卷之一百十二 列傳第三十九

壬申群雄

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次55
  1. 蘇我赤兄
  2. 中臣金
  3. 蘇我果安
  4. 巨勢人
  5. 書藥
  6. 忍坂大麻呂
  7. 穗積百足
  8. 樟磐手
  9. 田邊小隅
  10. 境部藥
  11. 秦友足
  12. 壹岐韓國
  13. 犬養五十君
  14. 谷鹽手
  15. 盧井鯨
  16. 社戶大口
  17. 土師千島
  18. 智尊
  19. 大伴吹負
  20. 大伴馬來田
  21. 小子部鉏鉤
  22. 坂本財
  23. 紀阿閉麻呂
  24. 大分惠尺
  25. 物部朴井雄君
  26. 三輪子首
  27. 坂田雷
  28. 紀堅麻呂
  29. 大分稚見
  30. 秦綱手
  31. 星川麻呂
  32. 三宅石床
  33. 舍人糠蟲
  34. 土師真敷
  35. 膳摩漏
  36. 當麻廣麻呂
  37. 羽田八國
  38. 大伴友國
  39. 文智德
  40. 蚊屋木間
  41. 賀茂蝦夷
  42. 多品治
  43. 若櫻部五百瀨
  44. 和珥部君手
  45. 田中足麻呂
  46. 山背部小田
  47. 坂上老
  48. 縣犬養大伴
  49. 忌部色布知
  50. 民大火
  51. 高田新家
  52. 書根麻呂
  53. 黃文大伴
  54. 村國男依
  55. 三輪高市麻呂

蘇我赤兄

近江朝廷(おうみちょうてい、天智天皇の朝廷)は、綱紀がすでに緩んでいた。皐陶(こうよう)や夔(き)のような偉大な献策をなす者、召虎(しょうこ)のような輝かしい勲功をたてる者は、ついに一人も現れなかった。しかし王朝の交替という一大事に際しては、それぞれが自らの信ずるところを守り、己の志を貫き通した者たちがいた。これこそ天の理と人の心に適う公正なものであり、埋もれさせてよいはずがない。そうでなければ、どうして国の綱紀・秩序を保つことができようか。蘇我赤兄(そがのあかえ)から智尊(ちそん)に至るまで、合わせて十八人は、あるいは死に、あるいは身を隠し、あるいは捕らえられ、あるいは配流されと、その最後はそれぞれ異なるが、いずれも自らの仕えた主君に背くことはなかった。彼らの事跡はすでに本紀にも記されているが、姓名の多くを選び出し、ここに改めて記録する。なお佐伯男(さえきのおとこ)・物部麻呂(もののべのまろ)のように天武天皇に仕えて代々官位を受けた者や、穂積百枝(ほづみのももえ)・物部日向(もののべのひなた)のように捕らえられながらも後に赦された者は、ここには列しない。また紀大人(きのうし)のように香炉を執って盟いを結んだ者については、その罪は言うまでもなく明らかである。

中臣金

蘇我赤兄は、大臣蘇我馬子(そがのうまこ)の孫であり、倉麻呂(くらまろ)の子である(注:『公卿補任』による)。斉明天皇(さいめいてんのう)が牟婁(むろ)の温湯(ゆ、紀伊の温泉)に行幸した際、赤兄は都の留守を預かった。その折、有間皇子(ありまのみこ)が謀反を企てたため、赤兄は皇子とその一党を捕らえ、ことごとく誅殺した。この経緯は「有間皇子伝」に記す。天智天皇二年、赤兄は筑紫率(つくしのそち)に任じられ、位は大錦上(だいきんじょう)であった。四年、左大臣となり(注:『日本紀』による)、当時は「蔵大臣(くらのおとど)」と呼ばれた(注:『公卿補任』による)。この年、天智天皇の病が重くなり、赤兄および右大臣中臣金(なかとみのかね)、御史大夫(ぎょしたいふ)蘇我果安(そがのはたやす)・巨勢人(こせのひと)・紀大人が皇太子に近侍した。皇太子は自ら香炉を手に取って盟いを立て、赤兄らもこれに加わって同盟した。天武天皇が即位すると、赤兄はその罪により流罪に処せられた(注:『日本紀』による)。

蘇我果安

中臣金は、可多能連(かたののむらじ)の孫であり、糠手子連(ぬかてこのむらじ)の子である(注:『系図』による)。天智天皇三年、諸社に幣帛(へいはく)を配った際、金が祝詞を奏上した。四年正月には神事を執り行った。同月、右大臣に任じられた。十一月、左大臣蘇我赤兄らとともに西殿(せいでん)で盟いを結んだ。壬申の乱では、大友皇子(おおとものみこ、のちの弘文天皇)が山前(やまさき)で崩じた。天武天皇は金を淺井田根(あさいのたね、近江国の地名)で誅殺し、その子は配流に処せられた(注:『日本紀』による)。

