卷之二十八 本紀二十八
清和天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
清和天皇
¶清和天皇は、諱を惟仁(これひと)といい、文徳帝の第四子である。母は皇太后・藤原氏という。
¶嘉祥三年三月二十五日癸卯、外祖父・右大臣藤原良房(よしふさ)の一条第でお生まれになった。十一月、皇太子に立てられた。
¶天安二年八月二十七日乙卯、文徳帝が崩御した。二十九日丁巳、東宮に御所を移し、諸衛府は甲冑を着けて警備にあたった。この夜、紫微宮(しびきゅう)に星が入り、赤きこと火のようで、長さは十丈ほどであった。九月三日辛酉、月の中に黒子(こくし、黒い染み)が現れ、たちまち血のように赤くなった。六日甲子、文徳天皇を葬った。七日乙丑、内外に詔を宣べてこう仰せられた。「一周忌の間は哀悼を厳粛に守るべきであり、たとえ易月の制(喪の期間を月で日に易える制度)に従うとしても、天下の民は、なおいっそう心喪(しんそう、心の中での服喪)の憂いを抱くべきである。よろしく飲宴・音楽・華美な服装を禁ずべし。」八日丙寅、諸衛府は警戒を解いた。十四日壬申、夜、宮中に雷のような音がした。十六日甲戌、天皇の除服(じょふく、喪服を脱ぐこと)の儀があり、百官は吉服(きちふく、晴れの装束)を着けた。二十二日庚辰、地震があった。晦日の丁亥、東南から西北へ流れる流星があり、落ちるときに雷のような音がした。十月戊子朔、日食があった。六衛府で宿直に当たった者に、絹・綿を差をつけて賜った。八日乙未、陰陽寮の漏刻(ろうこく、水時計)の銅器が自然に鳴った。十一月七日甲子、天皇は大極殿で即位した。時に9歳であった。生母の藤原氏を尊んで皇太夫人とし、太政大臣・藤原良房、左大臣・源信(みなもとのまこと)、右大臣兼左近衛大将・藤原良相(よしみ)、大納言兼右近衛大将・安倍安仁(あべのやすひと)は、いずれも元のままとした(注:太政大臣以下の官職は公卿補任による。案ずるに、大鏡の裏書には良房がこのとき摂政であったと記し、公卿補任にもまた「摂政太政大臣」と記す。この二書はまた、貞観七年に帝が元服し、良房が摂政を辞したこと、八年に重ねて勅により天下の政を摂行させたことを載せる。しかし三代実録を考えるに、八年の記事には、ただ「勅して太政大臣とし、天下の政を摂行させた」とあるのみで、二十九日の条であり、再び摂政の命があったとは言っていない。思うに、帝が幼くして即位したため、良房は外戚の大臣として庶政を摂行したが、まだ摂政という名はなかったのであろう。その後、帝がやや成長して元服し、みずから政務を執るに及んで、初めて特に摂行の勅があったのである。この二書が良房をもって摂政の始めとするのは、後世の摂関の故事に牽強付会しようとしたためであろう。今はこの説を採らない)。九日丙寅、地震があった。十七日甲戌、大納言・安倍安仁が右近衛大将を罷めた。二十一日戊寅、中納言・源定(みなもとのさだむ)を右近衛大将に任じた。二十五日壬午、詔して中宮職(ちゅうぐうしき)を皇太后宮職と改めた。この月、平野・春日・大原野・園韓神(そのからかみ)の鎮魂祭、新嘗祭を停止した。十二月八日乙未、贈皇后・高志内親王(たかしないしんのう)の忌日の行事を停止した。九日丙申、初めて十陵四墓を定めた。十日丁酉、真原陵(まはらのみささぎ)を田邑陵(たむらのみささぎ)と改めた。十三日庚子、地震があった。この年、武蔵・陸奥で大水があり、下野で大風があり、出羽で霜・雹があり、加賀で水害・旱害があった。
¶貞観元年己卯、春正月戊午朔、諒闇(りょうあん、天皇の服喪)のため朝賀を受けなかった。二十一日戊寅、美濃国が「紫雲が現れた」と言上した。二十二日己卯、筑前国志摩郡の兵庫(武器庫)の鼓が自然に鳴り、弓矢が音を発した。この月、青馬(あおうま)の節・踏歌(とうか)の節・六衛府の射礼(じゃらい)を停止した。二月丁亥朔、釈奠(せきてん、孔子を祭る儀式)を停止した。十一日丁酉、赤・黄・白の気が日を繞(めぐ)り、その形は車輪のようであった。二十七日癸丑、諸国に勅して神社を修理させた。三月三日己未、御斎(ごさい)の燈火を停止した。夏四月丙戌の朝、日食があった。七日壬辰、武蔵・下野・陸奥・出羽・加賀・出雲に賑給(しんごう、困窮者への施し)を行った。十五日庚子、改元した。詔してこう仰せられた。「朕が聞くところによれば、いにしえより元を体し正に居る者は、運はそれぞれ根本を異にし、事はそれぞれ沿革を異にするとはいえ、正朔(せいさく、暦)を改め徽章(きしょう、旗や印など)を変えて、民の視聴を改めないことはない。それゆえ皇統の系譜は計り知れず、万朔(ばんさく)を積み重ねても飽きることがなく、帝系は果てがなく、千年を経ても限りがない。今まさに春の恵みはすでに行き渡り、夏の徳がめぐりつつある。多くの鳥は翼を整えて初めて飛び立ち、多くの花は実を結んで新たに結実する。この物候の様を見れば、改元をすべき時であることがわかる。天安三年を改めて貞観元年とする。皇統の道を正しく一にして、あらゆるものにこれを及ぼし、すべてを保全させよう。宝暦・延長(ともに中国の元号で、長寿を象徴する語)のように、天地とともに永く年を重ねよう。」二十八日癸丑、詔して新銭を鋳造させた。五月五日庚申、諒闇のため端午の節を停止した。十日乙丑、渤海(ぼっかい)国が入貢した。十三日戊辰、備前国が白雀を献上した。十七日壬申、雹が降った。六月四日戊子、京師(みやこ)の飢えた民に賑給を行った。二十二日丙午、大風雨があり、木を折り家屋を破壊した。秋七月十三日丙寅、諸国に詔して管内の諸寺を修理させた。十四日丁卯、神宝・幣帛を名神大社に奉った。十九日壬申、内教坊(ないきょうぼう)の柿の木に雷が落ちた。二十七日庚辰、地震があった。二十八日辛巳、河内国が「稲が両岐(りょうき、一本の茎から二つの穂が出ること、瑞兆とされる)であった」と言上した。この月、雅院(がいん)の桜が咲き、京師の李(すもも)が花をつけた。八月三日丙戌、使者を遣わして大和国吉野郡の高山で祭りを行わせ、螟螣(めいとう、稲の害虫)を祓わせた。四日丁亥、下野国が「木が連理(れんり、二本の木の枝がつながること、瑞兆)であった」と言上した。八日辛卯、地震があり、諸国の歳貢の鷹を廃止した。九日壬辰、五月からこの月まで長雨が続いたことから、使者を遣わして丹生河上社(にうかわかみしゃ)に幣帛と馬を奉り、晴れを祈らせた。十二日乙未、大風雨があり、民家を破壊した。十三日丙申、諸国司が鷹・鷂(はいたか)を飼うことを禁じた。九月三日乙卯、大嘗祭(だいじょうさい)を控え、御燈(ごとう)・潔斎(けっさい)を停止した。四日丙辰、畿内四十五社の神に幣帛を奉り、風雨がやむことを祈った。九日辛酉、先帝の忌日に近いことから、重陽の節を停止した。この日、大風雨があり、家屋を破壊し木を折った。十四日丙寅、地震があった。十八日庚午、大風雷があった。冬十月癸未朔、日食があった。五日丁亥、恬子内親王(てんしないしんのう)を斎宮(さいぐう)、儀子内親王(ぎしないしんのう)を斎院(さいいん)と定めた。七日己丑、諸国に使者を遣わし、神祇に幣帛を頒って報賽(ほうさい、お礼の祭り)を行わせた。二十一日癸卯、御禊(ごけい、禊の儀式)を行った。二十八日庚戌、上野国が嘉禾(かか、めでたい稲穂)を献上した。新たに鋳造した銭を名神・諸陵に奉り、また親王以下に頒賜した。晦日の辛亥、地震があった。十一月十日辛酉、梅宮祭(うめのみやのまつり)を執り行った(注:梅宮祭については、これ以前に記載が見られない。本書のこの条には「常のごとく祭る」とあるので、これより先にすでにこの祭りがあったはずだが、その起源は詳らかでない。公事根源には「承和年間に始まる」とあるが、続日本後紀・文徳実録にはいずれも見えない。年中行事が元慶二年を始まりとするのは誤りである)。十二日癸亥、地震があった。十六日丁卯、大嘗祭を行った。十二月二十七日戊申、詔して太政官が論奏した罪人の処分について、多くを寛宥(かんゆう、罪を許すこと)した。この年、山城国男山石清水(いわしみず)に八幡大神を祭った(注:この年以下は石清水縁起・元亨釈書による。皇代略紀・一代要記では二年のこととする)。
¶二年庚辰、春正月壬子朔、雨のため朝賀を受けなかった。二月十日辛卯、天皇は初めて孝経(こうきょう)を読んだ。夏四月六日丙戌、霜が降りて草木を枯らした。十一日辛卯、外記(げき)の候庁(こうちょう)の前でつむじ風が起こり、西へ回転しながら進み、数万の小虫がその中に飛び散った。十九日己亥、詔して天下の僧尼に仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)を誦(じゅ)させて国祚(こくそ、国家の命運)を祈らせ、これを永例とした。二十二日壬寅、地震があった。晦日の己酉、仁王経(にんのうきょう)を京師および諸国のおよそ百座で講じさせた。五月五日甲寅、地震があり、雹が降った。端午の節を停止した。駿河国が「富士山に五色の雲が現れた」と言上した。十八日丁卯、地震があり、雹が降った。六月三日壬午、大水があった。五月の雨からこの日まで続いた。十六日乙未、天皇の不予(ふよ、病気)のため、京に近い諸寺に使者を遣わして、転念(てんねん、経を転読すること)の功徳を修めさせた。十七日丙申、地震があった。二十二日辛丑、また地震があった。二十五日甲辰、また地震があった。晦日の戊申、土佐国播多郡の土地十町を施薬院(せやくいん)に給した。秋七月十四日壬戌、地震があった。十七日乙丑、また地震があった。二十一日己巳、大風雨があった。二十四日壬申、地震があり、流星が東北から起こって西南に没し、光が地を照らした。八月二十七日甲辰、流星があり、南から起こって西北に没し、光が地を照らした。この夜、盗人が神祇官西院の斎戸(いわいど)の神殿に入り、三所の斎戸の衣と、乗輿(じょうよ、天皇の輿)の結御魂緒(むすびのみたまのお)を盗んだ。晦日の丁未、雨水(降雨)があった。九月七日甲寅、地震があった。九日丙辰、重陽の節を停止した。十四日辛酉、大風があり、木を折り家屋を破壊した。十五日壬戌、風雨がやまず、京師で大水があった。諸国で海水が溢れ、人畜の死者が多かった。冬十月丁丑朔、日食があった。七日癸未、地震があった。八日甲申、馬が多く傷ついて農事に差し支えたため、大隅国吉多野(きたの)の牧二か所を廃止した。二十一日丁酉、勅して諸国の私的な狩猟を禁じた(注:二十一日以下は類聚三代格による)。閏月丁未朔、地震があった。二十日丙寅、雪が降った。五位以下および諸衛府の宿直の者に綿を差をつけて賜った。二十三日己巳、地震があった。十一月丁丑の朝、冬至にあたり、公卿が祝賀の表を奏上した。天皇は前殿においでになり、侍臣に酒を賜った。十六日壬辰、詔してこう仰せられた。「皇天(こうてん、天)には偏り愛することなく、万物を芻狗(すうく、祭祀に用いてすぐ捨てる藁の犬、転じて軽んじないものの意)として扱う。聖人には私心なく、百姓を耳目とする。それゆえ万物を生育することに限りなく、言葉によらぬ教化はいよいよ盛んとなる。人々に推戴されて飽きられることなく、無為の事業は長く安らかである。朕は取るに足らぬ身をもって万民の上に立ち、まだ道を歩み始めて日が浅く、危うさを抱いて世に臨んでいる。ただ群臣・公卿・士人が力を尽くし、朕の身を助け支えてくれることに頼るのみである。このたび公卿が奏上して言うには、『今年十一月、朔旦冬至(さくたんとうじ、十一月一日が冬至に当たること、瑞祥とされる)にあたります。天の紀(てんのき、暦の周期)を得て、終わってまた始まります。連珠(れんじゅ、星が連なって輝くこと)が五緯(ごい、五惑星)に映じて光芒を懸け、合璧(がっぺき、日月が並ぶこと)が二離(にり、太陽と月)に重なって彩りを広げています。道理は恒常の暦法によるとはいえ、必ず至仁(しじん、この上ない仁徳)に感応したものでしょう。』朕の徳の薄いことよ、どうしてこのような瑞祥を受けるに値しようか。そこで天下とともにこの慶事を喜び祝おうと思い、天下の徒罪(ずざい)以下の罪を赦す。家門の蔭位(おんい)が久しく絶えた者や、功績・才能が早くから顕れた者には、特に栄誉を加え、恩寵の証を示すべきである。内外の文武官で主典(さかん)以上の者には、爵位を一級加える。京に在る正六位上の官人、および史生(ししょう)以下直丁(じきちょう)以上の者、天下の高齢者らには、それぞれ物を賜うべきである。この大きな恵みが天下あまねく及び、天の御心に応えることを願う。」この夜、烈しい風雨・雷があった。十七日癸巳、風がやまず、多くの廬舎(ろしゃ、家屋)を破壊した。二十六日壬寅、親王以下、および今月一日の当直の者に、それぞれ物を賜った。十二月四日己酉、地震があった。八日癸丑、新たに釈奠の式を修め、七道の諸国に頒布した。
