卷之第十 本紀第十
天智天皇、天皇大友
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
天智天皇
¶天智天皇(てんじてんのう)。はじめ葛城皇子(かつらぎのみこ)と称した(注:原文の舒明紀二年の文による)。一名を中大兄(なかのおおえ)という。舒明天皇の嫡子であり、皇極天皇がお生みになった。
¶天皇は常に蘇我入鹿(そがのいるか)が専横をふるい、僭偽(せんぎ、身分を越えて偽りふるまうこと)の跡が次第に現れるのを見て、ひそかに中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀り、これを除こうと図った。そこでその計略に従い、蘇我石川麻呂の娘を娶って後ろ盾とした。鎌足はまた佐伯子麻呂(さえきのこまろ)・葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)を推挙した。
¶皇極天皇四年六月、三韓が貢物を進上した。天皇(皇極)は大極殿においでになり、入鹿は朝服を着て参内した。天皇(中大兄)はあらかじめ石川麻呂(いしかわまろ)に命じて、三韓の上表文を読ませておいた。子麻呂・網田が入鹿を斬る手はずとし、あわせて衛門府(えもんふ)に命じて十二の通用門を閉ざして往来を遮断させ、自らは長槍を執って御殿の傍らに立った。鎌足は弓矢を持って警護した。石川麻呂が表文を読み終えようとするころ、鎌足は子麻呂を促したが、子麻呂は恐れ縮こまって動けなかった。石川麻呂は手が震え声もうわずり、汗が背を濡らした。入鹿はこれを怪しんで問うた。石川麻呂は、「天皇の御威光が間近にあり、覚えずこのようになったのです」と答えた。天皇は機を逸して変事が起こることを恐れ、たちまち躍り出て、急ぎ入鹿を撃ち、その頭と肩に傷を負わせた。子麻呂らも続いて進み出て、剣を振るってその片脚を斬った。入鹿は御座にすがりつき、頭を叩いて、「臣には罪の覚えがございません。どうか天のご明察を賜りますように」と言った。皇極天皇は天皇(中大兄)に、「入鹿にどのような罪があるのか」と仰せられた。天皇は地に伏して、「鞍作(くらつくり、入鹿)は皇族をことごとく滅ぼし、皇位を傾けようとしております。どうして鞍作をもって天孫の位に代えることができましょうか」と奏上した。皇極天皇はすぐに立ち上がって奥にお入りになった。子麻呂らはついに入鹿を斬り殺した。天皇は他に変事が起こることを慮り、法興寺(ほうこうじ)に入って備えた。諸皇子・公卿はみなそこに駆けつけた。入鹿の屍を、その父の蝦夷(えみし)に与えた。漢直(あやのあたい)らはその徒党を率いて蝦夷を助け乱を起こそうとした。天皇は将軍の巨勢徳太古(こせのとこた)に命じて、逆順の理を説き諭させた。賊徒は武器を捨てて潰え散り、蝦夷は誅に伏した。
¶皇極天皇は位を天皇(中大兄)に伝えようとした。天皇は鎌足の言葉に従い、密かに奏上して孝徳天皇に位を譲った。皇極天皇はこれを嘉(よみ)し、ついに孝徳天皇に位を譲り、天皇を皇太子に立てて朝政を輔弼させた。
¶斉明天皇が再び位に即くと、そのまま皇太子となった。
¶七年正月、西征に従った。七月、天皇(斉明)が朝倉行宮(あさくらのかりみや)で崩御した。皇太子は喪服のまま政務を執った(称制)。この月、唐の将軍蘇定方(そていほう)は突厥(とっけつ)の契苾加力(けいひつかりき)らとともに、水陸ともに進撃し、高麗の城下に迫った。八月一日甲子、皇太子は天皇の喪を奉じて長津宮(ながつのみや)に遷り、海外の軍政を執った。この月、前将軍の大花下(だいけげ)阿曇比邏夫(あずみのひらふ)・小花下の河辺百枝(かわべのももえ)、後将軍の大花下阿倍引田比羅夫(あべのひきたのひらふ)・大山上の物部熊(もののべのくま)・大山上の守大石(もりのおおいわ)らを遣わして百済を救援させ、兵仗(へいじょう)・五穀を給した。九月、百済の王子・余豊(よほう)に織冠(しょくかん)を授け、その国に帰らせた。