卷之八十九 列傳第十六
皇子四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
【桓武】十三子
¶桓武天皇(かんむてんのう)には十六人の皇子があった。皇后藤原氏(ふじわらし)は平城帝(へいぜいてい)と嵯峨帝(さがてい)を生み、贈皇太后は淳和帝(じゅんなてい)を生んだ(注:『続日本紀』による)。夫人藤原吉子(ふじわらのきっし)は伊予親王(いよしんのう)を生み(注:『日本紀略』による)、多治比真宗(たじひのまむね)は葛原親王(かずらわらしんのう)(注:『文徳実録』『日本紀略』による)・佐味親王(さみしんのう)・賀陽親王(かやしんのう)・大徳親王(だいとくしんのう)を生んだ(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による)。藤原小屎(ふじわらのおくそ)は萬多親王(まんだしんのう)を生み(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による)、宮人藤原河子(ふじわらのかわこ)は仲野親王(なかのしんのう)を生み(注:『三代実録』による)、紀若子(きのわかこ)は明日香親王(あすかしんのう)を生み(注:『続日本後紀』による)、坂上春子(さかのうえのはるこ)は葛井親王(ふじいしんのう)を生み(注:『文徳実録』による)、百済教仁(くだらのきょうじん)は大田親王(おおたしんのう)を生み(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『帝王編年記』による)、河上好(かわかみのよし)は坂本親王(さかもとしんのう)を生んだ(注:『一代要記』による)。女孺多治比豊継(たじひのとよつぐ)は長岡岡成(ながおかのおかなり)を生み(注:『姓氏録』による)、百済永継(くだらのえいけい)は良岑安世(よしみねのやすよ)を生んだ(注:『姓氏録』『公卿補任』による)。
伊豫親王
¶伊予親王(いよしんのう)は、延暦十五年、帯剣を許された(注:『日本紀略』による)。まもなく四品に叙され(注:『公卿補任』『文徳実録』による)、三品に進み、式部卿・中務卿を歴任した(注:『類聚国史』『日本紀略』による)。伊予は管絃を得意とし(注:『水鏡』による)、帝はことのほか彼を寵愛した。かつて秋の月夜、狩りのついでにその山荘に立ち寄り、酒を置いて宴を開いたことがあった。日が暮れ、帝が鹿の鳴き声を聞きたいと思い歌を詠むと、たまたま鹿が鳴いた。帝は喜び、群臣に和歌を詠ませ、以後たびたびその山荘に行幸した(注:『類聚国史』『日本紀略』による)。大同二年十月、藤原宗成(ふじわらのむねなり)が伊予に謀反を勧め、ひそかに不軌を企てさせようとした。伊予はこれを拒んで従わなかったが、なおこのことを朝廷に申し出なかった。伊予の外舅である大納言藤原雄友(ふじわらのおとも)がこれを右大臣藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)に告げた。伊予は権勢を憚り、急ぎ宗成が謀反を勧めた事情を奏上した。ただちに宗成を左衛士府に拘禁し、取り調べた。宗成は白状して、「謀反を首謀した者は親王である」と述べた(注:『日本紀略』による)。左近衛中将安倍兄雄(あべのえお)は伊予の無罪を強く主張したが、帝は聞き入れなかった(注:『公卿補任』による)。そこで兄雄および左兵衛督巨勢野足(こせののたり)らを遣わし、兵を率いて伊予の邸を包囲させた。十一月、詔して親王の号を削り、母である夫人藤原吉子とともに河原寺に移し、一室に幽閉して飲食を絶たせた(注:『日本紀略』による)。雄友・宗成およびその一党を配流・処罰した(注:『公卿補任』による。宗成の件は『日本紀略』による)。伊予とその夫人は毒薬を仰いで死に、当時の人々はこれを哀れんだ(注:『日本紀略』『水鏡』による)。弘仁元年、嵯峨帝が病にかかると、伊予のために十人の僧を、藤原夫人のために二十人の僧をそれぞれ得度させ、祟りを祓わせた(注:『類聚国史』『日本紀略』による)。十年、詔して親王の号を復した(注:『日本紀略』による)。淳和帝の即位に際し、僧空海(くうかい)・僧戴栄(たいえい)らに命じて橘寺で仏経を講じさせ、田および道場の用具を寄進して、その冥福を祈らせた(注:『性霊集』による)。承和六年九月、仁明帝は中使を墓に遣わして詔を宣べさせ、「贈二品伊予親王は(注:贈二品となった年月は欠けており、今考えるすべがない)、早くに世を去り、長く黄泉の下に眠っている。福禄の実らなかったことを悼み、禍福のはかりがたさを悲しむ。すでに先の詔で栄誉を追贈したとはいえ、なお今年においてさらに飾りを加えたい。よろしく栄えある位を贈り、幽宮を飾るべきである。一品を贈るがよい」と述べた(注:『続日本後紀』による)。貞観五年、神泉苑で御霊会を修した際、伊予とその夫人もその霊にあずかった(注:『三代実録』による)。
