卷之一百十三 列傳第四十
遣唐使節
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次23
小野妹子
¶小野妹子(おののいまこ)は、天帶彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の六世の孫であり、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)の子孫である。近江国滋賀郡小野村に住んでいたことから、これを氏とした。(注:『姓氏録』による。○按ずるに、『皇胤紹運録』の系図では妹子を春日皇子の子としているが、これは誤りである。)推古天皇の朝廷に仕え、位は大礼であった。推古十五年、遣隋使となった。鞍作福利(くらつくりのふくり)が通訳を務めた。隋人は妹子を蘇因高(そいんこう)と呼んだ。隋に一年余り滞在して帰国した。煬帝は裴世清(はいせいせい)を遣わして共に来させ、返礼の使者とした。ところが帰路、百済がその返書を奪い取ってしまった。妹子は帰国してありのままを奏上した。天皇は群臣にその罪を議論させたところ、群臣は「使者たる者の職務は、死んでも節義を失ってはならない。どうして大国からの国書を失うようなことがあってよいものか。罪は流刑に処すべきである」と言った。天皇は勅して「軽々しく罰してはならぬ。朕は隋の客人に対して恥じ入るところがある」と仰せられ、そのまま不問に付した。そして飾り立てた騎馬の一行を遣わし、海石榴市(つばきち)で世清を出迎えさせ、労をねぎらった。世清が帰国するにあたり、朝廷は再び妹子を大使とし、難波雄成(なにわのおなり)を副使、福利を通訳として、再び隋に使いさせた。翌年九月、使命を果たして帰国した。(注:『日本紀』による。)位は大徳冠にまで至った。(注:『姓氏録』『続日本紀』による。)
¶子の毛人(えみし)は、位は小錦中であった。(注:『続日本紀』による。○明暦年間、山城国一乗寺村の住人が塚を発掘したところ石棺が見つかり、中に一枚の鉄板があった。そこには「小野毛人朝臣之墓」と刻まれ、その下に二行の細字で「営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と記されていた。裏面には「飛鳥浄御原宮治天下天皇の御代に、大政官に任じられ、刑部大卿を兼ね、位は大錦上であった」とあった。この石棺は今も一乗寺にある。丁丑の年とは、すなわち天武天皇五年のことである。)毛人の子は毛野(けの)である。
小野毛野
¶小野毛野(おののけの)は、持統天皇の朝廷で位は直広肆であった。持統九年、遣新羅使となった。(注:『日本紀』による。)文武天皇の朝廷では直広参に進み、筑紫大弐となった。大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)らとともに朝政に参議した。正四位上に叙せられ、中務卿となった。和銅元年、中納言に任じられた。翌年、従三位に叙せられた。和銅七年に薨じた。(注:『続日本紀』による。)
坂合部石布
¶坂合部石布(さかいべのいわしき)は、大彦命(おおひこのみこと)の子孫である。その先祖は允恭天皇の御代に、勅を奉じて国境の標識を立てたことから、坂合部連の姓を賜った。(注:『姓氏録』による。○按ずるに、坂合部は境部とも書く。『続日本紀』では石布を石敷と書いている。『日本紀』斉明天皇二年の条では磐鍬と書いているが、以下の本文および伊吉博徳の書ではいずれも石布と書いており、いずれも訓読は通じる。)石布は、斉明天皇二年、遣高麗副使となり、まもなく小錦下に叙せられた。斉明五年、遣唐大使となった。(注:『日本紀』による。)九月、百済の南島に至り、さらに海に出たところ逆風に遭い、南海の爾加委島(にかいのしま)に漂着し、島人に殺害された。東漢長(やまとのあやのおさ)・阿利麻(ありま)・坂合部稲積(さかいべのいなつみ)ら五人は、賊の船を奪って括州(かっしゅう)まで逃げのびた。州県が伝送して洛陽まで送り届けた。(注:『日本紀』註に引く伊吉博徳の書による。○按ずるに、阿利麻らの事跡はここまでしか記録がない。おそらく東京(とうけい)に至り、副使として付き従っていた津守吉祥とともに天子に拝謁したのであろうが、『日本紀』には記載がなく、また帰国についても考証すべき資料がない。)天平宝字元年、太政官が奏上して「小錦下坂合部宿禰石布は、唐国への使いを奉じて漂着した孤島で賊に横死した。まことに哀れむべきことであり、令の規定に従って功を賜るべきである。その功田六町を子に伝えさせよ」と言った。(注:『続日本紀』による。)
