卷之九十一 列傳第十八

皇子六

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次26
  1. 恒世親王
  2. 恒貞廢太子
  3. 恒統親王
  4. 基貞親王
  5. 良貞親王
  6. 宗康親王
  7. 人康親王
  8. 本康親王
  9. 國康親王
  10. 常康親王
  11. 源多
  12. 源冷
  13. 源光
  14. 源效
  15. 源覺
  16. 惟喬親王
  17. 惟條親王
  18. 惟彥親王
  19. 惟恒親王
  20. 源能有
  21. 源每有
  22. 源時有
  23. 源本有
  24. 源定有
  25. 源載有
  26. 源行有

恒世親王

淳和天皇(じゅんなてんのう)には五人の皇子があった。贈皇后は、第一子の恒世親王(つねよしんのう)を産んだ(注:日本紀略・皇胤紹運録による)。皇后は、第二子の廃太子恒貞(つねさだ)(注:三代実録・一代要記・皇胤紹運録による)、第三子の恒統親王(つねむねしんのう)(注:続日本後紀・一代要記・皇胤紹運録による)、第四子の基貞親王(もとさだしんのう)を産んだ(注:三代実録・帝王編年記・皇胤系図による)。宮人の大中臣安子(おおなかとみのやすこ)は、第五子の良貞親王(よしさだしんのう)を産んだ(注:一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録による)。

恒貞廢太子

恒世親王は、はじめ諸王の一人として従四位下に叙せられ、侍従となった(注:日本紀略による)。弘仁十四年、皇太子に立てられたが、恒世は上表して固く辞退したため、親王とされ、三品を授けられた(注:日本紀略・帝王編年記による。○案ずるに、神皇正統記には、嵯峨帝がすでに淳和帝に譲位した後、さらに恒世を皇太子に立てさせたのは、おおむね淳和帝の血統を永く皇統に伝えようとしたためである、しかし恒世は固く辞退し、ついに出家した、とある。今諸書を検するに、これを証するものはない。ただ仁明帝(にんみょうてい)が即位すると恒貞を皇太子に立て、恒貞はかつて儲位を辞退しようとし、嵯峨上皇がこれを諭したこと、そして上皇の崩御後、伴健岑らの謀反に連座して廃されたことを考え合わせれば、正統記の記すところにもあるいは根拠があるのかもしれない。今はひとまずこれを付記して参考に備える)。この年、治部卿に任じられ、中務卿に転じた。天長三年五月、薨じた。年二十二。帝(淳和天皇)は悲しみに沈み、長く朝政を執らなかった(注:日本紀略による)。その子・正道王(まさみちおう)は、帝(淳和天皇)に特に鍾愛され、仁明帝の猶子とされた。仁明帝もまたこれを愛し、常に殿上に伴った。承和四年、殿上で元服し、従四位下に叙せられた。六年、侍従となった。七年、武蔵守となった。翌年六月、任期を終えぬまま卒した。時に年二十であった(注:続日本後紀による)。

恒統親王

廃太子恒貞は、幼くして人並みはずれて聡明で、経史をよく読み、文章にも巧みであったため、嵯峨帝はこれを非凡な人物と思った(注:後拾遺往生伝による)。仁明帝が譲位を受けて即位すると、恒貞は皇太子に立てられた(注:続日本後紀による)。小野篁(おののたかむら)・春澄善縄(はるすみのよしただ)を選んで東宮学士とした(注:続日本後紀・後拾遺往生伝による)。淳和帝はたびたび書を送って儲弐(皇太子の位)の辞退を願ったが、仁明帝は聞き入れなかった(注:続日本後紀による)。恒貞は容貌が端正で威儀も落ち着いており、仁明帝はこれを尋常ならざる器量の持ち主と考えた(注:後拾遺往生伝による)。恒貞がはじめて紫宸殿に参内したとき、拝舞して昇殿した。勅により御衣を賜り、これを受けて拝舞し退出した。時に九歳であったが、その礼容は老成した人のようであった。まもなく孝経を読み始め、公卿を招いて宴を賜った(注:続日本後紀による)。

恒貞はかつて落ち着いた様子で奏上して言った。「皇太子が大学で釈奠(せきてん、孔子を祭る儀式)を行うのは、古くからのしきたりです。この儀式は久しく廃れており、その理由がわかりません。」仁明帝は言った。「昔、天平の末に、大臣・吉備真備(きびのまきび)が高野天皇(孝謙天皇)に勧めて大学に行幸しこの儀式を行わせた。それから八十余年、廃れて行われていない。今、太子が復興の志を持っているのは、まことに喜ばしいことである。」そこで恒貞に勅して百官を率いて儀式を執り行わせ、博士に経を講じさせた。群臣に詩を賦させ、恒貞もまた詩を作った。菅原清公(すがわらのきよきみ)・滋野貞主(しげののさだぬし)らはこれを大いに賞賛し、それぞれ長句を献じて励ました(注:後拾遺往生伝・恒貞親王伝による)。

承和五年十一月、紫宸殿で元服した。詔に言う。「皇太子恒貞は、人並みはずれた気風を持ち、もとより温雅な資質を備え、東宮に学び、儲君の位を守って年少より成長し、日に日に立派になってきた。今月のよき日に、はじめて元服の儀を整える。義は四礼を兼ね、道は三加(元服の三度の加冠)を重んじる。その盛徳はこれによっていよいよ融け合い、皇統を承け継ぐこともこれによっていよいよ栄えるであろう。この慶事は、ひとり朕のみの喜びではない。あまねくこの恵みを国中に及ぼし、天下の父の跡を継ぐ者に、六位以下の位一級を授けるべきである。承和四年以前に申告した未納の租税は、すべて免除せよ。」(注:続日本後紀による)天下に大赦を行った。

恒貞は日ごとに才気が磨かれ、世情にも深く通じるようになり、自ら思った。「わが身は嫡流ではないのに儲君の位にあり、もし両太上天皇(嵯峨・淳和)が崩御された後には、禍のきざしを測りがたい。」そこで春澄善縄に上表文を作らせ、太伯(たいはく)や劉疆(りゅうきょう)の故事にならって賢者に道を譲ろうとしたが、許されなかった。嵯峨太上皇は深くこれを教え諭したが、恒貞は大夫の文室秋津(ふんやのあきつ)、亮の藤原貞守(ふじわらのさだもり)らに会って嘆いて言った。「私はたびたび誠意を尽くして訴えてきたが、いまだ天の恩を蒙っていない。諸君は私の身をどうしてくれようか。」語り終えて涙を流した(注:恒貞伝による)。

