卷之九十八 列傳第廿五

皇子十三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次32
  1. 【後宇多】三子
  2. 承覺法親王
  3. 性圓法親王
  4. 良治親王
  5. 【伏見】七子
  6. 寬性法親王
  7. 慧助法親王
  8. 吉永親王
  9. 尊彥親王
  10. 道熙法親王
  11. 尊熙法親王
  12. 聖珍法親王
  13. 【後伏見】九子
  14. 寧永法親王
  15. 尊胤法親王
  16. 景仁親王
  17. 長助法親王
  18. 寬胤法親王
  19. 承胤法親王
  20. 亮性法親王
  21. 尊實法親王
  22. 尊省親王
  23. 【後二條】五子
  24. 邦良皇太子
  25. 邦省親王
  26. 祐助法親王
  27. 尊濟法親王
  28. 聖尊法親王
  29. 【花園】三子
  30. 直仁親王
  31. 覺譽法親王
  32. 業永親王

【後宇多】三子

後宇多天皇(ごうだてんのう)には五人の皇子があった。宮人の源基子(みなもとのもとこ)は後二条帝(ごにじょうてい)を生んだ。典侍の藤原忠子(ふじわらのただこ)は後醍醐帝(ごだいごてい)(注:皇胤紹運録・歴代皇紀・一代要記による)、承覚法親王(じょうかくほっしんのう)(注:皇胤紹運録による)、第四子の性円法親王(しょうえんほっしんのう)(注:諸門跡譜による。第四子であることは釈家官班記による。一代要記には行円法親王が後醍醐帝の同母弟であると記されているが、他の諸書には見えないため採らない)を生んだ。宮人の藤原氏は良治親王(よしはるしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録による)。

承覺法親王

承覚法親王は、乾元元年(注:吉続記による)に梶井(かじい)に入り、僧の尊忠(そんちゅう)について学問を受けた(注:諸門跡譜・吉続記による)。正中二年、天台座主(てんだいざす)に任じられ(注:天台座主記・僧官補任による)、二品(にほん)に叙せられた(注:皇胤紹運録・諸門跡譜による)。入江宮(いりえのみや)と称され(注:帝王編年記・皇胤紹運録による)、また北白河宮(きたしらかわのみや)とも称された(注:皇胤紹運録による)。

性圓法親王

性円法親王(しょうえんほっしんのう)は安井(やすい)に入り、性融法親王(しょうゆうほっしんのう)から法を受けた。元応二年、直接二品に叙せられた(注:釈家官班記による)。後宇多帝が譲位すると、大覚寺(だいかくじ)のかたわらに宮を築いてそこに住まわせた(注:神皇正統記・増鏡による)。性円はことに帝から寵愛され、召されて側近に置かれ(注:増鏡による)、自ら真言の密旨を授けられた(注:皇胤紹運録による。増鏡も参照)。帝が崩じると、大覚寺にいくつかの邑(むら)を寄進し、性円をそこに住まわせた(注:増鏡による。諸門跡譜も参照)。正平二年三月に薨じ、享年五十六。南池院(なんちいん)と号した(注:大覚寺門跡略記による)。

良治親王

良治親王(よしはるしんのう)は剃髪して性勝(しょうしょう)と改名し、大覚寺に住んだ(注:大覚寺門跡略記による)。

【伏見】七子

伏見天皇(ふしみてんのう)には九人の皇子があった。宮人の藤原季子(ふじわらのすえこ)は花園帝(はなぞのてい)(注:皇胤紹運録・一代要記による)と、第二子の寛性法親王(かんしょうほっしんのう)(注:仁和寺御伝・諸門跡譜による。両書ともに第三子とするが、没年から推せば花園帝より先に生まれているので、ここでは第二子とする)を生んだ。藤原経子(ふじわらのつねこ)は後伏見帝(ごふしみてい)を生んだ(注:皇胤紹運録・歴代皇紀による)。掌侍のなにがしは第六子の尊彦親王(そんげんしんのう)を生んだ。宮人の源氏は第五子の吉永親王(きちえいしんのう)を生んだ(注:諸門跡譜による)。藤原氏は道熙法親王(どうきほっしんのう)を生んだ。なにがしは慧助法親王(えじょほっしんのう)を生んだ。藤原氏は尊熙法親王(そんきほっしんのう)を生んだ。なにがしは第十子の聖珍法親王(しょうちんほっしんのう)を生んだ(注:第十子であることは釈家官班記による)。もう一人は母の氏を伝えず、早くに薨じた(注:皇胤紹運録による。現行本の紹運録には僧寛胤の皇子某を十二子として載せるが、他の諸書と合わないため採らない)。

