卷之第九 本紀第九

皇極天皇、孝德天皇、齊明天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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皇極天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、はじめ宝皇女(たからのひめみこ)と称した。敏達天皇(びだつてんのう)の曾孫であり、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の孫で、茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘である。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)。

天皇ははじめ用明天皇(ようめいてんのう)の孫・高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢皇子(あやのみこ)を生んだ。のちに舒明天皇(じょめいてんのう)がこれを妃として迎えた。

二年、皇后に立てられた。

十三年十月、舒明天皇が崩御した(注:一代要記の一説には、舒明天皇は崩御に臨んで皇后に位を譲った、とある。何に基づくかは不明である)。

元年壬寅、春正月十五日辛未、天皇が即位した。これを天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)という。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、以前のまま留任した。

天皇は古の政治にならい善政を施したが、蝦夷の子・入鹿(いるか)は政権を独断でほしいままにし、その権勢は父を上回った。

この月、百済(くだら)から弔喪の使者が来た。二月六日壬辰、高麗(こま)が貢物を献上した。二十二日戊申、詔して津守大海(つもりのおおあま)を高麗に、国勝水雞(くにかつのくいな)を百済に、草壁真跡(くさかべのまと)を新羅(しらぎ)に、坂本長兄(さかもとのながえ)を任那(みまな)に遣わした。二十四日庚戌、百済王の弟の子・翹岐(ぎょうぎ)を召し、安曇山背連(あずみのやましろのむらじ)の家に住まわせた。三月三日戊午、雲がないのに雨が降った。六日辛酉(注:原文には干支の記載が欠けているため、兼永本によって補った)、新羅から即位を祝う使者と弔喪の使者が来た。夏四月八日癸巳、百済の翹岐が朝廷に参内した。長雨が一月を過ぎても止まなかった。五月五日己未、翹岐を召し、狩猟を見物させた。十八日壬申、百済が調(みつぎ)を貢いだ。国勝(くにかつ)・水雞(くいな)が百済から帰国した。この月、稲が実った。六月、大いに日照りとなった。秋七月九日壬戌、客星(彗星)が月に入った。二十七日庚辰、大臣の蝦夷は、民が大がかりに雨乞いをしても効果がなかったため、大寺に僧を集めて大乗経を読ませ、香を焚いて自ら祈ったが、これも験(しるし)がなかった。八月一日甲申、天皇は南淵(みなぶち)の川上に行幸し、四方にひざまずいて拝み、天を仰いで祈った。たちまち雷雨が至り、ついに五日間雨が降り続き、諸国にあまねく及んだ。民は「万歳」と呼び、「至徳天皇」と称えた。十三日丙申、百済の使者・達率(だっそつ)長福(ちょうふく)が人質として入り、小徳(しょうとく)の位を授けられた。中客以下にも位を授け物を賜ったが、それぞれ差があった。九月三日乙卯、近江(おうみ)・越(こし)の丁(よぼろ、労役の民)を徴発して百済大寺を造営させ、あわせて諸国に船舶の建造を課した。十九日辛未、宮室を造営しようとして、諸国に詔を下した。「十二月を期限として材木を取れ。」また諸国の丁を徴発し、東は遠江(とおとうみ)、西は安芸(あき)に至った。二十一日癸酉、越(こし)の蝦夷(えみし)数千人が相率いて帰順した。冬十月八日庚寅、地震があった。九日辛卯、また地震があった。二十四日丙午、また地震があった。この月、雲がないのに雨が降った。

十二月十三日甲午、舒明天皇の喪の儀を始めて執り行った。二十一日壬寅、舒明天皇を葬った。

この日、天皇は仮に小墾田宮(おはりだのみや)に遷った。この冬、しばしば雷雨があり、暖かさは春のようであった。

二年癸卯、春正月一日壬子、五色の雲が空一面に広がり、青い霧が地に立ちこめた。十日辛酉、大風が吹いた。二月二十五日乙巳、雹(ひょう)が降った。三月十三日癸亥、難波(なにわ)の百済客館が火災に遭い、民家にまで延焼した。二十五日乙亥、霜が降りて草木を傷めた。この月、雹が降り、風雷がしばしば起こった。夏四月七日丙戌、大風が吹いた。二十日己亥、雹が降って凍えるほど寒くなり、人々は綿入れを重ね着した。二十一日庚子、筑紫太宰(つくしのだざい)が「百済の貢調の使者が来た」と奏上した。二十五日甲辰(注:原文では甲辰の条は丁未の条の下にあるが、今は干支を推算して訂正した)、近江が「雹が降り、直径一寸ほどであった」と報告した。二十八日丁未、天皇は飛鳥板蓋新宮(あすかのいたぶきのにいみや)に遷った。六月十三日辛卯、筑紫太宰が「高麗の貢調の使者が来た」と奏上した。秋七月三日辛亥、人を難波に遣わして百済の貢物を検分させ、その数が通常より減っていることを責めた。茨田池(まんだのいけ)の水がひどく臭くなり、八月に至ってその色は藍のようになった。九月六日壬午、舒明天皇を改葬した。十一日丁亥、皇祖母(こうそぼ)の吉備島命(きびしまのみこと)が薨じた(注:釈日本紀は吉備島を茅渟王の母である小墾田皇女(おはりだのひめみこ)とするが、確かな根拠はない。案ずるに、天皇の母は吉備姫というので、孝徳天皇が皇極天皇を尊んで皇祖母尊と称した例に照らせば、ここにいう皇祖母とは、あるいは吉備姫のことではないか)。十七日癸巳、土師猪手(はじのいて)に詔して喪事を取り仕切らせた。皇祖母が病の床に就いてから喪を発するに至るまで、天皇は床のそばを離れず、倦むことなく看病した。十九日乙未、皇祖母を檀弓岡(まゆみのおか)に葬った。この日、雹が降った。冬十月三日己酉、群臣に酒宴を賜り、位を授ける事を議した。そして国司に詔して、「今は以前の勅に従い、変更することはない。おのおのその任に就き、治めるところを慎め」と仰せられた。十一月、蘇我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を擁立しようと謀り、巨勢徳太古(こせのとこた)・土師猪手を遣わして山背大兄王(やましろのおおえのおう)らを襲わせた。王とその妻子は自ら首をくくって死んだ。