津守吉祥
¶津守吉祥(つもりのきさ)は、位は大山下であった。斉明天皇五年、遣唐副使となった。(注:『日本紀』による。)海上で風難に遭い、大使の坂合部石布とはぐれてしまった。一昼夜航行して会稽(かいけい)の須岸山(すがんざん)に至ったが、東北の強風にあおられた。数日後、余姚(よよう)に至り、荷物をここに留め置いた。陸路を進んで越州府に至った。当時、高宗は東京(とうけい)にいたため、駅馬に乗って東京に入った。(注:『日本紀』註に引く伊吉博徳の書による。)吉祥は送り届けてきた蝦夷(えみし)を率いて朝廷に参内した。(注:『日本紀』註に引く難波男人(なにわのおひと)の書による。)高宗が「日本国の天皇はご無事か」と問うと、吉祥は「天地の徳が合わさっておりますので、おのずと平安でございます」と答えた。また「執事卿らは息災か」と問うと、「天皇は慈しみ深く、みな息災でございます」と答えた。さらに「国内は平穏か」と問うと、「天地の道理に則って治められており、万民は事なく暮らしております」と答えた。高宗はさらに蝦夷の地の風俗について尋ね、吉祥はこれを詳しく語り尽くした。高宗はその受け答えを称え、じきじきに労いのことばをかけて「使者は遠路はるばる大儀であった。館に下がって休み、後日また会おう」と仰せられた。十一月、朔日の朝に冬至を迎え、高宗が祝賀を受けた際、諸国の使者はみな参内し、吉祥もまた参内したが、その立ち居振る舞いは最も優れていた。ところがその後、客館が火事に遭い、また讒言する者があったために、罪を得ることとなった。まもなく「来年、海東で事を起こすことになる。おまえたち倭国の客人は東国へ帰ることは許さぬ」との命が下された。こうして西京に幽閉され、幾年にもわたり苦しい年月を過ごした。(注:伊吉博徳の書による。)吉祥の遠い子孫にあたる従五位下国基(くにもと)は、住吉社の神主となった。以後、代々その職を継ぎ、今日に至っている。(注:系図による。)
伊吉博德
¶伊吉博徳(いきのはかとこ)は、斉明天皇の朝廷で遣唐副使であった津守吉祥らとともに唐にいた。同族の倭種(わじゅ)である韓智興(からのちこう)の従者・西漢大麻呂(かわちのあやのおおまろ)が我が使節団を讒言した。使節団は罪に問われ、唐はすでに流罪の判決を下し、智興を三千里の彼方に流したが、博徳は使節団の中にあってその濡れ衣を弁明したため、罪を免れることができた。当時、唐は百済との戦役のさなかにあり、西京に幽閉されて幾年にもわたる苦難を経たが、やがて事態が収まり、帰国することができた。海上で風難に遭い、耽羅島(たんらとう)に漂着し、その王子である阿波岐(あはき)ら九人を伴って帰ってきた。耽羅が入貢するようになったのは、これが始まりである。(注:『日本紀』註に引く博徳の書による。○「別倭種」の三字は『日本紀』白雉五年の条の文による。按ずるに、本書には博徳の名は記されていないが、註に博徳の書が引用されているので、それに依った。彼の往来の詳細についてはいずれも考証すべき資料がない。)天智天皇が称制されていた頃、博徳は位が小山下であり、百済の司馬法聡(ほうそう)らを護送した。翌年、帰国した。大津皇子の謀反の際、博徳はこれに与したが、持統天皇は彼を許して不問に付した。その後、務大弐に進み、直広肆の小野毛野らとともに新羅に使いした。(注:『日本紀』による。)大宝年間、律令制定の功に対する褒賞として田十町を賜り、五十戸を封じられ、従五位上に叙せられた。天平宝字の初め、太政官が奏上して、その功田を子に伝えさせた。(注:『続日本紀』による。)
粟田真人