承和七年、淳和帝が崩御した。九年、嵯峨太上皇が崩御した。まもなく、春宮帯刀の伴健岑(とものこわみね)らの謀反が発覚した(注:続日本後紀による)。恒貞は恐れ、また上表して皇太子の位を辞そうとした。仁明帝は寛大に答えて言った。「健岑の凶逆が、どうして太子に関わろうか。心にかけるべきではない。」それでも恒貞は不安が去らなかった。数日後、密書が届けられ、「健岑の謀反の計画は、太子のために起こされたものである」とあった。仁明帝はこれを信じた(注:恒貞伝による)。ちょうど帝が避暑のため冷然院にいたとき、恒貞もこれに従っていた。左近衛少将・藤原良相(ふじわらのよしみ)は、近衛四十人を率いて太子の直曹(じきそう、詰所)を包囲し、帯刀らの武器を奪い取り、右兵衛の陣の下に幄を張って坊司ら百余人を分けて禁固した(注:続日本後紀による。○恒貞伝も参照して取った)。雑色以下は左右衛門の陣に禁固し、左衛門権佐・藤原岳雄(ふじわらのおかお)、右馬助・佐伯宮成(さえきのみやなり)らは、近衛を率いて大納言・藤原愛発(ふじわらのちかなり)、中納言・藤原吉野(ふじわらのよしの)、参議・文室秋津を縛り、それぞれ院中に分けて幽閉した。詔して太子を廃し、愛発を京外に追放し、吉野を大宰員外帥、秋津を出雲員外守に貶した。翌日、恒貞は剣四口を右近衛少将・藤原富士麻呂(ふじわらのふじまろ)に付して蔵人所に納めさせた。まもなく廃された坊(春宮坊)の人々を右衛門の陣の庭に集め、詔して大進以下二十八人を諸国の権守・権掾・権目に貶した。殿上の雑色や帯刀の品官で六位以下の者のうち、配流に処せられた者は六十余人におよび、あわせて防人に付され、諸道に発遣された。橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑もまた配流に処された(注:続日本後紀による)。

はじめ直曹を包囲されたとき、恒貞は落ち着いて穏やかな様子で、周りの人に言った。「私は分に過ぎたこの重任を担い、禍のきざしはとうに自ら知っていた。だからこそ数年来、諸君に辞退を告げ、この破局に遭わずに済もうとしてきた。しかし人情に背くのを忍びず、憂患を招くこととなった。これは天命ではなかろうか。」(注:恒貞伝による)まもなく参議・正躬王(まさみおう)を遣わして、恒貞を監視し淳和院に送らせた(注:続日本後紀・恒貞伝による)。ここに至って親王に降された。恒貞は左右を顧みて言った。「幸いにも重い荷を下ろすことができた。」そして淳和院の東の亭子に住み、世に亭子親王(ていじしんのう)と称された。これより専ら仏道に帰依し、妃嬪も二度と召さなかった(注:後拾遺往生伝による)。恒貞の令名は早くから知られ、天下の人々はその将来に期待を寄せていたが、ひとたび廃黜されると、それは恒貞の罪ではなかったので、朝野の人々はこれを悲しんだ(注:恒貞伝による)。

嘉祥二年、三品に叙せられた(注:続日本後紀による)。ついに出家して名を恒寂(こうじゃく)と改め(注:○案ずるに、皇胤紹運録には寂恒とあるが、誤りである)、戒律をよく守って精進した(注:三代実録による)。貞観二年、その荘園・牧場数十か所を大覚寺に施し(注:後拾遺往生伝による)、仏像を造り経論を写してそこに安置した。また定額僧十四人分の香灯・斎飯の資も施した(注:後拾遺往生伝・恒貞伝による)。はじめ史伝を春澄善縄・大江音人(おおえのおとんど)に学び、五経を中原月雄(なかはらのつきお)に学び、後に顕密の秘要を僧・真如道昌(しんにょどうしょう)に受け、いずれもその奥義を究めた(注:恒貞伝による)。とりわけ草書・隷書に巧みであった。当時、両太上天皇(嵯峨・淳和)は書に長けており、論者は「嵯峨の書は筋が勁くて肉に乏しく、淳和の書は肉が豊かで筋が柔らかいが、ただ恒貞のみは筋骨ともに優れ、肥痩がほどよく調和している」と評した。また鼓や琴もよくし、高橋文室麻呂(たかはしのふんやまろ)の曲調をすべて会得した。文室麻呂は常に「曲折が巧みなのは修練の功であり、謹んでこれをお伝えする。しかし音律の清雅なところは自然の妙であって、まことに私の及ぶところではない」と言っていた。

はじめ恒貞が八歳のとき、なお内裏で養われていた。嵯峨太上皇はその音楽を好むことを聞き、召して琴を弾かせ、みずから羽調(うちょう)の易水曲(えきすいのきょく)を授けた。恒貞が学び終えると、その由来を尋ねた。太上皇は言った。「昔、荊軻(けいか)は燕の太子のために謀を立て、始皇帝を刺そうとした。太子は易水のほとりで送別の宴を催し、荊軻は羽の調べで歌って『壮士は往きて還らず、匕首は振るわれて刃を染める』と詠んだ。慷慨し感激して怒髪冠を突き、車に乗って去り、二度と振り返らなかった。事は結局成らず、荊軻は死んだ。後の人がこれを七絃の琴に写したのが、すなわちこの曲である。」恒貞は「これは正しい調べではありません。私は学びたくありません」と言った。太上皇は喜び、書を淳和帝に送って「親王は音楽に通じているだけでなく、言葉の意味をも理解できる者である」と伝えた。帝もまた喜び、その書を史局に留め置いた。