三年甲辰、春正月一日乙亥、中臣鎌足(なかとみのかまたり)を神祇伯(じんぎはく)に任じたが、病と称して就かなかった。三月、倭国(やまとのくに)が「菟田山(うだやま)に紫の芝が生えた」と報告した。夏六月一日癸卯、大伴長徳(おおとものながとこ)が百合の花を献上した。茎の先が通常と異なり、複数に分かれていた。六日戊申、剣池(つるぎのいけ)に並頭蓮(茎を共にした蓮)が生えた。

四年乙巳、春正月、都に何かがおり、その声は猿のようであったが、近づいてもその姿は見えなかった。夏六月十二日戊申、三韓(さんかん)が調を献上した。天皇は大極殿においでになった。中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らと謀り、朝廷において蘇我入鹿を誅した。天皇は大いに驚き、その理由を問うた。中大兄皇子は地に伏して入鹿の罪を奏上した。天皇は立ち上がって内寝に入り、入鹿の屍を父の蝦夷に賜ると、蝦夷もまた誅に伏した。十四日庚戌、天皇は軽皇子(かるのみこ)に位を譲った。

孝德天皇

孝徳天皇(こうとくてんのう)は、はじめ軽皇子と称した。皇極天皇の同母弟である。

皇極天皇四年、六月十四日庚戌、璽(しるし)を天皇(軽皇子)に授け、位に即かせた。天皇は古人大兄皇子に位を譲ろうとしたが、皇子は固く辞退し、法興寺(ほうこうじ)に入って僧となった。そこで天皇は壇に登って即位した。これを天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)という。この日、皇極天皇を尊んで皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称し、中大兄皇子を皇太子に立て、初めて左右大臣および内臣(うちつおみ)を置いた(注:「始めて置く」以下は公卿補任・暦運記による)。阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を左大臣とし、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とし、中臣鎌足を内臣として大錦冠(だいきんのかん)を授けた。高向玄理(たかむくのげんり)・僧旻(そうみん)を国博士(くにのはかせ)とした。十五日辛亥、左右大臣に金策(こんさく)を賜った(注:原文の一説には、錬金を賜ったとある)。

十九日乙卯、天皇は皇太子とともに、皇祖母尊を奉じて大槻(おおつき)の樹の下で群臣に誓わせ、天神地祇(てんじんちぎ)に告げて言った。「天は覆い地は載せ、帝の道はただ一つである。しかるに末の世は澆薄(ぎょうはく、人情が薄いこと)となり、君臣の秩序が失われた。皇天は我が手を借りて、暴逆の者を誅し滅ぼさせた。今、ともに心血を注ぎ、今より以後、君に二つの政なく、臣に二心なし。もしこの誓いに背く者があれば、天災地妖が起こり、鬼神の誅と人の討伐を受けよう。この誓いは日月のように明らかである。」そこでこの年を大化元年と記した。年号はここに始まる(注:「年号はここに始まる」は日本紀略の弘仁改元の詔文による。案ずるに、濫觴抄・二中暦・和漢合符・如是院年代記はいずれも、継体天皇の時に初めて年号を建てて善記といった、とする。しかし旧史にはその記載が見えないため、これは採らない)。

大化元年乙巳、秋七月二日戊辰、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て、小足媛(おたらしひめ)・乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。十日丙子、高麗・百済・新羅が使者を遣わして朝貢した。百済の使者は任那の調使を兼ねていたため、巨勢徳太古が詔を宣べて百済の使者を責め、貢物を突き返した。三輪栗隈東人(みわのくりくまのあずまひと)・馬飼造(うまかいのみやつこ、注:名は欠けている)を遣わして任那の国境を視察させた。十二日戊寅、左右大臣に詔して、「まさに上古の聖王の跡に遵(したが)って天下を治めるべきである。また天下に信義を示すべきである」と仰せられた。十三日己卯、また大夫(まえつきみ)および百(もも)の伴造(とものみやつこ)に順次尋ね、民を喜ばせて使う道を問うた。十四日庚辰、右大臣の石川麻呂が「まず神祇を祭り、その後に政事を議すべきです」と奏上した。そこで倭漢比羅夫(やまとのあやのひらふ)を尾張に、忌部子麻呂(いんべのこまろ)を美濃に遣わし、神への供物を課した。