巨勢人

蘇我果安は、天智天皇四年に御史大夫となった。壬申の乱に際しては、詔を受けて山部王(やまべのおおきみ)・巨勢人とともに数万の兵を率い、犬上川(いぬかみがわ)に陣を敷いて不破(ふわ)を襲おうとした。ところがまもなく巨勢人と謀り、山部王を殺害した。軍は乱れて進まず、果安は犬上から引き返し、自ら首をはねて果てた。天武天皇の即位後、その子は流罪に処せられた(注:『日本紀』による)。

書藥

巨勢人は(注:「人」は「比等」とも書く)、父を大海(おおあま)といい、推古天皇の朝で小徳(しょうとく)の位にあった(注:『続日本紀』による)。人は天智天皇の朝で大錦下(だいきんげ)となり、四年に御史大夫に任じられた(注:『続日本紀』には中納言大雲とあるが、詳細は不明である)。壬申の乱では蘇我果安とともに軍略を謀り、犬上川に布陣した。大友皇子が崩じるに及び、子孫ともども流罪に処せられた(注:『日本紀』による)。  その子奈氐麻呂(なてまろ)は、聖武・孝謙の二朝にわたって民部卿・春宮大夫・参議・左大弁を歴任した。天平年間には金牙飾の太刀と斑竹の杖を賜った。その後さらに神祇伯・中納言、兼ねて北陸道・山陰道両道鎮撫使を歴任し、大納言となって従二位に叙せられた。天平勝宝五年に薨去した(注:『続日本紀』による)。

忍坂大麻呂

書薬(しょやく)・忍坂大麻呂(おしさかのおおまろ)は、壬申の乱に際し、韋那磐鍬(いなのいわすき)とともに詔を受けて東国で兵を徴発したが、不破に至る頃、伏兵に捕らえられた。磐鍬は逃げ帰った(注:『日本紀』による)。

穗積百足

穂積百足(ほづみのももたり)は、壬申の乱に際し、詔を受けて倭京(わきょう、大和の都)へおもむき兵を徴発した。留守司(るすし)高坂王(たかさかのおおきみ)とともに飛鳥寺(あすかでら)の西に陣を構えたが、大伴吹負(おおとものふけい)に誘い出されて殺された(注:『日本紀』による)。

樟磐手

樟磐手(くすのいわて)は、壬申の乱に際し、詔を受けて吉備(きび)へおもむき兵を徴発した。その際、国司当麻広島(たいまのひろしま)を殺害した(注:『日本紀』による)。その後の消息は分からない。

田邊小隅

田辺小隅(たなべのおすみ)は、壬申の乱に際し、兵を率いて鹿深山(かふかやま)を越え、旗を巻き太鼓を鳴らさぬまま倉歴(くらふ)に至り、合言葉を定めて敵味方を区別させた。兵たちは皆枚(ばい、声を立てぬための木片)を口に含んで夜半に敵の陣営を急襲し、不意を突いた。陣営を守っていた田中足麻呂(たなかのたりまろ)は何が起きたか分からず、兵は皆浮き足立って逃げ散った。足麻呂だけは合言葉を知っていたため、辛うじて難を逃れた。小隅はさらに進んで莿萩野(たらの)の陣営を襲ったが、多品治(おおのほんじ)の迎撃を受けて敗走した(注:『日本紀』による)。その後の消息は分からない。

境部藥

境部薬(さかいべのくすり)・秦友足(はたのともたり)は、壬申の乱に際し、兵を率いて村国男依(むらくにのおより)と戦ったが、敗れて討ち死にした(注:『日本紀』による)。

秦友足

壱岐韓国(いきのからくに)は、壬申の乱に際し、兵を率いて坂本財(さかもとのたから)と衛我川(えがのかわ)で戦ってこれを破ったが、さらに進んで葦池(あしいけ)で戦った際、大伴吹負に敗れた(注:『日本紀』による)。その後の消息は分からない。

壹岐韓國

犬養五十君(いぬかいのいきみ)・谷塩手(たにのしおて)は、壬申の乱に際し、兵を率いて村国男依と粟津(あわづ)で戦ったが、敗れて討ち死にした(注:『日本紀』による)。

犬養五十君

廬井鯨(いおいのくじら)は、壬申の乱に際し、犬養五十君に属して兵を率い、大伴吹負の陣営を攻めたが、戦いは不利となり敗走した(注:『日本紀』による)。その後の消息は分からない。

谷鹽手

社戸大口(こそべのおおぐち)・土師千嶋(はじのちしま)は、壬申の乱に際し、村国男依と安河(やすかわ)のほとりで戦って敗れ、ともに捕らえられた(注:『日本紀』による)。

盧井鯨

智尊は、壬申の乱に際し、兵を率いて大友皇子方の先鋒となり、瀬田(せた)で激戦を交えたが、敗れて討ち死にした(注:『日本紀』による)。

天武天皇が挙兵した事実は、覆い隠すことができない。信義を破って謀反を働き、強きを恃んで弱きを凌いだのであって、時勢に従いながら内に力を養い時を待ったとはいえ、そこには恥ずべき点があったというべきである。しかし猛将や謀臣たちは雲のように集まり、影のように付き従った。大伴吹負から黄文大伴(きぶみのおおとも)に至る三十五人は、時勢の変化に乗じて特筆すべき勲功を打ち立てた者たちであり、いずれも時務をよく見極め、変化に通じた人物であった。生きては栄達を極め、死しては手厚い賻物(ふもつ、弔いの品)を賜った。朝廷が功に報いた恩典もまた、まことに手厚いものであったと言えよう。ただし置始菟(おきそめのうさぎ)・出雲狛(いずものこま)・胆香瓦安倍(いかごのあべ)らについては、旧史にその没年が記されておらず、弔問や賻物・贈位についても伝わっていない。彼らの事跡はすでに諸本紀に記載されているため、ここには改めて掲げない。

