卷之二十七 本紀二十七
文德天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
文德天皇
¶文徳天皇(もんとくてんのう)は、諱を道康(みちやす)といい、仁明帝(にんみょうてい)の長子である。母は皇太后藤原氏という。
¶天長四年八月、お生まれになった(注:生年は大鏡・一代要記による。○皇代記には五月とある)。はじめ親王となった。
¶十年七月、朝覲(ちょうきん、参内して拝謁すること)した。時に7歳であったが、立ち居振る舞いは端正で慎み深く、まるで成人のようであったので、見る者はみな驚き感心した。
¶承和九年二月、仁寿殿(じじゅうでん)で元服した。皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)が廃されるに及び、皇太子に立てられた(注:続日本後紀による)。
¶嘉祥三年、三月二十一日己亥、仁明帝の病状が重くなり、皇太子に遺詔して、柩前で即位させることとした。まもなく帝が崩御すると、皇太子は宜陽殿(ぎようでん)東庭の休廬(きゅうろ、仮小屋)に退いた。左右近衛少将各一人が近衛の兵を率いて、休廬に陣を敷いた(注:「左右近衛」以下は続日本後紀による。案ずるに、休廬について続日本後紀は「皇太子直曹(じきそう)」とする。思うに直曹は宜陽殿の庭にあり、あるいは休廬とも称したのであろう。実質は同じであるので、本文の記述に従った)。左右大臣は諸卿および少納言、左右近衛少将らを率いて、神璽(しんじ)・宝剣・符節・鈴印などを献上した(注:「左右大臣」から「少将等」までは、続日本後紀では「参議、左右兵衛督藤原助(ふじわらのすけ)が左右近衛少将曹らを率いた」とする)。即日、輦車(れんしゃ)に乗り、東宮の雅院(がいん)に移り住んだ。二十五日癸卯、仁明天皇を葬った。二十七日乙巳、暴風雷雨があり、嵯峨山陵の樹木が倒れた。中納言安倍安仁(あべのやすひと)を遣わしてこれを検分させた。この日、公卿が上言した。「政事を天下に施すのに、なお『令旨(りょうじ)』と称しておりますが、人々の見聞に疑いを生じるおそれがあります。『令』を改めて『勅』とすることを願います。」これは許されなかった。四月二日己酉、太宰帥(だざいのそち)葛井親王(ふじいしんのう)が薨じた。三日庚戌、公卿が上表して即位を勧めた。これに至るまで凡そ三度に及び、ついにこれを許した。六日癸丑、天皇の公除(こうじょ、服喪の期間を終えること)があり、百官は吉服(きちふく、通常の服装)に戻った。この日、地震があった。十五日壬戌、地震があった。十七日甲子、天皇は大極殿で即位した。時に24歳であった(注:年齢は歴代皇紀・愚管抄・皇代記、および本書に崩年32歳とある記述による)。左大臣兼左近衛大将源常(みなもとのときわ)、右大臣兼右近衛大将藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、いずれも留任した(注:公卿補任による)。生母の女御藤原氏を尊んで皇太夫人とし、群臣にそれぞれ位を授けた。十八日乙丑、内外に詔を宣べて言った。「『易月の制』(えきげつのせい、天子の喪を日を月に換算して短縮する制度)は旧来の典章に基づくものではあるが、臣子たる者の道としては、なお心喪(しんそう)を存すべきである。担当の役人に命じ、一周忌の間は、宴飲・作楽および美服の着用を禁じよ。」二十二日己巳、詔して佐渡の流人金刺福貴満(こがねさしのふくきまろ)を放還した。この月、天候は寒かった。五月二日己卯、大風が木を折った。四日辛巳、太皇太后橘氏(たちばなうじ)が崩じた。五日壬午、嵯峨皇后を葬った。九日丙戌、大極殿で三日間大般若経を転読し、雨を祈った。十一日戊子、雨水があった。十三日庚寅、東宮および中宮で三日間大般若経を転読した。二十一日戊戌、石見国(いわみのくに)が「甘露が降った」と言上した。二十六日癸卯、雹が降り、大きさは鴨の卵ほどであった。六月三日己酉、西寺の刹柱(せっちゅう、塔の心柱)に落雷があった。十一日丁巳、美作国(みまさかのくに)が白亀を献上した。二十日丙寅、流星が頭と尾を転じながら行くのが見られた。秋七月二日丁丑、左右京の貧窮者を賑給(しんごう、施し与えること)した。五日庚辰、大極殿で大般若経を転読し、五穀の豊穣を祈った。備前国が白亀を献上した。九日甲申、皇女晏子内親王(あんしないしんのう)を斎宮(さいぐう)、慧子内親王(けいしないしんのう)を斎院(さいいん)とした。従四位下藤原古子(ふるこ)・東子女王(とうしじょおう)・藤原年子(としこ)・藤原多賀幾子(たかきこ)・藤原是子(これこ)を、いずれも女御とした。十日乙酉、石見国が甘露を献上した。二十四日己亥、大雨があり、大極殿前の龍尾道(りゅうびどう)十二丈を壊した。八月十一日丙辰、公卿が上表し、白亀・甘露の瑞祥を祝った。