大山下の狭井檳榔(さいのあじまさ)・小山下の朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)に兵五千余を率いさせて護送させた。十月七日己巳、皇太子は梓宮(しきゅう)を奉じて長津を発った。二十三日乙酉、難波に帰り着いた。十一月七日戊戌、斉明天皇を飛鳥川原(あすかのかわら)に殯し、九日間喪に臨んだ。十二月、高麗が「唐の兵を大いに破り、二つの塁を奪取した」と報告した。この年、播磨国司(はりまのくにのつかさ)の岸田麻呂(きしだまろ)が宝剣を得て献上した。
¶壬戌の年、正月二十七日丁巳、百済の佐平鬼室福信(きしつふくしん)に、矢十万本、糸五百斤、綿千斤、布千端、韋(なめしがわ)千枚、稲の種三千石(こく)を賜った。三月四日癸巳、百済の王子余豊に布三百端を賜った。この月、唐人・新羅人が高麗を討った。高麗は使者を遣わして救援を求めた。四月、鼠が馬の尾に子を産んだ。五月、大将軍の大錦中(だいきんちゅう)阿曇比邏夫が水軍百七十艘を率いて百済に至り、勅を宣べて余豊を王に立てた。鬼室福信に金策(こんさく)を賜り、詔をもって褒め称えた。六月二十八日丙戌、百済が調を貢いだ。この年、百済を救おうとして、甲兵を修繕し、船舶・糧食を備え整えた。
¶癸亥の年二月二日丙戌、百済が調を貢いだ。この月、鬼室福信が唐の捕虜続守言(しょくしゅげん)らを献上した。三月、前将軍の上毛野稚子(かみつけののわくご)・間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍の巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)・三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍の阿倍引田比羅夫・大宅鎌柄(おおやけのかまつか)を遣わし、兵二万七千を率いて新羅を討たせた。八月、新羅は百済に攻め入り、その王城を囲んだ。諸将は唐の兵と白村江(はくすきのえ)で戦ったが、利あらず(注:唐書には白江口(はっこうこう)とある)。小山下の朴市秦田来津はこの戦いで戦死した。百済王余豊は高麗に逃れた。九月、諸軍が百済から帰還した。佐平の余自信(よじしん)、達率(だっそつ)の木素貴子(もくそきし)・谷那晋首(こくなしんしゅ)・憶礼福留(おくらいふくる)らが、国民を率いて随行して来た。
¶甲子の年、二月九日丁亥、大海人皇子(おおあまのみこ)に命じて(注:原文には「太皇弟(だいこうてい)」と記す。しかしこのとき天皇はまだ即位しておらず、なお皇太子と称していたので、ここでは「皇子」と記す。案ずるに、原文の通例では、おおよそ皇太子を立てる際には、必ず二度これを記す。前の天皇の紀には、「某年、某皇子を皇太子に立てた」と記し、その皇子が即位した紀に至っては、「某天皇の某年、皇太子に立てられた」と記す。ところが天智紀に至っては特に、皇太子に立てたことを記さない。天武紀に至って初めて、「天命開別天皇の元年、東宮(とうぐう)に立てられた」とある。これは前後の書き方の慣例と異なっている。また「太皇弟」「東宮大皇弟」「皇太子」という呼称・書き方も、判然としない。それゆえ今、この紀および天武紀では、東宮に立てられたとは記さない)、冠位の号を改め、二十六階に増やした。氏上(うじのかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)を定めた。大氏(おおうじ)の氏上には大刀を賜り、小氏(こうじ)の氏上には小刀を賜り、伴造らの氏上には盾・弓矢を賜った。三月、百済の王子善光(ぜんこう)らを難波に住まわせた。都の北に星が隕(お)ちた。この春、地震があった。五月十七日甲子、唐の百済鎮将(ちんしょう)の劉仁願(りゅうじんがん、注:案ずるに、唐書によれば、劉仁願はこれより先に唐に帰り、百済に留まって鎮めていたのは劉仁軌(りゅうじんき)である。