東宮にあった頃、絵を好んでいた。ある者が男女の交わりを描いた偃息図(えんそくず)一巻を献上したところ、これを焼くよう命じて「これは自分を生んだ母を辱めることになる」と言った。当時の人々はこれに感嘆した。元慶八年、天子(陽成院)が位を退いた。太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)は恒貞に心を寄せ、左大臣・源融(みなもとのとおる)、右大臣・源多(みなもとのまさる)を率いて、推戴の志を述べた。恒貞は泣いて言った。「仏典には、王位を厭って仏道に帰依した者の話は聞くが、僧の身を捨てて世俗の栄華を貪った者の話は聞いたことがない。これは邪な縁である。」何日も食事をとらなかった。そこで光孝帝を迎え奉ることとなった(注:恒貞伝による)。恒貞は生まれつき怒りの感情がなく、念仏や読経のほかには、戯れの言葉を口にすることもなかった(注:後拾遺往生伝による)。この年九月、薨じた。年六十であった(注:三代実録による。○案ずるに、後拾遺往生伝には仁和元年九月の薨去とするが、誤りである)。その前夜、沐浴して衣を整え、壇に入って坐禅した。翌日の午後、弟子が戸を開けて見ると、西を向いて結跏したまま、まるで生きているようであった(注:後拾遺往生伝による)。遺言により薄葬とし、専ら質素を旨とした(注:三代実録による)。はじめ恒貞には二人の子があり、いずれも才気にあふれていたが、恒貞とともにかつて出家していた(注:後拾遺往生伝・恒貞伝による)。

基貞親王

恒統親王は、承和九年三月、薨じた(注:続日本後紀による)。年十三であった(注:皇胤紹運録による)。

良貞親王

基貞親王は、姿かたちが清らかで秀でており、親孝行の誠意も深く篤かった(注:三代実録による)。承和の初め、越前国坂井郡の荒田二十町を賜った(注:続日本後紀による)。十一年、三品を授けられ(注:続日本後紀・三代実録による)、特に勅により内宴に預かった。十三年、上総太守となった。嘉祥二年、病が重くなり、出家を願い出た(注:続日本後紀による)。貞観十一年九月、薨じた(注:三代実録による。○案ずるに、皇胤紹運録には、貞観十年九月に出家し、その翌日薨じたとあるが、誤りである)。

宗康親王

良貞親王は、嘉祥元年に四品に叙せられた。五月、突然薨じた(注:続日本後紀による)。

人康親王

仁明天皇には十四人の皇子があった。藤原皇后は、文徳帝(もんとくてい)を産んだ(注:文徳実録・一代要記・皇胤系図による)。贈皇太后藤原氏は、第二子の宗康親王(むねやすしんのう)(注:帝王編年記・皇胤紹運録・皇胤系図による)、光孝帝(こうこうてい)(注:続日本後紀・三代実録・皇胤紹運録による)、第四子の人康親王(さねやすしんのう)を産んだ(注:日本紀略・一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録による)。女御の滋野縄子(しげののなわこ)は、第五子の本康親王(もとやすしんのう)を産んだ(注:一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録・皇胤系図による)。女御の藤原貞子(ふじわらのさだこ)は、第八子の成康親王(なりやすしんのう)を産んだ(注:文徳実録・三代実録・皇胤紹運録による)。更衣の紀種子(きのたねこ)は、第七子の常康親王(つねやすしんのう)を産んだ(注:文徳実録・三代実録による。○案ずるに、この二書はいずれもその母の氏を載せていないので、今は一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録によった)。三国氏は、貞登(さだとう)を産んだ(注:三代実録・一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録による)。宮人の藤原賀登子(ふじわらのかとこ)は、第六子の国康親王(くにやすしんのう)を産んだ(注:帝王編年記・皇胤紹運録・皇胤系図による)。山口氏は、源覚(みなもとのさとる)を産んだ(注:一代要記・皇胤紹運録による)。源多(みなもとのまさる)・源冷(みなもとのすずし)・源光(みなもとのひかる)・源効(みなもとのいたる)は、いずれも母の氏が伝わっていない(注:源氏系図・皇胤紹運録による)。

本康親王

宗康親王は、承和三年、大和国山辺郡の荒田十町、播磨国神崎郡の荒田三十三町、美濃国席田郡の空閑地七十町を賜った。十一年、四品を授けられた。十二年、太宰帥となった。嘉祥二年、中務卿を兼ねた。三年、帝(仁明天皇)が病に伏し出家すると、宗康も同じく出家した(注:続日本後紀による)。貞観十年六月、薨じた。年四十一であった(注:○続日本後紀の、承和元年に宗康が七歳であったという記述による)。

國康親王

人康親王は、承和四年、山城国葛野郡の空閑地一町を賜った。嘉祥元年、四品を授けられた。二年、上総太守を拝命した(注:続日本後紀による。○案ずるに、文徳実録には嘉祥三年五月にも上総太守に任じられたと載せており、いずれが正しいかわからない)。仁寿二年、弾正尹に遷った。天安元年、常陸太守を兼ねた。貞観元年、出家を願い出た。詔して、人康親王がその官爵を辞して仏門に帰依することを認め、国康親王(くにやすしんのう)の例に準じてその品位と封戸を収めるが、本来の封戸と帳内資人については無品の例に準じてこれを充てるべしとした(注:三代実録による。○案ずるに、尊卑分脈には斉衡元年に出家したと記すが、誤りである。また三代実録の貞観五年四月の条には、近江国愛智郡にある人康親王家の田九十四町を延暦寺に施入し、伝法料としたとある。詔して国司にこれを付し、永く租税を徴らないようにしたという。これはおそらく人康自身の申請によるものであろうが、他に証拠がないので本文には記さない)。名を法性(ほっしょう)と改めた(注:皇胤紹運録・尊卑分脈による)。六年、詔してその家が借りていた絹百三十匹、綿三百屯、調布四百端、銭三千三百貫文を免除した。十四年五月、薨じた(注:三代実録による)。年四十二であった(注:一代要記による)。山科宮(やましなのみや)と称され(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)、また北野親王(きたのしんのう)とも称された(注:皇胤紹運録による)。

