卷之卅一 本紀卅一
宇多天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
宇多天皇
¶宇多天皇(うだてんのう)は、諱を定省(さだみ)といい、光孝帝(こうこうてい)の第七子である(注:三代実録による。○案ずるに「七」の上に「十」の字が脱けている疑いがある。この説は皇子伝にみえる。○また世継物語には、天皇を三郎と称し、その二人の兄を太郎・二郎と称するとある。皇胤紹運録を考えるに、班子女王(はんしじょおう)は是忠(これただ)・是貞(これさだ)および天皇を生んでいる。班子は光孝帝の嫡妃であったため、当時その所生の子をそのまま太郎・二郎・三郎と呼び、庶子は数えなかったのである)。母は洞院皇太后(とういんこうたいごう)。
¶貞観九年(867年)五月五日癸卯、お生まれになった(注:大鏡裏書・一代要記・歴代皇紀による)。
¶元慶(がんぎょう)年間に元服し(注:大鏡裏書・愚管抄による)、侍従に任じられ(注:大鏡・歴代皇紀による)、当時は王侍従(おうじじゅう)と称された(注:大鏡・世継物語・愚管抄による)。元慶八年、源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った(注:三代実録・大鏡・一代要記・歴代皇紀による)。
¶仁和三年(887年)八月、光孝帝が病に伏した。太政大臣基経(もとつね、藤原基経)が参内して奏上し、皇嗣を定めるよう請うた。帝は「ただ公の計らうところに任せる」と仰せられた。基経は天皇(定省親王)を立てるよう請うた。帝は大いに喜び、急ぎこれを召した(注:愚管抄による。○世継物語には、光孝帝がまだ即位前であったとき、諸皇子に「もし自分が即位することがあれば、お前たちは何を望むか。それぞれ志を言ってみよ」と問うたとある。太郎は「太宰大弐(だざいのだいに)となって西海十州を領したい」と答えた。二郎は「東国の藩屏を守り、十五州を管掌したい」と言った。帝は黙っていた。三郎は徐(おもむろ)に「東宮に居て、帝位を継ぎたい」と言った。帝は喜んだという。今案ずるに、光孝帝がまだ即位していなかった当時、即位を望む意があるはずがない。諸皇子にその望みを言わせたというのは、事実ではないであろう。またその問答は、垂仁帝が夢の兆しによって皇嗣を定めた故事にかなり似ており、おそらく後人が附会したものであろう。よってこの説は採らない)。左手で基経の手を、右手で天皇の手を執り、泣いて「大臣の輔助の恩は深い、汝は決して忘れてはならない」と仰せられた(注:愚管抄が引く寛平御記による)。そこで詔して親王とした。二十六日丁卯、皇太子に立てられた。この日、光孝天皇が崩御した(注:三代実録による)。皇太子は宣耀殿(せんようでん)において践祚した(注:扶桑略記・大鏡裏書による。宣耀殿については毘沙門堂所蔵記による。○公卿補任・皇年代略記・一代要記・歴代皇紀はいずれも「受禅」とするが、誤りである)。太政大臣基経、左大臣源融(みなもとのとおる)、右大臣兼左近衛大将源多(みなもとのまさる)、大納言兼右近衛大将藤原良世(よしよ)は、いずれも留任した(注:公卿補任による)。二十八日己巳、基経は勅を奉じ、左大弁橘広相(たちばなのひろみ)・左中弁藤原有穂(ありほ)・左近衛権中将藤原時平(ときひら)・左衛門佐藤原高経(たかつね)らを殿上に侍らせた。九月二日壬申、光孝天皇を葬った。冬十月五日乙巳、百人の僧を宮中に招き、大般若経を三日間転読させた。この夜、地震があった。二十二日壬戌、僧を召して七日間修法させた。十一月二日辛未、伊豆国が新島(にいじま)の図を献上した(注:扶桑略記による)。十七日丙戌、天皇は大極殿において即位した。時に21歳(注:扶桑略記・皇年代略記による)。皇母の班子女王を尊んで皇太夫人とした(注:大鏡裏書、中右記嘉承二年条による)。この日、黄龍が西北に現れた(注:扶桑略記による)。二十一日庚寅、詔して「万機の巨細は、みな太政大臣基経に関白させる」と仰せられた(注:扶桑略記仁和四年五月の宣命文・公卿補任による。○愚管抄は十九日、歴代皇紀は二十九日とする)。関白の制度はこれに始まる(注:濫觴抄・摂官抄による)。
