卷之一百廿六 列傳第五十三
藤原園人、藤原緒嗣、藤原春津、清原夏野ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原園人
¶藤原園人(ふじわらのそのひと)は、中衛大将・藤原房前(ふじわらのふささき)の孫で、大蔵卿・藤原楓麻呂(ふじわらのかえでまろ)の長男である。(注:公卿補任による。)宝亀末年、従五位下に叙せられ、美濃介となった。天応元年、備中守に転じた。延暦の初め、少納言、右少弁、安芸守、備後守を歴任し、太宰少弐となった。まもなく豊後守となり、(注:続日本紀による。)大和守に転じ、都に入って右京大夫となった。赴任先ではいずれも功績を上げ、良吏と称された。百姓はその徳を慕い、生きているうちから祠を建てて祀った。その後、治部大輔、右大弁、大蔵卿を歴任し、相模守を兼ねた。大同元年、宮内卿に転じ、権参議を拝命し、やがて正官の参議となった。皇太弟の傅を兼ね、次第に位を進めて正四位下勲五等を授けられた。山陽道観察使となり、(注:公卿補任による。)次のように奏上した。「西海道から年中都に送られる雑使の数はきわめて多く、この道の疲弊は他の地域と異なっております。その原因を調べますと、送迎に休む間もなく、私事を顧みる余裕がないことによります。西海道の五位以上の者については、任期満了で解任された者でなければ、みだりに入京することを許さないようにしていただきたく存じます。」勅によりこれが許可された。(注:日本後紀・類聚三代格による。)
¶二年、また次のように奏上した。「備前国の解(げ)によれば、書生らが申すには、彼らは白丁として課役を負う身でありながら、長く公事にあたって私業を顧みる暇がない。あるいは長らく都に上ったまま農業を妨げられ、あるいは管内を巡行して自費で人馬を用いている。身体を労することは郡司と変わらないのに、栄誉や俸禄はまったく及ばない。伏してお願いするに、特に官司に命じて正税を貸与し、それぞれの窮乏を救っていただきたい、とのことです。国司がこれを検討したところ、事情に憐れむべき点があるとして、観察使の裁断を仰いでまいりました。私が思いますに、褒賞があってこそ人は集まり、餌があってこそ魚は群れるものです。もし優遇して憐れみをかけなければ、管内の公文書はいったい誰に託せましょうか。当道の諸国について、国の大小に応じ、正税一万二千束以下八千束以上を毎年貸与し、自ら励むよう仕向けていただきたく存じます。」勅が下り、「よろしく状況を考量して支給せよ。もし未納があれば国司に弁済させ、これを恒例とせよ。畿内七道の諸国もこれに準ぜよ。」とされた。(注:類聚三代格による。)
¶また次のように上奏した。「播磨国内は封戸がきわめて多い。租を運ぶ労役は、民にとって弊害となっている。加えて都に近いため、雑用の月々の出費が多く、常に穀類を用いてもなお足りない。不動穀(非常用の備蓄)はわずか九万石しかない。その原因を突き詰めれば、封戸の数が多いことによる。伏してお願いするに、春宮坊ならびに諸寺の封戸五百戸を減らし、東国に移し付け、その租を収めて不動の備蓄としていただきたい。そうすれば民の弊害は止み、備蓄は自然に積み上がるでしょう。」これが許可された。(注:類聚国史による。)
¶三年、次のように奏上した。「当道の播磨・備中・備後・安芸・周防など五国では、延暦四年以降二十四年の間、庸や雑穀などの未進(未納分)が少なくなく、これはひとえに凶作が続いて人民が疲弊しているためです。今、これを本来の物品で追徴しようとすれば、国司はあるいは死去しあるいは交替しており、事の処理は難しく、百姓は病と飢えに苦しみ、運上することはきわめて困難です。伏してお願いするに、未進の物は稲穂のまま徴収し、正税に組み入れて処理していただきたい。そうすれば公にも損はなく、私にも都合がよいでしょう。ただし観察使に任じられて以降は、もとの令の通りに弁済・運上させます。」これが許可された。(注:日本後紀・類聚国史による。)
¶この年、民部卿に転じ、北陸道の事務を兼行した。(注:公卿補任による。)