以下も同様である)が、朝散大夫(ちょうさんたいふ)の郭務悰(かくむそう)らを遣わし、上表文と献上品を進呈した。この月、大臣で大紫(だいし)の蘇我連(そがのむらじ)が薨じた(注:続日本紀にいう、近江朝の大臣は大紫の連子(むらじこ)である、と。公卿補任・一代要記はいずれも、大臣大紫の蘇我連子臣(むらじこのおみ)は、元年に大臣となり以前のままであった、とする。任命の年月は詳らかでない。三年三月に薨じ、在官は三年であった。あるいは三月に任じられ、まもなく薨じたともいう)。六月、島皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)が薨じた。十月四日戊寅、郭務悰らをもてなし、物を差をつけて賜った。十二月、近江が「坂田郡(さかたのこおり)・栗太郡(くりたのこおり)にともに瑞禾(ずいか、めでたいしるしの稲穂)が生えた」と報告した。この年、対馬島(つしま)・壱岐島(いき)・筑紫などの国に防人(さきもり)と烽(とぶひ、のろし)を置いた。また筑紫に大堤を築いて水を貯え、これを水城(みずき)と名づけた。
¶乙丑の年、二月二十五日丁酉、間人太后(はしひとのおおきさき)が崩御した。佐平鬼室福信の功を追って褒め、達率の鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下を授けた。百済の男女四百余人を近江の神前郡(かむさきのこおり)に住まわせ、田を給した。八月、百済人の答本春(とうほんしゅん)を遣わし、初めて長門(ながと)に城を築かせた。憶礼福留・四比福夫(しひふくぶ)を筑紫に遣わし、大野(おおの)・椽(き)の二城を築かせた。耽羅(たんら)の人が来朝した。九月二十三日壬辰、唐の使者、沂州司馬(きしゅうしば)の劉徳高(りゅうとくこう)らが上表した。十月十一日己酉、菟道(うじ)で大閲兵を行った。十一月十三日辛巳、唐の使者をもてなした。十二月、劉徳高らが帰国し、物を差をつけて賜った。この年、小錦の守大石(もりのおおいわ)、小山の境部石積(さかいべのいわつみ)、大乙(だいおつ)の岐弥針間(きみのはりま)を唐に遣わした(注:原文の注にいう、おそらく唐の使者を護送するためであろう、とある)。
¶丙寅の年、正月十一日戊寅、高麗が調を貢いだ。耽羅がその王子姑如(こじょ)を遣わして貢献した。三月、皇太子は佐伯子麻呂の家を訪れて病を見舞った。七月、大水があった。そのため今年秋の租調を免除した。十月二十六日己未、高麗がまた使者を遣わして調を貢いだ。この冬、鼠が都から近江へ移った。百済の男女二千余人を東国に住まわせた。僧智由(ちゆ)が指南車(しなんしゃ)を献上した。
¶丁卯の年、二月二十七日戊午、斉明天皇を葬った。間人皇女(はしひとのひめみこ)を合わせ葬った(注:案ずるに、間人皇女は舒明天皇の娘で、孝徳天皇の后であり、斉明天皇の従姉である。先には「太后」と記し、ここでは「皇女」と記すが、いずれも原文の旧文に従っている。しかし磯長陵(しながのみささぎ)に葬らず、小市陵(おちのみささぎ)に合葬した理由は詳らかでない)。高麗・百済・新羅の人々が、道すがら哀悼の意を表した。皇太子は群臣に、「私は遺勅を奉じ、万民のことを憂え、石槨(せっかく)を造る労役を停止した。永くこれを後世の戒めとしたいと思う」と仰せられた。三月十九日己卯、都を近江(おうみ)に遷した(注:一代要記にいう、正月に滋賀郡(しがのこおり)の大津宮(おおつのみや)に遷った、とある)。民はこれを望まなかった。これにより、里の入り口では童謡(わざうた)がうたわれた。また火災がしばしば起こり、人家が多く焼けた。六月、葛野郡(かどののこおり)が白い燕を献上した。七月十一日己巳、耽羅が貢献した。八月、皇太子は倭京(やまとのみやこ)に赴いた。十一月九日乙丑、唐の百済鎮将劉仁願が、熊山県令(ゆうざんけんれい)の司馬法聡(しばほうそう)らを遣わし、大山下の境部石積らを筑紫都督府(つくしのとどくふ)に送り届けさせた。十三日己巳、司馬法聡らが帰国した。小山下の伊吉博徳(いきのはかとこ)・大乙下(だいおつげ)の笠諸石(かさのもろいわ)に護送させた。この月、倭の高安(たかやす)、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)、対馬島の金田(かなた)に城を築いた。