¶仁和四年戊申(888年)、春二月十九日丁亥、特に詔して関白基経を三宮(さんぐう)に準じさせた(注:扶桑略記は二十二日とする。今は公卿補任・大鏡裏書に従う)。夏四月、讃岐国が旱魃にみまわれた(注:菅家文草による)。九月十五日己酉、巨勢金岡(こせのかなおか)に勅して、弘仁以後の詩に秀でた者の像を御所南庇の障子に描かせた(注:扶桑略記による。○案ずるに帝王編年記は寛平四年のこととする)。冬十月九日己酉、藤原温子(おんし)を女御とした(注:一代要記による)。十七日辛巳、右大臣兼左近衛大将源多が薨じた(注:扶桑略記・公卿補任による)。二十八日壬申、御禊(ごけい)を行った(注:帝王編年記・皇年代略記による。○扶桑略記・一代要記は二十七日とする)。十一月二十二日乙卯、大嘗祭(だいじょうさい)を行った(注:一代要記・帝王編年記・皇代略記による。○案ずるに扶桑略記は二十三日とするが、誤りである)。
¶寛平(かんぴょう)元年己酉(889年)、春正月十六日戊申、右近衛大将藤原良世を左近衛大将とし、中納言源能有(よしあり)に右近衛大将を兼ねさせた(注:公卿補任による)。二月二十日壬午、勅して常の御膳を四分の一減らさせた(注:菅家文草による)。三月六日丙申、直子女王(なおこじょおう)を占って斎院に定めた(注:一代要記による)。夏四月二十七日戊子、年号を改めた(注:扶桑略記・公卿補任・皇代記による)。五月二十八日戊午、石清水の宮殿が震動した。秋七月、六月以来の長雨・洪水により、京と難波の両京で飢えて死ぬ者が多かった(注:扶桑略記による)。九月十一日庚子、穢れのため例幣を停止し、建礼門で大祓を行った(注:西宮抄による)。二十四日癸丑、嘉祥寺(かじょうじ)で法華八講を修した(注:宸筆御八講記が引く新国史による)。この月、園池司(えんちし)の絹笠紫野(きぬがさのむらさきの)一帯に羽蟻が群がった。冬十月九日丁卯、天皇は博士善淵愛成(よしぶちのちかなり)から周易を受講した(注:田氏家集による)。十一月二十一日己酉、賀茂臨時祭(かものりんじさい)を初めて行った(注:大鏡およびその裏書が引く寛平御記による)。十二月六日癸亥、虹が左近衛陣に現れ、天を貫いた(注:扶桑略記による。案ずるに「六日癸亥」を本書は十月のこととするが、干支が合わない。ところが本書下文の二十四日辛巳八幡託宣の条を、帝王編年記は十二月のこととする。十二月朔は戊午で、干支が合う。すると本書が「十月」と書くのは、おそらく二字が脱けたものであろう。よって今これを訂正した)。二十八日乙酉、皇子維城(これき)を親王とした(注:日本紀略・大鏡裏書による)。この年、元子女王(もとこじょおう)を占って斎宮に定めた(注:一代要記・貴女抄による)。寛平大宝銭(かんぴょうたいほうせん)を鋳造した(注:拾芥抄による)。
¶二年庚戌(890年)、春正月戊子朔、天皇は天地四方の属星(ぞくしょう)と山陵を拝した(注:年中行事秘抄・小野宮年中行事による。○案ずるに公事根源は元年のこととする。また四方拝の起源は詳らかでないが、おそらくこれに始まるのであろう。しかし後世ついに恒例の儀式となったため、これより後は記さない)。冬十二月十九日庚子、太政大臣基経が関白を辞し、詔してこれを許した(注:菅家文草・公卿補任による)。