¶子には継枝王(つぐえだおう)・高枝王(たかえだおう)がいる(注:『文徳実録』に、大同の初め親王が害を被った際、三人の子が遠流にされたとの記述があることによれば、伊予の子はこの二人にとどまらないはずである。今考えるすべはない。またその年齢の順序も詳らかでない。『文徳実録』『公卿補任』にはいずれも、高枝王は伊予親王の第二子であるという。『続日本後紀』にはまた、継枝はその第一子であるという。『類聚国史』を考えると、継枝の叙位は弘仁十四年、高枝の叙位は天長三年で、継枝より三年遅れている。今しばらくこれによって、継枝を高枝の上に置く)。継枝は従四位下となった(注:『続日本後紀』『類聚国史』による)。高枝は、父が罪を被るとともに兄弟ともども遠流にされ、流浪して困窮し、生計を立てるすべもなかった。嵯峨帝の即位に及び、父が無実であったことを哀れんで子らを赦して都に呼び戻し、没収されていた父の財産・田宅をことごとく返し与えた。高枝はそこで兄弟と話し合い、男女の別なく均等に分配したので、当時の人々はこれを称えた。天長三年、従四位下に叙され、因幡守となり、累進して宮内卿に至り、従三位に至った。高枝は人となり寛大で、文書をよく学んだ。僧空海に書を学び、真熊(まくま)に琴を習った。家には元来財産を蓄えず、薨じるにあたっては遺言して簡素な葬儀を命じた(注:『文徳実録』による)。
葛原親王
¶葛原親王(かずらわらしんのう)は、幼くして聡明であった。成長してからは謙虚で倹しく、人に対して驕ることがなかった。史書や伝記を広く読み、常に古今の成敗を鑑として自らを戒めた(注:『文徳実録』による)。延暦十七年、淳和帝とともに宮中で元服の加冠を受けた(注:『日本紀略』による)。二十二年、四品を授けられ、治部卿に任じられた。大同元年、大蔵卿に遷った。三年、弾正尹となった。四年、三品に進んだ。弘仁元年、式部卿となった。三年、大宰帥を兼ねた。七年、二品に叙された(注:『文徳実録』による)。十四年、中務卿に任じられ、再び弾正尹となった。天長二年、上表して子女すべての王号を廃し平朝臣の姓を賜るよう願い出たが、許されなかった。重ねて願い出て、ようやく許された(注:『日本紀略』による)。七年、常陸太守を兼ね、再び式部卿となった。八年、一品に進んだ(注:『文徳実録』による)。承和二年、甲斐国巨麻郡の馬相野の空閑地五百町を賜った(注:『続日本後紀』による)。五年、上野太守を兼ねた(注:『続日本後紀』『文徳実録』による)。十年、老齢と病を理由に上表して辞職を願ったが、許されなかった(注:『続日本後紀』による)。十一年、再び常陸太守を兼ねた。嘉祥三年、再び太宰帥となった。仁寿三年六月、薨じた。年六十八。遺言して簡素な葬儀を命じ、喪事の監護を辞退した。葛原は長く式部にあって職務によく通じ、およそ旧来の典礼について精通しないものはなかった。朝廷はこぞって彼を重んじ、勅により輦車での宮中出入りを許され、他の親王たちより格別に優遇された(注:『文徳実録』による)。子の平高棟(たいらのたかむね)には別に伝がある。次に善棟(よしむね)、従四位下(注:『類聚国史』による)。次に高見王(たかみおう)。高見の子を高望王(たかもちおう)といい、寛平元年、平朝臣の姓を賜り、上総介となった(注:『皇胤紹運録』『源平盛衰記』による。寛元元年とするのは『盛衰記』による。長門本『平家物語』では元年を二年とする)。
萬多親王
¶萬多親王(まんだしんのう)は(注:『日本紀略』によれば、萬多はもと茨田(まんだ)と名乗り、延暦二十三年に今の名に改めたという。しかし『倭名類聚抄』によれば、河内国茨田郡の注に「萬牟多」とある。萬多と茨田は音訓が同じであるから、おそらく文字を改めただけで名を改めたのではないだろう)、延暦十四年、周防国の田百町・山八百町を賜った(注:『日本紀略』による)。大同年間、四品に叙され、中務卿となった(注:『類聚国史』による)。弘仁六年、これより先、嵯峨帝は天下の氏族が入り乱れ、尊卑の別が混同していることを憂い、右大臣藤原園人(ふじわらのそのひと)・参議藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)らに詔してこれを見分けさせた。萬多がとりわけ系譜の学に精通していたことから、その考定を命じた。ここに至って書が完成し、およそ千百八十二氏(注:『一代要記』には千百八氏とある)、あわせて三十一巻、名づけて『新撰姓氏録』といい、宮中に参上してこれを上表した(注:『新撰姓氏録』序による。『日本紀略』『一代要記』では五年のこととする)。八年、三品に叙された(注:『類聚国史』による)。十年、緒嗣らとともに、「旧記に基づいて先の書を改訂したい」と奏請し、許された。淳和帝の即位に際し、式部卿となった。天長五年、太宰帥を兼ねた。七年四月、二品に進んだ。その月、薨じた。年四十三。詔して一品を贈った(注:『日本紀略』による)。
