卷之七十七 列傳第四

后妃四

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次72
  1. 藤原皇后(帶子)
  2. 朝原內親王
  3. 大宅內親王
  4. 藤原藥子
  5. 伊勢繼子
  6. 葛井藤子
  7. 紀魚員
  8. 橘皇后
  9. 高津內親王
  10. 多治比高子
  11. 藤原產子
  12. 藤原緒夏
  13. 大原淨子
  14. 百濟貴命
  15. 秋篠高子
  16. 山田近子
  17. 飯高宅眉
  18. 百濟慶命
  19. 笠繼于
  20. 大原全子
  21. 高階河子
  22. 交野女王
  23. 文室文子
  24. 廣井氏
  25. 上毛野氏
  26. 安倍楊津
  27. 田中氏
  28. 粟田氏
  29. 惟良氏
  30. 長岡氏
  31. 布勢氏
  32. 當麻氏
  33. 紀氏
  34. 內藏氏
  35. 甘南備氏
  36. 高志皇后
  37. 正子皇后
  38. 永原氏
  39. 橘氏子
  40. 緒繼女王
  41. 大中臣安子
  42. 大野鷹子
  43. 橘船子
  44. 丹墀池子
  45. 清原春子
  46. 藤原皇后(順子)
  47. 藤原皇后(澤子)
  48. 滋野繩子
  49. 藤原貞子
  50. 紀種子
  51. 三國氏
  52. 藤原賀登子
  53. 藤原小童子
  54. 高宗女王
  55. 百濟永慶
  56. 山口氏
  57. 藤原皇后(明子)
  58. 藤原古子
  59. 東子女王
  60. 藤原年子
  61. 藤原多可幾子
  62. 藤原是子
  63. 紀靜子
  64. 滋野岑子
  65. 滋野奧子
  66. 藤原今子
  67. 藤原列子
  68. 伴氏
  69. 多治氏
  70. 清原氏
  71. 菅原氏
  72. 布勢氏

藤原皇后(帶子)

平城天皇の藤原皇后は、名を帯子(たいし)といい、式部卿藤原百川(ふじわらのももかわ)の娘である。平城帝がまだ東宮であった頃、妃として迎えられた(注:『日本後紀』『日本紀略』による)。延暦十三年、病を得て木蓮子院(むくれこいん)に移り、薨じた(注:『日本紀略』による)。帝が即位すると、皇后を追贈された(注:『日本後紀』『日本紀略』による)。

朝原內親王

妃朝原内親王(あさはらないしんのう)は、延暦元年、伊勢斎王となった(注:『一代要記』『斎宮記』による)。延暦四年、桓武帝が自ら斎所に臨んで発遣し、百官が大和国境まで見送った(注:『続日本紀』による)。延暦十五年、任を解かれて京に帰った(注:『日本紀略』によれば、この年二月、伊勢に奉幣したのは斎内親王の退下によるものだが、その名は記されていない。『類聚国史』『日本紀略』によれば、延暦四年からこの年まで斎王の卜定はなく、翌年に布施内親王(ふせないしんのう)が斎王となっている。『一代要記』『帝王編年記』には、桓武朝の斎王として朝原・布施の二内親王のみが載る。そうであれば、この月に退下したのは朝原内親王であることは明らかである)。三品に叙せられた(注:『日本後紀』による)。延暦十七年、田二百五十町を賜った(注:『日本紀略』による)。のちに二品に進んだ(注:妃に進んだ年月は伝わっていない。『日本後紀』『類聚国史』『日本紀略』はいずれも、弘仁三年四月、妃二品朝原内親王・妃四品大宅内親王が辞職を願い出て許されたと記すが、いずれの帝の妃であるかは記していない。『皇胤紹運録』『歴代皇記』『一代要記』はいずれも平城帝の妃とするので、ここではこれに従う)。入宮したが寵愛を受けなかった(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』による)。弘仁三年、その任を解かれ(注:『日本後紀』『類聚国史』『日本紀略』による)、弘仁八年、薨じた。齢三十九であった。嵯峨帝は使者を遣わして喪事を監護させた(注:『日本紀略』による)。

大宅內親王

妃大宅内親王(おおやけないしんのう)は、四品に叙せられ、朝原内親王と同時に任を解かれた(注:『日本後紀』『日本紀略』『類聚国史』による)。のちに三品に進んだ。天長五年、剃髪して出家した(注:『日本紀略』による)。嘉祥二年、薨じた。仁明帝は三日間政務を執らなかった(注:『続日本後紀』による)。

藤原藥子

尚侍藤原薬子(ふじわらのくすこ)は、中納言藤原種継(たねつぐ)の娘である。中納言藤原縄主(ただぬし)に嫁ぎ、三男二女を産んだ。平城帝がまだ皇太子であった頃、その長女が選ばれて入宮した。のちに薬子は東宮宣旨となり、帝はこれと私通した。桓武帝はこれを憎んで薬子を退けた。帝が即位すると、再び薬子を召して尚侍とし、正三位に叙して寵愛を厚くした。薬子は媚びへつらって寵を得ることに長け、様々な策謀を巧みに用いた。帝はその奸智に気づかず、薬子の言うことは何でも聞き入れた。あらゆる政務が薬子の思いのままとなり、その威勢の盛んなことは四方に鳴り響いた。帝が譲位して平城京に移り住むと、薬子とその兄仲成(なかなり)はますます驕り高ぶった(注:『日本後紀』『日本紀略』による)。ひそかに謀って、平城上皇を再び皇位に就かせ、自らは皇后の位に就こうとした(注:『水鏡』による)。ついに詔を偽って都を平城京に遷そうとし、京中が騒然となった。嵯峨帝は激怒して仲成を捕らえ、詔を下して薬子の罪状を暴き、その官位を奪って宮中から追放した。上皇は怒り、ついに兵を発して薬子とともに輿を同じくして東国へ向かおうとしたが、大軍が道を塞ぎ、進むことができなかった。上皇は都に戻って剃髪し、薬子は毒薬を仰いで死んだ(注:『日本紀略』による)。

