卷之二十九 本紀二十九
陽成天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
陽成天皇
¶陽成天皇(ようぜいてんのう)は、諱を貞明(さだあきら)といい、清和帝(せいわてい)の第一子である。母は皇太后藤原氏。
¶貞観(じょうがん)十年十二月十六日乙亥、染殿院(そめどののいん)でお生まれになった。
¶十一年二月、皇太子に立てられた。
¶十八年十一月二十九日壬寅、染殿院において御位を譲り受け、東宮にお帰りになった。右大臣兼左近衛大将・藤原基経(ふじわらのもとつね)を摂政とした。十二月六日己酉、雷雨があり雹(ひょう)が降った。七日庚戌、雷が鳴った。八日辛亥、詔して清和帝を尊び太上天皇と申し上げた。この日、太上天皇に綾・絹・綿・布を献上し、また御封二千戸を奉った。二十日癸亥、大鳥が紫宸殿の上を飛び翔けたので、仏名懺悔(ぶつみょうざんげ)の法会を停止した。この年、渤海(ぼっかい)が使者を遣わして朝貢した。
¶元慶(がんぎょう)元年丁酉(注:原文は「丁西」とあるが、干支として成り立たないため、丁酉の誤記とみて改めた)、春正月三日乙亥、天皇は豊楽殿(ぶらくでん)において即位した。時に10歳(注:年齢は本書に貞観十年生誕とある記述による)。詔して皇母藤原氏を尊び皇太夫人とし、左大臣・源融(みなもとのとおる)、中納言兼右近衛大将・藤原良世(ふじわらのよしよ)は、いずれも元のままとした。但馬(たじま)が白雉(はくち)を献上した。九日辛巳、右大臣基経は左近衛大将を辞任した。十八日庚寅、賭射(のりゆみ)を停止した。二十四日丙申、大流星があり、天津(あまつ)から出て紫微(しび)に至って消えた。二十五日丁酉、客星(かくせい)が壁宿(へきしゅく)に現れた。二月十四日丙辰、尾張(おわり)が「木の枝が連理(れんり)になった」と報告した。十七日己未、識子内親王(さとこないしんのう)を卜定(ぼくじょう)して斎宮(さいぐう)とし、敦子内親王(あつこないしんのう)を斎院(さいいん)とした。二十六日戊辰、仁寿殿(じじゅうでん)で三日間修法を行った。二十九日辛未、天皇は仁寿殿にお遷りになった。大納言・源多(みなもとのまさる)を左近衛大将に任じた。閏月十七日己丑、山城国愛宕郡(やましろのくにおたぎぐん)の水田を太上天皇に献上した。二十三日乙未、美作(みまさか)・備前(びぜん)が模造の銅を進上した。三月三日甲辰、備後(びんご)が白鹿(はくろく)を献上した。十一日壬子、大地震があった。二十六日丁卯、紫宸殿に百余名の僧を招き、三日間大般若経を転読した。これより後、貞観の頃の四季ごとの慣例を改め、春秋にこれを行うこととした。夏四月九日庚辰、大極殿を造営した。十六日丁亥、詔してこう仰せられた。「私が聞くところでは、『善政の報いには霊験が違わず、大いなる徳化のしるしには神の恵みが必ず至る』という。私は徳薄くして、かたじけなくも大いなる基業を継いだが、徳はいまだ天を動かすに至らず、恵みはいまだ万物に感じるに至らない。しかるに但馬国では白雉が獲れ、尾張国では木が連理となり、備後国では白鹿を貢いだ。あるものは暁の月を誤り、羽毛を宮殿の赤い階(きざはし)に映し、あるものは寒霜を凌ぎ、枝を青い垣根にかけている。いずれも瑞祥に応じて色を改め、めでたいしるしに感じて姿を変えたものである。これは人の業ではなく、天の意であろう。もしこれを抑えて宣べないならば、私を浅はかと言うことになろう。私は天下とともに、この喜ばしいしるしを分かち合いたいと思う。思うに、瑞祥によって年号を建てるのは、故実がないわけではない。即位に際して年号を改めることも、すでに先例がある。まして今、柘燧(しゃすい)は煙を改め、葭灰(かかい)は正しい気を示し、風物は和やかに暖かく、草木は繁茂している。この佳き時にあたり、めでたい運を開くのがよい。よって貞観十九年を改めて元慶元年とする。天下に大赦を行う。ただし通常の赦免で許されない罪は、この赦の限りではない。九州は雲のように連なり、多くの郡は星のように連なっているが、天は瑞祥を降し、地にはその現れる場所がある。尾張・但馬・備後の百姓については、今年の徭役十日を免除するのがよい。とりわけ瑞祥が現れた地域には、特に恩恵を厚くすべきである。葦田郡(あしだぐん)には今年の調を課さず、春部郡(かすがべぐん)および養父郡(やぶぐん)にはいずれも今年の庸を免除せよ。