社戶大口

大伴吹負は、咋(くい)の子である(注:『続日本紀』による。日本紀の天武紀には「大伴連男吹負が卒し、壬申の年の功により大錦中の位を贈られた」とあり、『続日本紀』には「咋子連の子、甑(こしき)、大錦中小吹負」とある。思うに吹負と男吹負はもともと二人ではなく、間に「男」の字があるのは当時の呼び方によるものであろう。今は一人として定める)。彼は気概に富み大志を抱き、国難を正し救おうとして、当世に名を立てようとしていた。天武天皇が吉野に身を潜めていたころ、吹負は時勢に変化が起きることを察知し、病と称して倭(やまと)にとどまったが、内心では天皇がついには皇位に即くであろうことを見抜いていた。天皇が東国へ入った際、吹負はあとに残って従わず、一族や豪傑たちと結んで数十人の同志を得た。当時、留守司の高坂王と、挙兵の使者として遣わされた穂積百足は、飛鳥寺の西に陣を構えていた。吹負はひそかに留守司の坂上熊毛(さかのうえのくまげ)と謀り、漢直(あやのあたい)らを召し集めて「私は高市皇子(たけちのみこ)を詐称し、兵を率いて飛鳥寺の北に出て高坂王の陣に迫る。お前たちは内応してくれ」と告げた。そこで百済家(くだらのいえ)で兵の準備をし、まず秦熊(はたのくま)を先に行かせて「高市皇子が不破より到着され、従う兵はたいへん多い」と呼ばわらせた。陣営の兵たちはこれを聞いて逃げ去った。吹負が数十騎を率いて到着すると、熊毛や漢直らと合流し、陣営の兵は皆吹負に帰服した。そのころ百足は小懇田(おごりた)の兵庫から近江へ武器を運んでいた。吹負は高市皇子の命と偽って百足を呼び寄せた。百足が飛鳥寺に着くと、吹負はこれを捕らえて斬った。続いて高坂王・稚狭王(わかさのおおきみ)を説得して軍に従わせた。さらに穂積五百枝(ほづみのいおえ)・物部日向を捕らえたが、まもなく釈放して軍中に置いた。大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・坂上老(さかのうえのおゆ)・佐味少麻呂(さみのすくなまろ)を不破に遣わしてこの次第を奏上させた。天武天皇はたいへん喜び、吹負を将軍に任じた。これにより三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)・賀茂蝦夷(かものえみし)ら多くの豪傑が吹負のもとに参集し、吹負はその中の優れた者を選んで別将・軍監とし、近江を襲おうとした。そこで乃楽(なら)へ向かい、稗田(ひえだ)に至ったところ、近江軍が河内(かわち)方面からも来るとの知らせが入った。吹負は坂本財・長尾真墨(ながおのますみ)・倉墻麻呂(くらかきのまろ)・民小鮪(たみのおしび)・谷根麻呂(たにのねまろ)を竜田(たつた)へ、佐味少麻呂を大坂(おおさか)へ、賀茂蝦夷を石手道(いわてのみち)へ、それぞれ数百の兵とともに分遣した。吹負自身は乃楽山(ならやま)に陣を敷いた。荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)が「古京(こきょう、飛鳥の旧都)は根本の地であるから、守らないわけにはいかない」と進言したので、吹負はただちに赤麻呂と忌部子人(いんべのこひと)を古京へ遣わした。赤麻呂らは橋を壊して盾とし、街路に並べて防備を固めた。翌日、吹負は大野果安(おおののはたやす)と乃楽山で戦って敗れ、辛うじて身一つで逃れた。果安は八口(やつくち)まで追撃したが、街路に板が並べてあるのを見て備えのあることを知り、兵を引き返した。数日後、吹負は墨坂(すみさか)に至った。ちょうど置始菟が千余騎を率いて援軍に来たので、その軍と合流し、金綱井(かなつなのい)に引き返して陣を敷き、散り散りになった兵を集めた。大友皇子方の兵が大坂から迫っていると聞き、兵を率いて西へ当麻(たいま)まで進み、壱岐韓国と葦池で戦った。麾下(きか)の壮士来目(くめ)が刀を振るって馬を馳せ敵陣に突入し、騎兵がこれに続いて大いに敵を破り、斬獲した者は非常に多かった。吹負は「挙兵の本意は民百姓を殺すことではない。ただ元凶を誅するのみであり、みだりに殺してはならない」と命じた。韓国は軍を捨てて逃げた。吹負は来目に命じてこれを射させたが、命中しなかった。兵を収めて陣営に戻ると、東国からの軍勢が多数到着した。吹負は兵を上・中・下の三道に分け、自らは中道を進んだ。大友皇子方の将犬養五十君は、別将盧井鯨を遣わし、精兵二百を率いて吹負の軍を攻めさせた。麾下の兵は少なく防ぎきれなかったが、大井寺(おおいでら)の奴徳麻呂(やっこのとくまろ)ら五人だけが先鋒となり、進み出て矢を連射した。鯨の軍は前進できなかった。三輪高市麻呂・置始菟は上道から進み、箸陵(はしのみささぎ)で戦って大友皇子方の軍を大いに破り、勝ちに乗じて鯨の軍の背後を断った。鯨は前後から敵を受け、兵は狼狽して軍は大いに乱れた。鯨は単騎で逃走したが、馬が水田にはまり込み、それ以上進めなくなった。吹負は甲斐(かい)の壮士を呼び、「白馬に乗っている者が鯨だ。急いで追って射よ」と指示した。追手が追いついたが、鯨は必死に馬に鞭打って辛うじて逃れた。倭の地はすべて平定され、吹負は大坂を経て難波(なにわ)まで進んだ。他の諸将もまた三道からそれぞれ進んで山前に至り、河内の南に陣を敷いた。吹負は難波小郡(なにわのおごおり)にとどまり、西国の諸官司に命じて官の鍵・駅鈴(えきれい)・伝印(でんいん)を差し出させた。天武天皇が天下を得るにあたって、吹負の功績はもっとも大きかった。十一年に卒し、大錦中の位を贈られた。