寬性法親王

寛性法親王は、初めの名を惟永(これなが)といった(注:皇胤紹運録・諸門跡譜による)。永仁六年、仁和寺(にんなじ)に入り(注:仁和寺御伝による)、性仁法親王(しょうにんほっしんのう)について学問を受けた(注:仁和寺御伝・釈家官班記による)。正安二年、親王となった。まもなく剃髪して、いまの名に改めた。嘉元三年、一身阿闍梨(いっしんあじゃり)となり、詔により六勝寺検校(ろくしょうじけんぎょう)に補された(注:仁和寺御伝による)。応長元年、直接二品に叙せられ、延元三年には光明院(こうみょういん)の命により一品(いっぽん)に進んだ(注:仁和寺御伝・釈家官班記による)。正平元年九月に薨じ、享年五十八(注:園太暦・仁和寺御伝による。諸門跡譜と釈家官班記はいずれも正平十八年に薨じ享年七十五とするが、おそらく誤りである)。常瑜伽院御室(じょうゆがいんのおむろ)と称され(注:仁和寺御伝・諸門跡譜による)、また慧命院御室(えみょういんのおむろ)とも称された(注:仁和寺御伝・釈家官班記による)。

慧助法親王

慧助法親王は聖護院(しょうごいん)に住んだ(注:諸門跡譜・一代要記による。帝王編年記には豪助(ごうじょ)とある)。園城寺長吏(おんじょうじちょうり)となった(注:皇胤紹運録・僧官補任による)。

吉永親王

吉永親王は、延慶三年に親王となり、恒助法親王(こうじょほっしんのう)から法を受けた。正和二年、剃髪して尊悟(そんご)と改名し、円満院(えんまんいん)に住んだ。延元四年、光明院から直接二品を授けられ(注:釈家官班記による)、三度園城寺長吏となった(注:皇胤紹運録・僧官補任による)。正平十一年、四天王寺別当(してんのうじべっとう)となり、四月に薨じた(注:僧官補任による)。後平等院宮(のちのびょうどういんのみや)と称された(注:諸門跡譜による)。

尊彥親王

尊彦親王(そんげんしんのう)は(注:諸門跡譜・釈家官班記による。皇胤紹運録では尊彦を守彦とする)、延慶三年に親王となった(注:釈家官班記による)。まもなく青蓮華院(しょうれんげいん)に入り(注:釈家官班記・諸門跡譜・僧官補任による)、慈道法親王(じどうほっしんのう)について学問を受けた。応長元年、剃髪して尊円(そんえん)と改名し、大乗院(だいじょういん)に住んだ。延元四年、光明院から直接二品を授けられ(注:釈家官班記による)、四度天台座主に任じられ(注:天台座主記・僧官補任による)、四天王寺別当となった(注:僧官補任による)。正平十一年九月に薨じ(注:諸門跡譜・園太暦・釈家官班記による)、享年五十九(注:諸門跡譜・釈家官班記による)。後光厳院(ごこうごんいん)から一品を贈られた(注:常楽記による)。尊彦は和歌に優れ(注:諸門跡譜・園太暦による)、多くの才芸を持ち、とりわけ書に秀でた(注:康富記享徳三年・尺素往来による)。朝野の書法はこれによって一変したという(注:文禄清談による)。後光厳院の命を受けて釈家官班記二巻を撰した(注:本書跋・仁和寺書籍目録による)。

