卷之二十二 本紀二十二
平城天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
平城天皇
¶平城天皇(へいぜいてんのう)は、諱(いみな)を安殿(あて)といい、桓武帝の長子である。
¶母は皇后藤原氏(ふじわらし)である(注:日本後紀・日本紀略による)。宝亀五年八月十五日壬午にお生まれになった(注:一代要記・歴代皇紀による)。
¶初め親王であったときの名は小殿(おて)といったが、延暦二年に今の名に改めた(注:続日本紀による)。
¶延暦四年九月、皇太子が廃された(注:日本紀略による)。十一月、皇太子に立てられた。
¶七年正月、元服した(注:続日本紀による)。成長するにつれて聡明で、深い洞察力と広い度量を備え、経書に広く通じ、文章にも巧みであった(注:日本後紀・日本紀略による)。
¶二十五年三月、桓武帝が崩御した。皇太子は悲しみのあまり起き上がることもできなかった。参議近衛中将坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と春宮大夫藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)がこれを助けて東廂(とうしょう)に移した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。この日、東宮の寝殿に血が降りかかるということがあった(注:日本後紀・日本紀略による)。十九日癸未、葛野郡(かどのぐん)の宇太野(うだの)を山陵の地としたところ、西北の両山で火が自然に燃え上がった(注:日本後紀・類聚国史による)。二十二日丙戌、太陽が赤く光を失い、兵庫が夜中に鳴った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。皇太子は公卿に向かってこう言った。「にわかに深い悲しみに遭い、まるで湯火の中に身を置くかのようだ。今、災異がしきりに現れているのは、その責めはひとえに私にある。ただ、徳を崇めて災いを消し去ることは、先人の教えるところである。内外の百官は、政道を正すことに努め、私の至らぬところを補ってほしい。近衛の甲冑は、すべて脱がせるがよい。諸国の関や津も、その守りを止めるべきである。」公卿は「近衛が甲冑を着け、関や津を固く守るのは、古来の恒常の制であり、今日に限ったことではありません」と言った。皇太子はこれに答えて言った。「大行天皇(たいこうてんのう、崩御した先帝)は聖徳が弘く盛んであり、天下は清らかに治まっていた。今さら何を疑うことがあろうか。喪に服しながら甲冑を身につけるのは、草土に伏して哀慕する者のなすべきことではない。また関や津を固く閉ざせば、人々の往来を滞らせ、民を煩わせ農を害することはこれより甚だしいものはない。担当の役所に命じて、すべて通行できるようにせよ。」(注:日本後紀による)。二十三日丁亥、太陽が赤く光を失った。大井山(おおいやま)・比叡山(ひえいざん)・小野山(おのやま)・栗栖山(くるすやま)などが燃え、煙と灰で昼なお暗かった。皇太子は「山陵の造営地が賀茂神(かものかみ)に近いため、神の怒りに触れてこの災いを招いたのではないか」と言い、占わせたところ、果たして祟りがあった。皇太子は「先に山陵を占ったとき、筮(ぜい、めどぎ占い)は従ったが亀卜(きぼく)は従わなかった。今、災異がしきりに現れているのは、慎まねばならぬことではないか」と言い、自ら祈祷すると、火はたちまち消えた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十五日己丑、皇太子はなお粥を召し上がるのみで他の味のものは口にされなかった。群臣がしきりに食事を勧めたので、これに従った(注:日本後紀・類聚国史による)。四月七日庚子、桓武天皇を葬った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。