はじめ吹負が金綱井に陣を敷いていたとき、高市郡(たけちのこおり)の大領(だいりょう)高市許梅(たけちのこめ)が三日間、口をつぐんで物を言わなくなった。やがて神がかりして「我は高市社(たけちのやしろ)の神、事代主(ことしろぬし)であり、牟狭社(むさのやしろ)の神、生霊(いくたま)である。神馬(しんめ)と兵器を、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと、神武天皇)の御陵に献ぜよ。我はすでに皇御孫(すめみま、天武天皇)を不破の宮までお送りし、いままた本軍を守っている。今、敵軍が西道より至ろうとしている。よろしく警備せよ」と告げた。言い終えると、まるで夢から覚めたようになった。吹負はそこで許梅を遣わして御陵を祭らせ、神の教えのとおりに二柱の神にも幣帛を捧げさせた。また村屋神(むらやのかみ)も神がかりして「敵兵がまもなく至り、中道より我が社を通り過ぎるであろう。急ぎ備えを設けよ」と告げた。まもなく壱岐韓国が西道から、盧井鯨が中道からそれぞれ来襲し、果たしてその言葉のとおりとなった。事が平定されたのち、吹負はその次第をつぶさに奏上し、勅により三柱の神の位を昇進させて祀らせた(注:『日本紀』による)。吹負には二人の子、祖父麻呂(おおじまろ)と牛養(うしかい)がおり、ともに聖武天皇の朝に仕えた。祖父麻呂は従四位下、越前按察使(えちぜんあぜち)となった。牛養は正三位、中納言に至った(注:『続日本紀』による)。

土師千島

大伴馬来田(おおとものまくた)は(注:本書には「望多」とも作るとある)、吹負の兄である。はじめは吹負とともに倭に住んでいたが、天武天皇が東国に入ると、黄文大伴とともに天皇のもとへ馳せ参じた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により百戸を封ぜられた(注:『続日本紀』による)。十一年に卒し、天皇はたいへん悼んで泊瀬王(はつせのおおきみ)を遣わして弔わせた。代々功を立てた家柄であることから大紫(だいし)の位を贈り、鼓吹(くすい、葬送の楽)を賜って葬らせた(注:『日本紀』による。『続日本紀』には大紫を内大紫とする)。  子の道足(みちたり)は(注:『公卿補任』には安麻呂の子とあるが、何に拠ったものか不明である)、文武・元正・聖武の三朝に仕え、参議正四位下・南海道鎮撫使に至った。大宝元年、父の封戸の四分の一を賜った(注:『続日本紀』による)。

道足の子伯麻呂(はくまろ)は、天平勝宝の初め、上野守(こうずけのかみ)に任じられ、次第に昇進して従四位下に至った。宝亀年間には参議に任じられた。酒宴の席での談話には、なかなかの風格と節度があったという。光仁天皇はこれを寵愛した。左大弁・衛門督・中宮大夫を歴任し、従三位を加えられた。延暦元年に薨去した(注:『続日本紀』による)。

智尊

小子部鉏鉤(ちいさこべのさひち)は、尾張国守であった。壬申の乱に際し、天武天皇が不破に入り郡家(ぐうけ)に至ったころ、鉏鉤は二万の兵を率いて帰順した。天皇は喜び、その兵を諸道に分けて要地を固めさせた。ところが近江の兵と戦うに至って、鉏鉤は山中に身を隠して自殺した。天皇は「鉏鉤は功のあった者である。罪もないのに自ら死んだのは、何か企むところがあったのではないか」と言った(注:『日本紀』による)。