道熙法親王

道熙法親王は十楽院(じゅうらくいん)に居した(注:帝王編年記による)。

尊熙法親王

尊熙法親王は桂園院(けいえんいん)に住んだ(注:皇胤紹運録による)。

聖珍法親王

聖珍法親王(しょうちんほっしんのう)は、僧の聖尋(しょうじん)について法を受け(注:釈家官班記・初例抄による)、三宝院(さんぼういん)に住んだ(注:諸門跡譜による)。元徳二年、親王となった(注:諸門跡譜・釈家官班記による)。のちに東南院(とうなんいん)を兼領し(注:皇胤紹運録・一代要記・釈家官班記・初例抄による)、東大寺別当・東寺一長者(とうじいちのちょうじゃ)となった。親王が東寺長者となったのは、これが最初である(注:釈家官班記・初例抄による)。

【後伏見】九子

後伏見天皇(ごふしみてんのう)には十一人の皇子があった。女御の藤原寧子(ふじわらのやすこ)は光厳院(こうごんいん)・光明院(こうみょういん)(注:皇胤紹運録・一代要記による)と景仁親王(かげひとしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録による)。宮人の藤原氏は第六子の長助法親王(ちょうじょほっしんのう)(注:第六子であることは諸門跡譜による)、第七子の寛胤法親王(かんいんほっしんのう)(注:第七子であることは釈家官班記による。現行本の紹運録を見るに、伏見帝の子としても僧寛胤を載せ、永福門院(えいふくもんいん)付きの女中納言局の所生とするが、おそらく誤りである)、承胤法親王(じょういんほっしんのう)、亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。藤原氏は第十子の尊実法親王(そんじつほっしんのう)(注:皇胤紹運録による。第十子であることは諸門跡譜による。尊卑分脈では東御方(ひがしのおんかた)の所生とする)、第十一子の尊省親王(そんしょうしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による。第十一子であることは諸門跡譜による)。高階氏は第十三子の寧永親王(ねいえいしんのう)を生んだ(注:仁和寺御伝・諸門跡譜による)。なにがしの氏は第四子の尊胤法親王(そんいんほっしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録による。第四子であることは釈家官班記による)。

寧永法親王

寧永親王(ねいえいしんのう)は、正和三年に仁和寺に入り、寛性法親王から法を受けた。元応二年、親王となった。元亨元年、剃髪して法守(ほうしゅ)と改名した(注:仁和寺御伝による)。嘉暦二年、直接二品に叙せられた(注:釈家官班記・仁和寺御伝による)。延元二年、光明院の命により六勝寺検校に補され、天授五年には後円融院(ごえんゆういん)の命により一品に進んだ。元中八年九月に薨じ、享年八十四。禅河院御室(ぜんがいんのおむろ)と称された(注:仁和寺御伝による。常楽記には享年八十九とある)。

尊胤法親王

尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、承鎮法親王(じょうちんほっしんのう)について学問を受け、梶井に住んだ(注:釈家官班記・諸門跡譜による)。元弘三年、光厳院の命により天台座主に任じられた(注:僧官補任・天台座主記による。太平記には元弘二年とある)。官軍が北条仲時(ほうじょうなかとき)らを京で攻めたとき、尊胤は光厳院に従って六波羅(ろくはら)におり、仏法を修めて陰ながらの加護を祈った。官軍が敗れると、光厳院に従って東へ逃れ、篠原(しのはら)に至ったが、供の僧たちは傷つき、あるいは逃げ去り、経超(けいちょう)・浄勝(じょうしょう)の二僧だけが従った。尊胤は乗っていた馬を宿の主人に与え、徒歩で伊勢へ向かい、月を越えて帰り、白毫院(びゃくごういん)に住んだ(注:太平記による)。延元元年、再び座主に任じられた。興国元年、光明院から直接二品を授けられた(注:釈家官班記による)。正平七年、光厳・光明・崇光(すこう)の三院とともに官軍に捕らわれ、尊胤は金剛山(こんごうさん)のふもとに拘束された。後光厳院が帝を称すると、ひそかに尊胤を奪い返そうと謀った(注:太平記による。「今剛山」は異本太平記による)。尊胤の門徒に律師元祐(げんゆう)という者がおり、修験者(しゅげんじゃ)に扮して金剛山へ赴き、ひそかに尊胤と連絡を通じた。尊胤はそこで病と称して床に伏した。数日たつと病状が重くなったように見せかけ、山中に医薬がないため、守兵たちは相談して祈祷によって祓うべきだということになり、人を四方に遣わして山のふもとで修験者が通りかかるのを待たせたところ、元祐に行き合い、一緒に山へ登った。元祐が二日にわたって祈祷を行うと、尊胤は病が癒えたと偽って言い、その夜のうちに酒を用意して祝った。守兵がすっかり酔いつぶれると、元祐は尊胤を笈(おい)の中に入れ、それを背負って山を出て、ついに脱出して帰り着くことができた(注:吉野拾遺による)。尊胤は四度座主となった(注:僧官補任・天台座主記による。諸門跡譜には三度座主に任じられたとある)。十四年五月に薨じた(注:太平記・常楽記による)。

