卷之八十八 列傳第十五

皇子三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次30
  1. 蜂子皇子
  2. 古人皇子
  3. 蚊屋皇子
  4. 有間皇子
  5. 建皇子
  6. 川島皇子
  7. 春日宮天皇﹝施基親王﹞
  8. 【弘仁】(大友皇子)二子
  9. 葛野皇子
  10. 与多王
  11. 岡宮天皇﹝草壁太子﹞
  12. 大津皇子
  13. 崇道尽敬皇帝﹝舎人親王﹞
  14. 長親王
  15. 穂積親王
  16. 弓削皇子
  17. 新田部親王
  18. 廃太子道祖王
  19. 高市皇子
  20. 忍壁親王
  21. 磯城皇子
  22. 【聖武】二子
  23. 皇太子某
  24. 安積親王
  25. 【光仁】五子
  26. 崇道天皇﹝早良親王﹞
  27. 稗田親王
  28. 他戸廃太子
  29. 広根諸勝
  30. 僧開成

蜂子皇子

崇峻天皇の第一皇子。妃の小手子(こてこ)が蜂子皇子(はちのこのみこ)を生んだ。

古人皇子

蜂子皇子の項に記す。

蚊屋皇子

舒明天皇の第四皇子。宝皇后(たからのきさき、のちの皇極・斉明天皇)は天智天皇・天武天皇を生んだ。夫人の法提郎媛(ほほてのいらつめ)は古人皇子(ふるひとのみこ)を生んだ。蚊屋釆女(かやのうねめ)は蚊屋皇子(かやのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。姓氏録には賀陽王と作る。蚊屋と賀陽は音訓が通じる。)

有間皇子

古人皇子、またの名を古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)といい、天智天皇の庶兄にあたる。皇極天皇の御代、蘇我入鹿(そがのいるか)は驕り高ぶって権勢をほしいままにし、古人を天皇に立てようと謀り、兵を遣わして山背大兄王(やましろのおおえのおう)らを殺させた。天智天皇は中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、朝廷において入鹿を誅殺した。その日、三韓からの使者が入朝していたが、古人は家に走り帰り、人に語って「韓人が鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺した。私の心は痛む」と言った。そして寝所に入り、門を閉ざして外に出なかった。鞍作臣とは入鹿のことである。天智天皇が皇位を孝徳天皇に譲ろうとした際、孝徳天皇は固く辞退し、古人に譲って「大兄命(おおえのみこと)は先帝の子であり、年齢も上である。まさに天位に就くべきだ」と言った。古人は座を退いてためらい、両手を組んで辞退し、「大王はすでに聖詔を受けられた。何を推し譲ることがありましょう。私は出家して吉野に入り、仏道に勤め励みたいと思います」と言い終えると、帯びていた刀を解いて地に投げた。また側近の者たちにも各々刀を解かせ、自ら法興寺に赴いて髭と髪を剃り、袈裟をまとって吉野山に入った。世に吉野太子と称した。(注:「吉野太子」は本書の注記による。)大化元年九月、古人は田口川堀(たぐちのかわほり)、朴井椎子(えのいのしいのみ)、笠垂(かさのしだる)、倭漢文麻呂(やまとのあやのふみまろ)、秦田来津(はたのたくつ)らと謀反を企てた。(注:本書の注に、一説では十一月、吉野大兄王が謀反を企て、発覚して誅殺されたという。)まもなく垂(しだる)は天智天皇のもとに参上し、自首して罪を請うた。天智天皇は菟田朴室古(うだのえのむろこ)、高麗宮知(こまのみやち)に兵を率いさせて討たせ、古人父子を斬った。妃妾は自ら首をくくって死んだ。(注:「妃妾」以下は本書の注による。本書の注には、ある本によれば十一月甲午の晦日、中大兄(なかのおおえ)が阿倍渠曾倍臣(あべのこそべのおみ)・佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)に兵三千を率いさせ、古人大兄を攻めて斬り、あわせてその子を殺したという。)娘に倭姫王(やまとひめのおおきみ)がおり、天智天皇の皇后となった。(注:『日本紀』による。)

建皇子

蚊屋皇子の項に記す。

川島皇子

孝徳天皇の第一皇子。妃の小足媛(おたらしひめ)が有間皇子(ありまのみこ)を生んだ。

春日宮天皇﹝施基親王﹞

有間皇子(ありまのみこ)は生まれつき狡猾であった。斉明天皇三年、病を装って牟婁(むろ)の温湯に浴し、帰ってからその土地の風土を盛んに褒め称え、「その地にわずかに入っただけで、病が自然に治りました」と言った。天皇はこれを聞いて喜んだ。翌年、天皇は実際に牟婁に行幸し、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)が留守を預かった。ある日、赤兄は当時の政治の三つの過失を挙げて有間に語った。有間は喜び、赤兄が自分に好意を寄せていると思った。そこで赤兄の家を訪ね、楼閣に登って事を起こす相談をした。もたれていた脇息(きょうそく)が理由もなく折れたので、不吉だとして、二人で誓い合って計画を中止した。その夜、赤兄は物部朴井鮪(もののべのえのいのしび)に命じ、宮を造る人夫を率いさせて有間の市経(いちふ)の邸を包囲させ、早馬を走らせて注進し、ついに有間を捕らえた。その仲間の守大石(もりのおおいわ)、坂合部薬(さかいべのくすり)、塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)も、行在所に送られ、舎人の新田部米麻呂(にいたべのよねまろ)もこれに従った。皇太子(中大兄)は直接反乱の様子を尋ねたが、有間は「天と赤兄が知っている。私は知らない」と答えた。そこで丹此小沢国襲(たじひのおざわのくにそ)に命じて、有間を藤白坂(ふじしろのさか)で絞め殺させた。(注:『日本紀』による。)時に年十九であった。(注:『日本紀』の注による。)有間は磐代(いわしろ)を過ぎる際に悲しみ、手ずから松の枝を結んで歌を作った。後世、その松を結び松と呼んだ。(注:『万葉集』による。)鯯魚(このしろ)と米麻呂は罪を許され、大石は上野(かみつけの)に、薬は尾張に流された。(注:『日本紀』による。本書の注には、ある本によれば有間皇子は蘇我赤兄・塩屋小代(しおやのおしろ)・守大石・坂合部薬とともに短籍(たんじゃく)を取って謀反の吉凶を占ったという。有間皇子は「まず宮室を焼き払い、五百人を率いよう。一日二晩のうちに牟婁の港を襲い、すぐに船団で退路を断てば、事は成るだろう」と言った。ある者が諫めて、「謀ること自体は良いが、徳がない。今、皇子はまだ成人にも及ばぬ年齢である。願わくはまずその徳を養うことに努めるべきだ」と言った。また、有間皇子がある判事と謀議をした際、もたれていた机の脚が理由もなく折れ、ついに誅殺されるに至ったともいう。)

