卷之一百三十 列傳第五十七

藤原保則、小野春風

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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藤原保則

藤原保則(ふじわらのやすのり)は、右大臣藤原継縄(つぐただ)の曾孫である(注:『尊卑分脈』による)。父の貞雄(さだお)は左兵衛佐であった。保則は齊衡年間に、治部省・民部省の大丞・少丞を歴任した。貞観の初め、兵部大丞に転じ、式部少丞に遷った(注:『公卿補任』による)。貞観八年、従五位下に叙せられ、備中権介となった(注:『三代実録』による)。これより先、備中では日照りと飢饉が続き、行き倒れの死者が道に相次ぎ、盗賊の群れが白昼堂々と横行し、村里は荒れ果てていた。特に英賀(あが)・哲多(てった)の二郡は山谷の間にあって国府から遠く、郡民は互いに略奪し殺し合うか、租税を逃れて逃散するかで、領内は荒れ果てた丘や墟(あれち)ばかりとなり、成人男子は一人も残っていなかった。前任の国守・朝野貞吉(あさののさだよし)の統治は苛酷で、郡司にわずかな罪があれば皆首かせや足かせをはめ、人民がほんの些細な過ちを犯しただけでも捕らえて取り調べ、処刑した。そのため獄には囚人が満ち、道には死体が転がっていた。保則は着任するとまず寛大な政治を施し、小さな過ちは許して大局を重んじた。囚われていた者たちを解き放って安んじ、困窮者には施しを与えた。また農業や養蚕を奨励し、遊興による浪費を禁じた。こうして百姓は子を背負って我が家に帰るように移り住んで来て、田畑はことごとく開墾され、戸口は増え栄え、夜も門を閉ざす必要がないほど治安が回復し、租税収入は倍増した。ついに租税の完納を示す返抄(注:納入完了の受取証)を三十四年分、調庸の返抄を十一年分受け取るに至った。これほどのことは古来例がなかった。貞観十三年、その功労により従五位上に叙せられ(注:三善清行が著した『保則伝』による)、備中守に任じられた(注:『公卿補任』による。ただし『保則伝』はこの後すぐ備前守に遷ったとするが、下文に「保則は備前でも備中と同様の治績を挙げた」とあることから、『公卿補任』の記述が正しいと考え、これに従う)。貞観十六年、備前権守に転じたが、その治績は備中在任中と同様であった。配下の役人に不正を働く者がいても、保則はこれを暴き立てて処罰することはせず、ひそかにこう諭した。「君は長らく学問と官途に苦労を重ね、ようやくこの官職を得た。必ずや清廉の志を立て、栄誉を得るよう努めるべきである。どうして一国の小役人のまま終わってよいものか。とはいえ、上は父母を養い、下は妻子を養わねばならぬとなれば、心ならずも本性を曲げてこうした汚れた金に手を出すこともあろう。それはみな貧しさゆえの憂いが、善人の身をも縛り付けてしまうのだ。私にはわずかながら俸禄がある。君の入用に応じてこれを助けよう。だからくれぐれも公の財物には手を出さぬように。」そう言って自分の俸禄を分け与えた。こうして良い風化が広く行き渡り、役人も民も保則を畏れ敬いつつ慕い、「父母のような備前・備中の守」と称えた。また、備前・備中の境には吉備津彦(きびつひこ)神がまつられており、国に水害や旱魃があれば保則は自らそこへ赴いて祈願し、必ず霊験があった。もし国内に不正を働く者があれば、神は必ずこれを罰した。神はかつて姿を現してこう告げたという。「そなたの徳による教化に感じ入った。そなたの善政を助け、この善き治績を全うさせたい。」こうして両国の統治は行き届き、毎年豊作が続いて、百姓は和やかに楽しく暮らした。ある時、安芸(あき)の盗賊が険しい地形を頼りに備後の調絹を奪って逃げ、備前の石梨(いわなし)郡を通りかかった際、宿の主人に「この国の太守はどのような治績の人か」と尋ねた。主人は「国守様は仁義をもってのみ民を教化なさる。国じゅうの人が皆廉潔になった。その恩信の徳は神明にまで通じている。だから国内に不正を働く者があれば、吉備津彦神がたちまち降って誅罰なさるのだ」と答え、その治化の詳細を語って聞かせた。盗賊は顔色を大きく変え、一晩中嘆息して眠れず、夜明けに国府の門へ駆けつけ、額を地につけて自首した。「私は不徳の者で、備後の官絹四十匹を略奪しました。