¶四年、次のように奏上した。「謹んで按じますに、去る四月二十八日の詔書に『死罪以下、罪の軽重を問わず、通常の恩赦で許されない者もすべて赦免する』とあります。この非常の恩恵は、国中がひとしくその恵みを受け、大小を問わず誰もが潤いに浴しております。しかるに当道の諸国は久しく疲弊しており、公の事務の処理が困難な状態です。当時の官吏の中には、未進などの雑物を抱えたままの者もおります。怠慢を調べれば罪は恩赦により許されますが、物品を調べればその実態は貧しい民にあります。それを後任の者に引き継がせれば、かえって前任者の咎めを移すことになります。相次いで督促を繰り返し、輸送は絶えることがありません。事の由来に照らせば、もとより私意を挟んだものではなく、これを法を曲げた行為と比べれば、軽重はおのずと明らかです。伏してお願いするに、大同元年以来の調・庸・雑米などの未進については、官の用途に限りがあり支弁が難しいものに限り、数に応じて督促を続けていただきたい。それ以外の雑多な未納の類で、恩赦の詔以前のものは、すべて免除していただきたく存じます。そうすれば窮乏した人民は積年の責めを永く忘れ、現任の国司も前任者の怠慢の累を断ち切ることができましょう。」これが許可され、京畿ならびに諸国もこれに準じた。(注:類聚国史による。)
¶累進して正三位中納言となった。弘仁元年、大納言に転じた。(注:公卿補任による。)次のように奏上した。「謹んで按じますに、去る延暦十四年閏七月一日の勅に『諸国の出挙の正税の利息を減らし、十束につき利息三束とする』とあります。これは百姓の窮乏を憐れみ、民の衰弊を惜しんでのことでした。ところが大同の初めにこの規定が改められ、あらためて十束につき利息五束とされました。それ以来今日まで疲弊はますますひどくなり、水害・旱害・疫病が近年相次いでおります。かろうじて今年の豊作によって、これまでの飢えた顔色をいくらか和らげているにすぎません。しかし窮乏した民はいまだ立ち直っておらず、返済の負担は軽くすべきです。伏してお願いするに、公廨稲や雑色稲の出挙の利息を定めるにあたり、今年から延暦十四年の勅の通りに行っていただきたく存じます。そうすれば重い負担を軽きに改め、弊害を救って利益をもたらすことになりましょう。」勅によりこれが許可された。
¶二年、次のように奏上した。「そもそも郡司は功労のあった家柄の子孫で、代々その地位を受け継いでまいりました。郡内の百姓は老いも若きもその郡司に心を寄せております。事にあたって物事を成し遂げる点で、郡司は他の者と実に異なります。しかるに近頃はもっぱら才能や実務能力のみを重視し、代々の家柄を継ぐ制度を絶ってしまいました。その結果、卑しい凡庸の者を用い、由緒ある家柄の者を下に置くことになっております。政を行っても人心は従わず、訴訟を聞いても判断に人々は納得しません。公にとっても私にとっても弊害が多いのです。伏してお願いするに、郡司の任用にあたっては、まず家柄を尽くし、それでも適任者がいない場合に初めて才能によって選んでいただきたく存じます。」詔があった。「時勢の変化に応じて教えを設けることは政治の要であり、時流に応じて制度を定めることは民を救う根本の務めである。それゆえ堯と舜は道を異にしながらも天下は仁に帰し、湯王と武王は治め方を異にしながらも民はその恩恵を喜んだ。朕が素朴な世の風を取り戻そうとする志は、いまだ広く行き渡っておらず、絶えた家を興し継がせようとする思いは常に胸の内にある。そもそも郡司というものは、難波の朝廷がその職を置いて以来、功労のあった者の子孫が代々その官を継いできた。ところが延暦年中に至り、もっぱら才能ある者を採用し、代々の家柄を継ぐ制度を廃してしまった。今、大納言正三位藤原朝臣園人の奏上を検討したところ、まことにその道理にかなっている。よって奏上の通りにせよ。」