¶子には正躬王(まさみおう)・正行王(まさゆきおう)・雄風王(おかぜおう)がいる(注:『文徳実録』によれば、正行は第二子、雄風は第四子であるという。『公卿補任』では正躬を第七子とする。そのほかの子については考えるすべがない)。正躬には別に伝がある。正行は兄の正躬とともに大学で学業を受け、生まれつき文章を好み、酒を愛し、あわせて鷹狩や馬術も嗜んだ。嵯峨帝が譲位すると、詔により嵯峨院に仕えた。天長十年、従四位下を授けられ、侍従となった。仁明帝はことのほか彼を寵遇した。承和年間、越中守を兼ね、左馬頭に遷り、従四位上に叙され、左京大夫に転じた。仁寿・天安の間、加賀守に任じられ、弾正大弼となり、美作権守を兼ね、正四位下に至った(注:『文徳実録』による)。子には高蹈王(たかふみおう)・高居王(たかいおう)・高平王(たかひらおう)があり、いずれも平朝臣の姓を賜った(注:『三代実録』による)。雄風は人となり沈着で聡明、かつ寛大であり、立ち居振る舞いは物静かで優雅であった。若くして大学に入り、文徳帝が東宮であった頃、その側近に召し出されて仕え、鷹狩や馬術をよく嗜んだ。文徳帝の即位の日、従四位下を授けられ、左馬頭に任じられ、そのまま殿中に仕え、いっそう親しく寵愛された。斉衡年間、在官のまま没し、帝はこれをたいそう哀惜した(注:『文徳実録』による)。子には定相王(さだすけおう)・有相王(ありすけおう)があり、いずれも平朝臣の姓を賜った(注:『三代実録』による)。
賀陽親王
¶賀陽親王(かやしんのう)は、弘仁年間、四品を授けられ、刑部卿となった。淳和帝の即位に際し、治部卿に遷った。天長年間、中務卿となり(注:『日本紀略』による)、三品を授けられた。承和七年、太宰帥となり、まもなく再び治部卿となった。嘉祥三年、弾正尹に遷った。斉衡年間、二品に叙された。天安二年、勅により帯剣を許された(注:『文徳実録』による)。貞観初め、常陸太守を兼ね、再び治部卿となり、常陸太守はもとのままであった。勅により東大寺で無遮大会を催して大仏像を供養させるにあたり、賀陽を遣わしてこれを監督させた。五年、上表して致仕を願い出たが、優詔があって許されなかった。九年、上野太守となり、治部卿はもとのままであった。十三年、太宰帥となり、上表して治部卿の辞任を願い出た。十月、薨じた(注:『三代実録』による)。年七十八(注:『帝王編年記』による)。賀陽は工夫を凝らすことに優れ、巧みに物を作った。かつて京師に京極寺を創建した。折しも大旱魃に遭い、鴨川の水が涸れ、寺の田もほとんど干上がろうとしていた。賀陽は木で童子の像を彫り、その長さは四尺ほどで、両手に器を捧げ持たせ、からくりを仕掛けて田の中に置き、器に水を満たすと、水が童子の顔に降りかかるようにした。人々が争ってこれに水を注いだので、寺の田は枯れずに済んだ(注:『今昔物語』による)。
¶子には道野王(みちのおう)・利基王(としもとおう)・忠貞王(たださだおう)がいる(注:『文徳実録』『三代実録』にはいずれも道野王を第一子と記す。『三代実録』には利基王を第六子とある。しかし忠貞王の順序は記されていない。これによれば親王の子はこの三人にとどまらないはずである。また『三代実録』によれば、貞観十五年に左京の人、幸身王(ゆきみおう)・時身王(ときみおう)が平朝臣の姓を賜ったとあり、賀陽親王の子孫であるという。しかしその父祖を記していないので、今考えるすべがない)。道野は、承和三年、武蔵守に任じられた。仁寿年間、従四位上を授けられた。道野は酒色を好み、音楽を愛したが、生まれつき慎み深く、いまだかつて人に対して傲慢であったことはなかった(注:『文徳実録』による)。利基は少年の頃から大学に入り、史記・漢書に広く通じていた。承和の末、文章生に挙げられた。嘉祥三年、従四位下を授けられた。貞観年間、侍従となり、従四位上を授けられ、下野権守を歴任した。その子潔行王(きよゆきおう)は、元慶年間、平朝臣の姓を賜った(注:『三代実録』による)。
忠貞王
¶忠貞王(たださだおう)は、天安二年、従四位下を授けられた(注:『文徳実録』『公卿補任』による)。貞観年間、大学頭となり、中務大輔に遷り、弾正大弼、摂津・河内・大和・播磨などの守を歴任した。元慶三年、参議を拝命し(注:『公卿補任』による)、大和国の班田を検校し、累進して宮内・刑部卿、美濃・近江守を兼ね、在官のまま没した(注:『三代実録』による)。忠貞は容貌がひどく醜かったが、志は高く遠大であった。幼くして学問に励み、五経にほぼ通じ、地方に出ては諸国の守を歴任し、威厳と恩恵を兼ね備えたので、民はあえて欺こうとせず、学問を重んじる気風が至るところで日ごとに興った。優れた官吏としての治績は橘良基(たちばなのよしもと)と並び称され、名声の高さは皇族の中でも第一であった(注:『公卿補任』による)。
明日香親王