過ちを改めて罪に服しますので、どうか命だけはお助けください。」保則は盗賊を呼んでこう言った。「お前は善に向かうことを知った。結局のところ悪人ではないのだ。」そして米や食糧を与え、奪った絹を封印して盗賊に持たせ、備後へ送り届けさせた。配下の者は皆「悪党のことです、備後まできちんと届けるとは思えません」と言ったが、保則は「あの者はすでに心を改め、誠実に立ち返ったのだ。今さらどうして変心などしようか」と答えた。盗賊は移送の文書を受け取り、そのまま備後へ絹を届けた。備後守の小野(おのの)某はいぶかりつつも喜び、盗賊をそのまま放免し、自ら備前まで赴いて保則に礼を述べた。保則が徳をもって人を感化させたことは、皆このような例ばかりであった。貞観十七年、任期が満ちて帰京することになった。備前・備中両国の民は悲しみ泣いて道をふさぎ、白髪の老人たちはそれぞれ酒や肴を捧げ持ち、道端にひれ伏した。保則は「老人たちの気持ちを無下にはできない」と言って、そのために数日間逗留した。それでも人々は次々と競うように集まってきて、とても止めることができなかった。保則はやむなくひそかに小舟に乗って出立した。まだ追いついていない従者がいたため、しばらく和気(わけ)郡の方上津(かたがみのつ)に船を泊めた。備前の郡司たちは、保則の一行に食糧の蓄えがないと聞き、白米二百石を船で運んで停泊地まで届けた。保則はその心遣いに感じ入り、辞退せずに受け取った。郡司たちは、あまりに清廉な保則のことだからきっと受け取らないだろうと思っていたので、受け取ったと聞いて大いに喜んだ。しばらくして、保則は国の講師・読師に手紙を送ってこう伝えた。「船の中でしきりに怪異が起こり、風浪の様子も測りがたい。どうか僧たちを率いて津(みなと)まで来ていただき、海路の無事を祈っていただきたい。」講師・読師は国分寺の僧たちを率いてやって来た。保則は「僧たちにはそれぞれ般若心経を一巻ずつ唱えていただければ十分です」と言い、届けられた米をすべて彼らに与えた。そして夜中に帆を上げて出立した。貞観十八年、右衛門権佐に任じられ、検非違使を兼ねた。保則は親しい者にこう語った。「昔、堯帝の治める民は、家ごとに褒め称えられるほど善良であったという。当時、皋陶(こうよう)は大賢者として獄官を務めた。もし罪の疑わしい者があれば、獬豸(かいち)という霊獣に判断させたというが、それならばどうして冤罪などありえようか。」(注:『保則伝』による。ただし本書はこの後の記述が欠けており、考証のしようがない。)まもなく民部大輔となり、翌年、右中弁に転じた(注:『公卿補任』による)。元慶二年、出羽の蝦夷(えみし)が反乱を起こし、秋田城を焼いた。出羽守の藤原興世(おきよ)は、戦ってもたびたび不利であった(注:『三代実録』による)。右大臣藤原基経(もとつね)はひそかに保則を召し、招討の任を命じた。保則は「あえて我が身惜しさに申すのではありません。朝廷に恥をかかせることになりはしないかと恐れているのです」と言って辞退した。基経は言った。「天智天皇の御代より、藤原氏は代々勲功を積み重ね、朝廷が頼みとしてきた家柄である。今、私自身は伊尹(いいん)や周公のような大器ではないが、かたじけなくも摂政家の宰相を務めている。この賊の乱に遭い、内には恥じ、外には恐れを抱いている。姻戚の誼(よしみ)は君もよくわかっているはずだ。どうか知恵を尽くしてくれ、うわべだけの辞退はしないでほしい。」保則は言った。「どうしてもやむを得ず、私の愚かな計略をお用いになるというのであれば、腹を割ってすべてを申し上げましょう、何も隠すことなく。ただ殿下がそれをお用いにならないのではないかと恐れるのみです。」そこで基経は誠意をもって計略を尋ねた。保則は言った。「蝦夷が朝廷に帰服してからおよそ二百年、朝廷の威光を畏れ従い、反逆することはありませんでした。聞くところによれば、秋田城司の良岑(よしみね)某が近年際限なく収奪を重ね、あれこれと徴発を行ったため、蝦夷の怨みと怒りが積もり重なって、反乱に至ったのです。蝦夷の諸種族は数多く、ついに互いに連合しました。賊の軍勢は数万に及び、窮した者たちが決死の覚悟で戦えば、一人で百人に当たる勢いとなり、正面から矛を交えるのは困難です。