三人の子、興基(おきもと)・興範(おきのり)・興扶(おきすけ)があった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。興基は、はじめ諸王の一人であったが、貞観の頃、侍従となった(注:三代実録による)。信濃・播磨権守(注:公卿補任・職事補任による。○信濃は三代実録による)、弾正大弼(注:皇胤紹運録による)を歴任し、左馬頭に任じられた。元慶の頃、伊予守を兼ね(注:三代実録・公卿補任・職事補任による)、源朝臣の姓を賜って左近衛権中将となり、備前守を兼ねた(注:三代実録による)。蔵人頭に補せられ(注:一代要記・職事補任・皇胤紹運録による)、位は正四位下に至った(注:類聚国史・公卿補任による)。仁和の頃、伊勢権守を兼ねた。寛平三年、参議を拝命し、宮内卿を兼ねた。この年、卒した(注:公卿補任・職事補任による)。年四十七であった(注:源氏系図による)。二男一女があり、忠相(ただすけ)・敏相(としすけ)・宜子(よしこ)といった。忠相は、従五位下を授けられ、仁和の頃、右兵衛権佐となった(注:三代実録による)。敏相は、昌泰の頃、中宮大進となった(注:扶桑略記による)。宜子は、清和帝の女御となった。興範は、元慶の頃、従四位下に叙せられ(注:類聚国史による)、侍従となった。八年、卒した(注:三代実録による)。

常康親王

本康親王は、承和三年、近江国野洲郡の空閑地三十五町を賜った。四年、河内国の荒田三十町を賜った。嘉祥二年、四品に叙せられた(注:続日本後紀による)。三年、上野太守となった(注:続日本後紀・文徳実録による)。貞観二年、弾正尹を兼ねた。五年、兵部卿となり、帯剣を許された。十一年、上総太守に遷った。十三年、三品に進んだ。十八年、太宰帥となり、兵部卿は元のとおりとした。元慶七年、二品に進んだ。八年、式部卿となり(注:三代実録による)、後に一品に至った。延喜元年十二月、薨じた(注:日本紀略・扶桑略記・一代要記による)。八条宮(はちじょうのみや)と称された(注:一代要記・皇胤紹運録による)。かつて光孝帝とともに高橋文室麻呂に琴を学んだ(注:三代実録による)。

十人の男子と二人の女子があり、雅望王(まさもちおう)・行忠王(ゆきただおう)・修平王(のぶひらおう)・惟時王(これときおう)(注:○一代要記には雅時王とある)・兼似(かねのり)・兼仁(かねひと)・朝鑑(あさかね)・朝志(あさし)・保望(やすもち)・由道(よしみち)・廉子女王(れんしじょおう)・元子女王(げんしじょおう)といった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。

雅望王は(注:○源氏系図には平の姓を賜ったとあるが、他に見えないので採らない)、侍従となり従四位下を授けられ、後に弾正大弼に遷り従四位上に進んだ。仁和の頃、美作権守を兼ね、神祇伯に転じた(注:三代実録による)。二人の子、希世(まれよ)・随時(ゆきとき)があり(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、いずれも平朝臣の姓を賜った(注:皇胤紹運録による)。希世は、右近衛権少将・左少弁を歴任し、右中弁・内蔵頭に至り(注:扶桑略記・朝野群載による)、位は従四位上であった(注:皇胤紹運録による)。延長八年、清涼殿で雷に打たれて死んだ(注:扶桑略記による)。希世は性質として酒を好み、亭子院八飲(ていじいんのはちいん)の一人であった(注:扶桑略記・朝野群載による)。随時は、延喜・延長の間、内外の官を歴任した。天慶の頃、次々と左衛門権佐・丹波守・修理大夫に遷り、蔵人頭に補せられ、正四位下を授けられて内蔵頭となった。天暦の頃、参議を拝命し、修理大夫は元のとおりとし、伊予守を兼ね、太宰大弐に遷った。七年、在官のまま卒した。年六十四であった(注:公卿補任による)。

行忠王は、従四位上山城守であった(注:皇胤紹運録による)。二人の子、佐幹(すけもと)・佐忠(すけただ)があり(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、いずれも平朝臣の姓を賜った。佐幹は、正五位下参河守。佐忠は、正五位下安芸守であった。

修平王は、従四位上右京大夫であった(注:皇胤紹運録による)。惟時王は、大舎人頭であった(注:一代要記・皇胤紹運録による)。子の在寛(ありひろ)は、平朝臣の姓を賜り、従四位下に叙せられ、右京大夫(注:皇胤紹運録による)、中務少輔を歴任した(注:江家次第による)。

兼似は、兼仁ら五人の弟とともに、源朝臣の姓を賜った(注:皇胤紹運録による)。阿波守・縫殿頭を歴任し、従四位上太宰大弐に至った(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。兼仁は、従四位下因幡守であった(注:○本書では「下」を「上」に作るものもあり、源氏系図では「守」を「介」に作る)。朝鑑は、従五位上豊後守。朝憲は、従四位下因幡守であった(注:皇胤紹運録による。○案ずるに、従四位下因幡守については、紹運録の一本には従五位上丹後守とあり、源氏系図には従五位下丹波介とある)。

保望は、従四位下であった。子の惟輔(これすけ)は、従五位下(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、中宮大夫であった(注:皇胤紹運録による)。由道は、従四位下に至り、阿波・備前守を歴任した。子の輔成(すけなり)は、蔵人・中宮大進・周防守を歴任した(注:皇胤紹運録・源氏系図による。中宮大進は系図による)。

廉子女王は、元慶元年、従四位下を授けられた(注:三代実録による)。元子女王は、寛平元年、伊勢斎(いせのいつき)となった(注:斎宮記・一代要記・貴女抄による。○案ずるに、斎宮記・貴女抄には元子内親王とあるが、誤りである)。

源多

常康親王は、承和七年、志摩国の答志島(とうしじま)を賜った(注:続日本後紀による)。常康は幼い頃から落ち着いて聡明で、皇子たちの中でも、とりわけ帝(仁明天皇)に愛された。帝が崩御すると、常康は追慕の情深く、悲しみに咽んでやまなかった。仁寿元年、出家して雲林院(うりんいん)に住んだ。貞観十一年、この院を僧の遍昭(へんじょう)に付して言った。「深草天皇(仁明天皇)がこの住まいを賜ったものである。天皇が崩御されたとき、常康は髪を落として出家したが、その広大無辺の恩に、いまだ十分に報いることができていない。永くこれを精舎として、天台の教えを学ばせたいと思う。もし人を得ずしてこれを委ねれば、仏道は行われないであろう。ふさわしい人に付せば、法灯はいよいよ盛んになるであろう。今、田園や資財をあわせて、永くこれを付属する。」(注:三代実録による。○案ずるに、本書の貞観五年の条には、近江国高島郡にある常康親王家の田百三十町を延暦寺に施入し、救急料としたとある。これはおそらく常康自身の申請によるものであろうが、明文がないので本文には記さない。)この年五月、薨じた(注:一代要記・帝王編年記による)。雲林院宮(うりんいんのみや)と称された(注:帝王編年記・皇胤紹運録による)。子のある者が出家し(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、名を光勝(こうしょう)といい、六波羅蜜寺を創建してそこに住んだ(注:元亨釈書・諸門跡譜による)。空也上人(くうやしょうにん)と称された(注:皇胤紹運録・源氏系図・諸門跡譜・元亨釈書による)。「上人」の号は、これに始まる(注:諸門跡譜による)。元慶の初め、都に入って阿弥陀の名号を唱え、人々を勧化した。人々は彼を市上人(いちのしょうにん)と呼んだ(注:元亨釈書による)。