¶明日香親王(あすかしんのう)は、弘仁二年、四品を授けられ、弾正尹となった(注:『日本紀略』による)。九年、上表して親王の号を除き、身分を下げて諸臣と同じくするよう願い出たが、許されなかった。重ねて上表し、生んだ男女に朝臣の姓を賜るよう願い出た。帝はその願いをよしとし、子女四人に久賀朝臣(くがのあそん)の姓を賜った。それ以後、孫の王たちが姓を賜る際は、みなこれにならった(注:『日本紀略』『続日本後紀』による)。十二年、三品を授けられた。天長八年、上野太守となった(注:『日本紀略』による)。承和元年二月、薨じた。明日香は生まれつき倹しく質朴で、華美を好まなかった。弘仁年間、世の中が奢侈華麗に流れ、朝廷の貴族たちは衣服を華やかに飾ったが、ひとり明日香だけはそれを競うことなく、夏の日でも朝服を何度も洗って着続けた。時に駿馬が献上されると、それを売って費用に充てることもあった。薨じるに及び、朝廷はこれを哀悼した(注:『続日本後紀』による。本書の上表文によれば、明日香には男子があったはずだが、諸書にその名を載せておらず、今考えるすべがない)。
佐味親王
¶佐味親王(さみしんのう)は、容姿・立ち居振る舞いが物静かで上品であり、たいそう色を好んだ。弘仁三年、四品を授けられた(注:『日本後紀』『日本紀略』による)。八年、弾正尹に任じられた。淳和帝の即位に際し、中務卿となった。天長二年閏七月、薨じた。年三十三(注:『日本紀略』による。『皇胤紹運録』には年三十二とある)。
大德親王
¶大徳親王(だいとくしんのう)は(注:『皇胤系図』『皇胤紹運録』『一代要記』には大徳を大野と記す。今は『日本紀略』に従う)、延暦二十二年十月、薨じた。年六歳。
仲野親王
¶仲野親王(なかのしんのう)は、幼くして聡明で弁がたち、性質は寛大であった(注:『三代実録』による)。延暦二十四年、安芸国賀茂郡の地五十町を賜り、また河内国交野郡の白田二町を賜った(注:『日本後紀』による)。弘仁五年、四品に叙された(注:『三代実録』『日本紀略』による)。天長四年、中務卿となった(注:『日本紀略』による)。七年、太宰帥に任じられた(注:『三代実録』『日本紀略』による)。十年、三品に昇った(注:『三代実録』『類聚国史』による)。仁明朝、上総太守に任じられ、弾正尹を拝命し、上野太守となり、二品を授けられ(注:『続日本後紀』『三代実録』による)、式部卿に転じた(注:『文徳実録』による)。仁寿三年、常陸太守を兼ね、貞観の初め、再び上総太守を兼ね、詔により河内・摂津の禁野以外での放鷹を許された。五年、再び太宰帥となり、輦車に乗って宮中に出入りすることを許され、勅により鷹三聯・鷂一聯を飼うことを許された。仲野はかつて寿詞の宣命を奏上する作法を左大臣藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)に学び、その立ち居振る舞いは世の模範となるほどであった。当時、王公貴族でその作法を知る者は少なく、清和帝は勅により参議たちにその場に赴いて学ばせた。九年正月、薨じた。年七十六。宇多帝の即位に及び、外祖父にあたることから一品太政大臣を贈られた(注:『三代実録』による)。
¶子には茂世(しげよ)・当世(まさよ)・基世(もとよ)・輔世(すけよ)・潔世(きよよ)・実世(さねよ)・十世(とよ)・在世(ありよ)・康世(やすよ)・惟世(これよ)・利世(としよ)・守世(もりよ)・秀世(ひでよ)・房世(ふさよ)がいる(注:『三代実録』清和紀によれば、親王には男子十四人があり、茂世・当世・基世・輔世・潔世・実世・十世・在世・康世の九人は四位に叙せられ、惟世・利世はともに五位であったという。しかし茂世から康世までは九人しか見えず、惟世・利世を加えても十一人にしかならない。光孝紀には胤世王(たねよおう)とあり、親王の子であるというので、おそらく清和紀には漏れていたのであろう。『皇胤紹運録』は茂世以下を列挙し、そのほかに季世・秀世・房世を載せる。『一代要記』にもこれを載せるが、胤世が脱落し季式が季世に誤って加えられているようで、誤りかと思われる。秀世・房世については、旧史に仲野の子であることを明記した文はないが、おおよその事跡があり、その名づけ方から推し量ることができる。まして茂世から房世まで数えれば十四人となり、本書が挙げる人数に実際に合致するではないか。そこで『一代要記』『皇胤紹運録』の記載に従い、秀世・房世を諸子の末に加える)。茂世は、従四位上弾正大弼・太宰大弐を歴任し、最終的に刑部卿兼加賀守となった。子の好風(よしかぜ)・貞文(さだふみ)は、ともに父の願いにより平朝臣の姓を賜った(注:『尊卑分脈』では貞文を好風の子とするが、おそらく誤りであろう)。好風は太宰少弐に任じられ(注:『三代実録』による)、従四位下右近衛中将を歴任した。当世は生まれつき体が弱く、風雨に当たることを嫌ったが、性質は鷹狩や犬を好んだものの、あえて外出はせず、最終的に従四位下となった(注:『文徳実録』による)。基世は、従四位下下総守・山城権守となった。輔世は、累進して従四位上民部大輔・左京大夫となり、最終的に伊予守となった。子の安典王(やすのりおう)は、仁和年間、平朝臣の姓を賜った。潔世は文章生に挙げられ、従四位上大学頭・民部大輔を歴任した。子の遂良王(かねよしおう)は、元慶年間、平朝臣の姓を賜り、木工允を歴任した。光孝帝はかつて彼を左仗のもとに召して書を試させた。実世は、元慶の初め、大学頭・摂津守を歴任した。