卷之九十九 列傳第廿六
皇子十四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次56
【後醍醐】十五子
¶後醍醐天皇(ごだいごてんのう)には十六人の皇子がいた。宮人(女官)の藤原廉子(ふじわらのれんし)は、第六子の皇太子・恒良親王(つねよししんのう)(注:『神明鏡』『太平記』は第四子とするが、天正本『太平記』が第八子とするのは、ともに誤りである)と、第七子の成良親王(なりよししんのう)(注:天正本『太平記』および『太平記』は第八子とするが、ともに誤りである)、後村上天皇(注:『神皇正統記』による。あわせて『太平記』も参照した)を生んだ。宮人の藤原為子(ふじわらのためこ)は、第一子の尊良親王(たかよししんのう)と宗良親王(むねよししんのう)を生んだ(注:『太平記』『増鏡』による。釈家官班記が宗良を第八子とするのは誤り。『太平記』が第二子とするのは、尊良と同母弟であることからそう呼んだものと思われる)。源親子(みなもとのちかこ)は、第三子の護良親王(もりよししんのう)を生んだ(注:『太平記』および西源院本『太平記』による。今川家本が第二子、毛利家本・天正本・島津家本が第四子、釈家官班記が第六子とするのは、いずれも誤り)。藤原氏は、第二子の世良親王(ときよししんのう)(注:島津家本『太平記』『増鏡』による)と第四子の静尊法親王(じょうそんほっしんのう)(注:島津家本『太平記』による)を生んだ。藤原守子(ふじわらのもりこ)は、第十三子の玄円法親王(げんえんほっしんのう)を生んだ(注:『諸門跡譜』島津家本『太平記』による)。藤原氏は、第十二子の躬良法親王(みよししんのう)(注:『諸門跡譜』による。仁和寺御伝は第十子とする)と懐良親王(かねよししんのう)(注:古本『後醍醐帝系図』『皇胤紹運録』による。名和家譜が第六子とするのは誤りと思われる)を生んだ。内侍の藤原氏は僧尊真(そんしん)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。菅原氏は聖助法親王(しょうじょほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』菅原系図による)。典侍の藤原親子(ふじわらのちかこ)は満良親王(みつよししんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』古本『帝王系図』による)。亀山天皇の皇女某は僧恒性(こうしょう)を生んだ(注:『諸門跡譜』による)。昭慶門院(しょうけいもんいん)は僧元選(げんせん)を生んだ(注:『無文禅師行状』による。『皇胤紹運録』を見ると、後醍醐天皇の皇子の母に昭訓門院近衛(しょうくんもんいんこのえ)という者がいる。おそらく『行状』が「昭訓」を誤って「昭慶」と書き、「近衛」の二字を脱落させたのであろう。また諸書は皇子の生まれた順序が入り乱れていて考証しがたい。今は根拠のあるものによって何番目の子かを記し、それ以外は考証しないでおく)。
尊良親王
¶尊良親王(たかよししんのう)は、嘉暦元年(1326年)、元服して中務卿(なかつかさきょう)となった(注:『増鏡』による)。幼くして聡明で、容姿も見事であったので、人々はみな彼が皇太子になることを望んだ。しかし北条高時(ほうじょうたかとき)は後二条天皇の子・邦良親王(くによししんのう)を皇太子に立てたため、尊良は失意に沈んだ(注:『太平記』による。あわせて『増鏡』『新葉和歌集』も参照した)。元弘元年(1331年)、行幸に従って笠置(かさぎ)へ赴いた(注:『増鏡』『太平記』『笠置寺縁起』による)。ついで楠木正成(くすのきまさしげ)の赤坂城に入った。笠置が陥落し天皇が幽閉されたと聞くと、自ら都に赴いた(注:『増鏡』による。『太平記』は笠置陥落の際に捕らえられたとする)。賊軍は彼を捕らえ、佐々木時信(ささきときのぶ)の家に拘留した。元弘二年、土佐の畑(はた)に流された(注:『増鏡』『太平記』による)。元弘三年、乱が平定されると都に帰った。建武二年(1335年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が反乱を起こすと、勅命により尊良は東国管領としてこれを討つこととなり、新田義貞(にったよしさだ)がこれを補佐した。尊良の軍が三条河原を通過した時、たまたま暴風が吹き、旗の上に貼ってあった金の日月の飾りが地に落ちた。人々はみな顔色を失い、不吉の兆しだと思った。義貞は尊氏の先鋒と矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)で戦い、連戦連勝した。尊良は脇屋義助(わきやよしすけ)らを率いて竹下(たけのした)に向かい、尊氏の軍と対峙した。しかし配下の兵は日頃訓練されておらず、我先にと進んでしまった。賊軍はその隙に乗じて猛攻を仕掛け、官軍は浮き足立って統制を失った。そこへ大友貞載(おおともさだとし)・塩冶高貞(えんやたかさだ)が賊に降って寝返り、官軍と戦ったため、尊良軍は敗れた。延元元年(1336年)、尊氏が都に迫ると、天皇の行幸に従って延暦寺に入った。同年冬、皇太子恒良(つねよし)を補佐して越前の金崎城(かねがさきじょう)を守ったが、賊の攻撃は激しく、兵糧の補給も続かなかった。翌年春、城が陥落しようとする中、新田義顕(にったよしあき)は尊良に申し上げた。「私は武家の子ですから、いたずらに生き永らえることは道義に反します。しかし大王(尊良)は帝室の御一族です。たとえ賊の手に落ちても、必ずしも危害を加えられることはないでしょう。どうか御身を軽んじられませぬよう」。尊良はにっこりと笑って言った。「主上(天皇)はまさに孤(われ)を首領とし、卿(そなた)を股肱(手足)となさっている。股肱が亡びて首領だけが無事でいられるということはあり得ない。まさに白刃に倒れて、黄泉で恨みを晴らすべきである。しかし孤は宮中で育ち、武事に習熟しておらず、自害の作法がどのようなものか知らない」。義顕は涙を流して言った。「このようにするのです」。そして自ら腹を切り、刀を尊良の前に置いて伏した。尊良はその刀を取ったが、血にまみれた柄は滑って握ることができなかったので、衣の袖を柄に巻きつけ、胸を貫いて薨去した。左近衛中将藤原行房(ふじわらのゆきふさ)をはじめ、将兵で自害した者は三百余人に及んだ。賊軍は尊良の首を都に送り、尊氏は僧の疎石(そせき、夢窓疎石)に命じて禅林寺に葬らせた(注:『太平記』による)。尊良には一男一女があったが、名は伝わっていない(注:『増鏡』による。本書によれば、親王は外祖父の大納言藤原為世(ふじわらのためよ)の家にいた頃、その娘である大納言典侍(だいなごんのすけ)と密通して一女をもうけた。また右大臣藤原公顕(ふじわらのきんあき)の娘である中宮御匣(ちゅうぐうのみくしげ)と通じて一男をもうけた。『元弘日記裏書』延元三年九月十一日条には、尊澄法親王(そんちょうほっしんのう)と尊良親王の一の宮が、船で伊豆崎に至った際に大風に遭い、遠江の井伊城(いいじょう)に漂着したとある。この二書はいずれも名を記していない。また『太平記』によれば、尊良親王は藤原公顕の娘に思いを寄せ、手紙を送って言い寄った。娘はすでに他家へ嫁ぐことが決まっていたが、親王の恋慕は止まなかった。ある日、『貞観政要』の講義を聞いていたところ、唐の太宗が鄭仁基(ていじんき)の娘を後宮に入れようとしたが、娘はすでに嫁ぐ約束があり、魏徴(ぎちょう)が諫めたためにやめた、という話に至った。親王は内心で恥じ入り、二度とその話をしなくなった。婿の家はこれを聞いて婚約を解消し、そこで娘は親王の御息所(みやすどころ)として迎え入れられた。土佐に流される際、親王は随身の秦五文(はたのごもん)を都に遣わして御息所を迎えさせた。尼崎まで来たところ、筑紫の松浦五郎(まつらごろう)という者が夜に兵を遣わして御息所を奪った。武文(たけぶみ、秦五文)はこれに抵抗し、御息所を背負って港まで逃れ、舟を呼んだ。五郎は舟の中で武文を欺いて御息所を乗せ、武文は家に戻って荷物をまとめた。ところが五郎は縄を解いて出発してしまい、武文は扇を挙げて舟を招いた。舟人たちはやかましく笑い、武文は激怒して自害した。舟が阿波の鳴門に差し掛かった頃、風波が急に荒れ狂った。すると武文が甲冑を着けて馬に乗り、扇を挙げて舟を招く姿が見えた。舟にいた者は皆驚き恐れた。五郎は武文の霊であると悟り、御息所を捕らえて海に投げ込もうとしたが、ある僧がこれを諫めたので、小舟に乗せて放った。舟は淡路島の武島(むしま)に漂着し、土地の人々がこれを憐れんで介抱した。親王は武文が久しく戻らないのを怪しんでいたが、たまたま守備の兵士が語るのを聞いた。「去年、鳴門を通った際、美しい衣が舵に絡みついていた。きっと宮女が風難に遭って海に沈んだのだろう」。親王がその衣を取り寄せて見ると、それは武文が都へ赴く際に御息所へ贈った衣であった。親王は深く悲しみ、自ら経文を書き写して冥福を祈った。乱が平定されて都に帰った後、御息所が武島にいると聞いて迎えを送った。その後越前へ赴く際、御息所は都に残っていた。親王の首が都に入ると、御息所は悲しみのあまり葬儀に立ち会い、一月余りで悲しみのために亡くなった。しかし『増鏡』によれば、親王が土佐に流された時にはすでに御息所は亡くなって久しいとあるので、この話は採らないこととする)。
世良親王
¶世良親王(ときよししんのう)は、幼い頃から聡明で、才能も人並み外れていた(注:『増鏡』による)。和歌に優れ、音律にも通じていたので、当時の人々は心から慕った(注:島津家本『太平記』による)。天皇はことのほか彼を愛した。昭慶門院(しょうけいもんいん)が養子とし、親王となって上野太守(こうずけたいしゅ)(注:『皇胤紹運録』による)、太宰帥(だざいのそち)(注:『増鏡』島津家本『太平記』による)を拝命した。河端宮(かわばたのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。元徳二年(1330年)九月、病により薨去した(注:『増鏡』『長楽記』による)。