¶翌年、また次のように奏上した。「そもそも能力を量って官職を授けることは国の教化においてまず重んずべきことであり、風俗を教え導くことは郡司にこそ託されております。それゆえ任用がその器に相応しければあらゆる政務がうまく治まり、その才を得られなければ政治は自然に乱れます。加えて代々の家柄を重んじる制度はすでに旧例に復し、代々受け継がれることで先代の賢を継ぐ意義があります。そのため国司が選定し、その結果を朝廷に上申しております。ところが頼りにならない者たちの中には、この銓衡の対象にすら入らないような者がいながら、あるいは在京のまま家柄の順位を競って訴え出て、国司の選定を退けさせ、その地位を奪う者もおります。一人の民の心すら従わせられないようでは、百里四方を治める任にどうして堪えられましょうか。事にあたって壁に向かうように何もわからず、刀を執って錦を傷めるようなものです。この弊害は昔も今も変わりません。伏してお願いするに、郡司の選定は一に国司の決定に依らせていただきたく、もし選ばれた者が不適任で政績に効果がなければ、選定に署名した官人はすべて現職を解任し、永く任用しないこととして、後々の戒めとしていただきたく存じます。」勅に「奏上の通りとする。ただし主政の帳簿についてはこの限りではない。」とあった。(注:類聚三代格による。)
¶三年、右大臣となった。(注:公卿補任による。)四年、次のように奏上した。「昔の恩を思い労苦に報いることは賢者の遺した教えであり、生を重んじ命を慈しむことは身分の貴賤を問いません。今、天下の人々はそれぞれ召し使う奴婢を持っております。平生はその力を酷使しておきながら、病にかかった時にはこれを路傍に捨て置き、看病する者もなく餓死させております。この弊害は言葉に尽くせません。伏してお願いするに、京畿に命じて早くこれを禁止していただきたく存じます。そうすれば路傍に非業の死を遂げる霊もなくなり、天下に天寿を全うする人が増えるでしょう。」勅に「禁制を加えるべきである。なお違反する者があれば、五位以上は氏名を記して奏上せよ。六位以下は蔭位や贖罪の特典にかかわらず杖罪百を科せよ。弾正台および職・国司が知りながら糾さず、また条令・坊長、国郡・隣保が互いにかばって告発しない場合は、いずれも同罪とする。要路に高札を立てて、はっきりと知らしめよ。」とあった。(注:類聚国史による。)
¶五年、従二位に進んだ。(注:公卿補任による。)次のように奏上した。「去る大同二年に正月の二節会を停止し、三年に至ってはさらに三月の節会も廃しました。おおむね経費を節約するためのものでした。今、正月の二節会は旧例に復し、九月の節会は三月に準じさせます。弘仁三年以来、さらに花の宴が加えられ、延暦の頃と比べれば花の宴だけが残り、大同の頃と比べれば四つの節会が新たに起こったことになります。そちらの禄の支給を見れば、蔵の備えは尽きております。伏してお願いするに、九月九日は節会の例に入れず、その時々に文才に堪える者を選んで担当の役所に命じていただきたく存じます。そうすれば他の者の期待を絶ち、大蔵省の損失を省くことができましょう。」また次のように奏上した。「去る延暦十年、車駕(天皇)が交野に行幸された際、畿内諸国の国司が物を献上することを禁じられました。しかし近年、この禁令はまったく守られておりません。国や郡の官司は必ずしも適任の者ばかりではなく、貢献にかこつけて、かえって百姓を煩わせております。不穏な噂も絶えません。伏してお願いするに、今後は一切これを禁断していただきたく存じます。ただし臣下が私的な志によって進物を供える場合は、この禁の限りではありません。」(注:類聚国史による。)
¶また次のように奏上した。「諸国が収める官物は、元の倉の品目が税帳に詳しく記されております。しかるに国司には必ずしも適任者ばかりではなく、郡稲の便宜を図ろうとしてこれを公廨に充て、地元の百姓には支給せず、遠く他郡から取り寄せさせて、いたずらに往来の労を重ねさせています。このため不便な場所には物資の余剰が生じ、交替の際に諸郡を通算すれば名目上は不足がないように見えても、実際は帳簿と食い違っております。この悪習が定着し、弊害が改まりません。出雲国にこの類が最も多く見られます。たとえば甲郡に蓄えるべき物を乙郡に納めていたところ、盗賊が乱を起こして火災を招き、帳簿に記された倉が丸ごと灰燼に帰すといったことも起こっております。公家の損失としてこれに勝るものはありません。伏してお願いするに、今後は諸国に命じて帳簿の通りに収納させ、甲郡と乙郡の間で通算することを許さないようにしていただきたく存じます。もし元の倉と食い違いがあれば、その状況に応じて処罰していただきたく存じます。そうすれば官家の損失は少なくなり、民もその恩恵を受けるでしょう。」いずれも許可された。(注:日本後紀・類聚国史・類聚三代格による。)