神物を受け取った多治部橘(たじひのたちばな)・但馬公得継(たじまのきみつぐつぐ)らには正六位上を授け、慣例に準じて物を賜る。瑞木を最初に見つけた僧・道能(どうのう)、到岸(とうがん)らには、位を二階進める。願わくは、この上ない大いなる恵みが遠近にあまねく及び、鳳暦(ほうれき)が天地とともにいよいよ久しくあらんことを。」五月九日己酉、太宰府(だざいふ)は「肥後(ひご)で白兎(はくと)を獲た」と報告した。十三日癸丑、地震があった。六月四日癸酉、丹生(にう)・貴布禰(きぶね)に幣帛(へいはく)を奉った。十二日辛巳、京に近い諸寺に読経させた。十四日癸未、石清水(いわしみず)・賀茂(かも)など十二社に幣帛を奉った。二十六日乙未、神泉苑(しんせんえん)で金翅鳥王経(こんじちょうおうきょう)の法を修した。二十七日丙申、東大寺で三日間修法を行い、あわせて雨を祈った。秋七月十日己酉、神泉苑の池水を城南の民田に注ぎ入れたところ、一日一夜で水が涸れた。この日、使者を楯列山陵(たたなみのさんりょう)に遣わし、陵の樹を伐ったことを謝した。十三日壬子、僧・乗縁(じょうえん)に武徳殿(ぶとくでん)で五日間呪文を唱えさせ(注:原文「誦兜」とあるが、「兜」は呪文・陀羅尼の類を指す語の誤記の可能性がある)、雨を祈らせた。十四日癸丑、地震があった。十六日乙卯、大雨が降った。八月一日己巳、天皇の体調がすぐれなかった。九日丁丑、国忌(こき)のため釈奠(せきてん)を停止した。十一日己卯、僧に清涼殿で七日間修法させ、天皇の病を祈らせた。二十五日癸巳、歳星(さいせい)が太微垣(たいびえん)の左執法(さしっぽう)を犯した。九月二日庚子、佐渡(さど)が「木が連理になった」と報告した。三日辛丑、御灯(みあかし)を停止した。五日癸卯、宮中で五日間結界の法を修した。九日丁未、体調不良のため重陽の節(ちょうようのせち)を停止した。冬十月一日戊辰、日食があった。十七日甲申、大地震があった。十八日乙酉、また地震があった。二十九日丙申、御禊(ぎょけい)を行った。十一月十八日乙卯、大嘗祭(だいじょうさい)を行った。十二月十三日己卯、勅して五つの御陵に荷前(のさき)の幣を奉る使者を定めた。二十一日丁亥、詔して正税(しょうぜい)を神社・寺院、および諸家の封戸(ふこ)の庸に充てさせた。この日、能登(のと)・佐渡に検非違使(けびいし)を置いた(注:三代実録による)。
¶二年戊戌、春正月一日丁酉、雨雪のため朝賀を廃した。十五日辛亥、勅して播磨(はりま)の不動穀(ふどうこく)を転用し、和泉(いずみ)に配給させた。二十七日癸亥、去年の日照りにより京畿(けいき)が飢饉となり、河内(かわち)・和泉が最も甚だしかったので、東西の京に常平司(じょうへいし)を置き、官米を安く売り出して、使者を遣わして人々を救済した。二十九日乙丑、伊賀(いが)が「木が連理になった」と報告した。この月、京中に盗賊が多かったので、左右近衛府の官人を派遣して夜回りをさせた。二月五日辛未、備後が飢饉となり、絶乏(ぜつぼう)した戸の税を免除した。十日丙子、京の飢民に米を売った。二十五日辛卯、大学助教(だいがくじょきょう)・善淵愛成(よしぶちのちかなり)に日本紀(にほんぎ)を講読させた。二十七日癸巳、夜、盗賊が紫宸殿に入り込んだが、近衛の舎人(とねり)がこれを捕えた。二十八日甲午、備前の不動穀一万斛(こく)を転用し、河内を救済した。二十九日乙未、地震があった。三月五日辛丑、太宰府に詔して豊前(ぶぜん)の規矩郡(きくぐん)の銅を採掘させた。七日癸卯、使者を遣わして大神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に幣帛および神宝を奉った。九日乙巳、地震があった。使者を遣わして賀茂・松尾(まつのお)など九社に幣帛と馬を奉り、五畿七道の名神(みょうじん)に幣帛を配って祈願成就の礼を行った。二十三日己未、丹後(たんご)の与謝郡(よさぐん)の水田三百余町を清和院(せいわいん)に奉った。この月、出羽(でわ)の俘夷(ふい、帰属した蝦夷)が反乱を起こし、秋田城(あきたじょう)および郡院・民家を焼いた。出羽守(でわのかみ)・藤原興世(ふじわらのおきよ)が兵を発してこれを防いだ。夏四月一日丙寅、日食があった。八日癸酉、興福寺(こうふくじ)が火災にあった。九日甲戌、霜が降りた。二十六日辛卯、備中(びっちゅう)が白雀(はくじゃく)を獲た。