¶三年辛亥(891年)、春正月十三日甲子、太政大臣基経が薨じた(注:扶桑略記・公卿補任・愚管抄による)。二月十九日己亥、伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・春日・大原野に幣帛を奉り、天皇は東宮から内裏にお遷りになった(注:西宮抄による)。三月十九日己巳、大納言藤原良世を右大臣とした(注:扶桑略記・公卿補任による)。己卯晦、客星(かくせい、彗星)が東に現れた(注:一代要記は前年のこととするが、今は干支に基づき、明月記寛喜二年条に従う)。秋八月三日庚辰、修理職(すりしき)の官位を定め、中宮職に準じさせた。九月十一日戊午、諸国の綱領(こうりょう)が官物を奸することを禁じ、また京に本貫を置く人や庶王・臣下の子孫が、婚姻を通じて生業を営むことにより、ついに畿外に居住することを禁じた。また畿外の百姓が姦(みだ)りに京畿の戸籍に付くことを禁じた(注:類聚三代格による)。冬十月十三日庚寅、斉中親王(さいちゅうしんのう)が薨じた(注:一代要記による)。十二月乙巳晦、皇兄の中納言源是忠・左近衛中将源是貞を親王とした(注:公卿補任・一代要記・帝王編年記による。是貞を親王としたことは一代要記・帝王編年記による。○一代要記は是貞の一件を五年のこととするが、おそらく誤りである)。
¶四年壬子(892年)、春三月二十二日丙寅、五畿七道の諸国に勅して、国内の神祇に幣帛を奉らせ、国分寺・定額寺において大般若経を三日間転読させ、疫病を祓わせた(注:東大寺要録による)。夏五月十六日己未、神泉苑(しんせんえん)の鹿と鳥を比叡山に放った(注:菅家文草による)。六月、伊勢国で大水があった(注:伊勢奉幣使雑例による)。この冬、京で大雪が降り、深さ三尺に達した(注:日本紀略天慶元年条による)。
¶五年癸丑(893年)、春正月二十二日壬戌、藤原胤子(いんし)を女御とした(注:一代要記・大鏡裏書による)。二十六日丙寅、橘義子(たちばなのぎし)を女御とした(注:一代要記による)。二月二十二日辛卯、右大臣藤原良世が左近衛大将を辞し、右近衛大将源能有を左近衛大将とし、中納言藤原時平に右近衛大将を兼ねさせた(注:公卿補任による)。三月二日辛丑、京畿諸国の官長に勅して、祈年祭・月次祭・新嘗祭などを検察させ、神職の不敬を糺させた(注:類聚三代格による)。この月、君子内親王(くんしないしんのう)を占って斎院に定めた(注:一代要記による)。夏四月十四日壬午、敦仁親王(あつぎみしんのう、のちの醍醐天皇)を皇太子に立てた(注:日本紀略・扶桑略記による。○扶桑略記の一説・菅家文草はいずれも二日のこととする。公卿補任は十三日とする)。大納言兼左近衛大将源能有を東宮傅(とうぐうのふ)とした(注:公卿補任による)。閏五月三日庚午、これより先、新羅の海賊が来襲していたが、この日太宰府に勅を下して、「今の急務は農事にある。時を失わせてはならない。征伐と農耕をともに行うのが、良将の術である。勅が到り次第、これを奉行せよ」と仰せられた(注:小右記寛仁三年条による)。秋七月十九日乙酉、陸奥・出羽から逃亡して王臣の家に仕えている者、および京畿に流寓している者を重ねて捜し出し、本郷に還らせた。冬十一月二十一日乙酉、諸国の郡司に任じようとする者を内外の官とすること、および親王家の家令(けいれい)以下の職に補することを禁じた(注:類聚三代格による)。
¶六年甲寅(894年)、春二月、彗星が現れた(注:扶桑略記延喜十八年条による)。夏五月、唐の使者が到着した(注:扶桑略記による)。秋七月十六日丙子、諸院・諸宮・諸司・諸家が、往還の舟車・人馬を強いて雇うことを禁じた(注:類聚三代格による。○一本の三代格は二十六日とする)。二十二日壬午、在唐の僧中瓘(ちゅうかん)に砂金百五十両を賜った(注:菅家文草による)。八月二十一日庚戌、能登に弩師(どし)を置いた(注:類聚三代格による)。二十五日甲寅(注:○本書は二十一日とするが、今は甲子から推算して訂正した)、参議菅原道真(すがわらのみちざね)を遣唐大使とし、右少弁紀長谷雄(きのはせお)を副使とした。しかしまもなくこれを取りやめた。九月五日甲子、対馬から「新羅の賊船が来た」と報告があった(注:扶桑略記による)。この日、大極殿に出御し、伊勢および諸社に幣帛を奉った(注:西宮抄による)。九日戊辰、太宰府の駅使が「新羅が国境を侵している」と奏上した(注:扶桑略記による)。