¶元年戊辰、春正月三日戊子、天皇が即位した。これを天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)という(注:原文の注の一説にいう、六年春三月に即位した、とある。案ずるに、原文では壬戌の年を元年としている。しかし天武紀には、「四年十二月、天命開別天皇が崩御した」とある。これはすなわち即位した年を元年として紀元とするものであり、今はこれに拠った)。時に43歳(注:原文の舒明紀による)。天皇は至孝であり、先帝の殯(もがり)を六年間続け、ここに至って位に登った(注:愚管抄・一代要記による)。七日壬辰、内裏で群臣に宴を賜った。二十三日戊申、小山下の伊吉博徳らが百済から帰国した。二月二十三日戊寅、倭姫(やまとひめ)を皇后に立て、遠智娘(おちのいらつめ)・姪娘(めいのいらつめ)・橘娘(たちばなのいらつめ)・常陸娘(ひたちのいらつめ)を嬪(ひん)として迎えた。夏四月六日庚申、百済が調を貢いだ。五月五日戊子、蒲生野(がもうの)で狩りをした。大海人皇子、および諸王以下群臣がみな従った。秋七月、高麗が調を貢いだ。この月、近江で武を講じ、多くの牧を置いて馬を放牧した。越国が燃土(もえつち、石炭)・燃水(もえみず、石油)を献上した。九月十二日癸巳、新羅が調を貢いだ。二十九日庚戌、布勢耳麻呂(ふせのみみまろ)を遣わして新羅王に調を運ぶ船一隻を賜った。冬十月、唐が高麗を滅ぼした。十一月一日辛巳、新羅王に絹五十疋、綿五百斤、韋百枚を賜った。五日乙酉、小山下の道守麻呂(みちもりまろ)・吉士小鮪(きしのおしび)を新羅に遣わした。この年、新羅の僧道行(どうぎょう)が草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗み、自国へ逃げ帰ろうとしたが、果たせず止まった。
¶二年己巳、春三月十一日己丑、耽羅王がその子久麻伎(くまき)を遣わして貢献した。十八日丙申、久麻伎が帰国するに際し、耽羅王に五穀の種を賜った。夏五月五日壬午、山科野(やましなの)で狩りをした。大海人皇子および群臣がみな従った。秋九月十一日丁亥、新羅が調を貢いだ。この秋、内臣中臣鎌足の邸宅に雷が落ちた。冬十月十日乙卯、天皇の車駕が中臣鎌足の邸宅を訪れ、病を見舞った。十五日庚申、大海人皇子を遣わして鎌足の邸宅に赴かせ、藤原の姓を賜り、大織冠(だいしょくかん)を授けて内大臣とした。内大臣の職はここに始まる。十六日辛酉、内大臣藤原鎌足が薨じた。十九日甲子、鎌足の邸宅を訪れ、詔を宣べて賻(ふ、弔いの品)を賜った。十二月、大蔵(おおくら)が火災に遭った。この冬、高安城(たかやすのき)を修築し、畿内の租税を蔵めた。斑鳩寺(いかるがでら)が火災に遭った。この年、小錦中(しょうきんちゅう)の河内鯨(かわちのくじら)らを唐に遣わした。百済の佐平余自信、佐平鬼室集斯らと、男女七百余人を近江の蒲生郡(がもうのこおり)に移した。唐の使者郭務悰ら二千余人が来朝した。
¶三年庚午、春正月七日辛巳、詔して大夫(まえつきみ)・士(し)に宮廷で大射(たいしゃ)を行わせた。十四日戊子、朝廷の礼節、および道行く際に互いに道を譲る作法を制定し、もろもろの妖しく妄(みだ)りなことを禁じた。二月、戸籍を作り、盗賊・浮浪の者を取り締まった。蒲生郡の匱邇野(ひつにの)に行幸し、宮地を検分した。また高安城を修築し、塩と穀物を蓄えた。長門(ながと)および筑紫の城を修築した。三月九日壬午、山御井(やまのみい)のほとりに諸神の座を設け、幣帛(へいはく)を頒(わか)った。夏四月晦日壬申、夜、法隆寺(ほうりゅうじ)に雷が落ち、火災となった。六月、ある人が亀を捕らえた。背に「申」の字が描かれており、上は黄色く下は黒く、長さは六寸ほどであった。秋九月一日辛未、阿曇頬垂(あずみのつらたり)を新羅に遣わした。この年、水碓(みずうす)を造って鉄を鍛えた。