護良親王
¶護良親王(もりよししんのう)は、生まれつき聡明で、幼い頃から天皇に格別に寵愛された。兵部卿(ひょうぶきょう)を拝命した。皇太子邦良(くによし)が薨去し、次の皇太子がまだ定まらなかった際、天皇は護良に望みを寄せた(注:『太平記』による)。しかし北条高時(ほうじょうたかとき)が詔に背き、後伏見天皇の長子である量仁(かずひと)を皇太子に立てたため、護良は皇太子になることができなかった(注:島津家本『太平記』による)。そこで梨本(なしもと)の仏寺に赴き、承鎮法親王(じょうちんほっしんのう)について出家し、名を尊雲(そんうん)と改めた(注:『太平記』による)。嘉暦二年(1327年)、三品に叙され(注:天正本『太平記』による)、延暦寺の座主(ざす)となり(注:『太平記』『天台座主記』釈家官班記による)、大塔(おおとう)に住んだ。当時の人々はこれにより彼を大塔宮(おおとうのみや)と呼んだ。天皇は北条高時が権力を専断することを深く憎み、常にこれを除こうと望んでいた。元徳二年、勅命により延暦寺の大講堂を修築させた。完成すると天皇自ら赴いて祝賀し、尊雲を新しい堂の呪願師(じゅがんし)とし、位を進めて二品とした。これは僧徒の心を結びつけ、その力を頼りに北条氏を除こうとしたためである(注:『太平記』による)。尊雲は赤松則祐(あかまつそくゆう)と密かに謀り、講義と読経をやめて、もっぱら武事を習った。弓の腕前は精妙で、身のこなしも飛ぶように素早かった(注:『太平記』『増鏡』による)。やがてこの謀略が漏れ、高時は大いに恐れ、天皇の廃立を図ろうとした(注:『太平記』による)。
¶元弘元年(1331年)秋、高時は二人の将軍に兵三千を率いさせて都に入れた。尊雲はその謀略を探知し、その夜のうちに使者を走らせて奏上した。「高時は兵を遣わし、天皇を絶海の孤島に移し、私・尊雲を殺そうとしています。陛下は夜のうちに奈良へお出ましになり、近臣の衣を借りてお召しください。表向きは行幸として本寺(延暦寺)へ至り、『車駕は賊を避けている』と言いふらしてください。賊がこれを聞けば、必ず精鋭を挙げて攻め寄せてくるでしょう。そうなれば本寺の僧徒も、力をもって拒まざるを得なくなります。数日を経れば、次第に畿内の官軍を集めて挟み撃ちにし、賊を必ず殲滅できましょう。今は禁軍もまだ集まらず、城壁も築かれていないのに、賊兵が突然襲来すれば、どうして防ぐことができましょうか。国家の安危は、この一挙にかかっています。どうか陛下、速やかに私の計略をお用いください。さもなくば大事は去ってしまいます」。天皇はそこで近臣数人だけを連れて笠置山(かさぎやま)へ行幸し、大納言藤原師賢(ふじわらのもろかた)に天皇の御衣を着せて延暦寺の西塔(さいとう)へ向かわせた。僧徒たちはこれを聞いて武装し、争って西塔に集結した。一晩のうちに、その数は二、三万人にも達した(注:兵数は今川家本による)。尊雲は弟の尊澄法親王(そんちょうほっしんのう)とともに、別に僧兵六千を率いて八王子(はちおうじ)に陣を敷いた。翌日、六波羅(ろくはら)が兵を遣わして攻めてきたので、尊雲は僧兵三百を出し、辛崎浜(からさきはま)で撃退し、賊将の海東仲家(かいとうなかいえ)を斬った。しかし西塔に集まった僧徒たちは、行幸が偽りであったと知ると、欺かれたことを恨んで次第に立ち去っていった(注:『太平記』による。あわせて『増鏡』も参照した)。尊雲の兵もほとんど散り、残った者はわずか数人であった。そこで夜に多くの篝火(かがりび)を焚いて敵の目をあざむき、尊澄と手はずを分けて密かに脱出した。奈良に至り、般若寺(はんにゃじ)に身を隠して行在所(あんざいしょ)の消息をうかがった(注:『増鏡』は楠木正成の赤坂城に逃げ込んだとする)。ところがちょうど行在所も陥落し、内侍原好専(ないしはらのこうせん)が兵を率いて般若寺を包囲した。時はちょうど夜明けで、供の者はみな外に出払っていた。尊雲はどうしてよいか分からず、刀を取って自害しようとした。傍らに三つの唐櫃(からびつ)があり、大般若経が納められていた。その一つはすでに半分ほど経が取り出されていたので、その中に飛び込み、経を身にかぶせ、刀を心臓に当てて伏した。好専の兵は仏殿をくまなく捜索し、ついに経の唐櫃にも及んだ。しかし尊雲が隠れていた唐櫃は、蓋が開けられただけで、怪しまれずに済んだ。尊雲は「一度探して見つからなければ、後で必ずまた捜しに来るだろう」と考え、急いで別の唐櫃に移った。案の定、好専の兵は戻ってきて、先ほど隠れていた唐櫃を指して言った。「先ほどうっかり中を調べ忘れた」と、唐櫃を傾けて経を取り出した。そして戯れに「大塔宮(おおとうのみや)ではなく、唐の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がいるだけだったな」と言った(注:「塔」と「唐」は音が近いことによる洒落である)。大笑いして立ち去った。尊雲はそこで光林房玄尊(こうりんぼうげんそん)・赤松則祐(あかまつそくゆう)・木寺相模勝憲(きでらさがみかつのり)・岡本参河房英実(おかもとみかわぼうひでざね)・武蔵房豪雲(むさしぼうごううん)(注:勝憲・英実・豪雲は金勝院本による)・村上義光(むらかみよしてる)・片岡八郎(かたおかはちろう)・矢田彦七(やたひこしち)・平賀三郎(ひらがさぶろう)らとともに、修験者(しゅげんじゃ)に扮して熊野(くまの)へ向かった。しかし通る道はみな険しい峰と深い谷ばかりで、人家もまったくなく、疲労と飢えに苦しみながら十日余りかけてようやく十津川(とつがわ)にたどり着き、寺で休息を取った。供の者たちは村々に散って食を乞い、粟飯(あわめし)や橡(とち)の粥を得て差し出した。このようにして三日が過ぎたころ、玄尊がたまたま一軒の家を訪ねると、童子が出てきたので、その家の主の名を尋ねた。童子は「戸野兵衛(とののひょうえ)という者です」と答えた。玄尊は以前から彼が土豪であると聞いていたので、門から中の様子をうかがった。すると屋敷の中から「良い祈祷師がいて病を治してくれないものか」という声が聞こえた。玄尊は修験者のふりをして言った。「私は那智山(なちさん)に千日籠り、三つの滝に七日打たれた者です。今、三十三所の観音霊場を巡礼する途中、道に迷ってここまで参りました。どうか大檀越(だいだんおつ)様、哀れんで宿をお貸しください」。すると女中が出てきて「主人がちょうど物の怪に取り憑かれております。どうか祈祷にてお解きいただけますよう」と頼んだ。玄尊は寺の方を指して「あちらにいる老師にお頼みなさい。祈って効かぬことはございません」と言った。女中は「では、こちらにお連れください」と頼んだ。尊雲はそこでその家に赴いて呪文を唱えた。しばらくすると病人は治り、兵衛は礼を述べて言った。「田舎家には何もお礼できるものがございません。どうかしばらくここに滞在され、旅の疲れをお癒しください。とはいえ、去るも留まるも師のお心のままというのが世の習い。急に出て行かれてしまっては後悔してもしきれません。どうかこれを質としてお預けください」と、彼らの荷物をすべて引き取ってしまった。一同はこれを喜び、そのまま十日ほど滞在した。ある夜、兵衛が炉に火を焚きながら寒さをしのぎつつ、くつろいだ様子で言った。「聞くところによると、大塔宮(おおとうのみや)が熊野に難を避けておられるとか。師匠方はそれをご存じですか。熊野別当(くまのべっとう)の定遍(じょうへん)はもとより北条氏の一味ですから、御駐輦(ごちゅうれん)にふさわしい場所ではありません。この地は小さいながら、四方を険しい地形に守られております。加えて土地の者は素朴で武を好みます。昔、平維盛(たいらのこれもり)が乱を避けてこの家に身を寄せ、無事に生き延びたこともございました。今、大塔宮もこちらにお越しになりましょうか。私はできる限りお力添えいたしましょう」。尊雲は「もし大塔宮がここに来たならば、そなたは本当に彼のために働くか」と尋ねた。兵衛は「私の家は小さいものですが、ひとたび義兵を挙げれば、吉野十八郷(よしのじゅうはちごう)をはじめ、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂(かぶらさか)・湯浅(ゆあさ)・阿瀬川(あぜかわ)・小原(おはら)・芋瀬(いもせ)・中津(なかつ)などの豪族はみな従うでしょう」と答えた。尊雲はそこで勝憲に目配せし、勝憲は膝を進めて兵衛に近づき、尊雲を指して「これこそ大塔宮であられる」と告げた。兵衛は左右をよく見て、なお疑わしげな様子であったが、片岡八郎と矢田彦七が頭巾を脱いで月代(さかやき)を露わにするのを見ると、驚いて席を避け、額を地につけて謝罪した。「田舎者ゆえ、無礼をいたしました。先ほどのお言葉がなければ、殿下のご来臨とはとても分かりませんでした」。そして新しい館を造って尊雲を迎え、要所を柵で塞いで守備を固めた。兵衛の伯父・竹原八郎(たけはらはちろう)はこれを聞いて大いに喜び、自分の家に迎え入れた。尊雲はここで髪を伸ばして還俗し、名を護良(もりよし)と改め(注:改名は『梅松論』による)、八郎の娘を娶って寵愛した。八郎はますます喜び、変わらぬ忠誠を尽くし、近隣の人々も次第に心を寄せるようになった。この年は元弘二年(1332年)であった。数か月を経て、熊野別当の定遍(じょうへん)はこれを聞き、「十津川の要害の地は武力では攻め落とせない」と考えた。そこで道々に高札を掲げて懸賞を出した。「大塔宮を捕らえた者には、身分の上下を問わず、伊勢の車間荘(くるまのしょう)を与える」。定遍はさらに私財として六百万を出し、供の者を殺した者には五百万、降伏に手を貸した者には三百万を与え、その日のうちに実行するとした。「もし約束に背けば、明神の罰を受けよう」とも記した。十津川・熊野の間の土豪で「荘司(しょうじ)」と称する者は八氏族あったが、みな欲深く信義に乏しく、これを見て背く心を抱いた。護良はこれを憂え、吉野(よしの)へ逃れようと図ったが、八郎は強く引き止めた。しかしまもなく八郎の子にも二心があると聞き、ついに八郎のもとを離れて密かに吉野へ向かった(注:「吉野」は毛利家本による)。