卷之三十 本紀三十

光孝天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう)は、諱を時康(ときやす)といい、仁明帝(にんみょうてい)の第三子である。母は贈皇太后藤原氏(ぞうこうたいごうふじわらし)。

天長(てんちょう)七年、六条第(ろくじょうてい)でお生まれになった(注:七年について、本書および扶桑略記には八年とあるが、今は崩年58歳とある記述、および大鏡裏書・一代要記・歴代皇紀によって訂正した)。天皇は幼少より聡明で、経史(けいし)を読むことを好み、立ち居振る舞いは物静かで上品であり、謙虚で恭しく、寛大で情け深く、一族を親しみ愛し、とりわけ人としての務めに長じていた。仁寿(にんじゅ)の太皇太后はこれを深く大切にし、宴会があるたびに、必ず天皇を招いて主賓とした。渤海(ぼっかい)の使者・王文矩(おうぶんく)は、天皇が他の親王たちの中にいるのを見て、密かに人に「この王子には至って貴い相がある。必ず大位に昇るであろう」と語った。藤原宗直(ふじわらのむねなお)という者が、藩邸(はんてい、親王家)に仕えていた。その兄・仲直(なかなお)は人相見に優れており、弟を戒めてこう言った。「あの君には天子の骨相がある。おまえはよくお仕えするように。」

承和(じょうわ)の初め、親王となった(注:承和以下は大鏡裏書による)。十二年二月、清涼殿(せいりょうでん)で元服した。十三年正月、四品(しほん)に叙せられた。  嘉祥(かしょう)元年十一月、三品に叙せられた(注:文徳実録による)。貞観(じょうがん)六年正月、上野太守(こうずけのたいしゅ)を兼ねた。八年正月、太宰帥(だざいのそち)となり、中務卿(なかつかさきょう)は元のままとした。十二年二月、二品に叙せられた。十八年十二月、式部卿(しきぶきょう)となった。

元慶(がんぎょう)四年正月、再び常陸太守(ひたちのたいしゅ)を兼ねた。六年正月、一品に叙せられた。

八年二月四日乙未、陽成帝(ようぜいてい)は二条院(にじょういん)に位を譲り、文武の臣僚が供奉(ぐぶ)した。参議・藤原山陰(ふじわらのやまかげ)、藤原諸葛(ふじわらのもろかず)、阿部清行(あべのきよゆき)らが留守を務めた。太政大臣・基経(もとつね)は親王・公卿とともに策を定め、璽(じ)・鏡・剣を捧げて天皇に即位を勧めた。天皇は三度辞退した(注:扶桑略記には、天皇は固く辞退し、本康親王(もとやすしんのう)に譲ろうとしたが、太政大臣らが即位を勧めた、とある)。兵部卿(ひょうぶきょう)・本康親王は席を離れて跪き、こう奏上した。「歴数(れきすう、天命による帝位継承の順)はここにあり、人々の心もここに帰しております。昔、漢の文帝(ぶんてい)は三度辞退したことが高く評価されましたが、それでもなお占いの結果に従い、ついには代の邸(やしき)からの迎えに応じました。伏してお願い申し上げます。殿下、どうか早く群臣の願いをお聞き入れください。」五日丙申、親王・公卿は文武百官を率いて、東二条宮(ひがしにじょうのみや)に天皇をお迎えした。太政大臣・基経は後から到着し、剣を解いて進み出た。本康親王・左大臣・源融(みなもとのとおる)は先に座についていたが、互いに顔を見合わせて大いに驚き、みな剣を解いた。この日、天皇は鸞輿(らんよ、天子の車)にお乗りになり、東宮にお入りになった。二十三日甲寅、大極殿で天皇の位にお即きになった。時に55歳(注:年齢は本書に崩年58歳とある記述、および歴代皇紀・大鏡裏書・愚管抄による)。亡き母・藤原氏を追尊して皇太后とし、群臣はそれぞれに応じて位を進めた。太政大臣・基経、左大臣・源融、右大臣兼左近衛大将・源多(みなもとのまさる)、大納言兼右近衛大将・藤原良世(ふじわらのよしよ)は、いずれも元のままとした(注:太政大臣以下は公卿補任による。