伊勢繼子

伊勢継子(いせのつぐこ)は、木工頭伊勢老人(おきな)の娘である(注:『三代実録』による。老人を木工頭とするのは『続日本紀』による)。平城帝がまだ東宮であった頃、これを娶った(注:『日本後紀』による)。廃太子高岳親王(たかおかしんのう)・巨勢親王(こせしんのう)(注:『三代実録』による)・上毛野内親王(かみつけのないしんのう)・石上内親王(いそのかみないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『歴代皇紀』『一代要記』『帝王編年記』による)。延暦四年、田十一町を賜った(注:『類聚国史』による)。まもなく従四位下に進んだ。弘仁三年、卒した。齢四十一であった。従三位を追贈された(注:『日本後紀』『日本紀略』による)。

葛井藤子

葛井藤子(ふじいのふじこ)(注:『皇胤紹運録』には「葛井」を「番長(ばんちょう)」に、「藤子」を「藤継(ふじつぐ)」に作り、正五位下葛井宿禰道依(みちより)の娘で、後に番長朝臣と改姓したとある。ここでは『続日本後紀』に従う)は、正五位下葛井道依の娘である(注:『一代要記』による。『紹運録』には、別に良藤継道(よしふじつぐみち)の娘とする説もある)。阿保親王(あぼしんのう)を産んだ。仁明帝が即位すると、従五位下に叙せられた(注:『続日本後紀』による)。

紀魚員

紀魚員(きのなつめ)は、従三位紀木津魚(きつめ)の娘である。従五位下に叙せられた。叡努内親王(えぬないしんのう)を産んだ(注:『続日本後紀』による)。

【嵯峨天皇】

橘皇后

嵯峨天皇の橘皇后(たちばなのこうごう)は、名を嘉智子(かちこ)といい、内舎人橘清友(たちばなのきよとも)の娘である。皇后がまだ幼かった頃、法華寺に禅雲(ぜんうん)という尼がおり、皇后の腕を取って「娘子は後に天子の皇后の母となるであろう」と告げたという。皇后は生まれつき寛容で穏やかな性質を持ち、その容姿は他に類なく優れ、手を垂れれば膝を過ぎ、髪は地に届くほどであった。嵯峨帝がまだ親王であった頃、これを娶って寵愛した(注:『文徳実録』による)。帝が即位すると、進んで夫人となった(注:『文徳実録』は弘仁の初めに夫人となったとするが、ここでは『類聚国史』『日本紀略』による)。まもなく封戸百戸を賜った。弘仁の初め、従三位に進んだ(注:『日本紀略』による)。弘仁五年、尾張・丹羽郡の田二十四町を賜った(注:『日本後紀』による)。弘仁六年七月七日、皇后は瓔珞(ようらく)を身にまとい、仏のごとく荘厳される夢を見た。数日後、皇后に立てられた。正位に就いてからは、もっぱら教化と導きに務め、後宮は穏やかに治まり、朝野こぞってこれを称え、帝もますます敬い重んじた。仁明帝(にんみょうてい)・淳和皇后(じゅんなこうごう)(注:『文徳実録』による)・秀良親王(ひでよししんのう)(注:『帝王編年紀』は高津内親王(たかつないしんのう)の所生とするが、ここでは『続日本後紀』承和元年十月の記事に基づき、『皇胤紹運録』『原氏系図』『一代要記』『皇胤系図』に従う)・秀子内親王(しゅうしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』は大原浄子(おおはらのじょうし)の所生とするが、ここでは『続日本後紀』に従う)・俊子内親王(しゅんしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』は浄子の所生とするが、ここでは『一代要記』『帝王編年記』に従う)・繁子内親王(はんしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』は文屋文子(ふんやのふみこ)の所生とするが、ここでは『文徳実録』に従う)・芳子内親王(ほうしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』は文子の所生とする。『続日本後紀』には太后の第五皇女とあるので、ここでは末尾に配列する)を産んだ。淳和帝が即位すると、尊んで皇太后とし、封戸一千戸を奉った(注:『日本紀略』による)。仁明帝が即位すると、尊んで太皇太后とした。承和三年、平城京の空閑地二百三十町を朱雀院に充てた。翌年、近江の荒田六十四町を後院に充てた。承和九年、冷然院(れいぜんいん)に遷御した(注:『続日本後紀』による)。嘉祥三年、仁明帝が病に伏した。太后はこれを深く憂い、ついに剃髪して尼となり、冥護を求めた(注:『続日本後紀』では、帝崩御ののち、病により入道したとする)。三月、帝が崩じ、太后も五月に崩じた。齢六十五であった。深谷山(ふかたにやま)に葬られたが、生前の遺言により質素な葬儀とし、山陵を営むことはなかった(注:世に伝わるところでは、太后は遺言して「葬儀を行わず、亡骸を野に棄てよ。色欲に耽る者が、朽ち果てたわが姿を見れば、いくばくかの目覚めがあるだろう」と述べたといい、崩御ののち遺骸を西郊に棄て、後にその骨を拾って埋葬したため、その地を「一拳」あるいは「拳宮」と呼んだという。しかしここではこの説を採らない)。これより先、民間に「今年は母子(ははこ)がないので、三月三日に餅を作ることができない」という噂が流れた。母子とは野草の名で、当時の風習ではこれを用いて餅を作っていたが、識者はこの噂を聞いて不吉に思ったという。果たして三月に帝が崩御し、まもなく太后も崩じた。太后は篤く仏法を信じ、檀林寺(だんりんじ)を建立して、戒律を持する比丘尼を住まわせた。仁明帝は五百戸を施捨してその供養に充てた(注:『文徳実録』による)。世に檀林皇后(だんりんこうごう)と称された(注:『皇年代略記』による)。太后はかつて宝幡(ほうばん)や繍文の袈裟を数多く作らせ、その巧みさは極まりないほどであったが、周囲の者はその意図を知らなかった。後に僧慧蕚(えがく)を唐に遣わし、繍文の袈裟を僧伽(そうぎゃ)や康僧(こうそう)らに施し、宝幡や鏡奩(きょうれん)の類を五台山の寺に納めさせた(注:『元亨釈書』によれば、慧蕚は斉衡の初め、橘太后の詔を受けて幣帛を携えて入唐し、杭州の霊池寺に至って斉安禅師(せいあんぜんじ)に謁して幣を奉り、ついに義空長老(ぎくうちょうろう)を得て帰国したという。世に伝わるところでは、太后は和歌を詠んで「唐土(もろこし)の、山の彼方に、立つ雲は、此処に炊く火の、煙なりけり」と歌ったといい、これを聞いた斉安は「東域にはかくも深く道理を解する者がいるとは、まことに婦人でありながら大丈夫(だいじょうふ)である」と許し賞賛したという。しかし『元亨釈書』はこれを斉衡の頃のこととするが、その誤りは検証するまでもない。世に伝わるこの和歌についても確かな根拠はなく、ここではひとまず参考として付け加えるにとどめる)。また弟の右大臣橘氏公(うじきみ)と議って学舎を開き、学館院(がっかんいん)と名づけ、一族の子弟に経書の誦習を勧めた。当時の人々はこれを漢の鄧皇后(とうこうごう)になぞらえたという(注:『文徳実録』による)。

