卷之一百廿九 列傳第五十六
藤原冬緒、安倍貞行、在原行平、藤原山陰
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原冬緒
¶藤原冬緒(ふじわらのふゆお)は、参議麻呂の曾孫である。父の豊伴(とよとも)は豊後守を務めた。(注:豊伴は、『尊卑分脈』では豊彦、『一代要記』では豊仲とする。)冬緒は、承和年間に勘解由判官となり、式部大丞に任じられ、蔵人に補された。(注:『公卿補任』による。)承和十四年、従五位下を授けられ、右少弁となった。嘉祥年間には伊勢介、春宮亮を歴任した。仁寿・斉衡年間には左少弁従五位上に進み、肥後守となった。(注:『文徳実録』による。)貞観の初め、右中弁として朝廷に入った。帝が初めて孝経を読まれた際、冬緒は大江音人(おおえのおとんど)とともにこれに侍した。この年、従四位下に叙された。まもなく大宰大弐となり、弾正大弼、右大弁を歴任し、勘解由長官、美濃権守を兼ねた。貞観十一年、再び大宰大弐となり、参議を拝命した。貞観十二年、上書して四つの事柄を陳べた。第一に言う、「およそ軍旅の備えは、烽燧(のろし)がとりわけ重要である。しかし数十年来、国には警戒の備えがない。備えはあっても、その運用の仕方を知らない。今、管内の国々・島々に命じて、試みに烽燧を挙げさせ、彼我が相通じ合うようにして不慮の事態に備えるべきである。ただしその理由を告げなければ、人々の心を驚かせ動揺させる恐れがある。事の由を布告した上で、規定に従って訓練させることを望む」。第二に言う、「近年、公私の人々が、陸路あるいは海路から遠く分け入って良馬を求め歩き、関を出る馬の数はおよそ千余匹に及ぶ。有事に備えるには馬こそが最も肝要である。それなのに不心得者どもが毎年これを買い求めて連れ去っている。もし馬が底をついたなら、非常の際にどうするのか。今これを禁じようとすれば、かえって非難を招くだろう。豊前・長門の二国に布告し、四年の間、馬の国外持ち出しを禁止することを望む」。第三に言う、「諸国から納められる雑米は、それぞれの本来の用途に従い、諸司・諸所に納入される。ところが、ある役所ではすべて使い切ってしまい、またある役所では多くが未進のままで、公の用途に不足を生じている。期限のある用途にすら融通できない有様である。ましてや庸米・雑米はすべて税庫に納め、宣旨によらなければみだりに用いてはならないはずである」。第四に言う、「穀倉院の地子の交易物については、近年、令の監一人がその事務を専管し、毎年交易を行って軽物を輸進している。そのためこの専管の者は、年初に代金の稲を受け取りながら、後に府司からその返抄を求められる。両者が互いに言い逃れをして事をはっきりさせようとせず、結局は事情を知らない役人がその煩わしい処理を押し付けられることになる。よくよくその理由を考えれば、道理に合わないことである。そもそも一つの役所の事務は、その長官が自ら行うべきものであり、たとえ適任者がいたとしても、どうして支障があろうか。ことさらに専任の担当者を置くことが、かえって事務を煩雑にしているのである。この専管を停止し、府司が一貫して交易・進上を行うことを望む」。天皇はこれを裁可された。翌年、正四位下に叙された。(注:『三代実録』による。)まもなく民部卿に遷った。貞観十七年、伊予権守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)帝が史記を読まれた際、冬緒に特にその席に侍するよう詔があった。翌年、従三位に叙され、(注:『三代実録』による。)播磨権守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)元慶年間、たびたび上表して致仕を願い出たが、許されなかった。中納言を拝命し、正三位に叙された。