天皇は謙譲して受けようとしなかった。十九日甲子、群臣がまた祝賀を奏上した。勅して言った。「朕はこの身がなお大喪の中にあり、政事は冢宰(ちょうさい、摂政・執政の意)に委ねている。徳はいまだ近きを動かすに至らないのに、教化がどうして幽遠にまで及ぼうか。それなのに今、白亀・甘露の祥瑞がともに至り、卿らは表を上げて祝った。朕の菲徳虚薄なることは、自ら耐え得ないことを知っている。そもそも災いがないのに憂えるのは、前例に著しいことである。瑞祥を恃んで凶事を招くことも、過去に鑑みがないわけではない。祝賀の言葉は、聞き入れたくない。」二十一日丙寅、公卿が重ねて表を上げ、瑞祥の祝賀を請うた。これを許した。二十三日戊辰、使者を遣わして宝剣・明鏡・名香・糸帛(しはく)を八幡宮および香椎廟(かしいびょう)に奉った。二十四日己巳、天の南に雷のような音がした。二十六日辛未、地震があった。九月乙亥朔、日食があった。八日壬午、右京の人が摂津国島上郡(しまかみぐん)で白亀を得て、これを献上した。十四日戊子、参議藤原助を賀茂社に遣わし、神宝を奉って国家の平安を祈った。十五日己丑、使者を春日社に遣わした。神位を加え、神宝を奉って平安を祈った。詔して言った。「天の監(かん)は測り知れず、皇化に随ってその霊験を効(あらわ)す。神の理は遠いものではなく、人事に応じて感応を通わせる。それゆえに恩沢が及ぶところがあれば、亀や龍はその幽助の徴を秘めることがない。徳が広く及ぶところがあれば、雲や露はあらかじめ昇平の瑞祥を示す。朕は上は先帝の遺制を遵い、下は群臣の言を酌んで、辞退することができず、ついに皇位に即いた。しかしなお、蓼(たで)を集めるほどの痛みはいよいよ切実であり、深い谷に臨むような懼れはいまだ晴れず、譬えるならば大河を渡るのに、渡る術を知らないようなものである。すなわち、天上の甘露の淵は、必ずしも朕のために灑(そそ)がれるものではなく、水中の神亀の智も、どうして朕を頼みとして浮かぶことがあろうか。それゆえ尚書の上表を断り、群臣の祝賀を聞き入れなかった。しかるに今、摂津の畿内の地で神亀を得て、これを献上した。誰もが、世に稀な大いなる瑞祥であり、廃してはならないと言う。朕は重ねて篤い請いに背くことになり、再三これを考えた。これはあるいは、百神・七廟が密かに万民を助け、三槐九棘(さんかいきゅうきょく、大臣・公卿の意)が政務を整え輝かせた結果ではないだろうか。担当の役人は吉日を選び、宗廟社稷にこれを告げよ。そもそも壇を封じ馬の歯(よわい)を数えるように、瑞祥の献上は常にあることではない。天の賜物が降るからには、道理として特別の待遇があるべきである。特に摂津国島上郡には、今年の調(ちょう)を納めることを免じよ。美作国英多郡(あいだぐん)・石見国安農郡(あのうぐん)・備前国磐梨郡(いわなしぐん)は、いずれも当年の庸(よう)を免じよ。亀を得た村主岑成(すぐりのみねなり)らには従六位上を叙し、物を賜うことは通例に準ぜよ。天下の祝部(はふりべ)は、それぞれその租を免じよ。また五畿・七道の諸国で、承和六年以前の調庸のうち未進のものは、すべて免除せよ。」二十一日乙未、使者を遣わして摂津住吉社に幣を奉り、日頃の祈願の成就を謝した。二十三日丁酉、七月の大水で山崎橋(やまざきばし)が壊れたことから、勅して中納言安倍安仁・源弘(みなもとのひろむ)、参議滋野貞主(しげののさだぬし)・伴善男(とものよしお)らを遣わし、橋の便所(修理のための施設)を造らせた。冬十月十六日庚申、出羽国(でわのくに)が「地が大いに震動し、山が崩れ谷が埋まって、圧死する者が多い」と言上した。二十日甲子、使者を園韓神社(そのからかみのやしろ)、紀伊国日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)、伊太祈曾社(いだきそのやしろ)に遣わし、神宝と位階を奉って、日頃の祈願の成就を謝した。十一月二十三日丙申、詔して言った。「紫極(しきょく、天帝の座)は高く映えて、万物を養い育てる運びをなしながらも語らない。黄屋(こうおく、天子の車)は尊く居して、恵愛を及ぼしながらも恃むところがない。それゆえ勲(舜の号)・華(尭の号)の跡を継ぐことは、勤労にひけをとることなく、禹(う)の履んだ跡が風を垂れるのは、なお民を含み育てることと同じである。朕はかたじけなくも先帝の教えを奉じ、つつしんで善き治めの図を撫で、茶蓼(さりょう、苦しみの喩え)を喫して神(こころ)を減らし、民草を顧みて思いを深くしている。それなのに今、至誠が行き渡らず、小さな信も人々の心に行き届かず、陰徳が調和を欠き、柔祇(じゅうぎ、地の神)が譴めを告げた。出羽の国土は、ひとえに銅龍(どうりょう、地震を示す占いの器)の兆しに応じ、辺境の府の民は、むなしく梟悪の鳥のような災いを被った。