○公卿補任には、二月二十三日、基経が重ねて関白になったとある。神皇正統記には、光孝天皇の即位にあたり、摂政を改めて関白としたとあり、これが関白の始まりだとする。しかし本書の下文を考えると、六月の詔に「百官が事を奏上する際は、まず太政大臣に諮ってから、その後に奏聞せよ」とある。これはすなわち関白の意味であるが、まだその名称はなかった。関白の号は仁和三年に初めて見える。扶桑略記・愚管抄が載せる詔文、および濫觴抄(らんしょうしょう)がその確かな根拠となる。よって公卿補任・神皇正統記の説はいずれも採らない)。二十五日丙辰、大霧のため昼も暗かった。二十八日己未、東宮からお遷りになり、仁寿殿(じじゅうでん)においでになった。左仗頭(さじょうのとう)に火屋(ひや)を燃やさせた。五日丙寅(注:月の記載が原文にないが、日付の順から三月のことと思われる)、左右馬寮(さゆうめりょう)の十列(とおつら)の細馬(さいば)を観覧した。山城が「木が連理になった」と報告した。二十二日癸未、繁子女王(しげこじょおう)を卜定して斎宮とした。東西の京の飢民を救済した。二十六日丁亥、霜が降りた。夏四月一日辛卯、従三位・班子女王(はんしじょおう)を女御(にょうご)とした。四日甲午、天皇は初めて『文選(もんぜん)』を読み始めた。五日乙未、雹が降った。七日丁酉、梅宮祭(うめのみやのまつり)を再開した。九日己亥、雹が降った。十日庚子、寒さで霜が降り、北斗(ほくと)から流星が現れ、紫微垣(しびえん)の西蕃(せいはん)第五星を犯した。色は青白く、大きさは柚子(ゆず)ほどであった。十一日辛丑、霜が降りた。十四日甲辰、地震があった。十六日丙午、霜が降りた。この日、地震があった。十七日丁未、霜が降り、草木の葉が枯れた。二十五日乙卯、尾張(おわり)・美濃(みの)が「木が連理になった、それぞれ二件」と報告した。五月十一日庚午、山城が「木が連理になった」と報告した。二十九日戊子、勅して博士らに太政大臣の職掌(しょくしょう)について議論させた。北極(ほっきょく)の大星から流星が現れ、大きさは李(すもも)ほど、色は白く光を帯び、三公(さんこう)の星座に至って消えた。六月一日庚寅、日食があった。五日甲午、詔して「百官が事を奏上する際は、まず太政大臣・基経に諮り、その後に奏聞せよ」とした。十九日戊申、勅して春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)の国忌(こき)を廃し、贈皇太后の国忌を東大寺に置いた。二十日己酉、従四位下・藤原佳美子(ふじわらのかみこ)を女御とした。三十日戊午、地震があった。秋八月一日己丑、天の西南に雷のような音がした。四日壬辰、勅して上総(かずさ)に「国内の浪人(ろうにん、流浪の民)を捕らえて本土に返せ。留まることを願う者は、別に記録して奏上せよ」とした。この夜、小さな星が雨のように散り落ちた。五日癸巳、流星が現れ、あるいは紫宮(しきゅう)を出入りし、あるいは北斗を出入りし、多くの星を犯すこと数え切れないほどであった。二十八日丙辰、出雲・長門(ながと)が前年不作であったので、正税稲十一万束を頒給(はんきゅう)した。三十日丁巳、平等子(へいとうし)を女御とした。九月二日己未、信濃(しなの)が「木が連理になったもの二件」と報告した。三日庚申、大流星があり、長さは一丈あまり、東南から起こり西北に落ち、雷のような響きがした。二十日丁丑、恒貞親王(つねさだしんのう)が薨じた。冬十月二日己丑、これより先、出羽が「秋田城に鏃(やじり)のような雨が降り、飽海郡(あくみぐん)に石の雨が降った。その形は鏃に似て南を向いていた」と報告していた。陰陽寮は「その占いは兵乱と疫病にある」と申し上げた。ここに至って勅して出羽に警戒させた。二十八日乙卯、御禊(ぎょけい)を行った。十一月五日壬戌、甲斐(かい)が「嘉禾(かか、めでたい稲)が生じた」と報告した。六日癸亥、地震があった。二十二日己卯、大嘗祭(だいじょうさい)を行った。十二月一日丁亥、日食があった。二十日丙午、十の陵と五つの墓を改め定めた。