【弘仁】(大友皇子)二子

天智天皇の第四皇子(施基皇子)。(注:『続日本紀』を按ずるに施基皇子を天智天皇の第七子とするが、『日本書紀』の記載では四子までしかなく、他に考証すべきものがない。)嬪(ひん)の遠智娘(おちのいらつめ)は建皇子(たけるのみこ)を生んだ。宮人の色夫古娘(しこぶこのいらつめ)は川島皇子(かわしまのみこ)を生んだ。越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)は春日宮天皇施基(かすがのみやのすめらみことしき)を生んだ。宅子娘(やかこのいらつめ)は大友帝(おおとものみかど)を生んだ。(注:『日本紀』による。)

葛野皇子

建皇子(たけるのみこ)は生まれつき唖(おし)であった。斉明天皇はその性質が素直であることから、たいそう可愛がった。天皇四年五月に薨じ、時に年八歳、今城谷(いまきのたに)の上に仮埋葬された。斉明天皇は深く悲しみ、群臣に詔して「朕が万歳千秋の後には、合わせて山陵に葬るように」と言った。そして歌を三首作り、たびたび口ずさんだ。この年の冬、紀伊の温湯に滞在していた際にも、また建を思い出して三首の歌を口にした。秦大蔵万里(はたのおおくらのまり)に詔して「この歌を後世に伝え、忘れることのないように」と言った。(注:『日本紀』による。)

与多王

川島皇子(かわしまのみこ)。(注:川は河とも書く。)天武天皇九年、詔を受けて忍壁親王(おさかべのしんのう)や諸臣とともに帝紀および上古の事跡を編纂した。十三年、浄大参(じょうだいさん)を授けられた。(注:姓氏録には浄広壱川島王と称するが、本書には浄大参皇子河島薨と書かれている。『懐風藻』にも位は浄大参で終わったとある。これによれば浄広壱はおそらく贈位であろう。)朱鳥元年、封戸(ふこ)百戸を加増された。持統天皇五年、さらに百戸を加増され、それまでと合わせて五百戸となった。この年九月に薨じた。(注:『日本紀』による。)時に年三十五。川島は生まれつき温和で控えめな性質であり、度量が広く優雅で、大津皇子(おおつのみこ)とは無二の親友であった。大津が謀反を企てた際、川島は真っ先にその変事を密告し、大津はついに誅殺されたが、朝廷はその忠義を称えた。(注:『懐風藻』による。)

岡宮天皇﹝草壁太子﹞

春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)、名は施基(しき)。(注:本書によれば「芝基」とも書き、『続日本紀』では「志紀」あるいは「志貴」とし、音読で通じる。)朱鳥元年、二百戸の加封を受けた。持統天皇三年、撰善言司(せんぜんげんし)を拝命した。(注:『日本紀』による。)文武朝において親王となり、四品を授けられた。大宝三年、近江の鉄穴(かねあな)を賜った。慶雲元年、百戸の加封を受けた。和銅元年、三品を授けられた。七年、二百戸の加封を受けた。霊亀元年、二品に進んだ。二年八月に薨じた。(注:『続日本紀』による。)田原(たわら)に葬られた。(注:『延喜式』による。)

六人の男子があり、海上王(うなかみのおう)、春日王(かすがのおう)、壱志王(いちしのおう)、(注:『皇胤紹運録』による。)湯原王(ゆはらのおう)、榎井王(えのいのおう)、(注:『公卿補任』『皇胤紹運録』による。)白壁王(しらかべのおう)といった。称徳天皇が崩じた後、白壁王が皇統を継ぎ、これが光仁天皇である。親王を尊んで春日宮天皇と称し、(注:『続日本紀』による。)墓は山陵の列に加えられた。(注:『延喜式』による。)それゆえ田原天皇とも号した。生んだ男女はすべて親王となった。宝亀二年、国忌(こくき)を川原寺に置いた。夫人の紀氏、名は橡姫(とちひめ)は、天皇を生んだことにより皇太后と追尊され、また国忌が置かれた。海上は神亀の初め、従三位を授けられた。春日は天平の中頃、位は正四位下であった。壱志は和銅の中頃、従五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。本書に記された三人の爵位はここで終わり、他に見えるものはない。おそらくいずれも親王に昇る前に没したのであろう。)湯原と榎井はともに親王に昇った。(注:『公卿補任』による。)

三人の女子があった。衣縫女王(いぬいのじょおう)は初め従四位下を授けられ、内親王に昇って四品を授けられた。宝亀三年に薨じた。難波女王(なにわのじょおう)は内親王に昇って四品を授けられ、宝亀三年に三品に進んだ。光仁天皇がその邸に行幸した。翌年、さらに二品に進んだが、この年に薨じた。光仁天皇は大納言文室大市(ふんやのおおいち)、中納言石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)を遣わして弔わせた。坂合部女王(さかいべのじょおう)は内親王に昇って四品を授けられ、宝亀五年、光仁天皇がその邸に行幸して三品を授けた。九年に薨じた。(注:『続日本紀』による。)

湯原の子、壱志濃王(いちしののおう)は、性格が誇り高く礼法にとらわれず、酒を好んで談笑を楽しんだ。称徳・光仁・桓武の三朝に仕え、左右の大舎人頭(おおとねりのかみ)、(注:『公卿補任』による。)治部卿を歴任し、讃岐守を兼ね、参議を拝命し、(注:『続日本紀』『公卿補任』による。)大納言に至り、弾正尹(だんじょうのかみ)を兼ね、正三位を授けられた。延暦二十四年に薨じた。時に年七十三。(注:『公卿補任』の参議拝命の条の注には、神亀五年戊辰生まれとある。これによって推せば、この年は七十八歳のはずである。今はひとまず旧文に従う。)勅により従二位を贈られた。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)妹の尾張女王(おわりのじょおう)は光仁天皇の後宮に入った。(注:『皇胤紹運録』による。)

榎井の子、神王(じんのおう)は、(注:『公卿補任』による。)称徳天皇の時、従五位下を授けられた。光仁天皇が即位すると、従四位下に進み、左大舎人頭となった。(注:『続日本紀』『公卿補任』による。)弥努摩内親王(みぬまないしんのう)を妻とし、(注:『公卿補任』が引く『日本後紀』による。)延暦十年、桓武天皇がその邸に行幸して宴を催し、娘の浄庭王(きよにわのおう)に従五位下を授けた。(注:『続日本紀』による。)神王は参議、弾正尹、中納言、大納言を歴任し、従二位を授けられた。十七年、右大臣を拝命した。(注:『公卿補任』による。)大同元年四月に薨じた。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)時に年六十、吉野大臣と称された。(注:『公卿補任』による。)勅により正二位を贈られた。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)神王は生まれつき謙虚で慎み深く飾り気がなく、高い身分にありながらも最後まで身を全うすることができた。遺言により賜った鼓吹(こすい、儀仗の鼓笛)を辞退した。平城天皇は彼のために十人の僧を得度させた。(注:『公卿補任』による。)