邑や住居は震え動き、厚く載せる大地を踏みながらも安んじられず、城柵は傾き頽れ、艱難の思いはいよいよ深まる。みな子のように見なすべきであるのに、あるいは死傷するに至り、独り母のように臨んでいながら、どうして救済を怠ってよかろうか。星使(せいし、勅使)を馳せ遣わし、恩恵の光を及ぼすべきである。被災のとりわけ甚だしく、自ら生計を立てられない者については、国司に商量させ、租調を蠲免(けんめん、免除)せよ。あわせて民と蝦夷とを問わず、倉廩を開いて貸し与え、その生業を振るい興し、重ねて困窮させることのないようにせよ。壊れた墻や毀れた屋の下に残る屍や骸があれば、官がこれを収めて埋葬せよ。手厚い扶助を尽くすよう努め、凍える者には温かい衣を継ぐ恵みを知らしめ、飢える者には倉の食を存分に得させるようにせよ。」二十五日戊戌、皇子惟仁親王(これひとしんのう)を皇太子に立て、大納言源信(みなもとのまこと)を傅(ふ、教育係)とした。十二月十四日丁巳、雷があった(注:文徳実録による)。
¶仁寿元年辛未、春正月甲戌朔、諒闇(りょうあん、天子の服喪)のため朝賀を受けなかった。十二日乙酉、地震があった。癸卯晦、流星があり、大きさは斗(ます)ほどであった。二月二日乙巳、地震があった。十三日丙辰、清涼殿を仁明帝の燕寝(えんしん、日常の御殿)としたが、その材を転用するに忍びず、嘉祥寺(かしょうじ)の仏堂を造った。三月癸酉朔、日食があった。十五日丁亥、地震があった。夏四月四日丙午、地震があった。八日庚戌、天皇は初めて紫宸殿(ししんでん)に出御した。二十五日丁卯、従四位下春澄善縄(はるずみのよしただ)を北殿に召し、文選(もんぜん)を講じさせた。二十八日庚午、改元した。詔して言った。「元に体(もとづ)き正に居るのは、陽秋(春秋)の格言である。故を去り新を成すのは、易の象の玄妙な訓えである。それゆえ皇統の分かれた流れ、帝位の分かれた輝きは、いずれも正朔(せいさく、暦)を改めて風を垂れ、徽章(記章)を変えて教化を演べないものはない。朕は不敏の身をもって、大いなる基業を継ぎ奉った。諒陰(りょうあん)の礼はすでに終わったが、悲しみ痛む思いはひとしお切実である。ただ年を越えて後は、月日が移り変わり、旧来の慣例に従わなければ、新たな議論を招くおそれがある。去年、即位の初めに、しばしば白亀・甘露の瑞祥を得た。朕の不徳にして、これを推し量って自らのものとはしない。しかし公卿の言を聞き入れ、これを宗廟に告げた。今まさに純陽(じゅんよう)が徳を布き、万物が文を成す時である。過去の霊験ある瑞祥を顧み、今日、年号を改めるべきである。嘉祥四年を改めて仁寿元年とせよ。」辛未晦、地震があった。五月八日己卯、雨水があった。九日庚辰、使者を丹生川上社(にうかわかみのやしろ)に遣わして晴天を祈り、左右京で自活できない者に賑給した。十一日壬午、地震があった。二十四日乙未、また地震があった。六月三日甲辰、使者を伊勢・賀茂・松尾・乙訓(おとくに)などの社に遣わし、晴天を祈った。四日乙巳、天は晴れた。五日丙午、使者を畿内に分遣し、水害に遭った者に賑給した。秋七月八日戊寅、地震があった。二十三日壬辰、夜、殿前に物が墜ちて、火のような光があった。八月庚子朔、百余人の僧を大極殿に招き、大般若経を読ませて、五穀の豊穣を祈った。二日辛丑、河内国の人が嘉禾(かか、めでたい稲穂)を献上した。十日己酉、大雨水があった(注:「十日」以下は日本紀略による)。式部省が異鳥の雛を献上したが、勅してこれを放たせた。十四日癸丑、近年の大水で民家が壊れたことから、詔して左右京および五畿内の今年の調を免じた。被害の甚だしい者には、程度に応じて賑恤(しんじゅつ)を加えた。十五日甲寅、左右の検非違使(けびいし)を遣わし、京師で水害を被った者に米を給した。二十四日癸亥、駿河国が瑞草を献上した。紫の葉に朱の茎であった。九月庚午朔、日食があった。九日戊寅、水害により節会(せちえ)を停止した。冬十月五日癸卯、地震があった。十一日己酉、使者を遣わして香椎八幡宮に幣を奉った。十三日辛亥、地震があった。二十六日甲子、御禊(ごけい)を行った。戊辰晦、朱雀門で大祓(おおはらえ)を行った。十一月六日甲戌、太陽の中に黒点があり、大きさは李(すもも)ほどであった。二十一日己丑、地震があった。二十三日辛卯、大嘗祭(だいじょうさい)を行った。十二月八日乙巳、使者を遣わして大神宮に幣を奉った。十五日壬子、使者を遣わして伯耆(ほうき)の飢民を賑給した。出雲国飯石(いいし)・仁多(にた)両郡の百姓には、一年間の課役を免じた。二十五日壬戌、遠江国(とおとうみのくに)城飼郡(きこうぐん)の百姓には、一年間の課役を免じた。この年、冬は暖かかった。