¶粟田真人(あわたのまひと)は、その先祖が天足国押人命(あめたらしくにおしひとのみこと)から出ている。(注:『姓氏録』による。)真人は学問を好み、文章をよくし、立ち居振る舞いに威儀があった。(注:『新唐書』日本伝による。)天武天皇の朝廷で小錦下を授けられ、直大肄に進んだが、これを父に譲りたいと願い出たものの、許されなかった。持統天皇の朝廷では筑紫太宰となり、隼人百七十四人、および布・牛皮・鹿皮若干枚を献上し、衣裳を賞賜された。(注:『日本紀』による。)直大弐に進んだ。文武天皇の朝廷では律令の編纂に加わり、民部尚書となった。大宝元年、遣唐執節使となり、位号を改め正四位下に叙せられ、節刀を授けられた。筑紫に至ったが風波が荒く出航できず、都に帰った。大宝二年、朝政に参議した。まもなく再び唐へ赴いた。楚州(そしゅう)に至ったところ、ある人が来て「どこの国の使者か」と尋ねた。真人は「日本国の使者である。ここはどこの州の境か」と問い返すと、「ここは大周の楚州塩城県(えんじょうけん)である」と答えた。真人がさらに「先には大唐と称していたのに、どうして国号を改めたのか」と尋ねると、「永淳二年に天皇太帝(高宗)が崩御され、皇太后が即位して聖神皇帝と称し、国号を大周とされた。海の東に大倭国があり、これを君子国と呼ぶと聞いている。人民は豊かに楽しみ、礼儀の教えが行われているという。今、使者の立ち居振る舞いを見るに、いかにも物静かで麗しく、まことにその通りではないか」と言い残して去った。(注:『続日本紀』による。)長安に至り、武后に拝謁した。麟徳殿での宴に招かれ、司膳卿を授けられた。真人は進徳冠をかぶり、その頂には四方に開いた花飾りがあり、紫の袍(ほう)に帛(はく)の帯を締めていた。唐の朝廷はその物腰の温雅なことを称えた。(注:『新唐書』日本伝による。)慶雲元年、帰朝して復命し、節刀を返上し、大倭の田二十町、穀千斛を賜った。慶雲二年、中納言を拝命し、従三位に進んだ。和銅の初め、太宰帥となり、まもなく正三位に進んだ。養老三年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)
坂合部大分
¶坂合部大分(さかいべのおおきだ)は、右兵衛率であった。大宝の初め、遣唐副使となり、唐に留まり住んだ。養老年間、多治比県守(たじひのあがたもり)に従って帰国し、正五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)
鴨吉備麻呂
¶鴨吉備麻呂(かものきびまろ)は、(注:○本書では、鴨は賀茂とも書く。音訓いずれでも通じる。)刑部判事であった。大宝の初め、遣唐中位となった。慶雲年間、絶域への使いの労をねぎらわれ、絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬・穀を賜った。和銅・養老の間、下総守・玄蕃頭を歴任し、河内守となって従四位下に至り、播磨守に遷って、備前・美作・備中・淡路の按察使を管轄した。(注:『続日本紀』による。)
山上憶良
¶山上憶良(やまのうえのおくら)は、大宝の初め、遣唐少録となった。和銅の末、従五位下に至った。霊亀年間、伯耆守となった。養老年間、朝廷を退出するたびに東宮に伺候するよう詔があった。(注:『続日本紀』による。)聖武天皇の朝廷では筑前守となった。憶良は文章をよくし、和歌に優れていた。『歌林類聚』を著した。(注:『万葉集』による。)
伊吉古麻呂
¶伊吉古麻呂(いきのこまろ)は、大宝の初め、遣唐使に従って唐に赴いた。慶雲年間、その労をねぎらわれ、絁・綿・布・鍬・穀を賜った。(注:○本書では大宝元年・二年・慶雲元年の条に遣唐使の始終が記されているが、古麻呂の名は載っていない。しかし慶雲四年の条には吉備麻呂とともに賞を受けたことが記されており、これによって唐に赴いたことが明らかである。)天平の初め、従五位上に至り、下野守となった。(注:『続日本紀』による。)
多治比縣守