¶三年辛巳、春正月丙子朔、雨のため朝賀を受けなかった。九日甲申、地震があった。二十日乙未、出雲国が「渤海使が来朝した」と言上した。二十一日丙申、詔してこう仰せられた。「近年、五畿・七道の諸国司に東大寺の大仏像を修理させてきたが、その工事がすでに完成した。三月十四日をもって無遮大会(むしゃだいえ、身分を問わず誰でも参加できる法会)を設けるべきである。十一日から二十日まで殺生を禁断せよ。法会の当日には、国分二寺(国分寺・国分尼寺)においてそれぞれ斎会(さいえ)を開き、管内の僧尼を集めて、ともに供養させよ。」二月乙巳朔、日食があった。七日辛亥、内殿に百人の僧を召し、金字大般若経(こんじだいはんにゃきょう)を三日にわたって読ませ、先帝の冥福を祈らせた。三月乙亥朔、霜が降りた。十三日丁亥、防鴨河使(ぼうかもがわし)・防葛野河使(ぼうかどのがわし)の二使を山城国に隷属させた。十四日戊子、東大寺の大仏像の落慶を祝い、勅して治部卿(じぶきょう)・賀陽親王(かやしんのう)、中務卿(なかつかさきょう)・時康親王(ときやすしんのう)、弾正尹(だんじょうのかみ)・本康親王(もとやすしんのう)、中納言・伴善男(とものよしお)らを遣わして監視させた。二十五日己亥、陸奥国の軍用に堪える馬について、牝牡(ひんぼ、雌雄)を問わず国境の外に出すことを禁じる旨、重ねて制した(注:二十五日以下は類聚三代格の記述を参照して採った)。夏四月七日辛亥、地震があった。十四日戊午、空中に雷のような音がした。二十五日己巳、皇弟・惟恒(これつね)を親王とし、行有(ゆきあり)および皇妹の富子(とみこ)・淵子(ふちこ)にはともに源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った。五月十三日丙戌、地震があった。十五日戊子、京に近い名神七社に幣帛を奉り、雨を祈った。十九日壬辰、地震があった。二十日癸巳、地震があった。六月甲辰朔、大中臣(おおなかとみ)・中臣(なかとみ)両氏の絶戸(ぜっこ、跡継ぎの絶えた戸)および無身戸帳(むしんこちょう、実体のない戸籍)を除いて、蔭位を偽り冒す不正を絶った。三日丙午、雲がないのに雷が鳴った。九日壬子、前年の水害により、伯耆国八橋(やばせ)・汗入(あせり)・会見(あいみ)・日野の四郡の課役を二年間免除した。十六日己未、宣明暦(せんみょうれき)を施行した。二十日癸亥、伊勢国の女子が一度に三子を産んだ。稲と乳母を賜った。二十二日乙丑、寒さがあり霧が立った。二十三日丙寅、地震があった。二十八日辛未、前殿においでになり、童相撲(わらわずもう)を御覧になった。音楽・雑伎(ざつぎ)・散楽(さんがく)・透撞(とうどう)・呪擲(じゅてき)・弄玉(ろうぎょく)などの遊戯を演じさせた。その作法は相撲の節に準じた。晦日の壬申、また前殿においでになりこれを御覧になった。作法は前日と同様であった。秋七月十一日癸未、大風雨があった。八月十六日丁巳、天皇は初めて論語を講じさせた。十七日戊午、地震があった。越前国が飢饉となり、長門国は前年に疫病が大流行したので、ともに賑給を行った。諸国に詔して尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)を書写させ、寺塔の心柱に納めさせた。二十七日戊辰、空中に雷のような音がした。この月、京師で梨・李が花を咲かせ実を結び、人々が赤痢を患った。冬十月四日甲辰、使者を遣わして大神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に幣帛を奉った。二十四日甲子、右諸衛府および右馬寮(うまりょう)が、五月の競馬(くらべうま)で得た輸物(ゆぶつ、賞品)を献上した。親王以下を宴し、音楽を奏させ、それぞれ物を賜った(注:本書は「右諸衛」を「召諸衛」に作り、「右馬」を「左馬」に作るが、今は類聚国史によってこれを訂正した。案ずるに、年中行事に、諸衛・馬寮の輸物献上が六年十二月二十一日に始まるとするのは誤りである)。十一月十六日丙戌、凶悪な者が盗みを働くことから、武蔵国に検非違使(けびいし)を置き、郡ごとに一人とした。
¶四年壬午、春正月庚午朔、雨のため朝賀を受けなかった。十日庚辰、地震があった。二十五日甲午、また地震があった。二月十六日乙卯、前年の風水害・霜害により農作物が損なわれたことから、出雲国出雲・大原の二郡の課役を一年間免除した。十七日丙辰、地震があった。二十五日甲子、また地震があった。三月十一日己卯、また地震があった。十六日甲申、東方に雷のような音がした。十九日丁亥、雹が降った。二十八日丙申、地震があった。夏四月二日庚子、大雨で川が氾濫した。十五日癸丑、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところによれば、いにしえより聖明な君主は、堯(ぎょう)・舜(しゅん)を第一に挙げるという。それでもなお諫鼓(かんこ、臣下が諫言する際に打つ太鼓)・謗木(ぼうぼく、批判を書き付ける木札)を朝廷に設け、また大禹(だいう)・皐陶(こうよう)にその教えを尽くさせた。思うに、天下の政務が盛んであっても、広く意見を求めなければ功業を興すことは難しく、四海の尊さも、下々に問わなければ教化を成し遂げることはできないのである。朕は幼くして皇統を継いだ。器量は斉を治めるに足らず、業は哲人の道に至るに恥じ入るばかりである。実に賢臣の輔佐による保護と教化に頼り、拱手(きょうしゅ、何もせずに)してその成果を仰いでいるにすぎない。しかし時運は百代の末に接し、時勢は万邦の凋落に遭遇している。即位以来、五年が経った。ただ国庫が空しく尽き、経費が支えられず、貢賦(こうふ、租税)が滞り、官吏や民が苦しみ嘆いていると聞くばかりで、いまだこれを救う要諦を得ていない。昔、神農氏の世が衰えたとき、天下は倒懸(とうけん、逆さ吊りのような苦しみ)の状態にあったが、黄帝が代わって徳を修めたことで、垂衣(すいい、何もせずとも治まること)の教化が盛んになった。殷の暴君・辛(しん、紂王)の政治が乱れたときには、百姓は塗炭の苦しみにあったが、周が興り成王・康王の時代になると、刑罰を置いても用いないほどになった。これはすなわち、いにしえが常に淳朴であったわけでも、今が常に薄情であるわけでもなく、ただ君臣の善悪、政教の得失によるのみということである。もし群臣が大小となく力を合わせ心を傾け、善政を求めることに努め、朝廷を正し、民を教え導くならば、国は富み刑罰は明らかとなり、時は和らぎ年は豊かとなり、鶴が朴(ぼく、素朴なもの)に変じ、偽りが真に返るであろう。それはまさに東戸季子(とうこきし、いにしえの理想的な時代の人)の世に等しく、何も遠いことではない。参議以上の者は、それぞれ時の政治の是非を論じ、世俗の得失を詳らかにすべきである。教化を傷つけ人を害し、時勢に不都合なものは、節度をもって謹んで改めよ。国に利益となるものは、ともに直言を尽くして朕の心を潤せ。飾り立てることなく、隠し秘めることのないように。」五月六日癸酉、天皇は武徳殿においでになり、馬芸・雑戯を御覧になった。作法は端午の節に準じた。十六日癸未、地震があった。二十日丁亥、海賊が公然と横行し、備前国の貢米を奪い、綱丁(こうちょう、輸送を統率する者)を殺害したため、山陽道・南海道の二道に命じてこれを追捕させた。二十三日庚寅、美濃国土岐・恵那の二郡の課役を一年間免除した。六月十六日癸丑、地震があった。十八日乙卯、長雨により京師の飢民に賑給を行った。秋七月二日己巳、常陸国河内(かわち)・信太(しだ)・鹿島・那賀・多珂(たか)の五郡が、連年の水害・旱害・疫病に見舞われたため、課役を二年間免除した。五日壬申、前殿においでになり、童相撲を御覧になった。作法は前年に準じた。十六日癸未、六月十五日の相撲の節を改め、七月上旬に行うこととした。二十一日戊子、地震があった。二十七日甲午、また地震があった。八月丁酉朔、日食があった。九日乙巳、但馬国が「慶雲(けいうん、めでたい雲)が現れた」と言上した。九月十五日辛巳、地震があった。この月、京師の井戸が涸れた。十七日癸未、勅して神泉苑(しんせんえん)の水を汲むことを許した。二十一日丁亥、地震があった。二十四日庚寅、また地震があった。二十七日癸巳、美作国が白鹿を献上した。晦日の乙未、地震があった。冬十月九日甲辰、地震があった。二十八日癸亥、また地震があった。十一月三日丁卯、地が大いに震動した。十日乙亥、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。十二月十六日庚戌、地震があった。二十六日庚申、大雷雨があった。二十七日辛酉、地震があった。
¶五年癸未、春正月甲子朔、雨のため朝賀を受けなかった。前殿においでになり、侍臣に宴を賜った。三日丙寅、大納言兼右近衛大将・源定が薨じた。十日癸酉、雷雨があった。二十一日甲申、前年の冬以来、京畿の内外で咳逆(がいぎゃく、流行性感冒)が流行し、身分の上下を問わず死者が多かったため、内宴を停止し、雅院で七日間の修法を行った。二十七日庚寅、御在所(ございしょ)、および建礼門・朱雀門で大祓(おおはらえ)を行い、災疫を祓い、京師の飢えた者・病んだ者を賑給した。二月甲午朔、使者を遣わして大和国吉野郡の高山で祭りを修め、虫害を祓わせた。二日乙未、穢(けがれ)により朱雀門で大祓を行った。三日丙申、春日祭を停止した。四日丁酉、祈年祭(きねんさい)を停止した。この日、地震があった。七日庚子、談峯(だんぽう)の墓の四方の境内で、百姓が木を伐り放牧することを禁じた。十日癸卯、中納言・藤原氏宗(うじむね)が右近衛大将を兼ねた(注:十日以下は公卿補任による。歴代皇紀・一代要記ではこれを正月のこととする)。十四日丁未、大風があり、民家を破壊した。十六日己酉、日は初め出たとき白く光がなく、月は初め出たとき赤いこと丹(に、朱色)のようであったが、三日でもとに戻った。二十一日甲寅、大和・和泉国の飢疫に賑給を行った。三月二日甲子、空中に雷のような音がした。四日丙寅、天下の名神に幣帛を頒ち、疫病退散を祈った。九日辛未、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。十五日丁丑、霜が降りた。陰陽寮が「疫病が流行するはずです」と奏上した。諸国に詔して、安居(あんご)の期間中に経王(きょうおう)を講説させた。この日、諸国の牧宰(ぼくさい、国司)が私的に鷹・鷂を飼うことを重ねて禁じた。二十三日乙酉、百余人の僧に、内殿・中宮・神泉苑の三か所で大般若経を三日間転読させた。夏四月十一日癸卯、寒さがあり大風が吹いた。十四日丙午、地震があった。この月、長雨が続いた。五月六日戊辰、騎射(うまゆみ)の節を停止した。七日己巳、寒さがあり霜が降りた。二十日壬午、これより先、民間で御霊会(ごりょうえ)が行われていたが、この年の疫病により、朝廷が祭祀を執り行った。この日、神泉苑で法会を修めて祭祀を行った。二十二日甲申、雅院においでになり、御霊会の舞童(ぶどう)を召し見、雅楽寮に音楽を奏させた。六月十七日戊申、越中・越後国で地が大いに震動し、山が崩れ水が涌き、民家を破壊し、圧死する者が多かった。二十一日壬子、美濃国土岐・恵那二郡の百姓の課役を一年間免除した。閏月二日癸亥、大和国が「五色の雲が現れた」と言上した。九日甲午、地震があった。十九日庚辰、西へ向かう流星があった。二十一日壬午、京師の飢えた者に賑給を行った。秋七月辛卯朔、日食があった。二日壬辰、参議・春澄善縄(はるすみのよしただ)、神祇少副(じんぎのしょうふ)・大中臣豊雄(おおなかとみのとよお)らに、大極殿で伊勢大神を祭らせ、星の変異を祓わせた。四日甲午、名神に幣帛を奉った。二十一日辛亥、大風があり木を折り家屋を破壊した。二十七日丁巳、勅して新銭一千貫・中官鉄(ちゅうかんてつ)一千錠を東大寺・興福寺など十七寺に施した。二十九日己未、囚獄司(しゅうごくし)で釱(てつ、足かせ)をつけられていた囚人三十人が、獄を破って逃げ去った。八月三日癸亥、諸国に命じて逃亡した囚人を追捕させた。八日戊辰、地震があった。十一日辛未、朝日が光を失った。十二日壬申、日がまた光を失った。二十一日辛巳、神泉苑で七日間の修法を行った。二十三日癸未、太政官が処分してこう定めた。「両京および諸国の貢挙(こうきょ、官吏登用のための推挙)・任子(にんし、蔭位による任官)は、三比(さんぴ、過去三回分)の戸籍を勘案すべきである。」九月八日丁酉、地震があった。冬十月庚申朔、雷雨があった。十五日甲戌、大風雷雨があった。十七日丙子、出雲国の百姓の課役を一年間免除した。十一月十三日壬寅、地震があった。十七日丙午、これより先、丹後国が「細羅(さいら)の人五十四人が漂着した」と言上し、因幡国が「新羅(しらぎ)の人五十七人が漂着した」と言上していた。この日、勅して食糧を給し帰国させた。十二月六日甲子、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。十三日辛未、飛驒国が「木が連理であった」と言上した。