¶二年壬申、春正月三日庚午、天皇は冷然院(れいぜんいん)で中宮に拝謁した。供奉した群臣には東釣台(ひがしのつりだい)で宴を賜い、それぞれに恩賜があった。十二日己卯、諸衛府が卯杖(うづえ)を献上した(注:卯杖の献上は持統帝三年に始まるが、恒例の式とは記されていない。この年以後、しばしば見られる。内裏式によれば、弘仁年間以来すでに定式となっていたので、これより後は記さない)。二月三日庚子、地震があった。十九日丙辰、播磨国が「紫雲が現れた」と言上した。二十日丁巳、彗星が西方に現れた。二十一日戊午、太宰少弐(だざいのしょうに)橘高宗(たちばなのたかむね)が白鼠を献上した。三月丁卯朔、日食があった。六日壬申、左右近衛の官人以下、直接目にした者に物を賜い、京師でとりわけ貧しい者に賑給した。七日癸酉、近江国が椒魚(さんしょううお)を献上した。八日甲戌、使者を遣わして播磨の飢民に賑給した。十一日丁丑、諸大寺に詔して、毎年四月一日から八月三十日まで大般若経を読ませ、水害・旱害を祓うこととし、永くこれを式とした。十二日戊寅、地震があった。十三日己卯、勅した。「洪範(こうはん、書経の篇名)の八政のうち、食は第一に置かれている。食貨志にもまた『国に粟がなくて治まる例は、古来聞いたことがない』とある。しからば王政の要、民を生かす根本は、ただ農を務めることにある。近年、諸国が申告する耕作不能の田は、その数が多い。これは国郡の官司が地の利に努めず、民の命を重んじないことによって生じている。良き官吏を選んで民を委ねる趣旨に、はなはだ反することである。およそ田を治めるに、よく勤めれば一畝(せ)につき三斗を増やし、少し怠れば損なうこともまた同様である。種を播いても少し怠るだけで、これほど損なうのである。まして耕作を放棄すれば、その損失はさらに甚だしい。一畝の田は、一戸を養うことができる。一畝を耕さなければ、一戸が飢えを受ける。既に耕さない土地が多いのに、どうして飢える人が少なかろうか。古の州郡の官長は、春に田を巡視し、もし耕さない田があれば、課役として耕させ、収穫は公私で半分にした。古人が地の利をこれほどまでに重んじたのである。諸道に下し、この趣旨を知らしめよ。国郡司らは、自らこれを巡視し、池や堰を修めて固めよ。耕作に励む者は褒めて記録し、怠る者は督励して促せ。」(注:「十三日」以下は類聚三代格による)。十五日辛巳、河内・若狭・因幡の飢民に賑給した。夏四月八日甲辰、使者を遣わして天下の名神に幣を奉った。十八日甲寅、地震があった。五月五日辛未、騎射(うまゆみ)・走馬(そうめ)を停止した。二十七日発巳、大和国が「紫雲が現れた」と言上した。この日、京師に甘露が降った。大和・越前・加賀・但馬・因幡・伯耆・隠岐・播磨・長門がそろって「甘露が降った」と言上した。六月三日戊戌、地震があった。十三日戊申、使者を遣わして土佐の飢民に賑給した。秋七月十日乙亥、使者を遣わして賀茂・松尾・稲荷・貴布禰(きぶね)などの名神に幣を奉り、雨を祈った。十三日戊寅、遠江国城飼郡の貢賦を免じた。十九日甲申、肥前・豊後の貧民一万六千余人に課役を免じた。二十七日壬辰、六位以上で官物を借りたまま没した者は、すべて恩免とした。二十八日癸巳、風雨が稲の実りを傷つけた。八月乙未朔、大神宮に幣を奉り、風雨の止むことを祈った。十九日癸丑、使者を遣わして気比宮(けひのみや)に幣を奉った。二十五日己未、淡路国が「牛が頭が二つある子牛を産んだ」と言上した。癸亥晦、地震があった。閏月甲子朔、日食があった。十二日乙亥、大風が屋根を吹き飛ばし木を抜いた。十六日己卯、廩院(りんいん)の米をもって京師で風災を被った者に賑給した。二十二日乙酉、地震があった。二十七日庚寅、大雨があった。二十九日壬辰、使者を分遣し、賀茂・松尾などの社に幣を奉って晴天を祈った。九月八日辛丑、地震があった。九日壬寅、重陽の節に出御しなかった。冬十月五日丁卯、地震があった。使者を遣わして天下の諸神に幣を奉り、日頃の祈願の成就を謝した。十八日庚辰、地震があり、雷のような音がした。十一月七日己亥、地震があった。十二日甲辰、使者を遣わして丹波麻気社(たんばのまけのやしろ)に幣を奉った。十二月二十六日丁亥、五畿・七道の諸国に勅して、金剛般若経を読ませ、疫病を祓わせた。
¶三年癸酉、春正月十三日甲辰、地震があった。十五日丙午、また地震があった(注:「十五日」以下は類聚国史による)。十七日戊申、大射(たいしゃ)を停止した。十八日己酉、賭射(のりゆみ)を停止した(注:本書には「停」の字が脱けている。今は類聚国史・日本紀略によってこれを補った)。二月二十日庚辰、天皇は東宮から移り、梨下院(りかいん)に入った。制して言った。「朕は徳の香りをいまだ及ぼせておらず、教化の跡はなお疎いままである。民が親しまないことを恐れ、諸侯に対しても徳の足りなさを恥じている。しかるに今、朕が生ませた男女はみな、封爵の重さを享け、湯沐(とうもく、封地の税収)の用を受けるべき身分にある。