二十九日甲午、京畿および諸国に百の講座を設け、仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)を説かせ、国家の平安を祈らせた。この月、藤原興世は反乱を起こした蝦夷(えみし)と戦って敗れた。勅して上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・陸奥(むつ)に兵三千を発し、出羽を救援させた。五月二日丁酉、摂津(せっつ)が日照りで飢饉となったので、播磨・備前の不動穀各三千斛を転用して救済した。四日己亥、右中弁(うちゅうべん)・藤原保則(ふじわらのやすのり)を出羽権守(でわのごんのかみ)として、反乱を起こした蝦夷を討伐させた。陸奥が連理木(れんりぼく)を得た。五日庚子、端午の節(たんごのせち)を停止した。八日癸卯、大和(やまと)の飢民を救済した。九日甲辰、大流星があり、氐宿(ていしゅく)から出て軫宿(しんしゅく)・翼宿(よくしゅく)の間に至り、多くの星がこれに従い、通過するところの木の葉が音を立てた。この日、相模(さがみ)・安房(あわ)に命じ、槻弓(つきゆみ)各百張、信濃(しなの)には梓弓(あずさゆみ)二百張、但馬には檀弓(まゆみ)百張、備中・備後には柘弓(つみゆみ)各百張を進上させた。この月、藤原興世は反乱を起こした蝦夷を撃破した。最上郡(もがみぐん)の擬大領(ぎだいりょう)・伴貞道(とものさだみち)、俘囚の首魁(しゅかい)・玉作宇奈麻呂(たまつくりのうなまろ)、権弩師(ごんのどし)・神服直雄(かむはとりのなおお)らは戦死した。六月三日丁卯、長く日照りが続いたため、賀茂・松尾・稲荷(いなり)・貴布禰・丹生・乙訓(おとくに)・水主(みぬし)に幣帛を配って雨を祈った。八日壬申、従五位下(じゅごいのげ)・小野春風(おののはるかぜ)を鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)とし、陸奥権介(むつのごんのすけ)・坂上好蔭(さかのうえのよしかげ)とともに兵を率いて反乱を起こした蝦夷を討伐させ、それぞれに甲冑一具を賜って遣わした。十五日己卯、二羽の鷺(さぎ)が紫宸殿の前で争った。十六日庚辰、雷が東寺(とうじ)の幡竿(はたざお)に落ちた。十九日癸未、熒惑(けいこく、火星)が天江(てんこう)に留まった。二十一日乙酉、斗宿(としゅく)から流星が現れ、色は白く尾は短く、消えるまで見えた。この日、勅して東海道・東山道の両道に、あらかじめ勇敢で身軽な兵を選び、出羽からの要請があればただちに駆けつけるよう命じた。二十三日丁亥、占いによって辺境に警戒すべき事態があると告げられた。因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・隠岐(おき)・長門(ながと)に勅して、武具を整え要害を固めさせた。国内の諸神に幣帛を配り、四天王像の前で調伏(ちょうぶく)の法を修した。二十七日辛卯、騰蛇(とうだ)の方角から流星が現れ、色は赤く、雷電の方角に至って消えた。長さは二丈余りであった。摂津は長年日照りが続き、道端で餓死する者が相次いだので、糒(ほしいい)百斛を賜って救済した。二十八日壬辰、僧・寵寿(ちょうじゅ)を出羽に遣わし、賊を降伏させる法を修させた。出羽権守・藤原保則は兵を遣わして秋田の添河(そえがわ)で賊を防がせた。秋七月一日甲午の朝、大蔵省(おおくらしょう)の建物に雷が落ちた。四日丁酉、地震があった。十日癸卯、藤原保則が勝利を奏上した。十一日甲辰、地震があった。二十五日戊午、また地震があった。八月二日乙丑、夜、光る気が紫宸殿と仁寿殿の間に現れ、流星が南へ流れた。十八日辛巳、大風雨と洪水があった。二十四日丁亥、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。二十五日戊子、貴布禰・丹生で晴天を祈った。三十日壬辰、蝦夷三百余人が出羽城に来て降伏した。九月七日己亥、肥後の八代郡(やつしろぐん)の倉の上に大鳥が集まった。宇土郡(うとぐん)の蒲智比咩神(かまちひめのかみ)の社前の河水が血のように赤くなり、河に臨む山野の草木が枯れた。二十一日癸丑、大雨で河が溢れた。二十五日丁巳、鎮守将軍・小野春風は秋田の営に到着し、蝦夷の首長の多くが降伏した。