河内・和泉の両国を検校するよう詔があり、遠く在京のままその事務を統べ、国司に指示を下してその処分に従わせた。数年後、大納言に転じた。上表して辞退したが、許されなかった。まもなく弾正尹を兼ねた。仁和三年、たびたび致仕を願い、上表して次のように述べた、「臣、致仕すべき年齢をすでに過ぎ、故郷に帰りたいとの願いはいよいよ深まっております。宮門を叩いても取り次がれず、天に叫んでも聞き届けられません。臣はもとより老練の徳もなく、みだりに重職に居座っております。若くして人に及ばぬまま、燭之武の言葉を思い起こして感じ入り、老いてなおいよいよ耄碌し、なお趙孟の言に恥じ入っております。流れる水は逆さに戻らず、空しく川のほとりで嘆くのみ、漏刻の矢もすでに尽き果てております。どうして夜道を行く罪を犯しましょうか。伏して思いますに、禄俸とは士が貪り求めるものであり、聖明な世とは時代がまれに現すものです。臣は八十年の余命をもって、千年に一度の御代の刷新に遇いました。まさにこの晩年の日々を惜しみ、かの学舎の栄誉を思い描くべき時です。疲れた馬が車を解かれるように、しばし高殿の前を彷徨い、涼しくなって燕が巣を去るように、なお広い御殿の下に留まっております。しかし月日の制約が迫り、気力はそれに追いつかず、心の内では山河のように隔たり、手足の間では楚と越ほどにも遠く隔たっております。宮城を仰いでは参内の礼を隔てられ、東の山を望んでは帰る魂を急がせております。わが身を省みて恥じ入り、無為に禄をはむ恐れにびくびくとし、身の程を知って帰るべきを悟り、辞退の願いにあわただしく心を砕いております。伏して願わくは、恵み深い御恩を垂れ、真心の願いに感じ入っていただき、務めては夕日の光を帯び、帰りては質素な暮らしに歩みを進めさせてください。過分な栄誉を返上し、質素な装いのままに終わりを迎えさせてください。どうして都門に冠を掛けて疏広・疏受が漢朝に栄誉を遺したことに比べられましょうか。ひそかに、野に土を撃って堯の御代の余生を楽しんだ故事を慕うばかりです」。詔によりこれが許された。(注:『三代実録』による。)寛平二年、薨去した。享年八十二。(注:『公卿補任』『一代要記』による。ただし本書の記す享年には前後で矛盾があり、今は大同三年戊子生まれとする説、および『一代要記』の元慶元年に七十歳とする記述に基づいて訂正した。)子の灌木(かんぼく)は大学助となった。(注:『尊卑分脈』による。)
安倍貞行
¶安倍貞行(あべのさだゆき)は、大納言安仁(やすひと)の子である。(注:『三代実録』による。)仁寿年間、右衛門権佐・検非違使となった。斉衡・天安年間には左衛門権佐に転じ、大和守となった。(注:『文徳実録』による。)貞観の初め、刑部大輔に任じられ、摂津守となった。母の喪に服して官職を退いたが、詔によって復職した。貞観十四年、正五位下を授けられ、陸奥守となった。任地への出発に際して拝辞したとき、殿上に召し上げられ、酒食と御衣を賜った。翌年、次のように奏上した、「爵位・禄の授与は、功績を厚くもてなすためのものです。したがって位を授ける事は、必ずふさわしい人物に対して行われるべきです。しかし近年、国司は功労の実効によらず、思いのままに爵位を授けています。そのため禄にあずかる者が多くなり、租調の物が減り目減りしています。担当官庁がこれを調べ出すことは、代々絶えません。願わくは、夷俘(いふ)への位階については、毎年叙位の規則を立て、功績ある者の子孫を選び、年々の欠員に応じて、二十人以下を叙し補うようにしてください」。また次のように言った、「国内の政務で最も重んずべきは租税の収納です。したがって、その分配にあたる役人は、職務に励むべきです。しかし任用された官人が、必ずしも適任とは限りません。あるいは郡司に誘われて税帳を偽り、藁を稲と偽って納入し、あるいは富裕な豪族に賄賂をもらい、実質のないものを実質があるように見せかけています。