その煩わしい出費を思うと、内心忸怩たるものがある。ひそかに思うに、皇祖が後世を戒めて遺された謀(はかりごと)として、親王の号を除き、朝臣の姓を賜うことがある。これは代々受け継がれて、すでに定まった式となっている。まことに聖なる風儀を養い育て、長くこれを扇ぎ広め、源氏とともに血流を混ぜ合わせるべきである。ただし、すでに親王の号を得ている者は、この限りではない。同母の後に生まれた子も、また同様とする。慶雲の恵みには、もとより愛憎の別はない。樹の花に、なお濃淡があるようなものである。思うに、天下の大宝は、己を屈して人を利することにあり、天下の至公は、上を損じて下を益することを欲するものである。あまねく内外に告げ、みな聞き知らしめよ。」庚寅晦、冷然院に行幸した。ついで右大臣藤原良房の邸に行幸し、桜花を観覧した。この月、京師と畿外で疱瘡(ほうそう)が流行し、死者が多かった。三月十八日戊申、地震があった。二十二日壬子、百人の僧を大極殿に招き、三日間大般若経を転読させ、災疫を祓った。二十七日丁巳、穀倉院の粗塩をもって、京師で疱瘡を患う者に給した。夏四月二日壬戌、地震があった。十日庚午、使者を大神宮に遣わし、災疫を祓った。十八日戊寅、成康親王(なりやすしんのう)が薨じた。二十五日乙酉、疱瘡が流行して人民が疫病で死ぬことから、賀茂祭を停止し、使者を遣わしてこれを告げ謝した。二十六日丙戌、詔して言った。「皇王が至極の道を建てるには、政を布くのに時に順うことを貴ぶ。聖哲が規範を凝らすには、風化を宣べるのに節に応じることを欲する。それゆえによく万物を裁ち成し、天が覆い包む徳もいよいよ隆んになる。光は八方の果てまで満ち渡り、あまねく済う功もいよいよ遠くに及ぶ。朕は寡徳の身をもって、かたじけなくも大いなる基業を統べている。日暮れまで政務を休まず、夜更けまで寝食を忘れている。四海の富を貪るのではなく、九重(宮中)の尊さを思うのでもない。ただ仁寿(じんじゅ、仁愛と長寿)の道を導き、万民を安んじ、労役を息(や)めて万姓を安んじたいと願うばかりである。しかるに誠意がいまだ行き渡らず、咎めの徴(しるし)がこれに応じて現れた。疱瘡の疫病が流行し、病に苦しみ嘆く声が競って起こっている。折しも春夏の陽気の和らぐ時にあたり、草木はみな栄えているというのに、わが百姓は疾病にかかり、あるいは死に瀕している。朕の不徳、撫で育てる道の誤りにより、憂い恐れる誠意も、どう救ってよいかわからない。月令(がつりょう)には、春夏に寛大な令を下すとある。徳化の政を頒ち、天の常道に順い、災変を救うべきである。担当の役人は務めて職責を修め、つつしんで時の訓えを奉じよ。罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしきは重きに従え。屍を埋め骸を掩う仁を貴び、老を養い孤児を憐れむ徳を崇めよ。天下に大赦すべきである。ただし通常の赦しで免れない者は、この赦しの限りではない。天下の州郡に、承和十年以前の調庸のうち未進のものを納めることを命じず、百姓を優遇し、当年の徭役を十日間息めよ。疾病の者については、長吏が自ら巡視し、程度に応じて医薬を給せよ。願わくは、この隠恤(いんじゅつ、深い慈しみ)の趣旨が天の上に感応をもたらし、仁愛と寛容の風が、この国土から凶事の兆しを払い除くことを。」五月四日癸巳、相模・上総・下総・常陸・上野・陸奥に詔して、大蔵経を分けて書写し進上させた。五日甲午、災疫のため騎射・走馬を停止した。十一日庚子、十七の寺に詔して、三日間大般若経を読ませ、災疫を祓った。十三日壬寅、太宰府に詔して、観音・弥勒の両寺、四王院、香椎廟、管内の国分寺で大般若経を読ませた。十四日癸卯、武蔵・信濃に詔して、それぞれ大蔵経一部を書写させた。二十一日庚戌、太宰府が「壱岐島の女が一度に三子を産んだ」と上言した。正税の稲三百束を賜った。二十二日辛亥、詔した。「美濃国の穀二千百斛(こく)を出し、疱瘡を患う者に給せよ。」六月四日癸亥、太宰帥葛原親王(かずらわらしんのう)が薨じた。秋七月四日癸巳、地震があった。十五日甲辰、また地震があった。十八日丁未、使者を遣わして大神宮に幣を奉り、災いを祓った。二十二日辛亥、地震があった。八月己未朔、西京で火事があり、百八十余家に延焼した。十日戊辰、伯耆国の百姓に一年間の課役を免じた。二十四日壬午、地震があった。九月戊子朔、大風があり、屋根を吹き飛ばし木を抜いた。九日丙申、災いのため南殿に出御せず、音楽を取りやめた。十四日辛丑、太宰府に詔した。「穀三万八千七百余石を出し、管内で疱瘡を患う者に給せよ。」冬十月二日己未、地震があった。虹が太政官庁の前に現れた。十六日癸酉、安芸国佐伯(さえき)・山県(やまがた)・沙田(いさごだ)三郡の今年の徭役を免じた。十一月十三日己亥、地震があった。十二月八日甲子、陰陽寮の奏上により、諸国郡および国分の二寺に、陰陽の法にもとづいて、毎年害気(がいき、疫病の気)を鎮めさせた(注:文徳実録による)。