高津內親王

妃高津内親王(たかつないしんのう)は、業良親王(なりよししんのう)(注:『三代実録』による)・業子内親王(なりこないしんのう)(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)を産んだ。嵯峨帝の即位当初、三品に叙せられて妃に立てられた(注:『日本紀略』『続日本後紀』による)が、まもなく廃された。承和八年、薨じた。使者を遣わして喪事を監護させた(注:『続日本後紀』による)。

多治比高子

妃多治比高子(たじひのたかこ)は、従五位下多治比氏守(うじもり)の娘である(注:『一代要記』による)。嵯峨帝の即位当初、夫人となり、封戸百戸を賜った(注:『日本紀略』による)。弘仁元年、従三位に進んだ。弘仁六年、妃となった(注:『日本後紀』『一代要記』による)。弘仁十一年、従二位に進んだ(注:『一代要記』による)。天長三年、薨じた。齢三十九であった。その邸に従一位を追贈した(注:『日本紀略』による)。

藤原產子

夫人藤原産子(ふじわらのうぶこ)は、弘仁の初め、後宮に入り、従三位に進んだ(注:『日本紀略』による)。のちに夫人となり(注:『一代要記』による)、従二位に進んだ。天長六年、薨じた。齢六十九であった(注:『日本紀略』による)。

藤原緒夏

夫人藤原緒夏(おなつ)は、右大臣藤原内麻呂(うちまろ)の娘である。弘仁元年、従五位上に叙せられ、弘仁三年、従四位下に進んだ(注:『文徳実録』による)。弘仁六年、夫人に立てられ(注:『日本後紀』『類聚国史』による。『文徳実録』は弘仁三年のこととするが誤りである)、従三位に進んだ(注:『日本後紀』『文徳実録』による)。斉衡二年、薨じた。正二位を追贈された(注:『文徳実録』による)。

大原淨子

女御大原浄子(おおはらのじょうし)は、正六位上大原家継(いえつぐ)の娘である(注:『一代要記』による)。正五位下に叙せられ、弘仁五年、従四位下に進んだ(注:『文徳実録』による)。仁子内親王(じんしないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』による)。従三位に叙せられた。承和八年、薨じた(注:『続日本後紀』による)。

百濟貴命

女御百済貴命(くだらのきみょう)は、鎮守将軍百済俊哲(しゅんてつ)の娘である。貴命は姿かたちが美しく、女工(裁縫などの女性の技芸)に通じていた。女御となり(注:『文徳実録』による)、基良親王(もとよししんのう)(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『皇胤系図』による)・忠良親王(ただよししんのう)(注:『文徳実録』による)・基子内親王(もとこないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)を産んだ。弘仁十年、従五位上に叙せられ、従四位下に進んだ。仁寿元年、卒した(注:『文徳実録』による)。

秋篠高子

更衣秋篠高子(あきしののたかこ)(注:更衣とするのは『日本後紀』による。『続日本紀』は「康子」あるいは「京子」に作り、『類聚国史』は「京子」に作るが、ここでは『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』に従う)は、承和九年、従五位上に叙せられ、嘉祥二年、従四位下を授けられた(注:『続日本後紀』による)。のちに正四位下に進んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)。源清(みなもとのきよし)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による)。

山田近子

更衣山田近子(やまだのちかこ)(注:更衣とするのは『日本後紀』による。『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』は「山田」を「山口」に作るが誤りである)は、嵯峨帝の晩年に召され、寵愛を受けた。源啓(みなもとのひらく)(注:『三代実録』による)・源密姫(みつひめ)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)を産んだ。承和九年、従五位上を授けられた(注:『続日本後紀』による)。