二十八日庚申、紀伊(きい)が「今月二十六日、風雨が暗く吹き荒れ、雷が国府の庁舎および学校に落ち、公私の館舎六十余棟を破壊し、木が倒れて人が死んだ」と報告した。二十九日辛酉、地震があった。この日、関東の諸国で大地震があった。相模・武蔵(むさし)がとりわけ甚だしく、数日間止まなかった。公私の家屋で無事なものは一つもなく、多くの百姓が圧死し、地が陥没して道が通じなくなった。この月、長雨が作物を損なった。冬十月九日辛未、地震があった。十一日癸酉、兵司(ひょうし)が甲冑五十具を宜陽殿(ぎようでん)に納めた。二十日壬午、紫宸殿で三日間大般若経を転読した。十一月十九日庚戌、太白(たいはく、金星)が逆行した。二十一日壬子、穢(けがれ)により大原野祭(おおはらのまつり)を停止した。二十六日丁巳、月が氐宿に入った。二十七日戊午、月が房宿(ぼうしゅく)および鉤鈴(こうれい)を犯した。十二月二日癸亥、大鳥四羽が御在所(ございしょ)の上を飛び翔けた。十一日壬申、太宰少弐(だざいのしょうに)・島田忠臣(しまだのただおみ)が「橿日神(かしひのかみ)が人に憑いて『新羅(しらぎ)が国境を侵そうとしている』と告げた。厳重に備えるべきである」と奏上した。そこで使者を遣わして大神宮に祈願させた。この夜、月が畢宿(ひっしゅく)を犯した。二十日辛巳、民部大輔(みんぶのたいふ)・藤原房雄(ふじわらのふさお)を太宰権少弐(だざいのごんのしょうに)とし、防備の事を警戒させた。二十四日乙酉、橿日神のお告げ、および肥後の怪異により、使者を遣わして橿日・八幡(はちまん)および姫神(ひめかみ)、住吉(すみよし)・宗形(むなかた)などの神に幣帛を奉った。この月、渡島(わたりしま)の蝦夷の首長百余人が、種族三千人を率いて秋田城に来て降伏した。津軽(つがる)・渡島の諸蝦夷はことごとく内属(ないぞく、服属)した(注:三代実録による。津軽以下は藤原保則伝による)。
¶三年己亥、春正月一日辛卯、朝賀を受けなかった。十三日癸卯、勅して出羽の俘囚(ふしゅう)のうち功績のあった者を賞した。二十日庚戌、内宴(ないえん)を停止した。三月二日壬辰、近江(おうみ)が「木が連理になった」と報告した。大和は数年にわたって不作であったので、山城(やましろ)の正税稲三万束を貧民に配給した。七日丁酉、地震があった。八日戊戌、また地震があった。十六日丙午、宇佐(うさ)の神功皇后(じんぐうこうごう)の神前の瓶(かめ)が自然に割れ、子牛の鳴くような音がした。肥後の菊池郡(きくちぐん)の兵庫の戸が自然に鳴った。十九日己酉、紫宸殿で二日間大般若経を転読した。二十二日壬子、大地震があった。二十三日癸丑、太皇太后(たいこうたいごう)が崩じた。二十四日甲寅、太上天皇は清和院で大斎会(だいさいえ)を設け、親王・公卿がことごとく会した。二十五日乙卯、淳和皇后(じゅんなこうごう)を葬った。三十日己未、地震があった。夏四月一日庚申、平野(ひらの)・松尾などの祭、および侍臣に宴を賜る儀式を停止した。二日辛酉、梅宮祭(うめのみやのまつり)を停止した。この日、地震があった。四日癸亥、広瀬(ひろせ)・竜田(たつた)の祭を停止した。七日丙寅、雨のため擬階奏(ぎかいそう)を停止した。この夜、地震があった。十四日癸酉、賀茂祭を停止した。十八日丁丑、清涼殿で七日間修法を行った。二十二日辛巳、天皇は弘徽殿(こきでん)からお遷りになり、清涼殿においでになった。二十六日乙酉、初めて読書始(どくしょはじめ)を行った。五月四日癸巳、太上天皇は清和院からお遷りになり、粟田院(あわたいん)にお住まいになった。五日甲午、端午の節を停止した。八日丁酉、太上天皇は落飾(らくしょく、出家)した。十五日甲辰、地震があった。二十一日庚戌、賀茂・松尾など六社に幣帛を奉り、雨を祈った。六月十六日乙亥、地震があった。十九日戊寅、東西の京の飢民を救済した。秋七月十九日丁未、地震があった。八月二日己未、地震があった。四日辛酉、大和が「紫雲が現れた」と報告した。十日丁卯、穢により釈奠を停止した。十四日辛未、地震があった。この月、京中の梨や李(すもも)の花が咲き、あるいは実をつけた。九月一日戊子の朝、日食があった。三日庚寅、御灯を停止した。九日丙申、重陽の節を停止した。十一日戊戌、中宮職(ちゅうぐうしき)で親王・公卿に宴を賜り、五位以上に物を賜った。