十一日庚午、穢れのため例幣を停止した(注:西宮抄による)。十三日壬申、太宰府に弩師を加え置いた(注:類聚三代格による)。十九日戊寅、太宰府の駅使が「守(かみ)文屋善友(ふんやのよしとも)が新羅の賊と戦い、これを大いに破った。大将三人、副将十一人、卒三百余人を捕らえた」と報告した(注:北山抄による。○本書は九日のこととする)。この日、出雲・隠岐の烽燧(ほうすい、のろし)を再び出した(注:扶桑略記による)。二十三日壬午、山陵に幣帛を奉り、賊を破ったことを告げた(注:西宮記による)。冬十月五日甲午、左右の検非違使庁に命じ、日々その訴訟を裁決させた(注:政事要略による)。十一月十一日己巳、郡司が宿衛の官を兼ねることを罷めさせた。重ねて畿内および近江・紀伊などに勅して、国司の緩怠を糺させ、祭事を慎ませた(注:類聚三代格による)。戊子晦、検非違使に命じ、旬ごとに大井・与度(よど)・山崎・大津を巡察させた(注:政事要略による)。諸国の百姓が王臣の人と称して、部内を騒がせることを禁じた(注:類聚三代格による)。
¶七年乙卯(895年)、春正月己未朔、雨雪のため朝賀を停止した(注:西宮記・日本紀略醍醐紀による)。二十四日壬午、二品秀良親王(しゅうりょうしんのう)が薨じた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による。二品であることは続日本後紀による。○一代要記は二十三日とし、本書は「二品」を「三品」とする)。二月二十一日己酉、勅して、「近ごろ囚人が獄に満ち、罪の裁決がなお遅い。あるいは犯した罪は軽いのに、禁錮の日が久しい。あるいは本来の罪が重いのに、終身刑にとどまっている。獄官の道として、道理上そうあってはならない。これゆえ去年十月五日、左右の検非違使庁に命じ、日々の裁判の状況を定めさせた。それでもなお遅緩で、遵行しようとしない。今後は、先の勅に依り、行った案件を日々奏上せよ」と仰せられた。また勅して、「囚人が獄につながれ裁決を待つ間、生命を保ちがたい。これはまさに使らがその職務を全うしようとすることに起因するものである。今後は、五位およびそれ以下の尉・志が四員そろっている場合は、その政務を分担させ、必ずしも全員を出仕させる必要はなく、左右で交代させるべきである」と仰せられた(注:政事要略による)。三月三日庚申、神泉苑に行幸した(注:扶桑略記による)。二十三日庚辰、勅して、「王臣の家が私財を出挙(すいこ)して、民に貸し利を求めることは、天平九年に禁じたところである。聞くところによれば、近年は前の格に従わず、民の生業を妨げるに至っている。これによって租税は徴収しがたく、調庸も未進のままである。民を蠹(そこな)い政を害することは、これより甚だしいものはない。しかるに国司は阿容(おもねりゆる)し、いまだかつて糺し正すことがない。吏たる道が、どうしてこのようであってよいだろうか。一切これを禁じ改めるべきである。もし違犯する者があれば、その物を没収し罪科に処すこと、すべて前の格の通りとせよ」と仰せられた(注:類聚三代格による)。夏五月十五日辛未、唐の使者が入朝した(注:扶桑略記による)。秋七月十五日庚午、皇子敦実(あつみ)を親王とした(注:大鏡裏書による)。八月二十五日己酉、左大臣源融が薨じた(注:扶桑略記・公卿補任による)。冬十一月七日己未、五位以上の前任の国司で、交替を終えても解由(げゆ)を得ていない者が、本国に留任することおよびみだりに畿外に出ることを禁じた。十二月三日乙酉、重ねて五位以上および孫王(そんおう)が畿内を出ることを禁じた(注:類聚三代格による)。この年、兵庫が自ら鳴り、太宰府が鳥の怪異を奏上し、摂津国で両頭の子牛が生まれた。渤海(ぼっかい)が来朝して貢物を献じた(注:菅家文草による)。