六年、詔により実世およびその子の景行(かげゆき)・秋雪(あきゆき)・申如(のぶゆき)・廉往(かどゆき)は、ともに平朝臣の姓を賜った。その娘は以前は王号を帯びていたが、後に平氏を名乗った。実世は後に従四位上に至った。十世は、中務大輔(注:『三代実録』による)・宮内卿を歴任し、参議に任じられ、播磨守を兼ね、従三位に至った(注:『公卿補任』による)。在世は、従四位下斎宮頭・相模守となった(注:『三代実録』による。相模守は『皇胤紹運録』による)。守世は、従四位上河内守となった(注:『皇胤紹運録』による)。惟世は、利世とともに平朝臣の姓を賜り(注:『三代実録』による)、従四位上大舎人頭を歴任した。利世は、備後守となった(注:『皇胤紹運録』による)。胤世の子楊雄王(ようゆうおう)は、かつて罪を犯して安房国に流された。仁和元年、脱走して逃亡した。太政官は諸国に符を下してこれを捜索させたが、捕らえられなかった。秀世は、従四位上美作守となった(注:『三代実録』による)。房世は、仁寿・天安の間、中務大輔・武蔵権守・越中権守を歴任した(注:『文徳実録』による)。貞観の初め、越中権守となり、従四位上を授けられた。五年、上表して他の一族と同様に平朝臣の姓を賜るよう願い出て、許された(注:『三代実録』による)。弾正大弼を歴任し、最終的に正四位下因幡守となった(注:『三代実録』『類聚国史』による)。仲野の娘には宣子女王(のぶこじょおう)・班子女王(はんしじょおう)がいる。宣子は、天長年間、伊勢斎宮となった(注:『類聚国史』による)。元慶四年、源朝臣の姓を賜った。班子は、光孝天皇の後宮に入り、宇多帝を生んだ(注:『三代実録』による)。
葛井親王
¶葛井親王(ふじいしんのう)は、幼くして機敏で聡明であった。六歳のとき、勅により帯剣を賜った。弘仁十年、四品に叙され、兵部卿を拝命した。天長三年、上野太守となった(注:『文徳実録』による)。承和年間、常陸太守となった(注:『続日本紀』『文徳実録』による)。八年、三品に進んだ。葛井は弓を得意とし、外祖父坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の風があった。嵯峨帝がかつて豊楽院に出御して弓射を観覧した際、儀礼が終わると、諸親王および群臣に順番に射させた。葛井はこのとき年十二であったが、帝は戯れて、「そなたは年少ではあるが、弓矢を取ってみるがよい」と言った。葛井は詔に応じて立ち上がり、二度射て二度とも命中させた。このとき田村麻呂も座に侍っており、たいそう喜んで席を立ち、葛井を抱いて舞い、進み出て、「私はかつて数十万の兵を率いて東夷を征討しましたが、これはひとえに天子の御威光のおかげであり、向かうところ敵なしでありました。それでも自ら思うに、武勇や兵術には及ばぬところが多くございます。今、親王はいまだ幼いにもかかわらず、武芸がこれほどとは、私の及ぶところではございません」と申し上げた。帝は笑って、「将軍は外孫を褒めすぎではないか」と言った。嘉祥三年正月、太宰帥となった(注:正月は『続日本後紀』による)。四月、薨じた。年五十二。葛井はもとより音楽に耽り、晩年はいっそう酒宴にふけって、身体が衰え疲れ、ついに病を得るに至った(注:『文徳実録』による)。子には基兄王(もとえおう)・棟氏王(むねうじおう)がいる(注:『文徳実録』によれば、葛井には子が三十余人あったという。しかし『三代実録』に載るのはこれだけで、そのほかは考えるすべがない)。基兄は、累進して民部大輔・安芸守・弾正大弼となり、最終的に大蔵卿となった(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。棟氏は、従四位下となった(注:『三代実録』による)。
大田親王
¶大田親王(おおたしんのう)は、延暦十八年、摂津国の荒田五十七町を賜った(注:『日本後紀』による)。大同三年三月、薨じた(注:『日本紀略』『一代要記』による)。年十六(注:『一代要記』『帝王編年記』による)。
坂本親王
¶坂本親王(さかもとしんのう)は、大同四年、長岡京の地四町を賜った(注:『日本後紀』による)。弘仁二年、四品を授けられ、まもなく治部卿となった(注:『類聚国史』による)。九年十一月、薨じた。年二十六(注:『日本紀略』による)。
長岡岡成
¶長岡岡成(ながおかのおかなり)は、延暦六年、長岡朝臣の姓を賜り(注:『続日本紀』による)、右京に本籍を置いた(注:『姓氏録』『一代要記』による)。弘仁六年、本籍を左京に改めた(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による)。天長十年、従四位上を授けられた。嘉祥元年十二月、卒した(注:『続日本後紀』による)。
良岑安世