¶四年辛未、春正月二日庚子、大錦上(だいきんじょう)の蘇我赤兄(そがのあかえ)、大錦下(だいきんげ)の巨勢人(こせのひと)が賀正の事を奏上した。五日癸卯、大錦上の中臣金(なかとみのかね)が神事を執り行った。この日、大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣に任じ、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣とし、蘇我果安(そがのはたやす)・巨勢人・紀大人(きのうし)を御史大夫(ぎょしたいふ)とした。六日甲辰、大海人皇子(注:原文の注に、一説には大友皇子とある)が勅を奉じて冠位の法度を頒布し、天下に大赦を行った。九日丁未、高麗が調を貢いだ。十三日辛亥、唐の百済鎮将劉仁願が李守真(りしゅしん)らを遣わして上表した。この月、百済の佐平余自信・沙宅紹明(さたくしょうみょう)ら五十余人に位を授けたが、それぞれ差があった。二月二十三日庚寅、百済が調を貢いだ。三月三日庚子、黄書本実(きぶみのほんじつ)が水臬(すいげつ、水準器)を献上した。十七日甲寅、常陸(ひたち)が侏儒(しゅじゅ、こびと)を献上した。身の丈一尺六寸であった。夏四月二十五日辛卯、初めて新台(にいうてな)に漏刻(ろうこく、水時計)を設置し、鐘鼓を打って時を告げさせた。この月、筑紫が「八本足の鹿の子が生まれた」と報告した。五月五日辛丑、西小殿(にしのこどの)で宴を催した。大海人皇子および群臣が侍り、田舞(たまい)を奏した。六月十五日庚辰、百済が調を貢いだ。この月、新羅が調を貢ぎ、水牛・山鶏(やまどり)各一頭を献上した。秋九月(注:原文の注に、一説には八月とある)、天皇が病に伏した。冬十月七日庚午、新羅が調を貢いだ。八日辛未、宮中で百体の仏の開眼供養を行い、使者を遣わして法興寺に袈裟・金の鉢・象牙・沈水香(じんすいこう)・旃檀(せんだん)、および諸々の珍宝を供えさせた。十七日庚辰、天皇の病は篤くなった。大海人皇子を召し、後事を託した。皇子は再拝して、病と称して固く辞退し、出家して僧となることを願い出た。その辞意はまことに切実であったので、これを許した。即日、頭を剃り、勅して袈裟を賜った。十九日壬午、再び宮中に入って別れを告げ、吉野に入った。ここに、大友皇子を皇太子に立てた(注:「ここに」以下は水鏡による。案ずるに、懐風藻によれば、大友皇子は年ようやく弱冠(二十歳)で太政大臣を拝命し、二十三歳で皇太子に立てられた。折しも壬申の乱に遭い、天命を遂げられず、その時二十五歳であったという。これによって推せば、元年に帝大友は二十一歳で太政大臣となり、三年で皇太子となったことになり、大いに原文および水鏡と異なる。しかしその書は帝大友の孫である淡海三船(おうみのみふね)の手になるものであり、旧史のように事実を曲げ隠すたぐいではないから、事実を得ているのではないかと思われる。付記して参考に備える)。十一月、筑紫太宰府が「唐の使者郭務悰らが比智島(ひちのしま)に至った」と報告した。二十四日丁巳、近江宮が火災に遭った。晦日壬戌、左大臣蘇我赤兄ら五人が、皇太子を奉じて天皇の御前で誓いを立てた。この日、新羅王に絹・絁(あしぎぬ)・綿・韋を賜った。この年、讃岐で四本足の鶏が生まれ、大炊省(おおいのつかさ)の鼎(かなえ)が鳴った。十二月三日乙丑、天皇は近江宮で崩御した。46歳(注:年齢は原文の舒明紀に、舒明天皇崩御のとき天皇16歳とある記述による。皇胤紹運録・神皇正統記・皇年代略記はいずれも58歳とする。一代要記は53歳とする)。十一日癸酉、新宮に殯をし、山背(やましろ)の山科陵(やましなのみささぎ)に葬った(注:「葬る」以下は延喜式による。水鏡にいう、ある日天皇は馬に乗って出かけられ、ついに行方が知れなくなった。後に山科で遺された履物を得たので、そこに陵を築き、遺履を納めて埋葬した、とある。今はこれを採らない)。崇福寺(すうふくじ)に国忌斎(こっきさい)を置いた(注:江家次第による)。