仁和(にんな)元年乙巳、春正月十二日戊辰、填星(てんせい、土星)が月に入った。十六日壬申、日に外向きの背気(はいき)が現れ、長さは二丈あまりであった。十七日癸酉、初めて参議以下が貂裘(てんきゅう、貂の毛皮の衣)を着ることを禁じた。二月十六日壬寅、地震があった。二十一日丁未、天皇は紫宸殿で政務をご覧になり、詔してこう仰せられた。「古来、瑤図(ようと、玉の図、天命)を治め瓊録(けいろく、天子の位)に臨む者は、みな三微(さんび)を規範として教えを敷き、五始(ごし)を慎んで規範を成してきた。思えば、あの元を体し正に居る行いは、どうして単に古きを改め新しきを立てる務めにとどまろうか。私は取るに足らぬ身でありながら、この重ねての光を継いだ。奔馬(ほんば)に乗って手綱を持たないかのように、慎み恐れている。日々慎みを重ね、たちまちまた二年が経った。龍星(りゅうせい)は再び巡り、鳳律(ほうりつ、暦)はしばしば変わった。もし年を重ねて旧来の年号を襲うならば、私が旧来の典章を忘れたと言われることを恐れる。よって元慶九年を改めて仁和元年とする。伊勢・備前両国の百姓の去年の庸を免除する。」三月十五日庚午、地震があった。閏月二十日乙巳、大風と暴雨があった。夏四月十九日癸酉(注:原文「夏四日四月十九日」とあるが、「四日」は衍字と見て訳文からは除いた)、穢(けがれ)により賀茂祭を停止した。二十七日辛巳、勅してこう仰せられた。「私は取るに足らぬ身をもって、みだりに大いなる皇統を受け継いだ。登用の務めを担うことは、奔馬を御するかのようであり、光を受け継ぐしるしを受けたことは、薄氷を踏むことを忘れないようにしている。前代の王の様子を総合的にとらえ、昔の制度を調べ求めた。ただ夜明け前から衣を着て政務にあたり、日が傾いてから食事をとることを心がけ努めてきた。自ら慈しみと倹約を行い、人々が豊かになることを目指してきたが、時運は衰えの時代を受け継ぎ、風俗は頽廃し弊害が生じている。倉庫は空になり、経費は非常にかさんでいる。卿士(けいし)や群吏で禄を受ける者は既に多く、親王や源氏(みなもとうじ)で時服(じふく)を賜る者もまた多い。収支を計算しても、その費用をまかなうことができず、価格を調整して用いても、その制限をほとんど超えてしまう。そもそも天下の大切な宝は、天下にとって公のものである。己を慎み心を痛めても、いまだどう解決すべきかわからない。どうして百官がその禄・賜与を欠くのに、一人だけがその余りある富を保つことがあろうか。私の着る絹・綿の二色については、しばらく数を減らすこととする。あわせて旧例に従い、上の者が損をするという誠意を推し進め、国を治める教化を存続させたい。」五月三日丁亥、勅して中務省(なかつかさしょう)に、天皇の御服の絹・綿の数を減らさせた。十四日戊戌、丹生川上(にうのかわかみ)で晴天を祈った。二十日甲辰、長雨のため京中の飢民を救済した。二十二日丙午、日の色が黒く変わり、光が射すように散った。二十六日庚戌、地震があった。六月三日丙辰、これより先、公卿が五位以上の封禄(ほうろく)を減らすことを奏請していた。ここに至って勅してこう仰せられた。「正朔(せいさく、暦)は巡り、私は新たに馳せ駆ける手綱を執っている。倉庫はすでに尽きており、私はすでに韲(あえもの)を舂(つ)くような苦労を担っている。あの焦り思い悩む傷みは、千里の焦げた石よりも熱く、深く沈む憂いの苦しみは、九年山を懐(いだ)くよりも深い。これで愁えないならば、他にどんなことを愁えるというのか。