源冷

成康親王は、幼い頃から人並みはずれて聡明で、大人のような志があった。帝(仁明天皇)はこれを類まれな者として愛した。仁寿三年四月、疱瘡(ほうそう)を患って薨じた(注:文徳実録による)。

源光

源多(みなもとのまさる)は、第一源氏(仁明天皇の皇子で最初に源氏姓を賜った者)であった。嘉祥二年、従四位上に叙せられた。三年、阿波守となった。帝(仁明天皇)が落飾されると、宗康(むねやす)とともに出家した(注:続日本後紀による)。まもなく髪を蓄えて還俗した。仁寿二年、再び阿波守となり、宮内卿に任じられた(注:公卿補任による)。三年、美作守に遷り、備中守に改まった。斉衡元年、参議を拝命し、越前権守を兼ねた(注:○案ずるに、一代要記には元年に治部卿に任じられたとあるが、他に証がないので本文には記さない)。天安元年、左兵衛督となった。三年、信濃守となり、伊勢守に遷った(注:文徳実録による)。清和帝(せいわてい)の即位に伴い、正四位下に進んだ。貞観三年、備前守に遷り、左兵衛督は元のとおりとした。六年、左衛門督に遷った。八年、従三位に進んだ。十年、近江守を兼ねた。十二年、中納言となった。十四年、大納言に転じた。十五年、帯剣を賜った。十七年、正三位に進み(注:三代実録による)、陸奥出羽按察使を兼ねた(注:三代実録による)。元慶元年、左近衛大将を兼ねた。二年、出羽の夷俘(えみし)の反乱により、按察使の辞任を願い出たが、聞き入れられなかった。三年、従二位に進んだ。六年、右大臣を拝命した。上表して封戸千戸の減封を願い出て、許された(注:三代実録による)。仁和三年、正二位に進んだ(注:公卿補任による)。四年十月、薨じた(注:扶桑略記・公卿補任・一代要記による)。年五十八であった(注:○案ずるに、一代要記の仁明紀には仁寿四年に薨じ、年六十五であったとある。扶桑略記には五十九とある。いずれも誤りであろう。今は公卿補任、一代要記の宇多紀、歴代皇紀、帝王編年記に従う)。参議・藤原諸葛(ふじわらのもろかず)、治部大輔・橘休蔭(たちばなのやすかげ)を遣わし、従一位を贈った(注:公卿補任による)。

五人の子があり、淵(ふち)・進(すすむ)・任(にん)・漑(がい)・清(きよし)といった。淵は、蔵人となった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。元慶の頃、備前介となり、正五位下に叙せられた。仁和の頃、豊後守に遷った(注:三代実録による)。後に宮内大輔となり、進んで蔵人となった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。元慶の頃、図書頭となった。仁和の頃、参河守となった(注:三代実録による)。後に従四位下に至り、出雲・丹波・信濃・但馬などの守を歴任し、従五位上・治部大輔に任じられた(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。漑は、従五位下であった。仁和の頃、摂津介となった(注:三代実録による)。美作・伯耆守を歴任した(注:源氏系図による)。

源效

源冷(みなもとのすずし)は、嘉祥二年、従四位上に叙せられた(注:続日本後紀による)。三年、讃岐守となった(注:続日本後紀・文徳実録による)。仁寿三年、再び讃岐守となった。斉衡元年、右馬頭となった。三年、但馬守となった。天安元年、近江守に遷った(注:文徳実録による)。貞観の頃、伊勢・播磨・相模守を歴任し(注:三代実録による)、正四位下宮内卿に進んだ。元慶元年、右兵衛督を兼ねた。六年、参議を拝命し、まもなく伊予権守を兼ねた(注:公卿補任による)。仁和三年、従三位に進んだ(注:三代実録による)。四年、左衛門督を兼ねた。寛平元年、美濃守を兼ねた(注:公卿補任による)。二年二月、薨じた(注:公卿補任・源氏系図による)。年五十六であった(注:○案ずるに、一代要記には仁和三年に五十八歳とあり、これによればこの年は六十一歳となる。源氏系図には年五十二とあるが、誤りであろう。今は公卿補任に従う)。二人の子、通(とおる)・備(そなう)があった。通は、従五位上、越中介であった(注:皇胤紹運録による。○源氏系図には従五位下とある)。備は(注:源氏系図・尊卑分脈による。○案ずるに、皇胤紹運録には「備」を「条」に作る)、従五位下紀伊守であった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。

源覺

源効(みなもとのいたる)は、従四位上であった。貞観十二年、備前権守となり、後に出家した(注:三代実録による)。

惟喬親王

源覚(みなもとのさとる)は、生まれつき聡明で学問を好み、実務の才で知られた。清和帝が『群書治要』を読まれるにあたって、覚を常にその側に侍らせた。貞観十一年、従四位上に叙せられた。数年後、但馬守を拝命した。まもなく右京大夫に遷り、丹波・但馬・美濃守を相次いで兼ねた。元慶元年、宮内卿に遷り、正四位下に進んだ(注:○案ずるに、皇胤紹運録には正二位とあるが、誤りである)。三年十月、卒した。年三十一であった(注:三代実録による)。三人の子、済(なる)・修(おさむ)・都(みやこ)があった。済は、従五位下太宰少弐。修は、従五位下図書頭であった(注:皇胤紹運録による)。