八月五日庚子、東国の国司を任命した。そして詔して言った。「朕は天神が付託されたところに遵って万国を治めようと思う。おおよそ国家の有する公民、大小の領する人々は、みな戸籍を作り、田畝(でんぽ)を調べよ。園池・水陸の利は、民とともにこれを享受せよ。国司は国にあって、独断で罪を裁いたり、賄賂を受け取って民を貧困に苦しめたりしてはならない。都に参上する際には、多くの民を徴発して随行させてはならず、ただ国造(くにのみやつこ)・郡領(こおりのみやつこ)を従えることができるのみである。もし公務があれば、管内の粟を食べ、管内の馬に乗れ。介(すけ)以上で法を守る者には必ず褒賞を与え、法に背く者は爵位を降格せよ。判官(じょう)以下で贓物(ぞうぶつ、不正な収賄)の罪を犯した者は、二倍にしてこれを徴収し、軽重に応じて罪を科せ。もし偽って国造・伴造・県(あがた)・稲置(いなぎ)と称し、私に官家(みやけ)を領有し、郡県を治める者があれば、国司は詳しく調べた上で、その事情を詳しく奏上せよ。」また空き地を選んで兵庫(つわものぐら)を造り、その国郡の刀・甲・弓矢を収蔵させた。辺境の国郡の地で蝦夷と接するところは、その兵器を検閲した上で、もとの持ち主に返させた。倭国の六県(むつのあがた)には、別に使者を遣わして田畝を調べさせ、戸籍を作らせた(注:原文の注に、開墾田の面積と民の戸口・年齢を検査したことをいう、とある)。そして国司に布帛(ふはく)を差をつけて賜った。

この日、朝廷に鐘匱(しょうき、訴えを入れる箱と鐘)を設け、詔して言った。「およそ憂え訴える者があるとき、伴造がいればまず伴造が議した上で奏上せよ。尊長がいればまず尊長が議した上で奏上せよ。もし伴造・尊長がその訴えを取り次がない場合は、訴状を匱に納めよ。夜明けに役人がこれを取り上げて奏上せよ。朕は自ら年月を記し、群卿とともに議して、その伴造・尊長を罪する。役人が徒党を組んで訴えを留め置いたり、公正でない裁断をしたりする場合は、鐘を撞くがよい。これによって天下の民に、みな朕の意図を知らしめよ。」この日、また詔して男女の奴婢に関する法を定めた。

九月一日丙寅、諸国に使者を遣わして兵を整えさせた(注:原文の注に、六月から九月にかけて、四方に使者を遣わし、諸々の兵器を集めた、とある)。三日戊辰、古人皇子が謀反を企てた。十二日丁丑、吉備笠垂(きびのかさたる)が皇太子のもとに参上して自首した(注:原文の注に、笠垂は阿倍・蘇我の二大臣に告げた、とある)。菟田朴室古(うだのえむろこ)・高麗宮知(こまのみやち)に命じて兵を率いてこれを討たせた。古人皇子は誅に伏した(注:原文の注の一説には、これは十一月晦日甲午のことであったとする)。十九日甲申、諸国に使者を遣わし、民の数を記録させた。詔して言った。「古より以来、歴代の天皇は必ず標代の民(名代・子代の民)を置き、その名を後世に残してきた。それゆえ臣・連・伴造・国造らも、それぞれ私民を置き、思うままに使役してきた。また国県・山海・林野・池田を割いて私財とし、争奪することが止まなかった。あるいは数万頃(けい)もの田を兼併し、あるいは錐を立てる場所すらない者もある。調賦を進上する際にも、まず自らが取り立て、その後で分けて進上する。宮殿を修治し、園陵を造営する際にも、それぞれ私民を率いて従事させている。易経にいう、『上を損じて下を益し、制度をもって節すれば、財を傷めず、民を害しない』と。今、民はなお乏しいのに、勢力ある者は水陸を分割して私有地とし、これを民に売っては、毎年その代価を求めている。今より以後、私に土地を売ることを禁じ、これによって兼併の道を塞ぐべきである。」これにより民は大いに喜んだ。

冬十二月九日癸卯、都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に遷した。この年、春から夏にかけて、大和(やまと)の鼠が難波へ移動した。

二年丙午、春正月一日甲子、正月を賀した(注:公事根源にいう、元日の朝賀は神武天皇元年正月に始まる、と。ここに至って再び見えるので、朝拝の起源の一つとしてよいであろう。案ずるに、白雉元年に天皇が白雉を観たとき、儀衛は元会(がんえ、正月の儀式)のようであったという。してみると、元会の儀はこのころまでにすでに整っていたのであろう。しかし原文はこの後、あるいは記しあるいは記さない。天武天皇四年正月一日には、百寮が朝拝したと記す。十一年・十三年には、いずれも正月二日に百寮が朝拝したと記す。おそらく事情があって二日に延びたか、あるいは事情があって儀礼を停止したのであろう。それゆえ記すか記さないかは、一に旧文に従う)。儀礼が終わると、詔を宣べて新令を下した。その一つ、前代に置かれた子代(こしろ)の民、諸所の屯倉(みやけ)、および臣・連・伴造・国造・村首(むらのおびと)が所有する部曲(かきべ)・田荘(たどころ)を廃止し、大夫以上には食封(じきふ)を賜り、官人・百姓には布帛を差をつけて賜った。その二つ、新たに畿内の国境を定め、京師(みやこ)を整備し、国司・郡司を置き、郡を大・中・小に分け、大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)を置いた。その三つ、戸籍を作り、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法を制定し、田畝を定めた。その四つ、旧来の賦役を廃止し、租庸調(そようちょう)の法を施行した。