大伴吹負

坂本財は、壬申の乱に際し、大伴吹負の部将であった。事が平定されたのち、大錦上の位を授けられた。天武天皇元年に卒し、小紫(しょうし)の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

大伴馬來田

紀阿閉麻呂(きのあへまろ)は、壬申の乱に際し、東道将軍(とうどうしょうぐん)に任じられた。天武天皇の即位後、手厚い詔をもってその功が褒められた。二年に卒し、大紫の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

小子部鉏鉤

大分恵尺(おおきだのえさか)は、壬申の乱に際し、天武天皇の命により近江へ赴き、高市皇子・大津皇子(おおつのみこ)の二皇子を召した。天皇が伊勢に至ると、大津皇子とともに参上して合流した。三年、病が重くなった。天皇は詔して「恵尺は私情を捨てて公に尽くし、我が身や家を顧みず力を尽くして大事に当たり、大業を成し遂げさせた。朕はもとより手厚く寵遇したいと思っていたが、今はもう間に合わない。もし本当に起き上がれないのであれば、その子孫に厚く報いよう」と述べた。そこで外小紫(げのしょうし)の位を進めたが、まもなく卒した(注:『日本紀』による)。

坂本財

物部朴井雄君(もののべのえのいのおきみ)は(注:『旧事紀』には「守屋(もりや)の子、物部雄君連公は、天武天皇の時に氏上(うじのかみ)・内大紫の冠位を賜った」とあるが、考えるに守屋が殺されたのは用明天皇二年のことであり、壬申の乱までは実に八十八年を隔てているので、いささか疑わしい。よってこの説は採らない)、壬申の乱に際し、舎人(とねり)として天武天皇の車駕に従い東国に赴いた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により百戸を封ぜられた。四年に卒し、内大紫(ないだいし)の位を贈られ、氏上に任じられた(注:『日本紀』による)。大宝元年、勅によりその子に封戸の四分の一が賜られた(注:『続日本紀』による)。

紀阿閉麻呂

三輪子首(みわのこびと)は(注:本書には「子首」を「子人」に作るものもある)、伊勢国介(いせのくにのすけ)であった。壬申の乱に際し、天武天皇に帰順した(注:『日本紀』による)。功により百戸を封ぜられた(注:『続日本紀』による)。四年に卒し、内小紫(ないのしょうし)の位を贈られ、大三輪真上田迎君(おおみわのまかみだのむかえのきみ)と諡(おくりな)された(注:『日本紀』による)。大宝元年、勅によりその子に封戸の四分の一が賜られた(注:『続日本紀』による)。

大分惠尺

坂田雷(さかたのいかづち)は、天武天皇四年に卒した。壬申の功臣として大紫の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

物部朴井雄君

紀堅麻呂(きのかたまろ)は(注:「堅」は本書には「訶多」に作るものもある)、位は小錦下であった。天武天皇元年、造高市大寺司(ぞうたけちのおおでらし)となった。七年に卒し、壬申の功臣として大錦上の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

三輪子首

大分稚見(おおきだのわかみ)は(注:本書には「見」を「臣」に作るものもある)、勇敢さで知られた。壬申の乱に際し、大津皇子に従い、伊勢で天武天皇の軍に合流した。瀬田の戦いでは先鋒を務め、大友皇子方の軍を打ち破った。天皇の即位後、兵衛(ひょうえ)となった。七年に卒し、外小錦上(げのしょうきんじょう)の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

坂田雷

秦綱手(はたのつなて)は、位は小錦下であった。天武天皇八年に卒し、壬申の功臣として大錦上の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

紀堅麻呂

星川麻呂(ほしかわのまろ)は、位は小錦中であり(注:『日本紀』による)、功田(こうでん)四町を賜った(注:『続日本紀』による)。天武天皇八年に卒し、壬申の功臣として大紫の位を贈られた(注:『日本紀』による)。子の黒麻呂(くろまろ)は従七位上であった。霊亀二年、父の功により田を賜った(注:『続日本紀』による)。

大分稚見

三宅石床(みやけのいわとこ)は、伊勢国守であった。壬申の乱に際し、天武天皇に帰順し、位は小錦下に至った。八年に卒し、大錦上の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

秦綱手

舎人糠虫(とねりのぬかむし)は、位は大山上(だいせんじょう)であった。天武天皇十年、小錦下を授けられたが、まもなく卒した。壬申の功臣として大錦上の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

星川麻呂

土師真敷(はじのましき)は、天武天皇十年に卒した。壬申の功臣として大錦上の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

三宅石床

膳摩漏(かしわでのまろ)は、位は小錦中であった。天武天皇十年、病を患った。天皇は草壁皇子(くさかべのみこ)・高市皇子の二皇子を遣わして見舞わせた。まもなく卒し、壬申の功臣として大紫の位を贈られ、賻物を賜った。皇后もまた賻物を賜った(注:『日本紀』による)。

舍人糠蟲

当麻広麻呂(たいまのひろまろ)は、位は小錦上であった。天武天皇十三年、直大参(じきだいさん)となり、卒した。壬申の功臣として直大壱(じきだいいち)の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