大津皇子

大友帝(おおとものみかど)の第二皇子。十市内親王(とおちないしんのう)は葛野皇子(かどののみこ)を生んだ。(注:『懐風藻』による。)某氏は与多王(よたのおう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『濫觴抄』による。)

崇道尽敬皇帝﹝舎人親王﹞

葛野皇子(かどののみこ)は、器量が大きく奥深く、風采は秀でて優れ、その才は国家の柱石と称された。若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章をよく作り、書画にも優れていた。位は浄大肆(じょうだいし)、治部卿を拝命した。高市皇子(たけちのみこ)が薨じるに及んで、持統天皇は百官を集め、皇太子を立てる議を行った。群臣はそれぞれ私情をはさみ、議論は紛糾した。葛野は進み出て、「我が国家は神代以来、子孫が相承いで天位を襲ってきました。もし兄弟の間で相継ぐこととなれば、乱はこれより興ります。天の心を推し量ることは、どうして測り得ましょうか。しかし人事に照らして考えれば、聖なる後継ぎはおのずと定まっております。誰がこれに異を唱えられましょうか」と言った。弓削皇子(ゆげのみこ)がその場におり、何か言おうとしたが、葛野がこれを叱ると口をつぐんだ。天皇はその一言で国の根本を定めたことを称え、特に正四位下を授け、式部卿を拝命させた。(注:『懐風藻』による。)慶雲二年十二月に薨じた。(注:『続日本紀』による。)時に年四十五。(注:『懐風藻』に持統天皇十一年に三十七歳とある文に基づいて推算した。)子に池辺王(いけべのおう)がおり、聖武天皇に仕えて従五位上内匠頭(たくみのかみ)となった。池辺の子は淡海三船(おうみのみふね)といい、別に伝がある。

長親王

与多王(よたのおう)は帝(天智天皇)の遺命を奉じ、朱鳥元年、園城寺(おんじょうじ)の創建を奏上した。(注:『元亨釈書』『濫觴抄』による。『水鏡』は大友皇子の子と書くが名を載せず、また翌年の事としている点を按ずる。)

穂積親王

天武天皇の第十皇子。鸕野皇后(うののきさき、のちの持統天皇)は岡宮天皇草壁(おかのみやのすめらみことくさかべ)を生んだ。妃の大田皇女(おおたのひめみこ)は大津皇子(おおつのみこ)を生んだ。大江皇女(おおえのひめみこ)は長親王(ながのしんのう)・弓削皇子(ゆげのみこ)を生んだ。新田部皇女(にいたべのひめみこ)は崇道尽敬皇帝舎人(すどうじんけいこうていとねり)を生んだ。夫人の五百重娘(いおえのいらつめ)は新田部親王(にいたべのしんのう)を生んだ。大蕤娘(おおぬのいらつめ)は穂積親王(ほづみのしんのう)を生んだ。宮人の尼子娘(あまこのいらつめ)は高市皇子(たけちのみこ)を生んだ。穀媛娘(かじひめのいらつめ)は忍壁親王(おさかべのしんのう)・磯城皇子(しきのみこ)を生んだ。(注:『日本紀』による。)

弓削皇子

岡宮天皇(おかのみやのすめらみこと)、名は草壁(くさかべ)。天智天皇の壬戌(みずのえいぬ)の年、大津宮で生まれた。壬申の乱の際には天武天皇に従って東国に赴いた。七年、天皇が吉野宮に行幸し、皇后および草壁・高市・大津・川島・忍壁・施基の諸皇子に詔して、「朕は今、汝らとともに誓いを結び、千年の後も無事であるようにしたい」と言った。皆「聖旨はまことにその通りです」と答えた。そこで草壁がまず進み出て誓い、「私たち兄弟は、年長者から幼い者まで合わせて十数人の王があり、それぞれ異なる母から生まれています。しかし今より後は、同腹異腹の別なく、ともに天皇の明らかな詔を奉じ、忘れることなく違えることなく、互いに助け合って逆らうことはいたしません。天帝と神々、そして天皇がこれの証人です。もしこの誓いに背けば、たちまち命を失い、子孫は永く絶えるでしょう」と述べた。五人の皇子も順に同じように誓った。天皇は「朕は今、汝らを一人の母から生まれた子のように慈しみ愛している」と言い、衣の襟を開いて六人の皇子を抱き、「もしこの誓いに背けば、たちまち朕の身が滅びるであろう」と言った。皇后もまた同様に誓った。行幸から宮に戻ると、六人の皇子は御殿の前で天皇を拝した。九年二月、皇太子に立てられ、政務全般を統べた。十三年、浄広壱(じょうこういち)を授けられた。朱鳥元年、天皇が病むと、勅して「天下の事は大小を問わず、すべて皇后および皇太子に申し上げよ」と言った。まもなく四百戸の加封を受けた。持統天皇三年四月に薨じた。時に年二十八。(注:『日本紀』による。年二十八は本書の壬戌の年に生まれたという記述に基づく。)真弓丘(まゆみのおか)に葬られ、(注:『延喜式』による。)日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と称された。(注:『続日本紀』による。)翌年、天皇は皇太子のために絁(あしぎぬ)・糸・綿・布を三寺の安居(あんご)の僧二百余人に施した。(注:『日本紀』による。「二百」は一本には「三百」とある。)皇太子は阿閉皇女(あへのひめみこ)を娶り、文武天皇・元正天皇の二帝を生んだ。娘の吉備女王(きびのじょおう)は母の氏は不明だが、内親王に昇り二品を授けられた。左大臣長屋王(ながやおう)に嫁いだ。慶雲四年四月、詔により皇太子の忌日を国忌と定めた。天平宝字二年八月、追尊して岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)と称した。(注:『続日本紀』による。)