道中は敵地を通らねばならず、たやすく通過できなかった。護良は「もし誠意をもって説けば、あるいは支障なく通れるかもしれない」と考え、試みに芋瀬荘司(いもせのしょうじ)のもとへ使者を送った。荘司は受け入れず、こう言った。「もし私が大王(おおきみ)をお通ししたとなれば、後に必ず鎌倉から罪を問われましょう。近臣を一人二人いただき、大王だけをお逃がしいただきたい。さもなくば、お持ちの錦の旗をいただき、戦利品として掲げ、後日の証としたい」。護良はやむを得ず、旗を与えて立ち去った。村上義光(むらかみよしてる)が後から追いつき、その旗を奪い返した。護良は大いに喜んだ。翌日、小原(おはら)に着くと、道すがら樵(きこり)から「この先には玉置荘司(たまきのしょうじ)という者がいて、山道に柵を築いて通行人を遮っている。うまく誘い出さねば通れない」と聞いた。そこで片岡八郎と矢田彦七を遣わして説得させた。玉置は急いで奥に引っ込んで出てこなかった。二人は事がうまくいかないと悟り、走って戻ろうとしたが、玉置は数十騎を出して追わせた。二人は取って返して戦い、まず一騎を斬り倒したが、残りの兵が矢を射かけ、八郎は二本の矢を受けた。八郎は急いで彦七に「行け。急いで大王に報告し、賊を避ける手立てを講じてもらえ」と言い、そのまま前に進んで討ち死にした。護良は彦七の報告を聞くと、奮然として「事ここに至っては、避けたところで何になろうか」と言い、進軍した。賊兵が嶺を取り囲んでいるのを望み見ると、笑って左右の者に言った。「そなたたちはただ矢を射かけよ。孤(われ)はゆっくりと自害する。そなたたちは必ず孤の顔の皮を剥ぎ、鼻と耳を削ぎ落とし、誰か分からぬようにせよ。賊は孤がまだ死んでいないと思うだろう。そうしなければ、天下の義兵たちは孤が死んだと知って気力を失い、賊の勢いはますます盛んになってしまう」。一同は皆奮い立ち、争って玉置の陣へ攻めかかった。ちょうどそこへ紀伊の野長瀬六郎(のながせろくろう)と七郎(しちろう)が兵三千を率いて救援に駆けつけたので、玉置の兵は戦わずして潰走した。護良は六郎を呼んで言った。「孤は十津川が狭く険しいため用兵に不便だと考えていた。今、大和・河内の間に出て、地の利のある場所に拠って回復を図ろうと思う。今まさに玉置に苦しめられ、危うく逃れられぬところであった。思いがけずそなたの援助で万死に一生を得た。しかし今日のことは、あらかじめ誰かに知らせる暇もなかったのに、そなたはどうしてこれを知ったのか。もし天の助けでなければ、孤がここに至ることはできなかったであろう」。六郎は答えた。「昨日、一人の童子が私の村に来て、こう告げました。『大王は明日、十津川から小原へ向かわれる。必ず途中で難に遭われるであろう。急いで迎えに参るがよい』。私どもはこれを大王の御使いだと思ったのです」。護良は驚き、これを神の導きだと感嘆し、心の中でひそかに恩義を感じた。そのまま槙野城(まきのじょう)へ進み、やがて吉野山(よしのやま)へ赴いて僧徒を招き集め、寺に拠って城とし、兵三千でこれを守った(注:『太平記』による)。この時、天皇は隠岐(おき)におられ、護良は上書して国事を論じた(注:『増鏡』による)。赤松則祐(あかまつそくゆう)を遣わして令旨(りょうじ)を播磨(はりま)に伝え、その父・則村(のりむら)に挙兵させた(注:『太平記』による)。また諸国に令を下すと、これに応じる者が多かった(注:『増鏡』による)。翌年春、高時は二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)に大軍を率いさせて攻めさせた。吉野の執行(しぎょう)である巌菊丸(いわぎくまる)を道案内とし、七昼夜にわたって交戦し、死傷者は数えきれないほどで、賊軍は大いに苦しんだ。ところが巌菊丸は夜、兵を山の背後から城内に忍び込ませ、火を放って城内を混乱させた。貞藤はこれに呼応し、前後から急襲した。味方の兵は不意を突かれ、多くが討たれた。護良は眉尖刀(びせんとう、なぎなた)を執り、左右二十余人を率いて縦横に奮戦した。賊兵はたじろぎ退いた。護良は鎧に七本の矢を受け、頬と腕に二か所の刀傷を負い、血を流しながら陣幕に退き、酒を命じて将士と今生の別れの杯を交わした。大杯を隠し持ち、立ったまま三杯を飲み干すと、木寺勝憲(きでらかつのり)が賊の首を刀の先に貫いて歌い舞い、これを慰めた。村上義光(むらかみよしてる)は外城がすでに陥落したのを見て、護良に間道から脱出するよう勧めたが、その道もまた敵に遮られ、辛うじて逃れることができた。この経緯は義光の伝に詳しい。やがて貞藤は護良が高野山(こうやさん)にいると聞き、大軍を放って山中を隅々まで捜索させたが、僧徒たちがこれを匿ったため、捕らえることができずに引き上げた。そのうち新田義貞(にったよしさだ)が密使を送って勤王のために令旨を求めてきたので、護良はこれを与えた。その令旨の文はすべて綸旨(りんじ)の体裁に倣ったものであった。義貞は大いに喜んだ。まもなく天皇は船上山(せんじょうさん)に行幸し、官軍は大いに勢いを盛り返した。護良は河内(かわち)の志貴山(しぎさん)へ赴き、毘沙門堂(びしゃもんどう)に住んだ。赤松則村(あかまつのりむら)の兵が京都攻めに苦戦していると聞き、さらに延暦寺の僧徒に令を下して則村を助けさせた。やがて義貞が高時を討ち、足利尊氏らが都を回復すると、天皇の車駕は都に戻り、四方の兵士が志貴山に雲のように集まった。護良はこれを率いて都に参内しようとし、日取りも定まったが、結局実行されなかった。そもそも尊氏は都を制圧した際、護良の威名を忌み嫌い、密かに彼を激発させて除こうと図っていた。ちょうど護良に仕える殿法印良忠(でんほういんりょうちゅう)の配下が都で略奪を働いたため、二十余人を捕らえて処刑した。護良はこれを聞いて激怒し、ついに尊氏誅殺を図り、さらに兵を集め、武具を整えさせた。当時、勤王のために都に集まっていた将士たちは、何か討伐が行われようとしていると聞き、それぞれ恐れを抱き、世情は騒然となった。天皇は参議藤原清忠(ふじわらのきよただ)を遣わして詔を下した。「戦乱がようやく収まり、遠近の者もみな帰服している。朕は武を偃(ふ)せて文を修め、人々とともに新たな治世を始めようと思う。王(護良)が勝手に軍勢を集めているのは、いったい何を討とうというのか。もとの姿に戻り、法灯を伝えて、朕の治世を興そうとする志に応えるがよい」。護良は詔に答えて言った。「謹んで明詔を承りました。臣は速やかに武備を撤し、退いて旧業に戻ります。ただ、今日大きな禍が滅び、万民がこれを慶び頼みとしているのは、ひとえに皇帝陛下の聖神威武によるものでありますが、また臣のいささかの奔走の労もあってのことと存じます。しかし賊の残党はいまだことごとくは撲滅されておらず、遠い辺地に潜み隠れ、隙をうかがって乱を思っております。臣が愚かに思いますに、天下がすでに平定されたとはいえ、兵備を急に緩めるべきではございません。それゆえ備えを厳にして不測の事態に警戒していたのです。もし明詔にお応えするとすれば、辺境の守りを誰に任せればよいのか分かりません。臣が近ごろ見るところ、治部大輔(じぶのたゆう)足利尊氏は、天の威光を頼みとして、わずかばかりの功にすぎぬものを誇り、内心では驕り高ぶって専横する志を抱いております。もしその勢いがまだ小さいうちに取り除かねば、これはまた一人の高時を生み出すことになりましょう。臣が聞くところ、仏はすべてを受け入れる摂受(しょうじゅ)と、力で打ち払う折伏(しゃくぶく)という二つの方法で衆生を救うといいます。柔和で忍辱(にんにく)、慈悲を第一とするのが摂受であり、威厳をもって怒り、刑罰を重んじるのが折伏であります。昔、天武・孝謙の両帝は、僧衣を脱いで再び帝位に就かれました。君主でさえそうなのですから、まして臣下はなおさらでございます。願わくは陛下の御恩情により、臣に一つの将軍の号をお貸しいただき、討伐の任をお与えください。陛下のために不埒者を討ち、禍乱が芽生える前に消し去りとうございます」。天皇は答えて言った。「足利尊氏にはまだ罪があるとは聞いていない。ひとたび処刑すれば、将士の心は離れ、誰が朕のために働こうか。王は軽々しく事を起こして人心を失ってはならない。もし節義を貫いて廟社(びょうしゃ)を鎮めようとするならば、朕はその志を嘉(よみ)し、願いの通り将軍の号を与えよう」。こうして護良は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられた。護良は参内して任命を謝し、従う兵数千、鞍と鎧は道中を輝かせるほどであった。天皇は護良に、北条泰家(ほうじょうやすいえ)の食邑を与えた。これ以後、護良は次第に酒色に溺れ、人望は次第に衰え、ますます尊氏の行いを憎んで、必ずこれを除こうと謀るようになった。密かに諸国に令を下して兵を徴発しようとしたが、天皇の許しを得られず中止となった。また多くの弓の達人や剣の使い手など、ならず者を養ったため、その配下は恩を頼みに乱暴狼藉を働き、夜間の禁を犯して横行し、無実の通行人を殺すことさえあった。尊氏は護良が結局自分に不利益をもたらすことを見て、天皇の寵姫である三位局藤原氏(さんみのつぼねふじわらし)と結び、護良に謀反の疑いをかけさせた。そして護良が兵を集めるよう命じた文書を天皇に差し出させ、藤原氏にこれを徴発させた。天皇はもとより護良が詔に背いたことを快く思っていなかったが、その功績が最も大きかったため、その求めを聞き入れていた。しかし尊氏の上奏を得るに至り、激しく怒った(注:『太平記』による)。