¶六年甲申、春正月戊子朔、天皇が元服した。三日庚寅、大極殿においでになり、拝賀を受けた。七日甲午、皇太后を尊んで太皇太后とし、皇太夫人を皇太后とした。諸社の禰宜(ねぎ)・祝(はふり)、諸寺の僧尼、天下の家督を継ぐ者に、爵位を一階賜った。高齢者・鰥寡孤独(かんかこどく、身寄りのない者)・重病者に物を賜った。天下に大赦を行い、百姓の徭役(ようえき)を十日間免除した。二十五日壬子、諸国が不課口(ふかこう、課役を課されない者)の増加によって戸口を水増しすることを許さなかった。二十七日甲寅、従四位下・藤原多美子(たみこ)を女御(にょうご)とした。二十八日乙卯、勅して、旧来通り正税(しょうぜい)の出挙(すいこ)を行うこと、田租の徴収を減らすこと、民の徭役を増やすことを許した。二月十六日癸酉、僧綱(そうごう)の位階を改めて定めた。十七日甲戌、石見国司に詔し、新羅の漂着人に食糧を給して送還させた。二十一日戊寅、伊勢国が「木が連理であった」と言上した。二十五日壬午、天皇が太政大臣・藤原良房の染殿第(そめどのだい)に行幸し、花を御覧になった。山城守・紀今守(きのいまもり)が郡司・百姓を率いて、耕田の礼(こうでんのれい)を行った。三月十四日庚子、彗星が営室(えいしつ)に現れた。長さは四尺であった。夏四月二十一日丁丑、諸国の貢御馬(くごば)の期日を改め定めた。五月二十五日庚戌、長雨により京師の飢えた者・病んだ者を賑恤(しんじゅつ)した。駿河国が「富士郡浅間大神(あさまのおおかみ)の大山が火を噴いた」と言上した。六月二十三日戊寅、信濃国の牧の貢御馬の期日を改め定めた。秋七月乙酉朔、日食があった。十日甲午、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。十七日辛丑、甲斐国が「富士山が焼けた」と言上した。二十三日丁未、星が室(しつ)に現れ、羽林(うりん)の東に没し、赤黄色で光がなかった。二十七日辛亥、五畿および伊賀・伊勢・志摩・遠江・相模・上総に重ねて勅し、諸社を修理させた。この月、加賀・出雲国で疫病が流行した。八月二十五日己卯、平寛子(たいらのかんし)を女御とした。九月四日戊子、地震があった。市籍(しせき、市に登録された商人)の者が諸司・諸家に仕えることを禁じた(注:禁市以下は類聚三代格による)。九日癸巳、星が紫微(しび)に現れ、昴(ぼう)に没した。長さは三丈余りであった。十四日戊戌、星が奎(けい)・婁(ろう)の間に現れ、外屏(がいへい)に没した。二十六日庚戌、地震があった。冬十月甲寅朔、出雲国仁多(にた)・飯石(いいし)両郡の課役を二年間免除した。七日庚申、夜、北山に稲妻のような光があった。朱雀門の前に赤い光があり、長さは五尺ほどであった。九日壬戌、地震があった。十二日乙丑、地が大いに震動した。二十六日己卯、雷があった。十一月四日丁亥、勅して肥後国の大宅牧(おおやけのまき)を廃止した。十二日乙未、五畿内および山陽・南海の二道に詔し、般若経・大乗経を転読させ、あらかじめ疫病を防がせた。十三日丙申、熒惑(けいこく、火星)が氐(てい)を守った。二十二日乙巳、水害・旱害に遭ったため、下総国葛餝(かつしか)・印幡(いんば)・相馬・埴生(はぶ)・猿島の五郡の調庸(ちょうよう)を二年間免除した。二十六日己酉、雷雨があった。晦日の癸丑、日食があった。十二月十四日丁卯、勅して、諸国の博士・医師について、業を修め道を練る者を除いて、調庸未進の分に充てるべき公廨(くがい、官の財源)を没収することを、史生以上に准じて行うこととした。二十六日己卯、太宰府が「十月三日夜、肥後国阿蘇郡の健磐龍命(たけいわたつのみこと)の神霊池が震動し沸き立った。また比売神嶺(ひめかみのみね)の二神の石が崩れ落ちた」と言上した。
¶七年乙酉、春正月癸未朔、雨や雪のため、朝賀を受けなかった。三日乙酉、星が天苑(てんえん)に現れ、常陳(じょうちん)に没した。四日丙戌、前年に陰陽寮が「来年は兵乱・疫病があるはずです」と奏上し、天文博士が「兵事があるはずです」と奏上したことから、僧綱に勅して、十五大寺に大般若経を読ませ、その管轄下の寺には金剛般若経を読ませた。また諸国の国分寺・定額寺(じょうがくじ)に符を下し、大般若経を七日間読ませた。十四日丙申、地震があった。二十九日辛亥、また地震があった。二月二日甲寅、星が東井(とうせい)に現れ、軫(しん)に没した。色は白く、長さは二丈余りであった。十日壬戌、詔してこう仰せられた。「天の徳は広く行き渡り、万物を治め育む功徳はもとより高い。賢明な君主が定めた規範は、民を撫で治める道をいよいよ広げる。かくして、よく治まった政をなすには、ただ恵み深い慈愛にのみ頼るべきであり、民を富貴・長寿へと導くには、実に憂い労することにこそあると知られる。朕は凡庸な身をもって恭しく皇統を継ぎ、位は宸極(しんきょく、天子の位)に尊いとはいえ、教化はいまだ国中に行き渡っていない。それゆえ、夜も衣を解かず思い悩み、日が傾いても食事をとらず励み、四海が凶作の嘆きなく、八方が戦の警めを絶つことを願っている。しかし、まことの心はいまだ顕れず、神々の感応もなお遠く、天の心に背いて変異を招いてしまった。去る冬、太宰府が『肥後国阿蘇郡の神霊池は、長雨を経ても増えず、日照りが続いても減らなかったのに、今、理由もなく沸き立ち、他県にまで溢れ流れている。亀甲占いの示すところによれば、兵乱・疫病の凶兆である』と言上した。朕の心中、氷や谷のように冷え切り、切に恐れている。徳を積んで禍を転じるということは、すでに古くから聞かれるところであり、善を行って災いを祓うということも、これまでの先例がないわけではない。よろしく寺ごとに薫修(くんじゅう、香を焚いて仏道を修めること)を行い、社ごとに幣帛を奉るべきである。この冥助(みょうじょ、目に見えぬ神仏の助け)により、かの凶兆を防ごう。また天安二年以前の未納の租税は、すべて督責することなく、一律に免除せよ。願わくは至誠が広く行き渡り、霧や露のようなわだかまりを形なきものへと消し去り、目に見えぬ守りが密かに通じ、まだ兆さぬうちに風塵(ふうじん、争乱)を鎮めんことを。この趣旨を遠近に布告し、朕の意をあまねく知らしめよ。」そこで諸国に官符を下し、国司・講師がともに斎戒し、七日間殺生を禁断させた。国分寺・定額寺では金剛般若経を転読させた。また諸社の長官には潔斎して幣帛を奉らせ、また鰥寡孤独で自活できない者には、救急の義倉(ぎそう)からそれぞれに応じて支給させた。十四日丙寅、使者を遣わして宇佐宮(うさぐう)に幣帛を奉り、肥後国の変異を告げて災いを祓うことを祈らせた。十七日己巳、参議・大枝音人(おおえのおとんど)らを山階陵(やましなのみささぎ)に、参議・藤原良繩(よしなわ)らを栢原陵(かしわばらのみささぎ)に、権大納言・藤原氏宗らを嵯峨陵に、大納言・伴善男らを深草陵に、参議・南淵年名(みなぶちのとしな)らを田邑陵に遣わし、肥後国の変異を告げて災いを祓うことを祈らせた。三月二日癸未、七道の貢納する蘇(そ、乳製品)・達(だつ、蜜蝋の一種か)の期日を守らなかった国司について、五位以上は位禄(いろく)を奪い、六位以下は公廨の五分の一を奪うことを制し、永くこれを式とした。二十二日癸卯、地震があった。二十七日戊申、勅して宮中および諸司・両京を大いに捜索させた。夏四月三日癸丑、霜が降りた。五日乙卯、禁中および諸司に僧を招いて十善戒(じゅうぜんかい)を授けさせ、般若心経を読ませ、あらかじめ疫気を祓わせた。七日丁巳、霜が降りた。十二日壬戌、地震があった。十四日甲子、霜が降りた。十七日丁卯、使者を遣わして盾・矛・鞍を石清水・平野、および太政大臣・良房の東京第(とうきょうだい)の社に奉った。五月五日乙酉、端午の節を停止した。二十四日甲辰、これより先、左衛門獄(さえもんごく)で釱をつけられていた囚人六人が、獄を穿(うが)って逃げ去った。そこで両京を大いに捜索した。二十五日乙巳、京邑(けいゆう)を大いに捜索した。六月庚戌朔、日食があった。十四日癸亥、京畿七道で、御霊会にかこつけて私的に徒党を集めたり、馬を走らせ騎射を行ったりすることを禁じた。十六日乙丑、大風雨があり、家屋を破壊し木を折った。秋七月十七日丙申、大風雨があり、木を折り家屋を破壊した。八月二日庚戌、雨水があった。十七日乙丑、備後国神石(かめし)・奴可(ぬか)・甲弩(こうぬ)・恵蘇(えそ)・世羅(せら)・三谿(みたに)・三次(みよし)・三上(みかみの)八郡が、連年の旱害・疫病に見舞われたため、四年の間、毎年四郡ずつ交替で課役を免除することとした。二十一日己巳、太政官曹司庁(だいじょうかんぞうしちょう)に御所を移した。九月九日丁亥、星が巻舌(けんぜつ)に現れ、畢(ひつ)に没した。長さは三尺ほどであった。十日戊子、星が墳墓(ふんぼ)に現れ、須女(しゅじょ)に没した。十一日己丑、穢のため大神宮への幣帛奉納を停止した。十五日癸巳、弾正台(だんじょうだい)・左右京職(きょうしき)・山城・摂津・伊賀・近江・丹波・播磨などの国に命じ、法にかなわない短く狭い材木、および車に載せる数量の定めを禁じさせた。二十四日壬寅、地震があった。冬十月十七日乙丑、五畿・七道に、来月二日から七日まで殺生を禁じさせた。二十七日乙亥、御所を遷すため、百人の僧に禁中で三日間大般若経を転読させた。十一月戊寅朔、地震があった。四日辛巳、仁寿殿(じじゅうでん)に御所を遷した。十四日辛卯、地震があった。十二月二日己酉、また地震があった。九日丙辰、武蔵国の課役を一年間免除し、讃岐国託磨牧(たくまのまき)を廃止した。阿波国の女子が一度に三子を産んだ。稲と乳母を賜った。二十四日辛未、星が奎・婁の北に現れ、土司空(どしくう)に没した。
¶八年丙戌、春正月戊寅朔、朝賀を受けなかった。五日壬午、大安寺(だいあんじ)で金剛般若経一千巻・般若心経一万巻を三日間転読させ、文徳帝の冥福を祈った。二十三日庚子、五畿・七道および太宰府に、金剛般若経を七日間転読させ、あらかじめ災疫を防がせた。この日、勅して、初めて出仕する者が燒尾(しょうび、出世祝いの宴)・荒鎮(こうちん、新任地の慣習的な宴)を行うこと、および人に酒食を強要すること、臨時の群飲、祓除(はらえ)の日に諸衛府の舎人が酒食を求めたり被物(かずけもの、褒美の衣類)を強要したりすることを禁じた。二十五日壬寅、地震があった。二十七日甲辰、星が織女(しょくじょ)に現れ、女牀(じょしょう)に没した。二月七日癸丑、神祇官の奏上により、信濃国司に勅した。「金剛般若経一千巻・般若心経一万巻を転読し、三和(みわ)神部(かんべ)の二神の祟りに謝し、兵乱・疫病を祓え。」十日丙辰、勅した。「貞観六年正月七日の詔に『天下の百姓の徭役を十日間免除する』とあった。しかし諸国の造兵司(ぞうへいし)の雑工戸(ざっこうこ)は、なお三十日間の労役を課されている。造兵司はその費用を徴収しているので、詔の趣旨に準じて同様に免除すべきである。」十四日庚申、勅した。「肥後国司は金剛般若経一千巻・般若心経一万巻を転読せよ。太宰府司は金剛般若経三千巻・般若心経三万巻を転読せよ。阿蘇山神の祟りに謝し、兵乱・疫病を祓わせよ。」十六日壬戌、また勅した。「僧を住吉神社(すみよしじんじゃ)に遣わし、金剛般若経三千巻・般若心経三万巻を転読させよ。」穀物価格が高騰したため、京邑の売買価格を定めた。三月五日辛巳、京に近い二十六寺、および大和国香山(かぐやま)・長谷(はせ)・壹坂(いちさか)の三寺で三日間、金剛般若経を転読させた。八日甲申、勅して大安寺の僧・一如(いちにょ)を筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の諸神社に遣わし、経を読ませた。二十一日丁酉、霜が降りた。二十三日己亥、右大臣・藤原良相の西京第(さいきょうだい)に行幸し、花を御覧になった。閏月丙午朔、太政大臣・良房の染殿第に行幸した。五日庚戌、地震があった。