新田部親王

大津皇子(おおつのみこ)は、壬申の変の際、近江から直接伊勢に赴いて天皇(天武天皇)と合流した。十一年、朝政に参与した。十三年、浄大弐(じょうだいに)を授けられた。朱鳥元年、四百戸の加封を受けた。(注:『日本紀』による。)これより先、新羅の僧行心(ぎょうしん)という者が天文と占いに通じており、大津の人相を見て「皇子の骨相は、人臣の相ではありません。長く低い位に留まれば、身を全うできないでしょう」と言った。これにより謀反を勧め、大津はひそかに異心を抱くようになった。(注:『懐風藻』による。)天皇が崩じるに及んで、ついに謀反を企てた。事が発覚すると、当時朝政を執っていた持統天皇は、大津とその仲間である八口音橿(やくちのおとかし)、壱伎博徳(いきのはかとこ)、中臣臣麻呂(なかとみのおみまろ)、巨勢大益須(こせのおおやす)、僧行心、帳内(とねり)の礪杵道作(とぎのみちつくり)ら三十余人を捕らえるよう勅した。大津は訳語田(おさだ)の邸で死を賜り、時に年二十四であった。妃の山辺皇女(やまべのひめみこ)は髪を振り乱し裸足のまま駆けつけて後を追い、見る者は皆すすり泣いた。詔により道作は伊豆に流し、行心は飛騨の伽藍に移し、その他は皆許した。(注:『日本紀』による。)大津は容姿や立ち居振る舞いが堂々として、言葉遣いは明晰であった。幼い頃から学問を好み、広く書物を読んで文章をよくし、(注:『日本紀』による。『懐風藻』も参照した。)武を尊んで力も強く、剣術にも優れていた。(注:『懐風藻』による。)かつて天智天皇に深く愛されていた。(注:『日本紀』による。)壮年になると次第に奔放になり法度にとらわれなくなったが、それでも礼を尽くして士人に接したため、多くの人が彼に従った。処刑に臨んで作った詩に、「金烏(きんう、太陽)西舎に臨み、鼓声短命を催す。泉路に賓主無く、この夕べ誰が家にか向かう」とある。(注:『懐風藻』による。『皇胤紹運録』『豊原系図』にはいずれも、大津皇子に粟津王(あわづのおう)という子があり、父の事件に連座して備前の豊原郷に流されたとある。その子の公連(きみつら)が初めて豊原の姓を賜ったという。しかし他に証拠となるものがないため、ここには記さない。)

廃太子道祖王

崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)、名は舎人(とねり)。持統天皇九年、浄広弐(じょうこうに)を授けられた。(注:『日本紀』による。)文武朝において親王となり、二品を授けられた。慶雲元年、二百戸の加封を受けた。和銅七年、さらに二百戸を加えられた。養老二年、一品を授けられた。三年十月、詔して、「開闢以来、法令は久しいものである。君臣の位が定まり、国運にはそれぞれ帰するところがある。中古に至っては、旧来の道理に従うことはあったが、法の要目は明らかにならなかった。近江の御代(天智朝)に至って、緩急がすべて備わった。藤原の御代(持統・文武朝)に至って、かなりの取捨がなされた。これにより遠祖の正しい典範を考え、歴代の皇統の要綱を調べ、大いなる事業を受け継ぐこと、これは皇太子の任務である。しかし年齢がなお幼く、政道にいまだ習熟していない。そもそも天子の暦を握って皇位に登り、天子の図籍を統べて基を治める者は、補佐の人材を頼みとして太平を実現し、助け支える功によって国運を保つものである。まして舎人・新田部の二親王は、百代にわたる松や桂のように尊く、本家分家が祖先の祭祀において調和し、幾万もの城壁のように国家の重しとなっている。よろしく清く正しい心をもって、大いなる皇統を助け、仁義を支えとして幼い皇太子を助けてほしい。そうすれば太平の世が期待でき、盛んな国運がもたらされるであろう。慎まずにいられようか。今、この二親王は宗室の年長者であり、朕にとって重んじるべき存在である。すでに旧来の典範があるので、寵愛と褒賞を加えるべきである。一品舎人親王には内舎人二人、大舎人四人、衛士三十人を賜り、八百戸を加封し、それまでと合わせて二千戸とする。二品新田部親王には内舎人二人、大舎人四人、衛士二十人を賜り、五百戸を加封し、それまでと合わせて千五百戸とする。舎人は左右の雑務に供させ、衛士は道路の警護に充てよ。ああ、謹んでこれを承り、朕の意にそうように」と述べた。これより先、舎人は勅を奉じて『日本書紀』を編纂していた。四年五月に完成し、紀三十巻・系図一巻を献上した。八月、太政官の事を知る職(知太政官事)に就いた。聖武天皇の即位に及んで、五百戸の加封を受けた。天平七年十一月に薨じた。従三位鹿王(かのおう)らを遣わして喪の事を監護させた。その儀式は太政大臣に準じた。親王の男女に命じてすべて葬儀に会させた。中納言多治比県守(たじひのあがたもり)らを遣わして邸に赴かせ詔を宣べ、太政大臣を贈った。廃帝(淳仁天皇)の即位に及んで、追尊して崇道尽敬皇帝と称し、夫人の当麻山背(たいまのやましろ)を太夫人と尊び、生んだ男女はすべて親王とされた。(注:『続日本紀』による。)