この月、子代離宮(こしろのかりみや)に行幸した(注:原文の注の一説には、難波の狭屋部邑(さやべのむら)、子代の屯倉を壊して行宮を建てた、とある)。使者を郡国に遣わして兵庫を修めさせ、蝦夷が帰順した。二月十五日戊申、天皇は宮の東門においでになり、右大臣の石川麻呂に詔を宣べさせて言った。「朕が聞くところでは、明哲な君主が民を治めるにあたっては、宮門に鐘を懸けて民の憂いを察し、辻に小屋を作って道行く人の謗りを聞くという。芻蕘(すうじょう、草刈りや木こりのような身分の低い者)の言葉であっても、自ら問うて師とするものである。これによって朕は先に詔を下して、『古の天下を治める者は、朝廷に進善の旌(はた)、誹謗の木を置き、それによって治道を通じさせた。諫めに来る者があれば、みなこれによって広く下々に意見を求めたのである』と言った。管子にいう、『黄帝が明堂の議を立てたのは、上、賢者の意見を観るためである。堯(ぎょう)に衢室(くしつ)の問いがあったのは、下、民の声を聴くためである。舜(しゅん)に告善の旌があったのは、君主が耳目を塞がれないためである。禹(う)が朝廷に建鼓(けんこ)を立てたのは、訊望(たずね望むこと)に備えるためである。湯(とう)に総術の廷があったのは、民の非をみるためである。武王に霊台の囿(その)があったのは、賢者が進み出るためである。これらは古の聖帝明王が、これを有して失わず、これを得て亡くさなかった理由である』と(注:現行本の管子では、「明堂」は「明台」に、「建鼓」は「諫鼓」に、「訊望」は「訊唉」に、「総術」は「総街」に、「民非」は「民誹」に、「之囿」は「之議」に、「勿亡」は「勿忘」に作る)。このゆえに朕は先日、鐘を懸け匱を設けて、上表を収める役人を置いた。毎朝これを取り上げて調べ、冤罪や滞りのないようにしてきた。近ごろ匱に投書する者があり、それによると、民が用事があって都に来た際、役人がすぐに引き留めて使役するという。朕もはじめからこれを思わなかったわけではないが、遷都してまだ日が浅く、造営の役がまだ終わっていないため、やむを得ず使役してきた。朕は近ごろこの上表を得て、感嘆してやまない。諸所の雑役を停止せよ。」高麗・百済・任那・新羅が朝貢した。二十二日乙卯、天皇の車駕が子代離宮から戻った。

三月二日甲子、東国の国司らに詔して言った。「そもそも天地の間に君臨して万民を治める者は、独断で統治することはできず、必ず輔翼(ほよく、補佐)の力を借りねばならない。これによって我が皇祖は卿らの祖父・父とともに治め、朕もまた神明の加護に頼って、卿らとともに治めたいと思う。そこで先に良家の大夫を遣わして東方八道を治めさせたところ、六人は法を守り、二人は令に背いた。朕は法を守った者を美(よ)しとし、令に背いた者を憎む。いずれも先の勅に従って処断せよ。」十九日辛巳、東国の朝集使(ちょうしゅうし)らに詔して言った。「去年八月、朕は自ら諭して、『官の勢威を借りて公私の物を取ってはならない。おのおの管内の粟を食べ、管内の馬に乗るべきである。もしこの諭しに背く者があれば、次官以上は爵位を降格し、主典(さかん)以下は笞杖(ちじょう)の刑に処し、その贓物は倍にして徴収する』と言った。今、朝集使および諸国造らに問うて、国司らの罪状をつぶさに知ったが、この詔に背いたことを思うと、どうして心を痛めずにいられようか。およそ民を治める者は、自ら率先して正しくあれば、誰があえて正しくないことをしようか。君であれ臣であれ、心を正しくしない者は、その罪を受けるべきである。おおよそ諸国司の犯した罪は、軽重に従って刑典を正すべきである。そして諸国造で詔に背いて国司に賄賂を贈り、不正な利益を求め、貪り汚れた者もまた、その罪を治めないわけにはいかない。しかし今、新宮に居を移したばかりで、諸神に幣(みてぐら)を奉ろうとしており、また農繁期に当たり、民を使役して造営に当たらせている。天下に大赦を行うべきである。死罪以下の罪は、みな赦免せよ。今より以後、国司らは謹んで先の詔を尊び、決して放逸にふるまうことのないように。」塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)・神社福草(かんこそのさきくさ)・朝倉君(あさくらのきみ)、椀子連(まりこのむらじ)・三河大伴直(みかわのおおとものあたい)・蘆尾直(あしおのあたい)ら六人(注:四人の名は欠けている)は、良い政治を行ったとして厚く詔をもって褒められ、諸所の官司の屯田(みた)を廃止し、吉備島皇祖母が貸し付けていた稲を免除し、その屯田を群臣および伴造らに分け与えた。