今の情勢では、たとえ坂上田村麻呂将軍が再び生まれ出たとしても、平定はできないでしょう。もし正しい道理を説き、威信を示し、我が徳の教えを広めて彼らの野心を変えさせれば、一寸の武器も用いずとも、この大乱はおのずと平定されましょう。」基経は「よろしい」と答えた。保則はさらに言った。「今、恩信をもって彼らを教化するとはいえ、逆賊の類は数多くおります。それでもなお従わぬ者があれば、武威をもってこれに臨むほかありません。前左近衛将監の小野春風(おののはるかぜ)は、代々の武将の家柄で、勇猛さは人並み外れております。先年しきりに讒言中傷を受け、官を免ぜられて家に籠っております。願わくは、まず春風に精鋭の兵を率いさせて朝廷の威信を示し、その後に徳をもって招き寄せるのがよいでしょう。数か月とかからず、賊はおのずと霧散するはずです。」基経は大いに喜び、保則を正五位下に加叙した。そして右中弁のまま出羽権守を兼ねさせ、春風を抜擢して鎮守将軍とした。陸奥介の坂上好蔭(さかのうえのよしかげ)も含め、皆保則の指揮下に置かれた(注:『保則伝』による)。左衛門権少尉の清原令望(きよはらのよしもち)を出羽権掾に、右近衛将曹の茨田貞額(まんだのさだぬか)を出羽権大目とし、いずれも本官を帯びたまま反乱蝦夷討伐に当たらせた。そして出羽国司に勅を下して「近ごろ蝦夷どもの凶逆により、殺傷が止まない。よって保則をかの国の権守に任じるので、その指揮に従い、警備を怠らぬように」と命じた(注:『三代実録』による)。保則は詔を奉じて出発し、昼夜兼行で進んだ。道中、次々と早馬の急使に出会い、蝦夷の勢いが盛んで官軍がたびたび窺い見られる状況にあること、城砦が守りきれず部隊が陥落した様子を報告されたが、随行の騎馬武者十数人は皆、魂を奪われたように顔色を失った。しかし保則は表情を変えず、恐れる様子は少しも見せなかった(注:『保則伝』による)。やがて出羽に到着すると、権掾の文室有房(ふんやのありふさ)、清原令望、上野(こうずけ)押領使権大掾の南淵秋郷(みなぶちのあきさと)らを遣わし、上野から到着した兵六百余人を率いて秋田川の南に駐屯させ、川の北で賊を防がせた。当時、秋田・城下・上津(かみつの)・野火内(ぬひない)・楷淵(かいふち)など十二の村は賊に占拠されていた。添河(そえがわ)・霸別(はわけ)・助川(すけがわ)の三村は、帰順した蝦夷の俘囚(ふしゅう)が住む土地であった。そこでこの三村の俘囚と良民合わせて三百余人に命じ、添河で賊を防がせた。賊は次に雄勝(おがち)を攻め、その後国府に侵攻しようとしていた。雄勝城は諸方に通じる街道の要衝にあり、最も重要な要害であった。そこで左馬権大允の藤原滋実(しげざね)と茨田貞額らを遣わし、雄勝・平鹿(ひらか)・山本三郡の備蓄穀物(不動穀)を、郡内および添河・霸別・助川三村の俘囚に支給して、その心を慰め励ました。俘囚の深江禰加止(ふかえのねかと)、玉作正月麻呂(たまつくりのむつきまろ)らはこの恩恵に感じ入り、三村の俘囚二百余人を誘って夜襲をかけ、賊八十人を討ち取り、その食糧と住居を焼き払った。辺境の民の間では「津軽の蝦夷は出羽の賊と共謀している」という声があったが、「そうではない」という声もあった。保則は考えた。「もし共謀していないのなら、上野の軍だけでこれを討滅できる。もし共謀しているのなら、たとえ大軍で臨んでも容易には制圧できまい。上野・下野・陸奥三国の軍勢は合わせて四千人だが、陸奥軍はすでに逃げ帰ってしまい、上野軍もようやく六百人が到着したのみである。下野軍は国境に入ったとはいえ、その強弱はまだわからない。津軽の蝦夷俘囚は、その一党に多くの種族があり、幾千人になるか知れない。生来勇猛で戦いに慣れている。もし急いで賊に立ち向かえば、その鋭鋒に当たることになりかねない。」そこで常陸・武蔵両国の軍合わせて二千人の派遣を朝廷に奏請し、不測の事態に備えた。朝議の結果、勅符が下された。「夷狄をもって夷狄を攻めるのは、我が国にとって得策である。今、そなたの奏上を見るに、『雄勝郡の俘囚に官米穀を支給し、賊徒を大いに打ち破った』とあるが、これは上策である。また奏上には『津軽の蝦夷は生まれつき荒々しく、急いで凶徒に立ち向かえば実に制圧が難しい。国境付近では噂が入り乱れ、南北で言うことが異なる。共謀しているとも、まだしていないとも言われる。