¶八年、次のように奏上した。「太政官の延暦十八年四月十三日の符(注:原文では二十八日とする写本もある。)に『畿内五国の郡司は、一様に内考(都での勤務評定)を受けるため、都に近いことから他国と同列には論じられないほど酷使されている』とあります。ところが今、この種の者たちは、まだ出身(任官)する前から林のように群がって競い合い、内考を得たあとには病と偽って休暇を願い出ております。これはただ郡務を放棄するにとどまらず、まさに朝廷の規則を欺くものです。伏してお願いするに、今後このような者があれば、国司が事実を確認したうえで、一律に元の任地に戻していただきたく存じます。もし国司がその求めに応じて安易に解任した場合は、その状況に応じて処罰し、寛大な措置を適用しないでいただきたく存じます。そうすれば不正の根を絶ち、後進を励ますことになりましょう。」勅によりこれに従った。(注:類聚三代格による。)
¶九年、薨去した。享年六十三。(注:日本紀略・公卿補任による。)帝はたいそう悼み惜しみ、使者を遣わして喪の事を監護させた。(注:日本紀略による。)正一位左大臣を贈られ、(注:日本紀略・公卿補任による。)山科大臣(やましなのおとど)と称された。(注:公卿補任による。)かつて勅を奉じて、万多親王(まんだしんのう)とともに新撰姓氏録を撰した。(注:姓氏録序・日本紀略による。)子は浜主(はまぬし)、(注:尊卑分脈による。)従四位上安芸守である。(注:続日本後紀による。)
藤原緒嗣
¶藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)は、式部卿・藤原百川(ふじわらのももかわ)の長男である。延暦七年、殿上において元服の加冠の儀を行った。その際の幞頭(ぼくとう)の巾子(こじ)には、天皇御用のものが賜られた。同時に正六位上を授けられて内舎人に任じられ、剣を賜り、勅があった。「これはそなたの父が献上したものである。そなたの父が寿詞を奏した時のことは、今なお忘れていない。それを思うたびに、思わず涙がこぼれる。今これをそなたに賜るゆえ、決して失うことのないように。」ほどなく封戸百五十戸を賜った。まもなく従五位下に進み、侍従に任じられ、中衛少将となった。(注:続日本後紀による。)
¶十五年、常陸介・内厩頭を兼ね、まもなく衛門佐に転じた。翌年、内蔵頭を兼ね、(注:公卿補任による。)衛門督に転じ、出雲守を兼ねて右衛士督となった。二十一年、神泉苑への行幸に供奉した際、宴もたけなわのころ緒嗣に和琴を弾かせた。天皇は右大臣・神王(かんのおう)を召し、しばらく耳打ちしたのち、涙を流された。さらに皇太子および親王を召して殿上に列席させ、詔を下した。「緒嗣の父がいなければ、朕はどうして帝位に就くことができただろうか。緒嗣が年若く、臣下たちに不審に思われていることは承知しているが、その父の功績を朕は今なお忘れていない。よろしく参議を拝命させ、積年の恩に報いよ。」神王は勅を承り、その場で立って任命を宣した。(注:続日本後紀による。)こうして緒嗣は参議を拝命し、特別に別封百戸を賜った。
¶十三年、山城守を兼ねた。(注:公卿補任による。)翌年、詔により菅野真道(すがののまみち)とともに政治の得失を論じることになった。緒嗣は「今、天下が苦しんでいるのは軍事と土木事業です。この二つを停止すれば、百姓は休息できましょう」と述べた。帝はこれを良しとした。(注:日本紀略による。)