飯高宅眉

更衣飯高宅眉(いいたかのやかまゆ)(注:『源氏系図』『皇胤紹運録』による)は、源常(みなもとのときわ)(注:『文徳実録』による)・源明(あきら)(注:『公卿補任』『源氏系図』による)を産んだ。

百濟慶命

尚侍百済慶命(くだらのきょうみょう)は、鎮守将軍百済教俊(きょうしゅん)の娘である(注:『一代要記』による)。立ち居振る舞いに礼節があり、帝はこれをたいへん貴んだ。源定(さだむ)(注:『三代実録』貞観五年の記事による)・源鎮(しずむ)(注:『源氏系図』『一代要記』『帝王編年記』による)を産んだ。従三位に進んだ。天長七年、特に封戸五十戸を賜った(注:『日本紀略』による)。承和の初め、嵯峨上皇が嵯峨院に遷御し、これを大院(おおいん)といったが、慶命のために別宮を築いて小院(こいん)と呼んだ。その寵愛の厚さはこれほどであった(注:『三代実録』による)。承和三年、尚侍となった。承和八年、従二位に進んだ。嘉祥二年、薨じた。勅して従一位を追贈し、使者を遣わして喪事を監護させた(注:『続日本後紀』による)。

笠繼于

笠継子(かさのつぐこ)は、源生(いく)を産んだ(注:『公卿補任』『一代要記』『帝王編年記』による。『皇胤紹運録』は生を大原全子(おおはらのぜんし)の所生とするが誤りである)。嘉祥二年、従三位に進んだ(注:『続日本紀』による)。

大原全子

大原全子(おおはらのぜんし)は、源融(とおる)(注:『続日本後紀』『一代要記』による)・源勤(いそし)・源盈姫(みつひめ)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による)を産んだ。嘉祥二年、正五位下に進んだ(注:『続日本後紀』による)。

高階河子

高階河子(たかしなのかわこ)(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』は「阿子」に作り、また『皇胤紹運録』は「阿吉」にも作るが、いずれも誤りである)は、従四位上高階浄階(じょうかい)の娘である。宗子内親王(そうしないしんのう)を産み、従五位上を授けられた。

交野女王

交野女王(かたのじょおう)は、従五位上山口王(やまぐちおう)の娘である(注:『続日本後紀』は「幸姫王(こうきおう)氏」と記すが、ここでは『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。有智子内親王(うちこないしんのう)を産んだ(注:『続日本後紀』による)。弘仁十四年、従五位上を授けられた(注:『類聚国史』による)。

文室文子

文室文子(ふんやのふみこ)は、正五位下文室久我麻呂(くがまろ)の娘である。純子内親王(じゅんしないしんのう)(注:『三代実録』による)・斉子内親王(せいしないしんのう)を産んだ。従五位上を授けられた(注:『文徳実録』による)。

廣井氏

広井氏(ひろいし)は、源信(まこと)を産んだ(注:『三代実録』による)。

上毛野氏

上毛野氏(かみつけのし)は、源弘(ひろむ)を産んだ(注:『三代実録』による)。

安倍楊津

安倍楊津(あべのやなぎつ)(注:「楊津」の表記は『一代要記』による)は、源寛(ゆたか)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。

田中氏

田中氏(たなかし)は、源澄(とおる)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。

粟田氏

粟田氏(あわたし)は、源安(やすし)を産んだ(注:『文徳実録』による)。

惟良氏

惟良氏(これよしし)は、源勝(まさる)を産んだ(注:『三代実録』による)。

長岡氏

長岡氏(ながおかし)は、源賢(まさる)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。

布勢氏

布勢氏(ふせし)は、源貞姫(さだひめ)・源端姫(はしひめ)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による)。

當麻氏

当麻氏(たいまし)は、正六位上当麻治田麻呂(はりたまろ)の娘である。源潔姫(きよひめ)・源全姫(またひめ)を産んだ(注:『三代実録』による)。

紀氏

紀氏(きし)は、源更姫(さらひめ)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)。

內藏氏

内蔵氏(くらし)(注:『続日本後紀』に、内蔵景子(かげこ)に従四位下を授けたとあり、おそらくこの人物であろう)は、源神姫(かみひめ)・源容姫(かたちひめ)・源吾姫(あひめ)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)。

甘南備氏

甘南備氏(かんなびし)は、源声姫(こわひめ)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)。

【淳和天皇】

高志皇后

淳和天皇の皇后は、名を高志(たかし)といい、はじめ内親王であった。桓武帝が最も鍾愛し、淳和帝に配して妃とした。三品に叙せられた。恒世親王(つねよしんのう)(注:『日本紀略』による)・氏子内親王(うじこないしんのう)・有子内親王(ゆうしないしんのう)(注:『三代実録』による)・貞子内親王(ていしないしんのう)(注:『続日本後紀』による。『皇胤紹運録』は氏子・有子・貞子の母を恒貞親王(つねさだしんのう)の母と同じとし、『一代要記』は有子・貞子の母を大中臣安子(おおなかとみのやすこ)とし、『帝王編年記』は貞子の母を大野鷹子(おおののたかこ)とするが、いずれも誤りである)を産んだ。大同四年五月、薨じた。齢二十一であった。使者を遣わして喪事を監護させ、一品を追贈した。淳和帝が即位すると、詔して皇后を追贈し(注:『日本紀略』による)、墓の名を石作陵(いわつくりのみささぎ)と改めた(注:『延喜式』による。『類聚国史』『日本紀略』によれば、天長元年・二年に改葬しようとして果たせず、天長三年に改葬司を任命したが、改葬の月日はいずれも伝わっていない)。国忌の斎を置いた(注:『三代実録』天安二年の国忌廃止の記事による)。天長四年、勅して橘寺(たちばなでら)に墾田十町を施し、春秋の悔過(けか)の料とした。薬師悔過を東西の二寺で修し、冥福を祈らせた(注:『類聚国史』による)。