冬十月八日甲子、大極殿が完成し、事に関わった四位以下、および工匠を朝堂院(ちょうどういん)の含章堂(がんしょうどう)で饗応し、百官がことごとく会し、物を賜った。十二日戊辰、熒惑が逆行し、太微垣に入って左執法を犯した。十四日庚午、大地震があった。十五日辛未、勅して太宰府および豊前・長門に、国境内から馬を出すことを禁じさせた。二十日丙子、越前(えちぜん)の貞観十四年の損害を受けた戸の調・庸を免除した。二十二日戊寅、太上天皇が大和へ行幸しようとしたので、六衛府に厳戒を命じた。二十三日己卯、綿二千屯(とん)、銭百貫を粟田院に奉った。この夜、太上天皇は粟田院を出て、粟田寺(あわたでら)に宿泊した。二十四日庚辰、太上天皇は大和へ行幸した。閏月二十三日己酉、伊勢(いせ)が「木が連理になった」と報告した。十一月一日丙辰、冬至(とうじ)にあたった。公卿が表を奉って祝賀し、宜陽殿で群臣に宴を賜り、物を賜った。四日己未、隠岐が「兵庫が震動した」と報告した。六日辛酉、梅宮祭を廃した。九日甲子、丹波(たんば)が「慶雲(けいうん)が現れた」と報告した。十三日戊辰、右大臣・基経が『文徳実録(もんとくじつろく)』を奉った(注:十三日以下は文徳実録の序、および類聚国史による)。二十四日己卯、月が氐宿に入った。二十五日庚辰、詔してこう仰せられた。「私は微力の身をもって、臣下に補佐を頼んでいる。天は畏れ多く、この国もなお遠い道のりである。先ごろ担当の役人が『今月の朔日(ついたち)が冬至にあたるのは、まことに祝うべきことである』と奏上した。思いに思いを重ねても、ただ恐れ慎むばかりである。一陽(いちよう、冬至)を喜ぶべきときにあたり、私はいっそう一日の慎みを深め、日の長くなることを楽しむべきときにあたり、私はかえって薄氷を踏むような憂いを切実にする。もしこれをめでたいことというならば、どうして抑え留めることがあろうか。元慶三年十一月二十五日の明け方以前の、徒罪(ずざい)以下の罪は、軽重を問わずすべて寛大に赦免する。ただし通常の赦で許されない罪、および官物の未納などの類は、この赦の限りではない。門蔭(もんいん)の恩典が長く絶えていた者で、才能が現れている者には、特に栄誉ある賞を加え、朝廷の秩序を整える。内外の文武官の主典(さかん)以上には、爵位を一級進める。京にいる正六位上の諸官吏、および史生(ししょう)以下直丁(じきちょう)以上、また天下の高齢者には、それぞれに応じて物を賜るのがよい。罪科にある者には、雷が鳴り響いて氷が解けるように赦しが行われたことを目にさせ、良い爵位にある者には、鶴が声を呑まずに鳴くように、耳にこの慶事を聞かせたい。位階や物を賜る者については、担当の役所が明確に実情を調べるように。」二十七日壬午、石見(いわみ)が「白猿を獲た。木が連理になったもの六件」と報告した。二十八日癸未、熒惑が氐宿に入った。十二月三日戊子、勅して「近年、畿内は疲弊し、倉庫は空になっている。今年の頒田使(はんでんし)の派遣を一時停止し、特に畿内の国司に班田(はんでん)を委ねるのがよい」とした。五日庚寅、美濃(みの)が「木が連理になった」と報告した。二十一日丙午、勅して「山城国は都に近く、権勢のある者が多いので、特に使者を遣わして班田を行わせる」とした。二十二日丁未、月が氐宿に入った(注:三代実録による)。
¶四年庚子、春正月一日乙卯、雨のため朝賀を受けなかった。二月一日乙酉、日食があった。十一日乙未、空中に音がした。十七日辛丑、穢により園韓神祭(そのからかみのまつり)を停止した。二十三日丁未、東方で雷のような音がした。二十四日戊申、地震があった。二十五日己酉、出羽の国司の要請により、雄勝(おがち)・平鹿(ひらか)・山本(やまもと)三郡の調・庸を一年間免除した。また不動穀六千二百余斛を出し、三郡の狄(てき、蝦夷)の俘囚八百余人を救済した。二十八日壬子、地震があった。これより先、隠岐が「兵庫が震動し、庫中の鼓が自然に鳴った」と報告していた。陰陽寮(おんみょうりょう)がその占いを「賊兵がまもなく起こるであろう」と申し上げた。この日、因幡・伯耆・出雲・隠岐に官符を下し、不測の事態に備えさせた。三月十一日甲子、出羽の軍士で白丁(はくちょう、無位の者)の神服貞氏(かむはとりのさだうじ)ら十一人は、よく弓馬に習熟し、たびたび戦役に従い、私財を顧みなかったので、特に勅して出身(しゅっしん、叙位任官の資格)を許した。夏四月二日乙酉、大地震があった。五日戊子、また地震があった。