惟條親王

貞登(さだとう)は、承和の初め、源朝臣の姓を賜った。後に母の過失により皇籍を削られ、出家して名を深寂(じんじゃく)と改めた(注:○もとの名は欠けており、今は考証できない)。嘉祥の末、恩勅により法栄(ほうえい)が仏道を尋ねた先例と同様に、再び時服・月俸に預かった。後に還俗して子をもうけた。

光孝帝がまだ親王であったとき、貞観八年、上総太守の本康親王、参議の源多らとともに奏上した。その概略は次のとおりである。「仁明帝が病に伏しておられた間、深寂は時康(ときやす、光孝帝)らとともに薬をお嘗めして看病申し上げ、そのために出家したものであり、通常の処分の例には当てはまりません。ところが今、その善き縁も遂げられず、再び俗世に戻ることとなり、生まれた子もすでに数人おりますが、名はいまだ僧籍に編入されたままで、身にはいまだ本貫(戸籍)がございません。出仕の道はすでに絶たれ、沈淪の悲しみはまことに深いものです。そもそも子たる者の道は、僧俗によって変わるものではありません。出家したときにはすでに皇子として列せられていたのですから、還俗した日に、どうして皇子でないということがありましょうか。人の世の例に準じて、本来の姓に復すべきです。ただし、嵯峨帝の遺旨に『母に過失のある者の子は源氏となることができない』とあると伝え聞いております。願わくは、別に姓名を賜り、位階を叙し、京職に本貫を定めていただきますよう望みます。」

詔してこれを許し、貞朝臣(さだのあそん)の姓、登(のぼる)の名を賜り、正六位上に叙し、右京一条一坊に本貫を定めた。翌年、従五位下に進んだ(注:三代実録による)。元慶元年、従五位上に進んだ(注:類聚国史による。○案ずるに、帝王編年記には正五位下とあるが、おそらくこれより後に進んだものであろう。今は考証できない)。仁和元年、備中守となった(注:三代実録による)。

惟彥親王

文徳天皇(もんとくてんのう)には十二人の皇子があった(注:○案ずるに、歴代皇紀の一説、および愚管抄には、いずれも皇子二十九人のうち姓を賜った者十四人とあるが、今諸書を検するに、帝の子女で源能有(みなもとのよしあり)以下、および源修(みなもとのおさむ)の子までで、姓を賜った者は十五人にとどまり、その他は考証できない)。藤原皇后は、清和帝を産んだ(注:三代実録・一代要記・皇胤紹運録による)。更衣の紀静子(きのしずこ)は、第一子の惟喬親王(これたかしんのう)、第二子の惟条親王(これえだしんのう)を産んだ(注:一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録による)。宮人の滋野奥子(しげののおくこ)は、第三子の惟彦親王(これひこしんのう)を産んだ(注:三代実録・一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録による)。藤原今子(ふじわらのいまこ)は、第五子の惟恒親王(これつねしんのう)を産んだ(注:一代要記・帝王編年記・皇胤紹運録・皇胤系図による)。滋野岑子(しげののみねこ)は、源本有(みなもとのもとあり)・源載有(みなもとのとしあり)を産んだ(注:三代実録による)。伴氏は、源定有(みなもとのさだあり)を産んだ(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・帝王編年記による)。多治氏は、源毎有(みなもとのつねあり)を産んだ。清原氏は、源時有(みなもとのときあり)を産んだ(注:文徳実録・皇胤紹運録・帝王編年記による)。菅原氏は、源定有を産んだ(注:皇胤紹運録・尊卑分脈・帝王編年記による)。布勢氏は、源行有(みなもとのゆきあり)を産んだ(注:三代実録・皇胤紹運録・帝王編年記による。○案ずるに、紹運録・源氏系図には、いずれも皇子源富有(みなもとのとみあり)を載せているが、三代実録の貞観三年に皇女富子(とみこ)が姓を賜ったという記述から考えると、富有はおそらく富子の誤りであろうから、これを採らない)。

惟恒親王

惟喬親王は(注:○「喬」は「高」に作ることもある)、帝(文徳天皇)に最も愛された。当時、清和帝はまだ幼くして皇太子であったため、帝は当座、惟喬を儲君(皇太子)に立てて清和帝の成長を待とうと考えたが、その外祖父である藤原良房(ふじわらのよしふさ)を憚って決めかねていた。良房は深くこれを憂い、皇太子(清和帝)に位を辞退させようとした。天文に通じた藤原三仁(ふじわらのみつひと)は良房を諫めて言った。「天体の運行に変わりはなく、皇太子の身に他のことは起こりません。」やがて左大臣・源信(みなもとのまこと)が帝に意見を申し上げ、果たして三仁の言葉のとおりとなった(注:大鏡裏書による)。

天安元年、まだ元服前であったが、特に勅により帯剣を許され、四品を授けられた。この年、元服した。二年、太宰帥となった(注:文徳実録による)。貞観五年、弾正尹となった。六年、常陸太守となった。九年、再び常陸太守となった。十四年、上野太守に遷り、この年の秋、病に伏して出家した。十六年、封戸を百戸増やされた(注:○案ずるに、下文の勅に「もとの封戸をすべて返し、この百戸を加える」とあり、また「親王が爵邑を辞退して返上した日」云々とあるので、これによれば上文の「出家した」の条の下に、おそらく脱文があるのであろう)。

勅に言う。「朕が聞くところによれば、『丹陵(たんりょう、堯帝)の至治は、まず一族の心を和らげることを先とし、紺頂能仁(こんちょうのうにん、釈迦)は、なお木陰を慈しんだという。』まして花や萼(がく)のようにつながる肉親の間柄において、誰が懇ろな思いを抱かずにいられようか。朕の庶兄である惟喬親王は、先帝(文徳天皇)が特に鍾愛された人であり、朕の兄弟としての情愛も、とりわけ厚くしたいと思っている。即位して以来、早くその栄誉を増そうと思っていた。しかし天の定めは奥深く、帝としての規範は重んじられねばならない。私心なく名を成すには、先人の事績にならい、この上ない公正さをもって徳を立てるには、後にその名声を求めるべきものである。それゆえ順序に従い、朝廷の定めもたびたび申し述べ、欲を抑えて情を抑制し、かねてよりの思いを長く胸に秘めてきた。常々、朕の一族の栄華が万国に異例の寵愛として輝くことを願っていたのに、どうして思っただろうか、すっかり落ち葉のように世を捨て(注:○「盡」は一本に「畫」に作るが、いずれもはっきりしない)、諸天とともに喜びを分かち合うことになろうとは。骨肉の情は天から与えられたものであるのに(注:○この間、二字が欠けている)、この上なく疎遠になり、僧俗の道が分かれてしまい、親しく会うことができないのを恨みに思う。親王が爵位と封邑を辞退して返上した日、朕は親王が平素、家の暮らしを質素にし、ただ朝廷からの支給のみを頼りとしており、托鉢によって生計を立てるようなことはできず、斎食を定めるにも多くの支障があるだろうと考えていた(注:○案ずるに、「飵」は一本に「館」に作るが、おそらく「飰(はん)」の誤りであろう)。しかし親王の高い志に逆らうことを憚り、あえて処分しなかった。今、果たして親王がしばしば困窮しているとの事情を聞き、悲嘆はとても言葉に尽くせない。あの旧来の封戸をすべて全うし、この百戸を返し加えて、衣鉢(僧としての生活)の費えの助けとし、朕の痛ましい思いを慰めてほしい。」