十日己卯、応天門(おうてんもん)が火災となり、棲鳳楼(せいほうろう)・翔鸞楼(しょうらんろう)の二楼に延焼した。十四日己未、美作国の飢疫に賑給を行った。十五日庚申、営頭星(えいとうせい)が室から出て紫微に至って没し、色は赤黄であった。二十二日丁卯、応天門の火災により、百官が会昌門(かいしょうもん)の前で大祓を行い、崇福寺(すうふくじ)で大般若経を転読させ、梵釈寺(ぼんしゃくじ)で四王秘法(しおうひほう)をそれぞれ七日間修めさせ、災変を祓わせた。二十七日壬申、河陽離宮(かようりきゅう)で六日間大般若経を転読させた。夏四月乙亥朔、宴を停止した。五日己卯、京に近い十六寺、および近江国梵釈寺で三日間、金剛般若心経を転読させた。七日辛巳、尾張・阿波国が風水害により民が飢えたため、尾張国に正税稲六万束、阿波国に八万束を貸与した。十一日乙酉、使者を住吉社に遣わし、神財(しんざい)を奉った。摂津・和泉・播磨・備前・備後・安芸・周防・長門、および南海道の諸国に令を下してこう仰せられた。「近年、再三海賊の追捕を命じてきた。今聞くところによれば、『賊党が群れをなして起こり、略奪がやまない』という。これは国司が取り締まりに努めていないためである。もし捜索・逮捕を怠り、なお残虐な行いを招くならば、牧宰の罪を問い、決して寛宥することはない。その捕獲した数は、詳しく報告せよ。」十四日戊子、勅した。「このたび応天門および東西の楼閣が火災に遭った。亀卜(きぼく)で占ったところ、なお火気が見えるという。神の助けによらなければ、どうしてこの災いを消すことができようか。よろしく五畿・七道に、境内の諸神に幣帛を奉らせるべきである。」この日、太政官庁の南廊が倒壊した。十六日庚寅、卜筮(ぼくぜい)により兵乱が起こる兆しがあるとされたため、山城・若狭両国に、あらかじめ警戒・防備させた。十七日辛卯、太宰府に令を下してこう仰せられた。「このたび京師にしばしば怪異があった。陰陽寮が言うには、『隣国の兵が、来て窺うはずである。よろしく警固に努め、不測の事態に備えるべきである』という。」また豊前・長門などの国司を譴責してこう仰せられた。「関所の出入りには、道理として過所(かしょ、通行証)を用いるべきである。しかるに今、唐人が思いのままに京に入り、自由に往来しているのは、国司が督察を怠り、関司が過所を求めなかったためである。今後、もし緊急の事態があれば、必ず厳罰に処す。」十八日壬辰、若狭国が「納印公文庫(のういんくもんこ)および兵庫が鳴った」と言上した。国司に令を下し、厳重に警備させ、あわせて災疫を防がせた。二十五日己亥、太政官庁の南廊が倒壊したことにより、候庁(こうちょう)で三日間金剛般若経を転読させた。二十六日庚子、応天門の火災により、東西両寺、および五畿・七道で仁王般若経を転読させた。この月、長雨が続いた。五月甲辰朔、日食があった。五日戊申、端午の節を停止した。八日辛亥、伊賀国の飢えに賑給を行った。十七日庚申、紀伊国の飢えに賑給を行った。十九日壬戌、京師の飢えに賑給を行い、相模・武蔵・上総・下総・常陸に、身の丈六尺三寸の者を選んで貢進させた。二十一日甲子、京師の空閑地(くうかんち)を民に賜り、耕作させて永業(えいぎょう、永代の生業)とした。二十七日庚午、備前国が旱害に見舞われたため、正税十万束を窮民に貸与した。六月甲戌朔、伊勢・因幡国の飢疫に賑給を行った。四日丁丑、勅して僧侶の飲酒および贈物を禁じた。七日庚辰、地震があった。権大納言・藤原氏宗を山階陵に遣わし、陵戸(みささぎのへ、陵墓の管理者)が陵の樹木を伐ったことを謝させた。九日壬午、旱害により五畿・七道の諸国に、境内の諸神に幣帛を奉らせ、金剛般若経を転読させた。十三日丙戌、武蔵国の旱害・飢饉に賑給を行った。十四日丁亥、丹波国が白燕(はくえん)を献上した。十六日己丑、地震があった。十八日辛卯、大極殿で三日間大般若経を転読させ、雨を祈った。二十一日甲午、中納言・源融(とおる)を田邑陵に遣わし、陵戸が陵の樹木を伐ったことを謝させた。この日、尾張国の正税穀をもって、志摩国の飢疫に賑給を行った。二十八日辛丑、星が奎に現れ、大陵(たいりょう)に没した。晦日の壬寅、これより先、大和国が「盾列陵(たたなみのみささぎ)の陵守が陵の樹木を多く伐った」と言上していた。神祇官が卜(うらな)って「炎旱の災いは、実にこのためである」と言った。そこで参議・藤原良繩らを遣わしてこれを謝させた。この月、天下は大旱魃となり、民の多くが飢えた。秋七月三日乙巳、宮城および京畿・七道の諸神に幣帛を頒ち、丹生川上(にうかわかみ)・雨師神(うしのかみ)に馬を奉り、雨を祈った。四日丙午、使者を伊勢国に遣わし、多気(たけ)・度会(わたらい)二郡の飢民に賑給を行った。六日戊申、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉り、南海道の諸神に幣を頒ち、応天門の火災を告げ、あわせて災異の消滅を祈った。九日辛亥、これより先、尾張国が「太政官符を奉じて広野川(ひろののがわ)の河口を開き、もとの流路に戻そうとしたところ、美濃国各務郡(かかみのこおり)の大領・各務吉雄(かかみのよしお)、厚見郡(あつみのこおり)の大領・各務吉宗(よしむね)らが、歩兵・騎兵七百をもって襲いかかり、郡司を殴り傷つけ、人夫を射殺した」と言上していた。この日に至り、太政官は美濃国に符を下し、吉雄らを禁錮させた。十日壬子、大神宮に幣帛を奉った。十三日乙卯、大鳥が大蔵省(おおくらしょう)の薬倉に集まった。十四日丙辰、賀茂(かも)・松尾(まつのお)・丹生川上・稲荷(いなり)・水主(みぬし)・貴布禰(きふね)の神に幣を頒ち、先日の祈願に謝し、あわせて雨を祈った。この日、備前国の旱害に賑給を行い、僧・最澄(さいちょう)・円仁(えんにん)に諡号(しごう)を賜った(注:賜以下は高僧伝要文抄による。一代要記は十二日とする)。十六日戊午、陰陽寮が「天下に水害・疫病が起こるはずです」と言上した。そこで五畿七道に、管内の諸神に幣を頒たせ、金剛般若経を転読させた。二十六日戊辰、これより先、尾張国が「各務吉雄・吉宗らが、また歩兵・騎兵数百を率い、倉を壊し川に投げ入れ、砂石を運んで河口を塞いでいます。兵を発してこれを討てば、両国の間に争いが起こることを恐れます。しばらく開削工事を停止し、裁断を待ちます」と言上していた。この日、美濃国に令を下し、吉雄らの罪を糾明させた。八月一日甲戌、下総国の旱害に賑給を行った。三日乙亥、備中国の史生(ししょう)・大宅鷹取(おおやけのたかとり)が、応天門の火災を放ったのは大納言・伴善男、およびその子・右衛門佐(うえもんのすけ)・中庸(なかつね)であると告発した。七日己卯、参議・南淵年名、藤原良繩に勅し、伴善男を尋問させた。十五日丁亥、地震があった。十八日庚寅、使者を諸山陵に遣わし、応天門の火災を告げた。十九日辛卯、勅して太政大臣・良房に、天下の政を摂行させた。藤原氏の摂政は、これに始まる(注:藤原氏以下は大鏡による)。二十九日辛丑、伴中庸を左衛門府に禁固した。九月七日己酉、美作国の兵庫が鳴り、その音は鉦鼓(しょうこ)のようであった。九日辛亥、重陽の節を停止した。二十二日甲子、山城国の神楽岡(かぐらおか)が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)に隣接することから、その付近での埋葬を禁じた。この日、伴善男を伊豆に、その子・中庸を隠岐に流し、一党・縁座の者は、ことごとく遠流に処した。冬十月壬申朔、宴を停止した。この日、勅して七道諸国を厳重に警戒させた。八日己卯、備中国哲多(てった)・英賀(あが)二郡が旱害・疫病に見舞われたため、課役を二年間免除した。十四日乙酉、権大納言・藤原氏宗を山階陵に、参議・南淵年名を田邑陵に遣わし、陵戸が陵の樹木を伐ったことを謝させた。十九日庚寅、地震があった。二十日辛卯、諸国司および庶人が鷹・鷂を飼うことを禁じた。二十五日丙申、勅して東大寺・興福寺・元興寺(がんごうじ)・薬師寺・西大寺・大安寺・法華寺・延暦寺に大般若経を転読させた。二十七日戊戌、京に近い四十三寺で金剛般若心経を転読させ、災禍を祓わせた。十一月壬寅朔、日食があった。五日丙午、星が畢(ひつ)より抵(てい)・大角(たいかく)に現れ、摂提(せってい)に没した。七日戊申、地震があった。十七日戊午、勅してこう仰せられた。「このたび怪異がしきりに現れた。蓍亀(しき、占い)で求めたところ、新羅の賊兵が常に隙を窺っているという。災変の起こるのは、ただこの事によるのであろう。災いを兆さぬうちに祓い、来たるべき賊を防ぐことは、ただ神明の目に見えぬ助けによるものであって、どうして人の力でなしうることであろうか。よろしく能登・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・長門・太宰府などの国府に、境内の諸神に幣を頒たせ、鎮護の格別な効験を祈らせるべきである。また聞くところによれば、差し向けられた健児(こんでい)を統率する選子(せんし)らは、爪牙(そうが、軍備)を備えていると称してはいるが、蟷螂(とうろう、かまきり)の衛(まも)りと変わらないという。まして教えを受けていない民が、どうして非常の敵を防げようか。十歩の間には必ず芳しい草があり、百の城の内に精兵が乏しいはずはない。よろしく国司に、精強な者を選び抜かせ、勤めて訓練を加えさせるべきである。」十二月八日己卯、五畿内でみだりに不動穀(ふどうこく、非常時の備蓄米)を用いることを禁じた。十日辛巳、地震があった。十六日丁亥、右大臣・藤原良相が左近衛大将を罷めた(注:右大臣以下は公卿補任による)。右近衛大将・藤原氏宗を左近衛大将とし、参議・藤原常行(つねゆき)が右近衛大将を兼ねた。二十五日丙申、詔して藤原須恵子(すえこ)を春日・大原野の神の斎女(いつきめ)とした。二十七日戊戌、従五位下・藤原高子(たかいこ)を女御とした。
¶九年丁亥、春正月壬寅朔、朝賀を受けなかった。十七日戊午、二品・仲野親王(なかののしんのう)が薨じた。二十一日壬戌、内宴を停止した。二十六日丁卯、神祇官・陰陽寮がともに「天下に疫病が起こるはずです」と奏上した。そこで五畿・七道の諸国に仁王般若経を転読させ、鬼気祭(きけさい)を修めさせた。二十七日戊辰、地震があった。二月辛未朔、また地震があった。三日癸酉、斎宮寮(さいぐうりょう)で火災があり、官舎十二棟が焼けた。十三日癸未、この春は飢饉となり、畿内はとりわけひどかった。盗賊が群れをなして起こり、人を殺し火を放った。国司に、郷ごとに保(ほ、連帯組織)を結ばせて取り締まらせた。十七日丁亥、詔して米粈(べいすい)・塩・銭をもって東西京の飢えた人々に賑給を行った。二十六日丙申、太宰府が「正月二十日、豊後国鶴見山(つるみやま)が焼け、三池(みいけ)が沸き立った」と言上した。二十七日丁酉、勅して左右近衛府・兵衛府に、番を分けて京師を夜間巡回させた。三月十二日壬子、常寧殿(じょうねいでん)で皇太后のために曲宴(きょくえん、内輪の宴)を行った。二十七日丁卯、五畿・七道に令を下してこう仰せられた。「近年、海賊の追捕、奸盗(かんとう)の取り締まりに努めてきた。しかし今聞くところによれば、凶徒が絶えず、盗みの被害がなお繁く、水上・陸上を問わず、みな賊の害を憂えているという。これは実に、牧宰が取り締まりに努めていないためである。そもそも五家(ごけ)が互いに保証し合い、一人を長として互いに検察することは、法の条文に載せられている。また盗賊を匿(かくま)うことは、罪が軽くないとされている。隣保(りんぽ)の内には必ず保長を置き、往来を監視し、去就を詳らかにすべきである。市場や津(みなと)などの要路で、人が多く入り雑じる場所には、努めて方策を施し、多く偵察・巡回の者を配置せよ。捕獲の功には褒賞をもって募り、寛容の恩典を示せ。奸悪な者が跡を留めることのないようにせよ。」夏四月庚午朔、従四位下・嘉子女王(よしこじょおう)を女御とした。二日辛未、使者を遣わして弓矢・鈴鏡(れいきょう)を近江国伊福岐神(いぶきのかみ)に奉った。三日壬申、豊後国の鎮所(ちんじょ)に、火男(ほのお)・火賣(ほのめ)の二神に謝させ、あわせて大般若経を転読させた。二十二日辛卯、穀物価格が高騰し、内外が飢饉となったため、初めて東西京に常平所(じょうへいしょ)を置き、価格を下げて官米を売った。この月、長雨が続いた。五月己亥朔、日食があった。三日辛丑、畿内の諸神に幣を頒ち、晴天を祈った。四日壬寅、大雨で洪水となった。五日癸卯、端午の節を停止した。十日戊申、諸司の官人以下、雑色(ぞうしき)以上に般若心経を読ませた。