土師真敷

羽田八国(はたのやくに)は(注:本書には「八」を「矢」に作るものもある)、壬申の乱では初め大友皇子方の将であったが、子の大人(うし)とともに一族を率いて天武天皇に帰順し、斧鉞(ふえつ、将軍の印)を授けられて将軍に任じられ、北方の越(こし)の地を平定した。位は大錦下であった。十一年、詔を受けて諸国の境界を画定する任にあたり、大弁(だいべん)に至り、位は直大参であった。朱鳥元年、病を患った。天皇はそのために三人を出家させた。まもなく卒し、直大壱の位を贈られた(注:『日本紀』による)。

膳摩漏

大伴友国(おおとものともくに)は、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴いた。持統天皇六年に卒し、直大弐(じきだいに)の位を贈られ、賻物を賜った(注:『日本紀』による)。

當麻廣麻呂

文智徳(ふみのちとこ)は(注:本書には「文」を「書」に作るものもある)、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴いた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により百戸を封ぜられ、田四町を賜った(注:『続日本紀』による)。九年、小錦下を授けられた。持統天皇六年に卒し、直大壱の位を贈られ、賻物を賜った(注:『日本紀』による)。子の塩麻呂(しおまろ)は従七位上であった。大宝元年、父の封戸の四分の一を賜り、霊亀二年にはさらに田を加えて賜った(注:『続日本紀』による)。

羽田八國

蚊屋木間(かやのこま)は、持統天皇七年に卒した。壬申の功臣として直広参(じきこうさん)の位を贈られ、賻物を賜った(注:『日本紀』による)。

大伴友國

賀茂蝦夷は、壬申の乱に際し、三輪高市麻呂とともに将軍大伴吹負に属し、のちに勤大壱(ごんだいいち)を授けられた。持統天皇九年に卒し、直広参の位を贈られ、賻物を賜った(注:『日本紀』による)。

文智德

多品治(おおのほんじ)は、美濃国安八磨郡(あんぱちまのこおり)の湯沐邑令(ゆのむらのれい)であった。壬申の乱に際し、天武天皇は品治に命じて郡内の兵を発せしめ不破の関を守らせ、また別に精兵を率いて田辺小隅を攻めさせてこれを敗走させた。位は小錦下であった。十一年、詔を受けて伊勢王(いせのおおきみ)らとともに諸国を巡行し、国境を画定した。持統天皇十年、直広壱を授けられ、褒賞を加えられて、早くから天武天皇に従った功が称えられた(注:『日本紀』による)。

蚊屋木間

若桜部五百瀬(わかさくらべのいおせ)は、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴いた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により八十戸を封ぜられた(注:『続日本紀』による)。持統天皇十年に卒し、直大壱の位を贈られ、賻物を賜った(注:『日本紀』による)。大宝元年、勅によりその子に封戸の四分の一が賜られた(注:『続日本紀』による)。

賀茂蝦夷

和珥部君手(わにべのきみて)は、壬申の乱に際し、村国男依とともに兵を発して不破の関を塞ぎ、これに従って近江を攻めた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により八十戸を封ぜられ、田八町を賜り、位は勤大壱であった。卒すると直大壱の位を贈られた。子の大石(おおいわ)は外従五位下(げのじゅごいのげ)に叙せられた。大宝元年、父の封戸の四分の一を賜り、霊亀二年にはさらに田を加えて賜った(注:『続日本紀』による)。

多品治

田中足麻呂は、伊勢の湯沐邑令であった。壬申の乱に際し、鈴鹿(すずか)で天武天皇を出迎え、倉歴道(くらふのみち)を守った(注:『日本紀』による)。位は直広参であった。文武天皇二年に卒し、直広壱の位を贈られた(注:『続日本紀』による)。

若櫻部五百瀨

山背部小田(やましろべのおだ)は、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴き、命を受けて東海道の軍を発した(注:『日本紀』による)。位は勤大弐(ごんだいに)であった。卒すると、文武天皇二年に直広肆(じきこうし)の位を贈られた(注:『続日本紀』による)。

和珥部君手

坂上老は、大伴吹負に従った。吹負が高坂王を招いて降伏させた際、老は大伴安麻呂らとともに不破宮(ふわのみや)にその次第を奏上した(注:『日本紀』による)。文武天皇三年に卒した。天皇は詔して「功勲を図る意義は、昔の賢人たちに始まる。功を創めた者への褒賞は、代々重んじられてきた。それは壮士の節義を表彰し、朽ちることのない名を明らかにするためである。坂上忌寸老(さかのうえのいみきおゆ)は、壬申の年の乱に際し、我が身を捨てて国家の危難に赴き、死を冒して国家の難を鎮めたが、いまだ顕職を加えられぬまま、にわかに命を落とした。よろしくその魂に恩寵を加え、冥途を慰めるべきである」と述べた。そこで直広壱の位を贈り、賻物を賜った(注:『続日本紀』による)。