¶八年丙辰(896年)、春閏正月六日戊子、北野の雲林院(うりんいん)に行幸し、子日(ねのひ)の宴を催した。皇太子・親王がこれに従った(注:扶桑略記による)。十七日己亥、左右の看督近衛(かどのねりえじ)らに命じ、旬ごとに施薬院および東西の悲田院の病者を巡検させた(注:類聚三代格・扶桑略記による)。この月、斎院に行幸した(注:中右記長承元年条による)。夏四月二日癸丑、諸院・諸宮・王臣の家が、百姓の請託を受けて田宅・資財を争訟することを禁じた(注:類聚三代格による)。秋七月十三日壬辰、繋獄の囚人四十六人を赦免した(注:菅家文草による)。十六日乙未、右大臣藤原良世を左大臣とし、大納言源能有を右大臣とした(注:扶桑略記・公卿補任による)。九月二十二日庚子、皇太后藤原氏(ふじわらし)が皇太后の位を退き、僧善祐(ぜんゆう)を伊豆に流した(注:扶桑略記による)。冬十月三日庚戌、朱雀院に行幸し、尚侍(ないしのかみ)藤原淑子(しゅくし)の家に立ち寄った(注:西宮記による)。この月、勅して、「太宰府が『慶雲が薩摩国に現れた』と奏上した。担当の役人がこれを調べて上聞し、政治が和平をもたらした応であり、徳が山陵に至った感応であるとした。朕は上表を省みて恐れ、瑞祥を聞いて懼れる。即位して以来、今に九年になる。水害・旱魃・疫病、軍兵・盗賊があり、どうしてこれが政治が和し徳が至ったという言葉に、みだりに掲げるべきものであろうか。君臣は一体の分である。朕は恥じるべきであり、卿らもまた恥じるべきである。これを抑え止めよ、みだりに祝賀してはならない」と仰せられた。また勅して、「朕は去る仁和五年二月二十日、常の御膳について、務めて簡約に従うようにした。担当の役所は旧に准じて四分の一を減らした。朕の心は、心に心を重ねることなく、思いに思いを重ねることもなかった。塵や露のような小さな積み重ねを挙げて、礼節の和を成そうと願ったのである。ところが思いもよらず水害・旱魃・兵乱・疫病が、年ごとに頻りに起こった。諸国の調庸は欠け、百官の俸禄も給されない。上は天を怨まず、下は人を尤(とが)めない。朕の不徳が、ひとりこれを招いたのである。今、重ねて御膳の三分の一を減らし、年料雑物(ねんりょうぞうもつ)の半分を新たに省く。その他の用度は、中分してこれを折半せよ。百姓が単寒(たんかん、貧しく寒さに苦しむこと)であるのを、朕は見るに忍びない。すでに国を富ませることを謀る余裕はなく、ただ貧しい民と苦楽を共にするのみである。内外に布告して、朕の意を知らしめよ」と仰せられた(注:菅家文草による)。十二月二十五日辛未、左大臣藤原良世が致仕(ちし、辞職)した(注:公卿補任による。○案ずるに扶桑略記は昌泰元年のこととするが、誤りである)。この月、従四位下菅原衍子(えんし)を女御とした(注:一代要記による)。この年、太宰府で疫病が大流行した(注:菅家文草による)。
¶九年丁巳(897年)、夏六月八日壬子、右大臣兼左近衛大将・皇太子傅源能有が薨じた(注:扶桑略記・公卿補任による)。十九日癸亥、中納言兼右近衛大将藤原時平を大納言兼左近衛大将とし、中納言菅原道真を権大納言兼右近衛大将とした(注:公卿補任による)。秋七月三日丙子、皇太子が清涼殿で元服した(注:日本紀略・歴代皇紀・大鏡裏書・帝王編年記による。清涼殿であることは帝王編年記および大鏡裏書による。○案ずるに扶桑略記の醍醐紀が引く外記日記もこの日のこととし、諸書と合致する。しかし宇多紀および大鏡・一代要記は七年正月十九日とし、愚管抄は十月九日とするが、いずれも誤りである)。この日、天皇は皇太子に位を譲った(注:扶桑略記・大鏡・一代要記・歴代皇紀・公卿補任による。○案ずるに扶桑略記・仁和寺御伝の一説は五日とするが、誤りである)。詔して、大納言兼左近衛大将藤原時平、権大納言兼右近衛大将菅原道真に少主(しょうしゅ、若き新帝)を輔佐させ、政務に参加して決裁させた(注:日本紀略による)。天皇は自ら書を著し、臣下や庶民の賢愚、国家の得失を一つ一つ挙げて、後を継ぐ帝に戒めて言った。「賞罰を明らかにし、愛憎に惑わされてはならない。心の用い方を公平にし、好悪に流されてはならない。