この日、勅して畿外の官吏・民が銭を貯えることを禁じた。十三日辛亥、地震があった。二十六日甲子、八幅四天王像(はちふくしてんのうぞう)五鋪(ふ)を造り、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門にそれぞれ一鋪を下した。国司に令してこう仰せられた。「その国の地は西の果てにあり、境は新羅に近い。警備の方策は、他国とは異にすべきである。よろしく尊像に帰依し、誠を尽くして修法に努め、賊の心を調伏し、災変を消し去るべきである。そこで地勢が高く開けていて、賊の来る道を見渡せる場所を選び定めよ。もしもともに道場がなければ、新たに良い土地を選び、寺を建立し、尊像を安置せよ。国分寺、および管内の練行精進(れんぎょうしょうじん)の僧四人を招請し、昼は経巻を転読させ、夜は神咒(しんじゅ)を誦えさせよ。春秋二季にそれぞれ七日間、清浄堅固に、法にのっとって薫修させよ。」前月の雨からこの月まで、京邑の人々に病死する者が多かった。六月丁酉晦、地震があった。秋七月二十二日己未、美作国大庭(おおば)・真嶋(ましま)二郡の貧民の課役を一年間免除した。二十四日辛酉、星が昼に現れた。二十五日壬戌、地震があった。八月六日壬申、太宰府が「五月十二日、肥後国阿蘇山が崩れ、広さ五十丈ほど、長さ二百五十丈ほどであった」と言上した。八日甲戌、豊後国の鎮所に謝させた。十四日庚辰、地震があった。二十五日辛卯、また地震があった。二十九日乙未、源済子(なりこ)を女御とした。晦日の丙申、大雨があった。九月六日壬寅、地震があった。十日丁未、賀茂・松尾・稲荷・貴布禰・丹生川上・住吉・水主・長田(ながた)・乙訓(おとくに)などの神社に幣帛を奉り、五穀豊穣に謝した。十四日庚戌、大風雨があり、木を抜き家屋を破壊した。二十七日癸亥、太白(たいはく、金星)が天を経(よこぎ)った。冬十月丙寅朔、宴を停止した。五日庚午、地震があった。十日乙亥、右大臣・藤原良相が薨じた。十六日辛巳、太政官候庁に虹が現れた。十七日壬午、昼、東南に流れる流星があり、光が地を照らした。十九日甲申、石見国が「鹿足郡(かのあしのこおり)の倉庫が自然に鳴った」と言上した。十一月丙申朔、日食があった。十日乙巳、摂津・和泉・山陽・南海道などの諸国に令してこう仰せられた。「聞くところによれば、近ごろ伊予国宮崎村(みやざきむら)に海賊が群居し、公私の物を略奪して、海路が通じなくなっているという。すでに捜索・逮捕を命じ、丁重に督促してきた。その後、播磨・備中・備後・阿波などの国が、相次いで賊を捕獲した様子を言上してきた。しかるに今なお盗賊を鎮めることが難しく、このように伝え聞く。これは実に国司らが、一境の害を消そうとするばかりで、天下の憂いを考えていないためである。方策を尽くさず、捜索・逮捕に精を出していないことによる。そもそも海賊の輩は、南北を浮き草のように漂う。ただその利を求めるだけで、その居所を顧みない。追捕すれば鳥のように散り、寛大にすれば烏のように群がり集まる。海に沿う諸国は、力を合わせ謀を同じくし、往来する船を詳しく記録し、人の去就を詳らかに調べよ。彼我が連携して兵を差し向け、俘囚(ふしゅう、帰順した蝦夷)を募り、その巣窟を捜し、その風聞をたどり、窮追して悉く捕らえ、余すところのないようにせよ。」十三日戊午、彗星が紫微に現れ、内階(ないかい)を貫いた。長さは五尺ほどであった。二十九日甲子、天下の諸国に勅して、三日間斎戒させ、金剛般若経・摩訶般若経を読ませた。また七大寺に仁王般若経を講演させ、国家の平安を祈らせた。晦日の乙丑、日に冠気(かんき)があり、左右に両珥(りょうじ)があった。色は黄白であった。十二月四日己巳、勅して上総国に検非違使を置いた。七日壬申、源貞子(さだこ)を女御とした。二十日乙酉、諸家人が往来の車馬を強いて雇うことを禁じた(注:二十日以下は類聚三代格による)。
¶十年戊子、春正月丙申朔、朝賀を受けなかった。十一日丙午、業良親王(なりよししんのう)が薨じた。二月十三日丁丑、応天門を建て直した。十八日壬午、野火が田邑陵の樹木を焼いた。二十五日己丑、大納言・藤原氏宗らを遣わし、田邑陵に謝させた。天皇は正殿を避け、錫紵(せきちょ、粗末な喪服)を着け、質素な食事をとり、朝政を五日間停止した。公卿・近臣もみな華美な装飾を退け、いずれも喪儀のようにした。夏五月五日戊戌、端午の節を停止した。二十六日己未、大納言・藤原氏宗が左近衛大将を罷め、中納言・藤原基経(もとつね)が左近衛大将を兼ねた(注:二十六日以下は公卿補任による)。六月三日乙丑、淡路国が飢えたため、正税稲一万束を貸与した。十一日癸酉、宗康親王(むねやすしんのう)が薨じた(注:一代要記による)。秋七月八日己亥、地震があり、家屋の多くが壊れた。十五日丙午、播磨国が「地が大いに震動し、官舎・寺塔がことごとく倒れた」と言上した。八月十七日戊寅、東宮で火災があった。四月からこの月まで、地震がたびたびあった。九月七日丁酉、地震があった。十四日甲辰、上総太守(かずさたいしゅ)・惟条親王(これえだしんのう)が薨じた(注:十四日以下は一代要記・皇胤紹運録による)。冬十一月二十七日丙辰、地震があった。二十八日丁巳、雷があった。太宰府が白鹿を献上した。十二月庚申朔、地震があった。七日丙寅、常寧殿で皇太后の四十の算賀(さんが、長寿の祝い)を行った。十日己巳、地震があった。十六日乙亥、また地震があった。閏月五日甲午、右京職が「木が連理であった」と言上した。二十日己酉、新たに定めた内外交替式(ないげこうたいしき)が成り、勅して天下に頒布した。二十八日丁巳、左大臣・源信が薨じた。
¶十一年己丑、春正月己未朔、源信の薨去により、朝賀を受けず、宴も停止した。二月己丑朔、天皇が出御し、貞明親王(さだあきらしんのう)を皇太子に立て、大納言・藤原氏宗を傅(ふ、教育係)とした。四日壬辰、地震があった。二十九日丁巳、また地震があった。この月、長雨が続いた。三月己未朔、日食があった。三日辛酉、これより先、陰陽寮が「夏の頃、疫病が起こるはずです」と言上していた。五畿・七道に勅し、境内の諸神に幣を頒たせ、金剛般若経・摩訶般若経を転読させ、三日間に限って殺生を禁じさせた。四月十三日庚子、大納言・藤原氏宗らが貞観格(じょうがんきゃく)を上奏した。五月五日壬戌、端午の節を停止した。十四日辛未、常康親王(つねやすしんのう)が薨じた(注:十四日以下は一代要記・帝王編年記による)。二十六日癸未、夜、陸奥国で地が大いに震動した。光が現れて昼のようになり、地は裂け城は壊れ、海の波が数十百里にわたって涌き起こり、溺死する者は数え切れないほどであった。六月十五日辛丑、太宰府が「前月二十二日、新羅の海賊が夜、博多津(はかたのつ)に侵入し、豊前国の貢絹(こうけん)を略奪した。追捕したが捕らえられなかった」と言上した。十七日癸卯、大神宮に幣帛を奉り、雨を祈った。二十六日壬子、勅してこう仰せられた。「朕が聞くところによれば、上天(じょうてん)は独りでは治めることができないため、君主を立てて万物を司らせるという。君主の道に二つはなく、そうであれば玉燭(ぎょくしょく、四季が調和した太平の世)は均しく調う。時の政が宜しきを失えば、陰陽もまた隔たってしまう。遠く帝典(ていてん)を考え、遙かに皇猷(こうゆう、帝王の道)を計るに、規範を重ね法度を積み重ねても、これに背く者がなかった例はない。朕は取るに足らぬ身をもって、大業を継ぎ守っている。徳は宝露(ほうろ)に恥じ、勤めは宵衣(しょうい、夜も衣を解かず励むこと)を切に思う。常に世が東戸(とうこ、理想の世)と同じようになり、民草(たみくさ)が菽粟(しゅくぞく、豆と粟、日常の食物)を得られるようにと願っている。しかるに今、旱雲(かんうん)が旬を経て晴れず、農民は望みを失っている。多くの神々に幣を頒ち、僧を屈(かが)めて三宝(さんぼう)に祈った。それでもなお冥応(みょうおう)が通じず、嘉応(かおう、めでたい応え)が至りがたい。朕の不徳により、百姓に何の罪があろうか。身を責め畏れ慎んでも、どうすればよいかわからない。朕の服御(ふくぎょ)・常膳(じょうぜん)などの物は、みな減らし取りやめるべきである。左右馬寮の秣穀(まぐさ)も、いっさい停止せよ。左右京職に、道端に倒れた死者を収め葬らせ、骸骨を掩(おお)い遺体を埋めさせよ。また獄舎の中に、もし冤罪で苦しむ者があるのではないかと恐れる。使者を遣わして、努めて事情を申し述べさせ処理させよ。天安二年以前の、民に課された未進の調庸は、みな免除せよ。願わくは至誠が感応をもたらし、恵みの雨があまねくこの朝(あした)に降り注ぎ、穀物が豊かに実り、日照りの続いた土地にも喜びの実りがあらんことを。」秋七月二日戊午、公卿が五位以上の封禄(ほうろく)を減らすことを奏請し、これを許した。六日壬戌、月が心(しん)の前星を犯した。七日癸亥、地震があった。八日甲子、大和国椋橋山(くらはしやま)の河岸が崩れた。鏡一枚、広さ一尺七寸のものが見つかり、これを献上した。この夜、月が南斗(なんと)の魁(かい)に入った。十三日己巳、武徳殿の前の松の木に雷が落ちた。十四日庚午、風雨があった。この日、肥後国で大風雨があり、瓦が飛び木が抜け、家屋の多くが倒れ、人畜の圧死者が出た。海潮が激しく高まり、六郡に漂い溢れ、田園数百里が海に没した。八月十三日戊戌、備前国が嘉禾を献上した。十四日己亥、太政大臣・良房、参議・式部大輔(しきぶのたいふ)・春澄善縄が続日本後紀(しょくにほんこうき)を上進した(注:十四日以下は続日本後紀の序による)。二十六日辛亥、大風雨があり、木を抜き家屋を破壊した。九月乙卯朔、日食があった。七日辛酉、貞観格を頒布し、左衛門権佐(さえもんのごんのすけ)・紀春枝(きのはるえだ)を陸奥国に遣わし、地震の被災地を検分させた。九日癸亥、秋の実りが不作であったため、重陽の節を停止した。二十一日乙亥、基貞親王(もとさだしんのう)が薨じた。二十五日己卯、地震があった。冬十月六日庚寅、雷があった。十三日丁酉、詔してこう仰せられた。「羲(ぎ、伏羲)・農(のう、神農)は時代を異にしても、憂い労することから離れてはいなかった。堯・舜も時を異にしても、なお民を愛し育てることに等しく努めた。それは地震が日を巡っただけで、周の文王(ぶんおう)が身を責めたことと同じであり、旱魃が殷の年に流行したときに、湯王(とうおう)がこれをもって自らを罪したことと同じである。朕は取るに足らぬ身をもって、謹んで大いなる帝業に従っている。徳を修めて天の心に応え、政に臨んで民の望みに従うことを思う。天下の内にあまねく、ともに生を全うする福を保ち、戸籍に連なる人々の間で、ともに非命(ひめい)の災いを消し去りたいと願う。しかるに恵み深い教化はいまだ行き渡らず、至誠は感応しない。天がお咎めを下し、大地は本来の姿を損なった。聞くところによれば、『陸奧国では境内の地震がとりわけひどく、あるいは海水が激しく溢れて患いとなり、あるいは城郭・家屋が押し潰されて災いを招いた』という。百姓に何の罪があって、この災いに遭うのか。愕然として恥じ畏れ、その責めは深く朕自身にある。今、使者を遣わして、恩恵を施させる。国司とともに、民・夷(えぞ)を問わず、努めてみずから見舞い撫でさせよ。すでに死んだ者はすべて収め弔い、生き残った者には量に応じて賑恤を加えよ。とりわけ被害の甚だしい者には、租調(そちょう)を課さないようにせよ。」二十三日丁未、勅してこう仰せられた。「妖(わざわい)は自ら起こるものではなく、その由来がある。神の御咎めは偽りなく、必ず悪政に応じるものである。聞くところによれば、『肥後国では迅速な災いが激しく起こり、水徳(すいとく)が災いをなした。田園はこれによって水に浸かり、里落(りらく)はこれによって滅び尽くした』という。そもそも一つの物がその所を失えば、深く憂えて心を痛めるべきであり、千里の憂いは、牧宰に託されるものである。思うに、皇猷がなお塞がり、官吏の教化がその時宜にかなわず、地方官がその務めを誤り、この変異を招いたのではないか。昔、周の郊(こう)で苗(なえ)が倒れたとき、己を罪する心に感じて憂患を止めた。漢の朝廷で宮室が壊れたときには、徳を修めることによって災いを払った。過去の事例は忘れてはならず、これを鑑(かがみ)とすべきである。よろしく徳政を施し、かの荒廃を救うべきである。太宰府に、被害のとりわけ甚だしい者には、遠年(えんねん、貯蔵年数の古い)の稲穀四千斛(こく)をもって行き渡らせ、努めて憐れみ助け、生業を失わせないようにせよ。また崩れた垣根・壊れた家屋の下に遺骸があれば、収めて埋葬させ、野ざらしにさせないようにせよ。」十一月三日丙辰、雷電・風雨があった。十三日丙寅、隠岐国が「雌鶏が雄に変じた」と言上した。二十一日甲戌、旱害により安芸国の今年の田租の半分を免除した。十二月二日乙酉、旱害により山城国の今年の田租の半分を免除した。四日丁亥、近江国勢多橋(せたのはし)で火災があった。九日壬辰、能登国の四郡に新たに帰属した百姓四百九十余人の課役を一年間免除した。十三日丙申、地震があった。十四日丁酉、これより先、大鳥が太宰府庁および門楼(もんろう)・兵庫に集まった。神祇官・陰陽寮がともに「隣国からの兵乱があるはずです」と言った。そこで使者を遣わし、大神宮に幣帛を奉らせた。十七日庚子、勅して五畿・七道に境内の諸神に幣を頒たせ、災異を祓わせた。二十三日丙午、地震があった。二十五日戊申、勅して五畿・七道に、金剛般若経を三日間転読させ、災異を祓わせた。二十八日辛亥、右近衛少将兼太宰権少弐(ごんのしょうに)・坂上瀧守(さかのうえのたきもり)を遣わし、太宰府を鎮めさせた。二十九日壬子、使者を遣わして石清水に幣帛を奉った。