正子皇后

皇后は、名を正子(まさこ)といい、嵯峨帝の第二皇女である(注:本書の他の箇所では長女とするが、ここでは『日本紀略』によって訂正する。詳しくは皇女伝を参照)。容姿は美しく、貞淑で物腰も上品であり、嵯峨帝と橘太后はこれを鍾愛した(注:『三代実録』による)。はじめ内親王であったが(注:『続日本紀』による)、淳和帝が礼を尽くしてこれを迎え、後宮に入れた。皇后には母たるにふさわしい徳があり、一族もこれを手本とした。廃太子恒貞親王(つねさだしんのう)(注:『三代実録』による)・恒統親王(つねむねしんのう)(注:『続日本後紀』による)・基貞親王(もとさだしんのう)(注:『三代実録』による。『続日本後紀』『日本紀略』によれば、皇后が産んだのはこの三人だけではないが、名が伝わらないか、あるいは夭折したため、ここには列挙しない)を産んだ。天長四年、皇后に立てられた(注:『日本紀略』『三代実録』による)。天長八年、日照りが続き、帝は深くこれを憂えて様々に祈願したが、皇后が帝に囚人の記録の見直しと労役の停止を勧めると、その日のうちに雨が降った。帝はますますこれを重んじた(注:『三代実録』による。『類聚国史』『日本紀略』によれば、この年は風雨の災いを二度祓ったとあり、日照りの記事はない。翌年は疫病と日照りのため、経を転読し雩(あまごい)を修したとある。これによれば「八年」は「九年」の誤りと思われる)。天長九年夏、皇后は雲林亭(うんりんてい)に行幸して農作業を観覧し、耕作する男女に物を賜った(注:『日本紀略』による)。天長十年、淳和帝は仁明帝に位を伝えた。勅して皇后号を停止し、官属を廃した。仁明帝はこれを尊んで皇太后とした(注:『三代実録』による)。承和二年、仁明帝は封戸一千戸を奉った。承和三年、河内の荒廃田を後院に充てた(注:『続日本後紀』による)。承和七年、淳和上皇が崩じた。太后は髪を落として尼となり、容貌もやつれ果てて骨ばかりのようになった(注:『日本後紀』には、承和九年十二月乙丑の日に淳和太皇后が落髪したとあるが、実際には二年の差があり、いずれが正しいかはわからない)。斉衡元年、文徳帝はこれを尊んで太皇太后とした。貞観二年、太后は淳和院で大斎会を催し、諸寺の名僧を招いて法華経を講じさせ、供養の品々を整えて布施を行い、財宝を惜しみなく尽くした。清和帝と皇太夫人(藤原明子)は、新銭や米・塩・醴(あまざけ)・稷(きび)などの品を僧俗の男女、およそ三万人に施した。太后は延暦寺座主円仁(えんにん)から菩薩戒を受け、法名を良祚(りょうそ)といった。貞観十年、太后は齢六十となり、六十人の僧に東京(平安京東部)の宮で経を講じさせ、京の貧民に物を賜った。貞観十六年、淳和院が火災に遭った。太后は素車に乗って宮を出て、松下院(まつしたいん)に避難した。清和帝は参議藤原家宗(いえむね)を遣わして見舞わせ、絹・絲・布・銭・米・鉄を奉らせた。まもなく本院の洞裏殿(とうりでん)に戻った。元慶三年三月、病が重くなった。左右の者に命じて、「天長天子(淳和帝)は遺命により火葬とし、山陵を置かず、陪葬すべき園廟もない。私が瞑目する日には、棺には朽ちた材木を用い、嵯峨山に葬り、守家を置かず、国忌にも列せず、先の淳和太上天皇の制度に倣うように」と言い、語り終えて崩じた。齢七十一であった(注:「七十一」は本文に一字の脱字があり、貞観十年十一月辛巳の条によって年紀を推算し、ここに訂正する)。嵯峨山に葬られた。太后は慈しみ深く仁愛が行き渡り、人を救うことを務めとしていた。東西の京で棄てられた孤児を収容し、乳母を与えて多くを養育した。封戸の五分の二を割いて、その費用に充てた。貞観年間、嵯峨の旧宮を寺として喜捨し、清和帝に願い出て「大覚寺(だいかくじ)」の額を賜った。その傍らに堂舎を建てて僧尼の病を療養させ、済治院(さいちいん)と名づけた。また淳和院を道場とし、平生仕えていた尼たちを住まわせた(注:『三代実録』による)。太后はかつて衲(のう)の袈裟を製し、唐の国清寺(こくせいじ)に施して、僧智顗(ちぎ)の忌斎の用に充てさせた(注:『類聚国史』による)。

永原氏

女御永原氏(ながはらし)は、入宮して寵愛を受けた。嵯峨帝は源定(さだむ)を淳和帝の子として、この女御をその母としたため、亭子女御(ていじのにょうご)と称された(注:『三代実録』による)。