¶大同年間、山陰道観察使となった。(注:続日本後紀による。)まもなく畿内観察使に転じ、(注:公卿補任による。)左大弁を兼ねた。ついで刑部卿を兼ね、東山道観察使に転じて陸奥出羽按察使を兼ねた。(注:続日本後紀による。)次のように奏上した。「国は民を根本とし、民は食を命とします。しかるに鎮兵三千八百人の一年の食糧は五十余万束にのぼり、これによって百姓は疲弊し、倉庫は空になっております。蓄えがなければ、どうして不測の事態に備えられましょうか。加えて、これまで征討のたびに必ず坂東(関東)に軍糧を課してきました。伏してお願いするに、坂東の官稲を陸奥の公廨に充て、陸奥の公廨は官の倉庫に留め収めるようにしていただきたく存じます。そうすれば公私ともに都合がよく、まことに便宜にかないましょう。」
¶また次のように奏上した。「陸奥国の国司や鎮官らは、それぞれ公廨の差配によって四千余石の米を舂(つ)かせ、人を雇って運送し、年々の食糧に充てております。長年の慣例とはいえ、法にはその根拠がありません。しかし辺境の要地の事情は、内地とはかなり異なります。というのも、苅田(かりた)以北の近郡の稲は軍糧に充て、信夫(しのぶ)以南の遠郡の稲は公廨に充てているためです。国府から二、三百里、城柵からは七、八百里も離れており、人手や物資の乏しい状況では舂き運ぶことができません。もしこれを取りやめれば、必ず飢餓を招くことになります。舂き運ぶための功賃を支給し、これを恒例としていただきたく存じます。」いずれも許可された。(注:類聚国史による。)
¶右兵衛督・右衛門督に転じ、按察使を停められ、近江・美濃守を歴任し、宮内卿に転じて河内守を兼ねた。弘仁八年、中納言を拝命し、位を進めて正三位民部卿となった。十二年、大納言に転じた。十三年、次のように奏上した。「臣はかつて畏れ多くも陸奥出羽按察使を務め、東山道を通った際に百姓の苦しみをおおよそ尋ねました。天下の重い労役として駅戸に勝るものはありません。夏には川の水を飲みながら生業を顧みる暇もなく、冬には霜を踏んで常に伝送の任にあたっております。庸や徭役を免除されているとはいえ、その苦労は平民の倍に及びます。伏してお願いするに、諸国の駅子について、書生の例に準じ、一戸ごとに稲二百束を貸与し、あわせて駅の近くの良田を選んでまとめて授けていただきたく存じます。」これが許可された。(注:類聚国史・類聚三代格による。)
¶翌年、従二位に叙され、皇太子傅を兼ねた。(注:続日本後紀・公卿補任による。)淳和帝が大嘗祭を執り行うにあたり、緒嗣は右大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らとともに清涼殿に侍して次のように奏上した。「歴代の天子が相次いで即位し、大嘗祭がたびたび行われております。そのたびに天下は騒がしくなり、人民の多くが疲弊しております。とはいえ神事はやめるわけにはまいりません。今年の大嘗祭は、飾りを省いて弊害を減らすべきです。」帝はこれを称えられた。冬嗣は緒嗣にその事を検校させることを願い出て、許可された。緒嗣はまた、中納言・良岑安世(よしみねのやすよ)、参議・伴国道(とものくにみち)らを検校とし、治部省の庁舎を行事の場とすることを願い出た。ただ斎院において卜占によって、「宮内省を悠紀(ゆき)の所とし、中務省を主基(すき)の所とする」と定められた。仮に建物を作ってこれに用いた。斎場は例にならって北野に設けたが、玩具や金銀の彫刻などの飾りはいっさい用いず、標(しめ)には賢木(さかき)を用いて造り、橘や綿の類を用いた。悠紀・主基の文字を木の梢に掲げ、清らかで質素なさまで神事に供えるのみとした。用いる正税は、悠紀・主基それぞれ十万束であったが、国司の願いにより、それぞれ五万束を減じて簡素化に従わせた。また悠紀・主基両国から雑物を運ぶ担ぎ夫には、それぞれ道中の食糧を支給した。(注:類聚国史による。)
¶天長二年、右大臣となり、封戸千戸を返納して国の費用の足しとした。九年、左大臣となった。(注:続日本後紀・日本紀略による。)仁明帝の即位に伴い、正二位に進んだ。弘仁年間以降、辞職を願う上表をすること十数回に及んだが、三代の天皇はいずれも優詔をもってこれを許さなかった。この頃になると、老衰して職務に堪えないことを理由に固く辞職を願い出て、職封五百戸の返上を申し出たが、これも許されなかった。承和二年、摂津国島上郡の荒田三町を賜った。翌年、辞職を願い出て、職分田、資人、雑色、考人、衛士を返上して国の費用の足しにしたいと申し出たが、許されなかった。