¶良岑安世(よしみねのやすよ)は、若い頃鷹狩や犬を好み、騎射に優れ、多くの技芸に通じていた。やや成長すると『孝経』を読み始め、巻を置いて嘆じて、「名教の極みは、まさにここにあるのだろう」と言い、それより学問に志を潜めた(注:『公卿補任』による)。延暦二十一年、良岑朝臣の姓を賜り、右京に本籍を置いた(注:『姓氏録』『公卿補任』による)。大同四年、右近衛少将となり、書をよくし音楽に通じていたことから、雅楽頭を兼ねた。弘仁年間、累進して蔵人頭となり、左衛門佐・但馬守を兼ね、従四位下に進み、左衛門督に任じられ、左京大夫に遷り、本籍を左京に改めた。七年、右大弁となり、美作守を兼ね、参議を拝命し、近江守を兼ねた(注:『公卿補任』による)。十年、勅を奉じて大納言藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)・中納言藤原緒嗣とともに『日本後紀』の監修にあたった(注:『日本後紀』序、『類聚国史』による)。まもなく左大弁に転じた。十二年、従三位に進み、中納言を拝命し、陸奥出羽按察使を兼ねた(注:『公卿補任』による)。また冬嗣および藤原三守(ふじわらのみもり)らとともに、詔を奉じて『内裏式』を撰した(注:『内裏式』序による)。翌年、春宮大夫を兼ねた(注:『公卿補任』による)。十二月、次のように奏上した。「謹んで按ずるに、太政官の去る弘仁三年八月五日の符に、『今後、郡司を選定するにあたっては、一律に国司の判断による。もし選んだ人物が適任でなく政績に効果が見えなければ、その帳に署名した官はすべて現任を解き、永久に登用しないことで、今後を戒めとせよ』とあります。人物を見抜くことの難しさは、昔の人でさえ苦しんだところです。役人が適任でないからといって、どうして誤った推挙が起こらぬことがありましょうか。もしこの規定どおりに行えば、自ら刑罰を招くことになり、罪を恐れて人選をためらい、いたずらに人材登用の機を失うことになります。望みますに、まず初めの人選を申し出させ、雑務を歴任させて実績が確認できたところで、あらためて選定を言上させるようにし、担当の役所において功過を計算した上で、初めて現任に就かせるようにしていただきたく存じます。そうすれば国司はいい加減な人選の責めを免れ、郡司も僥倖による登用への望みを絶つことになりましょう。ただし、まず家柄を優先し、その後に才芸を考慮するという原則は、以前の詔のとおりとすべきです。私どもで協議のうえ申し上げますので、伏して天裁を仰ぎます」。奏上は許可された(注:『類聚三代格』による)。十四年、正三位に進み、右近衛大将を兼ね(注:『公卿補任』による)、検非違使別当となった(注:『類聚三代格』所収の安世の天長三年の奏状によるが、年紀が欠けており、今考えるすべがない)。天長元年、また次のように奏上した。「今の国守は、昔でいう刺史にあたります。その任に堪える人物は、多くは得がたいものです。伏して望みますに、一人の良い国守に数か国を兼帯させ、大小の政務をその願い出るところに任せていただきたく存じます。一人二人の属官についても、願い出るところに従って任じていただきたい。そもそも俸禄が厚くなければ人は励まず、人が励まなければ政治は立ちゆきません。その公廨を求めます。畿内の国々の中から、豊かな土地を選び、二人分の国守の俸禄をあわせて支給していただきたい。まず一国で試み、治績の良し悪しを明らかに見極めた上で、それから兼帯させるべきです」。三年、また次のように奏上した。「河内国は前年、水害と干魃が相次ぎ、百姓は疲弊しております。あるいは一家をあげて流浪し、あるいは戸が絶えて死亡する者も出て、民の風俗はこれによって衰え続け、郡の役人もそのために逃げ散っています。近年、諸司の主典を郡司に任用してきましたが、怠慢があれば必ず刑罰を加えることになっており、それぞれ当時の規定に基づいて位階の昇進を望んでいたはずが、その恥辱に耐えられず、ついに逃亡するに至っています。そもそも郡司を処罰することについては、法律家もこれを認めず、格式にも定めがありません。伏して願いますに、主典以上の者で郡司に補された者が、もし罪過を犯した場合は、法令に従って贖罪させるようにしていただきたい。そうすれば、その職を去らせずに済み、必ず長期的な計画も立てられるようになりましょう。そのほかの郡司については、これまでの前例を改めません」。奏上は許可され、後にはついに諸国に下されて法となった(注:『類聚三代格』による)。七月、藤原冬嗣が薨じると、異父兄であることから病と称して朝廷に出仕しなかった。淳和帝はたびたび中使を遣わして、懇ろに諭して出仕を促した。五年、大納言に転じ、大将はもとのままであった。七年七月、薨じた。年四十六(注:『公卿補任』による)。詔して従二位を贈られた(注:『続日本後紀』『三代実録』による。『公卿補任』に正二位とあるのは誤りである)。嵯峨太上天皇は彼のために挽歌二篇を作った(注:『日本後紀』纂、『日本紀略』による)。安世は文才に恵まれ、かつて淳和帝の詔を奉じて東宮学士滋野貞主(しげののさだぬし)とともに『経国集』二十巻を撰した(注:『日本紀略』による)。勅によりその詩が収められた。そのほか『凌雲集』『文華秀麗集』にも彼の作が載り、世に伝わっている。子には木連(こつら)・長松(ながまつ)・宗貞(むねさだ)・清風(きよかぜ)・晨直(あさなお)がいる(注:『日本後紀』では木連を第一子とする。