常陸・武蔵の兵を発して不測の事態に備えたい』ともある。奏上の通り、共謀の有無はまだ明らかでない。もし本当に共謀していないのであれば、今率いている兵で撃破できよう。加えて小野朝臣春風、坂上大宿禰好蔭らはそれぞれ精鋭の兵を率いている。彼らの到着を待って、その威武を振るうがよい。ただし諸国にあらかじめ勅を下し、勇敢な兵士を選んでおくように。もし危急の事態があれば、早馬で奏上せよ。それに応じて直ちに兵を差し向けて救援に赴いても遅くはない。奇策を尽くして、彼らの猛る心を打ち破ることに努めよ。」八月、また勅が下された。「重ねてそなたの奏上を検討したところ、経緯が詳しく記されていた。奇策と正攻法を併せ用いるのは、兵法家が重んじるところである。今、俘囚を募って賊の多くを殲滅したという。これは蝦夷の民が義を慕う心の切実さによるものであるが、それ以上に国司の統治の巧みさによるものでもある。機に臨んでの策略とは、まことにこのようであるべきだ。能仁(のうにん)・法天(ほうてん)らの忠誠がしばしば示されたことを聞き、これを嘉(よみ)する(注:能仁・法天は帰順した蝦夷俘囚の名と思われるが、その事跡は考証しがたい)。よく功績を成し遂げたのは、まことに喜ばしいことではないか。また春風・好蔭らは陸奥路を取って上津野村に入り、両国の兵と共に首尾を挟み撃ちにせよ。今の奏上の通りであれば、すでに要点は押さえている。兵法にはさまざまあるが、勝利を制することが第一である。臨機応変に賊を捕らえ、その巣窟を徹底的に追い詰め、逃げ延びさせてはならない。」そして綵帛(彩色の絹)百疋を出羽に送り、俘囚に分け与えさせた。また越中・越後両国にそれぞれ米千石を送らせ、軍糧に充てさせた。九月、また勅が下された。「春風らを遣わして精兵を発したのは、かの国の急務に赴かせるためであった。しかし今の奏上には『賊の勢いはすでに衰え、官軍は故郷を思うようになった。その上、迎えの軍勢や兵糧の輸送は、その煩わしさが少なくない』とある。これによって論じれば、春風らを進めるか退かせるかは、かの国の強弱次第である。情勢を見極めて策を施すべきであり、遠方から推し量ることはできない。もし当国の力だけで賊を制圧できるのであれば、その旨を伝えて春風らを帰らせればよく、無理に迎え入れる必要はない。また津軽・渡嶋(わたりのしま)の俘囚らが願い出ている、夷をもって夷を撃つという策は、古来の上策である。ただし野生の心は馴らしがたく、動静が変わりやすい。たまたま他の意図が生じれば、後になって制しがたくなる恐れがある。よく事の勢いを量って、進退を臨機応変に決めよ。蝦夷の俘囚を饗応することについては、急務ではない。賊徒を殲滅し尽くした後で慰労してもよい。今、城はことごとく焼け落ち、人々を集める場所もない。ただ功績のあった者を選び出して褒賞を加えれば、それで兵士たちを励ますには十分である。どうして大がかりな饗応を行い、さらに騒ぎを起こす必要があろうか。また、賊を殺し捕虜を得たことは、賊を打ち破りつつあることをよく示している。いっそう努め励んで、速やかに大功を成し遂げるように。国からの報告がしきりに奏上され、早馬の使者も頻繁に行き来している。賊を平定する策を施すことに努め、いたずらに歳月を延ばすことのないように。」これより先、賊三百余人が秋田城下にやって来て、保則の配下の者に面会を求め、降伏を願い出た。文室有房と藤原滋実は単騎でじかに賊の陣まで赴き、その降伏を受け入れた。この日、権介の坂上好蔭は兵二千人を率いて流霞道(るかどう)から秋田営に至り、太鼓を打ち鳴らしながら進軍し、盛んに旗指物を立て、その威武を大いに示した。やがて鎮守将軍の小野春風が兵四百七十人を率いて秋田営の北に至り、「春風は詔を奉じ、すでに上津野に先に入って賊の一党を教え諭し、皆を降伏させた」と宣言した。こうして賊の首領七人が相従ってやって来た。保則はその形勢を推し量り、賊に降伏の意思があることを見て取った。しかし朝廷に帰順していた俘囚たちは互いに言い合った。「国家に帰順すれば、それは賊の怨みを買うことになる。もし賊を殲滅しなければ、後に必ず仕返しされるだろう。仇となる家筋は数多くあり、恐れずにいられようか。それに、この降伏の願い出方は形式が粗略で、これまでの前例に合わない。」