞は内野から進んだが、再び敗れて退いた。延暦寺の僧兵は興福寺に書を送って援軍を請い、興福寺はこれを聞き入れた。近畿の兵士で武具を構えたまま様子見をしていた者たちも、次々と誠意を示して味方の将となることを願い出た。そこで中納言藤原隆資(ふじわらのたかすけ)らの諸将を分け遣わしてこれらを統率させ、四方から京都へ向かう道を塞いで、敵の兵糧の輸送路を断った。
¶こうして諸国の兵が十人百人と群れをなし、日々行在所に集まる者が絶えることなく続いた。敵は大いに困窮した。公卿たちは義貞に進撃を促した(注:義貞を促したことは金勝院本による)。義貞はそこで阿波・淡路の兵三千を阿弥陀峰(あみだがみね)に遣わし、夜に多くの松明を焚いて軍勢を大きく見せかけさせた。そして藤原隆資らの諸方の軍とともに、日を定めて四方から進撃することとした。
¶その期日になると、義貞は一族四十三人を従えて参内し、暇乞いをした。天皇は温顔をもってこれをねぎらい励まされ、義貞はひれ伏して答えた。「成否は聖運にかかっており、臣があらかじめ推し量れることではございません。ただ、臣が今日、敵陣に迫って一矢を放たぬようなことがあれば、必ずや生きて帰ることはございません」。
¶そこで兵を三手に分け、大宮(おおみや)・猪熊(いのくま)・四条(しじょう)から進み、火を放ちながら転戦して前進すると、敵兵はこれになびき伏した。ついに東寺に至り、尊氏の陣営に迫って呼びかけた。「天下が騒然としているのは、我ら二人のためである。いたずらに一身の功名を図って民の命を損なうべきではない。願わくは単身で決戦し、ひとまず一矢を交えようではないか」。言い終わるや、放った矢は尊氏の座っていた間の柱を貫き、鏃(やじり)が埋まるほどであった。
¶たちまち敵兵が後方から不意に迫ってきたため、義貞は馬を馳せて突き破り脱出した。敵は再び雲のごとく群がり集まり、幾重にも取り囲んだ。矢が義貞の額に当たり、血が顔を覆った(注:「射中」以下は金勝院本による)。義貞は将士に馬首をみな西に向けさせ、死地に赴く覚悟を決めた。
¶そもそも軍が行在所を出発したとき、天皇は自ら臨席してお召しになっていた紅の袴を脱がれ(注:『梅松論』には錦の旗とある)、これを寸断して将兵に頒け与えられた。兵士たちはみな感激し、これを笠印に結んで出陣したのであった。今ここに至って、その兵八百が死力を尽くして奮戦し、囲みを破って入り、義貞を擁して立ち去った(注:兵八百および擁して去ったことは金勝院本による)。
¶この日、義貞は藤原隆資らと申し合わせ、巳の刻(午前十時ごろ)に一斉に京都へ入り、火を挙げて合図とすることにしていた。ところがちょうど北白河の民家で火事が起こったため、隆資は約束の時刻より先に進撃して戦い、敗れてしまった。阿弥陀峰の兵および諸方の軍もまたみな敗れた。興福寺は約束を違えて参陣せず、官軍は退いて坂本の麓を守った(注:『太平記』による)。
¶尊氏はほどなく光明院(こうみょういん)を擁立した(注:『歴代皇紀』による)。そもそも天皇が延暦寺に行幸されてから、六月から九月まで、供奉の兵士二十万の食糧は、すべて延暦寺の僧兵から供給を受けていた。僧兵は資財を傾けて工面したが、それでもなお足りなかった。ここに至って、敵はさらに東北の兵糧輸送路を断ち、官軍はしばしば出撃してこれを争ったが勝てなかった。兵士は飢えと困窮に陥り、次々と逃亡し、部隊は日ごとに減っていった。
¶冬、天皇は密かに足利尊氏の和議の申し出を受け入れ、京都へ還幸されようとしていた。藤原実世は人を馳せて義貞にこれを告げた。義貞はちょうど将校たちを引見していたところであったが、これを聞いても信じずに言った。「この使者はでたらめを言っているだけだ」。堀口貞満が先に駆けつけると、すでに天皇の御車が用意されているのを見た。貞満は御前にひれ伏し、涙ながらに訴えて還幸を引き留めたところ、天皇はようやくお心を悟られた。