橘氏子

女御橘氏子(たちばなのうじこ)は、従三位橘永名(ながな)の娘である(注:『一代要記』による)。貞観五年、従四位上に進んだ(注:『三代実録』による)。

緒繼女王

尚蔵緒継女王(おつぐじょおう)(注:「尚蔵」を『一代要記』は「妃」に作るが誤りである)は、従二位に叙せられた。巧みに妖艶な振る舞いをし、帝は殊のほか寵愛した。承和十四年、薨じた。齢六十一であった。遺命により、葬儀のための使者を受けなかった(注:『続日本後紀』による)。

大中臣安子

大中臣安子(おおなかとみのやすこ)は、従四位上大中臣淵魚(ふちうお)の娘である。良貞親王(よしさだしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年紀』『皇胤系図』による)。斉衡二年、従五位上に叙せられた(注:『文徳実録』による)。

大野鷹子

大野鷹子(おおののたかこ)は、左近衛中将大野真雄(まお)の娘である。寛子内親王(かんしないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『皇胤系図』による)。

橘船子

橘船子(たちばなのふねこ)は、従四位上橘浄野(きよの)の娘である。崇子内親王(すうしないしんのう)を産んだ(注:『続日本後紀』『一代要記』『帝王編年記』による)。

丹墀池子

丹墀池子(たじひのいけこ)(注:「池子」を『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』は「常子」に作るが誤りである)は、従五位上丹墀門成(かどなり)の娘である。同子内親王(どうしないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』による)。

清原春子

清原春子(きよはらのはるこ)は、右大臣清原夏野(なつの)の娘である。明子内親王(めいしないしんのう)を産んだ(注:『文徳実録』による)。

【仁明天皇】

藤原皇后(順子)

仁明天皇の藤原皇后は、名を順子(じゅんし)といい、左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘である。容姿が美しかった。かつて実家にいた頃、朝の洗面の折に、虹のような気が現れて盥(たらい)にかかったことがあり、占い師は「これはこの上なく貴い兆しである」と言った。仁明帝がまだ皇太子であった頃、入宮して寵愛を受けた。文徳帝を産んだ。仁明帝の即位当初、従四位下を授けられて女御となった(注:『三代実録』による。女御とするのは『日本後紀』による)。承和十一年、従三位に進んだ(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。文徳帝が即位すると、尊んで皇太夫人とした(注:『文徳実録』『三代実録』による)。東五条院(ひがしごじょういん)に移り、その儀礼は乗輿になぞらえられ、左右近衛の将監以下の者が遣わされて宿衛にあたった。斉衡元年、詔して、「人の最も親しい間柄は、母子に勝るものはない。それゆえ子が尊い位に登れば、その尊貴は母に帰する。古の聖王もこれに背いた者はいない。朕は不徳の身でありながら、早くに憂き目にあった。憂いは深く思いは遠く、限りないもののようであった。この時にあたり、嵯峨太皇太后と淳和太后がともに存命であった。朕は母を尊ぶ典礼を、古の実例に照らして光栄あるものとしたいと思う一方、はばかりの制もあり、存命の者と亡き者とでは礼を異にする。それゆえ生母の藤原氏を皇太夫人としたのは、謙譲の美徳を願って後の福を招こうとしたためである。しかし今、大皇太后(嵯峨太皇太后)の山陵の事はすでに多年を経ているのに、淳和太后には未だ徽号を進めていない。生母の藤原氏もなお夫人と称されたままである。人の子としての礼として、どうしてこのままで安んじていられようか。南からの凱風が吹く時節にあたり、いよいよ育ての恩を深く感じる。あえて旧例に照らし、尊号を崇め奉りたい。皇太后を尊んで太皇太后とし、皇太夫人を皇太后とする。万邦を養い育て、その厚い徳は限りなく、わが四海に永く頼るところあらしめよ」と述べた(注:『文徳実録』による)。天安二年、文徳帝が崩じ、清和帝はまだ幼かった。皇太后は群臣の願いによって、帝と輿を同じくして東宮に遷った。貞観二年夏、東五条院に戻った。秋、病に伏した。帝は二十人を得度させて祈らせた。冬、本宮で盛大に斎会を修した。貞観三年、太政大臣藤原良房(よしふさ)の染殿第(そめどののてい)に臨み、王公以下がことごとく参集して宴を張り楽を奏し、衣服や品物を賜った。大原野社(おおはらのやしろ)に参詣し、藤原氏の六位以下の者を儀従とした(注:『三代実録』による)。大原野への行啓はこれに始まる(注:『江家次第』による)。髪を落として尼となり、戒を受けた。貞観六年、尊んで太皇太后とした。貞観十三年九月、崩じ、宇治郡の後山階山陵(のちのやましなのさんりょう)に葬られた(注:『三代実録』による)。東寺に国忌を置いた(注:『日本紀略』による)。世に五条后(ごじょうのきさき)と称された。太后は性質が穏やかで篤実、貞淑であり、礼法の実践も整い、母たる規範として並ぶ者が少なく、仏教を深く信仰した。安祥寺(あんしょうじ)を建立し、年分度者を置いて大乗の道を修めさせた(注:『三代実録』による)。

藤原皇后(澤子)

藤原皇后は、名を沢子(たくし)といい(注:『続日本後紀』による。「沢」は「浄」とも書き、『大鏡』は「障」に作るが、いずれも誤りである)、紀伊守藤原総継(ふさつぐ)の娘である(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。女御となり、従四位下に叙せられ、その寵愛は後宮随一であった。宗康親王(むねやすしんのう)・光孝帝(こうこうてい)・人康親王(さねやすしんのう)・新子内親王(しんしないしんのう)を産んだ。承和六年、卒した。仁明帝はこれを哀悼し、中使(ちゅうし)を遣わして従三位を追贈した(注:『続日本後紀』による)。山城国愛宕郡(おたぎのこおり)烏戸郷(からとごう)に葬られた。光孝帝が即位すると、追尊して皇太后とし、墓の名を中尾山陵(なかおのさんりょう)と改め、東大寺に国忌の斎を置いて十陵の列に加えた。仁和元年、守陵五戸を置いた(注:『三代実録』による。烏戸および中尾山陵については『延喜式』による)。