よく喜怒の情を慎み、それを顔色に表してはならない。治世のことは見識ある者に尋ね、道は六経に求めよ。左大将藤原朝臣(時平)は功臣の後裔で、年は若いとはいえ、すでに政治の道理に熟達している。新君はこれを重んじるように。右大将菅原朝臣(道真)は大儒であり、政事を深く知り、直言を憚らない。朕はさきに東宮を立てるにあたり、ただこの朝臣とのみ相談して決めた。また位を譲ろうとしたが、まだ果たせずにいたとき、朝臣は『事をぐずぐずと留めておくと、変事が生じます』と言った。そのため朕の決意は金石のように固まったのである。朝臣は朕にとって忠臣であるのみならず、新君にとっても功臣である。新君はこれを重んじるように。季長(すえなが)は公事に深く熟達し、長谷雄は経典に博く通じており、ともに大器である。憚ることなく用いるように」と(注:寛平遺誡による)。
¶醍醐帝(だいごてい)が禅を受けると、宇多天皇を尊んで太上天皇とした(注:日本紀略・扶桑略記による)。書を送って再三これを辞退したが、聞き入れられなかった。後太上天皇と称し、陽成上皇(ようぜいじょうこう)と区別した。八月、東三条院に居を移した(注:日本紀略による)。
¶昌泰(しょうたい)元年(898年)二月、朱雀院(すざくいん)に遷った(注:日本紀略による)。朱雀院太上天皇と称した(注:日本紀略・菅家文草による)。十月、しばしば畿内で遊猟した。常陸太守貞数親王(さだかずしんのう)・権大納言菅原道真らが従った。宮滝(みやたき)に赴こうとして、道真の高市郡(たけちのこおり)の山荘に宿り、ついに宮滝に至った。また住吉の浜に赴き、竜田山を経て河内に入り(注:扶桑略記・帝王編年記による)、そのまま舟に乗って江北(こうほく)に至り、住吉社に詣でた。群臣は和歌を献じた(注:扶桑略記による)。閏月、朱雀院に還った(注:扶桑略記・帝王編年記は十一月のこととするが、今は日本紀略に基づいて訂正した)。しばしば文人を召し、宴を設けて詩を賦させ、また柏梁殿(はくりょうでん)を朱雀院に構えた。太上皇は仏法を篤く尊び、落髪して出家しようとした。二年十月、さらに尊号を辞退し(注:日本紀略・菅家文草による)、単に「朱雀院」とのみ称することを請うたが、帝は聞き入れなかった(注:菅家文草による)。この月、仁和寺で落飾した(注:日本紀略・一代要記・仁和寺御伝による)。法名は空理(くうり)、灌頂号は金剛覚(こんごうかく)といった(注:仁和寺御伝には法名を空理とし、後に金剛覚と改めたとある。今は台記の鳥羽帝の語による)。僧益信(やくしん)から三帰十善戒(さんきじゅうぜんかい)を受けた(注:日本紀略・扶桑略記による)。十一月、東大寺で受戒した(注:日本紀略・扶桑略記・仁和寺御伝による)。しきりに書を送って尊号を辞退し(注:扶桑略記・大鏡裏書による)、帝はこれに従い、法皇と称した(注:日本紀略・扶桑略記による)。三年七月、金峯山(きんぷせん)に行幸した(注:扶桑略記による)。十月、高野山に行幸した(注:日本紀略・仁和寺御伝による)。
¶延喜元年(901年)八月、仁和寺で法華八講を修した(注:日本紀略による)。四年三月、仁和寺に室(むろ)を営み、世に御室(おむろ)と称した(注:仁和寺御伝による)。この年比叡山に登り、僧増命(ぞうみょう)に「私は幼いころこの山に遊び、出家してここに住みたいと心に願っていたが、ついに果たせなかった。すでに益信から声聞戒(しょうもんかい)を受け、今また師から菩薩戒を受けて、宿願を遂げたい」と語った。そこで千光院(せんこういん)に堂を造った。五年四月、増命から回心戒(えしんかい)を受け、さらに胎蔵・金剛両部の大法を受けた(注:扶桑略記による)。七月、書を送って封戸(ふこ)を辞退した(注:日本紀略・扶桑略記・本朝文粋による)。九月、再び金峯山に行幸した(注:仁和寺御伝は八月のこととするが、今は日本紀略に従う)。七年十月、熊野に行幸した(注:日本紀略・扶桑略記による)。もともと法皇が薙髪(ちはつ)したとき、近臣の橘良利(たちばなのよしとし)もまた剃髪して寛蓮(かんれん)と号した。法皇はすでに世を脱してのち、しばしば比叡山や石上(いそのかみ)に行幸したが、そのたびに人に知られることを望まず、常に供の護衛を退けて、ただ寛蓮一人だけが従うことを許された。帝がある時近臣に命じて法皇に供奉させようとしても、法皇はそのたびに避けて密かに出立してしまった(注:大和物語による)。法皇は宇多院、亭子院(ていじいん)、六条院(注:日本紀略による)、中六条院(なかのろくじょういん、注:日本紀略・拾芥抄による)に住んだ。