¶天皇は学を好み文才に長け、政治の要諦に明るく通じ、庠序(しょうじょ、学校)を設け、茂才(もさい、優れた人材)を徴し、五礼(ごれい)を定め、もろもろの制度を興した(注:懐風藻の序による)。かつて群臣に命じて令二十二巻を撰ばせた。これを近江朝令(おうみのちょうりょう)という(注:弘仁格式の序・本朝書籍目録による)。制作した文章は非常に多かったが、今はみな伝わっていない(注:懐風藻の序による)。書法(手習いの書)百巻があり、孝謙天皇の時、崇福寺にこれを納めた(注:続日本紀による)。皇太子であったとき、自ら漏刻を製作した。即位するに及んで、これを新台に設置した。はじめ天皇は斉明天皇に従って西征したとき、朝倉山(あさくらやま)に宮を造った。材木を削らず、質朴を旨とした。当時の人はこれを黒木御所(くろきのごしょ)と呼び、また木丸殿(きまろどの)と称した。天皇は自ら朝倉木丸殿の歌を作り、後世これを神楽曲(かぐらきょく)とした(注:「初め」以下は梁塵愚按鈔(りょうじんぐあんしょう)による)。また、かつて倭の高安城を修築しようとしたが、当時民が疲弊していることを慮り、重ねて民を労することを憚って中止したことが度々あった。当時の人は天皇が仁徳を備えていると称えた。追って諡して天智天皇といった。
弘文天皇
¶天皇大友(おおとも)。はじめ伊賀皇子(いがのみこ)と称した。天智天皇の長子である(注:長子であることは懐風藻による)。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)。
¶人となりは体格が大きく立派で、生まれつき聡明であり、風格は広く深く、眼光は輝き、博学で古今に通じ、文武の才幹を備えていた。唐の使者劉徳高はこれを見て驚き、「皇子の風格は並々ならず、世間並みの人には見えない」と言った(注:「人となり」以下は懐風藻による)。
¶天智天皇四年正月、太政大臣を拝命し、百官を統べ万機を摂り行うと、臣下はみな粛然とした。学士の百済人、沙宅紹明・答㶱春初(とうほんしゅんそ)・吉大尚(きちだいじょう)・許率母(こそつも)・木素貴子を師友とし、文才は日に日に進んだ(注:「百揆を総べ」以下は懐風藻による)。十月十七日庚辰、天皇(天智)の病は重くなった。大海人皇子は儲位(ちょい、皇太子の位)を辞退し、固く出家修道を願い出た。天皇はこれを許した。そこで天皇(大友)を皇太子に立てた(注:皇太子であったことは水鏡による)。十一月二十三日丙辰、皇太子は西殿の織仏像(しょくぶつぞう)の前に座し、左大臣蘇我赤兄、右大臣中臣金、御史大夫の蘇我果安・巨勢人・紀大人が侍った。皇太子は自ら香炉を手に執り、立って誓って、「私と卿らとは、心を同じくして詔を奉じよう(注:原文には詔の文言は載っていない)。もしこれに背くことがあれば、天が罰を下すであろう」と言った。赤兄らは順に香炉を執り、血の涙を流して誓い、「臣ら五人は、殿下に従って詔旨を承ります。もしこれに背く者があれば、神明の罰を受け、子孫は絶え、家門は滅びるでしょう」と言った。五人の臣はさらに皇太子を奉じて、天皇の御前で誓いを立てた(注:原文にはまた誓いの言葉は載っていない)。十二月三日乙丑、天智天皇が崩御した。五日丁卯、皇太子が天皇の位に即いた(注:「五日」以下は水鏡・立坊次第による。案ずるに、大鏡もまた、太政大臣となり、その年に天皇となった、とする。付記して考証に備える)。時に24歳(注:懐風藻に、壬申の年に25歳とある記述による。水鏡・立坊次第は、辛未の年を25歳とする)。