景仁親王

景仁親王(かげひとしんのう)は剃髪して仁悟(にんご)と改名し、円満院に住んだ(注:皇胤紹運録による)。

長助法親王

長助法親王(ちょうじょほっしんのう)は円満院に住み、三度園城寺長吏となった(注:諸門跡譜・僧官補任による)。

寬胤法親王

寛胤法親王(かんいんほっしんのう)は安祥寺(あんしょうじ)に住み、勧修寺別当(かんじゅじべっとう)となった(注:諸門跡譜による)。延元二年、光厳院から親王を授けられた。親王が勧修寺別当となったのは、これが最初である(注:釈家官班記による)。のちに二品に叙せられ(注:諸門跡譜・常楽記による)、天授二年四月に薨じた(注:常楽記による)。後安祥寺(のちのあんしょうじ)と称された(注:諸門跡譜による)。

承胤法親王

承胤法親王(じょういんほっしんのう)は梶井に住み(注:皇胤紹運録・僧官補任による)、三度天台座主に任じられた(注:僧官補任・天台座主記による。諸門跡譜には四度座主になったとある)。天授三年四月に薨じ(注:後愚昧記による)、光聚院(こうじゅいん)と称された(注:後深心院関白記による)。

亮性法親王

亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)は妙法院(みょうほういん)に住み、二品に叙せられた(注:皇胤紹運録・諸門跡譜による)。正平元年、天台座主に任じられた(注:諸門跡譜・僧官補任・天台座主記・園太暦による)。

尊實法親王

尊実法親王(そんじつほっしんのう)は、初めの名を慈真(じしん)といい、青蓮華院に住んだ(注:皇胤紹運録・諸門跡譜による)。

尊省親王

尊省親王(そんしょうしんのう)は、興国二年に光明院から親王を授けられ(注:釈家官班記による)、青蓮華院に入った(注:僧官補任・諸門跡譜による)。剃髪して尊道(そんどう)と改名した(注:釈家官班記による)。十楽院に居し、また妙香院(みょうこういん)にも居して、一品に叙せられ、三度天台座主となった(注:天台座主記による)。応永七年七月に薨じ(注:諸門跡譜による)、享年七十二(注:釈家官班記の暦応四年に年十歳とある記述による)。

【後二條】五子

後二条天皇(ごにじょうてんのう)には五人の皇子があった。宮人の藤原宗子(ふじわらのむねこ)は第一子の皇太子邦良(くによし)(注:皇胤紹運録・一代要記・歴代皇紀による。第一子であることは歴代皇紀・神皇正統記による)と邦省親王(くにみしんのう)を生んだ(注:皇印邵玉論・尊卑分脈による)。藤原氏は第三子の祐助親王(ゆうじょしんのう)(注:諸門跡譜による)と第五子の聖尊法親王(しょうそんほっしんのう)を生んだ(注:第五子であることは諸門跡譜による)。御匣殿(みくしげどの)の藤原氏は尊済法親王(そんさいほっしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・一代要記・諸門跡譜による)。