二十日壬午、これより先、皇太子に命じて子代の入部(いりべ)・御名(みな)の入部、および屯倉の廃止・存置の適否を議させていた。そこで皇太子はこれを停止するよう奏上し、まず入部の民五百二十四口、屯倉百八十一所を献上した。二十二日甲申、詔して言った。「朕が聞くところでは、西の国の君主は、その民を戒めて、『古の葬礼は、高い所に墓を造り、土を盛らず木も植えず、棺槨(かんかく)は骨を朽ちさせるに足り、衣衾(いきん)は肉を朽ちさせるに足りるだけでよい』と言ったという。それゆえ私はこの耕作に適さない丘の地に墓を営み、代が変わった後には、その場所がわからなくなるようにしたい。金銀銅鉄を副葬してはならず、ひとえに瓦器を用いて、古の塗車(としゃ)・芻霊(すうれい、副葬用の模造車馬人形)の意にかなうようにせよ。棺の漆塗りの継ぎ目は、供え物を三度捧げるだけとし、口に含ませる飯には珠玉を用いず、珠襦(しゅじゅ)・玉柙(ぎょくこう、玉で作った死装束)を施すこともしてはならない。これらはみな愚かな俗習である。また、『葬とは蔵(かく)すことであり、人に見られないようにしようとするものである』ともいう。近ごろわが民は墳墓を営むことによって、しばしば貧窮に陥っている。これはおそらく、尊卑の別に制限がないためであろう。そこで今、新たに法を定める。おおよそ王以下庶民に至るまで、殯(もがり)を営んではならない。畿内および諸国は、葬地を一箇所に定めるべきであり、あちこちに散在させてはならない。およそ自ら首をくくったり、人を絞め殺して殉死させたりすること、あるいは馬を墓穴に埋めること、あるいは宝を墓に納めること、あるいは髪を断ち股を刺して哀悼の言葉を述べることなど、このような弊習は、一切禁止する。もしこの詔に背く者があれば、その罪はその一族に及ぶであろう。」また詔して、「市司(いちのつかさ)および要路の津済(渡し場)の渡子(わたしもり)の調賦を廃止し、田地を給せよ」と仰せられた。諸国に使者を遣わして農事を奨励し、耕作の時期以前に酒を飲み美味を食することを禁じた。

秋八月十四日癸酉、詔を下し、新たに百官を設けて旧来の職をすべて改めた意図を、臣・連・伴造・国造に諭した。九月、小徳(しょうとく)の高向玄理を新羅に遣わして人質を徴し、そして任那の調を廃止した。この月、蝦蟇離宮(かえるのかりみや)に行幸した。この年、越国(こしのくに)の鼠が昼夜途切れることなく東へ移動した。

三年丁未、春正月十五日壬寅、朝廷で射を観覧した。この日、高麗・新羅が使者を遣わして調を貢いだ。冬十月十一日甲子、有間温湯(ありまのゆ)に行幸した。左右大臣・群卿大夫が従った。十二月晦日辛巳、武庫行宮(むこのかりみや)にお戻りになった。この日、皇太子の宮が火災に遭った。この年、天皇は小郡宮(おごおりのみや)にお遷りになった。新たに礼法を制定し、百官が朝参する時刻を定め、七色十三階の冠を制定した。工人(たくみ)で大山位(だいせんい)の倭漢荒田井比羅夫(やまとのあやのあらたいのひらふ)が溝渠(こうきょ)を掘って難波に通じさせようとしたが、工事の監督のやり方を誤り、民は疲弊した。上疏して諫める者があった。詔して、「即日、工事を停止せよ」と仰せられた。渟足柵(ぬたりのき)を造り、柵戸(きのへ)を置いた。小徳の高向玄理、小山中(しょうせんちゅう)の中臣押熊(なかとみのおしくま)が新羅から帰国した。新羅は上臣(じょうしん)大阿飡(だいあさん)の金春秋(きんしゅんじゅう)らを遣わしてこれを護送させ、孔雀・鸚鵡各一羽を献上し、春秋を人質として留めた。

四年戊申。春正月一日壬午、正月を賀した。この夕べ、難波豊埼宮(なにわのとよさきのみや)に行幸した。夏四月一日辛亥、古い冠制を廃止した。この年、新羅が調を貢いだ。磐舟柵(いわふねのき)を修築して蝦夷に備え、越(こし)・信濃(しなの)の民を選んで、初めて柵戸を置いた。

五年己酉、春正月一日丙午、正月を賀した。二月、冠位の制を改めて十九階とし、八省百官を置いた。三月十七日辛酉、左大臣の阿倍倉梯麻呂が薨じた。天皇は朱雀門(すざくもん)で哀悼の儀を行った。二十四日戊辰、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は、その弟の日向(ひむか)に讒言(ざんげん)され、自殺した。事の真相が発覚し、日向を筑紫太宰帥(つくしのだざいのそち)に左遷した。夏四月二十日甲午、小紫(しょうし)の巨勢徳太古を左大臣とし、小紫の大伴長徳を右大臣とし、ともに大紫(だいし)の位を授けた。五月一日癸卯(注:今、干支を推算すると、癸卯は甲辰とすべきである。しかし旧文によって、みだりに改めない)、小花下(しょうけげ)の三輪色夫(みわのしこぶ)・大山上(だいせんじょう)の掃部角麻呂(かもんのつのまろ)らを新羅に遣わした。この年、新羅の使者、沙㖨部(さたくぶ)沙飡(さあさん)の金多遂(きんたすい)が人質として来た。