十日癸巳、また地震があった。十二日乙未、熒惑が逆行し、房宿の上相(じょうしょう)を犯した。五月五日戊午、地震があった。十六日己巳、賀茂・松尾・稲荷・乙訓・貴布禰・丹生川上に幣帛を奉り、雨を祈った。二十日癸酉、雨が降った。公卿および六衛府の官人以下で陣頭にいた者を記録し、調布(ちょうふ)を賜った。公卿にはさらに御服の絹をそれぞれに応じて賜った。二十二日乙亥、神泉苑で三日間灌頂経(かんじょうきょう)の法を修し、晴天を祈った。六月十七日己亥、但馬が「外国の船が海中に見えた」と報告した。そこで但馬・因幡・伯耆・出雲・隠岐に、注意深く見張り、不測の事態に備えさせた。二十二日甲辰、十日あまり雨が降らなかったので、十一社に幣帛を奉り雨を祈った。二十三日乙巳、右兵庫が自然に鳴った。二十六日戊申、紫宸殿に僧を招き、三日間大般若経を転読して雨を祈った。秋七月二日甲寅、これより先、七大寺(しちだいじ)および諸々の定額寺(じょうがくじ)に読経させて雨を請わせていた。この夜、大雨が降った。五日丁巳、伯耆が白い燕(つばめ)を献上した。十七日己巳、地震があった。八月一日壬午の朝、日食があった。十六日丁酉、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉った。冬十月一日辛巳、地震があった。二日壬午、また地震があった。三日癸未、また地震があった。十四日甲午、また大地震があった(注:十四日以下は類聚国史による)。出雲がとりわけ甚だしく、神社・仏寺・官舎・民家の損壊が非常に多かった。十一月十六日丙寅、穢により鎮魂祭(ちんこんさい)を停止した。二十五日乙亥、太上天皇の体調がすぐれず、円覚寺(えんかくじ)にお遷りになった。この夜、地震があった。三十日己卯、大流星があり、角宿(かくしゅく)・亢宿(こうしゅく)の間から出て梗河(こうか)に至って消えた。この日、詔して東大・興福・元興(がんごう)・西大・薬師・大安・法隆・招提(しょうだい)・延暦の九寺に使者を遣わし、それぞれの寺で二十人の僧に大般若経を転読させ、来月三日から五日まで行うこととした。また新薬師・四天王・香山(こうぜん)・長谷(はせ)・壺坂(つぼさか)・崇福(すうふく)・梵釈(ぼんしゃく)・現光(げんこう)・神野(かんの)・三松(みつまつ)・子島(こじま)・竜門(りゅうもん)の十二寺に使者を遣わし、太上天皇の病を祈らせた。十二月一日庚辰、東方から流星が現れ、色は赤く、弧(こ)の星座に至って消えた。二日辛巳、太上天皇のために百人を得度(とくど)させた。四日癸未、右大臣・藤原基経を太政大臣とし、摂政は元のままとした(注:三代実録による。○愚管抄・大鏡裏書・公卿補任・歴代皇紀はいずれも、十一月八日に基経が摂政を改めて関白としたとする。しかし本書にはそのような記載が見えない。かつこの詔には「摂政は元のまま」とあるので、諸書の誤りであることがわかる)。詔してこう仰せられた。「先ごろ、太上天皇の御体調がすぐれなかった。徳の淵は静かな水の波に驚き、仁の山は愁いの雲の色に動いた。私は浅はかな身をもって、恭しく大きな務めを受け継ぎ、六宗(ろくしゅう)に礼を尽くし、三宝(さんぼう)に冥護(みょうご)を祈ったが、真心はいまだ届かず、感応もなお遅い。思うに、罪を赦す恩によって、さらに寿命を延ばす慶びを致したい。天下に大赦を行い、通常の赦で許されない罪もことごとく赦免する。仁の風が一度あおがれれば、偏りなく行き渡るべきであり、恵みの沢はあまねく施され、実に広く行き渡るべきである。よって解由(げゆ、事務引継ぎの証文)を得ていない者は、僧俗を問わず、みな放免する。もしこの赤心(せきしん)が偽りでなければ、願わくは皇天がこれに感応してくれるであろう。」この日、太上天皇・清和帝が円覚寺で崩じた。大地震があった。五日甲申、天皇は常寧殿(じょうねいでん)にお遷りになった。遺詔に従い、喪服を着ることと哀悼の儀礼を停止した。勅して宴飲や音楽、および美しい衣服を身につけることを禁じた。この日、商布(しょうふ)二千段、貞観銭(じょうがんせん)百貫を円覚寺に奉った。六日乙酉、大地震があり、大極殿の豎壇(じゅだん)が破損し、宮城の垣、京中の家屋の多くが壊れた。七日丙戌、清和天皇を葬った。もとの囚人を放免し、銭を賜った。十九日戊戌、夜、天に音がした。二十一日庚子、空中に音がした。この月、たびたび地震があった(注:三代実録による)。