十三日丙午、神王(かんおう)らが上啓して即位を請うた(注:日本後紀による)。二十一日甲寅、権中納言藤原乙叡(ふじわらのおとえい)が中衛大将を罷免された。中納言坂上田村麻呂が中衛大将を兼ねた(注:日本後紀・公卿補任による)。二十四日丁巳、右大臣神王が薨じた(注:日本後紀・日本紀略による)。五月六日己巳、令を下してこう仰せられた。「近年、不作が続き、民の食はまことに乏しい。公稲(くとう)を貸し出す出挙(すいこ)を行っても、なお飢えに苦しむ者が多い。そのため民間で融通し合い、さらに借財を求めるが、返済のときには利息が倍にもなる。ついには富み栄える者はますます豊かになり、貧しく疲弊した家は糟糠(そうこう、粗末な食物)にも事欠く有様である。正税を貸し与えて、その困窮を救うべきである。使者を差し向けて貧しい者を実地に調べ記録させ、保(ほ、連帯組織)を結ばせて貸し与えよ。もし死亡する者があれば、保内の者に埋め合わせさせよ。愛憎の情によって弱者を退け強者を進めたり、未納分の補填に事寄せて私的な貸借まで取り立てたりする者があれば、発覚した日には必ず重罪に処す。民の暮らしがやや回復するのを待って、これを停止せよ。」(注:日本後紀・類聚国史による)。七日庚午、群臣が再び上表して即位を請うた(注:日本後紀による)。十六日己卯、諸国からの雑多な貢物である腹赤魚(はらかのうお)・木蓮子(いたび)などの献上を停止した(注:日本後紀・日本紀略による)。十八日辛巳、皇太子は大極殿(だいごくでん)において天皇の位に即いた(注:日本後紀・日本紀略による)。時に33歳(注:一代要記・帝王編年記による)。大同(だいどう)と改元した(注:日本後紀・日本紀略による)。
¶大同元年丙戌、夏五月十九日壬午、皇太后を追尊して太皇太后(だいこうたいごう)とし、皇后を皇太后とした。皇弟神野親王(かみのしんのう、のちの嵯峨天皇)を皇太弟に立てた(注:日本後紀・日本紀略による。○水鏡には、天皇は即位の日に東宮を立てたが、まもなくこれを廃そうとした、伝(でん)藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)がその意を察して東宮に告げた、東宮は憂い恐れて先帝の陵を望拝すると、そのとき煙気が夜のように暗く立ちこめた、天皇は大いに驚いてこれを占わせると、「先帝の祟りである」と出た、天皇は過ちを悔いて咎を引き受けると、三日で煙は消えた、とある。この説は類聚国史・日本紀略などの書には載っておらず、思うにこの年三月に災異があったことに、卜筮の事を付会したものであろうから、採らない)。中納言藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)を右大臣とし、参議藤原園人(ふじわらのそのひと)を皇太弟傅(こうたいていふ)とした(注:公卿補任による)。二十四日丁亥、六道観察使(ろくどうかんさつし)を置いた(注:日本後紀・日本紀略・公卿補任による)。六月九日辛丑、亡き妃藤原帯子(ふじわらのたいし)を追って皇后に冊立した。十日壬寅、諸王および五位以上の子孫で十歳以上の者は、みな大学に入って分業教習させるよう勅した(注:日本後紀・日本紀略による)。十三日乙巳、僧尼二百人を得度させ、桓武帝の冥福を祈った。閏五月十六日丁丑、勘解由使(かげゆし)を廃止した。秋七月七日戊戌、使者を畿内に遣わし、私に開墾された田を検察させた(注:日本後紀・類聚国史による)。十三日甲辰、公卿が「喪が明けた後は新しい宮殿にお移りになるべきです。あらかじめ造営することをお許しください」と奏上したが、天皇は民の労力を思いやってこれを聞き入れなかった(注:日本後紀・日本紀略による)。八月四日甲子、畿内で水害に遭った百姓の調(ちょう)・徭(よう)を免除し、七道に賑給(しんごう、救済のための物資支給)を行った(注:日本後紀による)。十九日己卯、武蔵国が白烏(はくう)を献上した。捕えた伊福部浄主(いふくべのきよぬし)に稲五百束を賜った(注:日本後紀・類聚国史による)。