法令の趣旨に基づき、必ずその罪を裁くべきです。それなのに、ひたすら手当を貪り、罪に問われることを恐れません。願わくは、虚偽の納入によって欠損を生じさせた国司の公廨(くげ)を没収し、まずその欠損分を補填させ、その後に罪を問うてください。もし欠損の額が大きく公廨の額が少ない場合は、長官以下が共同で埋め合わせて納めるようにしてください」。元慶年間、従四位上に叙され、大宰大弐に任じられた。宮中に参内して拝謁した際、御衣一襲を賜り、拝舞して退出した。親王・公卿たちが仗下に参侍し、貞行を引き留めて餞別の宴を開いた。内蔵寮の銭一万を囲碁の賭け物にあて、酒宴を尽くして終えた。これより先、少弐の藤原房雄(ふじわらのふさお)が警固の事務を行っていたが、肥後守に選任されてからは、これを担当する者がいなかった。貞行は次のように奏上して願い出た、「武具と烽火の見張りは、本来長官の職務です。したがって警固には先例があるのに、どうして別に担当者を置く必要がありましょうか。少弐による専管を停止し、府司がその都度適宜処置するのがよいでしょう。また筑後・豊後両国の長官については、まず大宰府の許可を経てから入京を許すようにし、府からの解文がなければみだりに出発してはならないこととしてください」。勅によりこれが許された。(注:『三代実録』による。)
在原行平
¶在原行平(ありわらのゆきひら)は、阿保親王(あぼしんのう)の第二子であり、はじめは諸王であった。天長年間、阿保親王が上表して、子の男子たちに姓を賜るよう願い出た。行平とその兄弟は、在原朝臣の姓を賜った。(注:『三代実録』による。)承和年間、蔵人に補され、(注:『公卿補任』による。)従五位下を授けられ、侍従となった。(注:『続日本後紀』による。)しだいに昇進して右近衛少将となった。斉衡年間、因幡守に任じられた。天安元年、兵部大輔となり、まもなく中務に転じ、左馬頭に任じられた。(注:『文徳実録』による。)貞観年間、左兵衛督に遷り、播磨・信濃・備前・備中の四国の守を歴任し、正四位下に叙され、参議に任じられた。(注:『三代実録』による。ただし備中守については『公卿補任』による。)検非違使別当、左衛門督となり、(注:『公卿補任』による。)蔵人頭に補された。参議が蔵人頭を兼ねたのは、これが最初である。(注:『公卿補任』『蔵人補任』による。)まもなく従三位に叙され、大宰権帥に任じられた。これより先、筑前・肥前など六国の穀物を運漕して対馬の年糧としていたが、その年ごとに漂流・沈没する分が十のうち六、七割にも及んでいた。行平は次のように奏上して願い出た、「六国からの運漕を停止し、代わりにその民に壱岐の水田を耕作させて対馬の年糧とし、壱岐の年貢を停止して、その分を六国に課すことにしてください」。また肥前国松浦郡の庇羅(ひら)・値嘉(ちか)の二郷では珍しい石や香薬を産し、唐から来る人々が多くこれを採取していた。新羅の人々で貢船を掠奪する者も、この島を経由していた。行平は次のように奏上した、「調べましたところ、もとこの地には九国三島がありました。天長元年に至り、多褹嶋(たねしま)を廃止して大隅国に隷属させました。これは鹿皮百領を貢納させるために三万六千余束もの稲を費やしていたためです。今、この二郷は、地勢が広々として遠く、戸口も豊かに栄えています。また土地の産物には珍しいものが多くあります。それなのにただ郡司に委ねきりで、思うままに搾り取らせています。この地の民は私的な取り立ての過酷さに苦しみ、切に公家への貢納を望んでおります。これはすべて、国司が巡検しがたく、郷長には権勢が乏しいことによるものです。加えて、この地は海中にあって、異国の風俗と境を接しています。唐人・新羅人の来訪者や、本朝の遣唐使なども、みなこの島を経由しています。