¶建武元年(1334年)冬、宮中で行われる和歌会にかこつけて護良を呼び出し、武士に命じて捕らえさせ、馬場殿(ばばどの)に幽閉し、その側近三十余人を処刑した(注:『梅松論』によれば、天皇が尊氏を除こうとして、護良および楠木正成・名和長年に密旨を下したが、その時が来ると尊氏の兵が盛んであると聞いて中止した。天皇はそこで北山に行幸したが、まもなく尊氏は護良が攻めてくると聞き、いっそう兵を集めて自ら備えるとともに、天皇に訴えた。天皇はやむを得ず、護良に罪を負わせたという。この記述は信用するに足りないので採らない)。護良は憂い憤ったが、自らの潔白を明らかにする術もなく、日頃親しくしていた宮人を頼って上書した。「臣は罪を負う身でありながら、無実の状を訴えます。涙は落ちて心は暗く、愁いが胸にこもって言葉も短くなりますが、ただ御恩情による御憐察を願うのみです。そもそも承久の変以来、武家が権力を執り、朝廷は政(まつりごと)を失っておりました。臣はこれを黙って見過ごすに忍びず、慈悲忍辱の法衣を脱ぎ捨て、怨敵を降す堅い甲冑を身にまといました。内には戒律を破る罪を犯し、外には恥知らずとの謗りを受けました。それでも君のために身を忘れ、賊とともに死力を尽くしました。あの時、朝廷に人材がいなかったわけではありませんが、あるいは志を励まさず、あるいはいたずらに時を待つばかりでした。臣はただ一人、武力の助けもなく兵を挙げて賊を討とうと謀りました。それゆえ賊徒は臣を首謀者と見なし、追捕の手を各所に及ぼし、万戸をもって懸賞をかけました。天下四海のうちに身を置く場所もありませんでした。昼は山谷に臥して苔を席とし、夜は村里を巡って霜を踏み、龍の髭を撫で、虎の尾を踏むような危険を冒し、ついに帷幄(いあく)の中で謀をめぐらし、鉄鉞(てつえつ)の下で賊を滅ぼし、龍駕(天皇)を再び都にお戻し申し上げ、御代を永く天に則らしめたのは、臣の忠功でなくして誰でありましょうか。それなのに今、功に対する賞はまだ論じられず、罪の責めばかりが突然下されました。伏して罪状を聞きますに、そのすべてが根も葉もない虚言でございます。どうして取り調べを受けることさえできないのでしょうか。天を仰いで訴えても、日月は不孝の子を照らさず、地に伏して哭いても、山川は無礼の臣を載せません。父子の情義は絶え、天地はともに私を見捨てました。もし綸旨をいただき、死刑をお許しいただけるならば、永く皇族の名を削り、速やかに出家の身に戻りとうございます。申生(しんせい)が死んで晋(しん)の国が乱れ、扶蘇(ふそ)が刑death死んで秦(しん)の世が傾いたように、じわじわと浸み込む讒言や、肌に受けるような誹謗は、小さなことから起こって大きな禍に及びます。天よ、どうして昔の例に照らして今を鑑みてくださらないのでしょうか。堪えがたい嘆きを抑えきれず、伏してこの奏達をいたします」。しかし役人たちは内外を憚って、これを奏上しなかった。ついに詔により護良は鎌倉へ流されることとなった(注:年次は『元弘日記裏書』による。本書では建武二年としている)。尊氏の弟・直義(ただよし)は兵を遣わして護良を迎え、鎌倉に着くと二階堂谷(にかいどうがやつ)に土牢を掘って幽閉した。建武二年秋、北条時行(ほうじょうときゆき)が兵を挙げて鎌倉を攻めると、直義は逃走した。その際、淵辺義博(ふちのべよしひろ)に言った。「親王は我が家の深い仇敵である。そなたが行って始末せよ」。義博はそこで土牢に赴いた。牢の中は暗く、護良はちょうど灯りを照らして仏経を読んでいたが、義博が来たのを見ると、はっと奮い立って「そなたは私を殺そうというのか」と言い、その刀を奪おうと進み出た。義博は膝を斬りつけて倒し、喉を斬ろうとした。護良は首をすくめて刀に噛みつき、切先を一寸ほど折ったが、義博はさらに脇差を抜いて二度心臓を刺し、ついに殺害された。享年二十八であった(注:『天台座主記』の嘉暦二年に十二歳とある記述から逆算した)。義博はその首を持ち帰り、直義に見せようとしたが、その顔は生きているかのようで、なお刀の切先を口に含んでいた。義博は不気味に思って首を捨てて去った。侍女がこれを捜し求め、竹藪の中で見つけたが、その目はなお閉じていなかった。そこで遺骸を収めて火葬にし、遺骨を持ち帰った。天下の人々はこれを聞いて冤罪を悼んだ(注:『太平記』による。遺骸を火葬し遺骨を持ち帰ったことは天正本による)。子に陸良(むつよし)がいた。
陸良
¶陸良(むつよし)は、母が源親房(みなもとのちかふさ、北畠親房)の妹である(注:『太平記』『保暦間記』による。「陸良」の名は『細々要記』による。古本『帝王系図』は「興良」と記す)。幼くして勇猛な気概を持っていた(注:『太平記』による)。後醍醐天皇の子として養われ、親王となった(注:『阿蘇社文書』による)。後村上天皇が即位すると、征夷大将軍に任じられた(注:『太平記』による)。興国二年(1341年)夏、親房が常陸(ひたち)に迎えて鎮守させた(注:『阿蘇社文書』による)。親房の軍が敗れると、行在所に戻った。正平六年(1351年)、赤松則祐(あかまつそくゆう)が朝廷に帰順し、陸良を主将として仰ぎたいと請うたので、これを許した。陸良は播磨(はりま)へ赴いたが、則祐は再び叛き、陸良を都に拘留した(注:三刀屋文書によれば、この年二月、和田正武(わだまさたけ)が常陸親王の令旨をもって兵を集めたとある。常陸親王とはおそらく陸良のことであろう)。その後、但馬(たじま)の人が陸良を奪い返し、丹波(たんば)の高山寺城(こうさんじじょう)に入れた。本荘平太(ほんじょうへいた)・本荘平三(ほんじょうへいざ)がこれを奉じ、但馬・丹波をほぼ平定して播磨まで進み、則祐と胄山(かぶとやま)で戦った。平太・平三は戦死し、陸良は河内(かわち)へ逃れた。その後、諸将がしばしば陸良を主将に奉じたいと願い出たが、天皇はその武才を惜しんで、いずれも許さなかった。正平十五年(1360年)、敵が大挙して攻め込み、藤原隆俊(ふじわらのたかとし)が戦いに敗れ、朝廷は震え恐れた。陸良は兵を率いて自ら功を立てたいと奏上し、天皇は赤松氏範(あかまつうじのり)と吉野十八郷の兵を配した。陸良は兵を得ると、志が変わり気が驕り、戦乱に乗じて十八郷を併呑しようと図り、密かに使者を送って足利義詮(あしかがよしあきら)と約定を結んだ。歩騎三千余を率いて銀嶺(ぎんね)に登り、賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)や郷士の邸宅を焼き払った。誰もその真意を測りかねたが、これは敵を欺くための奇計であった。しかしやがて謀反を告げる者が相次ぎ、天皇は前関白の師基(もろもと)に千余騎を率いさせてこれを討たせた。兵士たちはこれを見て、初めて陸良に謀反の意図があったことを知り、憤り怨んで散り散りになり、残った者はわずか五十余人であった。氏範は傷を負って逃げた。陸良は奈良へ逃れたが(注:『太平記』による)、その後の消息は分からない。
静尊法親王
¶静尊法親王(じょうそんほっしんのう)は(注:異本『皇胤紹運録』は「静坐聖」と記す)、聖護院(しょうごいん)に住んだ(注:皇胤紹運録・『諸門跡譜』による)。
宗良親王
¶宗良親王(むねよししんのう)は、十余歳の時に出家し、名を尊澄(そんちょう)といった(注:『太平記』による)。妙法院(みょうほういん)に住み、三品に叙され、天台座主(てんだいざす)となった(注:『天台座主記』による)。天皇が北条氏を滅ぼそうとした際、尊澄は兄の尊雲(そんうん、後の護良親王)とともに謀をめぐらしたが、事を起こす前に発覚した。元弘元年(1331年)八月、天皇が笠置(かさぎ)へ行幸すると、尊澄は尊雲とともに僧兵を集め、佐々木時信(ささきときのぶ)と辛崎浜(からさきはま)で戦い、これを撃退した(注:『太平記』『増鏡』による)。しかしまもなく僧の豪誉(ごうよ)が背き、尊澄の執事である澄俊(ちょうしゅん)を捕らえて六波羅(ろくはら)に送った。僧都の猷全(ゆうぜん)は門徒の中でも最も裕福な者であったが、その配下を率いて賊に降った。尊澄は支えきれず、石山(いしやま)を経て笠置へ逃れた(注:『太平記』による)。城が陥落すると捕らえられ、長井高広(ながいたかひろ)の家に拘留された。元弘二年、讃岐(さぬき)の託間(たくま)に流された(注:『増鏡』『太平記』による)。元弘三年、乱が平定されると、尊澄は四国の兵を率いて都に帰り、再び座主となった(注:『天台座主記』『太平記』による)。建武二年(1335年)、二品に叙された(注:釈家官班記による)。延元元年(1336年)、足利尊氏が都に迫ると、天皇は延暦寺へ行幸した(注:『太平記』による)。特に尊澄を一品に叙するよう命じ、僧徒を鼓舞した。座主が一品に叙されたのはこれが最初である(注:『天台座主記』釈家官班記による)。天皇は尊氏に欺かれて都に戻ったが、尊澄は遠江(とおとうみ)の井伊城(いいじょう)へ逃れた。延元三年(1338年)春、源顕家(みなもとのあきいえ、北畠顕家)とともに援軍として入った。顕家が戦死すると、尊澄は吉野へ逃れた(注:『太平記』による)。同年秋、勅命により再び井伊城へ赴き、東国の経略にあたった(注:『李花集』『神皇正統記』『太平記』による)。延元四年(1339年)、天皇が崩御し、後村上天皇が跡を継ぐと、遺勅を尊澄および諸将に伝え、時を逃さず攻め取るよう命じた(注:『太平記』による)。尊澄は髪を伸ばし、名を宗良(むねよし)と改め(注:『新葉和歌集』『李花集』による。宗良が還俗した年月は詳らかでないので、ひとまずここに記す)、上野親王(こうずけしんのう)、あるいは信濃宮(しなののみや)と称された(注:『太平記』による)。まもなく勅命により宗良は中務卿(なかつかさきょう)・征東将軍(せいとうしょうぐん)となった(注:『新葉和歌集』『李花集』による。本書はこの二つの官職の年月を記していないので、今ここに位置づける。『李花集』は「征東」を「征夷」と記すが、この時期は陸良が征夷将軍であったので、おそらく誤りであろう)。興国元年(1340年)、高師泰(こうのもろやす)が井伊城を陥落させると、宗良は残った兵を集めて再び井伊に拠ったが、再び師泰に敗られ(注:あわせて『保暦間記』『鶴岡社務記』も参照した)、越後(えちご)へ逃れた(注:『李花集』による)。その後、駿河(するが)に移り、信濃(しなの)に転じ、甲斐(かい)・美濃(みの)・越中(えっちゅう)・越後の間を往来し、流浪して身を潜め、あらゆる艱難を嘗め尽くした。三河(みかわ)の人・足助重春(あすけしげはる)、信濃の人・香取高宗(かとりたかむね)、駿河の人・狩野介貞長(かのすけさだなが)、遠江の井伊介某(いいのすけなにがし)らが心を尽くして彼のために働いた(注:『新葉和歌集』『李花集』による)。