¶五年辛丑、春正月一日庚戌、諒闇(りょうあん、服喪)のため朝賀を受けなかった。この月、たびたび地震があった。諸々の節会(せちえ)を停止した。諸衛府の陣で怪異がしばしば現れた。二月一日己卯、日食があった。三日辛巳、地震があった。九日丁亥、釈奠を停止した。天皇は清涼殿にお遷りになった。彈正台(だんじょうだい)の印が盗まれた。二十三日辛丑、地震があった。二十六日甲辰、出羽の雄勝・平鹿・山本三郡の調・庸をまた一年間免除した。三月三日辛亥、御斎(ごさい)を停止した。二十一日己巳、房宿から星が現れ、色は青く、天市(てんし)に至って消えた。二十三日辛未、京中の飢えて困窮し、自活できない者を救済した。夏四月一日戊寅、孟夏(もうか)の宴を停止した。三日庚辰、地震があった。四日辛巳、また地震があった(注:三日以下は類聚国史による)。五月五日壬子、端午の節を停止した。十一日戊午、太政官(だいじょうかん)は山陽道・南海道の二道に官符を下し、海賊を追捕させた。十三日庚申、地震があった。勅して「山城・摂津・播磨の海賊を追捕せよ」とした。十六日癸亥、日に重なった暈(かさ)がかかり、内側が黒く外側が赤かった。六月一日丁丑、山城国の岡田(おかだ)の銅を採掘する使を廃止した。十四日庚寅、長雨のため京中の困窮者を救済した。二十三日己亥、兵庫が自然に鳴った。二十五日辛丑、地震があった。秋七月七日癸丑、星が列肆(れっし)の方角から現れ、色は赤く、心宿(しんしゅく)の中星を犯し、長さは一丈あまりであった。八月一日丁丑の朝、日食があった。十一日丁亥、釈奠を停止した。九月三日戊申、御灯を停止した。九日甲寅、重陽の節を停止した。十九日甲子、地震があった。二十日乙丑、また地震があった。二十日丙寅、また地震があった(注:同日に「二十日」の日付と干支が重複して記されているのは原文のまま。おそらく一方は二十一日の誤記であろう)。冬十月一日丙子、孟冬(もうとう)の宴を停止した。六日辛巳、地震があった。十四日己丑、男女が茜(あかね)や紅花(べにばな)で交じり染めした支子色(くちなしいろ)の衣を着ることを禁じた。十一月二十四日戊辰、豊楽の宴を停止した。十二月六日庚辰、地震があった。八日壬午、地震があった。夜、太政官の曹司庁(ぞうしのちょう)で狼のような音がした。この年、奘学院(そうがくいん)を創設した(注:この年以下は西宮記による)。
¶六年壬寅、春正月一日甲辰、風雪のため朝賀を受けなかった。二日乙巳、天皇は紫宸殿で元服(げんぷく)した。七日庚戌、皇太后藤原氏を尊んで太皇太后とし、皇太夫人藤原氏を皇太后とし、天下に恩赦を行った。十日癸丑、大納言・源多を右大臣とした。二月二十八日辛丑、弘徽殿で鶏合わせ(闘鶏)を観覧した。三月二十四日丙寅、地震があった。二十七日己巳、清涼殿で宴を設け、皇太后の四十の賀を祝った。夏四月七日己卯、揭子内親王(けいしないしんのう)を卜定して斎宮とした。九日辛巳、穆子女王(ぼくしじょおう)を卜定して斎院とした。五月二日癸卯、大和が「烏(からす)が白い雛(ひな)を生んだ」と報告した。この月、長雨が続いたので、京中の貧困で病弱な者を救済した。六月十九日庚寅、地震があった。二十四日乙未、月が畢宿の大星を犯した。二十五日丙申、伯耆が数年にわたり飢饉であったので、因幡・出雲の正税三千石を頒給(はんきゅう)した。秋閏七月一日辛未の朝、日食があった。八月五日甲辰、無品(むほん)の巨勢親王(こせしんのう)が薨じた。九月四日癸酉、地震があった。七日丙子、月が牽牛(けんぎゅう)の第一星・第二星を犯した。冬十月一日庚子、雷が鳴った。二日辛丑、また雷が鳴った。十四日癸丑、また雷が鳴った。十一月四日壬申、歳星が月に入った。十五日癸未、流星が西北へ流れた。十六日甲申、雷が鳴り、地震があった。十七日乙酉、天皇は清涼殿からお遷りになり、綾綺殿(りょうきでん)においでになった。二十七日乙未、渤海が入貢した。十二月一日己亥、日食があった。十七日乙卯、雷が鳴り、地中に音がした。