¶多治比県守(たじひのあがたもり)は、左大臣島(しま)の子である。(注:『公卿補任』による。)慶雲年間、従五位下に叙せられた。(注:○按ずるに、本書和銅三年の条に、従四位下多治比大県守を宮内卿としたと記されている。前後の文脈から推すと、位階の記載を欠いており、しかも「大」の字が誤って紛れ込んだ字と思われる。錯簡ではないかと疑われるので、ここでは採らない。)霊亀の初め、従四位下に進み、造宮卿となり、遣唐押使に抜擢された。養老元年、節刀を授けられ、唐に赴いた。(注:○『新唐書』日本伝に、開元の初め栗田(粟田)が再び入朝し、諸儒に経書の教授を願い出たので、四門助教の趙玄黙(ちょうげんもく)に詔して、鴻臚寺を教場として師とさせたとある。大幅の布を贈り物として献上し、賜った品物をすべて書物に換えて持ち帰った。その副使であった朝臣仲満(あそみのなかまろ)は、唐の文物を慕って去ろうとしなかったという。『続日本紀』によれば、粟田真人は大宝二年に唐へ赴き、慶雲元年に帰国し、その後再び赴いてはいない。『唐書』に記された栗田とは、おそらく県守のことであろう。養老元年は唐の開元五年にあたり、記事にいう「開元の初め」とほぼ合致する。仲満が唐に赴いたのも、この時であろう。)玄宗より朝服を賜り、翌年になって帰国した。養老三年正月、県守は副使以下を率いて、唐服を着用して朝見した。まもなく正四位下に進み、武蔵守となり、相模・上野・下野の按察使を管轄し、播磨按察使を解かれた。養老四年、陸奥の蝦夷が反乱を起こし、按察使の上毛野広人(かみつけののひろひと)を殺害した。県守は持節征夷将軍となり、節刀を授けられてこれを討ち平らげた。翌年、正四位上を授けられ、凱旋して中務卿となった。(注:○按ずるに、本書には、陸奥の蝦夷および大隅・薩摩の隼人を征討した将軍以下、蝦夷のうち功のあった者・通訳の者に至るまで、それぞれ勲官を授けたと記されている。前後の文脈を考えると、県守もおそらくこの叙勲の列に加わっていたはずであるが、明文がないため、ここには記さない。)大宰大弐に遷った。天平元年、権(ごん)参議となり、従三位に進み、まもなく民部卿となった。天平三年、諸司の推挙により参議に抜擢され、山陽道鎮撫使となった。天平四年、中納言を拝命し、山陰道節度使となり、正三位に進んだ。天平九年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)享年七十。(注:『公卿補任』による。)弟は広成(ひろなり)である。(注:『続日本紀』による。)
多治比廣成
¶多治比広成(たじひのひろなり)は、和銅年間、下野守に任じられ、迎新羅使の副将軍となった。養老年間、越前守に遷り、能登・越中・越後の按察使を管轄した。天平四年、遣唐大使となった。天平五年、節刀を授けられ、唐に赴いた。天平六年、帰国しようとした際に暴風に遭い、四隻の船がばらばらになった。一月余り経ってから、広成は多禰島(たねがしま)に漂着した。天平七年、都に帰り、節刀を返上し、正四位上に叙せられた。天皇が北の松林で騎射を御覧になった際、広成は唐人を率いて唐楽・新羅楽を奏し、槍を操る技を見せ、また請益(しょうやく)の秦大麻呂(はたのおおまろ)による問答六巻を献上した。天平九年、参議を拝命し、中納言に昇り、従三位となった。天平十一年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)広成は文学を好み、詩をよくした。(注:『懐風藻』による。)かつて唐にいた頃、牡丹墀(ぼたんち)と称され、子孫はそれにちなんで丹墀(たんち)の字を用いるようになった。(注:『三代実録』貞観八年の条による。○『曲江集』の玄宗の勅書にも、丹墀真人と称されている。)
中臣名代
¶中臣名代(なかとみのなしろ)は、御食子(みけこ)の曾孫である。父は島麻呂(しままろ)で、小山中であった。(注:『中臣系譜』による。)名代は、天平の初め、従五位下に叙せられた。天平四年、遣唐副使となった。翌年、唐に赴いたが、(注:『続日本紀』による。)海上で風に流されて南海を漂い、艱難辛苦の限りを尽くしてようやく唐にたどり着いた。(注:『曲江集』の玄宗の勅書による。)天平八年、玄宗の書を携え、唐人の皇甫東朝(こうほとうちょう)ら三人、および波斯国(ペルシア)人の李密翳(りみつえい)を率いて帰国した。(注:○玄宗の書を携えたことは『曲江集』による。)天皇が朝に臨み、名代に従四位下を授け、神祇伯とした。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の事件に連座して流罪となった。(注:○本書には流された地名が記されておらず、今は考証のしようがない。)一年余り経って召還され、もとの位に復した。天平十七年、卒した。(注:『続日本紀』による。)