¶四年、飢饉の年、緒嗣は次のように上表した。「臣は年老いて病も重く、外出はもはや望めません。床に伏す日々はすでに十二年を過ぎました。臣がひそかに見ますに、天下の官庫は空になり、国の費用は不足しております。まして今年は不作で、衣食ともに損なわれております。倉廩(そうりん)が満ちなければ、どうして礼節を知ることができましょうか。天長の初め、臣はすでに意見を上奏し、『不要な官を省き、華美な費用を断つべきです』と申し上げました。しかるに臣は今病に臥し、いたずらに歳月を重ねております。職にありながら務めを果たさない責めは、まさに臣が第一に負うべきものです。そもそも文章というものは歴代にわたって朽ちることのないものです。口先で意見を述べるだけで、どうして長くこの職に留まっていられましょうか。加えて陰陽の調和が乱れているのも、その責めは臣ら家臣にあります。伏してお願いするに、不相応な官職を停止し、賢徳の者の登用の道を開いていただきたく存じます。そうすれば天の道に災いはなく、おのずと中興がなされましょう。あえて天恩の栄誉や名誉の利を逃れようとするものではございません。」これは許されなかった。ほどなく山城国宇治郡の公田若干を賜った。
¶十年、たびたび辞職の上表をした。詔があった。「上表を読み、深く心を動かされた。朕は先帝の喪に服する身で、心が乱れ定まらない。父帝の遺制に迫られながらも、自らを励ますことができずにいる。それゆえ政務の大小を問わず、家宰(大臣)に委ねているのである。であれば、その恩義に応える務めは平素の倍にも増して重く、委任する思いはまさに今この時にこそ寄せられるべきである。しかるにそなたは意を決して官服を脱ぎ、誠意をもって引退を願い出て、前後幾度も上表を重ね、その意志は固く動かない。もしその願いの通りにすれば、万人が仰ぎ頼む存在を国から失うことになる。かといって望みを遂げさせなければ、老いを養いたいという願いを損なうことになる。日々思い悩み、夜通し考えたあまり病になりそうである。しかし道理は形式にはなく、真心は結局のところ誠に帰するものである。しきりに慎み深い願いを抑えつければ、かえって永くその心を傷つけることになろう。それゆえ朕は自らの切なる思いを曲げて、そなたの謙退の申し出を認めることとする。朝廷の首座は空席となり、大臣の位には塵が積もるであろう。この事について思い巡らしても、心の落ち着き所がない。ただし至高の道には限りがなく、大いなる忠義には終わりがない。国家の有り様や朝廷の利害については、憚ることなく述べ、意見を尽くしてもらいたい。今後もなお相談することがあろうから、どうか貴重な言葉を惜しまないでほしい。これこそ互いに始めから終わりまで共にありたいという朕の大きな望みである。春はまだ寒いので、努めて食事を取るように。多くを言葉にはしない。」(注:続日本後紀による。)
¶こうして緒嗣は致仕(引退)した。まもなく薨去した。享年七十。(注:続日本後紀・公卿補任・一代要記による。)山本大臣(やまもとのおとど)と称された。帝は使者を遣わして喪の事を監護させようとしたが、緒嗣の遺言によりこれを受けなかった。詔があった。「その功績を思うことはまことに深く、その徳を懐うことはまさに久しい。天下の政務の要を統べ、臣下として重んじられる存在であった。まして朕が幼少の頃から王室を助け支えてくれた。その志は鷹や隼のように鋭く、その節操は松や竹のように堅かった。そもそも哀悼をもって故人を悼み、栄誉をもってその最期を飾るものである。よろしく手厚い贈位をもって、幽界を照らすべきである。従一位を贈るべし。」緒嗣は政治の術に通じ、国の利害については知る限りをすべて言上した。ただ最初に聞いた意見に偏って信じ、後からの異論を容れないところがあり、これによって非難を受けることもあった。(注:続日本後紀による。)かつて新撰姓氏録の撰修に加わり、(注:姓氏録序による。)また日本後紀の編纂にも携わった。子は家雄(いえお)、(注:類聚国史による。)春津(はるつ)である。(注:三代実録による。)