天の役人が良く治まり、地が整い一つにまとまっているのは、みな諸々の大夫(たいふ)の取りはからいによるものであり、決して私一人の施しによるものではない。どうして帝から賜るものを功績のある者から割いて、いよいよ私の過ちを重くし、不足を無徳の者に補って、さらに人心を失わせることがあろうか。卿らはよく薄い禄に甘んじているのに、私だけがどうして粗末な衣に安んじていられようか。今回の願い出は、拒んで聞き入れないこととする。」二十日癸酉、太宰府が「新羅(しらぎ)の使者三十余人が到着した」と報告した。勅してこれを送り返させた。秋七月十三日乙未、丹生川上に幣帛を奉り雨を祈った。十四日丙申、西寺(さいじ)が白雀を献上した。十九日辛丑、地震があった。三十日壬子、青雲が東北から現れ西南に至った。この月、肥前(ひぜん)に粉のような土や砂が雨のように降り、薩摩(さつま)に砂石が雨のように降った。八月四日丙辰、南方から流星が現れ、色は黄白く、五車(ごしゃ)の星座に至って消えた。十五日丁卯、神泉苑(しんせんえん)に行幸し魚を観覧した。二十七日己卯、太白(たいはく)が太微垣の左執法を犯し、月が右掖門(うえきもん)に入り、左掖門(さえきもん)から出た。九月十三日甲午、地震があった。十四日乙未、また地震があった。十八日己亥、鹿が大舎人寮(おおとねりりょう)に入り込んだ。二十二日癸卯、賀茂・松尾・稲荷・住吉・石清水・高賀茂(たかがも)・平野・春日(かすが)・大原野・梅宮に幣帛を奉り、あらかじめ不祥を祓った。冬十月六日丁巳、虹が宜陽殿(ぎようでん)の西廂(にしびさし)に現れた。二十日辛未、勅して太宰府に唐物(からもの)の私的な売買を禁じさせた。二十一日壬申、雷が鳴った。二十五日丙子、流星が東北へ流れた。十一月一日辛巳、日食があった。二十日庚子、流星が心宿の前星から現れ、大星を貫いて天江(てんこう)に至って消えた。二十六日丙午、大流星が紫宮から現れ、大きな鍋のようで、色は赤白く、天市(てんし)に至って消えた。十二月七日丁巳、神泉苑に行幸し鷹狩りを行った。二十日庚午、天の東南で楼閣が壊れるような音がした。夜、地震があり、雷のような音がした。二十三日癸酉、太政官が「筑後掾(ちくごのじょう)・藤原近成(ふじわらのちかなり)が筑後守(ちくごのかみ)・都御酉(みやこのみとり)を殺害した罪は、斬罪にあたる」と奏上した。詔して罪一等を減じ、遠流(おんる)に処した。

二年丙午、春正月二十八日戊申、日の右に珥(じ)が現れた。二月五日乙卯、日に冠気(かんき)が現れ、左右に両方の珥が出た。十四日甲子、日の外側に黄白い気が現れ、その形は冠の纓(えい、冠の紐)のようであった。三月二日辛巳、体調がすぐれなかった。三日壬午、御斎(ごさい)と灯明を奉ることを停止した。五日甲申、病痛があった。八日丁亥、大風雨があった。十三日壬辰、暴風と雷雨があった。二十一日庚子、地震があった。夏四月七日丙辰、大鳥が弁官(べんかん)の曹司(ぞうし)の前に集まったので、これを射て捕えた。十三日壬戌、大地震があった。五月一日己卯、日食があった。十日戊子、大雨で河が溢れた。十二日庚寅、石見守(いわみのかみ)・上毛野氏永(かみつけののうじなが)、掾(じょう)・大野安雄(おおののやすお)に罪があり、いずれも徒刑(ずけい)に処せられた。十八日丙申、肥後守(ひごのかみ)・藤原時長(ふじわらのときなが)、摂津守(せっつのかみ)・多治藤善(たじのふじよし)、豊後守(ぶんごのかみ)・橘長茂(たちばなのながしげ)、甲斐守(かいのかみ)・藤原当興(ふじわらのまさおき)は、長年任地に赴かなかった。ここに至って勅して位を一階降し、その辞令書を没収した。二十三日辛丑、鉤陳(こうちん)から流星が現れ、色は青く光を帯び、内階(ないかい)を経て文昌(ぶんしょう)の星座に至って消えた。二十六日甲辰、天の東南で雷のような音がした。石清水八幡宮で太鼓のような音がし、南楼(なんろう)が風波のように鳴った。