この月、長雨がやまず洪水が氾濫し、諸国の多くがその被害を受けた。九月九日癸巳、左右京の堤を修めるよう勅した(注:日本後紀による)。冬十月十一日庚午、桓武天皇を改葬した(注:類聚国史・日本紀略による)。天下に「素服(そふく、喪服)を着けて哀悼せよ」と勅した。十三日壬申、勅してこう仰せられた。「そもそも氏女(うじめ)を貢進することは、令の条文に明らかである。みな四十歳以下、十三歳以上の者に限られている。しかし年齢がなお若く、心志も定まっていない。今後は、年三十歳以上四十歳以下で配偶者のない者を採るべきである。あるいは人に嫁ごうとする者があれば、必ずその代わりを貢進させよ。」(注:類聚国史による)。十八日丁丑、河内(かわち)と摂津(せっつ)の境界を定めた(注:日本紀略による)。晦日己丑、夜の祭りで琴歌を奏することを禁じた(注:類聚国史・日本紀略による)。十一月六日乙未、太宰府(だざいふ)管内の諸国は、連年の水害・旱害・疫病により田園が荒廃していた。そこで筑前(ちくぜん)・肥前(ひぜん)の租を二年、筑後(ちくご)・肥後(ひご)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)・壱岐(いき)の租を一年免除した(注:類聚国史による)。十三日壬寅、皇女大原内親王(おおはらないしんのう)を伊勢斎(いせのいつき)とした(注:類聚国史・日本紀略による)。この年、伊賀(いが)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・紀伊(きい)・淡路(あわじ)は連年不作であったため、田租の十分の四を免除し、六年を期限とした(注:類聚国史による)。
¶二年丁亥、春正月庚寅朔、諒闇(りょうあん、天皇の服喪)のため朝賀を廃した(注:類聚国史・日本紀略による)。十二日辛丑、前年水害に遭ったことにより、丹後(たんご)加佐郡(かさぐん)の租調を免除した(注:類聚国史による)。使者を香椎宮(かしいのみや)に遣わし、唐からの信物(しんもつ、贈答品)を献じた。十七日丙午、また諸山陵にも献じた(注:日本紀略による)。二十日己酉、天下の百姓に桑と漆の栽培を勧め課した(注:類聚三代格による)。二十七日丙辰、参議以上に唐綾(からあや)・錦(にしき)・香薬(こうやく)などを賜った。二月十四日壬申、左京の住人調田庭継(つきたのにわつぐ)が、父を殴った罪により伊豆に流された。三月三日辛卯、相模(さがみ)の女子が一度に三子を産み、稲三百束を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。夏四月十六日癸酉、詔して参議を罷め、観察使(かんさつし)を置いた(注:日本紀略・公卿補任による)。二十二日己卯、近衛府(このえふ)を左近衛府、中衛府(ちゅうえふ)を右近衛府に改めた。五月戊子朔、雹(ひょう)が降った。十三日庚子、聖武帝の国忌(こくき)を廃した(注:日本紀略による)。十六日癸卯、諸国からの采女(うねめ)の貢進を停止した(注:類聚国史・日本紀略による)。二十五日壬子、地が大いに震えた(注:類聚国史による)。六月十五日辛未、雹が降った(注:日本紀略による)。秋七月二十一日丙午、近江(おうみ)の女子が一度に三子を産んだ。稲三百束を賜った(注:類聚国史による)。二十四日己酉、畿内の国守以下が私に田を耕作することを許した。八月八日癸亥、使者を遣わし、神宝および唐からの信物を大神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に奉った。十九日甲戌、憲法十五条を頒布した(注:日本紀略による)。九月九日癸巳、神泉苑(しんせんえん)で弓射を観覧した(注:類聚国史・日本紀略による)。詔して正月の射礼(じゃらい)を停止し、この日に移した(注:類聚国史による)。二十八日壬子、勅してこう仰せられた。「巫覡(ふげき、みこ・かんなぎ)の徒がみだりに禍福を説き、愚かな庶民はその妖言を仰ぎ信じている。