¶家雄(いえお)は、従四位上左兵衛督で、天長年間に卒した。享年三十四。清廉で気骨のある性格で、家風を受け継いでいた。書物を好み、あわせて弓馬にも優れていた。人々は彼が大臣の地位(台簡)に至る前に早世したことを惜しんだ。(注:類聚国史による。)
藤原春津
¶藤原春津(ふじわらのはるつ)は、姿かたちが美しく、聡明で寛容な人柄であった。天長年間、左近衛将監に抜擢され、皇太后宮大進に転じた。(注:三代実録による。)承和年間、侍従となり、右馬頭を拝命した。父・緒嗣が致仕する際、三度目の上表を春津が使者として奉呈した。勅があった。「左丞相(左大臣)藤原朝臣(緒嗣)は、先朝の元勲であり、朕にとって旧来の徳の人である。近頃功を成し名を遂げて、屋敷に引退しようとしている。朕が几杖(老臣への礼遇の品)をもって手厚く遇するのは、あえて公の恩に背かぬためである。しかし政治にとって賢い宰相を頼みとするのは、病における良医を待つのに等しい。この事を思うにつけ、慕わしさはいよいよ深まる。そもそも鬼神にも知るところがあるならば、身を清く慎む者は寿命が長く、福禄を独占する者はいないとしても、忠孝を重ねる者の子孫は栄えるものである。正五位下右馬頭・藤原朝臣春津は、公(緒嗣)の孝行な子である。特に従四位下を授けて、当面の慰めとするがよい。」(注:続日本後紀による。)
¶嘉祥の末、母の喪に服して官を退いた。まもなく喪に服す期間を短縮させられて起用され、右兵衛督に任じられた。仁寿・斉衡の間に刑部卿に転じ、(注:三代実録による。)従四位上に至り、但馬守を兼ねた。(注:文徳実録による。)貞観元年、備前守となったが、いずれも赴任しなかった。この年、卒した。享年五十二。春津の家は高貴で名門であり、資産もきわめて豊かで、邸宅の造営はことのほか華美を尽くしていた。しかし本人は欲が少なく、財利を貪ることはなかった。ただ馬を愛し、時折これを眺めて楽しみとしていた。閑静な邸宅に暮らし、朝廷への出仕はめったになかった。清和帝は側近に戯れてこう語った。「春津はまるで南山の玄豹(奥深い山に隠れ棲む豹)のようだ。」(注:三代実録による。)
清原夏野
¶清原夏野(きよはらのなつの)は、初めの名を繁野(しげの)といった。(注:公卿補任による。)三原王(みはらおう)の孫で、小倉王(おぐらおう)の第五子である。(注:続日本後紀による。)延暦二十三年、内舎人となった。小倉王は上表して、「繁野および小倉の別王の孫である内舎人山河(やまかわ)らに、犬上王(いぬかみおう)の先例にならって、ともに清原真人(きよはらのまひと)の姓を賜りたい。また繁野の名は皇子の諱(いみな)に触れるので、繁を夏に改めたい」と願い出て、許可された。大同年間、中監物を歴任し、大舎人大允に転じた。弘仁年間、蔵人に補せられ、従五位下に叙され、宮内少輔・春宮大進となり、春宮亮に転じ、讃岐・伯耆・下総などの守を兼ね、蔵人頭に補せられ、左近衛中将・近江権守を兼ね、(注:原文には「権」の字がないが、類聚三代格によって補った。)参議に任じられた。天長元年、位を重ねて従四位上に進んだ。(注:公卿補任による。)
¶次のように奏上した。「国内の政務は朝集使が奏上すべきものですが、あるいは史生に任せきりにしております。政務について尋ねても、まるで壁に向かうように何も答えられません。伏してお願いするに、長官が史生一人を副えて派遣し、その国の滞っている政務については玉階(天皇の御前)で直接申し述べさせたうえで退出させていただきたく存じます。ただし玉階の前で奏上すべき事があれば、朝集使でなくとも入京を許し、奏上すべき事がなければ、朝集使であってもこれを許さないようにしていただきたく存じます。」
¶また次のように奏上した。「耕作に堪えない土地を除いて、なお常荒田(常に荒れている田)があります。百姓がこれを耕作すると、国司はそれに租を課します。民はこれを恐れて、耕作して食を得ることをためらっております。伏してお願いするに、その者一代の間は永く耕作を許していただきたく存じます。ただし六年を過ぎたのちは、法の通りに租を徴収するものとします。」勅によりいずれも許可された。(注:類聚三代格による。)