¶斉衡(さいこう)元年甲戌、春正月丙戌朔、泥濘のため朝賀を停止した。十七日壬寅、大射を停止した。十八日癸卯、賭射を停止した。二十八日癸丑、中宮に拝謁した。二月十三日戊辰、大和国に詔して灌頂経法(かんじょうきょうほう)を修めさせ、災疫を祓った。十五日庚午、尾張の河が溢れたことから、詔して課口(かこう、課税対象の人)の三分の一を免じた。二十日乙亥、使者を遣わして丹後の飢民に賑給した。三月二十三日丁未、不動稲(ふどうとう、備蓄の稲)三万五千束をもって石見の飢民に賑給した。この春、天候は寒く、霜が降りた。夏四月三日丁巳、七道諸国の名神社に僧を分遣し、大般若経を転読させ、民の幸福を祈った。十三日丁卯、天皇は梨下院から移り、冷然院に入った。二十六日庚辰、皇太后を尊んで太皇太后とし、皇太夫人を皇太后とした。肥前・豊後の窮民九千余人に、一年間の課役を免じた。二十八日壬午、陸奥国が奏上した。「去年は不作で、百姓は困窮し、兵士は逃亡して、すでに屯戍(とんじゅ、駐屯の守備)が不足している。今、虎狼のような徒党が争って強盗を働き、逆乱の兆しが目前に迫っている。兵二千を発して、不測の事態に備えることを請う。」勅して千人を許した。五月五日戊子、騎射・走馬を停止した。十五日戊戌、陸奥国に勅して、穀一万石をもって俘夷(ふい、帰順した蝦夷)に賑給させた。十七日庚子、地震があった。この月、たいへん寒く、山の北側にわずかに雪が降った。六月十三日丙寅、左大臣兼左近衛大将源常が薨じた。癸未晦、地震があった。秋七月甲申朔、日食があった。二十三日丙午、石見国が「醴泉(れいせん、甘い泉)が湧き出たが、三日で涸れた」と言上した。二十七日庚戌、使者を大神宮に遣わし、あらかじめ風雨を鎮めるよう祈らせた。この日、大風雨があり洪水となった。八月癸丑朔、地震があった。二十八日庚辰、右大臣右近衛大将藤原良房が左近衛大将に転じ、大納言源信が右近衛大将を兼ねた。九月二十日壬寅、地震があった。二十三日乙巳、大納言源信は右近衛大将を罷め(注:「大納言」以下は公卿補任による)、大納言藤原良相(よしみ)が右近衛大将を兼ねた。辛亥晦、陸奥国の百姓に一年間の課役を免じた。冬十一月三日甲申、地震があった。二十二日癸卯、また地震があった。辛亥晦、詔して言った。「上は帝位の事跡を稽(かんが)え、下は皇統の流れを酌むに、天の霊妙な賜物によって元号を開き、神の符を割いて号を改めなかった例はない。近ごろ石見国が醴泉を奉ったが、味は濁った酒のようで、姿は芳しい甘酒のように凝っていたという。朕の不徳をもって、どうしてこれに値しよう。思うに、これは宗廟社稷が霊を降し、優れた人材が官にあることの致すところであろう。どうしてこれを自分一身のこととして固辞できようか。担当の役人は吉日を選んで宗廟社稷に告げ、仁寿四年を改めて斉衡元年とせよ。位を授け物を賜うことは通例に準ぜよ。願わくは、この稀有の瑞祥が、万邦にまで及んでともに慶び、時にしたがった徳政が、五帝の政に並んで斉(ひと)しくあらんことを。」
¶二年乙亥、春正月壬午朔、泥濘のため朝賀を停止した。十五日丙申、陸奥国が奏上した。「奥地の俘囚(ふしゅう、帰順した蝦夷)が同族を殺傷しており、警備が必要である。兵二千の追加を請う。」これを許した。十七日戊戌、大射を停止した。二十二日癸卯、京師に盗賊が多いことから、詔してこれを捜索させた。二十七日戊申、陸奥国がまた兵二千の追加を請うた。勅して言った。「そもそも辺境の要地に事を寄せることは、安危に関わることである。小さな兆しを慎み、その萌芽を慮ることは、道理としてまさに当然である。しかし今は農繁期にあたり、多くの兵士を動かせば、労役を患う嘆きを懐き、故郷に帰りたいという思いを絶やすことになりかねない。およそ兵を用いる道は、必ずしも数を貴ぶものではない。いやしくもその力を奮えば、一人で千人に当たることができる。城に近い兵一千人を選び抜き、その心を和らげ導いて、武芸を精練させ、よく要衝を守らせて、緊急の事態に備えさせるべきである。また、騒擾の原因は飢えと困窮から発していると知っている。それゆえ賑給の料として粈(こごめ、砕け米)一万斛を賜い、民と俘囚とを問わず、務めて手厚く恤(めぐ)み、恩恵を開いて、その窮乏を慰めよ。」二月三日癸丑、長星(彗星の一種)が東北に現れた。十三日癸亥、備中国が「吉備津彦神(きびつひこのかみ)の神庫の中の鈴鏡が、一夜に三度鳴った」と言上した。十七日丁卯、右大臣藤原良房・参議春澄善縄らに詔して国史を修めさせた。十八日戊辰、百人の僧を大極殿に召し、大般若経を転読させた。三月十三日壬辰、京畿での隠首(いんしゅ、戸籍からの脱漏)を禁じ、これを検出して帳簿に付けさせた(注:「十三日」以下は類聚三代格による)。