保則はこれを奏上して裁断を仰いだ。十月、勅が下された。「そもそも兵は不吉で戦いは危険なものだと、昔の賢人たちは明らかに戒めている。やむを得ない事情があってはじめて用いるべきものだ。今、逆賊が過ちを悔い、帰順を願い出ているという。これを許すことに、何のはばかりがあろうか。ただし昔からの降伏の作法では、武器を捨て、両手を後ろに縛って命令を待ち、その上ではじめて生死を裁くことができる。そうしてようやく降伏と呼べるのだ。帰順の作法が旧来の慣例に従っているのであれば、速やかに受け入れるがよい。もし二心を抱き、言葉と実態が食い違うのであれば、我が武威を奮い立たせ、一挙に誅滅せよ。帰順した俘囚たちの言葉についても、よくよく吟味しなければならない。徳を示すことと武威を輝かせることを、状況に応じて使い分けるがよいが、くれぐれも彼らの偽りを信じて、後世の物笑いの種とならぬように。」十二月、降伏した賊が奪っていた甲冑二十二領を差し出した。彼らは「これらはすべて身丈に合わせて切り詰めて仕立て直したもので、完全な形のものは一つもありません。その上、賊の仲間には奥地に入った者や住まいが遠く隔たった者もおり、残っている甲冑については、なお捜し出して追って差し出します」と言った。そこで清原令望、藤原滋実、茨田貞額らは協議した。「今、投降してきた賊は二百人であるのに、差し出された甲冑は二十余りに過ぎない。賊の数に比べて甲冑が少なく、野生の心は測りがたい。これは見せかけの偽りではないかと疑われるので、その後の追加提出を待ってから受け入れを決めるべきだ。」小野春風はこう意見を述べた。「私は自ら賊地に入り、逆賊たちが過ちを悔いる心を詳しく知っている。今また霜雪をおかしてまで、懇切に降伏を願い出ている。それでもなお疑いを抱いて抑え付け、受け入れないというのでは、安楽な道を捨ててわざわざ苦労を選ぶようなもので、事をうまく成し遂げるゆえんではない。」保則は「令望の意見にも道理はあるが、春風の考えにも臨機の見識がないわけではない」と考え、結局は慰撫して受け入れることとし、その旨を奏上した。あわせて、渡島(わたりのしま)の蝦夷の首長百三人が一党三千人を率いて秋田城に参上し、賊に加担していなかった津軽の俘囚百余人とともに、朝廷の教化に帰順したことも奏上し、「もし慰労の褒賞を与えなければ、怨恨を生じるのではないかと懸念します」と述べた。こうして権介の藤原統行(むねゆき)、権掾の文室有房、および令望・滋実・貞額らを遣わし、彼らを慰労し饗応させた(注:『三代実録』による)。そもそも春風は秋田営に到着すると、身一つで賊の陣に入り込み、朝廷の命令を詳しく伝え、保則の意図の通りに事を運んだ。そこで蝦夷たちは額を地につけて拝謝し、こう言った。「かつての秋田城司は貪欲で荒々しく、その欲は谷や谷底のように満たすことができないほどでした。少しでも彼らの要求に従わなければ、たちまち厳しい刑罰を加えられました。ですからその苛酷な政治に耐えかね、ついに反乱を起こしたのです。今、将軍が幸いにも天子の恩命をもってお諭しくださったからには、どうか迷いの道を改め、幕府に帰順したいと存じます。」そして競うように酒食をもって官軍をもてなした。有力な首長たち数十人が相連なって春風に従い、出羽国府まで来た。保則は彼らを召し出して面会し、慰撫した。その時、二人の首領がいて、なお帰順を承知しなかった。保則は諸首長に「あの二人が来ないのは、お前たちはどう思うか」と尋ねると、皆は「あの二人には特に企みがあるのでしょう。どうかしばらくご猶予いただければ、数日のうちに二人の首を斬って献上いたします」と答えた。保則はすぐに使者を出して残りの部族を慰撫し受け入れ、津軽から渡島に至るまで、これまでの時代に一度も帰順したことのなかった様々な蝦夷の種族が、ことごとく朝廷に帰属した。保則はまた秋田城を再建し、塁・柵・楼・塹はいずれも旧制の倍の規模とした(注:『保則伝』による)。元慶三年、権守から正式な守に改められ(注:『保則伝』『公卿補任』による)、右中弁はそのままであった(注:『保則伝』による)。三月、早馬で奏上した。「戦の弊害は一通りではありません。かつて延暦年間に下された当道の陣立て図を調べますと、一万三千六百人を一軍とし、これを三軍に分け、輜重(補給部隊)八百人、担ぎ夫二千人としています。