惟喬は上表してこれを辞退した(注:三代実録による)。勅による返答に言う。「親王は精神が高く聳え立ち、情念はよく通じ達している。北海のように広い度量を胸に抱き、東平王(とうへいおう、後漢の劉蒼)のような徳を掌中に容れている。俗世の乱雑な世界を出て、妙趣に満ちた仏法の門に入られた。亀の頭のようによく身を隠し、鶴の身のようにひどく痩せておられる。朕は身は異なれども気を同じくする兄弟であり、親しみ愛する思いはお分かりのことと思う。一本の木から分かれた枝のように、栄枯の時をともにするものである。今の封邑はきわめて狭く、いささか修行の法具の足しとし、また山に向かう禅の糧としてほしいだけである。しかし親王は谷川の水で身を清め、岩屋にこもって欲を断ち、衣服の代わりに蔓草をまとい、霞をもって食事に代え、たびたび野にある文章を寄せて、辞を低くし譲る謙虚な姿勢を固く守っておられる。これは栄誉としてではなく、ただその真心を表すためである。親王は虚心にこれをお受け取りいただき、拒むことのないようにしてほしい。もし再び辞退なさるならば、それは朕を疎んじることになる。」(注:三代実録・都氏文集による)

寛平九年二月、薨じた(注:○案ずるに、皇胤紹運録・源氏系図には、いずれも貞観十五年二月に薨じ、二十六歳であったとあるが、三代実録の十六年に封戸を増したという記述からすれば、この二書は誤りである。今はひとまず伊勢物語闕疑抄に従う)。年五十四であった(注:○文徳実録の天安元年に年十四とあることによる)。小野の里に住んでいたことから、小野宮(おののみや)と称された(注:一代要記・源氏系図・帝王編年記による。○小野に住んだことは源平盛衰記による)。また水無瀬宮(みなせのみや)とも称され(注:帝王編年記による)、あるいは木原親王(きはらしんのう)ともいう(注:平家物語による)。惟喬は和歌に巧みで(注:作者部類による)、また詩も作った(注:十訓抄・和漢朗詠集による)。子の兼寛王(かねひろおう)は(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)、仁和の頃、従四位下に叙せられた(注:三代実録による。○皇胤紹運録・源氏系図には、いずれも正四位下とあり、一代要記には正五位下とある)。山城守・民部大輔・神祇伯・宮内卿を歴任した(注:源氏系図による)。

源能有

惟条親王は、貞観六年、四品に叙せられた。九年、上総太守となった(注:三代実録による)。十年九月、薨じた。時に年二十二であった(注:皇胤紹運録による。○案ずるに、一代要記には年二十三とある)。子の景式王(かげのりおう)があった(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。

源每有

惟彦親王は、貞観九年、四品に叙せられた。十年、常陸太守となった。十五年、弾正尹となった。十七年、上総太守となった。十八年、再び常陸太守に遷り、中務卿に転じた。元慶五年、上野太守となり、後に太宰帥に改まった。七年正月、薨じた。年四十四であった(注:三代実録による。○案ずるに、惟彦が四十歳であったとすれば、兄の惟喬より四歳年上ということになる。「四十」はおそらく「三十」の誤りであろう)。男子は惟世王(これよおう)(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、女子は直子女王(なおこじょおう)であった(注:斎院記・一代要記・皇胤紹運録による。○案ずるに、異本の一代要記には真子(まなこ)とあり、源氏系図も同じであるが、そこでは惟条の娘とする。あるいは惟喬の娘ともいう)。惟世王の子・寧幹(やすもと)は、平朝臣の姓を賜り(注:皇胤紹運録による)、能登守となった(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。直子は、宇多朝に賀茂斎(かものいつき)となった(注:斎院記・一代要記・中右記の大治二年の条による)。

源時有

惟恒親王は、貞観三年、親王となった。十三年、四品に叙せられた。十四年、常陸太守となった。十五年、帯剣を賜り、治部卿となった。十七年、上野太守となり、後に弾正尹に遷った。元慶六年、上総太守となった。七年、再び上野太守に遷った。八年、兵部卿となった(注:三代実録による)。後に三品に進んだ(注:日本紀略・一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。延喜四年四月、薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。

源本有

源能有(みなもとのよしあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜り(注:文徳実録による)、第一源氏となった(注:公卿補任・歴代皇紀による)。貞観二年、山城国宇治郡の荒田を賜った。四年、従四位上を授けられた。八年、加賀守となった。十一年、大蔵卿となった。十二年、美濃権守を兼ねた。十四年、参議に任じられ(注:三代実録による)、左兵衛督を兼ねた。また美濃権守を兼ねた。十六年、備中権守に遷った(注:公卿補任による)。十七年、正四位下に進んだ(注:三代実録による)。十八年、左近衛中将を兼ねた(注:公卿補任による)。元慶元年、従三位に進んだ。二年、左衛門督となった(注:三代実録による)。三年、再び美濃権守を兼ね(注:公卿補任による。○案ずるに、三代実録には「権」の字がない)、検非違使別当を加えられた(注:公卿補任・源氏系図による)。四年、近江権守となった(注:公卿補任による)。六年、中納言を拝命した(注:三代実録・公卿補任による)。寛平元年、民部卿を兼ね、右近衛大将を加えられ、皇太子傅にも至った。二年、正三位に進んだ。三年、大納言に転じた。五年、陸奥出羽按察使を兼ね、左近衛大将に改まった。七年、再び民部卿を兼ね、畿内諸国の別当となった。八年、右大臣を拝命し、左近衛大将・皇太子傅は元のとおりとした(注:公卿補任による)。九年六月、薨じた。年五十三であった。正一位を贈られ、近院大臣(このいんのおとど)と称された(注:公卿補任・一代要記・源氏系図による。○案ずるに、尊卑分脈には「近院」を「近衛院」に作るが、誤りである)。