白雉元年庚戌、春正月一日辛丑、天皇の車駕が味経宮(あじふのみや)に行幸し、朝賀を受け、即日、宮に戻った。二月九日戊寅、穴門国司(あなとのくにのつかさ)の草壁醜経(くさかべのしこぶ)が白雉(はくち、白いきじ)を献上した。詔して、「これを園で飼え」と仰せられた。十五日甲申、天皇が白雉を観覧された。儀衛は元会のようであり、雉を輿に乗せて群臣に担がせた。左右大臣がこれを助けて御座の前まで運び、皇太子は左大臣の徳太古に群臣を率いて上表し賀を称えさせた。詔して言った。「そもそも聖王がこの世に出て民を治めれば、天はこれに応えて祥瑞を示す。昔、西の国の君主では、周の成王・漢の明帝の世に、白雉が現れたという。わが日本では、誉田天皇(ほむたのすめらみこと、応神天皇)の世に、白鳥が宮に巣を作った。大鷦鷯帝(おおさざきのみかど、仁徳天皇)の時には、竜馬が西から現れた。古より今に至るまで、祥瑞は時に現れるが、必ず徳のある者に応じるものである。いわゆる鳳凰・麒麟・白雉・白烏、珍しい草や佳(よ)い木など、もろもろの瑞祥は、みな天地が生み出す、めでたいしるしである。そもそも明哲な聖なる君主がこのような祥瑞を得るのは、まことにふさわしいことである。朕は思うに徳の薄い身であるのに、どうしてこれを致すことができようか。おそらくこれは、輔翼の公卿、臣・連・伴造・国造が、それぞれ真心を尽くして制度を守り従った結果であろう。公卿百官よ、清らかな心をもって、謹んで神祇に仕えよ。天下とともに、このめでたい瑞祥を受けるべきである。」また詔して改元し、天下に大赦を行い、穴門の境で鷹を放つことを禁じ、公卿以下令史(れいし)に至るまで、それぞれ差をつけて物を賜った。醜経に大山(だいせん)の位を授け、手厚く褒賞を加え、穴門の調役を三年間免除した。夏四月、新羅が調を貢いだ(注:原文の注の一説には、天皇の御代、高麗・百済・新羅の三国が、毎年使者を遣わして貢献した、とある)。冬十月、豊埼宮を修築しようとして、将作大匠(しょうさくだいしょう)の荒田井比羅夫に命じて境界の標識を立てさせ、その境内にある住居・墳墓は移転させ、移転させた者にはそれぞれ差をつけて物を賜った。

二年辛亥、夏六月、百済が調を貢いだ。秋七月、右大臣の大伴長徳が薨じた(注:「秋七月」以下は公卿補任による)。冬十二月晦日戊午、僧尼二千百余人を味経宮に召し、大蔵経を読ませ、宮廷内に灯二千七百余りを灯し、安宅経(あんたくきょう)・土測経(どしききょう)などを読ませた。このとき、天皇は大郡(おおごおり)から新宮にお遷りになり、難波長柄豊埼宮と称した(注:案ずるに、原文には大化三年に小郡宮を造営したとあるが、ここでは大郡から遷ったといっている。おそらく「小」と「大」は訓読が近いためであり、別の場所ではないのであろう)。この年、新羅の貢調の使者が筑紫に至ったが、その服装が唐の制であったことを咎めて、送り返した。

三年壬子、春正月一日己未、正月を賀した。この日、大郡宮に行幸した。三月九日丙寅、天皇の車駕が宮に戻った。夏四月二十日丁未、大雨が九日間降り続き、洪水が家屋を壊し作物を損ない、人畜の死者が多く出た。この月、戸籍を作った。新羅・百済が調を貢いだ。冬十二月、天下の僧尼を内裏に召し、斎(とき)を設けて灯を灯した。

四年癸丑、夏五月十二日壬戌、小山上(しょうせんじょう)の吉士長丹(きしのながに)を遣唐大使とし、小乙上(しょうおつじょう)の吉士駒(きしのこま、注:原文の注に、一名は糸という、とある)を副使とした。また大山下(だいせんげ)の高田根麻呂(たかたのねまろ、注:原文の注に、一名は八掬脛という、とある)を大使とし、小乙上の掃守小麻呂(かにもりのおまろ)を副使とした。この月、天皇の車駕が僧旻の房を訪れ、病を見舞った(注:原文の注の一本にいう、五年七月、僧旻は阿曇寺(あずみでら)で病に臥せっており、天皇は自ら見舞ってその手を執り、「もし法師が今日亡くなれば、朕は明日亡くなるであろう」と仰せられた、とある)。六月、百済・新羅が調を貢いだ。この月、僧旻が死去した。使者を遣わして賻(ふ、弔いの品)を賜り、絵師に命じて多くの仏像を描かせ、川原寺(かわらでら)に安置させた(注:原文の注の一本には、山田寺(やまだでら)とある)。秋七月、遣唐使の高田根麻呂は薩摩(さつま)の竹島に至ったところ、船もろとも漂流して沈没し、ただ門部金(かどべのかね)ら五人だけが助かった。この年、皇太子は倭京(やまとのみやこ)に遷ることを奏請したが、許されなかった。皇太子は皇祖母尊・皇后を奉じ、皇弟を率いて、倭の飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)に移り住み、公卿百官はみな従った。天皇はこれを喜ばず、位を捨てようとした。山崎(やまざき)に宮を造った。

五年甲寅、春正月一日戊申、夜、鼠が倭京へ移動した。五日壬子、内臣の中臣鎌足に紫冠(しかん)を授けた。二月、大錦上(だいきんじょう)の高向玄理を遣唐押使(けんとうおうし)とし(注:原文の注の一本にいう、夏五月に大花下(だいけげ)の高向玄理を唐に遣わした、とある)、小錦下(しょうきんげ)の河辺麻呂(かわべのまろ)を大使、大山下の薬師恵日(くすしのえにち)を副使とした。夏四月、吐火羅国(とからのくに)の男女各二人、舎衛国(しゃえのくに)の女一人が、日向(ひゅうが)に漂着した。秋七月、遣唐使の小山上の吉士長丹、小乙下(しょうおつげ)の吉士駒ら(注:原文の前文では小乙上に作る)が、百済・新羅の送使とともに帰国し、書籍・宝貨を献上した。長丹に小花下を授けて二百戸を封じ、駒に小山上を授けた。冬十月一日癸卯、天皇が病に伏した。皇太子は皇祖母尊・皇后・皇弟、および公卿らとともに、みな難波宮に参上した。十日壬子、天皇は正寝(せいしん)で崩御した(注:原文には享年の記載がない。神皇正統記・如是院年代記はいずれも五十九歳とする。他に考証できるものはない)。南庭に殯(もがり)をし、小山上の土師土徳(はじのつちとこ)に殯宮の事を掌らせた。十二月、河内(かわち)の大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬った。