正平七年(1352年)、足利義詮(あしかがよしあきら)が和議を求めてきたので、天皇は偽ってこれを許し、不意を襲おうとした。新田義興(にったよしおき)・義宗(よしむね)に兵を発するよう命じ、鎌倉の尊氏を攻めさせた(注:『太平記』による)。宗良は武蔵野(むさしの)に軍を進め、兵を励まして歌を詠んだ。「君が為 世の為何か 惜しからむ 捨てて甲斐有る 命也せば」(注:『新葉和歌集』『李花集』による)。しかしまもなく義宗らは敵との戦いに利を失い、退いて笛吹峠(ふえふきとうげ)を守った。宗良はさらに大井田氏経(おおいだうじつね)・上杉憲顕(うえすぎのりあき)ら二万余人を率いてこれを助けたが、官軍は敗れ、義宗は越後へ逃れた。この時、天皇は石清水(いわしみず)に留まっており、義詮は急いでこれを攻めた。詔により東北の諸将に来援を命じ、宗良は神家(じんけ)・滋野(しげの)・上杉らの諸軍を率いて上ったが、着く前に城は陥落した(注:『太平記』による)。正平十五年(1360年)、天皇は住吉(すみよし)におられ、宗良に兵を発して駆けつけるよう詔した。しかし信濃は早くから寒く、木曽路(きそじ)は氷雪に閉ざされて人馬とも通行が難しく、出兵できなかった。天皇は和歌を賜ってこれを促したが、結局実現しなかった(注:『新葉和歌集』『李花集』による)。長慶天皇の代以後、国勢は衰え、詔命も行われなくなった。宗良の苦境はますます深まった。文中三年(1374年)、吉野に詣でた。天授三年(1377年)にも同様に信濃へ赴こうとしたが、これも実現しなかった。ついに長谷寺(はせでら)に入り、再び僧となった。その後信濃へ赴き、後に河内(かわち)の山田(やまだ)に寓居した。宗良はかつて『新葉和歌集(しんようわかしゅう)』を撰し、後亀山天皇の勅により准勅撰とされた。弘和元年(1381年)十二月、これを改めて撰上した時、齢七十であった。その後の消息は分からない(注:『鎌倉大草子』によれば、弘和年間、信濃国の人々が叛き、宮および新田氏の一族はことごとく浪合(なみあい)で死んだという。この「宮」は宗良ではないかと疑われるが、確かな証拠はない)。一子の興良(おきよし)は先に亡くなった(注:『新葉和歌集』による。「興良」の名は『細々要記』による)。
恒良皇太子
¶皇太子恒良(つねよし)は、初め親王であった。元弘元年(1331年)、天皇が六波羅に幽閉された際、恒良はようやく八歳であった。賊はその幼さゆえに、藤原宣明(ふじわらののぶあきら)の邸に住まわせた。恒良は日夜父を慕い、宣明に「父上は白河郷(しらかわごう)におられると聞く。どうして一度私を連れて行ってお目にかからせてくれないのか」と尋ねた。宣明ははらはらと涙を流し、僧能因(のういん)の歌を挙げて答えた。「白河は陸奥にあり、その地には関があって人を阻みます。どうしてたやすく行けましょうか」。恒良はすぐに藤原雅経(ふじわらのまさつね)・津守国夏(つもりのくになつ)の歌を口ずさんで言った。「都にも白河という所がある。名は同じでも場所は違うではないか。そなたは私を欺こうというのか」。それきり何も言わなくなった。ある時、門にもたれて夕暮れの鐘を聞き、こう詠んだ。「つくづくと 眺め暮らして 入逢の 鐘音にも 君ぞ戀しき」(注:「鐘音」は「鐘を聞く」とする本もある)。この時、都では八歳の宮のこの歌が盛んに語り伝えられ、聞く者で涙しない者はいなかった(注:『太平記』『増鏡』による。『太平記』の八歳の宮が歌を詠んだ条では「第九宮」とあって名を記さず、宣胤記(のぶたねき)は『太平記』を引いて「第四宮」とする。『増鏡』では内侍准后(ないしじゅごう、藤原廉子)の生んだ皇子はみな幼くして都に留まっており、その中で八歳の者を長子としている。そこに詠まれた歌は『太平記』と同じである。しかし『歴代皇紀』『神皇正統記』『太平記』および異本『太平記』では、恒良・成良・義良(のりよし)はみな准后の生んだ子で、天皇の子の順で言えば第六が恒良、第七が成良、第八が義良である。この歌を詠んだのは恒良であることに疑いはない。「第九宮」「第四宮」とするのは誤りである)。北条高時は恒良を但馬(たじま)に移し、守護の太田守延(おおたもりのぶ)の家に幽閉した(注:本書の笠置幽閉の条には「第四宮を但馬に流す」とあり、忠顕(ただあき)の京都合戦の条には「第六宮を但馬に流す」とあって、前後が食い違っている。今は『神皇正統記』が記す兄弟の順序に従う)。元弘三年(1333年)、守延は恒良を奉じて挙兵し、源忠顕(みなもとのただあき)と丹波(たんば)の篠村(しのむら)で合流し、忠顕は恒良を上将軍として奉じた。令を下して兵を集め、六波羅を攻めたが利あらず、男山(おとこやま)へ退いた(注:『太平記』による)。この経緯は忠顕の伝に詳しい。建武元年(1334年)、皇太子に立てられた(注:『歴代皇紀』による)。
¶延元元年(1336年)、天皇は延暦寺から都に戻り、恒良を越前(えちぜん)へ赴かせて北国の経略にあたらせた。新田義貞(にったよしさだ)が全軍を統率し、金崎城(かねがさきじょう)に拠った。しかし兵糧の補給が続かず、敵の勢いは日ごとに激しくなったので、人々は義貞に杣山(そまやま)へ赴いて兵を集め、後援とするよう勧めた。杣山に着く前に城は陥落し、恒良は捕らえられた。足利高経(あしかがたかつね)が首級を検分すると、そこにあったのは新田義顕(にったよしあき)・里見義氏(さとみよしうじ)の首だけであった。高経は恒良に義貞・義助らの生死を尋ねた。恒良は「もし本当のことを告げれば、彼らは急いで杣山を攻めるだろう」と考え、こう偽って答えた。「昨日の夕暮れ、義貞兄弟は自害し、従者が陣中でその遺骸を焼いたと聞いている」。高経はこれを信じ、杣山には強敵がいないので、彼らが自ら降伏してくるだろうと考え、わざわざ兵を労する必要はないとして、兵士に恒良を都まで護送させた。まもなく成良親王(なりよししんのう)とともに一室に幽閉された。延元三年(1338年)春、義貞・義助が杣山を出て、次々と城を落とし、兵勢は大いに振るった。足利尊氏は弟の直義(ただよし)とともに激怒して言った。「これは東宮(恒良)の言葉を信じて、杣山への攻撃を緩めたためである」。そこで粟飯原氏光(あいはらうじみつ)に命じて毒を盛らせようとした。氏光は薬を持って参上し、「幽閉されたお暮らしでは気鬱の病を生じるかと存じます」と言った。直義は臣下に薬を献上させ、一包みを残して帰らせた。成良は「まだ病んでもいないのに薬を勧めるのは、我らを大切に思ってのことだろう。しかし人を愛しながら一室に幽閉し、日夜憂え悩ませるようなことがあろうか。これは必ず速やかに死をもたらす毒であって、病を治す薬ではない」と言い、庭に投げ捨てようとした。恒良は自らそれを手に取って言った。「尊氏・直義は生まれつき残虐な性質だ。たとえこの薬を飲まなくとも、死を免れる道理はない。一室に閉じ込められ、日の光も見られずにいるくらいなら、いっそ早く死んだほうがましだろう」。そして毎日経を誦し念仏を唱えながら薬を飲んだ。成良もまたこれを飲んだ。まもなく二人とも薨去した。時に恒良は十五歳であった(注:『太平記』による。年齢は元弘元年に八歳であったという記述から算出した。『元弘日記裏書』では恒良が皇太子になった時十三歳とあり、本書と異なる)。
成良親王
¶成良親王(なりよししんのう)は、元弘元年(1331年)、上野太守(こうずけたいしゅ)となった。足利直義(あしかがただよし)がこれを補佐し、鎌倉に出て鎮守した(注:『太平記』『保暦間記』による。上野太守は『神皇正統記』による)。建武元年(1334年)、征夷大将軍を拝命した(注:『神皇正統記』『職原抄』による)。建武二年、北条時行(ほうじょうときゆき)が鎌倉を襲うと、成良は直義とともに三河(みかわ)に留まり、大江時古(おおえのときひさ)が成良を奉じて都に帰った(注:『元弘日記裏書』による。直義が三河に留まったことは『太平記』による)。建武三年冬、足利尊氏が天皇を華山院(かざんいん)に幽閉すると、光厳院(こうごんいん)は成良を皇太子に立てた。しかし天皇が吉野へ行幸すると、成良は廃され(注:『歴代皇紀』『皇年代略記』による)、都に幽閉され、後に恒良とともに殺害された(注:『太平記』による)。
躬良親王
¶躬良親王(みよししんのう)は、建武元年(1334年)、仁和寺(にんなじ)の大聖院(だいしょういん)に入り、まもなく親王となった。延元三年(1338年)、出家して法名を法仁(ほうにん)といった。正平六年(1351年)、崇光院(すこういん)から直接二品を授けられ、綱所(こうしょ)を賜り、六勝寺検校(ろくしょうじけんぎょう)に補された。正平七年、薨去した。享年二十八であった(注:『仁和寺御伝』による。『諸門跡譜』は二十九歳とする)。
懐良親王