七人の子、当時(まさとき)(注:○案ずるに、本書では第二子とするが、今は公卿補任による)・当元(まさもと)・当鑑(まさかね)(注:○案ずるに、尊卑分脈には当隆(まさたか)に作り、官は大納言とするが、公卿補任などの書には見当たらず、分脈が誤りである)・当方(まさかた)・当年(まさとし)(注:○「年」は「平」に作ることもある)・当純(まさずみ)・当季(まさすえ)があった。女子は、厳子(げんし)・昭子(しょうし)であった(注:源氏系図による。○案ずるに、皇胤紹運録には、いずれも女王として記し文徳天皇の皇女とするが、誤りである)。

当時は、元慶の末、侍従となった。仁和の頃、周防介となり(注:三代実録による)、美濃介に遷った。寛平の頃、左京亮・右馬助・右衛門権佐・左少弁を歴任し、権右中弁となって木工頭を兼ね、左中弁に転じた。延喜の頃、周防権守を兼ね、右兵衛督に遷り、参議を拝命し、検非違使別当を加えられ、播磨・近江権守、讃岐守、右衛門督を相次いで兼ねた。二十一年、中納言従三位に至った(注:公卿補任による)。この年、薨じた。年五十四であった(注:公卿補任・一代要記による。○案ずるに、日本紀略には六十五とあり、補任の一本、歴代皇紀、源氏系図には七十五とあるが、いずれも誤りである)。

八人の子、忠相(ただすけ)・相平(すけひら)・相職(すけもと)(注:○「職」は「成」に作ることもある)・当相(まさすけ)・相明(すけあきら)・相国(すけくに)・中明(なかあきら)・中鑒(なかかね)があった。忠相は、蔵人を歴任して正五位下左近衛少将に至った。相平は、左近衛将監であった。相職は、蔵人・文章生を歴任し(注:源氏系図による)、従四位下に至り、左近衛少将となり(注:職事補任による)、右大弁に任じられた(注:源氏系図による)。天慶の頃、蔵人頭に補せられた(注:職事補任による)。当相は、蔵人であった。相国は、正五位下伊勢守。中明は、加賀守。中鑒は、出家して名を寛延(かんえん)と改めた(注:三代実録による)。

当元は、仁和の頃、紀伊権介となり(注:三代実録による)、後に従五位上讃岐介に至った。子の人鑑(ひとかね)は、従五位上因幡守であった。当方は、信濃守であった。子の純忠(すみただ)は、斎院次官であった。当年は、左少弁・右衛門権佐を歴任し、従五位上大蔵大輔に至った。子の中正(なかまさ)は、従五位上筑前守であった。当純は、蔵人(注:源氏系図による)・下総守を歴任し、従五位上少納言に至った(注:源氏系図・尊卑分脈による)。二人の子、安直(やすなお)・世似(よなり)があった。安直は、従五位上越中守。世似は、内匠允であった。当季は、正五位下右近衛少将であった。四人の子、仲舒(なかのぶ)・仲堪(なかまさ)・仲連(なかつら)・輔増(すけます)があった。仲舒は、従四位下に至り、但馬・出羽守を歴任した。仲堪は、木工允であった。仲連は、右衛門尉(注:源氏系図による)・内蔵助・斎院長官を歴任した(注:扶桑略記による)。輔増は、正五位下であった(注:源氏系図による)。

厳子は、清和帝の女御となった(注:三代実録による)。昭子は、太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)に嫁ぎ(注:公卿補任・源氏系図・尊卑分脈による)、正五位下に叙せられた(注:源氏系図・尊卑分脈・藤原系図による)。

源定有

源毎有(みなもとのつねあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜り(注:皇胤紹運録・源氏系図による)、従四位下に叙せられた(注:源氏系図による)。天安二年、殿上で剃髪し、出家した(注:文徳実録による)。

源載有

源時有(みなもとのときあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜った。後に毎有とともに殿上で出家した(注:文徳実録による)。

源行有

源本有(みなもとのもとあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜った(注:文徳実録による)。貞観十年、従四位上に叙せられた。十二年、越前権守となり、後に周防権守となった。元慶六年、正四位下に進んだ。仁和元年、治部卿となった(注:三代実録による)。子の綏之(やすゆき)は、従四位下因幡守であった(注:源氏系図による)。

源定有(みなもとのさだあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜った(注:皇胤紹運録による)。従四位上に叙せられ、大蔵卿となった。仁和二年、正四位下に進んだ(注:三代実録による)。二人の子、雅固(まさかた)・雅胤(まさたね)があった。雅固は、従五位下内匠頭であった。子の実時(さねとき)は、勘解由次官であった。雅胤は、従五位下摂津守であった(注:源氏系図による)。

源載有(みなもとのとしあり)は、仁寿三年、源朝臣の姓を賜った(注:文徳実録による)。正四位下周防守に至った。二人の子、邦紀(くにのり)・清廉(きよかど)があった。邦紀は、従五位下越後守。清廉は、加賀介であった(注:源氏系図による)。

源行有(みなもとのゆきあり)は、貞観三年、源朝臣の姓を賜った。十七年、正四位下を授けられ、美作守となった(注:○案ずるに、本書の仁和三年六月の条には、十九年に美作守に任じられたとある)。まもなく周防権守に遷った。元慶四年、左京大夫となった。六年、治部卿に遷った。七年、再び美作守を兼ねた。まもなく武蔵権守に遷った。光孝帝が皇統を継がれた当初、左馬寮を監護した。仁和元年、外任として太宰大弐となったが、母の喪に服して職を去り、数か月後に本官のまま起用された。三年六月、在官のまま卒した。年三十四であった(注:三代実録による)。子の清雅(きよまさ)があった(注:源氏系図による)。