府の役人や住民が申すには、『去る貞観十一年、新羅人が貢船の絹や真綿などを掠奪しました。その賊も同じくこの島を経由して来ました』とのことです。これから見ますと、この地は当国の要衝であり、しかるべき者を選んで長とし、防禦を慎むべきです。また去年、ある人々が申すには、『唐人たちは必ずまずこの島に立ち寄り、香薬を多く採取して貨物に加えています。この地の人々にその品を見せようとしません。またこの島の海辺には珍しい石が多く、あるものは鍛えて銀を得、あるものは磨いて玉に似せています。唐人はその石を取っても、土地の人々にはそれと知らせません』とのことです。これらの言葉から察するに、適任者に委ねなければ弊害が生ずることは、おおむねこのようなものです。願わくは、この二郷を合わせて、新たに二郡を建てたく存じます。上近・下近と名づけ、あわせて値嘉嶋とし、新たに島司・郡領を置き、土地の産物に応じて貢納させてください。ただしその俸給を定める間は、肥前国の権官を兼任させてください」。これに対し、公卿たちは議して次のように奏上した、「臣らが聞くところでは、『聖人が世を治めるには民の便宜を第一とし、明王が民を治めるには時宜にかなった措置を貴ぶ』と申します。今、行平が願い出た二つの事柄は、運漕の費えを省き、土地に応じた貢納の制を存続させようとするものであり、まことに理にかなっております。臣らが検討しますに、水田を営んで年糧にあてるという案は、旧来のやり方から外れるものですが、時宜にかなった計らいでもありますので、まず二年間試みに許可し、まずその損得を明らかにすべきです。二つの郷を合わせて一つの島とすることは、いやしくも公益にかなうものであり、どうして杓子定規にこだわりましょうか。願い出のとおりにするのがよいと存じます」。これが認められた。元慶年間、治部卿を兼ね、中納言に任じられ、正三位に叙され、民部卿を兼ねるに遷った。(注:『三代実録』による。)上表して辞退し、次のように述べた、「臣行平、謹んで申し上げます。今月九日の詔旨により、臣を民部卿に任じるとのことでございました。恩恵は冬の日のように暖かく、それゆえに薄氷を踏むように懼れております。三度わが身を省みて恥じ入り、この一身の置き所もございません。臣が謹んで思いますに、民の損益、倉庫の盈虚は、国の役人が常に憂うべき事柄であるとともに、担当官庁が明察すべき事柄でもあります。それゆえ、これまでこの職に任じられた者は、みな政務に通じ、広く吏道を実践してきた者ばかりです。人々がみな適任と認め、衆目の見るところに叶う者でなければなりません。臣はたびたび高位を帯びながら、久しく無為に禄をはんでまいりました。たとえ粉骨砕身を期しても、もはや才智を施す術はございません。空しく赤心を捧げるばかりで、ただ老いと病がわが身に迫るのみでございます。上は天の鑑を畏れ、下は民に対して恥じ入っております。伏して願わくは、陛下、聖慮を曲げて臣の官職を罷免してください。取るに足らぬ臣に天の仕事を盗ませることのないよう、また要職を空しく放置された官とすることのないようにしてください」。しかし許されなかった。(注:『三代実録』『菅家文草』による。)仁和の初め、陸奥出羽按察使を兼ねた。まもなく上表して次のように述べた、「臣が聞くところでは、『年齢に達して致仕するのは臣下の定めであり、職を罷免して聞き届けるのは君主の常の規範である』と申します。帰郷を望む常の道理を仰ぎ、身を尽くして進退を弁えるべきであり、足るを知って止まるという定めの理を踏まえれば、あくせくと勤め続けることなどできましょうか。臣は誤って時流に乗り、身に余る顕職に登りました。寵愛の栄誉は生涯において極まり、大きな恩恵の潤いは身分をはるかに超えるものでした。今、臣の齢は七十に達し、位は三位の高きに至っております。薄氷を踏むように歩みは危うく、夜道を行くように迷い、御前に侍しては罪を犯すことを恐れ、絳県の老人のように冷や汗を流しております。