滋野繩子

女御滋野縄子(しげののなわこ)は、参議滋野貞主(さだぬし)の娘である(注:女御とするのは『源氏系図』による)。心根が穏やかで素直、立ち居振る舞いも規範にかない、帝は殊のほか恩寵を加えた。本康親王(もとやすしんのう)・時子内親王(じしないしんのう)・柔子内親王(じゅうしないしんのう)を産んだ(注:『文徳実録』による。『皇胤紹運録』は柔子の母を成康親王(なりやすしんのう)の母と同じとするが誤りである)。承和三年、正五位下に叙せられ(注:『続日本後紀』による)、従四位上に進んだ。

藤原貞子

女御藤原貞子(さだこ)は、右大臣藤原三守(みもり)の娘である。仁明帝がまだ皇太子であった頃、選ばれて入宮した。成康親王(なりやすしんのう)・親子内親王(しんしないしんのう)・平子内親王(へいしないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』による。本書の他の箇所には、二人の皇女を産んだがその名は伝わっていないとあるが、ここでは『皇胤紹運録』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。仁明帝の即位当初、従四位下を授けられ(注:『三代実録』による)、承和六年、従三位に進んだ(注:『続日本紀』『三代実録』による)。生まれつき素直で穏やかな性質であり(注:『文徳実録』による)、言葉は必ず礼法にかない、後宮はその徳を仰ぎ、帝もまたこれを重んじた(注:『続日本後紀』による)。皇后の位には登らなかったが、その寵愛は格別で、終始衰えることなく、後宮にこれに並ぶ者はなかった(注:『三代実録』による)。文徳帝が即位すると正三位に進んだ。仁明帝が崩じたのちは、深く悲しみやつれ果て、ほとんど飲食も廃するほどで、寝床には涙の跡があった。それを見た周囲の者は皆、深く同情した。仁寿元年、尼となった。戒行を積み重ね、僧俗ともにこれを称えた(注:『文徳実録』による)。貞観六年八月、薨じた。勅して従一位を追贈した。仁明帝からかつて特別の恩を受けていたことから、深草山陵(ふかくさのさんりょう)の兆域に祔葬(ふそう、合葬)することを許され、使者を遣わして葬事を監護させた。仁和三年、勅して嘉祥寺(かしょうじ)で転読念仏の功徳を修させた(注:『三代実録』による)。

紀種子

更衣紀種子(きのたねこ)は、正四位下紀名虎(なとら)の娘である(注:『三代実録』による。更衣とするのは『紀氏系図』による。本書の他の箇所は「従四位上」に作るが、『続日本後紀』によりここに訂正する)。常康親王(つねやすしんのう)(注:『文徳実録』『皇胤紹運録』による)・真子内親王(しんしないしんのう)を産んだ。正五位下に叙せられた(注:『三代実録』による)。

三國氏

更衣三国氏(みくにし)は、貞登(さだのぼる)を産んだ。承和の初め、三国氏に過失があり、貞登はこれに連座して皇籍を削られた(注:『三代実録』による)。

藤原賀登子

藤原賀登子(かとこ)は、肥前守藤原福当麻呂(ふくとうまろ)の娘である(注:肥前守とするのは『尊卑分脈』による)。国康親王(くにやすしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。承和九年、正六位上を授けられ(注:『続日本後紀』による)、従五位上に進んだ(注:『皇胤系図』は従五位下に作るが、ここでは『一代要記』に従う)。

藤原小童子

藤原小童子(こわらわこ)は、従五位下藤原道長(みちなが)の娘である。重子内親王(じゅうしないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』『一代要記』による)。従五位上を授けられた。

高宗女王

高宗女王(こうそうじょおう)は、従四位上岡屋王(おかやおう)の娘である(注:『皇胤系図』による)。久子内親王(きゅうしないしんのう)を産んだ(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『皇胤系図』による)。従五位上を授けられた(注:『一代要記』による)。

百濟永慶

百済永慶(えいけい)(注:「永慶」の表記は『一代要記』『皇胤系図』による)は、従五位上百済教復(きょうふく)の娘である(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』は「復」を「俊」に作る。これによれば鎮守府将軍百済教俊の娘であり、嵯峨帝の女御慶命の妹ということになるが、いずれが正しいかはわからない)。高子内親王(こうしないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』による)。

山口氏

山口氏(やまぐちし)は、源覚(さとる)を産んだ(注:『三代実録』による)。

【文德天皇】

藤原皇后(明子)