邦良皇太子

皇太子邦良(くによし)は、幼名を惟善(これよし)といった(注:一代要記による。歴代皇紀では善を良に作り、尊卑分脈では嘉に作る)。乾元元年、親王となり一品に叙せられた(注:紹運要略による)。後二条帝が崩じたとき、本来ならば邦良が皇位を継ぐべきであったが、北条貞時(ほうじょうさだとき)が以前から両統迭立(りょうとうてつりつ)の議を唱えていたため、結局花園帝が立てられた(注:梅松論による。神皇正統記も参照)。後宇多法皇は邦良を深く憐れみ、その妃である永嘉門院(えいかもんいん)に子がなかったため、邦良を養育させ、常に宮中に置いた(注:増鏡による)。花園帝が皇嗣を定めるべき時になると、朝議では邦良を立てようとした。しかし法皇は、「邦良はいま脚の病があり、すぐに皇太子の位につけるのは難しい。それに皇子尊治(たかはる、後の後醍醐帝)はもともと先帝が立てたいと望んでいた者であるから、まずこれを立てるべきである」と考え、結局後醍醐を立てるよう命じた。そこで後醍醐帝に書を送り、「皇嗣を立てる日には、必ず邦良を立てるように。もし邦良が立てられないならば、その諸子の中から選んで立てるように」と約束させた。ちょうど北条高時(ほうじょうたかとき)もまた「邦良を太子に立てるべきである」と奏上した(注:太平記による)。文保二年三月、ついに皇太子に立てられ、加冠の儀を命じられた(注:皇胤紹運録・一代要記・歴代皇紀による)。まもなく法皇が病に臥して危篤となると、邦良は参上して看病した。法皇はかねてより後醍醐帝が邦良を愛していないことを知っており、ひそかにその身を案じていた。邦良に会うと、久しく憐れみの情を示し、政治を行う要諦を口伝えに授け、懇切に戒めを与えた。それより先、歴代の天子はしばしば代替わりしたが、いずれも年少で政務に習熟していなかった。法皇は長年にわたって政務に関与してきたが、このとき既に新たに政務を帝に譲っていた。その間、内外の諸臣は恩寵や官位が時とともに上下し、不遇を託つ者が少なくなかった。前大納言藤原経継(ふじわらのつねつぐ)、中納言源有忠(みなもとのありただ)、右衛門督藤原教定(ふじわらののりさだ)、左衛門佐藤原俊顕(ふじわらのとしあき)らは、いずれも法皇が目をかけていた者たちであったが、みな不遇を嘆いていた。法皇は常にこれを憐れんでいたが、思うように任用することができなかった。そこで邦良にも懇ろに託し、即位の日を待ってことごとく登用するようにと言い含めた。邦良は感じ入って教えを受け、退出した。法皇はついに崩じ、邦良は悲しみ慕って、追善供養にひたすら心を尽くした(注:増鏡による)。そこで源有忠を鎌倉に遣わし、ひそかに即位を謀った。北条高時もまた邦良を立てようと議した(注:神皇正統記・増鏡も参照)。嘉暦元年三月、邦良は病により薨じ(注:増鏡による)、享年二十七(注:歴代皇紀・皇年代略記による。皇胤紹運録では二十とする)。遺命により贈り名を辞退した。邦良は人柄が穏やかで、朝廷の内外を問わず慕われない者はなかった。薨じたとき、仕えていた官人や側仕えの女房で出家した者は三十人余りに及んだ。当時の人々はみな、「人がこの世を厭うて出家することはあっても、これほどのことは今までになかった」と語り合った。

邦良は初め、内大臣源通重(みなもとのみちしげ)の娘を妃として迎え、その妃は十八か月身ごもって一子を生んだが、母子ともに亡くなった。次に禖子内親王(ばいししんのう)を娶ったが、子はなかった(注:増鏡による)。側室が六人の子を生んだ。長男の康仁(やすひと)は中務卿(なかつかさきょう)に任じられた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。元弘元年、光厳院から親王を授けられ(注:歴代皇紀による)、十一月に太子に立てられた(注:歴代皇紀・皇年代略記・増鏡による)。官軍が北条仲時らを京で攻めたとき、光厳院に従って六波羅に入ったが、戦いに敗れて捕らわれ、光厳院とともに廃された(注:増鏡・太平記による)。その後、木寺(きでら)に居した(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。正平十年四月に卒し、享年三十六(注:園太暦による)。次男の邦世(くによ)もまた親王となり、三品に叙せられ、氏部卿(うじべのきょう)に任じられた。ほかの子は僧になった者、あるいは夭折した者がある。娘に媋子内親王(けいししんのう)がいる(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。