¶承平(じょうへい)元年(931年)七月十九日甲辰、仁和寺で崩御した。御年65歳(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡裏書・一代要記による)。遺詔して「席(むしろ)で棺を包み、葛(かずら)でこれを結べ」と仰せられた(注:続古事談が引く李部王記による)。葬司(そうし)を任じて山陵を造ることを停止し、国忌(こっき)を置いて荷前(のさき)に列し、諸司・諸国に喪に服させ、素服(そふく)を着させた(注:日本紀略による)。大内山(おおうちやま)で火葬した(注:日本紀略・扶桑略記による)。宇多院と称し(注:日本紀略・本朝文粋・歴代皇紀による)、また亭子院とも称した(注:後撰和歌集・伊勢家集による)。天子が「院」と称し、尊号を省くのはこれに始まる(注:案ずるに、帝は位を脱いだ後、朱雀院および中六条院に住んだため、初めは六条院太上皇と称し、また朱雀院太上皇と称した。その後尊号を辞することを請い、単に朱雀院とのみ称し、醍醐帝はこれに従った。後にまた亭子院と称し、宇多院と称したが、いずれもその住んだ場所によって号としたものである。崩御後は諡を停めたため、生前の号を踏襲して某院と称したのである。陽成帝の場合、生前は尊号を辞していなかった。しかしその崩御が帝より後であったため、やはり帝の例を襲って陽成院と称したのである。帝より後、在位のまま崩御した者、例えば醍醐・村上(むらかみ)の二帝は、某天皇と称する。位を脱いで別院に住んだ者、例えば朱雀帝(すざくてい)は、某院と称する。そして冷泉帝(れいぜいてい)以後は、在位・脱屣を問わず、一律に某院と称し、もはや尊号を付すことなく、ついに永くの慣例となったという)。帝はかつて画工に命じ、殷周以来の名臣の像を紫宸殿の障子に描かせた。これを賢聖障子(けんじょうのしょうじ)という(注:古今著聞集による)。即位の当初、関白基経に「朕には四海に臨み治める器量がない。速やかに位を去りたい」と語った。基経はその不可を説き、そのまま政事を委ねられた。基経が薨じてのち、帝は自ら庶政を執った(注:愚管抄による)。後世、政治のあり方を語るとき、必ず延喜・天暦の治を称える。しかし帝の治世には、かえって上代の無為の風があった(注:神皇正統記による)。帝はかつて「幼いころから生ものを食べず、心は仏門に帰依していた」と仰せられた。8、9歳のころ比叡山に登り、僧の儀に憧れ、これより常に諸寺に遊んだ。17歳のとき、母后に出家を願い出た。母后は「よろしい。しかし今しばらく世事を経てから、それを行っても遅くはない」と仰せられた。三、四か月を経て再び願い出たが、なお許されなかった。その後四か月して、先帝(光孝天皇)が登極し、ついに出家は果たせなかった(注:扶桑略記が引く寛平御記による。○案ずるに、僧の儀に憧れたことを、扶桑略記は8、9歳のころから修行に励んだとする。今は元亨釈書もあわせて採った)。また「幼いころ、生き物を傷つけまいと心に誓っていた。即位して以来、鷹狩りを愛好しはしたが、あえて獲物を貪ることはせず、ただ物寂びた趣を楽しむのみであった。静かにこれを思うに、これもまた煩悩である」と仰せられた(注:菅家文草による)。薙髪ののち、僧益信を師とし、東寺で灌頂を受けた。その後帝は仁和寺に法を伝え、仁和寺の御室は帝を推して宗祖とした(注:神皇正統記による)。