¶子の鷹主(たかぬし)は、(注:系図による。)正六位上に叙せられた。天平宝字年間、唐使の沈惟岳(しんいがく)らが高元度(こうげんど)を送り届け、太宰府に至った。朝廷は惟岳らを護送しようとして遣唐使を任命し、安芸国で四隻の船を造らせる勅を下し、鷹主は遣唐判官となった。船が完成して難波に至ったところ、一隻が接ぎ目のにかわが破裂したため、使いの人数を減らし、二隻に限った。鷹主は従五位下を賜って大使となり、節刀を授けられた。太宰府に至ったが、風波が荒れ狂った。惟岳らを送り返す勅が下り、鷹主らも召還された。鷹主は肥前守・武部少卿を歴任したが、事件に連座して名籍を削られた。宝亀年間、位を回復し、大判事となった。延暦年間、鋳銭長官となり、従五位上に進んで神祇大副・信濃守を歴任した。(注:『続日本紀』による。)子の弟枚(おとひら)は、伊賀守で従五位下であった。(注:系図による。)
小野石根
¶小野石根(おののいわね)は、太宰大弐老(おゆ)の子である。天平宝字年間、従五位下に叙せられ、南海道節度副使・長門守・造宮大輔を歴任した。慶雲年間、近江介となった。宝亀年間、中衛少将に任じられ、左中弁を兼ね、中将に転じ、鋳銭長官を兼ね、従五位上に進んだ。宝亀七年、遣唐大使の佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らが肥前に至ったが、順風を得られず、都に帰った。これにより副使の大伴益立(おおとものますたて)を罷免し、石根を副使とした。宝亀八年、播磨守を兼ねた。四月、今毛人が病に倒れたため、石根に節刀を持たせて先に出発させ、大使の職務を代行させる勅が下った。勅には「大使の今毛人は病が重く道中に堪えられない。おまえたちが唐に到着した日、先方が大使がいないことを問うたならば、状況に応じてうまく取り計らえ」とあった。石根は紫の衣を着けながらも、なお副使と称し、節刀を持って職務を代行し、すべて先の勅の通りにした。宝亀九年正月、長安に至った。三月、延英殿で代宗に拝謁した。帰国にあたり、代宗は内侍の趙宝英(ちょうほうえい)らを同行させた。十一月、風波が険しく荒れ、第一船が難破した。石根・宝英らは海に没した。翌年、石根に従四位下が追贈された。(注:『続日本紀』による。)
小野滋野
¶小野滋野(おののしげの)は、宝亀年間、勅旨大丞となり、下総権介を兼ねた。宝亀六年、遣唐判官となった。宝亀八年、唐に赴いた。宝亀九年十月、帰国して肥前松浦郡橘浦(たちばなのうら)に至り、次のように奏上した。「私、滋野らは、宝亀八年六月、風待ちをして海に乗り出しました。七月、第一船とともに揚州(ようしゅう)海陵県(かいりょうけん)に至り、八月、揚州大都督府に至りました。観察使兼長史の陳少游(ちんしょうゆう)は、安禄山の乱によって館駅が荒れ果てていたため、入京する使者を六十人に限りました。十月、私ども八十五人が出発し、百里余り進んだところで、中書門下の牒(通達)が届き、人数をさらに二十人に絞るようにとのことでした。私どもは二十三人の増員を願い出ました。持節副使の小野石根、副使の大神末足(おおみわのすえたり)、准判官の羽栗翼(はぐりのつばさ)、録事の上毛野大川(かみつけののおおかわ)・韓国源(からくにのみなもと)ら、合わせて四十三人が、翌年正月、長安城に到着しました。監使が使院の世話を専ら取り仕切り、待遇はたいへん手厚く、宮中からの使者が絶えず訪れ、宣政殿にて謁見を許されました。そこで国書を進呈いたしました。唐帝はたいへんお喜びになり、群臣にこれをお示しになりました。三月、延英殿にお召しになり、私どもの願いはすべてお聞き届けいただきました。宮中で宴を賜り、それぞれに品物を頂戴いたしました。四月、監使の楊光耀(ようこうよう)が勅を宣べて『中使の趙宝英らを遣わし、返礼の品を携えて日本へ送ろうと思う。揚州に船を造らせよ。そなたたちもそのつもりでいるように』と仰せられました。拝辞するにあたり、私は『わが国への海路は遥かに遠く、漂流の危険が測りがたいものです。