淫祀(いんし、いかがわしい祭祀)はますます盛んになり、厭咒(えんじゅ、のろい)も多い。これが積み重なって風俗となり、素朴な気風を損なっている。今後は一切これを禁断せよ。もしこの術を深く崇めて改めない者があれば、発覚した日に遠国へ移す。担当の役所がこれを知りながら糾さず、隣保がこれを匿ってかくまう場合は、いずれも法に准じて罪科に処す。」(注:類聚三代格による)。この秋、五度神泉苑に行幸した。冬十月十三日丙寅、相模の女子が一度に三子を産んだ。稲三百束を賜った。十六日己巳、内豎(ないじゅ、宮中の小姓)を停止し、左右の舎人(とねり)に隷属させた(注:類聚国史による)。十九日壬申、公卿が「国司の交替は四考(しこう、四年の勤務評定)を限りとしているが、六年を限りとすべきです」と議奏し、これに従った。二十九日壬午、葛野川(かどのがわ)で御禊(ぎょけい、みそぎ)を行った。晦日癸未、中務卿(なかつかさきょう)伊予親王(いよしんのう)の謀反が発覚した。左近衛中将安倍兄雄(あべのあにお)・左兵衛督巨勢野足(こせののたり)らを遣わし、兵を率いてその邸を囲ませた。十一月二日乙酉、大嘗祭(だいじょうさい)を停止した。この日、伊予親王を川原寺(かわらでら)に幽閉した(注:日本紀略による)。十一日甲午、伊予親王に与したことにより、大納言藤原雄友(ふじわらのおとも)を伊予に流し、中納言藤原乙叡を罷免し、北陸道観察使秋篠安人(あきしののやすひと)を造西大寺長官(ぞうさいだいじちょうかん)に貶(おと)した(注:公卿補任による)。十二日乙未、伊予親王に死を賜った(注:日本紀略による)。十三日丙申、正月七日・十六日の二節を停止するよう勅した。十二月、京師(けいし、都)に疫病が流行したため、使者を遣わして賑給した(注:類聚国史による)。この冬、鳥雀が雛をかえし、桃や李(すもも)の花が咲いた(注:日本紀略による)。
¶三年戊子、春正月癸未朔、風寒のため朝賀を廃した(注:類聚国史・日本紀略による)。七日己丑、京師の疫病にかかった民に賑給した。十二日甲午、疫病の民に医薬を給した(注:類聚国史による)。十三日乙未、使者を遣わし、疫病で道に死んだ者を収め埋葬させた(注:類聚国史・日本紀略による)。病民に米・塩・豉(し、みそ)を給した(注:類聚国史による)。諸大寺および畿内七道で大般若経(だいはんにゃきょう)を転読させた(注:類聚国史・日本紀略による)。二十日壬寅、詔して官員を併合し省いた(注:令集解による)。二十六日戊申、右京の疫病の民に綿を給した。二月四日丙辰、勅してこう仰せられた。「今聞くところによれば、往来する百姓が道中で病に倒れ、あるいは飢渇によって死に至る者がいるという。これはまことに担当の役所が法令の趣旨を守らず、村里にも世話をしようとする心がないためである。近ごろ疫病が続き、死者が相次いでいる。屍骸を収めることもなく路傍にさらしたままにしているのは、埋葬の道義に甚だしく背く。諸国に巡検して撫恤(ぶじゅつ、いたわり救うこと)するよう命じ、先の格(きゃく)にひとえに従わせよ。ある屍骸はすべて収め葬れ。」二十四日丙子、大極殿にお出ましになり、名神(みょうじん)に祈祷して天下の疫病を祓った。二十九日辛巳、詔してこう仰せられた。「朕は孝の誠に欠けるところがあり、親に仕えることもかなわなかった。橋山(きょうざん、黄帝の陵という故事)に心を砕いても、遺された剣を仰ぐことはすでに遠い昔のこととなった。穀林(こくりん、堯の故事)に恨みを抱いても、遊んだ冠を望んでも及ぶところではない。まして春風が樹を動かすたびに、終生尽きぬ蓼(たで、親への思いを表す語)の思いを結び、秋露が叢(くさむら)を潤すたびに、生涯変わらぬ棘(いばら)の心を貫くのである。先帝および皇太后の忌日は、ちょうど三月にあたる。その時節に感慨を催すのに、どうして宴楽に堪えられようか。三日の節会を停止せよ。」(注:類聚国史による)。この月、従五位下斎部広成(いんべのひろなり)が『古語拾遺(こごしゅうい)』を奉った(注:古語拾遺による。