¶義貞は子弟とともに兵三千を率いて参内し、階段の下に並んで座ったが、みな怒りの色を浮かべながらも態度は謹厳であった。天皇は義貞と義助を進み出させて仰せられた。「足利尊氏が恩寵に狎れて謀反を企てたとき、朕は卿らが彼と同族であるからには、必ず彼に味方するであろうと思っていた。ところが卿らは傾き危うい朝廷を支え続け、ひたすら義に徹してくれた。朕はその忠義を深く認め、卿らの一門を頼みとして天下を鎮めたいと願っていた。しかし天命はいまだ我らに味方せず、兵勢は疲れ果てているため、今はひとまず賊と講和し、京都へ還幸して後の策を図ろうと思う。
¶ただ、この事は漏れやすいことを恐れ、出発に臨んで告げようと思っていたのだ。ところが貞満が慌ただしく訴えに来たのは、顧みればまだ事の機微を分かっていないからであろう。しかし朕はその言葉にも、思うところがないわけではない。今、河島維頼(かわしまこれより)は北の越前におり、気比(けひ)の神官は敦賀(つるが)に築城して官軍に応じている。卿はそこへ赴いて経略し、北国を巡って回復の策を図るがよい。
¶思うに、朕がすでに京都に入った暁には、卿は必ず賊の汚名を受けることになろう。そこで今日、皇位を春宮(とうぐう、皇太子)に伝え、卿に託して連れて行かせる。天下の事は、すべて卿に委ねよう。謹んで嗣君(継承された天子)にお仕えし、朕そのものと思ってお仕えするように」。この言葉を発せられると涙が流れ落ち、居並ぶ者はみなひれ伏して涙にむせんだ。
¶義貞はその夜、日吉社(ひえしゃ)に祈って言った。「神よ、なお御加護を垂れたまい、臣が前途を恙なく進み、義軍を再び振るって凶賊を滅ぼせるようにしていただきたい。もしそれが叶わぬのであれば、必ずや子孫の中に国家に報いることのできる者を出していただきたい」。そして宝刀一振りを奉納した(注:『梅松論』には赤い鎧とある)。翌日、天皇の御車は京都に入られた。義貞は皇太子(恒良親王)および尊良親王を奉じて北へと向かった。
¶塩津(しおつ)に至ったころ、敵が前方の険しい地で待ち構えていると聞き、道を変えて木目峠(きのめとうげ)を越えることにした。このとき山中は雨雪が降って大寒で、一行はみな野宿し、互いに抱き合って横たわり、あるいは弓矢を燃やして焚き火とした。凍死する人馬は数え切れなかった。河野通繩(こうのみちなわ)・得能通言の兵三百は、敵に遭遇してみな全滅した。千葉貞胤は五百余人とともに敵に叛いて降伏した。義貞は苦難のうちに三日を過ごし、ようやく敦賀津(つるがのつ)に到着した。気比氏治(けひうじはる)がこれを出迎え、金崎城(かねがさきじょう)に迎え入れた。
¶義貞は長子の義顕(よしあき)を越後へ、義助を杣山(そまやま)へ遣わし、諸国の兵を招かせた。足利高経は二万余人をもって金崎城を包囲した。義助・義顕は途中から引き返し、奇策をもってこれを撃退した。義貞はそこで船を浮かべ、皇太子および尊良親王のために大いに宴を催した。義貞・義助はそれぞれ楽器を執って演奏した。ちょうど魚が跳ねて船に飛び込んできたので、藤原実世は周の武王の故事を引いて、これを割いて天を祭った。皇太子は供物のお下がりを受け、一同は大いに和やかに宴を終えた。
¶敵はさらに大軍を発し、水陸から攻め寄せてきた。城兵は高所に拠って矢や石を撃ちかけた。敵の死者は一日に千を数え、一月を過ぎてもついに近づくことができなかった。このころ天皇(後醍醐天皇)は吉野へ行幸されており、近畿の兵士たちが日々行在所に参集していたので、渡里忠景(わたりただかげ)に詔書を持たせて義貞に賜り、力を尽くして回復を図るよう命じられた。