今、中使の方が赴くとなれば、荒波を冒して渡らねばなりません。万一つまずくことがあれば、恐れながら王命を空しくすることになりましょう』と申し上げました。すると勅には『朕にはささやかな贈り物がある。宝英らに命じて護送させよう。道義の上で当然のことであり、労苦とは思わぬ』とありました。そして銀の椀に酒を注いで餞別としてくださいました。六月、揚州に至りましたが、船はまだできあがっておりませんでした。中使の上奏により、私どもの船に同乗することになりました。第一船・第二船は揚子塘頭(ようすとうとう)におり、第四船は楚州塩城県におりました。九月、私どもの船は真南からの風を得て、纜(ともづな)を解いて三日間航行しましたが、たちまち逆風に遭い、船は砂州に乗り上げてしまいました。損傷が甚だしく、力を尽くして修理いたしました。今月十六日、船が浮かんで海に出ることができ、二十三日、肥前松浦郡橘浦に至りました。唐からの客人が私どもに従って入朝いたしますので、迎接のもてなしは、すべて外国使節の例と同様にしていただきたく、私からその旨を太宰府に牒し、準備させております。唐の当今の天子は広平王、名は迪(てき)、(注:○按ずるに、代宗の初名は俶(しゅく)であり、「迪」と「俶」は音が近いため、当時の伝聞によって「迪」の字が用いられたのであろう。)年五十三でいらっしゃいます。皇太子は雍王、名は适(かつ)。年号は大暦、ちょうど十三年にあたります」と。天皇は滋野らに速やかに都へ上るよう命じられた。もともと宝英らは小野石根とともに第一船に乗って海に没しており、孫興進(そんこうしん)らのみが滋野とともに帰ってきたのであった。滋野は従五位下に叙せられ、豊前守となった。(注:『続日本紀』による。)
海上三狩
¶海上三狩(うなかみのみかり)は、敏達天皇の子孫である。(注:『姓氏録』による。)初めは諸王の一人であった。天平勝宝年間、姓を賜った。宝亀六年、遣唐判官となった。翌年、肥前に至ったが、順風を得られなかった。大使の佐伯今毛人が病のため都に帰った。三狩らは太宰府に留まって好機を待ったが、当時の人々はその慎重さを称えた。やがて唐に渡った。帰国の際、耽羅島に漂着し、島人に略奪されて留め置かれた。朝廷は太宰の下道長人(しもつみちのながひと)を新羅に遣わして、三狩を迎えさせる勅を下した。新羅は三狩を捜し出し、長人とともに帰国した。太宰少弐となった。延暦年間、従五位上に至り、兵部大輔・右中弁・造長岡宮使を歴任した。(注:『続日本紀』による。)子の真直(まなお)は、延暦年間、宿怨によって父の妾の婢を殺害し、獄に下されて死んだ。(注:『類聚国史』による。)
羽栗翼
¶羽栗翼(はぐりのつばさ)は、山背国乙訓郡(おとくにぐん)の人である。宝亀六年、佐伯今毛人が遣唐大使となった際、翼はその録事となり、まもなく准判官に改められ、勅旨大丞を兼ねて、副使の小野石根に従って唐に赴いた。宝亀九年、唐から帰国した。まもなく従五位下を授けられた。天応元年、勅を奉じて難波に至り、朴硝(はくしょう)を精製した。延暦年間、丹波介となり、内薬正に改められ、侍医を兼ねた。さらに左京亮・内蔵直助を歴任し、正五位下に至った。(注:『続日本紀』による。○本書天平宝字三年の条には、高元度を迎入唐大使としたことが記されているが、判官・録事については記されていない。天平宝字五年の条には、元度が唐から帰り、従五位上を授けられたとあり、その録事であった羽栗翔(はぐりのしょう)は河清(かせい)のもとに留まり、帰国しなかったとある。本書全体を調べても、翔の名はこの箇所以外には見えない。「翔」と「翼」は字形が似ているので、あるいは同一人物であろうか。しかし今は考証のしようがない。)
上毛野大川
¶上毛野大川(かみつけののおおかわ)は、宝亀年間、遣唐録事となり、帰国後は大外記に補せられ、山背守を兼ねた。延暦年間、従五位下に至り、主計頭となった。(注:『続日本紀』による。)
高原源