臣の性は愚かで、白首郎のような有様と変わりません。臣の鬢はすでに霜雪のごとく白く、功名を遂げた後には身を退く道を行うべきことは、臣もかねてより聞き及んでおります。まさに致仕すべき年齢にあたり、いたずらに官位を占める責めを負うことは、臣の恥じるところです。伏して願わくは、陛下、臣を職の罷免をもって労わり、臣を放免をもって優遇してください。老いた者に終わりを全うさせ、責めをふさぐ所を得させてください。切なる願いに堪えません」。これに対し勅があり、次のように述べられた、「卿の松柏のような堅い節操、珪璋のような徳は、常にその顔色に国を憂う心が表れている。君を愛する心は骨身を惜しまず、しかも進退はつねに道理にかない、始終一貫している。謙虚に古人の義に倣い、しきりに老いの嘆きを表しているが、卿の切なる願いを知りながらも、朕はどうして側近を失ってよかろうか。卿はどうか、退いて栄誉を捨てようとする心を抑え、努めて虚心に職に励んでほしい。よってこの願いを固く断る。魏元陽が官を辞して自邸に退いたことも、後年を期すべきであり、薜広徳が官を辞したことも、今日のこととしてはならない」。行平は再び上表して次のように述べた、「臣行平が申し上げます。勅使左近衛少将藤原朝臣高藤(たかふじ)が参りました。伏して勅旨を承りましたところ、臣の致仕をお聞き届けにならぬとのことでした。臣が身を退くことを願い出ましたのに、綸言は文となって出され、恩恵は露のごとく垂れましたが、この身は毛一本ほども報いる術がございません。高い山を頭上に戴くように、臣が無為に禄をはんできたことは久しいことでございます。みだりに虞舜の御代の官にあることを恥じ、老耄がすでに至っております。空しく王戎の任にあることを忝くし、焦る思いの憤りはすでに満ちております。まさにこの薄い皮のごとき身に累を及ぼそうとしており、臍を噛むような後悔はやみません。願わくは道を避けて衣の襟を正し、いやしくも職を全うできるとしても、さらに名を連ねて何を得ましょうか。まして臣は薪を負うがごとき身をもって質としており、枕に伏して魂をとどめております。常に蒲柳の風に吹かれて枯れゆくさまを嘆き、葵藿が日に向かう思いを盛んにしております。まことに切なる思いは鴻のようで、越を恋う声を表したいと願い、苦しみは鈎公と同じく、ついに漳水に臥す病のごとき身となりました。今、陛下が臣を優遇されるのは、すでに国士としての分をもってのことです。臣が陛下に訴えるのは、どうして凡人の心をもってのことでありましょうか。たとえ進退窮まり方途に迷い、寒暑の調節がままならぬとしても、身を捧げて退くことを忘れず、なお力量をはかって行うことを甘んじて受け入れます。臣の思いは言葉に表れ、涙は汗とともに流れます。天子の厳かな御鑑に照らし、罷免をお許しいただきたく存じます」。これに対し詔があり、なお許されなかった。行平はさらに上表して次のように述べた、「臣は重ねて上表し、繰り返し祈り願っております。愚かな真心はなかなか届かず、聖なる御耳もまだお開きになりません。ちょうど宣旨を承りましたところ、育みお導きくださる御仁徳には感じ入りましたが、あえて腹心を申し述べ、御命令の御慈悲を得たく存じます。臣はこの身を薬剤の中にとどめ、生命を桑楡の際に託しております。老いがここに至ったことは、ああ、これも天命でございましょう。まして地位と名望はすでに極まり、栄達の分にも限りがあり、齢もすでに満ち、危うく浅くなった命は長くは続きません。陛下が日々の食事も夜の眠りも労苦をいとわれる中、微臣はその参内の礼にすら堪えられません。微臣が官位を無為に占めている資質を顧みられれば、陛下は必ずや哀れみをお示しくださるでしょう。臣の切なる真心は、どうして舌を巻いて黙っていられましょうか。臣の恩に報いんとする思いは、この身が朽ち果てるまで恩に酬いようとするものです。