¶延元二年(1337年)春、脇屋義治(わきやよしはる)が杣山から兵を遣わして救援に来たが、道中で敗れた。これ以後、外部からの援軍は絶え、兵糧もすでに尽きたため、海産物を採って飢えをしのいだ。その後は毎朝馬を屠って将士の日々の食料に充てるようになった。しかし季節は次第に暖かくなり、雪も消えて道が通じるようになると、敵は日ごとに城下に集まり十万にも達した。義貞は勢いを支えきれないと判断し、義助・藤原実世とともに、密かに城を抜け出して杣山へ赴き、兵を集めて敵を撃退することを図った。
¶十日ほどたっても、わずかに五百余人しか得られず、鎧や馬もまだ十分に揃わなかった。さらに十日余りが過ぎるうちに、敵はついに金崎城を陥落させた。皇太子は捕虜となり、尊良親王・義顕は自害した。義貞は杣山に半年ほど身を潜め、密使を送って旧来の党与を招き集め、三千余人を得た。
¶尊氏は再び足利高経を遣わし、六千余人を率いさせて越前府に入らせ、義貞と対峙させた。加賀の人、敷地(しきじ)・山岸(やまぎし)らが兵を挙げ、義貞に呼応した。畑時能(はたときよし)を将として加賀・越前の国境に拠らせ、天聖寺城(てんしょうじじょう)を攻め落とした。平泉寺(へいせんじ)の僧兵もまた三峰(みつみね)に拠って呼応し支援したため、義助を遣わしてその軍を統率させ、越前府に迫らせた。
¶延元三年(1338年)春、義助は百余人を率いて営地を視察に出た。敵は兵を出してこれを不意打ちしようとした。義助は火を挙げて急を知らせた。義貞は三千余人を率いてこれに駆けつけ、高経もまた三千余人をもってこれを迎え撃ち、川を挟んで陣を敷いた。折しも雪が消えて水量が多かったが、官軍は流れを乱して押し渡り進んだ。戦いの半ば、三峰の僧兵が敵の背後に出て、火を放って府を焼いた。敵は驚いて振り返り退いた。義貞はこれに乗じ、追撃して府に攻め入った。
¶高経は足羽(あすわ)へと逃げ、黒丸城(くろまるじょう)に拠ったが、その他の党与で風聞を聞いただけで崩れ潰えた砦は三十余に及んだ(注:三十余壘は天正本による。本書には七十三壘とある)。北陸一帯はこれに震え動き、四方で義軍が再び起こり、それぞれ国郡に拠って義貞の入京を待った。しかし義貞は必ず高経を滅ぼしてから進んで征討することを謀った。
¶夏、府に出陣し、近衛少将藤原行実(ふじわらのゆきざね)、および細屋秀国(ほそやひでくに)・船田経政(ふなだつねまさ)を遣わして高経を攻めさせた。行実らは敵を侮って急に攻めたため、敗れて退いた。秋、大井田氏経が越後の兵二万を率いて到着し、義貞の軍は再び盛んになり、再び黒丸城を攻めようとした。攻城の装備をますます整え、必ず攻め取ろうと期していた。
¶このころ義貞の次子義興(よしおき)は源顕家に従って西上していたが、ちょうど顕家が戦死したため、義興および顕家の弟である近衛少将顕信(あきのぶ)は、散った兵をまとめて男山(おとこやま)に立てこもったが、敵に包囲されてしまった。天皇は義貞に手ずから詔書を下し、兵を率いて救援に赴くよう命じられた。義貞は喜んで言った。「昔から源平の武臣が王室に勲功を立てた例は数多いが、天皇御自らの詔書を賜ったとは聞いたことがない。今、私はこの上ない栄誉を受けたのだ。どうしてこの時に報いずにいられようか」。そこで延暦寺に牒(ちょう、公文書)を送り、協力を求めた。僧兵は大いに喜んでこれに従った。