¶懐良親王(かねよししんのう)は、式部卿(しきぶきょう)であった(注:『新葉和歌集』による)。延元元年(1336年)、足利尊氏が皇居を犯すと、懐良は天皇の行幸に従って延暦寺へ赴いた。天皇が都に戻ると、懐良は吉野へ逃れて身を潜めた(注:『太平記』による)。延元三年(1338年)、征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じられ、筑紫(つくし)を鎮撫した(注:『阿蘇社文書』による。『元弘日記裏書』には「牧宮(まきのみや)が義良親王(のりよししんのう)に従って陸奥(むつ)へ赴く途中、船が漂流して四国に至ったので、鎮西へ赴くよう詔があった」とある。牧宮とはおそらく懐良親王のことであろう。『島津文書』もまた懐良を「四国宮(しこくのみや)」と呼んでいる)。延元四年(1339年)、後村上天皇が即位し、遺詔を頒って「力を尽くして回復を図れ」と命じた(注:『太平記』による)。菊池武光(きくちたけみつ)がこれを八代城(やつしろじょう)に迎え入れ、心を尽くして補佐した(注:『菊池武朝申状』による)。興国三年(1342年)、懐良は兵を率いて薩摩(さつま)の島津貞久(しまづさだひさ)を討ち(注:『島津文書』『阿蘇社文書』による)、谷山(たにやま)で貞久と戦ってこれを破り、敵の多くが降伏した(注:『阿蘇社文書』による)。貞久は退いて千台(せんだい)に籠った(注:『島津文書』『阿蘇社文書』による)。懐良は谷山に進んで拠り、兵を分けて諸城を攻略し、貞久と対峙した。正平二年(1347年)、肥後(ひご)に戻り、別将を残して薩摩の官軍を統率させた(注:『阿蘇社文書』による)。まもなく武光とともに一色範氏(いっしきのりうじ)を攻めてこれを敗走させ、筑前(ちくぜん)に陣を進めた。大友氏時(おおともうじとき)・少弐頼尚(しょうによりひさ)が降伏し、鎮西(ちんぜい)がほぼ平定されると(注:『菊池武朝申状』による)、一品に叙された(注:『後醍院系図』による)。正平七年、天皇が男山(おとこやま)へ行幸し、詔により懐良に兵を発して来援するよう命じたが、懐良は結局赴かなかった(注:『阿蘇社文書』による)。正平十三年、足利尊氏がその将である一色直氏(いっしきなおうじ)を遣わして筑紫探題(つくしたんだい)とすると、武光がこれを撃退した。頼尚がまもなく叛いて足利義詮(あしかがよしあきら)に応じた。武光は懐良を奉じてこれを討ち、大原(おおはら)で戦った。懐良は自ら軍を率いて敵陣に突入し、身に数か所の傷を受け、左右の多くの者が死んだ。武光は決死の覚悟で戦い、ついにこれを打ち破り、三千二百余の首級を挙げた(注:『太平記』による)。その後、消息は分からない。世に鎮西宮(ちんぜいのみや)(注:『園太暦』による)、あるいは九州宮(きゅうしゅうのみや)(注:『李花集』による)、阿蘇宮(あそのみや)(注:『皇胤紹運録』『太平記』による)、肥後宮(ひごのみや)(注:『島津文書』による)と称された。伝えるところによれば、懐良は八代郡(やつしろぐん)の小野(おの)に隠棲し、亡くなるとそこに葬られたという。菊池武重(きくちたけしげ)の娘を娶り、男爵松丸(だんしゃくまつまる)をもうけ、後に良宗(よしむね)と名乗った。その子孫は連綿と続き、今に存している(注:『後醍院系図』による。『菊池武朝申状』には「将軍宮(しょうぐんのみや)が正平の勅裁を受け、故大王の代官となった」とある。大王とは懐良のことであり、将軍宮が誰であるかは詳らかでないが、おそらく良宗のことであろう)。
僧尊真
¶僧尊真(そんしん)は、醍醐宮(だいごのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』による)。
聖助法親王
¶聖助法親王(しょうじょほっしんのう)は、聖護院(しょうごいん)に住み、世を遁れた(注:『諸門跡譜』『皇胤紹運録』による)。その後の消息は分からない。
玄円法親王
¶玄円法親王(げんえんほっしんのう)は、一乗院(いちじょういん)に住み、興福寺(こうふくじ)の別当(べっとう)となった(注:『諸門跡譜』『皇胤紹運録』による)。
僧恒性
¶恒性(こうしょう)は、大覚寺(だいかくじ)に住んだ。元弘三年(1333年)、北条高時によって越中(えっちゅう)に移され、そこで殺害された(注:『諸門跡譜』『皇胤紹運録』による。『紹運録』は延慶三年とし、『諸門跡譜』は元応二年とするが、今はその事跡から年次を推定して定めた)。
僧元選
¶元選(げんせん)は、字を無文(むもん)といった。元徳三年(1331年)、出家した。後に元(げん、中国)に渡り、福州(ふくしゅう)の高仰山(こうぎょうざん)の僧・梅友(ばいゆう)の法を嗣ぎ、帰国して遠江(とおとうみ)の奥山(おくやま)に住み、方広寺(ほうこうじ)を開いた。元中六年(1389年)閏三月、亡くなった。享年六十八であった(注:あわせて『無文禅師行状』『高僧伝』を参照した)。
満良親王
¶満良親王(みつよししんのう)。
【後村上】六子
¶後村上天皇には八人の皇子がいた。女御藤原氏(にょうごふじわらし)は後亀山天皇(ごかめやまてんのう)を生んだ。宮人の教子(のりこ)は世泰親王(よよししんのう)を生んだ(注:『新葉和歌集』による)。長慶天皇(ちょうけいてんのう)、第三子の惟成親王(これなりしんのう)、第四子の皇太弟泰成(やすなり)、第五子の説成親王(ときなりしんのう)、第六子の良成(よしなり)、第七子の泰邦親王(やすくにしんのう)は、いずれも生んだ母が詳らかでない(注:古本『帝王系図』による。『新葉和歌集』には兵部卿師成親王(もろなりしんのう)、上野太守懐成親王(かねなりしんのう)の名が見える。多々良氏(たたらし)の『李花集』の跋文にも「先師兵部卿師成親王、出家して恵梵(えぼん)と号す」とある。おそらくこの二人もともに天皇の子であろうが、今は考証する術がない。『日本国史略』によれば、長慶天皇の諱(いみな)は寛成(ゆたなり)で、後村上天皇の第一子である。母は嘉喜門院勝子(かきもんいんかつこ)で、藤原経忠(ふじわらのつねただ)の娘であるという)。
世泰親王
¶世泰親王(よよししんのう)は、先の天皇が薨去すると、如意輪寺(にょいりんじ)に葬られ、天皇はこれを悲しんで和歌を詠んだ(注:『新葉和歌集』による)。
惟成親王
¶惟成親王(これなりしんのう)は、式部卿(しきぶきょう)に任じられ、剃髪して梅陰祐常(ばいいんゆうじょう)と号した(注:古本『帝王系図』による。式部卿は『新葉和歌集』による。本書では中務卿とする)。
泰成皇太弟
¶皇太弟泰成(やすなり)は、正平十五年(1360年)、住吉(すみよし)の行宮(あんぐう)で生まれた(注:『新葉和歌集』による)。親王となり、太宰帥(だざいのそち)に任じられた(注:『新葉和歌集』古本『帝王系図』による)。後亀山天皇が即位すると、皇太弟となった(注:古本『帝王系図』による)。
説成親王
¶説成親王(ときなりしんのう)は、上野太守(こうずけたいしゅ)に任じられ(注:古本『帝王系図』による)、五常院宮(ごじょういんのみや)と称された。子に僧の円悟(えんご)・円胤(えんいん)がおり、ともに円満院(えんまんいん)に住んだ。円胤は大僧正(だいそうじょう)に任じられたが(注:『諸門跡譜』による)、文安四年(1447年)十二月、還俗して兵を挙げ、名を義有(よしあり)と改めた(注:改名は薩戒記による)。紀伊(きい)で畠山持国(はたけやまもちくに)を攻めたが、戦死した(注:『諸門跡譜』『康富記』『鎌倉大日記』による。「持国」は畠山系図による)。世に円満院、還俗宮(げんぞくのみや)と称された(注:『諸門跡譜』『鎌倉大日記』による。古本『帝王系図』は円胤を泰成の子とするが、『康富記』を調べると、あるいは上野宮の一族、あるいは護性院(ごしょういん)の一族とある。護性院は五常院のことであるから、円胤が説成の子であることは明らかである)。
良成
¶良成親王(よしなりしんのう)は、鎮西宮(ちんぜいのみや)と称された(注:古本『帝王系図』による)。
泰邦親王
¶泰邦親王(やすくにしんのう)は、大宰帥(だざいのそち)であった(注:『新葉和歌集』による)。帥宮(そちのみや)と称された(注:古本『帝王系図』による)。
【長慶】一子
¶長慶天皇には一人の皇子がいた。尊聖(そんしょう)で、生母は詳らかでない。
僧尊聖
¶尊聖(そんしょう)は、勧修寺(かじゅうじ)に住み、大僧正に任じられ、安祥寺(あんしょうじ)の寺務を兼ねた(注:古本『帝王系図』『諸門跡譜』による)。永享四年(1432年)七月、薨去した(注:『東寺過去帳』による)。
【後亀山】一子
¶後亀山天皇には一人の皇子がいた。小倉(おぐら)で、生母は分からない(注:『新葉和歌集』に、前大納言有光(ありみつ)が今上帝の第二皇子のために乳母を求める文がある。これから見ると、天皇の子はこれだけではないようだが、今は考証する術がない)。
皇子某
¶皇子某(なにがし)は、小倉(おぐら)と称され、天皇に従って嵯峨(さが)に住んだ。正長元年(1428年)夏、称光天皇(しょうこうてんのう)が病に伏し、後継がまだ定まらなかった際、小倉は自分の子を皇位に就けようと考え、秋に密かに伊勢(いせ)へ逃れた(注:『椿葉記』による)。冬、伊勢国司(いせのこくし)の大納言源満雅(みなもとのみつまさ)がこれを奉じて挙兵し、世保持頼(よやすもちより)と戦って敗死した(注:『北畠系図』による。『椿葉記』は「土岐与安(ときのよやす)」と記すが、「世保」と「与安」は読みが同じである)。小倉は降伏して嵯峨に戻った。子の教尊(きょうそん)は勧修寺(かじゅうじ)に入って僧となった(注:『椿葉記』による)。権僧正(ごんのそうじょう)に任じられ、安祥寺の寺務を兼ねた(注:『諸門跡譜』による)。
【後小松】二子
¶後小松天皇(ごこまつてんのう)には三人の皇子がいた。宮人の藤原資子(ふじわらのすけこ)は、称光天皇と第三子の皇子某を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。藤原氏は第二子の僧宗純(そうじゅん)を生んだ(注:『一休年譜行実』による)。
皇子某
¶皇子某(なにがし)は、龍樹寺宮(りゅうじゅじのみや)と称され、二品に叙され、親王となった(注:『皇胤紹運録』による)。中納言藤原経興(ふじわらのつねおき)の小川邸(おがわてい)に住んだので、また小川宮(おがわのみや)とも称された(注:『薩戒記』による)。応永三十二年(1425年)二月、薨去した(注:『花営三代記』『薩戒記』による)。享年二十二であった。これより先、日吉社(ひよししゃ)の竹が枯れ、また祠の前で首のない死んだ猿が見つかった。親王は甲申(きのえさる)の年に生まれ、また竹園(ちくえん、皇族)の称にも通じるところがあったので、当時の人々はこれを不吉な前兆と噂した(注:『薩戒記』による)。
僧宗純