¶翌年、従三位に進み、中納言に任じられ、左兵衛督を兼ねた。三年、左近衛大将・民部卿に転じた。(注:公卿補任による。)次のように奏上した。「八省を設置して官職・寮を統属させ、百官がそれぞれの職を守ることで、あらゆる政務が成し遂げられます。一つの事に欠陥があれば、万事すべてが滞ります。今、親王が八省の卿を務めておりますが、この方々は元来地位も家柄も高く、実務に就いて細かな事務に通じることがありません。そのため役所の仕事はおのずと怠りがちとなり、政績は日ごとに荒廃しております。これは凡庸な者の招いた結果ではなく、その立場ゆえに自然とそうなるのです。およそ官人が交代する際には必ず解由状に署名しますが、欠けた物品があればその弁償を免れません。伏してお願いするに、いくつかの国を選び定めて親王の国とし、その国に任地を送りつつ、親王本人は京都に留まるようにしていただきたく存じます。京官に就くことを望む者については、一人か二人だけ許すこととします。もし欠員を待つ者があっても、他の者を補任しないようにしていただきたく存じます。その俸禄の物資は別の倉に納め置き、位階のない親王の費用に充てさせていただきたく存じます。」これに従うこととなった。(注:類聚三代格による。)
¶七年、大納言となった。(注:公卿補任による。)淳和帝が夏野の双岡(ならびがおか)の山荘に行幸され、文人三十人を選んで詩を作らせた。夏野の妻・葛井庭子(ふじいのにわこ)に従五位下が授けられた。(注:類聚国史・日本紀略による。)八年、正三位に叙された。九年、右大臣となり、大将はもとのままとした。(注:公卿補任による。)
¶もともと藤原不比等(ふじわらのふひと)が令(りょう)を作ってから、伝わって年月久しく、当時の学者たちはそれぞれ解釈に異同を生じていた。そこで夏野に詔して、滞っていた解釈を整理し、条文の意味を解き明かすよう命じられた。夏野は参議・南淵弘貞(みなぶちのひろさだ)、藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)、文章博士・菅原清公(すがわらのきよきみ)らとともに論議して折衷し、『令義解(りょうのぎげ)』十巻を著した。十年、書が完成して奏上され、朝廷はついにこれを施行した。(注:令義解による。)
¶仁明帝の即位に伴い、従二位に叙された。承和元年、嵯峨太上天皇が双岡の山荘に行幸され、夏野の三人の子、瀧雄(たきお)、沢雄(さわお)、秋雄(あきお)の位を進めた。夏野はたびたび大将の辞任を願い出たが、許されなかった。四年、上表してまた辞任を願った。(注:続日本後紀による。)大将の職のみ罷免されたが、食封を返上することは許されなかった。(注:公卿補任による。)まもなく薨去した。享年五十六。(注:続日本後紀による。)正二位を贈られ、双岡大臣(ならびがおかのおとど)と称された。また比叡寺を創建したことから、比大臣(ひのおとど)とも称された。(注:公卿補任による。)子は瀧雄、沢雄、秋雄である。
清原瀧雄
¶清原瀧雄(きよはらのたきお)は、天長年間、右兵衛少尉に任じられ、位を重ねて雅楽頭に転じた。父の喪に服した際、悲しみのあまり礼を過ぎるほどにやつれた。朝廷は喪に服す期間を短縮させ、もとの官職のまま起用した。(注:三代実録による。)嘉祥の末、従四位上に進み、まもなく安芸守となり、中務大輔に転じた。(注:文徳実録・三代実録による。)貞観年間、母の喪に服して官を退いたが、詔により起用された。五年、在官のまま卒した。享年六十五。(注:三代実録による。)
清原秋雄
¶清原秋雄(きよはらのあきお)は、弓術に巧みで、強弓を引くことに優れていた。(注:三代実録による。)承和の初め、侍従となったが、(注:続日本後紀・三代実録による。)父の喪に遭って官を退いた。翌年、詔によりもとの官職のまま起用された。(注:三代実録による。)伴健岑(とものこわみね)らが謀反を企てた際には、秋雄を遣わして大枝道(おおえのみち)を守らせた。(注:続日本後紀による。)貞観年間、従四位上右兵衛督に至った。秋雄は細かな行いを慎まず、酒を飲みすぎることが多く、晩年は特にひどかった。十六年、卒した。享年六十三。(注:三代実録による。)