文徳天皇の藤原皇后は、名を明子(あきらけいこ)といい、太政大臣藤原良房(よしふさ)の娘である。清和帝(せいわてい)(注:『三代実録』による)・儀子内親王(ぎしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『貴女抄』『斎院記』による)を産んだ。仁寿三年、従三位に進んだ(注:『文徳実録』による)。天安二年、位を飛び越えて従一位に叙せられた(注:『一代要記』による)。清和帝が即位すると、尊んで皇太夫人とした。貞観六年、尊んで皇太后とした。貞観八年冬、新しく造営された常寧殿(じょうねいでん)に遷った。翌年春、帝は内々の宴を設けてこれを祝い、盃を挙げて長寿を祝し、宮中の官人に等級に応じて品物を賜った。貞観十年冬、太后が齢四十になったので、勅して使者を京に近い四十の寺、平城の四十の寺に遣わし、経を転読する功徳を修させた。本殿で内宴を設け、王公卿士に品物を賜り、宮中の官人や侍女には位を進め、貧民を朱雀門に集めて品物を賜った。貞観十四年秋、染殿宮(そめどののみや)に遷った。貞観十六年春、職曹司(しきのぞうし)の院に遷った。元慶二年冬、太后は齢五十になった。上皇(清和上皇)は五十人の僧に命じて清和院で法華経を講じさせ、王公百官がことごとく参集した。元慶六年正月、陽成帝(ようぜいてい)は尊んで太皇太后とした。仁和元年二月、太后は自らの待遇の減額と女官の返還を願い出たが、光孝帝はこれを聞き入れなかった(注:『三代実録』による)。昌泰三年五月、崩じた。齢七十二であった(注:『扶桑略記』は正月の崩御とするが、ここでは『大鏡裏書』『一代要記』『帝王編年紀』に従う。齢については『日本紀略』『扶桑略記』『大鏡裏書』はいずれも七十三に作るが、ここでは『帝王編年記』および『三代実録』元慶二年に太后が齢五十であったとの記事に基づく)。愛宕郡(おたぎのこおり)の白河山陵(しらかわのさんりょう)に葬られた(注:『延喜式』による)。世に染殿后(そめどののきさき)と称された(注:『大鏡』『一代要記』『古今和歌集』による)。

藤原古子

女御藤原古子(ふるこ)は、左大臣藤原冬嗣の娘で、五条后(藤原順子)の妹である(注:『尊卑分脈』による)。嘉祥三年、女御となった。仁寿三年、従三位に進んだ(注:『文徳実録』による)。清和帝が即位すると、従一位に進んだ。貞観三年、剃髪した(注:『三代実録』による)。

東子女王

女御東子女王(とうしじょおう)は、嘉祥三年、女御となり(注:『文徳実録』による)、従四位下に叙せられた。貞観七年、卒した(注:『三代実録』による)。

藤原年子

女御藤原年子(としこ)は、嘉祥三年、女御となった(注:『文徳実録』による)。

藤原多可幾子

女御藤原多可幾子(たかきこ)は、右大臣藤原良相(よしみ)の長女である。若い頃から雅やかな操を備えていた(注:『三代実録』による)。嘉祥三年、女御となった(注:『三代実録』は仁寿の初めに後宮に入り女御となったとするが、ここでは『文徳実録』による)。仁寿二年、正五位下に叙せられ(注:『三代実録』による)、斉衡元年、従四位下に進んだ(注:『文徳実録』『三代実録』による)。天安二年、卒した(注:『三代実録』による)。

藤原是子

女御藤原是子(これこ)は、嘉祥三年、女御となった(注:『文徳実録』による)。

紀靜子

更衣紀静子(しずこ)は、正四位下紀名虎の娘である(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。更衣とするのは『紀氏系図』『作者部類』による)。惟喬親王(これたかしんのう)・惟条親王(これえだしんのう)・怡子内親王(いしないしんのう)・述子内親王(じゅつしないしんのう)・珍子内親王(ちんしないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。天安二年、正五位下に叙せられ(注:『文徳実録』による)、のちに従四位上に進んだ(注:『一代要記』による)。貞観八年二月、卒した(注:『菅家文草』による)。

滋野岑子

滋野岑子(みねこ)は、摂津守滋野貞雄(さだお)の娘である。従五位上に叙せられた(注:『三代実録』による)。源本有(もとあり)・源載有(のりあり)・源淵子(ふちこ)を産んだ(注:『三代実録』『皇胤紹運録』による。『三代実録』には、二人の皇子と二人の皇女を産み、いずれも源姓を賜ったとあるが、一人の皇女の名は伝わらず、今のところ考証のしようがない)。

滋野奧子

滋野奥子(おくこ)は、参議滋野貞主の娘である。たいへん風格があり、婦徳の教えをよく修めていた。惟彦親王(これひこしんのう)・濃子内親王(のうしないしんのう)・勝子内親王(しょうしないしんのう)を産んだ(注:『文徳実録』による)。

藤原今子

藤原今子(いまこ)は、参議藤原貞守(さだもり)の娘である(注:「貞守」を『一代要記』『皇胤系図』は「守貞」に作るが、ここでは『帝王編年記』に従う)。惟桓親王(これはるしんのう)(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤系図』による)・礼子内親王(れいしないしんのう)・掲子内親王(けいしないしんのう)を産んだ(注:『皇胤紹運録』による。『帝王編年記』『皇胤系図』は掲子の母を惟喬親王の母と同じとするが、いずれが正しいかはわからない)。

藤原列子

藤原列子(れつし)は、従五位上藤原是雄(これお)の娘である(注:『三代実録』による。「列子」の表記は『皇胤紹運録』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。晏子内親王(あんしないしんのう)(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『皇胤系図』による)・慧子内親王(えしないしんのう)を産んだ(注:『三代実録』による)。

伴氏

伴氏(とものし)は、源能有(よしあり)を産んだ(注:『皇胤紹運録』『公卿補任』『帝王編年記』『皇胤系図』による)。

多治氏

多治氏(たじし)は、源毎有(つねあり)を産んだ(注:『文徳実録』による)。

清原氏

清原氏(きよはらし)は、源時有(ときあり)を産んだ(注:『文徳実録』による)。

菅原氏

菅原氏(すがわらし)は、源定有(さだあり)(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)・源富子(とみこ)を産んだ(注:『三代実録』による)。

布勢氏

布勢氏(ふせし)は、源行五を産んだ(注:『三代実録』による)。