¶元年壬申(注:案ずるに、歴代皇紀・愚管抄・帝王編年記・皇代記はいずれも、壬申の年に赤烏(せきう)を得たので、年号を建てて朱雀(すざく)とし、その年、備後(びんご)が白雉を献上したので、改元して白鳳(はくほう)とした、とする。皇年代略記・皇代記・皇胤紹運録はいずれも、天武天皇の即位をもって白鳳二年とするが、何に基づくかは不明である。続日本紀の神亀元年十月の詔にいう、「白鳳以来、朱雀以前は、年代が遠く隔たり、尋ね問うても明らかにしがたく、担当の役所の記録にも粗略なものが多い」と。これもまた、どの天皇の年号であるか詳らかでない。付記して参考に備える)、春三月十八日己酉、内小七位(ないしょうしちい)の曇稲敷(どんのいなしき)を筑紫に遣わし、先帝(天智)の崩御を唐の使者郭務悰に告げさせた。郭務悰らは喪服を着て哀悼の意を表し、東に向かって稽首(けいしゅ、頭を地につけて拝むこと)した。二十一日壬子、郭務悰らが書函と信物(進物)を献上した。夏五月十二日壬寅、郭務悰らに甲冑・弓矢・絁(あしぎぬ)・布・綿を賜った。二十八日戊午、高麗が調を貢いだ。
¶六月、大海人皇子は吉野で挙兵し、その将の村国男依(むらくにのおより)・和珥部君手(わにべのきみて)・身毛広(むげつのひろ)を美濃に遣わし、兵を徴発して、急ぎ不破道(ふわのみち)を封鎖させた。大分恵尺(おおきだのえさか)らに命じて、倭(やまと)の留守司(るすのつかさ)高坂王(たかさかのおおきみ)に駅鈴(えきれい)を求めさせたが、高坂王はこれを聞き入れなかった。そこで皇子は東へ向けて出発し、伊勢国司の三宅石床(みやけのいわとこ)らに兵五百を率いさせて、鈴鹿山道(すずかやまのみち)を封鎖させた。都は大いに動揺した。天皇(大友)は群臣を召して会議した。ある者は「急ぎ精鋭の騎兵を出し、跡を追って討つべきです。もし遅れれば、事の機を失うでしょう」と進言したが、天皇はこれを聞き入れず、韋那磐鍬(いなのいわすき)・書薬(ふみのくすり)・忍坂大麻呂(おしさかのおおまろ)を東国に、穂積百足(ほずみのももたり)およびその弟の百枝(ももえ、注:あるいは五百枝(いおえ)に作る)・物部日向(もののべのひむか)を倭京に、佐伯男(さえきのおとこ)を筑紫に、樟磐手(くすのいわて)を吉備国に遣わして、それぞれ兵を発せさせた。そして佐伯男・樟磐手に諭して、「筑紫太宰の栗隈王(くりくまのおおきみ)、吉備国守の当摩広島(たいまのひろしま)は、かねてより吉野に心を寄せている。もし従わなければ、その場で殺せ」と言った。磐手は吉備国に到着して符(ふ、命令書)を授け、広島を欺いてこれを殺した。男は筑紫に至ったが、栗隈王は符を受けても辞退し、出兵を承知しなかった。磐鍬らは不破に至ったが、薬・大麻呂は伏兵に捕らえられ、磐鍬は逃げ帰った。高坂王は穂積百足らとともに飛鳥寺の西の槻(つき)の木の下に陣を張った。百足は吉野の将大伴吹負(おおとものふけい)に誘き出されて殺された。百枝・日向もまた捕らえられ、これによって高坂王・稚狭王(わかさのおおきみ)は恐れて降伏した。
¶秋七月一日庚寅、吉野方の将坂本財(さかもとのたから)が高安城を陥落させた。二日辛卯、夜明けに壱岐韓国(いきのからくに)は軍を分け、大津・丹比(たじひ)の二道から進み、高安城の財を攻めた。財らは兵を進めて衛我河(えがのかわ)を渡り、韓国は川の西で戦ってこれを退けた。河内国司の来目塩籠(くめのしおこ)は不破の軍に呼応しようと謀り、ひそかに兵を集めた。韓国はこれに気づいた。塩籠は事が漏れたと知って、自殺した。時に山部王(やまべのおおきみ)・蘇我果安・巨勢人は、数万の兵を率いて犬上川(いぬかみがわ)に陣を張り、不破を攻めようとしていた。山部王は果安・人に殺され、軍は乱れて進めなくなった。果安は自殺し、羽田矢国(はたのやくに)とその子大人(うし)は、一族を率いて吉野方に降った。四日癸巳、将軍の大野果安(おおののはたやす)が乃楽山(ならやま)で大伴吹負を撃ち、大いにこれを破った。