七人の男子があり、守部王(もりべのおう)、三原王(みはらのおう)、船王(ふねのおう)、池田王(いけだのおう)、三島王(みしまのおう)、三使王(みつかいのおう)といった。太夫人当麻山背は廃帝(淳仁天皇)を生んだ。(注:『続日本紀』による。『続日本紀』を按ずるに、三嶋・三使にはともに舎人の子であるという記載がない。しかし『光仁紀』には、三島王の子は、守部王・三原王・船王の子とともに、皆本籍に復されたとある。三使王の子には王島(おうしま)・三浦(みうら)の二王がある。おそらく王島は三島の訛りであり、三浦は三使の訛りであろう。また『続日本紀』は廃帝を舎人の第七子とし、その人数もこれに合致するので、これを証とすることができる。『紹運録』にはさらに出木井王(いできいのおう)・貞代王(さだよのおう)があるが、他に証拠となるものがないので記さない。また廃帝の兄たちについて按ずるに、『続日本紀』が親王と称するのは船王と池田王だけである。三原はすでに先に薨じ、守部・三島は廃帝紀以後に見えないので、これも先に卒したのではないかと疑われる。ただ三使だけは存命であったのに官位を進められなかった。今その理由は詳らかでない。)二人の女子があり、室女王(むろのじょおう)、飛鳥田女王(あすかたのじょおう)といった。守部王は聖武天皇に仕え、従四位上を授けられた。三人の子があり、笠王(かさのおう)は廃帝の時に従四位下を授けられ、左大舎人頭となった。神護景雲二年、従五位下を授けられたが、その時は無位であった。(注:ここで「無位」と言い、下で「本籍に復す」と言うことから、彼がかつて廃帝の事件に連座していたことがわかる。しかし記載がなく、他にも考証すべきものがない。何鹿(かせか)も同様である。)宝亀二年、弟の何鹿為奈(かせかのいな)とともに山辺真人(やまべのまひと)の姓を賜った。五年、玄蕃頭(げんばのかみ)となり本籍に復し、後に正五位上大膳大夫(だいぜんのだいぶ)に至った。何鹿王という。宝亀七年、為奈とともにまた本籍に復し、為奈王(いなのおう)と称し、(注:「為奈」は本書には「豬名部奈」とも書かれるが、音訓が通じる。)従五位下を授けられた。三原王は聖武・孝謙朝に仕え、弾正尹、大蔵卿・治部卿を歴任し、中務卿に転じ、正三位を授けられた。天平勝宝四年に薨じた。(注:『続日本紀』『公卿補任』による。)七人の子があり、丹波王(たんばのおう)、(注:『皇胤紹運録』による。)慶雲の中頃、従五位下を授けられた。和気王(わけのおう)は別に伝がある。山口王(やまぐちのおう)は天平宝字八年、弟の長津(ながつ)とともに廃帝の事件に連座し、三長真人(みながのまひと)の姓を授けられ、丹後に配流された。宝亀二年、ともに本籍に復し、後に従五位上を授けられ、大監物(だいけんもつ)となった。長津王(ながつのおう)は従五位下図書頭(ずしょのかみ)、(注:『続日本紀』による。)小倉王(おぐらのおう)。(注:『続日本後紀』承和四年による。)延暦の中頃、少納言となり、(注:『続日本紀』による。)位は正五位下であった。(注:『続日本後紀』による。)細川王(ほそかわのおう)、(注:『皇胤紹運録』による。)天平勝宝七年、岡真人(おかのまひと)の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)石浦王(いしうらのおう)。(注:『皇胤紹運録』による。本書には「石浄王」とあるが、今は『続日本紀』に従う。)延暦の中頃、少納言となった。(注:『続日本紀』による。『皇胤紹運録』にはさらに皇川王(みかわのおう)が載るが、他の書物に見えないため採用しない。)二人の女子があり、小家女王(おやけのじょおう)、(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。本書には「小宅」とあるが、今は『続日本紀』に従う。)内親王に昇った。天平勝宝元年、伊勢斎王(いせのいつきのひめみこ)となった。(注:『一代要記』による。)宝亀三年、中務大輔菅生王(すごうのおう)と姦通し、本籍を削られた。弓削女王(ゆげのじょおう)、(注:『皇胤紹運録』による。)従四位下三方王(みかたのおう)に嫁ぎ、位は正五位上であった。延暦元年、三方および正五位下山上船主(やまのうえのふなぬし)とともに、呪詛を行って天皇を害そうとした。事が発覚し、詔により三方と弓削は死一等を減じられ日向(ひゅうが)に配流された。船王は別に伝がある。池田王は聖武・孝謙朝に仕え、弾正尹・畿内巡察使となり、刑部卿に遷り、位は正四位上であった。天平宝字元年、皇太子を議した際、池田は孝道に欠けるとして立てられなかった。廃帝(淳仁天皇)の即位に及んで従三位に進み、摂津大夫を兼ねた。翌年、親王に昇り、あらためて三品を授けられ、糺政尹(きゅうせいのかみ)となった。五年、稲十万束を賜った。七年、上表して、「臣の男女五人は、その母が凶悪な一族の出であり、臣はその逆賊を憎んで王籍に載せませんでした。しかし歳月が過ぎ、聖なる恩沢が広く行き渡っている今、これを処置しなければ、聖なる教化のもとにありながら、居場所を失う民が出ることを恐れます。伏してお願いいたしますのは、御長真人(みながのまひと)の姓を賜り、永く国内の一族としていただくことです」と述べた。詔により許された。廃帝が廃されるに及んで、多くの馬図(占いの図か)を集めて不軌を図ったとして責められ、諸王に降格され、土左(とさ)に流された。三島王は従四位上を授けられた。子に林王(はやしのおう)があり、天平宝字の中頃、従四位下を授けられ、木工頭(もくのかみ)となった。宝亀二年、山辺真人の姓を賜った。二人の娘、河辺王(かわべのおう)、葛王(かずらのおう)はともに従四位下。天平宝字八年、伊豆に配流された。宝亀二年、本籍に復した。三使王は従四位下、大膳大夫。天平宝字四年に卒した。子に三直王(みなおのおう)、庸取王(ようしゅのおう)、三宅王(みやけのおう)。二人の娘、畝火女王(うねびのじょおう)、石部女王(いそべのじょおう)。宝亀二年、ともに山辺真人の姓を賜った。室女王は初め従四位下を授けられた。天平宝字三年、内親王に昇り四品を授けられた。この年に薨じた。飛鳥田女王も初め従四位下を授けられ、また内親王に昇り四品を授けられ、まもなく稲四万束を賜った。宝亀四年、本の位である従四位下に復した。延暦元年に卒した。(注:『続日本紀』による。本書を按ずるに、天平宝字三年六月、室王・飛鳥田王に四品を授けたと書き、十一月に室内親王が薨じたと書く。一品舎人親王の娘である。飛鳥田の皇族としての親疎については他に考証するものがない。しかし五年十月に「飛鳥田内親王」と書かれていることから、これもまた舎人の娘であり、廃帝の事件に連座したものと思われる。本籍への復帰については、本書には見えない。しかし今「本位に復す」とあるので、その記載漏れは明らかである。)

高市皇子

長親王(ながのしんのう)は持統天皇七年、浄広弐を授けられた。(注:『日本紀』による。)文武朝において親王となり二品を授けられ、慶雲元年、二百戸の加封を受けた。和銅七年、二百戸を加えられた。霊亀元年六月に薨じた。(注:本書の本条には一品と書かれているが、その子女の薨卒の条には二品と書かれている場合がある。『続日本後紀』にも一品あるいは二品とあり、『公卿補任』『一代要記』には一品とある。いずれが正しいか未詳。)子に栗栖王(くりすのおう)があり、従三位中務卿。天平勝宝五年に薨じた。文屋浄三(ふんやのきよみ)、文屋大室(ふんやのおおむろ)はともに別に伝がある。娘に広瀬女王(ひろせのじょおう)がおり、従三位を授けられた。天平神護元年に薨じた。(注:『続日本紀』による。本書を按ずるに大市(おおいち)を第七子とする。これによれば長の子はここに載る以上の人数がいたことになる。『皇胤紹運録』の記載も詳らかでない。)

忍壁親王

穂積親王(ほづみのしんのう)は持統天皇五年、五百戸の加封を受け、この時の位は浄広弐であった。(注:『日本紀』による。)文武朝において親王となり二品を授けられた。慶雲元年、二百戸の加封を受けた。二年、太政官の事を知る職(知太政官事)に就いた。翌年、年ごとの禄を右大臣に準じることとされた。霊亀元年、一品を授けられた。七月に薨じた。(注:『続日本紀』による。)

磯城皇子

弓削皇子(ゆげのみこ)は持統天皇七年、浄広弐を授けられた。(注:『日本紀』による。)文武天皇三年七月に薨じた。(注:『続日本紀』による。)