¶義貞が出発しようとしたとき、高経を後顧の憂いとして残せば禍になると考え、自らは三千余人を率いて越前に留まってこれを牽制し、二万の兵を義助に付けて、先に男山救援に向かわせた。しかし到着する前に男山陥落の報を聞き、そのまま引き返した。義貞はそこで河合(かわい)に出て、黒丸城を攻略しようと図った。
¶高経は恐れおののき、大いに守備を修め、七つの陣営を設けて互いに援護し合えるようにした。平泉寺の僧兵は再び叛き、藤島(ふじしま)に陣を構えて高経に呼応した。義貞はある夜、夢を見た。「高経と足羽川で戦い、数日のうちに我が身が長い蛇に化し、くねりながら横たわった。すると高経は驚いて逃げ去った」というものであった。翌朝これを人々に告げると、皆は言った。「龍は雲雨を駆り、天地を震わせるものです。それゆえ高経が正気を失い驚いて逃げ去るとは、大変な吉夢です」。
¶斉藤道献(さいとうどうけん、注:諸異本には道猷とあるものもある。毛利家本には児島高徳とあるが、恐らく誤りであろう)はこれを聞いて、ひそかに言った。「天下が分かれ争っているさまは、三国時代に似ている。臥龍(がりょう、諸葛孔明)が死んで、蜀が真っ先に滅んだ。まして龍は陽の性質を持つ生き物であり、陰の季節になれば身を潜めるものだ。今はまさに秋の頃であり、その龍が水辺に現れたというのは、その本来の性質を失っていることになる。私にはこれが吉夢であるとは思えない」。
¶閏七月二日、義貞は日を定めて兵を率いて出陣した。馬に乗ろうとしたとき、馬が跳ね上がって暴れ、手綱を取る馬丁がほとんど死にかけた。足羽川を渡る際、旗持ちの兵の乗馬が急に倒れ、旗が川の流れの中に倒れ込んだため、人々はこれを凶兆であると思った。義貞は燈明寺(とうみょうじ)のそばに陣を敷き、兵を分けて七つの陣営を攻めさせた。藤島の敵兵は動揺し、味方は勢いに乗じて塁壁によじ登った。僧兵は力戦し、哺時(ほじ、夕方)を過ぎるころには官軍はほとんど退けられそうになった。
¶義貞は怒って馬を替え甲冑を着替え、騎兵五十を率いて間道から救援に駆けつけた。高経は歩兵三百を出して藤島を救わせようとし、義貞はその途上でこれに遭遇した。敵は盾に隠れて矢を乱射し、我が兵は防ぎの盾を持たなかったため、わずかに身をもって義貞をかばうのみであった。従兵の中野宗昌(なかのむねまさ、注:宗昌の名は金勝院本による。宗昌は定澄とも作る)は義貞に目配せして言った。「千鈞(せんきん)の強弩(きょうど)は、はつかねずみ一匹のために引き金を引くものではございません」。
¶義貞は言った。「兵を見捨てて自分だけ逃れるのは、私の望むところではない」。そして馬に鞭打って進んだ。馬は五本の矢を受けて泥沼の中に倒れ込んだ。義貞は起き上がろうとしたところ、飛んできた矢が額に当たった。もはや逃れられぬと覚悟し、ついに自ら首をかき切って果てた(注:『太平記』による)。享年三十八(注:『清和源氏系図』による)。中野宗昌および結城親晴(ゆうきちかはる)・金持重興(かねもちしげおき)らは、腹を切ってこれに殉じた(注:二人の名は金勝院本による)。従っていた者たちもみな討ち死にした。
¶このとき霧雨が立ちこめ薄暗く、他の軍勢はついに救援に駆けつける者がなかった。日が暮れると、数騎が河合へ戻ってきたので、人々はこれを義貞であろうと望み見て、それぞれ思い思いに引き上げたが、後にその死を知ることとなった。逃亡・離散・降伏する者がほとんどとなり、北国はもはや支えきれなくなった(注:『太平記』による)。
¶義貞には三人の子、義顕・義興・義宗があった(注:『尊卑分脈』『太平記』による。『由良系図』には、義貞の子貞氏はわずか六歳のとき、父の死後に横瀬新九郎(よこせしんくろう)に養育され、その姓を名乗って、後に由良氏となったとある。真偽のほどは明らかでない)。いずれも別に伝がある。