¶十二年庚寅、春正月甲寅朔、朝賀を受けなかった。十三日丙寅、大納言・藤原氏宗を右大臣とした。この日、勅して壱岐島に冑(かぶと)と手纏(たまき、籠手)をそれぞれ二百具賜った。十六日己巳、地震があった。二十五日戊寅、新銭を鋳造した。二月十二日甲午、勅して太宰府に、沿海の諸郡を警備させ、因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐に防御の武具を整えさせた。十五日丁酉、使者を八幡・香椎(かしい)・宗像(むなかた)・甘南備(かんなび)の神、および深草・田邑・盾列の陵に遣わし、災害を祓うことを祈らせた。二十四日丙午、京師の飢えに賑給を行った。二十五日丁未、諸王の季禄(きろく)の四分の一を減らした。二十九日辛亥、佐渡国が奇亀(きき)を献上した。鳥のような嘴(くちばし)で赤い甲羅、黒い質であった。三月癸丑朔、日食があった。七日己未、地震があった。二十六日戊寅、忠子女王(ちゅうしじょおう)を女御とした。夏四月五日丁亥、長門国に、国境の外へ馬を出すことを禁じさせた。五月五日丙辰、真子内親王(まこないしんのう)の喪により、端午の節を停止した。六日丁巳、地震があった。十四日乙丑、山崎橋(やまざきばし)を造った。二十六日丁丑、河内国の飢饉により、富豪の貯えた稲一万三千束を借り受けて賑給し、秋に返済させることとした。六月七日戊子、勅して太宰府に選士(せんし)五十人を対馬島に置かせた。十日辛卯、長雨により賀茂・貴布禰に幣帛を奉り、晴天を祈った。この夜、白虹(はっこう)が東北に現れた。十三日甲午、これより先、太宰府が「肥前国杵島郡(きしまのこおり)の兵庫が震動し、鼓が二度鳴った。占ったところ、隣国の兵による警戒すべき事態がある」と言上していた。この日、勅して筑前・肥前・壱岐・対馬に、不測の事態を戒めさせた。十七日戊戌、連月の長雨により、京師が飢饉となったため、賑給を行った。二十二日癸卯、使者を遣わして賀茂に幣帛を奉り、晴天を祈った。秋七月二日壬子、少納言・和気彛範(わけのこれのり)を河内水害堤使(かわちすいがいていし)とした。九日己未、伊勢国が蓮(はす)を献上した。一茎に二花のものであった。二十日庚午、大僧都(だいそうず)・慧達(えたつ)らを河内国に遣わし、堤の築造を見舞い視察させた。二十二日壬申、使者を遣わして河内の堤を築かせ、大和三歳神(みとしのかみ)・大和神(おおやまとのかみ)・広瀬龍田神(ひろせたつたのかみ)に幣帛を奉り、水害の鎮まることを祈らせた。十九日己卯、山城国が「綴喜郡(つづきのこおり)山本郷(やまもとのごう)の山が崩れ落ち、長さ二十二丈、広さ五丈一尺、底の広さ四丈八尺であった。七丈離れたところに小山が涌き起こり、草木はそのままの姿であった」と言上した。八月二十六日丙午、諸国が出挙(すいこ)の収納の日に、官吏が私的な負債の分を截り取って稲を徴収することを禁じた(注:八月二十六日以下は類聚三代格による)。九月庚戌の朝、日食があった。八日丁巳、使者を遣わして神宝を大神宮に奉った。冬十月七日乙酉、地震があった。二十五日癸卯、伯耆国の飢疫により、河村(かわむら)・久米(くめ)・会見・日野の四郡の課役を一年間免除した。十一月十三日辛酉、筑後国の史生・佐伯真継(さえきのまつぐ)が、太宰少弐・藤原元利万侶(もとりまろ)が新羅と通謀していると告発した。真継を検非違使に引き渡した。十七日乙丑、使者を遣わし、新銭を石清水・賀茂・松尾・稲荷・平野・梅宮・春日・大原野に奉った。二十五日癸酉、地震があった。十二月十七日甲午、旱害・飢饉により常陸国信太(しだ)・那珂(なか)の二郡を免除した。この年、河内国で水害・旱害があった。
¶十三年辛卯、春正月戊申朔、雨のため朝賀を受けなかった。十日丁巳、太白が天を経った。十五日壬戌、太宰府が「壱岐国の兵庫の鼓が鳴った」と言上した。二十一日戊辰、皇太后の不予により、内宴を停止した。三月丁未朔、日食があった。二十六日壬申、摂津国の正税稲五万束をもって、水害・旱害に遭った河内国の民に賑給を行った。この月、京師で盗賊が多かった。詔して左右近衛府の十人を遣わし、夜間の警戒に当たらせた。夏四月四日庚辰、近江国勢多橋で火災があった。六日壬午、因幡国の兵庫で火災があった。十五日辛卯、月が心(しん)の大星を掩(おお)った。五月五日庚戌、端午の節を停止した。十日乙卯、佐渡国司が「兵庫が震動した」と言上した。十六日辛酉、これより先、出羽国司が「四月八日、飽海郡(あくみのこおり)の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)がある山上で火が起こり、音は雷のようであった。山の水が激しく溢れ、泥水が臭く汚れ、死んだ魚が積み重なって塞がった。二匹の大蛇があり、流れ出て海に入り、小さな蛇が無数にこれに従った。川に沿った苗の被害も多かった」と言上していた。占ったところ、「祈願がまだ果たされていないため、また冢墓(ちょうぼ)の骸骨がその山水を汚しているためである」とのことであった。この日、国司に、古い骸骨を取り除かせ、以前の祈願に謝させた。六月八日癸未、美濃国土岐・恵那二郡の調庸を一年間免除した。十三日戊子、東山・北陸・山陰・山陽・南海の五道に勅し、境内の名山・大澤(たいたく)の諸神に幣を頒たせ、大般若経・金剛般若経を転読させ、雨を祈らせた。八月二十三日丁酉、大きな流星が東方に現れ、色は赤白で、天市(てんし)に至って没した。二十五日己亥、右大臣・藤原氏宗らが貞観式(じょうがんしき)を上奏した。閏月甲辰朔、日食があった。七日庚戌、大雨があり、河水が激しく溢れ、家屋を破壊した。使者を遣わして諸神に幣を頒ち、晴天を祈らせた。十一日甲寅、京師で水害に遭った民に穀物・塩を差をつけて賜った。十四日丁巳、勅した。「そもそも土を積み堤を築くのは、本来水害を避けるためである。しかし河川の決壊の害は、防ぐことがとりわけ難しい。聞くところによれば、今、愚かな細民は遠い先のことを考えず、ある者は公に空閑地を求め、ある者は私的に肥沃な土地の利益を追い求め、田畑を開墾し、水路を穿って灌漑を行い、その水の潤いが次第に及ぶうちに、ついに堤の決壊に至るという。また河辺の郊外に近い土地は、京師および諸国の貢納する者たちが牛馬を放牧する場所である。しかるに利益を求める者たちがこれを占有して田園とし、民に放牧の便を失わせている。鴨川の堤の周辺は、公田を除いては、耕作・経営を禁止すべきである。もしその公田が堤の害となる場合は、耕作させないようにせよ。犯す者はこれを罰せよ。」二十八日辛未、百姓の葬地および牧地を定めた。二十九日壬申、東南に流星が現れ、羽林に没した。柚子(ゆず)ほどの大きさで、色は青く光があった。九月九日壬午、重陽の節を停止した。十四日丁亥、星が文昌(ぶんしょう)に現れ、紫微を経て西南に進んだ。長さは三丈ほど、色は赤黄で、光が地を照らした。二十八日辛丑、地震があった。太皇太后・藤原氏が崩じた。この月、桜・梨・桃・李がみな花を咲かせた。冬十月五日丁未、五条(ごじょう)の太皇太后を葬った。八日庚戌、太宰帥(だざいのそち)・賀陽親王が薨じた。二十八日庚午、雷があった。二十九日辛未、応天門が完成した。十一月癸酉朔、雷があった。十八日庚寅、飛驒国愛宝山(あいたからやま)に紫雲が現れた。二十二日甲午、雷があり、地震があった。乾臨殿(けんりんでん)東の鴟尾(しび、屋根の飾り)の上に大鳥が集まった。晦日の辛丑、地震があった。この月、平野・春日・梅宮・大原野・園韓神の鎮魂祭、新嘗会を停止した。十二月壬寅朔、雷があった。三日甲辰、薄蝕(はくしょく、日食の一種)があり、太白が危(き)に入った。五日丙午、太宰府が「肥前国で木が連理であった」と言上した。十四日乙卯、陰陽寮が「来年は天行(てんぎょう)の災い(流行病)があるはずです」と言上した。勅して天下に境内の諸神に幣を頒たせ、国分二寺で経を転読させ、あらかじめ凶事を祓わせた。この年、尾張国で水害・旱害があった。
¶十四年壬辰、春正月壬申朔、朝賀を受けなかった。諸節会(せちえ)を停止した。十四日乙酉、石見国の庁事(ちょうじ)の壇が三か所、自然に陥没した。二十日辛卯、この月、京師の人々が咳逆を患い、死者が多かった。二十二日癸巳、地震があった。二月七日丁未、右大臣・藤原氏宗が薨じた(注:氏宗は十一年二月に皇太子傅を兼ねたが、公卿補任は毎年これを注記しているのに、この年は注記していない。翌年正月に源融が皇太子傅を兼ねたとあることから、氏宗はなお兼ねていたのではないかと思われる。しかし明文がないため、記さない)。二十一日辛酉、佐渡国が「紫雲が現れた」と言上した。晦日の庚午、天皇の心喪(しんそう)が終わったことにより、建礼門で大祓を行った。三月九日己卯、太政大臣・良房の病により、天下に大赦を行った。十日庚辰、大風雨があった。京師の困窮した者に賑給を行った。二十三日癸巳、この春以来、内外にしきりに怪異があり、また去年、陰陽寮が「渤海人が来朝し、不祥の気があるはずです」と奏上していたことから、この日、参議・南淵年名を賀茂に、源勤(みなもとのつとむ)を松尾・梅宮に、大江音人を平野に、藤原家宗(いえむね)を大原野に、少納言・和気彛範を石清水に、神祇伯(じんぎはく)・藤原広基(ひろもと)を稲荷に遣わし幣帛を奉らせ、近くの社の道場でそれぞれ金剛般若経を転読させた。二十七日丁酉、地震があった。夏四月十九日戊午、尾張国の飢えに賑給を行った。五月五日甲戌、端午の節を停止した。この日、人康親王(さねやすしんのう)が薨じた。十五日甲申、渤海国が使者を遣わして入貢した。晦日の己亥、駿河国に大蛇が現れ、国分寺の般若心経三十一巻を呑んだ。備後国で木が連理であった。秋七月九日丁丑、昼、大きな流星があった。十日戊寅、白い気が東北から起こり西南にわたり、匹布(ひっぷ、一反の布)のようであった。十七日乙酉、遠江国の兵庫が自然に鳴った。十八日丙戌、大極殿で三日間大般若経を転読させ、雨を祈った。天皇は葷(くん、にんにく等)・鮮(なまぐさもの)を召し上がらなかった。二十一日己丑、雨が降った。二十七日乙未、地震があった。二十九日丁酉、相撲の節を停止した。八月八日丙午、備後国の女子が一度に三子を産んだ。稲を賜った。二十五日癸亥、大納言・源融を左大臣とし、大納言・藤原基経を右大臣とした。九月戊辰朔、地震があった。二日己巳、太政大臣・良房が薨じた。六日癸酉、月が箕(き)に入った。十六日癸未、日が赤く光を失った。晦日の丁酉、地震があった。この月、良房の薨去により、御燈・重陽の節・大神宮の例幣(れいへい)を停止した。冬十月二日己亥、地震があった。十一月十二日戊寅、飛驒国愛宝山に紫雲が現れた。十四日庚辰、節会を停止した。二十三日己丑、地震があった。二十八日甲午、また地震があった。二十九日乙未、天の南に雷のような音がした。十二月三日己亥、地震があった。十三日己酉、贈太皇太后・高野氏の大枝陵(おおえのみささぎ)を除き、太皇太后・藤原氏の後山階陵(のちのやましなのみささぎ)を加えて十陵とした。藤原良房の愛宕墓(おたぎのはか)を加えて五基とした。この年、大和・因幡国で夏に旱害、秋に風水害があった。