○ある本には二年に奉ったものとする)。三月癸未朔、疫病により諸国に仁王経(にんのうきょう)を講じさせ、一七日(ひとなのか、七日間)を限りとした(注:類聚国史・日本紀略による)。八日庚寅、禁中および諸司・左右京職で仁王経を講じた(注:類聚国史による)。二十二日甲辰、黄雨(こうう、黄色の雨)が降った。二十七日己酉、大田親王(おおたしんのう)が薨じた。二十八日庚戌、黄雨が降った(注:日本紀略による)。夏四月二十一日壬申、淡路が飢饉となった。播磨(はりま)の穀物を出して賑給した(注:日本後紀による)。二十四日乙亥、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。五月三日甲申、衛門佐(えもんのすけ)安倍真直(あべのまなお)・侍医出雲広貞(いずものひろさだ)らが『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』百巻を奉った(注:日本後紀・日本紀略による)。五日丙戌、疫病のため馬射(うまゆみ)を停止した。勅してこう仰せられた。「聞くところでは、大同元年の洪水による被害は、その弊害がいまだ回復していない。昨年以来、疫病が流行し、思いがけず亡くなる者が多い。その困窮を顧みて、深く哀れみの心を抱いている。恩徳を施し、民を慰めたいと思う。水害を被った戸で被害が七割以上に及ぶものについて、貸し与えた正税(しょうぜい)の未納分は、すべて免除すべきである。」(注:日本後紀・類聚国史による)。七日戊子、神泉苑に行幸し、諸国からの相撲人の貢進を停止した(注:日本後紀による)。八日己丑、使者を差し向けて左右京の病民を療治させた。十日辛卯、詔してこう仰せられた。「朕は寡昧(かまい、徳の乏しい身)でありながら、かたじけなくも大いなる皇統を嗣いだ。薄氷を踏むように、また傷を負うかのように、民の苦しみを常に気にかけ、暴れ馬を御するように、身の危うさを思って玉座に安んじてはいない。己を戒めて政道を思い、精励して政務にあたってきた。しかし仁徳は万物に及ばず、誠は天を感じさせるに至らなかった。即位して以来、その咎が現れている。近ごろ天下諸国では飢えがますます甚だしく、疫病が相次いで、若くして命を落とす者が多い。朕の不徳が民に及んでいることを思い、事にあたって自らを責め、深く心を痛めている。あるいは政治や刑罰が道理から外れ、上は神霊の心を損ない、あるいは煩雑で苛酷な命令が、下は民を苦しめているのではないかと恐れる。これはすべて朕の過ちであって、万民に何の罪があろうか。静かにこのことを思い、寝ても覚めても忘れることがない。詩経にも『民もまた疲れ果てた、いくらか安んずることができようか』とあるではないか。飢饉と疫病に苦しむ諸国の、今年の調は、すべて免除すべきである。国司は自ら郷邑を巡り、薬を与えて療養救済にあたり、あわせて国分二寺(こくぶんにじ)に大乗経を一七日間転読させよ。左右京にも使者を遣わして、あまねく振贈(しんぞう、施し与えること)を加えるべきである。善行によって効験があり、困窮する者を田畝の糧で救い、徳を修めることが空しくならず、さまよう魂を冥府の記録から呼び戻すことを願う。寛大な恵みを施すことに努め、朕の意にかなうようにせよ。」十三日甲午、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史による)。十五日丙申、播磨が白燕(はくえん)を献上した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。十六日丁酉、筑前国司を再び置いた(注:日本後紀・類聚三代格による)。二十一日壬寅、丹生川上(にうかわかみ)に馬を奉って雨を祈った。二十三日甲辰、雨が降った。群臣は慶びを称え、楽を奏して物を賜った(注:日本後紀・日本紀略による)。晦日辛亥、但馬(たじま)の飢饉を賑給した(注:日本後紀による)。秋七月辛巳朔、日食があった(注:日本後紀・日本紀略による)。