十七日丙申、大風雨があった。夏四月二日庚戌、地震があった。七日乙卯、使者を遣わして吉備津彦神に幣を奉った。十日戊午、私に鷹や鷂(はいたか)を飼うことを禁じた。この月、天候は寒く、霜が降りた。閏月十四日壬辰、狐が御前を走り過ぎたので、天皇は自らこれを射て捕らえた。十五日癸巳、大雨水があった。十九日丁酉、相模の飢民に賑給した。二十三日辛丑、使者を丹生川上社に遣わし、晴天を祈った。この月、左右馬寮(めりょう)の馬が疲れて死ぬものがほとんど尽きた。五月五日壬子、寮の馬が多く斃れたことから、騎射・走馬を停止した。十日丁巳、地震があった。十一日戊午、また地震があった。二十三日庚年、東大寺が「大仏の頭が自ら落ちた」と奏上した。六月戊寅朔、日食があった。六日癸未、建礼門(けんれいもん)前の柳の木に落雷があった。二十一日戊戌、地震があった。二十五日壬寅、また地震があった。二十六日癸卯、太宰府に勅した。「浪人を検括し、延暦十六年の令を重ねて厳格に施行せよ。」(注:「二十六日」以下は類聚三代格による)。秋七月丁未朔、紀伊守(きいのかみ)紀真高(きのまたか)が甘露を献上した。二十六日壬申、地震があった。八月丁丑朔、また地震があった。二日戊寅、また地震があった。十日丙戌、兵庫の鼓が自ら鳴った。二十五日辛丑、地震があった。長門国が「牛が頭が二つある子牛を産んだ」と言上した。九月七日癸丑、狼が東宮に入って人を害した。九日乙卯、地震があった。十日丙辰、また地震があった。十一日丁巳、大雨があった。十九日乙丑、地震があった。二十日丙寅、また地震があった。二十八日甲戌、天下に命じて、米銭を東大寺に施すことを許した。乙亥晦、地震があった。冬十月三日戊寅、また地震があった。十九日甲午、出羽の窮民一万九千余人に課役を免じた。十一月十五日庚申、地震があった。十二月十二日丁亥、また地震があった。
¶三年丙子、春正月乙巳朔、雨のため朝賀を停止した。十七日辛酉、大射を停止した。二月十八日辛卯、百余人の僧を大極殿および冷然院に招き、大般若経を分けて読ませた。二十日癸巳、地震があり、雷のような音がした。二十一日甲午、また地震があった。三月三日丙午、雹が降った。二十一日甲子、天皇は僧円仁(えんにん)から両部灌頂(りょうぶかんじょう)を受けた(注:「天皇」以下は三代実録貞観六年の条、天台座主記(てんだいざすき)、歴代皇紀による。月日は天台座主記による)。この月、たびたび地震があった。京師および城の南の屋舎が壊れ、仏塔が傾いた。夏四月癸酉朔、地震があった。二日甲戌、また地震があった。八日庚辰、駿河国が「甘露が降った」と言上した。二十二日甲午、五世の王の服色を、諸臣に準じるよう定めた。辛丑晦、虹が弁官庁の前に現れた。五月五日丙午、騎射・走馬を停止した。九日庚戌、二百五十人の僧を大極殿・冷然院・賀茂・松尾社に招き、三日間大般若経を読ませて、災疫を祓った。二十八日己巳、雨水があった。六月壬申朔、地震があった。二日癸酉、また地震があった。十四日乙酉、二百六十余人の僧を東西の寺および延暦寺・崇福寺(すうふくじ)など十四寺に招き、新たに書写した大蔵経をそれぞれ三遍、七日間で読ませた。秋七月辛丑朔、使者を遣わして諸社に幣を奉り、雨を祈った。十日辛亥、越中国が「旱(ひでり)」と言上した。十六日丙辰、地震があった。十七日丁巳、雷雨があった。十八日戊午、地震があった。二十日庚申、若狭国が「旱」と言上した。二十四日甲子、詔して諸々の沙弥(しゃみ、見習いの僧)に経の読誦を試みさせ、及第した者には得度(とくど、正式な僧となること)を許した。二十八日戊辰、地震があった。八月辛未朔、特に使者を神泉苑(しんせんえん)に遣わし、呪文を持して験(しるし)のある者を試み、得度を許した。七日丁丑、虹が冷然院・八省院(はっしょういん)・太政官庁の前に現れた。八日戊寅、安房国が「天から黒い灰が降った」と言上した。十九日己丑、狂人が近衛の陣に乱入したので、射殺した。九月二十一日辛酉、地震があった。二十二日壬戌、賀茂・松尾社で三日間金剛般若経を読ませた。二十五日乙丑、地震があった。冬十月、たびたび地震があった。十一月庚子朔・二日辛丑、いずれも地震があった。三日壬寅、天皇は刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)春澄善縄から晋書(しんじょ)の講義を受けた。十四日癸丑、地震があった。十八日丁巳、御池の水が黒くなり、数日で元に戻った。二十二日辛酉、権大納言安倍安仁らを後田原山陵(のちのたわらのみささぎ)に遣わし、まもなく天を祀ることを告げさせた。二十三日壬戌、新殿で大祓を行った。二十五日甲子、大納言藤原良相を遣わして交野(かたの)の円丘で天を祀らせた。十二月庚午朔、日食があった。十日己卯、地震があった。二十七日丙申、常陸国が「木が連理(れんり、二本の木の枝が連なり合うこと)となった」と言上した。二十八日丁酉、美作国が白鹿を献上したので、これを神泉苑に放った(注:文徳実録による)。