¶十五年癸巳、春正月丁卯朔、泥濘(でいねい、ぬかるみ)のため朝賀を受けなかった。紫宸殿(ししんでん)においでになり、群臣に宴を賜った。良房の薨去により、雅楽寮の音楽、吉野国栖(くず)の風俗歌(ふぞくうた)、および蹈歌(とうか)の節・賭射(のりゆみ)・内宴を停止した。この日、激しい雨風雷があった。十三日己卯、左大臣・源融を皇太子傅とした。二十日丙戌、地震があった。二月二日丁酉、また地震があった。十一日丙午、流星が七星(しちせい)に現れ、弧(こ)に没した。色は白かった。十六日辛亥、紫宸殿の東南の隅に虹が現れた。十八日癸丑、地震があった。二十三日戊午、陰陽寮が「この年は三合(さんごう、木火土の合致による凶年とされる暦の巡り)にあたり、疫病がしきりに起こり、収穫が実らないはずです」と奏上したことから、諸国に詔して境内の名神に幣を頒たせ、また国分寺・諸定額寺に、昼は経を転読させ、夜は三日間礼懺(らいさん)させてこれを祓わせた。二十六日辛酉、春宮庁院(とうぐうちょういん)で火災があった。二十八日癸亥、飛驒国が「愛宝山に紫雲が現れた」と言上した。晦日の甲子、東宮の火災により、建礼門の前で大祓を行った。三月三日丁卯、御潔斎(ごけっさい)を停止した。十六日庚辰、地震があった。紫宸殿の東南の隅に虹が現れた。十九日癸未、災異がしきりに起こったことから占ったところ、「夏秋の頃、兵乱の変事があるはずである」とのことであった。西の果て、および北闕(ほっけつ)から起こるとされ、因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・太宰府に厳戒させた。二十日甲申、陸奥国が近年不作であったため、賑給を行った。夏四月九日癸卯、二つの流星があった。一つは羽林に至り、一つは天市に至って没した。色はいずれも赤かった。十四日戊申、地が大いに震動した。二十一日乙卯、皇子・貞固(さだかた)・貞元(さだもと)・貞保(さだやす)・貞平(さだひら)・貞絶(さだたえ)を親王とし、長猷(ながのり)・長淵(ながふち)・長鑒(ながあき)に源朝臣の姓を賜った。二十四日戊午、地震があった。二十六日庚申、流星が翼(よく)に至って没した。色は赤かった。五月甲子の朝、地震があった。三日丙寅、雹が降った。大きさは鶏の卵ほどであった。五日戊辰、端午の節を停止した。神祇官・陰陽寮がともに「雹の降ったことを占うと、賀茂・松尾などの神の祟りである」と言った。使者を遣わして幣帛を奉り、走馬(そうめ)を行わせた。九日壬申、参議・大江音人を遣わして賀茂に幣帛を奉らせ、僧に金剛般若経一万巻を読ませた。十七日庚辰、紫宸殿で三日間大般若経を転読させ、雨を祈った。二十日癸未、読経の期限を二日延ばし、賀茂・松尾・乙訓・稲荷・貴布禰・丹生川上に幣帛を奉った。二十三日丙戌、十五大寺で経を読ませた。二十四日丁亥、雨が降った。六月十四日丁未、地震があった。二十二日乙卯、京師の飢えに賑給を行った。摂津国の正税稲一万束をもって、河内国の飢えに賑給を行った。秋七月癸亥朔、日食があった。九日辛未、使者を遣わして賀茂・松尾・稲荷・乙訓・貴布禰に幣帛を奉らせた。十九日辛巳、大神宮に幣帛を奉り、雨を祈った。二十日壬午、雨が降った。九月三日乙丑、御燈の潔斎を停止した。九日辛未、重陽の節を停止した。二十五日丁亥、遠江国引佐(いなさ)・長上(ながかみ)二郡の課役を一年間免除した。冬十月九日庚子、馬が牛を追い、弁官庁事(べんかんちょうじ)の前に入って闘った。二十日辛亥、日に重暈(じゅううん、二重の暈)があり、左右に両珥があり、下に龍のような雲気があった。十一月十三日甲戌、詔してこう仰せられた。「一つの徳が垂れ示されるとき、道に背く者はまずその行いを乱す。天体の運行は天と一つであるとはいえ、常を変える者はすなわちその怒りに遭う。朕の政は寒暑もなく、教化は水波を担うようなものであり、なだらかに衰える運勢に、皇統の大いなる緒を仰いでは恥じ入るばかりである。十一年の夏に及び、旱魃は平常より甚だしかった。牲(いけにえ)・璧(たま)を空しく山川の霊に投じ、魚・龍もほとんどその淵源の場を失った。朕はこれを思い返すこと三たびにして、過ちは朕一人にあると知った。粗末な衣で天下の温もりを待ち、質素な食事で天下の満腹を思った。しかるに卿らは心を推し量って唱和し、義を取って往来し、論奏がひとたび成れば、懇ろな誠がおのずから現れた。ついに王公は封禄を減らし、諸臣は禄を省いた。たとえ旧制のままに従わせたとしても、伏臘(ふくろう、盛夏と歳末の祭り)の費用を支えることは難しい。まして法において恒常の規定を損なえば、朝夕の蓄えはいよいよ乏しくなる。朕の焦る思いは、すでに暑さ寒さを経てきた。聞くところによれば、今年の収穫は害を受けず、民衆はやや休らいでいるという。畑に残る余りの穀物を望むのではなく、ただ道に満ちる黍(きび)の多いことを聞くのみである。そもそも先王の政治とは、緊急の時には緩め、平穏な時には引き締めるものである。年が凶作のときは節約に努め、節度がなければ存続することができない。穀物が実り常に復すれば、もとに戻すことは難しくない。太皇太后・皇太后宮・春宮坊(とうぐうぼう)の封戸(ふこ)・服用(ふくよう)、五位以上の封禄、諸王の季禄など、去年に減省したものは、今後は元のままとし、減らさないようにせよ。ただ朕自身に関しては、徳が浅く責めは深い。堯の粗末な葛の衣、舜の質素な冠。朕はいまだその垣根の内を窺うこともできないが、今その珍しく麗しいものを恨めしく思う。そもそも群がる蠹(と、しみ、害虫)のような器物は、少しばかりの繕いでは堅固にできるものではなく、屡々(しばしば)空しい民は、どうして一秋の実りで富ませることができようか。朕の服御・常膳、左右馬寮の秣穀については、あるいは分け減らし、あるいは一時停止するといった類は、なお以前の命令の通りとし、さらに進めることはしない。」十六日丁丑、公卿が服御・常膳、左右馬寮の秣穀をもとに戻すことを奏請した。これを許した。近ごろ物の怪がしきりに現れたため、占ったところ、「天皇の御身に病が及ぶはずである」とのことであった。使者を遣わして賀茂・松尾・平野・大原野に幣帛を奉らせ、これを祓わせた。二十六日丁亥、藤原佳珠子(かすこ)を女御とした。二十七日戊子、流星が参(しん)に至った。色は青白く、体は大きく尾は短く、没する間際に迸(ほとばし)り散った。十二月二日癸巳、流星が婁(ろう)・天倉(てんそう)の間に現れ、奎(けい)の南に至って三星に分かれ、そのまま没した。太宰府の飢え疲れた者に賑給を行った。七日戊戌、兼子女王(かねこじょおう)を女御とした。
¶十六年甲午、春正月壬戌朔、泥濘のため朝賀を受けなかった。二月二十七日丁巳、文昌星(ぶんしょうせい)が微かで明るくなかった。この月、穢のため春日祭を停止した。三月庚申朔、流星があり、李(すもも)ほどの大きさで、色は赤く、太微(たいび)の左執法(さしっぽう)第二星に至って没した。二十三日壬午、大斎会(だいさいえ)を設け、貞観寺(じょうがんじ)の落慶を祝った。親王以下、百官がことごとく集まった。夏四月五日癸巳、霜が降りた。七日乙未、日に重暈があり、白虹が日を貫いた。八日丙申、内殿の灌仏(かんぶつ)を停止した。十五日癸卯、陰霧が四方に立ちこめた。十八日丙午、日が赤く光を失った。十九日丁未、淳和院(じゅんないん)で火災があった。二十一日己酉、穢のため賀茂祭を停止した。二十四日壬子、黒雲が日を覆い、黄赤の気が天を覆った。五月五日壬辰、端午の節を停止した。六日癸巳、京師の飢えに賑給を行った。六月丁巳朔、日食があった。十五日辛未、流星が織女に現れ、色は赤く光があり、大陵(たいりょう)・巻舌(けんぜつ)の間に至って没した。十七日癸酉、伊予権掾(ごんのじょう)・大神已井(おおみわのすでい)らを唐(とう)の市(いち)に遣わして香薬(こうやく)を求めさせ、諸国司が管内の女子を娶ることを禁じた。二十八日甲申、勅して諸国の大社の封戸(ふこ)に、その枝神(えだがみ)の小社を修理させた(注:禁諸国司以下は類聚三代格による)。二十九日乙酉、流星が室に現れ、色は黄白で、長さは一丈余りであった。秋七月二日戊子、地震があった。太宰府が「薩摩国開聞神山(かいもんのかみやま)が焼け、震動する音が百余里に聞こえた」と言上した。二十九日乙卯、太宰府が「三月四日夜、激しい雷があった。翌日、天が夜のように暗くなり、砂を含む雨が終日やまず、積もること四、五寸、川の水が濁った。夕暮れになって雨がやんだが、稲はみな枯れ、魚や鼈(すっぽん)の死んだものが数知れなかった」と言上した。八月丁巳朔、伊勢国が「蝗(いなご)が稲を食い荒らし、通った跡には何も残っていない」と言上した。十三日己巳、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉り、蝗害の鎮まることを祈った。二十日丙子、天皇が不予となった。参議・藤原仲統(なかむね)を遣わして賀茂に幣帛を奉らせ、祈らせた。二十四日庚辰、大風雨があり、木を折り家屋を破壊し、公私の廬舎で無事なものはなかった。多くの水が激しく高まり、まっすぐに城下を衝き、豊財坊(ほうざいぼう)の門を破壊し、橋・人馬の多くが流され沈んだ。この日、畿内の諸神に幣を頒った。九月三日戊子、御燈の潔斎を停止した。五日庚寅、参議・源能有(よしあり)らを栢原陵に遣わし、風水の災いを告げさせた。七日壬辰、東西京で風水害を被った三千百五十余家に賑給を行った。九日甲午、重陽の節を停止した。十四日己亥、旧制では、諸衛の舎人らが神事の宴で酒食を求め被物を強要した場合、髪を剃って鉗(かん、首かせ)をつける罰とされていたが、今これを改め、舎人は解任、それ以外の者は杖八十の刑とした。衛府の長官に新たに任じられた者には、一度だけ宴饗を設けることを許した。綾羅錦綺(りょうらきんき、華美な織物)を僧尼に施すことを禁じた。十七日壬寅、地震があった。この秋、桃・李が花を咲かせた。冬十月二十三日戊寅、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところによれば、『賢明な王が時節を調えれば、天の使いはこれによって穏やかに和む。聡明な君主が時に乗ずれば、風俗はこれによって厚く盛んになる』という。朕が皇統を継いでから、寒暑がしばしば移り変わり、澆薄(ぎょうはく、人情が薄いこと)の萌しが次第に現れ、教化の実りが達しがたい。夜半に恥じ入り、安眠する暇もない。去年の夏、甘露が頻りに降り、苗や稲がよく育った。朕は初め、天が福を賜り、民の生業が豊かになると思った。土地が肥沃になり、赤く実った米の蓄えができると思った。ところが百年の老人が、たちまち地を叩いて喜ぶ声を収め、五尺の童子が、鼓腹(こふく、満腹して腹鼓を打つこと)の歌を廃してしまうとは、思いもよらなかった。聞くところによれば、『諸国で風水の災いが起こり、海に隣る郷では鼠が木の上に住み、水に臨む地では魚が人の通る道を泳いでいる。老いた者・弱い者が命を落とし、その死に方もままならず、田園は水に浸かり損なわれ、あるいはその生業を破っている』という。静かにこれを思うと、深く心が痛む。そもそも国司とは、民の父母である。どうして子が既にこの憂いに罹っているのに、父母がこれに涙を流さないことがあろうか。屍骸が漂い散って、身元のわからない者は、官がこれを探し求め、心を込めて埋葬せよ。被災した郡県には、当年の徭役を免除せよ。民の窮乏していて自ら救うことのできない者には、量に応じて救い賑わせ。願わくは、飢えた口に再び満たされる時が来ることを、亡き魂の無聊(ぶりょう)の恨みが消えることを望む。務めて憐れみ悼む旨を尽くし、朕の惻然(そくぜん)たる思いに副わせよ。」十一月十三日戊戌、地震があった。十六日辛丑、穢により平野・梅宮・春日・大原野・園韓神の鎮魂などの諸祭を停止し、建礼門の前で大祓を行った。二十五日庚戌、陸奥国小田(おだ)・牡鹿(おしか)二郡を二年間免除した。二十七日壬子、参河(みかわ)・因幡国のこの秋の風水害により、今年の租の半分を免除した。十二月乙卯朔、日食があった。五日己未、流星があり、色は赤く、七星から現れて張(ちょう)に至って没した。長さは一丈余りであった。右近衛府で火災があった。十一日乙丑、月が昴を犯した。十六日庚午、月が輿鬼(よき)を犯した。この年、但馬国で水害、伊勢国で風水害があった。