【聖武】二子

新田部親王(にいたべのしんのう)は文武天皇四年、浄広弐を授けられ、後に親王となり二品を授けられた。慶雲元年、百戸の加封を受けた。和銅七年、二百戸の加封を受けた。養老三年、舎人親王とともに詔を奉じて皇太子を輔佐した。内舎人二人、大舎人四人、衛士二十人を賜り、五百戸を加封され、それまでと合わせて千五百戸となった。四年、五衛および授刀舎人の事を統べた。聖武天皇の即位に及んで二品に進んだ。天平三年、畿内大総管となった。七年九月に薨じ、舎人親王を遣わしてその邸で弔わせた。十月、詔して「親王が薨じた際には、七日ごとに斎会を供し、僧百人を上限として、四十九日をもって終える。今後はこれを先例とせよ」と述べた。二人の子、道祖王(ふなどのおう)、氷上塩焼(ひかみのしおやき)。(注:『続日本紀』による。)塩焼には別に伝がある。

皇太子某

道祖王(ふなどのおう)は天平の中頃、従四位上を授けられ、散位頭・中務卿となった。天平勝宝八年五月、聖武天皇は遺詔を孝謙天皇に遺し、道祖を皇太子とした。しかし喪中の振る舞いに礼を欠いた。翌年三月、廃され、王の爵位を賜って邸に帰された。七月、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が廃立を謀った際、道祖もその謀議に加わった。事が発覚し、兵を遣わして捕らえた。名を麻度比(まどい)と改めさせられ、役人による拷問を受け、杖の下で死んだ。(注:『続日本紀』による。)

安積親王

高市皇子(たけちのみこ)は、天皇(天武天皇)が挙兵した際、近江にいた。天皇は大分恵尺(おおきだのえさか)を遣わして召した。高市はすぐに鹿深(かふか)を越え、積殖(つみえ)の山口で合流し、命を受けて不破関(ふわのせき)に至り、和蹔(わざみ)に駐屯して軍事を監督した。折しも近江からの駅使(はゆまづかい)である韋那磐鍬(いなのいわすき)、書薬(ふみのくすり)、忍坂大麻呂(おさかのおおまろ)が東国へ兵を徴発しに向かっていた。高市は伏兵を設けて薬と大麻呂を捕らえ、天皇が桑名に入ったと聞いて使いを走らせ、「今、軍から遠く離れることは不都合です」と伝えた。天皇はそこで不破に赴き、高市は野上(のがみ)で出迎えた。天皇は高市に「近江朝では、左右大臣以下、智謀に長けた臣が多い。今、朕には共に事を計る者がなく、ただ幼い子供がいるだけだが、これをどうしたものか」と言った。高市は腕まくりをして剣に手をかけ、「近江の群臣は多くとも、どうして天皇の御霊威に逆らえましょうか。天皇おひとりであっても、臣高市は神々の霊威を頼み、天皇の命を奉じて、諸将を率いて征討いたします。どうして拒むことがありましょうか」と言った。天皇はこれを褒め、手を取り背をなでて「慎んで怠るな」と言った。そして鞍馬を賜り、すべての軍事を任せた。高市は和蹔に戻った。乱の平定後、命を受けて近江の群臣の罪を宣告し、それぞれ斬罪・流罪に処した。十三年、浄広弐を授けられた。朱鳥元年、四百戸の加封を受けた。持統天皇四年七月、太政大臣となった。十月、高市は公卿百官を率いて藤原宮の地を視察した。五年、二千戸を増封された。六年、さらに二千戸を増封され、それまでと合わせて五千戸となった。七年、浄広壱を授けられた。十年七月に薨じた。(注:『日本紀』による。本書を按ずるに「後皇子尊薨」と書かれている。『釈日本紀』には、これは高市皇子であるとする。今これに従う。)

二人の子があり、長屋王(ながやおう)、(注:『公卿補任』『皇胤紹運録』による。)別に伝がある。鈴鹿王(すずかのおう)。二人の娘、河内女王(かわちのじょおう)、山形女王(やまかたのじょおう)。鈴鹿王は元明・元正・聖武の三朝に仕え、大蔵卿・参議を歴任した。天平九年、太政官の事を知る職に就き、まもなく式部卿を兼ね、位は従二位であった。十七年九月に薨じた。五人の子があり、豊野出雲(とよののいずも)は聖武・孝謙・廃帝・光仁の四朝に仕えた。天平宝字元年、弟の篠原(しのはら)、尾張(おわり)、奄智(あむち)、猪名部(いなべ)とともに豊野真人(とよののまひと)の姓を賜り、北陸道観察使・右中弁となった。神護景雲二年、上奏して「佐渡国の国分寺の料である稲一万束は、いつも牟支(むき)にあるが、越後にあり、常に農繁期に当たります。民を差し向けて運送させれば、海路の風波により、しばしば数か月を要します。漂流・沈没することもあり、さらに運搬費用が徴収されます。どうか本国の田租を割いて、これに充ててください」と述べた。制により許可された。まもなく土左守(とさのかみ)を兼ねた。宝亀の中頃、太宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、位は従四位下であった。八年に卒した。豊野篠原は孝謙・廃帝朝に仕え、従五位下を授けられ、外衛中将・弾正弼(だんじょうのすけ)を歴任した。豊野尾張もまた孝謙・廃帝朝に仕え、正五位下を授けられ、糺政弼(きゅうせいのすけ)・能登守を歴任した。豊野奄智は孝謙・廃帝・光仁・桓武の四朝に仕え、右中弁・中務大輔を歴任し、位は従四位下であった。延暦三年に卒した。豊野五十戸(とよののいそべ)は初め猪名部と名乗り、称徳天皇に仕え、従五位上出雲介であった。(注:本書を按ずるに天平宝字元年、従五位下出雲王・篠原王・尾張王・無位奄智王・猪名部王に豊野真人の姓を賜ったと書くが、鈴鹿王の子とは書かれていない。しかし宝亀元年、豊野真人出雲に従四位下、豊野真人奄智に正五位下、豊野真人五十戸に従五位上を授けたとあり、これはその父鈴鹿王の旧宅を山陵としたためである。また本書に篠原・尾張の経歴が神護景雲年間までしか載っていない。これらを併せて考えると、これは恩賜による昇叙であろう。彼らが鈴鹿の子であることは疑いない。)河内女王は正三位を授けられた。宝亀十年に薨じた。山形女王もまた正三位を授けられ、天平十七年に薨じた。(注:『続日本紀』による。)

【光仁】五子

忍壁親王(おさかべのしんのう)。(注:忍壁は『続日本紀』には「刑部」とも書かれ、訓読で通じる。)壬申の乱の際、天皇(天武天皇)に従って東国に入った。九年、詔を奉じて帝紀および上古の事跡を編纂した。十三年、浄大参を授けられた。朱鳥元年、百戸の加封を受けた。(注:『日本紀』による。)文武天皇四年、勅により藤原不比等(ふじわらのふひと)とともに律令を撰定した。後に親王となり三品を授けられた。大宝三年、太政官の事を知る職に就いた。慶雲元年、二百戸の加封を受けた。二年、越前の野一百町を賜った。五月に薨じた。