天皇は仏法を崇(あが)め、神道を軽んじた(注:原文の注にいう、生国魂社(いくくにたまのやしろ)の木を伐ったなどの類がこれである、とある)。人となりは柔和で仁愛に篤く儒学を好み、貴賤を分け隔てなく、しばしば恩勅を下した。追って諡して孝徳天皇といった。

齊明天皇

斉明天皇(さいめいてんのう)は、皇極天皇が重ねて即位した御代である。はじめ天皇(皇極天皇)は孝徳天皇に位を譲り、孝徳天皇は尊号を奉って皇祖母尊と称した。

白雉五年十月、孝徳天皇が病に伏した。天皇(皇極)は飛鳥河辺行宮から難波宮に至った。まもなく天皇(孝徳)が崩御し、十二月八日己酉、孝徳天皇を葬った。この日、天皇は難波から行宮に戻った。この年、三韓が使者を遣わして弔問に来た。

元年乙卯、春正月三日甲戌、天皇は飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で即位した。中大兄皇子はそのまま皇太子となり、左大臣の巨勢徳太古・内臣の中臣鎌足は、ともに以前のまま留任した(注:「左大臣」以下は公卿補任による)。夏五月一日庚午、竜に乗った人が、葛城嶺(かつらぎのみね)から空に舞い上がり、膽駒山(いこまやま)に入って行くのが見られた。正午ごろ、また住吉(すみのえ)の松嶽(まつだけ)から西へ向かって去って行った。秋七月十一日己卯、東北の蝦夷に食を賜り、柵養(きこう)および津軽(つがる)の蝦夷に冠位をそれぞれ二階授けた。八月一日戊戌、小錦下の河辺麻呂らが唐から帰国した。冬、板蓋宮が火災に遭った。天皇は飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)に遷った。この年、三韓が調を貢いだ。新羅は及飡(きゅうあさん)の弥武(みむ)を人質として送り、蝦夷・隼人(はやと)は相率いて服従し貢献した。

二年丙辰、秋八月八日庚子、高麗が調を貢いだ。九月、使者を高麗に遣わし、膳葉積(かしわでのはつみ)を大使、坂合部磐鍬(さかいべのいわすき)を副使とした(注:原文の下文には石布(いわしき)に作る)。この年、あらためて飛鳥岡本(あすかのおかもと)に宮地を占い定めた。高麗・百済・新羅が使者を遣わして調を貢ぎ、そこでその地に幕を張ってもてなした。そして宮闕(きゅうけつ)を建て、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と称した。また田身嶺(たむのみね)の上、両槻(ふたつき)の樹の下に高殿を建て、周りを垣で囲み、両槻宮(ふたつきのみや)、または天宮(あまつみや)と称した。また吉野宮(よしののみや)を造った。西海使(さいかいし)の佐伯栲縄(さえきのたくなわ、注:原文の注には位階の記載が欠けている)、小山下の難波国勝(なにわのくにかつ)らが百済から帰国し、鸚鵡一羽を献上した。岡本宮が火災に遭った。

三年丁巳、秋七月、吐火羅国の人六人が筑紫に漂着した。駅伝によってこれを召した。十五日辛丑、飛鳥寺(あすかでら)の西に須弥山(しゅみせん)を模したものを仮に造り、盂蘭盆会(うらぼんえ)を催して、吐火羅国の人々をもてなした。この年、間人御廐(はしひとのみうまや)・依網稚子(よさみのわくご)・僧智達(ちたつ)らを唐に遣わした。そして新羅に護送するよう命じたが、新羅は詔を奉じなかった。御廐らは帰国した。西海使の小花下(しょうけげ)阿縣頬垂(あがたのつらたり)、小山下の津傴僂(つのくぐつ)が百済から帰国し、駱駝一頭、驢馬(ろば)二頭を献上した。石見(いわみ)が「白狐が現れた」と報告した。