¶十七年乙未、春正月己酉朔、朝賀を受けなかった。二十一日乙巳、日暈(にちうん)があった。二十三日丁未、日暈があり珥(じ)があった。二十八日壬子、冷然院(れいぜんいん)で火災があり、五十四棟に延焼し、図書・財宝を焼いた。二月九日癸亥、右中弁(うちゅうべん)・橘三夏(たちばなのみなつ)を河内堤築造使(かわちついきずきし)の長官とした。十一日乙丑、使者を遣わして京に近い寺、および平城京(へいじょうきょう)の諸寺で経を読ませた。十二日丙寅、地震があった。十四日戊辰、天皇が仁寿殿から弘徽殿(こきでん)に御所を移した。十七日辛未、日に冠纓(かんえい)があった。大納言兼右近衛大将・藤原常行が薨じた。二十四日戊寅、紫宸殿で孔雀経(くじゃくきょう)を、豊楽院(ぶらくいん)で灌頂経(かんじょうきょう)を転読させた。この月、冷然院の火災により、大原野祭・釈奠・祈年祭、春日・園韓神の諸祭を停止した。二十七日辛巳、中納言・藤原良世(よしよ)が右近衛大将を兼ねた。夏四月十五日丁卯、天皇が弘徽殿から綾綺殿(りょうきでん)に御所を移した。二十八日庚辰、彗星が東北に現れた。色は赤く芒角(ぼうかく、光の筋)があった。五月二日癸未、伯耆国が「牛が犢(こうし)を産んだが、一つの体に二つの頭、三つの目、三つの角、二つの口を持ち、顔はそれぞれ背中合わせで、全身が灰色であった」と言上した。五日丙戌、端午の節を停止した。十日辛卯、下総国が「俘囚が反乱した」と言上した。勅して兵を発しこれを討たせた。武蔵・上総・常陸・下野などの国に、それぞれ兵三百を発してこれを援けさせた。十四日乙未、太白が昼に現れ、天を経った。十六日丁酉、夜、雲気が天を覆い、その形は旛(はた)のようであった。十八日己亥、東北に彗星(すいせい)が現れた。晦日の辛亥、流星が昼、東南に落ち、色は白く、大きさは一尺ほど、長さは六尺ほどであった。六月壬子朔、相模国が「大住郡(おおすみのこおり)の河水が赤くなった」と言上した。三日甲寅、星と月が昼に現れた。この日、賀茂・松尾・稲荷・乙訓・貴布禰・丹生川上に幣帛を奉り、雨を祈った。四日乙卯、星と月が昼に現れた。太政官曹司庁の南門に雪が降った。五日丙辰、星と月が昼に現れた。九日庚申、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。十三日甲子、使者を十五大寺に遣わし、大般若経を転読させて雨を祈った。この頃、両京で毎夜、群がる鼠の足跡があり、あるものは宮城に入り、あるものは城外に出た。十五日丙寅、大極殿で三日間大般若経を転読させ、神泉苑で大雲輪請雨経法(だいうんりんしょううきょうほう)を修めて雨を祈らせた。神祇官が「深草陵の樹木を伐ったため、雨が降らないのである」と奏上した。すぐに使者を遣わしてこれを謝させた。この日、軽い罪の囚人を赦した。十八日己巳、雨乞いに効なく、さらに読経・修法の期間を二日延ばした。十九日庚午、下野国が「反乱した俘囚を討ち取った」と言上した。二十日辛未、太宰府が「大きな鳥二羽が肥後国玉名郡(たまなのこおり)の倉の上に集まり、西に向かって鳴いた」と言上した。二十日壬申、相模国が「大住郡の河水が赤く変わった」と言上した。二十三日甲戌、使者を神泉苑に遣わし、歌舞を演じさせて三日間雨を祈らせた。二十六日丁丑、太宰府に肥後国の諸神に幣を頒たせ、鳥の怪異を祓わせた。秋七月二日壬午、使者を遣わして賀茂・松尾・稲荷・乙訓・木島(このしま)・貴布禰・丹生川上に幣を頒ち、雨を祈らせた。三日癸未、使者を盾列陵に遣わし、民が陵の樹木を伐ったことを謝させ、あわせて雨を祈らせた。五日乙酉、下野国が「俘囚を討ち取った」と言上した。十日庚寅、風雨があり、木を抜き家屋を破壊した。十三日癸巳、地震があった。二十一日辛丑、長楽門(ちょうらくもん)の駅鈴(えきれい)が自然に鳴った。二十六日丙午、丹生川上で晴天を祈った。八月八日戊午、陰陽寮の漏刻の鼓が自然に鳴った。冬十月十二日辛酉、鹿が主殿寮(とのもりょう)の御湯舎(おゆどの)に入った。十五日甲子、皇子・貞辰(さだとき)を親王とした。十一月四日癸未、藤原意佳子(おかこ)を春日・大原野の斎女とした。十三日壬辰、但馬国が前年に水害に遭ったことから、正税の四分の一を貸与した。十六日乙未、出羽国が「渡島(わたりしま)の荒狄(こうてき、蝦夷)が反乱した」と言上した。勅して牧宰にこれを討たせた。十八日丁未、伊勢国の前年の田租の八分を免除した。十二月十一日庚申、穢により月次(つきなみ)・神今食(じんこんじき)の祭を停止した。十三日壬戌、来年が三合にあたることから、勅して五畿・七道に境内の名神、および国分二寺・諸定額寺に幣を奉らせ、昼は金剛般若経を転読させ、夜は薬師(やくし)・観音(かんのん)の名号を三日間念じさせ、あらかじめ災害を祓わせた。
¶十八年丙申、春正月己卯朔、雨のため朝賀を受けなかった。三日辛巳、陰霧が立ち日が赤かった。二十七日乙巳、越中国が白雉(はくち)を献上した。この月、賭射・内宴を停止した。二月五日癸丑、下総国が「木が連理であった」と言上した。二十日戊辰、式部卿兼太宰帥・忠良親王(ただよししんのう)が薨じた。この月、穢により大原野・春日祭を停止した。三月九日丁亥、肥前国松浦郡(まつらのこおり)の庇羅(ひら)・値嘉(ちか)の二郷を割いて値嘉島(ちかのしま)とし、島司・郡領を置いた。十三日辛卯、皇子・貞数(さだかず)を親王とし、皇子・長頼(ながより)に源朝臣の姓を賜った。二十一日己亥、長雨により京師の飢民に賑給を行った。夏四月十日丁巳、大極殿で火災があり、小安殿(こあんでん)・蒼竜楼(そうりょうろう)・白虎楼(びゃっころう)、延休堂(えんきゅうどう)、および北門の北・東・西三面の廊に延焼し、数日消えなかった。朝政を三日間停止し、諸衛府に厳戒させた。十四日辛酉、賀茂祭を停止した。十五日壬戌、警戒を解いた。この日、綾綺殿が震動した。二十七日甲戌、左右近衛府・兵衛府らを遣わし、毎夜両京を巡察させた。五月丁丑朔、日食があった。三日己卯、神祇伯・棟貞王(むねさだおう)を遣わして大極殿の火災を大神宮に告げさせた。四日庚辰、参議・菅原是善(すがわらのこれよし)・藤原冬緒(ふゆお)を分けて賀茂・松尾社に遣わし、火災を告げさせた。五日辛巳、端午の節を停止した。八日甲申、参議・源能有らを栢原陵に遣わし、火災を告げさせた。十四日庚寅、地震があった。十五日辛卯、また地震があった。二十一日丁酉、また地震があった。この月、長雨が続いた。六月十一日丙辰、穢により月次・神今食の祭を停止した。十八日癸亥、雹が降り地震があった。十九日甲子、京師の飢民に賑給を行った。秋七月七日壬午、興福寺の塔が震動し、三日間やまなかった。十一日丙戌、丹後・美作国の飢疫に賑給を行った。十四日己丑、参議・源舒(のぶる)が珍しい鳥を捕らえ、これを献上した。勅して「北山に放て」と仰せられた。十八日癸巳、大安寺の塔が震動した。二十一日丙申、大極殿の再建を始めた。この日、雲がないのに雷が鳴った。二十三日戊戌、丹後国が近年大旱で民が飢えたため、穀物三万斛を貸与した。二十六日辛丑、太宰府が「肥後国で白亀(はっき)を捕らえた」と言上した。二十七日壬寅、五色の雲が現れ、東山が虹のようであった。この夜、黒雲が東山に現れ、その形は幔(まん、垂れ幕)のようで、長さは十丈ほどであった。二十八日癸卯、地震があった。八月六日庚戌、赤い雲が八条、東から起こって西にわたり、広さはほとんど天を覆うほどであった。二十一日乙丑、源宜子(のぶこ)を女御とした。二十五日己巳、神祇官・陰陽寮が「火気がなお盛んです。五畿・七道の神社に幣を頒ち、これを祓うべきです」と言った。これに従った。九月三日丁丑、穢により御燈を停止した。九日癸未、重陽の節を停止し、公卿が白亀を祝う表を奏上した。二十三日丁酉、大きな流星が太微(たいび)の東藩(とうはん)に現れ、大陵を経て閣道(かくどう)・附路(ふろ)の間に至って没した。二十五日己亥、白雲が東西にわたって現れた。冬十月五日戊申、卜筮により兵乱・火災を告げられたため、五畿・七道の諸神に幣を頒った。十一月甲戌の朝、日食があった。七日庚辰、太政官庁の前に虹が現れた。九日壬午、地震があった。二十五日戊戌、皇子・貞真(さだざね)・貞頼(さだより)を親王とした。二十七日庚子、天皇が譲位しようとし、染殿院(そめどのいん)に行幸した。二十九日壬寅、皇太子に譲位した。十二月、尊号を奉って太上天皇とした。
¶元慶元年閏二月、太上天皇は右大弁(うだいべん)・藤原山蔭(やまかげ)を遣わして封戸(ふこ)を辞退してこう仰せられた。「王者の風はふるわず、国は疲弊し民は亡んでいる。それゆえ袞龍(こんりょう、天子の衣)を脱ぎ去り、蘿薜(らへき、隠者の衣)を愛でるのである。どうして再び太上(たいじょう)の尊名を享受し、公家(くげ、朝廷)の煩わしい費用を招くことがあろうか。その封戸などは、すべて返上したい。」三月、清和院(せいわいん)に居を移した(注:本書によれば、八日己酉にはなお染殿宮にいたとあり、二十四日に清和院で斎会を設けたとある。これによれば、居を移したのはこの月であることが明らかである。よってこれをここに係(か)ける)。
¶三年二月、封戸の半分を辞退した。陽成帝(ようぜいてい)は上表して固く留めるよう請うた。また参議・源舒を清和院に遣わして、表を奉じて重ねて願い出た。しかし固く辞退して受けなかった。五月、摂政・藤原基経の粟田院(あわたいん)に御所を移し、落飾(らくしょく、剃髪)して入道し、法名を素真(そしん)とした(注:法名は一代要記・歴代皇紀による)。陽成帝は粟田院に赴いて朝(まみ)えようとし、乗輿(じょうよ)がすでに用意されたが、太上天皇は藤原山蔭を遣わして急ぎ奏上し、これを止めさせた。ほどなく太上天皇のために三十人の僧を得度(とくど)させた。阿波権守(あわのごんのかみ)・藤原安方(やすかた)は出家して僧となり、清和院に侍した。十月、大和国を巡幸し、名山・古寺をめぐり見た。陽成帝は参議・左衛門督(さえもんのかみ)・源能有を遣わし、六府の将・曹(そう)・志(さかん)・府生(ふしょう)各一人、近衛・兵衛・衛門それぞれ十人を率いて、太上天皇を護衛させた。太上天皇はことごとくこれを帰し、ただ参議・在原行平(ありわらのゆきひら)、藤原山蔭のみが従った。おおよそその経過した場所は、山城国の粟田・貞観・海印(かいいん)、大和国の東大・香山・神野(かみの)・法輪(ほうりん)・現光(げんこう)・龍門(りゅうもん)・比蘇(ひそ)・大滝(おおたき)、摂津国の勝尾(かつお)などの寺であった。丹波国水尾山寺(みずおさんじ)に還御(かんぎょ)した。
¶四年八月、左大臣・源融の棲霞観(せいかかん)に御所を移した。十一月、粟田山荘・円覚寺(えんかくじ)に御所を移した。十二月四日癸未、円覚寺で崩御した。御年31歳。遺詔してこう仰せられた。「中野(なかの)で火葬し、山陵を築いてはならない。百官および諸国に、哀悼の儀を挙げさせず、素服(そふく、喪服)を着けさせず、監葬(かんそう)の諸司を置かせないようにせよ。喪事に用いるものは、すべて簡素・倹約に従え。」七日、愛宕郡(おたぎのこおり)上粟田山で火葬し、遺骨を水尾山に納め、清和天皇と称した。
¶天皇は容姿風采が美しく、端正で厳かなことは神のようであった。性格は寛大で聡明、仁愛に厚く、温和で口数少なく、立ち居振る舞いは礼にかない、もっぱら政治に心を尽くした。書物を読むことを好み、密かに仏教の教えに思いを潜めた。鷹狩りや犬猟の楽しみには、かつて心を留めることがなかった。外祖父の太政大臣・藤原良房が摂政として、政務の要は整然と密であり、国家は安寧であった。天皇は謙虚にその成果を仰ぎ、黙って憲綱(けんこう、国の法規)を握っていた。良房が薨じてから、初めて自らの政務を執り、恭倹(きょうけん、謙虚で倹約なこと)に従った。承和(じょうわ)年間以前は、天子が日々紫宸殿においでになって政務を御覧になっていたが、仁寿(にんじゅ)年間以後、これは廃れていた。天皇はこれを復活させ、当時の人々はこれを称えた。やがて藤原基経が国政を担うと、官吏はその職務を称賛され、内外は粛然とした。それゆえ前代の政治を語る者は、ことごとくこれを「貞観の治(じょうがんのち)」と称した。当時、僧・真雅(しんが)という者がいて、天皇が幼少の頃より常にそば近くに仕えていた。真雅が死んだ後には、僧・宗叡(しゅうえい)がいて、天皇に香火(こうか)の縁(仏道への帰依)を結ぶよう勧めた。皇位に即いてからは、常に菜蔬(さいそ、野菜)を召し上がり、ついには声色(せいしょく、音楽や女色)を断った。水尾山に入ってからは、酒・酢・塩・豉(し、味噌の類)を口にせず、二、三日おきに一度、斎飯(さいはん、精進料理)を召し上がるのみであった。六時(ろくじ、一日を六分した時間、昼夜の勤行の時)に苦しい修行に励み、痩せ衰えることは削るがごとくであり、深く世俗の煩わしさを厭い、食を断ち身を捨てようとした。あらゆる苦行を、修めないものはなかった。臨終に及んで、侍僧に陀羅尼(だらに)を誦えさせ、西方に向かって結跏趺坐(けっかふざ)し、手に定印(じょういん)を結んで崩御した。御姿は動かず、厳(おごそ)かにして生きているようであり、念珠(ねんじゅ)はなお手に懸かっていたという。