¶宗純(そうじゅん)は、母の藤原氏が讒言に遭って宮中を追われた際、すでに身ごもっていた。応永元年(1394年)正月、民家で宗純を生んだ。生まれつき聡明であった(注:『一休年譜』による。菅原和長(すがわらのかずなが)の明応三年の日記にも天皇の子とあり、本書の記述を裏付けている。参考として付け加えておく)。六歳で安国寺(あんこくじ)に入って使い走りの小僧となり、周建(しゅうけん)と名乗った(注:『一休年譜』による)。後に近江(おうみ)の堅田(かただ)にある祥瑞庵(しょうずいあん)の僧・宗曇(そうどん)に師事してその法を受け継ぎ、今の名に改めて一休(いっきゅう)と号した(注:『一休年譜行実』による)。天皇は譲位した後も、常に宗純を宮中に召して仏道を問い禅を語り合い、ことのほか彼を寵愛した。称光天皇が重篤となり後継がまだ定まらなかった際、彦仁親王(ひこひとしんのう)が伏見(ふしみ)の邸におられたので、宗純は密かに天皇に「この方を跡継ぎとするのがよろしいでしょう」と奏上した(注:『一休年譜』による)。そして和歌を詠んで奉った。「常磐木や 木寺の梢 摘み棄てよ 代を繼ぐ竹の 園の伏見に」(荒木氏所蔵の真蹟色紙による)。こうして皇嗣が定まり、これが後花園天皇(ごはなぞのてんのう)である。文明六年(1474年)、勅命により大徳寺(だいとくじ)に住した。文明十三年十一月、亡くなった。享年八十八であった(注:『一休年譜行実』による)。その像は真珠庵(しんじゅあん)および酬恩庵(しゅうおんあん)に安置された。著書に『狂雲集(きょううんしゅう)』があり、今に伝わる。宗純は心が快活で、諧謔をもって戯れ、物と我とを忘れ、貴賤を分け隔てなく見て、慈悲の心を持ち、求められればすぐに施しを与えた。子供たちには親しまれ、烏や雀までも彼になついてついばんだという。かつて和泉(いずみ)の堺(さかい)の浦に住んでいた頃、街に出るたびに木刀を一振り携えていた。これを尋ねる者があると、こう答えた。「世の中のいわゆる知識人というものは、この木刀のようなものだ。鞘に納めていれば本物らしく見えるが、抜けばただの木片にすぎない。人を殺すことさえできないのだから、まして人を活かすことなどできようか」。その弟子たちはこれを語り伝え、木刀を像の傍らに描いた。後小松天皇が崩御する間際、宗純は宮中に参内して対面した。天皇は大いに喜び、自ら先帝の書かれた貴重な墨跡や聖人の書いた飛白(ひはく)の書を数帖賜った。宗純は生涯物を蓄えることがなかったが、この数帖の書だけは、どこへ行くにも常に身につけていた(注:『一休年譜』による)。子に僧がいた。名を紹偵(しょうてい)といい、岐翁(ぎおう)と号し、摂津(せっつ)の桜塚(さくらづか)に住んだという(注:菅原和長の明応三年の日記による)。
¶附 北朝皇子
【光厳】二子
¶光厳天皇(こうごんてんのう)には四人の皇子がいた。陽禄門院(ようろくもんいん)は崇光天皇(すこうてんのう)と後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)。後に対御方藤原氏(たいのおんかたふじわらし)は第三子の義仁法親王(ぎにんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。第四子の尊敦親王(そんとんしんのう)は生母を失っている(注:『諸門跡譜』『仁和寺御伝』による)。
義仁法親王
¶義仁法親王(ぎにんほっしんのう)は、栂尾(とがのお)に住み、二品に叙された。箏曲(そうきょく)に巧みで、正親町宮(おおぎまちのみや)と称された(注:『皇胤紹運録』一本『紹運録』による)。
尊敦親王
¶尊敦親王(そんとんしんのう)は、初め権中納言藤原資兼(ふじわらのすけかね)に養育された(注:『後愚昧記』による)。文和四年(1355年)、親王となった。まもなく寛性法親王(かんしょうほっしんのう)を師として出家し、名を恵仁(えにん)、また尊朝(そんちょう)と改め、仁和寺(にんなじ)に住んだ(注:『仁和寺御伝』による)。永和四年(1378年)七月、薨去した。享年二十五であった(注:『諸門跡譜』『仁和寺御伝』による)。
【光明】一子
¶光明天皇(こうみょうてんのう)には一人の皇子がいた。周尊(しゅうそん)で、生母を失い、事績も詳らかでない(注:『皇胤紹運録』による。崇光天皇の皇太子直仁(なおひと)の子に周高(しゅうこう)という僧があり、これと似ているので、あるいは同一人物ではないかと思われる)。
周尊
¶崇光天皇(すこうてんのう)には三人の皇子がいた。典侍の源氏(みなもとし)は第一子の栄仁親王(よしひとしんのう)を生んだ。第二子の弘助法親王(こうじょほっしんのう)(注:『皇胤紹運録』『椿葉記』による)、第三子の興信法親王(こうしんほっしんのう)は、ともに生母を失っている(注:『諸門跡譜』による。本書は何番目の子か記していないが、他の書にもその他の子の記載がないので、今は第三子と定めた)。
【崇光】三子
¶栄仁親王(よしひとしんのう)は、剃髪して名を通智(つうち)と改め、伏見殿(ふしみどの)に住んだ(注:『皇胤紹運録』『椿葉記』による。崇光天皇が崩御した際、栄仁は家の嫡子として皇位を継ぐべき立場にあったが、志を遂げられなかった。おそらく崇光天皇に従って吉野に入ったため、皇位に就けなかったのであろう。また『近代帝系』の記載によれば、栄仁が薨去した時に六十八歳であったという記述から逆算すると、後光厳天皇の即位時に栄仁はわずか四歳であり、後光厳天皇自身は十五歳であった。おそらく足利尊氏は天下が乱れることを恐れ、年長の君を立てるのが有利と考えて後光厳天皇を立てたのであろうが、これも確かなことは分からない。今はひとまずここに付け加えておく)。かつて後深草天皇(ごふかくさてんのう)が譲位した際、嵯峨天皇(さがてんのう、亀山天皇の誤りか)の勅により、長講堂領(ちょうこうどうりょう)百八十か所、および法金剛院領(ほうこんごういんりょう)、摂津(せっつ)、住吉(すみよし)、尾張(おわり)上下の熱田社(あつたしゃ)の封戸(ふこ)、その他若干の別納地、播磨国衙(はりまこくが)およびその別納十か所を、その所領として与えた。伏見天皇(ふしみてんのう)が即位すると、自らこれを併せ領した。それが光厳天皇に伝わり、光厳天皇はこれを光明天皇(こうみょうてんのう)に伝え、光明天皇は崇光天皇に伝えさせ、崇光天皇は遺命書を作って、後光厳天皇に付して言った。「栄仁君がもし皇位に就くことがあれば、長講堂領および法金剛院領を彼に授けるべきである。もしそうならなければ、弥仁(いやひと、後光厳天皇)の在位中はこれを領有してよいが、いずれは栄仁の家に返すべきである。たとえ後世に両統迭立(りょうとうてつりつ)のようなことが再び起こったとしても、栄仁の子孫でない者にこれを領有させてはならない」。またこう言った。「後堀河天皇の皇女・室町院(むろまちいん)の遺した所領は、今、皇太弟直仁(なおひと)の食邑となっているが、直仁が没した後は栄仁に帰すべきである」。またこう言った。「伏見殿の地は名目上長講堂領に含まれているが、代々の嫡流が専有してきた土地であるから、特に栄仁に帰すべきである」。後光厳天皇が譲位して後継を議する際、天皇は栄仁を立てて所領をすべて伝えようと考え、人を遣わして足利義満(あしかがよしみつ)とその執事細川頼之(ほそかわよりゆき)に意向を伝えた。頼之はこれをひどく難しいこととし、「これは陛下御自身の家のことですから、ご自分でお決めになるべきです」と答えた。天皇はさらに人を遣わして「承久の変以来、譲位のことは必ず武家の手で決められてきた。今日の私の懇請を、よそごとと見過ごさないでほしい」と伝えた。しかし頼之は密かに後光厳天皇の依頼を受け入れ、後円融天皇(ごえんゆうてんのう)を立てようと図り、偽って議論に加わらないふりをした。そして後円融天皇がついに即位した。天皇(後光厳)はこれにより崇光天皇と不仲になり、臣下たちもそれぞれ党派を組んで従った。天皇が崩御すると、後小松天皇(ごこまつてんのう)は長講堂領およびその他の封戸をすべて収めた。栄仁が得たのは、わずかに伏見の邑だけであった。栄仁は鬱々として楽しまず、世を遁れる決意をした。まもなく直仁が薨去したので、栄仁はその遺領を得ようとし、光厳天皇の遺書を掲げて、左大臣足利義満に道理を訴えた。義満はこれを後小松天皇に奏上し、直仁の遺領七か所と播磨国衙および別納地を栄仁に与えることとしたが、別納十か所は依然として後光厳天皇の系統が領有した。後小松天皇はこれを許したものの、結局与えられなかった。栄仁が得たものは名ばかりで実がなかった。義満はさらに伏見殿の地を取り上げて自分の隠居所とし、栄仁を萩原殿(はぎわらどの)に移らせた。義満が薨去すると、栄仁は再び光厳天皇の遺書を掲げて、内大臣足利義持(あしかがよしもち)、管領斯波義重(しばよししげ)に、その地を返してもらい元の所に戻りたいと願い出た。しかし萩原殿もまた直仁の子である僧周高(しゅうこう)が義持に願い出て、寺として寄進されてしまった。栄仁の家には代々伝わる名笛「柯亭(かてい)」があり、天下の名器として、古来朝廷の大礼や清暑堂(せいしょどう)の神楽奏楽の際にのみ用いられていた。後小松天皇が譲位した後、栄仁は老いて病を得ており、子孫が直仁の遺領を保てなくなることを恐れて、この笛を天皇に献上し、その土地を代々受け継げるよう願い出た。天皇は喜んでこれを許した。応永二十三年(1416年)十一月、栄仁は薨去した(注:『椿葉記』による。あわせて『増鏡』も参照した)。栄仁は自ら遺書を作り、若干の封戸を大光明寺(だいこうみょうじ)に寄進して塔頭(たっちゅう)を建立させ、これを大通院(だいつういん)と名づけ、また自らの号ともした。かつて有栖川(ありすがわ)に住んでいたことから、また有栖川宮(ありすがわのみや)とも称された(注:『皇胤紹運録』『椿葉記』による)。称光天皇が崩御して後継がないと、後小松天皇は栄仁の孫を養って即位させた。これが後花園天皇(ごはなぞのてんのう)である。これにより長講堂領・法金剛院領がその所領となり、熱田社の封戸もついに伏見殿に帰し、栄仁の子孫はこれを併せ領することができた。すべて光厳天皇の遺志の通りとなったのである(注:『椿葉記』による)。子に貞成親王(さだふさしんのう)がおり、後崇光院(ごすこういん)と号した。次に治仁王(はるひとおう)がいた(注:『皇胤紹運録』『椿葉記』による)。
榮仁親王
¶弘助法親王(こうじょほっしんのう)は、相応院(そうおういん)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。