田中足麻呂

県犬養大伴(あがたいぬかいのおおとも)は、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴いた(注:『日本紀』による)。乱が平定されたのち、功により百戸を封ぜられた(注:『続日本紀』による)。八年に病を患い、天皇はその邸を訪れて見舞った(注:『日本紀』による)。位は直広壱に至った。大宝元年に卒し、浄広肆(じょうこうし)夜気王(やけのおおきみ)らを遣わしてその邸で詔を宣べさせ、正広参(しょうこうさん)の位を贈り、その子に封戸の四分の一を賜った(注:『続日本紀』による)。

山背部小田

忌部色布知(いんべのしこぶち)は、位は正五位上であった。大宝元年に卒し、壬申の功臣として従四位上の位を贈られた(注:『続日本紀』による)。

坂上老

民大火(たみのおおひ)は、壬申の乱に際し、高市皇子に従い、伊勢で天武天皇の軍に合流した(注:『日本紀』による)。位は従五位下であった。大宝三年に卒し、使者を遣わして正五位上の位を贈り、賻物を賜った(注:『続日本紀』による)。

縣犬養大伴

高田新家(たかたのにいのみ)は、伊勢の湯沐邑令であった。壬申の乱に際し、鈴鹿で天武天皇を出迎えた(注:『日本紀』による)。事が平定されたのち、五十戸を封ぜられた(注:『続日本紀』による)。十三年、経部足瀬(きょうべのたるせ)らとともに信濃(しなの)へ赴き、行宮(あんぐう)を造営した(注:『日本紀』による)。位は正六位上であった。大宝三年に卒し、従五位上の位を贈られ、賻物を賜った。子の首名(おびとな)は、慶雲元年に父の封戸の四分の一を賜った(注:『続日本紀』による)。

忌部色布知

書根麻呂(ふみのねまろ)は(注:『続日本紀』には「根」を「尼」または「禰」に作る)、壬申の乱に際し、天武天皇に従って東国に赴いた(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により百戸を封ぜられ、田八町を賜り、位は従四位下であった。慶雲四年に卒し、使者を遣わして正四位上の位を贈り、賻物を賜った。子の馬養(うまかい)は正七位下であった。大宝元年、父の封戸の四分の一を賜り、霊亀二年にはさらに田を加えて賜った(注:『続日本紀』による)。

民大火

黄文大伴は、壬申の乱に際し、天武天皇の命を受けて高坂王のもとへ使いし、菟田(うだ)まで追いついてそのまま天皇の車駕に従った(注:『日本紀』による)。天皇の即位後、功により二百戸を封ぜられ、田八町を賜り、正五位下(注:本書には正六位上に作るものもある)・山背守(やましろのかみ)に至った。和銅三年に卒し、正四位下の位を贈られ、賻物を賜った。子の梗麻呂(きょうまろ)は従七位上であった。大宝元年、父の封戸の四分の一を賜り、霊亀二年にはさらに田を加えて賜った(注:『続日本紀』による)。

高田新家

村国男依は、壬申の乱に際し、和珥部君手・身毛広(むげつのひろ)とともに天武天皇の命を受け、美濃(みの)の兵三千人を発して不破の道を塞いだ。男依は駅馬(はゆま)に乗って鈴鹿まで馳せつけ、その次第を奏上した。天皇はこれを褒め賞した。さらに書根麻呂・和珥部君手・胆香瓦安倍とともに数万の兵を率い、不破からまっすぐ近江に攻め入り、大友皇子方の軍を息長横河(おきながのよこかわ)で破った。境部薬を斬り、進んで秦友足を鳥籠山(とこのやま)で攻めてこれを斬った。さらに安河のほとりで戦って大勝し、社戸大口・土師千嶋を捕らえた。そのまま瀬田まで進み、大友皇子方の軍はついに敗走した。男依らは粟津の岡のふもとに陣を敷き、犬養五十君・谷塩手を攻めてこれを斬った。大友皇子は敗走し、自ら首をくくって果てた。男依はその首級を得て、諸将とともに不破宮に参じてこれを献上した(注:『日本紀』による)。天武天皇の即位後、百二十戸を封ぜられ、功田十町を賜った(注:『続日本紀』による)。四年に卒し、外小紫の位を贈られた(注:『日本紀』による)。子の志我麻呂(しがまろ)は、大宝元年に父の封戸の四分の一を賜り、霊亀二年にはさらに田を加えて賜り、位は従六位下であった。男依の孫の島主(しまぬし)は、正六位上、美濃少掾(みののしょうじょう)であった。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に与していたが、仲麻呂が反乱を起こすと、朝廷は使者を遣わして関を固めさせた。島主は内応して朝廷側に帰順したが、もともと逆党に加わっていたことを理由に、結局は誅殺された。天平神護二年、その処罰が実情に見合わなかったことを憐れみ、従五位下の位を贈られた(注:『続日本紀』による)。