邦省親王

邦省親王(くにみしんのう)は、大納言藤原経継(ふじわらのつねつぐ)に養育された(注:一代要記による。皇胤紹運録では経継を源有忠とする)。三品に叙せられ(注:皇胤紹運録・一代要記・尊卑分脈による)、式部卿(しきぶきょう)となった(注:皇胤紹運録・後深心院関白記による。一代要記には兵部卿とある)。弾正尹(だんじょうのかみ)ともなり、花町宮(はなまちのみや)と称された(注:尊卑分脈による)。のちに剃髪した。天授元年九月に薨じた。邦省は和歌に優れ、続千載和歌集(しょくせんざいわかしゅう)以後の五代の勅撰集にはいずれもその歌が収められ、当時の人々はこれを栄誉とした(注:後深心院関白記による)。

祐助法親王

祐助法親王(ゆうじょほっしんのう)は、太政大臣公孝(きんたか)に養育され(注:一代要記による)、青蓮華院に住み(注:天台座主記・諸門跡譜による)、あるいは桂林院(けいりんいん)にも居した(注:皇胤紹運録・天台座主記・僧官補任による)。興国二年、光明院の命により天台座主に任じられた(注:天台座主記・僧官補任による)。

尊濟法親王

尊済法親王(そんさいほっしんのう)は、初めの名を永尊(えいそん)といった(注:諸門跡譜による。皇胤紹運録・尊卑分脈では済を斉に作る)。円満院に住んだ(注:尊卑分脈・一代要記・諸門跡譜による)。

聖尊法親王

聖尊法親王(しょうそんほっしんのう)は三宝院に住み(注:皇胤紹運録・尊卑分脈はいずれも仁和寺遍聖院(へんじょういん)に住んだとする)、延暦寺(えんりゃくじ)で受戒した(注:諸門跡譜による)。のちに二品に叙せられた(注:新葉和歌集による)。建徳元年九月に薨じ、享年六十八(注:諸門跡譜による)。

【花園】三子

花園天皇(はなぞのてんのう)には三人の皇子があった。宮人の藤原実子(ふじわらのさねこ)は第一子の道仁親王(みちひとしんのう)(注:第一子であることは椿葉記による)と第三子の業永親王(なりながしんのう)を生んだ(注:第三子であることは諸門跡譜による)。藤原氏は誉法親王(よほっしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・園太暦による。現行本の紹運録には帝の六子を載せるが、そのうち三子については名も母の氏も記していない。また一皇子が聖護院(しょうごいん)に住んだというが、他の諸書にはまったく見えないため採らない)。

直仁親王

直仁親王(なおひとしんのう)は、正平三年十月、崇光院(すこういん)によって太弟(たいてい)に立てられた(注:皇年代略記・歴代皇紀・園太暦貞和四年条による。皇胤紹運録には太子とある)。足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷に帰順すると、崇光院とともに廃され、ともに賀名生(あのう)に幽閉された(注:皇年代略記・太平記・園太暦による)。のちに許されて京へ帰った(注:皇年代略記・太平記・椿葉記による)。まもなく出家した(注:皇胤紹運録による)。応永五年五月に薨じ、萩原殿(はぎわらどの)と称された。子があり、その子もまた出家した(注:椿葉記による)。

覺譽法親王

覚誉法親王(かくよほっしんのう)は聖護院に住んだ(注:皇胤紹運録・諸門跡譜による)。園城寺長吏に任じられ、四天王寺別当となった(注:僧官補任による)。二品に叙せられた。弘和元年に薨じた(注:後愚昧記による)。

業永親王

業永親王(なりながしんのう)は、延元二年に光明院から親王を授けられた。興国四年、仁和寺に入り、剃髪して源性(げんしょう)と改名した。正平八年正月に薨じ、享年二十七(注:仁和寺御伝による。諸門跡譜には二十六とあるが誤りである)。