二十二日壬寅、衛門府(えもんふ)を廃し、左右衛士府(えじふ)に併せた(注:日本後紀による)。二十七日丁未、大堰(おおい)に行幸した。八月二十二日辛未、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十七日丙子、夜、左右兵庫の鉦鼓(しょうこ)がひとりでに鳴った。九月十一日庚寅、太白(たいはく、金星)が昼に現れた(注:日本後紀・日本紀略による)。十六日己未、私的に鷹を飼うことを禁じた(注:日本後紀による)。十九日戊戌、勅してこう仰せられた。「去る五月の詔で『飢饉と疫病に苦しむ諸国の、今年の調は、すべて免除すべきである』と述べた。今聞くところでは、国司らは現に病にある者だけを免じ、まだ病にかかっていない民から徴収しているという。早く命令を下し、二度とこのようなことがないようにせよ。浪人の調および中男作物(ちゅうなんさくもつ)についても、これに准ぜよ。」(注:日本後紀・類聚国史による)。この日、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。二十三日壬寅、親王および観察使以上、ならびに六衛府(ろくえふ)の次官以上が鷹や鸇(はしたか)を飼うことを許した(注:類聚三代格による)。冬十月七日乙卯、北野で遊猟した。八日丙辰、左衛士坊(さえじぼう)で火災があった(注:日本後紀・類聚国史による)。二十七日乙亥、近江(おうみ)の大津に行幸して禊(みそぎ)を修めた。晦日丁丑、制してこう定めた。「前例を考えると、大嘗祭の散斎(さんさい)は三月間であった。今後は、一月を限りとする。」(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。十一月四日辛巳、盗賊が内蔵寮(くらりょう)の府に押し入った(注:日本後紀による)。十一日戊子、大嘗祭の雑楽の伎人(ぎにん)が唐物(からもの)を飾りとすることを重ねて禁じた(注:日本後紀・類聚国史による)。十四日辛卯、大嘗祭を行った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。晦日丁未、右衛士坊で火災があった(注:日本後紀による)。十二月二十九日丙午、水害に遭ったことにより、伊賀の未納の税を免除した(注:日本後紀・類聚国史による)。
¶四年己丑、春正月戊寅朔、風寒のため朝賀を廃した(注:日本後紀・日本紀略による)。十日丁亥、七日・十六日に諸国が珍味を献ずることを停止した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。十五日壬辰、大極殿の西楼の上で犬が吠えるということがあった。数百羽の烏がその上を飛び回った。十八日乙未、諸国にそれぞれ大般若経一部を写させ、名神に供養するよう勅した。二十六日壬申、天皇が病に伏した(注:日本後紀・日本紀略による)。閏正月九日乙酉、諸国に膂力(りょりょく、腕力)の優れた者を貢進させるよう勅した。十四日庚寅、供御(くご、天皇の飲食物)および年中の費用、諸司官人の月俸を廃止・削減した(注:日本後紀・類聚国史による)。三月十六日辛酉、山城(やましろ)が白鼠(はくそ)を献上した。夏四月丙子朔、宮中および京師の諸寺で経を読ませた(注:日本後紀・日本紀略による)。天皇は寝食がしだいに安らかでなくなった。この日、皇太弟に位を伝え(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)、東宮にお移りになった(注:日本後紀・日本紀略による)。尊号を奉って太上天皇(だじょうてんのう)と称した。