ところが今、上野・下野両国の軍は千六百人、輜重・担ぎ夫は二千余人おります。好蔭が率いる兵は五百人、輜重・担ぎ夫は千余人です。これらを踏まえて申し上げますと、旧来の規定に反する点が多くございます。中国路(常陸・武蔵など)の軍は去年七月に到着し、陸奥の兵は九月に入って来ました。集結の時期がまちまちで、部隊の統制に支障をきたしております。あるいは陣を張る際に整列させにくく、あるいは太鼓の合図を聞いても迷いやすい有様です。これはみな、戦を忘れて久しく、実戦の訓練が積まれていないためにこうなるのです。国内の民は長年の苛酷な政治に苦しみ、三分の一が奥地へ逃げ込んでしまいました。残された民も、数年にわたる弊害を受け継いで、生き延びる術もない有様です。まして戦が始まって以来、軍糧の輸送は去年から今年の二年間、少しの間も休むことがありません。役に立たない兵卒が国内を騒がせ、救援を待つべき所で、かえって大きな害をもたらしております。管内の最上郡は道が険しく絶え、大河の流れも急です。中国路の軍は必ずここを通らねばなりません。その出迎え・見送りの煩わしさは、とても計り知れません。今また大軍の増派を求めて、降伏した蝦夷を討とうとすれば、国は疲弊し民は困窮して、とても耐えきれないでしょう。もし国内の困窮した兵卒を慰撫し、奥地に逃れた民を捜し出して連れ戻し、中国路の甲冑をこの地に留め置いて、地元の兵を選び用いるのであれば、たとえ降伏した蝦夷が再び反したとしても、さして恐れるには足りません。この変乱をきっかけに誅殺を徹底しなければ、鎮撫の策を誤る恐れがあります。かといって辺境の困難が絶えぬまま、さらに大軍を発して残らず撲滅しようとするのも、国家の長期的な方策、天下の上策とは言えません。臣らはあえて独断で決めることはできず、心に疑いを抱いております。進むべきか退くべきか、謹んで朝廷のご裁断をお待ち申し上げます。」これに対し詔が下された。「上野・下野両国の、軍にある甲冑や武具は、出羽に留め置くように。」六月、また早馬で奏上した。「私、保則らの行っていることは思うようにいかず、兵の威勢はいまだ振るいません。ちょうど恩詔が下り、『しばらく征討を緩め、賊たちを生かして、平民をもとの生業に戻すように』とのことでした。ただ、私どもが思いますに、蝦夷という者の性質は強弱を測りがたく、朝には侮りやすい賊であったものが、夕べには重い誅戮を甘んじて受けるべき者に変わることもあります。たとえ降伏を願い出た後であっても、もし少しでも変事があれば、私どもは国のことばかりを考えて、かえって罪科に陥ることを恐れます。伏してお願い申し上げますに、あらためて朝廷の使者を賜り、事の次第をご検分いただきたく存じます。」(注:『三代実録』による。)出羽国は民と蝦夷が雑居し、田地は肥沃で珍しい産物も多く産する。有力な役人はこれに乗じて土地を兼併し、私的に租税を融通し、勝手気ままに重い賦課を課していた。権門の子弟たちは長年にわたり鷹や馬を求め続け、際限がなかった。辺境の民は素朴で、ただその求めに応じるばかりで、どこに訴えればよいかもわからなかった。こうして一般の民は貧窮する一方、悪知恵の働く者はしばしば富み栄えた。保則は法をきびしく張り巡らし、不法を働く者があれば捕らえて取り調べた。おかげで百姓は安堵し、辺境の地は清らかに治まった。当時、陸奥の蝦夷に訴訟があれば、皆出羽まで来て裁定を仰いだ。もともと保則は備前・備中在任中はもっぱら仁愛と恩恵をもって民を教化したが、出羽を治めるに及んでは、厳格な法理をもって統治した。役人であれ民であれ罪を犯せば、もはや容赦することはなかった。元慶四年四月、召されて入京すると、朝廷の卿相たちは皆その勲功をたたえた。保則は謙遜してこう述べた。「これはすべて朝廷の威光がもたらしたものであり、私の愚かな計略が功を奏したわけではありません。」この時、世間では皆、保則は兵卒一人も労することなく大乱を平定したのだから、朝廷は必ずやその特別な勲功に恩賞を与えるはずだと考えていた。しかし保則が固辞したため、結局手厚い恩賞の措置は取られなかった。また良岑近(よしみねのちかし)の貪欲がこの乱を招いたにもかかわらず、彼を懲らしめる処罰もなされなかった。このため世論は、基経が賞罰を誤ったと非難する声が多かった。