四年戊午、春正月十三日丙申、左大臣の巨勢徳太古が薨じた。夏四月、阿倍比羅夫(あべのひらふ、注:原文には名が欠けているが、今は比羅夫と定めて記す。詳しくは本伝に見える)が、水軍百八十艘を率いて蝦夷を討ち、これを服従させた。齶田(あぎた)の蝦夷の恩荷(おが)に小乙上を授け、渟代(ぬしろ)・津軽(つがる)二郡の郡領を置いて帰還した。秋七月四日甲申、蝦夷二百余人が朝廷に参上して貢献したので、厚く物を給わった。柵養の蝦夷二人には位一級を授けた。その他の渟代の郡領らには冠位を授け、旗・鼓・弓矢・鎧などの物を賜った。渟代の大領(だいりょう)沙尼具那(さにぐな)に詔して、その戸口と捕虜の戸口を検分させた。冬十月十五日甲子、紀温湯(きのゆ)に行幸した。十一月、有間皇子(ありまのみこ)が謀反を企てた。留守を預かっていた蘇我赤兄(そがのあかえ)は駅馬を走らせて変事を上奏した。九日戊子、有間皇子を捕らえ、行在所(あんざいしょ)に護送した。十一日庚寅、藤白坂(ふじしろざか)で有間皇子を絞め殺した。その党与はことごとく流罪あるいは斬罪に処せられた。この年、越国守(こしのくにのかみ)の阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)を討ち、羆(ひぐま)二頭、羆の皮七十枚を献上した。僧の智逾(ちゆ)が指南車(しなんしゃ)を製作した。出雲が「魚が海辺に群がって死に、積み重なった高さは三尺ほどであった。雀のような嘴と針のような鱗を持ち、その大きさは河豚(ふぐ)ほどであった」と報告した。西海使の小花下阿曇頬垂(あずみのつらたり)が百済から帰国した。

五年己未、春正月三日辛巳、天皇の車駕が紀温湯から戻った。三月一日戊寅、吉野に行幸し、宴を催した。三日庚辰、近江(おうみ)の平浦(ひらのうら)に行幸した。十日丁亥、吐火羅・舎衛国の人が来朝した。この月、阿倍比羅夫が水軍百八十艘を率いて蝦夷を討ち、これを服従させた。後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いて帰還した(注:原文の注の一本にいう、阿倍引田臣比羅夫(あべのひきたのおみひらふ)が粛慎を討ち、帰還して捕虜四十九人を献上した、とある)。勅して、陸奥(むつ)および越の国司にそれぞれ位二階、郡領・主政にそれぞれ一階を授けた。秋七月三日戊寅、小錦下の坂合部石布・大山下の津守吉祥(つもりのきさ)を遣わして唐に使いさせ、陸奥の蝦夷の男女二人を連れて行って唐の皇帝に見せた。この年、出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命じて神宮を修繕させた。

六年庚申、春三月、阿倍比羅夫を遣わし、水軍二百艘を率いて粛慎を討たせた。夏五月八日戊申、高麗が来朝した。この月、勅して高座(こうざ)百脚、衲袈裟(のうけさ)百領を作らせ、仁王般若会(にんのうはんにゃえ)を催した。皇太子は初めて漏刻(ろうこく、水時計)を製作した。阿倍比羅夫が捕虜五十余人を献上した。秋九月五日癸卯、百済が使者を遣わして、「新羅は唐の兵を借りて本国を滅ぼしました。佐平(さへい)の鬼室福信(きしつふくしん)は新羅と戦い、国の回復を図っています」と奏上した(注:原文の注の一本にいう、百済の人が自ら難を避けて来た、とある)。冬十月、鬼室福信は使者を遣わして唐の捕虜百余人を献上し、救援を乞い、あわせてその王子の余豊(よほう、注:原文には余豊璋(よほうしょう)とあるが、今は訂正した。詳しくは百済伝に見える)を迎えて国主とすることを願い出た。詔してこれを許した。十二月二十四日庚寅、兵を遣わして百済を救おうとし、難波宮に行幸して軍器を検閲した。勅して駿河(するが)に船を造らせた。科野(しなの)が「蝿が群がり飛び、その広がりは十囲(かかえ)ほどもあり、上は青空を覆い、西へ巨坂(おおさか)を越えて行った」と報告した。

七年辛酉、春正月六日壬寅、天皇は自ら水軍を率いて西征した。八日甲辰、大伯海(おおくのうみ)に至った。十四日庚戌、伊予(いよ)の熟田津(にきたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)に滞在した。三月二十五日庚申、娜大津(なのおおつ)に遷り、磐瀬行宮(いわせのかりみや)に滞在し、名を長津(ながつ)と改めた。夏四月、百済の佐平鬼室福信が上表し、その王子の糺解(きゅうかい)を迎えることを願い出た。五月九日癸卯、天皇は朝倉社(あさくらのやしろ)の木を伐って橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を造り、そこに住んだ。神の祟りがあり、宮殿が壊れ、鬼火が見えた。大舎人(おおとねり)および近侍の者に、病死する者が多く出た。二十三日丁巳、耽羅(たんら)が初めてその王子の阿波伎(あはき)らを使者として遣わし、朝貢して来た。秋七月二十四日丁巳、天皇は朝倉宮(あさくらのみや)で崩御した(注:原文には享年の記載がない。水鏡・神皇正統記・一代要記・皇胤紹運録・皇年代略記はいずれも、六十八歳とする)。八月、皇太子は梓宮(しきゅう、天皇の棺)を奉じて長津宮に遷った。この夕べ、朝倉山の上に鬼がいて、大きな笠をかぶって喪儀を見ていたという。飛鳥川原(あすかのかわら)で殯をし、小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬った。追って諡し、前の御代を皇極天皇、後の御代を斉明天皇といった。

はじめ天皇は飛鳥岡本宮にいたとき、しばしば土木の工事を興した。かつて水工(みずたくみ)に命じて渠(みぞ)を掘らせ、香山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで通じさせ、船二百隻を用いて石上山の石を宮の東の山に運ばせ、これを積み重ねて垣とした。材木は朽ち腐り、山の頂に積み上げられたままとなった。工匠・役夫は十余万人に及び、費用は数え切れないほどであった。士民はこれを恨み苦しみ、これを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼んだ。また、「石の山丘を作っても、作るそばから自ら壊れるだろう」と謗った。