¶七年癸卯、春正月一日戊辰の朝、雨のため朝賀を受けなかった。十八日乙酉、賭弓(のりゆみ)を停止した。二十日丁亥、内宴を停止した。二十九日丙申、中務卿(なかつかさきょう)・惟彦親王(これひこしんのう)が薨じた。二月九日丙午、上総(かずさ)から駅馬による急使があり、「俘囚が反乱した」と報じた。官符を下してこれを追捕させた。十八日乙卯、上総からまた急使があり、「蝦夷はことごとく平定された」と報じた。三月十日丙子、月に暈がかかり太微垣の上将(じょうしょう)を犯し、白気(はくき)が月を貫いた。夏五月二十二日丁亥、賀茂・松尾・稲荷・貴布禰・水主・乙訓に幣帛を奉り雨乞いをした。二十六日辛卯、大雨が降った。この月、神泉苑で白鹿が生まれた。六月一日乙未、日食があった。三日丁酉、地震があった。二十二日丙辰、武蔵の飢民を救済した。二十八日壬戌、地震があった。秋七月十九日癸未、これより先、太宰府が「盗賊が筑後守(ちくごのかみ)・都御酉(みやこのみとり)を殺害したが、府司(ふし)はぐずぐずして盗賊を捕えず、また急いで駅馬で奏上しなかった」と報じていた。この日、太政官が官符を下し、府司を責めさせた。二十六日庚寅、日の右に珥(じ、暈の一種)が現れた。二十七日辛卯、日の左右両方に珥が現れた。八月十七日庚戌、因幡が白い亀を献上した。二十五日戊午、大極殿の鴟尾(しび)が折れた。九月二日乙丑、賀茂・松尾・貴布禰・稲荷・乙訓・丹生に幣帛を奉り晴天を祈った。この日、春華門(しゅんかもん)の南の大木が自然に折れた。三日丙寅、御灯を停止した。この月、長雨が続いた。冬十月九日壬寅、左衛門権佐(さえもんのごんのすけ)・藤原良積(ふじわらのよしつみ)を推問筑後殺害使(すいもんちくごさつがいし)とした。十七日庚戌、これより先、備前が「諸方の悪党や盗賊が、国内の海島に集まり、住民を襲い掠め、旅人を殺し略奪している。そこでかねてより勇敢で頑強な民二百二十四人を養い、武器と船を給付して防禦に備えてきた。別途、公廨稲(くがいとう)二万束(注:類聚国史には十万束とある)を出挙(すいこ)し、その利息を収めて食糧にあてることを願う」と報告していた。ここに至ってこれを許した。二十七日庚申、雷が鳴り大風が吹いた。十一月十六日己卯、新嘗祭(にいなめさい)を停止した。熒惑が度を失い、順行して房宿に三日間留まった。十七日庚辰、節会を停止した。十八日辛巳、月が軒轅(けんえん)に入った。三十日壬辰、図書寮(ずしょりょう)が火災にあった。十二月一日癸巳、日食があった。二十二日甲寅、勅して畿内(きない)・伊勢・近江などの諸国の禁野(きんや)での柴刈りを許した。二十五日丁巳、勅して諸国が、専門の教育を受けていない者を国の博士や医師に任じること、また郡司が私的に職を譲り合うことを禁じた(注:三代実録による)。
¶八年甲辰、春正月一日癸亥、雪のため朝賀を受けなかった。四日丙寅、雷が鳴り、暴風が吹き、雹が降った。十八日壬午、内宴を停止した。二十三日乙酉、日に冠(かん、暈の一種)がかかり、右に黄色い珥、左に白い虹が日に向かって現れた。二十四日丙戌、日に冠がかかり、左右に色の白い珥が現れた。この夜、東南に星が現れ、長さは一丈ほどであった。二月四日乙未、天皇は二条院(にじょういん)に位を譲り、文武の官僚が供奉(ぐぶ)した。即日、詔を宣し、太上天皇と称した(注:大鏡裏書には「三月に尊号を上った」とあるが、本書の文をみると、帝が位を譲ったその日にすでに太上天皇と称しており、光孝帝(こうこうてい)が即位してから尊号を上ったのではない。よってこれを採らない)。世に二条院と称した(注:河海抄による)。天皇は位を譲った後、思うままに気ままにふるまい、常に十数人の童子とともに、弓矢を手に山野を駆け巡り、あるいは忍んで町へ出て、厩(うまや)の馬を奪い取り、鞭打って主人を追い立てた。かつて左大臣・源融の別荘に入り込み、その垣根を壊して立ち去った。またあるとき、一人の女子を捕え、琴の弦で縛り、水中に置いて笑いものにしたので、人々はこれを嫌い苦しんだ(注:扶桑略記による)。
¶天暦(てんりゃく)三年九月、体調がすぐれず、落飾した。村上帝(むらかみてい)は勅して三十人を得度させた(注:日本紀略による。落飾については皇胤紹運録・皇代略記による)。三十日己巳、冷泉院(れいぜいいん)で崩じた(注:日本紀略・皇代略記による)。御年82歳(注:日本紀略・皇代略記には81歳とあるが誤りとし、皇代略記・皇胤紹運録に従うとするが、原文のこの割注は出典の挙げ方に矛盾があり、判読に迷う箇所である。ひとまず原文のまま訳した)。円覚寺で殯(もがり)を行い、神楽岡(かぐらおか)の東北に葬った(注:日本紀略による)。西寺(さいじ)に国忌斎(こくきさい)を置き(注:史官記による)、陽成院(ようぜいいん)と称した。