六月七日乙卯、八幡宮が鳴動したことにより、陸奥・出羽・太宰府に警戒させた。十三日辛酉、長雨のため京中を救済した。十五日癸亥、大地震があった。十八日丙寅、天文博士(てんもんはかせ)の奏上により、東大・元興・興福・薬師・延暦・西大・法華(ほっけ)・大安・法隆の九寺に使者を遣わし、大般若経を転読させ、不祥を祓わせた。秋七月三日庚辰、外記(げき)に勅して、参議以上で庁に出仕して政務を執る者を記録させ、毎月一日と十六日に蔵人所(くろうどどころ)に提出させた。二十四日辛丑、大陵(たいりょう)の星座から流星が現れ、色は青く、伝舎(でんしゃ)を経て華蓋(かがい)に至って消えた。三十日丙午、夜、長身の人が紫宸殿の前に現れた。左近衛の陣で人を絞めるような音がし、世の人々はこれを「鬼絞(おにしぼり)」と呼んだ。八月四日庚戌、これより先、安房(あわ)が「五月に雷雨と地震があり、砂や石、粉のような土が雨のように降った。稲の苗が枯れ、牛馬が死んだ」と報告していた。陰陽寮が占って「鬼神の祟りで霊が怒っており、東南に兵乱と疫病が起こるであろう」と申し上げた。ここに至って勅して安房・上総・下総にあらかじめ厳戒させた。七日癸丑、大風と洪水があった。賀茂・松尾・稲荷・貴布禰・丹生川上に幣帛を奉り晴天を祈った。十五日辛酉、神泉苑で漁を観覧した。十八日甲子、体調がすぐれなかった。使者を京に近い諸寺に遣わし、転念(てんねん)の功徳を修させた。九月三日戊寅、御灯を停止した。四日己卯、伊勢斎内親王(いせのいつきのないしんのう)の葛野河(かどのがわ)の禊(みそぎ)の場所に雷が落ちた。十一日丙戌、地震があった。この夜、左仗(さじょう)の上で鈴のような音がした。冬十月一日丙午、日食があった。二日丁未、紫宸殿で宴を行った。大学寮(だいがくりょう)が白い亀を献上した。四日己酉、体調がすぐれなかった。使者を京に近い諸寺に遣わし功徳を修させた。五日庚戌、またそれぞれの寺司(じし)に経を転読させた。六日辛亥、軽い罪の囚人を放免した。九日甲寅、陰陽寮に命じて承明門(じょうめいもん)で祭を修させ、邪気を祓わせた。十一日丙辰、延暦寺座主(えんりゃくじざす)・円珍(えんちん)を紫宸殿に召し、五日間病気平癒を祈らせた。二十五日庚午、病が癒え、紫宸殿においでになった。二十六日辛未、雷が鳴り暴風雨があった。十二月十四日戊午、芹川野(せりかわの)で狩りを楽しんだ。二十五日己巳、神泉苑に行幸し、魚を観覧し鷹狩りを行った。北野(きたの)に至り、左右馬寮に御馬を馳せさせた。

三年丁未、春正月一日乙亥、雨のため朝賀を廃した。三十日甲辰、盗賊が大蔵省の倉庫に穴を開け、官物を盗んだ。二月五日己酉、貢調(こうちょう、租税の貢納)が期限に遅れたことにより、美濃・下野(しもつけ)・若狭(わかさ)・能登(のと)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)・丹後(たんご)・但馬・因幡・伯耆・石見の国司の位禄(いろく)・公廨(くがい)を没収した。十六日庚申、従五位上・藤原元善(ふじわらのもとよし)を女御とした。三月十四日戊子、月に纓(えい)のような冠がかかり、左右に両方の珥が出た。夏四月一日甲辰、日食があった。勅して上野に「例年の貢馬に加え、さらに馬五十匹を貢げ」とした。六日己酉、参議・源是忠(みなもとのこれただ)を遣わして、大神宮に幣帛を奉らせた。また使者を分けて石清水・多度(たど)・日吉(ひえ)・浅間(あさま)の社に幣帛を奉らせた。十三日丙辰、夜、無数の烏(からす)が大極殿の上を飛び鳴いた。十七日庚申、京中で「三つの太陽が並んで出た」との噂が流れた。五月十九日壬辰、石見国司が「罪人・大野安雄が禁を破って逃亡した」と報告した。二十八日辛丑、大原野(おおはらの)を太上天皇の遊猟の地とした。