『三代実録』では清風を第三子とする。しかし長松については何番目の子かを記していない。『僧綱補任』では宗貞を第八子とし、『皇胤紹運録』では第一子とする。今その没年から推測してその順序を定めた。晨直については『三代実録』に事跡がおおよそ記されているが、安世の子であるとは記されていない。今は『皇胤紹運録』に従い、ここに列した。また『皇胤紹運録』には安世の子恒成(つねなり)を載せ、『古今和歌集』賀の部に見えるという。しかし『古今集』を調べても、安世の子であるとは記されていない。『僧綱補任』の記述によれば、安世の子はこれにとどまらないはずである。『文徳実録』『三代実録』にはともに良岑経世(よしみねのつねよ)を載せ、安世の子ではないかと思われるが、ほかに見えるところがないので、ここでは採らない)。 長松は、承和の初め、常陸権大掾となり、伊勢掾に遷った。琴を弾くことに優れていたため、遣唐准判官として大使藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)らに従って唐に渡った。帰国の際、逆風に遭って南海を漂流し、危うく死にかけたが、医生の菅原梶成(すがわらのかじなり)とともに、かろうじて難を逃れて帰国した。まもなく従五位下に叙され(注:『日本後紀』『文徳実録』『三代実録』を参照)、侍従となり、諸陵頭・宮内大輔・武蔵守・山城権守を歴任し、従四位上に至った。清風は、承和・貞観の間に、累進して従四位下美作守・近江権守に至った。晨直は、貞観・元慶の間に、累進して従五位上丹波守に至った(注:『三代実録』による)。子の衆樹(もろき)は、元慶・延喜の間に、内外の官を歴任した(注:『公卿補任』による)。年五十になっても、まだそれほど顕職に就いていなかった。ある日、男山に参詣したところ、あいにくの雨で難儀して歩いていたが、石清水坂で休んでいると、社の前の橘の木が枯れかかっているのを見て、和歌を詠んだ。「千早振る(知波夜布流)、神の御前の(加美能美麻倍乃)、橘も(多知波奈毛)、衆樹も共に(毛呂幾毛斗毛珥)、老ひにける哉(於比珥計留加奈)」。後日、その橘の木は再び生気を取り戻し、衆樹もにわかに蔵人頭に遷った(注:『大鏡』による)。それから数年のうちに右近衛中将を歴任し、参議に至った(注:『公卿補任』による)。人々はこれを神の感応によるものだと言った(注:『大鏡』による)。最終的に近江守・宮内卿を兼ねて生涯を終えた(注:『公卿補任』による)。
木連
¶良岑木連(よしみねのこつら)は、容姿・立ち居振る舞いが物静かで上品であり、早くから評判が高かった。初め大学助に任じられたが、父の喪に服して職を辞した。天長八年、従五位下に叙され、下野介に任じられた。任期が満ちて都に入り、式部少輔に任じられた。承和の初め、右衛門佐に任じられ、陸奥守を拝命した。六年、鎮守府将軍匝瑳末守(そうさのすえもり)らとともに、次のように奏上した。「伏して見ますに、近頃、災いを示す星がたびたび現れ、地震も頻発しており、百姓の多くは異変を恐れて逃亡しております。また胆沢城と多賀城の間では、異民族が勢力を広げ、数千の強兵を擁しております。もし緊急の事態が起これば、とても防ぎきれません。至急、援軍を徴発して、民を安んじ農業に専念させる必要があります。ましてや多賀城は胆沢城の後詰めであり、兵数を増やさなければ、どうして急を救えましょうか。ただ、上奏して裁可を待っていては、機を逸するおそれがあります。そこで、出兵しながら同時に上奏いたします」。勅によりこれを許された。翌年、また次のように奏上した。「奥州の民は、みな庚申の夜を守ると称して、逃げ出す者がなお多く、これを制止することができません。援軍二千人を発して、事態の様子を見張らせていただきたく存じます」。これも許された(注:本書は六年の上奏文には鎮守府将軍匝瑳末守と記し、翌年の上奏文には前鎮守府将軍末守と記している。おそらく前後の上奏の間に末守はすでに職を解かれていたのであろう。しかし本書はその経緯を記しておらず、今考えるすべがない)。まもなく左中弁に遷った。翌年、太上天皇が崩じると、木連は諸府の兵を率いて禁裏の警護にあたった。十一年、従四位下に進み、越前守に任じられた。嘉祥二年六月、卒した。年四十六。木連は壮年の頃、良家の子であることを頼みにして、常に功名を立てようとし、常軌を逸した施策を好んだ。神戸(かんべ)の管轄にあたっては旧来の慣例に依らず、もっぱら苛烈な取り締まりを重んじたため、同僚がこれを諫めたが、拒んで聞き入れなかった。病にかかると、自らその報いを受けたのだと思い、悔い改めようとしたが効はなかった(注:『続日本後紀』による)。