¶太上天皇は病を避けて数か所を転居し、五度目の遷居の後、平城(なら)を宮とした。しかし重責を退いたはずでありながら、なお政務に煩わされることが多かった。尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(ふじわらのくすこ)は深く寵愛を受け、宮中の事を取り仕切り、あれこれと事実を偽って取り入った。その兄で右兵衛督(うひょうえのかみ)の仲成(なかなり)は権勢を恃んで驕り高ぶり、太上天皇はともにこれを寵愛して、その奸悪を見抜けなかった(注:日本後紀・類聚国史による)。しだいに薬子の説を容れ、再び皇位に臨もうとする意があった(注:水鏡による)。嵯峨帝(さがてい)は密かにこれに気づいており、そのため即位以来、しばしば病と称して政務をとらず、ついに譲位の策を決意した。右大臣藤原園人を遣わし、神璽(しんじ)を捧げて太上天皇のもとに届けさせたが、太上天皇はこれを聞き入れなかった(注:日本紀略による)。
¶弘仁(こうにん)元年九月、薬子は太上天皇の意を偽って、都を平城に遷そうとした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。中納言坂上田村麻呂・蔵人頭(くろうどのとう)藤原冬嗣・従四位下紀田上(きのたがみ)らを造宮使(ぞうぐうし)とした(注:日本紀略による)。朝野はみな驚いた。嵯峨帝は詔を下し、薬子・仲成の罪を声高に告げた。太上天皇は大いに怒り、畿内および紀伊の兵を徴発し、薬子とともに輿を連ねて東国へ赴こうとし、諸司の宿衛の士もみなこれに従った。添上郡(そえかみぐん)越田邑(こしだのむら)に至ったところ、大軍が前方で待ち構えていると聞いて、軍勢はおのずと潰えた。太上天皇は事が成らないことを悟り、宮に還って髪を薙(そ)って出家した。仲成は誅に伏し、薬子は薬を仰いで死んだ(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。越前介(えちぜんのすけ)阿倍清継(あべのきよつぐ)・権少掾(ごんのしょうじょう)百済愛荃(くだらのあいせん)らは、兵を挙げて太上天皇に応じた。嵯峨帝は従五位下登美藤津(とみのふじつ)を越前介に任じたが、清継らはその交替を受け入れず、ついに藤津を捕えた。ここに至って帝は民部少輔紀南麻呂(きのなみまろ)らを遣わして糾問させ、清継・愛荃を遠流に処した。初め事変が起こったとき、中納言藤原葛野麻呂・左馬頭(さまのかみ)藤原真雄(ふじわらのまさお)は、太上天皇にしきりに諫言したが、聞き入れられず、ついに敗れるに至った(注:日本後紀・類聚国史による)。
¶弘仁十二年、太上天皇は僧空海(くうかい)のもとに赴き、壇に入って灌頂(かんじょう)を受けた。帝王の密灌はこれに始まる(注:元亨釈書による。○元亨釈書の本文には十三年のこととするが、今は一代要記に従う)。
¶淳和帝(じゅんなてい)の時代、嵯峨帝を尊んで太上天皇と称したため、それまでの太上天皇を先太上天皇(せんだじょうてんのう)と称するようになった。太上天皇は書を遺わして尊号を辞退し、服御(ふくぎょ、服装や調度)を減らし、諸司の数を停止することを求めた。その文には必ず「臣」と自称した。帝はこれが上表と同様の形式であることから、封をしたまま返し、返答しなかった。
¶天長(てんちょう)元年七月七日甲寅、崩御した。御年51歳。日本根子天排国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)と諡した(注:類聚国史・日本紀略による)。添上郡楊梅陵(やまもものみささぎ)に葬った(注:類聚国史・延喜式による)。平城天皇と称し、世に奈良帝(ならのみかど)と称した(注:一代要記・歴代皇紀による)。
¶天皇は見識と度量に優れ沈着敏達で、自ら万機を親裁し、己に克って政務に励み、無駄な出費を省き、珍奇な品を退けた。法令は厳正に整い、臣下は粛然としていた。しかし性質には猜忌(さいき、疑い妬むこと)が多く、伊予親王とその母を殺し、これに連座して処罰された者も多かった(注:類聚国史による)。即位の当初、年を越えないうちに改元した(注:日本後紀・日本紀略による)。晩年は寵愛する女性に溺れ、政治が婦人の手から出るようになったため、世にこれを譏(そし)った(注:類聚国史による)。