書根麻呂

三輪高市麻呂は(注:『続日本紀』には「三輪」を「大神」に作るが、今は『日本紀』に従う)、その先祖は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の六世の孫、大国主(おおくにぬし)から出ている(注:『姓氏録』による)。父は利金(とかね)といい、位は大華上(だいかじょう)であった(注:『続日本紀』による)。壬申の乱に際し、大伴吹負が倭で豪傑たちを招き集めたとき、高市麻呂はこれに応じた。置始菟とともに兵を率いて箸陵(はしのみささぎ)で大友皇子方の軍を大いに破り、盧井鯨の軍の背後を断った。鯨が敗走した経緯は「吹負伝」に記す。持統天皇の朝で中納言となり、位は直大弐であった。天皇が伊勢へ行幸しようとした際、高市麻呂は上表して強く諫めた。天皇はこれを聞き入れず、留守官を定めた。そこで高市麻呂は朝廷で冠位を返上し、重ねて「今、車駕が遠くまで出向かれることは、農事の妨げになるのではないでしょうか」と諫めたが、ついに聞き入れられなかった(注:『日本紀』による。考えるに『懐風藻』に載る藤原麻呂(ふじわらのまろ)が「神納言(かみのなごん)の旧居を過ぐ」という詩に「規(いさめ)を奉れどもついに用いられず、帰り去りてついに官を辞す」とあり、神納言とは高市麻呂のことである。これによれば高市麻呂は諫めが聞き入れられなかったために官を辞したことになる。しかし本史にはこのことが記されていないので、参考として付け加えておく)。大宝年間、従四位上に叙せられ、長門守(ながとのかみ)・左京大夫(さきょうのだいぶ)を歴任した。慶雲三年、在官のまま卒した。時に年五十であった。壬申の功臣として従三位を贈られた(注:『続日本紀』による。没年は『懐風藻』による)。

黃文大伴

栗隈王(くりくまのおおきみ)は、難波皇子(なにわのみこ)の子である(注:『公卿補任』による)。天智天皇の朝で再び筑紫帥に任じられた。壬申の乱に際し、大友皇子は佐伯男を遣わして筑紫の兵を発せさせようとし、あわせて「栗隈王はもとより吉野に心を寄せている。もし命に逆らうようであれば斬れ」と命じた。佐伯男が筑紫に至って栗隈王に符(命令書)を示すと、栗隈王はあえて兵を発せず、こう言った。「筑紫は辺境を警護する地であり、高い城壁と深い堀を築いているのは、ひとえに内乱に備えるためだけではない。今、命に従って兵を発し、もし外敵が現れたならば、どうするのか。この場に及んでは、たとえ私を殺してもらってもかまわないが、それでも何の益もない。だから兵は発せない。あえて命に逆らおうというのではないのだ」。佐伯男は進んで栗隈王を刺そうとしたが、栗隈王の二人の子、三野王(みののおおきみ)・武家王(たけいえのおおきみ)が剣を帯びて傍らに控えていたため、果たせずに引き返した。天武天皇三年、兵政官長(ひょうせいかんのかみ)に任じられ、この時位は四位であった。四年に卒した(注:『日本紀』による)。のちに従二位を贈られた(注:『続日本紀』による)。

村國男依

三野王は(注:「三野」は本書や『続日本紀』には「弥努」に作るものもあり、『続日本紀』『姓氏録』には「美努」に作るものもあるが、いずれも読みは通じる)、天武天皇九年、詔を受けて川島皇子(かわしまのみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)・大錦下上毛野三千(かみつけののみち)らとともに帝紀および上古の事跡を撰定した。十年、遷都の議が起こると、三野は詔を受けて宮内の官大夫(かんだいぶ)を率いて新城(にいき)の地を検分した。この時、位は小紫であった。十二年、再び小錦下采女筑羅(うねめのつくら)とともに信濃へ赴き、都を建てるべき地を検分した。その後、浄広肆に進んだ。持統天皇八年、太宰帥(だざいのそち)となった(注:『日本紀』による)。大宝元年、初めて大幣司(たいへいし)が置かれ、三野がその長官となった。その後、左京大夫・摂津大夫を歴任し、治部卿(じぶきょう)に遷った。和銅元年に卒した。もともと三野は美濃に至った際、県犬養東人(あがたいぬかいのあずまひと)の娘を娶り、諸兄(もろえ)・佐為(さい)の二子をもうけた(注:『姓氏録』による)。諸兄については別に伝がある。佐為は、初めは諸王(しょおう)であったが、のちに諸兄とともに橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜った。正四位下、中宮大夫、兼右兵衛率(うひょうえのそつ)に至った。天平九年に卒した(注:『続日本紀』による)。

三輪高市麻呂

大伴安麻呂は、右大臣長徳(ながとこ)の第六子である(注:『続日本紀』による)。壬申の乱では大伴吹負に従った。吹負が飛鳥寺の西の陣営を奪った際、安麻呂らを遣わして不破宮にこれを報告させた。のちに小錦中を授けられた(注:『日本紀』による)。直大壱に進み、大宝元年には従三位に改め叙せられた。まもなく式部卿(しきぶきょう)となって朝政に参議し、兵部卿(ひょうぶきょう)に遷った。慶雲二年、大納言に任じられ、大宰帥を兼ね、正三位に進んだ。のちには大将軍を兼ねた。和銅七年に薨去し、従二位を贈られた(注:『続日本紀』による)。世に佐保大納言(さほのだいなごん)と称された(注:『万葉集』による)。子の旅人(たびと)については、別に伝がある。