二十九日壬寅、地震があった。六月十一日癸丑、五月以来の長雨により両京が飢えたので、これを救済した。二十七日己巳、雹が降った。三十日辛未、雷が鳴り、右近衛将監(うこんえのしょうげん)・在原遠瞻(ありわらのとおみ)が陣中で雷に打たれて死んだ。秋七月二日癸酉、地震があった。六日丁丑、虹が東宮に現れた。綾綺殿(りょうきでん)と仁寿殿の間で白い亀を得て、神泉苑に放った。この夜、地震があった。十五日丙戌、丹生川上に幣帛を奉り晴天を祈った。三十日辛丑、大地震があった。天皇は紫宸殿を出て南庭に避難した。両京の諸官庁・民家の多くが倒壊し、圧死する者が多かった。この日、五畿七道の諸国で海が溢れ、多くの人が溺死し、摂津がとりわけ甚だしかった。夜、東西で雷のような音がした。この後、京中でたびたび地震があった。八月四日乙巳、達智門(たっちもん)の上に気が生じ、煙のようで煙でなく、虹のようで虹でなく、しだいに天に至った。八日己酉、羽蟻(はあり)が大蔵省から起こり、船丘(ふなおか)にまで至り、その様子は虹のようであった。十七日戊午、宮中で理由もなく夜に騒ぎが起こり、京中で怪異が多く起こった。十八日己未、百人の僧に紫宸殿と大極殿の両殿で三日間大般若経を転読させ、災異を祓い豊作を祈らせた。二十日辛酉、大風雨があり、木を抜き屋根を吹き飛ばした。内膳司(ないぜんし)が倒れ、両京の家屋の多くが倒れ、圧死する者が多かった。鴨川(かもがわ)・葛野川(かどのがわ)が溢れた。二十二日癸亥、太政大臣・基経、左大臣・源融、右大臣・源多らが、表を奉って皇太子を立てることを願い出た。二十五日丙寅、皇子・源定省(みなもとのさだみ)を親王とした。詔してこう仰せられた。「私の子どもたちには、みな朝臣(あそん)の姓を賜ってきた。これはまことに国費を節約し民の労苦を止めるための計らいである。今、台鼎(たいてい、大臣たち)の優れた進言に驚き、祖廟(そびょう)の重い務めを仰ぎ思い、億兆(おくちょう、万民)の平安を図り、漢の典籍に磐石(ばんじゃく)の例を尋ね、天下の固き守りを占い、周の詩篇に城を維(つな)ぐ歌を詠む。劉氏(りゅうし)でも姫氏(きし)でもなく、ついにその選にかなう者を得た。第七子・定省は、年21歳、常に私のそばに仕え、いまだ屋敷を出たことがない。寛大で情け深く親や兄弟によく仕え、私が深く慈しむ子である。かつては兄弟の列に混じっていたが、にわかに一つの家に編入された。今、祖宗の重要な命を伝えるにあたり、どうしてこの請いを拒むことがあろうか。なお自分のためではないとしても、誰がこれに逆らうことを厭うだろうか。その臣籍(しんせき)の姓を削り、親王の列に加える。心宿(しんしゅく)の星はよろしく帝子(ていし)の名にふさわしく、泰山(たいざん)はどうして天孫の号を辞退できようか。」二十六日丁卯、体調がすぐれなかった。定省親王を皇太子に立てた。この日、天皇は仁寿殿で崩じた。御年58歳。葛野郡(かどのぐん)田邑陵(たむらのみささぎ)に葬った(注:葬るというのは扶桑略記による)。これを後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)という(注:延喜式による。○扶桑略記には、後田邑陵、あるいは小松山陵(こまつやまのみささぎ)ともいう、とある)。光孝天皇と諡し、世に小松天皇(こまつてんのう)と称した(注:愚管抄・扶桑略記・神皇正統記による)。国忌を西寺に置いた(注:江家次第・仁和寺諸記抄による)。

天皇はしきりに廃れた典礼を復興しようという志を持っていた(注:神皇正統記による)。たびたび外廷で政務をご覧になった。その御体卜(おんたいぼく、天皇自らが行う卜占)、および郡司(ぐんじ)を選び任じる文書、芹川野での遊猟のようなことは、長く典儀(てんぎ)として廃れていたが、即位に及んでしだいにこれを再興した。