¶高原源(たかはらのみなもと)は、もとの姓は韓国連(からくにのむらじ)といい、(注:『続日本紀』による。)物部氏と同じ祖先を持つ。その先祖のある者が、武烈天皇の御代に韓国への使者となったことから、韓国の姓を賜った。(注:『姓氏録』による。)源は、宝亀年間、遣唐録事となり、帰国の途中、海上三狩らとともに耽羅島に漂着した。三狩らは島人に捕らえられたが、源は残りの一行四十余人を率いて逃げ帰った。延暦年間、外従五位下に至った。上表して「私どもは物部大連(もののべのおおむらじ)の子孫でございます。そもそも物部連の一族は、それぞれの居住地や職務に応じて、別れて百八十の氏となりました。私、源らの先祖である塩児(しおこ)は、父祖が使者として赴いた国の名にちなんで韓国連と改めたのでございます。すなわち大連の子孫でありながら、これは日本古来の民でありますのに、今『韓国』と号しておりますことは、かえって三韓からの新来の者のように聞こえてしまいます。人前で名乗るたびに、人を驚かせております。土地にちなんで姓を賜ることは、古来からの通例でございます。伏してお願い申し上げますに、『高原』と改め賜りますよう」と申し上げた。これが許された。(注:『続日本紀』による。)
布勢清直
¶布勢清直(ふせのきよなお)は、宝亀年間、少納言・武蔵介を歴任した。宝亀九年、送唐客使となり、唐からの客人である孫興進らを護衛して唐に赴いた。天応元年、帰国した。正五位下に至り、兵部大輔となった。延暦の初め、民部大輔・上総守を歴任した。(注:『続日本紀』による。)
藤原葛野麻呂
¶藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)は、大納言小黒麻呂(おぐろまろ)の長子である。(注:『公卿補任』による。)延暦の初め、正六位上に叙せられ、従五位下に進んだ。まもなく陸奥介・少納言・右少弁を歴任し、(注:『続日本紀』による。)春宮亮を兼ね、左右の中弁を歴任し、春宮大夫・伊予守を兼ね、右大弁に遷り、太宰大弐となった。延暦二十年、遣唐大使を拝命し、越前守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)出発にあたり、殿上で餞別の宴が催され、すべて漢風の儀礼にのっとって行われた。天皇は御座の下で酒を賜り、和歌を作って労をねぎらわれた。葛野麻呂は感激して涙し、周囲の者もみな感嘆し羨まぬ者はなかった。御被三領・御衣一襲・金二百両を賜った。暇乞いをして節刀を受けた。ところが暴風に遭って船が破損し、渡航できず引き返した。(注:『日本紀略』による。)延暦二十三年、位を重ねて従四位上に進んだ。(注:『公卿補任』による。)再び唐に赴くにあたり、殿上で餞別の宴が催され、音楽が奏され、宝琴一張を賜った。十か月を経て長安に到着し、宣化殿で徳宗に拝謁した。延暦二十四年、唐から帰国し、従三位に進んだ。大同元年、参議を重ねて歴任し、式部卿を兼ね、東海道観察使となり、まもなく中納言となり、正三位に進み、皇太弟傅を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(くすこ)の変に際し、葛野麻呂はかつて諫言したことがあったが、上皇はこれを聞き入れなかった。事件が失敗に終わると、天皇は葛野麻呂が薬子と姻戚関係にあったことから重罪に処そうとした。しかし多入鹿(おおのいるか)が証言に立ったため、その話は沙汰止みとなった。(注:『類聚国史』による。)まもなく民部卿に遷った。弘仁九年、薨じた。享年六十四。(注:『日本紀略』『続日本紀』による。)子は常嗣(つねつぐ)、(注:『続日本後紀』による。)氏宗(うじむね)である。(注:『公卿補任』による。)
藤原氏宗
¶藤原氏宗(ふじわらのうじむね)。氏宗は、仁寿・斉衡年間、参議に任じられ、検非違使別当を補せられ、左近衛中将・左衛門督を歴任した。(注:『公卿補任』による。)貞観年間、従三位に叙せられ、中納言に進み、左近衛大将を兼ね、権大納言に転じた。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)当時、参議以上の者に時の政治の得失を論じるよう詔が下された。藤原良相(よしみ)・紀今守(きのいまもり)らが、それぞれ意見を上奏したが、久しく返答がなかった。氏宗は上疏して、その中でも切実で重要なものを選んで実施するよう願い出た。まもなく左近衛大将に転じた。