弘助法親王
¶興信法親王(こうしんほっしんのう)は、勧修寺(かじゅうじ)に住み、安祥寺(あんしょうじ)を管掌した。早くに薨去した(注:『諸門跡譜』による)。
興信法親王
¶後光厳天皇(ごこうごんてんのう)には十五人の皇子がいた。崇賢門院(すうけんもんいん)は後円融天皇(ごえんゆうてんのう)(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)、第五子の熙永親王(ひろながしんのう)(注:『仁和寺御伝』一本『皇胤紹運録』による)、第六子の堯仁法親王(ぎょうにんほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』による)。内侍の橘氏(たちばなし)は第十子の明承法親王(みょうしょうほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』別記による。『天台座主記』は伯耆殿局(ほうきどののつぼね)の生んだ子とする)。右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)は第二子の亮仁法親王(りょうにんほっしんのう)、第八子の覚増法親王(かくぞうほっしんのう)を生んだ。伯耆殿局は第四子の覚叡法親王(かくえいほっしんのう)(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』による)、第七子の久尊親王(きゅうそんしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』による)。その第三子の行助法親王(ぎょうじょほっしんのう)、第九子の寛守法親王(かんしゅほっしんのう)、第十一子の聖助法親王(しょうじょほっしんのう)、第十二子の堯性法親王(ぎょうしょうほっしんのう)、第十三子の道寛法親王(どうかんほっしんのう)、第十四子の僧某、第十五子の僧某は、いずれも生母を失っている(注:『皇胤紹運録』による。『薩戒記』は堯仁を第三子とするが、おそらく誤りであろう)。
【後光厳】十四子
¶亮仁法親王(りょうにんほっしんのう)は、亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)について学び、妙法院(みょうほういん)に住んだ。応安三年(1370年)、薨去した。享年十六であった(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』『諸門跡譜』による。諸種の異本『太平記』には、亮性について妙法院に住んでいたが、佐々木秀綱(ささきひでつな)に殺害されたとある)。
亮仁法親王
¶行助法親王(ぎょうじょほっしんのう)は、初め名を熙平(ひろひら)といい、尊悟法親王(そんごほっしんのう)について仏法を学び、円満院(えんまんいん)に住み、二品に叙された(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。
行助法親王
¶覚叡法親王(かくえいほっしんのう)は、内大臣藤原実継(ふじわらのさねつぐ)に養育された(注:『後愚昧記』別記による)。応安六年(1373年)、梶井(かじい)に入って剃髪し、承胤法親王(じょういんほっしんのう)の弟子となり(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』『諸門跡譜』による)、天台座主に任じられた。永和三年(1377年)七月、薨去した。享年十七であった(注:『後愚昧記』別記による)。
覚叡法親王
¶熙永親王(ひろながしんのう)は(注:『皇胤紹運録』は「永」を「仁」に作るが、今は『仁和寺御伝』に従う)、初め権大納言藤原仲房(ふじわらのなかふさ)に養育された。応安五年(1372年)、親王となった(注:『後愚昧記』『仁和寺御伝』による)。まもなく出家して名を忠助(ちゅうじょ)、さらに永助(えいじょ)と改め、仁和寺(にんなじ)に住んだ(注:あわせて『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『仁和寺御伝』を参照した)。至徳年間(1384-87年)、直ちに二品に叙された(注:『仁和寺御伝』による)。応永十九年(1412年)、一品に進んだ(注:一本『紹運録』『薩戒記』『仁和寺御伝』による)。応永二十四年、牛車(ぎっしゃ)の使用を許された。永享九年(1437年)二月、薨去した。享年七十六であった。後常瑜伽院御室(ごじょうゆがいんのおむろ)と称された(注:『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による)。
熙永親王
¶堯仁法親王(ぎょうにんほっしんのう)は、権大納言藤原隆右(ふじわらのたかすけ)に養育された(注:『後愚昧記』による)。剃髪して僧の良憲(りょうけん)の弟子となり、妙法院に住んだ(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』『諸門跡譜』による)。至徳元年(1384年)、天台座主となった。至徳五年、その職を罷めた。応永十八年(1411年)、再びこれに任じられ、一品を授けられ(注:『薩戒記』『諸門跡譜』『天台座主記』による)、護持僧(ごじそう)となった。永享二年(1430年)四月、薨去した。享年六十八であった(注:『諸門跡譜』『薩戒記』による)。
堯仁法親王
¶久尊親王(きゅうそんしんのう)は、応安五年(1372年)、親王となり、尊道法親王(そんどうほっしんのう)について出家し、名を道円(どうえん)と改め、青蓮院(しょうれんいん)に住んだ(注:あわせて『皇胤紹運録』『後愚昧記』『後深心院関白記』を参照した)。永徳元年(1381年)、天台座主に任じられた(注:『天台座主記』による)。
久尊親王
¶覚増法親王(かくぞうほっしんのう)は、内大臣藤原公直(ふじわらのきんなお)に養育された。やがて僧の妙葩(みょうは)について喝食(かっしき、寺で給仕する少年)となった。妙葩が武蔵守高師直(こうのもろなお)に追放されると、公直の家に退いて住んだ。応安六年(1373年)、聖護院門主(しょうごいんもんしゅ)の覚誉法親王(かくよほっしんのう)が宮中で修法を行った際、天皇は密かに覚増をその弟子とするよう命じた。これより先、後伏見天皇の皇子である寛胤法親王(かんいんほっしんのう)が聖護院に入るはずであったが、園城寺(おんじょうじ)の僧徒がその母の身分が低いことを理由に訴えたため、議論を改めて勧修寺に入ることとなった。ここに至って覚増が喝食の身分から聖護院に入室したことは、これもまた前例のないことであった。人々は、天皇が先に僧徒に賄賂を贈ってこれを阻止させ、覚増をその後任としたのだと噂した(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』による)。
覚増法親王
¶寛守法親王(かんしゅほっしんのう)は、乗朝法親王(じょうちょうほっしんのう)について学び、上乗院(じょうじょういん)に住んだ(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。
寛守法親王
¶明承法親王(みょうしょうほっしんのう)は、権大納言藤原実音(ふじわらのさねおと)に養育された。覚敏法親王(かくびんほっしんのう)が薨去すると、天皇は急いで明承を梶井門主(かじいもんしゅ)の後任にしようと考えたが、ちょうど実音が勅旨に逆らったため、改めて内大臣藤原実継(ふじわらのさねつぐ)に養育・入室させることとした。世論は、覚叡の薨去からまだ四十九日の忌が明けていないことを理由にこれを難じたが、左中弁藤原仲光(ふじわらのなかみつ)は天皇の意を受けて強引にこれを進めたので、人々はこれをひどく非難した(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』『諸門跡譜』による)。嘉慶二年(1388年)、天台座主に任じられた(注:『諸門跡譜』『天台座主記』による)。
明承法親王
¶聖助法親王(しょうじょほっしんのう)は、僧の守恵(しゅえ)について仏法を学び、本覚院(ほんがくいん)に住んだ(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。
聖助法親王
¶堯性法親王(ぎょうしょうほっしんのう)は、堯仁法親王(ぎょうにんほっしんのう)について仏法を学び、妙法院(みょうほういん)に住んだ。後に事情あって自害した(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』『諸門跡譜』による)。
堯性法親王
¶道寛法親王(どうかんほっしんのう)は、寛尊法親王(かんそんほっしんのう)について学び、大覚寺(だいかくじ)に住んだ(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による)。
道寛法親王
¶某(なにがし)は、敬愛寺(けいあいじ)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。
僧某
¶某(なにがし)は、龍頭庵(りゅうとうあん)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。
僧某
¶後円融天皇(ごえんゆうてんのう)には二人の皇子がいた。通陽門院(つうようもんいん)は後小松天皇(ごこまつてんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』による)。典侍の藤原氏は第一子の道朝法親王(どうちょうほっしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『後愚昧記』による)。
【後円融】一子
¶道朝法親王(どうちょうほっしんのう)は、上乗院(じょうじょういん)に住んだ(注:『皇胤紹運録』による)。