保則は生来物静かなことを好み、多忙な激務を好まなかったため、たびたび基経に申し出て、弁官の職を固く辞退した。元慶五年、播磨守に任じられたが(注:本書では四年のこととするが、ここでは『公卿補任』に従う。また『公卿補任』によれば播磨権守を兼ねたとある)、辞退して赴任しなかった。元慶六年、従四位下に進んだ。保則は「年もすでに老いた。今こそ功徳を積んで死後の糧とすべきである。聞くところによれば讃岐は紙が多く産し、また能書家もいるという。かの国に赴いて経典や阿毘曇(あびどん、注:仏教の論書)などを書写しよう」と考え、讃岐守に任じてほしいと願い出た(注:『公卿補任』によれば讃岐権守を兼ねたとある)。讃岐の国民は皆法律を学んでおり、何かにつけて訴訟を起こしがちであった。保則が入国してからは、人々は皆廉恥を知るようになり、風俗が大いに改まった。秋に任期を終えて帰京すると、西山の別荘に住み、もはや再び出仕しようという志はなかった。仁和三年、伊予守に任じられたが、辞退して赴任しなかった。太宰大弐に任じられ、従四位上に進んだ。保則はしきりに病と称して就任を承知しなかったが、朝廷はたびたび慰撫し諭して、無理やり赴任させた。保則は大宰府にあって、清らかで静かな政治を旨とし、役人も民もその徳に感服して、命令はよく行われ、禁令はよく守られた。これより先、悪知恵の働く者たちが鎮西(九州)にみだりに集まり、筑前・筑後・肥前の三国は、とりわけ盗賊集団の巣窟となっていた。蓄えのある者は皆殺され略奪された。村里は騒然とし、道路も往来が絶えるほどであった。大宰府の役人や国司は兵を発して捕らえ処刑したが、それでも取り締まることができなかった。保則が大宰府に着任すると、皆は「多くの兵士を発して、ことごとく誅殺すべきです」と言った。保則はこう答えた。「聞くところでは、これらの首領たちは戸籍に登録された民ではなく、良家の子弟であったり、もとは役人の従者であったりする者たちで、衣食の利を求め、婚姻の便を求めて辺境の城に寓居し、あたかも故郷のようにしているという。しかし近年不作が続き、生業も立ち行かなくなった。そこへ無頼の輩が加わり、悪事を共にするようになった。国の民もこれに加わり、大半が盗賊となってしまったのだ。今もしことごとく捕らえて殺せば、村里の中には人っ子一人いなくなってしまう。たとえ辺境を心配する警備があったとしても、いったい誰が城を守るというのか。この者たちも必ずしも凶悪でずる賢い心を抱いているわけではなく、多くは飢えと寒さに追い詰められてそうなっているだけなのだ。もし恩恵を施せば、おのずと改心して善に立ち返るであろう。」そして自らの俸禄の米を三国の賑恤に充て、深く慰撫を加えた。賊たちは大いに喜び、互いに語り合った。「大宰府の長官が父母のような情けをもって我らを遇してくださる。我らもどうして孝子の志を尽くさずにいられようか。」そして相連なって行いを改めた。寛平三年、召されて左大弁となった(注:『保則伝』による。本書ではこの後に、保則が召されて入京した後、数か月も経たないうちに大宰府から奏上された文が続くが、文字が欠損しており考証しがたいため、ここでは採らない)。まもなく参議に任じられ、近江権守を兼ね、さらに民部卿を兼ねる職に遷った。寛平七年に薨去した。享年七十一(注:『公卿補任』による)。

保則は生まれつき廉潔な人柄で、自らの行いによって人を感化した。配下に貪欲で不正な者があれば、誠意をもって教え諭した。それでも最後まで改めない者とは、口をきくことすらしなかった。一方、その者に一つでも善行があれば、喜びを顔に表した。常に人の善行を褒め称えて推挙し、その美点が伸びるよう助けた。また人物を見抜く眼識も備えていた。かつて備中在任中、小野葛絃(おののくずお)がまだ若くして掾を務めていたが、保則は「この者は必ず天下に名だたる善良な役人になるだろう」と称賛した。また讃岐在任中には、菅原道真(すがわらのみちざね)が代わって国守となった。保則はひそかにこう語った。「新しい太守は当代随一の大学者であり、その本領は私などには測り知れない。ただその志を見るに、恐らく身を明哲に保つ人物ではあるまい。」後にすべてその言葉の通りになった。五十歳にもならぬうちから婦人を近づけず、仏教に心を潜め、とりわけ空観の教理に通じていた。