¶良岑宗貞(よしみねのむねさだ)は、仁明帝に仕え、もっとも寵愛を受けた(注:『文徳実録』による)。承和十二年、従五位下に叙され、左兵衛佐となり、まもなく備前介となり、左近衛少将を兼ねた(注:『続日本後紀』による)。蔵人頭に補され(注:『職事補任』による)、従五位上に至った。仁明帝が崩じると、悲しみと慕う思いに堪えられず、出家して僧となり、その恩に報いようとしたので、当時の人々はこれを哀れんだ(注:『文徳実録』による)。名を遍照(へんじょう)と改め、僧円仁(えんにん)に天台の教えを学んだ(注:『僧綱補任』『続本朝往生伝』による)。貞観年間、常康親王(つねやすしんのう)が自らの住まいであった雲林院を遍照に譲り住まわせた(注:『扶桑略記』による)。後に法務に任じられ、天台の法務はここに始まった(注:『釈家官班記』による)。後に元慶寺を創建し、その座主となった。勅により定額寺に列せられ、毎年三人の得度者を賜り、雲林院をその別院とした。元慶三年、権僧正となり、上表して辞職を願ったが、優詔があって許されなかった。六年、奏状して七つの事柄を起請した。その一に、「およそ僧綱に諸寺の別当を兼任させる場合は、例としていずれも四年を任期の限りとすること」。その一に、「およそ諸寺で得度する僧については、受戒の日に、役所は必ず治部省・玄蕃寮などを遣わして検察させ、戒牒に署名して捺印すること」(注:『三代実録』による)。その一に、「毎年、諸国の放生の節会には、役所は必ず講読師あるいは管内の浄行僧を遣わし、公の物資を携えて山や海に赴かせ、みずから鳥や魚を買い取って放させること」(注:『類聚国史』による)。その一に、「諸国の百姓が、夏の時節になるたびに毒を川に流して魚を捕ることを禁ずること」。勅によりこれらは施行された(注:残りの三事は欠けており、今考えるすべがない)。仁和元年、重ねて上表して辞職を願ったが、また許されなかった。その秋、近江国高島郡の荒廃した田百五十三町を寺に寄進することを願い出て、許された。まもなく僧正となり、仁寿殿で宴を賜り、その七十歳の長寿を祝われた。翌年、勅して、「思うに、あなたは慈しみ深い性質で、この身を守護してくれた。日々にわたり、その広い導きを頼みとしてきた。朕がこの大業を継いで今日に至ることができたのは、あなたの陰ながらの守護の力による、おのずからなる冥加によるものではないだろうか。まして、あなたがまだ出家していなかった頃、朕がまだ諸王の列にあった頃から、互いに親しみ交わって恩を結び、それは公私にわたって形をなしていた。禅と律をともに修め、僧侶としての名声を上げ、外には俗世の務めを相談し、内には仏道の修行を専らとするようになって、すでに久しい年月が経った。朕はつらつら思うに、俗世をともにしてきた縁と、国を利する誠意に遠く感じ入り、その功に報いることを、寝ても覚めても忘れることはない。今、特別に百戸の封を割いて、その禅門の費用に充てることとする。また輦車に乗って宮門を出入りすることを許す。轅を助ける篤い情けを留め、坐禅にはいっそう手厚い待遇を加える。ああ、至人はすでに世俗の絆を解き放ち、その高い徳は言葉に尽くしがたい。世俗を超えたはかない栄誉が、あなたの好むところでないことは承知している。とはいえ、人の世の飾りとして、しばし朕の思いを託したいのだ。真意は言葉を超えたところにあり、多くを述べるまでもない。朕のこの真心を、あなたはよく理解してほしい」と述べた(注:『三代実録』による)。寛平二年正月、卒した(注:『扶桑略記』による)。年七十五(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『僧綱補任』による。『元亨釈書』には年七十四とあるが、『三代実録』の仁和元年に七十の賀を賜ったという記述によれば、『釈書』のほうが誤りである)。詔して少納言今扶王(いますけおう)を元慶寺に遣わして弔わせ、綿三百屯・調布百五十端を賜り、諷誦を修めさせた(注:『扶桑略記』による)。世に華山僧正(かざんそうじょう)と称され(注:『扶桑略記』『僧綱補任』による)、また中院僧正(ちゅういんそうじょう)・良僧正(りょうそうじょう)とも称された(注:『皇胤紹運録』による)。遍照は和歌に優れ、評者は、「もっとも歌の姿を体得しているが、華やかで実が乏しく、たとえて言えば絵に描いた美人を見るようなもので、いたずらに人の心を動かすだけである」と評した(注:『古今和歌集』序による)。 二人の子はともに僧となり、由性(ゆしょう)・素性(そせい)といった(注:『初例抄』による。『皇胤紹運録』『大和物語』では素性を兄とするが、どちらが正しいかはわからない。また『扶桑略記』には、遍照が俗人であった時の子は弘延(こうえん)・素性の二人であるという。弘延はおそらく由性の別名であろうが、詳らかでない)。由性は少僧都となり、律師に任じられ(注:『僧綱補任』『初例抄』による)、薬師寺別当を兼ねた(注:『初例抄』による)。素性は初め清和帝に仕え、右近衛将監となった(注:『皇胤紹運録』による)。彼もまた和歌に優れ、僧となって雲林院に住んだ(注:『扶桑略記』による。本書には、寛平八年、権律師に任じられたとあるが、ほかに見えるところがないので、ここでは採らない)。醍醐帝はかつて彼を召して屏風に歌を書かせ、酒を賜り和歌を詠ませ、絹・綿および馬を与えた(注:『西宮記』による)。