八口(やつくち)まで追撃したが、伏兵があるのではと疑って退いた。五日甲午、田辺小隅(たなべのおすみ)が夜、吉野方の将田中足麻呂(たなかのたりまろ)が守る倉歴(くらふ)の営を襲い、大いにこれを破った。六日乙未、小隅は兵を進めて蕀萩野(たらの)の営を攻めたが、利あらず退いた。七日丙申、境部薬(さかいべのくすり)が村国男依と息長横河(おきながのよこかわ)で戦い、兵は敗れて戦死した。九日戊戌、秦友足(はたのともたり)が男依と鳥籠山(とこのやま)で戦い、戦死した。壱岐韓国は吹負と葦池(あしのいけ)のほとりで戦ったが、利あらず。吹負はさらに兵を分け、三方から攻めて来た。犬養五十君(いぬかいのいきみ)は中道に当たって村屋(むらや)に屯し、別将の廬井鯨(いおいのくじら)に精兵二百を率いさせて、吹負の営を衝かせた。営は堅固で犯すことができず、鯨は進むことができなかった。ほどなく吉野方の将三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)・置始菟(おきそめのうさぎ)が、箸陵(はしのみささぎ)で近江方の上道(かみつみち)の軍を大いに破り、そのまま鯨の軍の後方を断った。兵士は驚き潰走し、死傷者が多く出た。鯨は単騎で逃げ延びた。十三日壬寅、社戸大口(こそべのおおくち)・土師千島(はじのちしま)が男依と安河(やすのかわ)のほとりで戦い、捕らえられた。十七日丙午、男依は栗太(くりた)の軍を攻め破った。二十二日辛亥、男依らが瀬田(せた)に迫った。天皇(大友)は全軍を挙げて橋の西に陣を布いた。旗印は野を覆い、鉦鼓(しょうこ)の音は天を震わせた。智尊(ちそん)は精鋭を率いて先鋒となり、橋板三丈を取り除いて一枚の長板を置き、縄をかけて仕掛けを施した。吉野方の兵はあえて進もうとしなかった。大分稚臣(おおきだのわかみ)は矛を捨てて刀を提げ、板を踏んで疾走して渡り、板の縄を断ち切り、矢を冒して進んだので、近江方の兵はことごとく乱れた。智尊は怒って退く者を斬ったが、それでも止めることができなかった。智尊は戦死し、軍はついに敗れた。この日、三尾城(みおのき)が陥落した。二十三日壬子、犬養五十君・谷塩手(たにのしおて)が男依と粟津市(あわづのいち)で戦い、敗れて死んだ。左右大臣・群臣はみな逃げ去った。ただ物部麻呂(もののべのまろ)と一、二人の舎人だけが従った。この日、天皇(大友)は山前(やまさき)で崩御した。時に25歳。
¶はじめ天皇は夢の中で天が洞のごとく開き、朱衣を着た老翁が日輪を捧げて天皇に授けるのを見た。すると突然、人が脇の下から現れ、これを奪い去った。目覚めてこれを不思議に思い、藤原鎌足に語った。鎌足は嘆いて、「聖朝が万歳の後(天智天皇が崩御した後)、恐らくは巨猾(きょかつ、大悪人)が付け入る隙を狙うのではないでしょうか。しかし私が聞くところでは、『天道は特定の者に味方することはなく、ただ善なる者を助ける』といいます。大王自ら努めて徳を修められれば、災異は憂うるに足りません。私には娘がおります。どうか後宮に納れ、身の回りのお世話をさせてください」と言った。天皇はこれを聞き入れた。ここに至って、天命は果たして遂げられなかった。かつて宴に侍って詩を献じ、「皇明は日月のごとく光り輝き、帝徳は天地のごとく万物を載せる。三才(天地人)はともに泰らかに栄え、万国はこぞって臣たる義を表す」と詠んだ。また述懐して、「道徳は天の訓えを承け、塩梅(えんばい、政治のさじ加減)は真の宰相に委ねる。監撫(かんぶ、民を監督し撫育すること)の術がないことを恥じるが、どうして四海に臨むことができようか」と詠んだ(注:「時に年」以下は懐風藻による。案ずるに、原文の持統紀には、「詩賦の興りは大津皇子に始まる」とある。しかし懐風藻には、天皇(大友)および河島皇子(かわしまのみこ)の詩を大津皇子の詩より前に載せている。おそらく天皇が崩御したとき、大津皇子はわずか十歳であったから、天皇が詩を詠んだのは大津より先であったことがわかる)。