子に山前王(やまさきのおう)があり、文武・元明・元正の三朝に仕え、従四位下、(注:『続日本紀』による。)刑部卿となった。養老七年に卒した。娘に小長谷女王(おはつせのじょおう)があり、尚膳(ないぜんのかみ)従三位。山前王の子に茅原王(ちはらのおう)があり、人となりは凶暴で、酒場に遊ぶことを好んだ。天平・宝字の中頃、御使麻呂(みつかいまろ)と博打をしていたところ、突然酒に酔って乱暴し麻呂を刺し、その股の肉をえぐり取り、胸の上に置いてなますにした。その他の罪状も明白であった。役人が奏上して弾劾したが、廃帝(淳仁天皇)は皇族であることから法にかけるに忍びず、王の爵位を削り、龍田真人(たつたのまひと)の姓を賜り、子女とともに多褹島(たねのしま)に流した。娘に池原女王(いけはらのじょおう)があり、初めは母方の家の姓を名乗り、栗前枝女(くりさきのえだめ)と称していた。宝亀十一年、勅により今の名に改め、王の爵位を賜り、従五位下を授けられた。(注:『続日本紀』による。)

崇道天皇﹝早良親王﹞

磯城皇子(しきのみこ)は朱鳥元年、五百戸の加封を受けた。(注:『日本紀』による。)

稗田親王

聖武天皇の第二皇子。藤原皇后(ふじわらのきさき、光明皇后)は皇太子某(基王)を生んだ。夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)は安積親王(あさかのしんのう)を生んだ。(注:『続日本紀』による。)

他戸廃太子

皇太子某。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』には基王(もといおう)と作る。『歴代皇紀』には基親王と作る。『帝王編年記』には某親王とある。按ずるに「基」はおそらく「某」の字の誤りであり、旧史にはそもそも親王であったという記載が見えないので、今はいずれも採用しない。)神亀四年閏九月に生まれた。天皇は中宮に出御し、天下に大赦を行った。百官に物を賜り、天下の民でこの皇子と同じ日に生まれた者には、布一端、綿二屯、稲二十束を賜った。十一月、太政官および八省が上表して奉賀し、玩具を献上した。そこで文武百官以下使部(しぶ)に至るまでを朝堂で宴し、五位以上に綿を賜った。代々の嫡子で、身に五位以上の位を帯びる者には、特に絁十匹を加えた。詔してこの皇子を皇太子に立てた。僧尼など九十人が上表して奉賀し、それぞれに応じた物を施した。翌年八月、皇太子が病んだ。勅して観世音像百七十七体を造らせ、経百七十七巻を写させ、天下に大赦を行い、諸陵に幣帛(へいはく)を奉って祓い清めさせた。九月に薨じた。年二歳。天皇は深く悲しみ惜しみ、三日間朝政を休んだ。那富山(なほやま)に葬られたが、早世のため喪礼を具えなかった。しかし在京の官人以下、および畿内の百姓は三日間喪服を着け、諸国の郡司はそれぞれの郡で三日間哀悼の儀を行った。智行に優れた僧九人を選び、墓のそばに廬(いおり)を結んで冥福を祈らせた。(注:『続日本紀』による。)

広根諸勝

安積親王(あさかのしんのう)。(注:『皇胤紹運録』には別に浅香皇子が載るが、安積と浅香は音訓が同じであり、これを二人とするのは誤りである。)天平十六年閏正月、難波宮への行幸に従った。途中、脚気を患い、桜井の頓宮(かりみや)から帰る途中で薨じた。年十七。従四位下大市王(おおいちのおう)、紀飯麻呂(きのいいまろ)らを遣わして喪の事を監護させた。(注:『続日本紀』による。)

僧開成

光仁天皇の第六皇子。井上皇后(いのえのきさき)は廃太子他戸(おさべ)を生んだ。贈皇太后高野氏(たかののうじ)は桓武天皇、崇道天皇早良(すどうてんのうさわら)を生んだ。(注:『続日本紀』による。)尾張女王は稗田親王(ひえだのしんのう)を生んだ。(注:『続日本紀』による。)宮人の県犬養男耳(あがたのいぬかいのおみみ)は広根諸勝(ひろねのもろかつ)を生んだ。(注:『姓氏録』による。)僧開成(かいじょう)は母の氏が不明である。

崇道天皇、名は早良(さわら)。初め親王であった。天応元年四月、桓武天皇が即位すると、皇太子に立てられた。(注:『続日本紀』による。『一代要記』を按ずるに、神護景雲二年に出家し、年十一で東大寺に住んだという。宝亀元年、親王の号を賜った。天応元年、皇太子に立てられ、年三十二であったという。『皇胤紹運録』にも天応元年に太子となり、年三十二とある。しかし彼が僧であったこと、また親王であったことは、本書にはいずれも見えない。また景雲二年に十一歳であれば、天応元年には二十四歳のはずであり、三十二という数字とも合わない。ゆえに採用しない。)天皇は常に遊幸を好み、政務を太子に委ねた。太子は佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を参議としたが、中納言藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が「佐伯氏は昔から参議に任じられた者がありません。おそらく不適当でしょう」と奏上した。天皇はすぐに参議の任を取り消し、代わりに従三位を授けた。太子はこれを恨み、種継を殺すよう願い出た。天皇は聞き入れず、これより次第に太子を疎んじるようになり、政務も委ねなくなった。太子はますます恨みを募らせた。(注:『水鏡』による。)延暦四年八月、天皇が平城宮に行幸し、右大臣藤原是公(ふじわらのこれきみ)、種継らに命じて太子の留守を輔佐させた。九月、太子は左少弁大伴継人(おおとものつぐひと)、および大伴竹良(おおとものたけよし)、東宮少進佐伯高成(さえきのたかなり)らと謀り、人を使って種継を射殺させた。天皇は大いに驚き、急いで都に戻り、継人・竹良らおよび射手を捜索して誅殺し、その仲間を流罪にした。廃太子は乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。(注:『続日本紀』による。『日本紀略』も参照した。)太子は絶食したが、十日余り死ななかった。宮内卿石川垣守(いしかわのかきもり)らを遣わして太子を淡路に流したが、高瀬橋(たかせばし)に至って息絶え、遺体を運んで淡路に葬った。(注:『日本紀略』による。『水鏡』には山崎(やまざき)で薨じたとある。『一代要記』には海上で薨じたとあるが、おそらく誤りであろう。)九年、勅により墓を守る一戸を置いた。(注:『類聚国史』による。)