氏宗はかねて藤原基経(もとつね)の才器を重んじており、上表して大将の職を譲りたいと願い出たが、許されなかった。一年余り経って正三位に進み、大納言となり、東宮傅を兼ねた。翌年、右大臣を拝命した。辞退したが許されなかった。そこで職封の半分を割いていただきたいと願い、また職分・資人、職田・季禄については大納言に准じることを願い出た。優れた詔によってこれを称え、ただ職封の半分を割くことのみを聞き届けられた。貞観十四年、薨じた。(注:『三代実録』による。)時に年六十四であった。(注:『公卿補任』による。○按ずるに、本書には延暦十四年生まれとも記されている。これによって計算すると、享年七十八となる。両書の記述が矛盾しており、どちらが正しいか分からない。)朝廷は三日間、政務を停止し、正二位を追贈し、参議の在原行平(ありわらのゆきひら)らを遣わして、勅書と位記を携えさせ、邸に赴いて宣旨とともに賜らせた。家人は遺命に従ってこれを受け取らなかった。(注:『日本紀略』による。)
藤原常嗣
¶藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)。常嗣は、若い頃から大学に遊学し、史記・漢書を広く読みあさり、『文選』を暗誦し、文章をよくし、また隷書にも通じていた。生まれつき聡明で有能であり、その威儀は称賛に値するものであった。(注:『続日本後紀』による。)弘仁十一年、右京少進に任じられ、蔵人・式部大丞に遷り、従五位下に叙せられて下野守となったが、任地には赴かなかった。留まって東宮亮となり、右少弁に遷った。天長の初め、式部少輔を歴任し、勘解由次官を兼ねたが、事件に連座して刑部少輔に左遷された。まもなく蔵人頭に補せられ、勘解由長官を兼ね、参議に任じられた。天長九年、下野守・右大弁を兼ねた。承和元年、遣唐持節大使となり、近江権守を兼ねた。翌年、左大弁に転じ、他の官職はそのままで、位を重ねて正四位下に進んだ。(注:『続日本後紀』、『公卿補任』を参照して合わせた。)承和三年、唐に赴くにあたり、正二位を仮に授けられ、節刀を授けられた。天皇は紫宸殿に出御して宴を賜り、五位以上の者に命じて詩を作らせ、これを送らせた。常嗣が進み出て天皇の長寿を祝う杯を捧げると、天皇はそのために杯を挙げられ、御衣・白絹・御被・砂金を賜り、この上ない歓びのうちに宴を終えた。ところが洋上で風難に遭い、その二隻の船が漂流してしまった。太宰府から上奏があり、勅符をもってこれを慰められた。常嗣は上表して謝罪したが、結局渡航はかなわなかった。朝廷の意向により、西への渡航が困難で船が傷んでいたため、判官以下は船で都に帰らせ、大使・副使については去留を自由に任せることとし、常嗣は都に帰った。承和四年、太宰権帥に任じられた。翌年三月、再び唐に赴いた。承和六年八月、帰朝した。天皇は紫宸殿に出御して返書を受け取り、常嗣を御座の近くに招いて労をねぎらい、殿上で酒宴を催された。常嗣は使いの次第と道中の艱難辛苦を詳しく語った。御被・御衣を賜り、勅して「遣唐大使藤原常嗣は、遠く荒波を越え、並々ならぬ苦難を経てきた。使命を成し遂げ、返書を得て帰ってきたことは、まことに喜ばしいことである。常嗣以下水手に至るまで、冠位を進めるべきである。判官正六位上藤原豊並(とよなみ)は唐にて没したが、朕はこれをたいへん哀惜しており、褒賞を加えるべきである」と仰せられた。常嗣に従三位を授け、豊並に従五位上を追贈した。その他の判官についても、位に応じてそれぞれ差をつけて授けた。この年、母の喪に服した。翌年、朝廷に出仕して政務を執るようにとの勅が下った。まもなく薨じた。享年四十五。当時、代々職を継いで、外交応対の選に専ら当たったのは、常嗣父子のみであった。(注:『続日本後紀』による。)三人の子は、興邦(おきくに)・文弘(ふみひろ)・葛覧(かつみ)である。(注:『尊卑分脈』による。)興邦は、承和・斉衡年間、官を重ねて東宮亮となった。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)貞観年間、従四位下に至った。(注:『三代実録』による。)文弘は従五位下、丹波守。葛覧は正六位上、日向守であった。(注:『尊卑分脈』による。)