常に金剛般若経を誦し、怠ることがなかった。諸家の注釈書を撰集して一部にまとめ、その義を究め尽くして、通暁しないところがなかった。まだ病を得ていないうちから、突然人にこう語った。「死期の兆しがすでに現れている。どうしてこのまま俗世の煩わしさの中で一生を終えられようか。」そして比叡山の東坂に一室を営み、髪を剃って僧となり、昼夜念仏の名号を唱え、数か月にして世を去った(注:『保則伝』による)。  子の清貫(きよつら)は、昌泰・延喜年間に要職を歴任し、正三位大納言、皇太子傅を兼ねるに至った(注:『公卿補任』による)。延長八年、清涼殿にて落雷に打たれて死去した。享年六十四(注:『公卿補任』『扶桑略記』による)。

小野春風

小野春風(おののはるかぜ)は、従五位上小野石雄(いわお)の子である(注:『三代実録』による)。代々の武将の家柄で、勇猛さは人並み外れていた(注:『保則伝』による)。貞観十二年、従五位下に叙せられ、対馬守に補任された。二つの事柄を奏請した。一つには、「軍備の備えは、ひとえに鎧兜にある。鎧兜だけでは薄手であるので、これを補う保侶(ほろ、注:防具の一種)を用いたい。調布を用いて保侶衣千領を仕立て、不測の事態に備えたい」というものであった。二つには、「軍事が不測の事態で起これば、通常の倍の速さで進軍せねばならない。その際、兵糧の輸送は途絶えやすく、輜重の補給も難しくなる。調布を用いて干し飯を入れる帯袋千枚を仕立て、兵卒にこれを持たせ、緊急時の用に備えたい」というものであった。勅によりこれを許可し、太宰府の倉庫の布を用いて製作させることとした。この月、肥前権介に遷った。春風の兄・春枝(はるえだ)は陸奥権守であった。春風は奏上して言った。「先年、亡き父石雄の家に羊革の甲と牛革の甲がそれぞれ一領ずつありました。弘仁年間、父はこの甲を身に着けて陸奥にあり、蝦夷の賊を討ち平らげました。その後、兄の春枝がこれを朝廷に献上いたしました。願わくは羊革の甲を私に賜り、緩急に備えたく存じます。帰京の際には、速やかに朝廷にお納めいたします。」これを許し、牛革の甲は春枝に与えた(注:『三代実録』による)。やがて左近衛将監に遷ったが、讒言を受けて官を免ぜられ、家に籠って過ごした(注:『保則伝』による)。元慶二年、出羽の蝦夷が反乱を起こし、国守の藤原興世はたびたび戦に敗れた(注:『三代実録』による)。藤原保則は摂政藤原基経に春風を推薦し(注:『保則伝』による)、陸奥鎮守将軍に抜擢されて甲冑一具を賜り、権介の坂上好蔭とともに、夜を日に継いで出発した。まず陸奥に入り、それぞれ精兵五百人を率いて救援に向かった。また勅が下された。「規定に従って国司に分け付け、将軍の兵を率いて出羽国へ向かうように。前将軍の安倍比高(あべのひたか)には、現任者に準じてしばらく鎮守府の政務を執らせよ。」やがて春風が陸奥に到着すると、保則は出羽権掾の小野春泉(はるいずみ)を鎮守府に遣わして軍事を協議させた。春泉が到着する前に、春風は兵四百余人を率いて陸奥路を取り、上津野に入った。恩詔を宣べ諭すと、賊徒はことごとく降伏した。九月、上津野から秋田営に至った(注:『三代実録』による)。春風は若い頃から辺境の砦にあり、蝦夷の言葉をよく理解していたため、甲冑を脱ぎ武器を捨てて一人で賊の陣に入り、朝廷の命令を詳しく伝えた(注:『保則伝』による)。こうして蝦夷たちは大いに服従し、書状を差し出して降伏を願い出て、賊の首領七人が相従って降伏した。翌年六月、軍を引き上げて帰還した。仁和年間に従五位上に叙せられ、大膳大夫、摂津権守に至った(注:『三代実録』による)。左衛門権佐となった(注:『政事要略』『古今和歌集目録』による)。検非違使を兼ねた。当時、朝廷は衣服に深紅色を用いることを禁じていたが、参議の源光(みなもとのひかる)がかつて深紅の襖子(あおし、上着)を着て外出したことがあった。春風はこれを一目見るや、まっすぐ進み出て源光の後ろにひざまずき、その衣を切り裂かせてほしいと願い出た。源光は黙り込んでしまい、自邸に帰るとその衣を脱ぎ捨て、二度と着用しようとしなかった。世論はこれを是とした(注:『政事要略』による)。寛平二年、右近衛少将、陸奥権寄に遷り、讃岐権守を兼ねた。昌泰の初め、正五位下に至った(注:『古今和歌集目録』による)。