十一年、皇太子(のちの平城天皇)が長く病んだ。これを占ったところ、廃太子の祟りとされた。そこで諸陵頭(しょりょうのかみ)や諸使の王らを遣わして謝罪させた。(注:『日本紀略』による。)勅して「先に淡路国に廃太子のために墓守り一戸を置かせ、近隣の郡司にその事を専ら担当させた。しかし担当の役所が注意を怠り、祟りを招くこととなった。今後は墓の下に堀を設け、汚れることのないようにせよ」と述べた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)廃太子の死後、多くの人が疫病で死んだ。(注:『水鏡』による。)天皇はこれを恐れ、僧を淡路に遣わして経を読ませ、福を修めさせた。(注:『日本紀略』による。)使者を遣わしてその遺骸を迎えさせようとしたが、使者は二度も海で溺れた。十七年、改めて廃太子の甥である参議五百枝王(いおえのおう)を遣わして懇ろに祈らせたところ、ようやく淡路に至ることができ、遺骸を迎えて都に帰った。勅により大和の八島(やしま)に納めた。(注:『水鏡』による。)十九年七月、詔して追号して崇道天皇と称し、墓を山陵と称した。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)さらに淡路・津名郡の民二烟(にえん)を墓守りに加えた。天皇が病むと、淡路に霊安寺(りょうあんじ)を創建し、小倉(米倉)を造って稲三十束を蓄え、調庸の綿各百五十斤をもってその山陵に供えさせた。(注:『類聚国史』による。)また諸国に小倉を建てさせ、正税三十束を納めさせ、国忌の列に加えて幣帛を奉らせた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)これより先、詔して「その仲間で貶められ左遷された者を、すべて赦して帰らせよ」と述べた。崩御に臨んでは、「生死を問わず、皆本の位に復せよ」と勅した。(注:『日本紀略』による。)諸国の国分寺に命じて、「毎年春秋の二仲月(ちゅうげつ)ごとに、金剛般若経を各七日間読み、その霊を慰めよ」と述べた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)平城天皇の即位に及んで、さらに山階(やましな)に八島寺を営み、諸国の正税を割いて、その一部を献上させた。(注:『水鏡』による。)貞観五年、勅により御霊会(ごりょうえ)を神泉苑(しんせんえん)で修し、疫病を祓わせ、崇道天皇を第一座とした。(注:『三代実録』による。)後世、社を建てて祭った。いわゆる八所御霊(はっしょごりょう)の一つである。(注:『帝王編年記』による。)

稗田親王。(注:『水鏡』は二子とする。)宝亀六年、四品を授けられた。天応元年、三品に進んだ。十二月に薨じた。年三十一。(注:『続日本紀』による。)子に高橋王(たかはしのおう)があり、(注:『三代実録』による。『皇胤紹運録』には高橋親王と作るが誤り。)官は正四位下宮内卿に至った。(注:『文徳実録』による。)葛野王(かどののおう)は従四位上を授けられた。(注:『日本後紀』による。)

廃太子他戸(おさべ)。初め親王であった。宝亀二年正月、皇太子に立てられ、天下に大赦を行った。(注:『続日本紀』による。)他戸は天皇(光仁天皇)の第四子であったが、皇后(井上内親王)の生んだ子であることから、年十一にして諸兄を超えて東宮に立てられた。(注:『水鏡』による。『歴代皇紀』は崇道天皇を第四子とするが、いずれが正しいか未詳。)三年五月、これより先、皇后が淫らな振る舞いをし、天皇を弑して太子を立てようと謀ったとして、連座して廃された。(注:皇后の弑逆の謀は『水鏡』に見える。)ここに至って、詔により太子を廃し庶人とした。翌年、皇后と他戸は大和国宇智郡の没官の宅に幽閉された。六年四月に卒した。(注:『続日本紀』による。『水鏡』を按ずるに、九年二月、ある者が「他戸親王はなお生存している」と奏上したという。天皇は再び東宮に立てようとし、使者を遣わして見させた。藤原百川(ふじわらのももかわ)は使者を召して、「お前が事実のままに奏上すれば、国はこれより乱れるだろう。もし事実を告げれば、私はお前を必ず殺す」と言った。使者は行って見たところ、他戸には何の異常もなかった。しかし百川を恐れ、戻って「事実は親王ではなく、他人が偽って名乗っているだけです」と奏上した。他戸の乳母と侍者は使者と激しく言い争い、使者は「もし私に偽りがあれば、両目が飛び出るであろう」と誓った。百川は他戸を追放するよう命じ、使者は後に実際に両目が飛び出したという。しかし本書には六年にすでに卒したと書かれており、この説は信用するに足りないため、ここに付記するにとどめる。)

広根諸勝は正六位上を授けられた。延暦六年、広根朝臣(ひろねのあそん)の姓を賜り、(注:『姓氏録』による。)左京三条に本籍を置いた。(注:『一代要記』による。)嵯峨天皇の御代、摂津介となった。天皇がかつて水生野(みなせの)で狩りをした際、摂津国が物を献上したので、詔により国司に位を授け、諸勝を従五位上に昇らせた。(注:『類聚国史』による。)本籍を一条一坊に改めた。(注:『一代要記』による。)

僧開成(かいじょう)は、初めの名を某といい、桓武天皇の庶兄である。(注:『元亨釈書』による。『皇胤紹運録』『拾遺往生伝』を按ずるに桓武天皇の子とするが、今その没年を考えるに、実に天応元年で五十八歳であった。この時、桓武天皇は四十五歳であった。これによれば彼が桓武天皇の兄であることは疑いない。)天皇(光仁天皇)がまだ位に就く前、身分の低い妾のもとに通って生まれた子であり、世に知る者はなかった。(注:『勝尾山流記』による。本書には東宮であった時に生まれた子とするが、『続日本紀』によれば天皇が東宮であったのは景雲四年である。本書の記載は誤りであるので、今これを正した。)成長すると聡明で、外典(仏典以外の書物)を暗誦した。天平神護元年正月、ひそかに摂津の勝尾山(かつおざん)に登って出家し、開成と名乗り、桂洞(けいどう)に住み、僧善仲(ぜんちゅう)・善算(ぜんさん)に師事した。(注:『勝尾山流記』『元亨釈書』による。)後に桂の木を伐って草堂を構え、天皇は摂津国豊島郡(てしまのこおり)の稲一千束を施して経費に充てさせた。これを弥勒寺(みろくじ)と名付けた。宝亀六年、島下郡(しまのしものこおり)の水田六十町を賜った。天応元年十月に卒した。年五十八。延暦元年十月、勅により開成のために法華八講(ほっけはっこう)を修し、これを恒例とした。清和天皇はかつてこの寺に行幸し、勝尾寺(かつおうじ)と改称して額を賜った。(注:『勝尾山流記』による。)