伏して願わくは、陛下、臣の赤心をお知りになり、臣の真心をお察しになり、ある朝、冠の玉飾りを外され、匹夫のかねてよりの志を奪わないでください」。詔によりこれが許された。(注:『三代実録』による。)寛平五年、薨去した。享年七十六。(注:『公卿補任』による。)かつて左京三条に奨学院を創設するよう奏上した。(注:『西宮記』『拾芥抄』による。)子の遠瞻(とおみ)は右近衛将監となった。(注:『三代実録』による。)友于(ともゆき)は参議大宰権帥となった。(注:『公卿補任』による。)
藤原山陰
¶藤原山陰(ふじわらのやまかげ)は、左大臣魚名(うおな)の玄孫である。(注:『尊卑分脈』による。)父の高房(たかふさ)は越前守であった。山陰は、斉衡・天安年間に左馬大允、右近衛権将監を歴任し、蔵人に補され、従五位下を授けられ、備後権介となった。(注:『公卿補任』による。)貞観年間、右近衛権少将に遷り、(注:『三代実録』による。)再び蔵人に補され、(注:『公卿補任』による。)美濃守を兼ねた。まもなく従四位下に叙され、(注:『三代実録』による。)蔵人頭に抜擢され、(注:『公卿補任』による。)右近衛権中将を兼ねた。陽成帝(ようぜいてい)が即位すると、太上皇に奉仕した。上表して本官の位階を賜り中将を辞することを願い出たが、許されなかった。元慶元年、上表して次のように述べた、「姑山の麓は、もとより多くの人材が集う場所ではなく、宮城の前こそが、本来数々の人材の集まる所です。それゆえ帝の御門を辞して、仙境に奉仕することを願い出ます。しかし人の願いはまことに切実であっても、天のお許しはまだ明らかになりません。伏して願わくは、天恩をもって特別のお計らいをいただき、臣の宮中における近衛中将の職を止め、臣が外国での四年の任期を全うさせてください。そうすれば、上には功績を全うさせる御慈悲があり、下には恩を忘れるという咎めもなくなりましょう」。詔によりこれが許された。右大弁となったが、上表して辞退し、許されなかった。元慶三年、また職を辞することを願い出たが、許されなかった。まもなく参議を拝命し、諸国の班田を検校することとなった。山陰は摂津国を管轄し、遠く在京のままその事務を統べた。仁和二年、従三位に叙され、中納言に任じられ、民部卿を兼ねた。(注:『三代実録』による。)仁和四年、薨去した。享年六十五。(注:『公卿補任』『一代要記』による。)山陰は吉田に祠を建て、春日明神を祀り、今日に至るまで崇敬が受け継がれている。(注:『大鏡』による。)世に、山陰が魚や鳥をさばく際、当時の人々はその包丁の技を称賛したと伝えられている。(注:『藤原系図』による。) 子の有頼(ありより)は従五位下、但馬守となった。公利(きんとし)は従四位下、但馬権守となった。遂長(なりなが)は従五位下、主殿頭となった。言行(ときゆき)は正五位下、左近衛将監となった。兼三(かねみつ)は従四位下、陸奥守となった。仲正(なかまさ)は従四位上、左京大夫、摂津守となった。僧の如無(にょむ)は大僧都となり、(注:『尊卑分脈』による。)戒律を守ること精進厳しく、聡明さは人並み外れ、宇多法皇はこれを大変重んじた。(注:『源平盛衰記』による。ただし『十訓抄』には、山陰が筑紫に赴いた際、漁師が亀を捕らえて殺そうとしているのを見て、これを憐れんで買い取って放してやったとある。その後、山陰は嬰児を連れて船で海を渡ったが、妻はその子が自分の子でないことを憎み、乳母と謀って、誤って手を滑らせたと見せかけてこれを海に落とした。しばらくして、一匹の大亀がその子を背負って浮かび上がり、死なずにすんだ。この子こそ、すなわち如無である。『盛衰記』にもこの話が載っているが、生みの母がかつて亀を放したこととする点で、これとはやや異なっている。)如無の子の在衡(ありひら)には、別に伝がある。