¶天安元年丁丑の春、正月庚子朔、朝賀を停止した。十七日丙辰、天皇は大射を観覧しなかった。この日、勅して新暦を造らせた。二十六日乙丑、曲宴(きょくえん、内々の宴)を催した(注:類聚国史によれば、平城帝の大同三年正月戊子・庚子、嵯峨帝の弘仁四年正月丙子・五年正月甲子・八年正月甲子、淳和帝の天長八年正月壬子に、いずれも曲宴があったが、いずれも「子日(ねのひ)」の称を掲げず、また恒例であったとも記されていない。今、本書の文に「昔は上旬の月に必ずこの行事があり、当時これを子日の態(わざ)と呼んだ。今日の宴は、旧例を修めたものである」とあることによれば、これが恒例であったことがわかる。それゆえこれより後は記さない)。二月十九日丁亥、右大臣藤原良房を太政大臣とし、大納言源信を左大臣とし、大納言藤原良相を右大臣とした。二十一日己丑、改元した。詔して言った。「玄穹(げんきゅう、天)は質朴で奥深く、珍しい瑞符を現しながらも語らない。皇王は至公にして、神の御業に代わって徳を布く。遠く前代の記録を尋ねれば、この道に従ってきたことは久しい。朕は寡昧の身をもって、大いなる基業を継ぎ守っている。垂拱(すいきょう、両手を垂れて何もしないこと)して朝廷に臨むこと、氷の張った谷を踏むような思いである。身を労して万物を育てる、その亭毒(ていどく、育み和らげること)の仁はいまだ広く及ばず、敬意を尽くして天に仕える、その貫徹した誠にも欠けるところがある。幽と顕、どちらに感応が通じているかは知らないが。去年の冬、めでたい賜物が届けられた。美作国が白鹿一頭を貢いだが、その色は霜や雪と同じく、毛群の中でも抜きん出ており、性質は馴れて良く、仁獣と称するにふさわしいものであった。仙人の車によらずして、宮廷の庭に来たり、その長寿を重んじ、霊囿(れいゆう、神聖な苑)で養い育てている。常陸国が上言した。『連理の樹が二本生まれました。一つの郡の山の中に、二か所森然と立っています。根を分けながら幹を合わせ、体は異なりながら枝を同じくしています。あるものは互いに一丈余り連なり、あるものは交わる枝の上に、さらに見事な姿を伸ばしています。』これらはみな史書に書き記して伝えるべきものであり、瑞図(ずいと、瑞祥を記した書)に照らしても慶ぶべきことである。朕の菲薄虚弱な身では、これを招き致すことなどできない。ただ宗廟社稷が祐(たすけ)を垂れ、股肱(ここう、左右の臣)が協力し助けたことによるものである。今、この佳き徴を得て、独りその美を享受することを欲しない。恵沢をこれに施し、あまねく万方に及ぼしたい。美作・常陸の二国の百姓には、当年の徭役二十日を免じるべきである。とりわけ瑞祥の出た地には、重ねて優遇を加えよ。苫田郡(とまたぐん)の調、真壁郡(まかべぐん)の庸で、今年納めるべきものは、いずれもこれを免じる。諸国の今年の徭役を半分にし、文武の官には爵一級を授け、天下の老人には穀を賜う。鰥寡孤独(かんかこどく、身寄りのない者)で自活できない者には、程度に応じて賑恤を加える。そもそも時に随って年号を記すのは、国家の恒常の規則である。瑞祥によって元号を建てるのは、古今を通じての典例である。斉衡四年を改めて天安元年とすべきである。」二十八日丙申、述子内親王(じゅつしないしんのう)を斎院とした。この月、たびたび地震があった。三月七日甲辰、百五十人の僧を冷然院の新殿および大極殿に招き、三日間、大般若経を転読させた。十六日癸丑、左右近衛・兵衛、検非違使を遣わし、京の南で盗賊を捕らえさせた。十八日乙卯、六衛府の舎人らを遣わし、平城京で盗賊を捕らえさせた。二十五日壬戌、使者を京の南に遣わし、姦盗を禁じ止めさせた。夏四月十五日壬午、百座仁王会(ひゃくざにんのうえ)を修した。十九日丙戌、右大臣兼右近衛大将藤原良相が左近衛大将に転じ、大納言安倍安仁が右近衛大将を兼ねた。二十日丁亥、地震があった。二十三日庚寅、近江の相坂関(おうさかのせき)を復し、新たに大石(おおいし)・竜華(りゅうげ)の二関を置いた。五月丁酉朔、日食があった。五日辛丑、騎射を観覧しなかった。八日甲辰、百余人の僧を大極殿に招き、三日間金剛般若経を転読させた。十一日丁未、地震があった。二十日丙辰、地震があった。乙丑晦、長雨があり洪水となった。六月二十五日庚寅、太宰府が上言した。「対馬島上県郡(かみつあがたぐん)の擬主帳(ぎしゅちょう)卜部川知麻呂(うらべのかわちまろ)、下県郡(しもつあがたぐん)の擬大領(ぎだいりょう)直浦主(あたいのうらぬし)らが、共謀して守の立野正岑(たてののまさみね)の宅を焼き、正岑およびその従者・防人(さきもり)を射殺しました。」三河国が「庁院東庫が震動した」と上言した。秋七月十六日辛亥、太宰府に制を下した。「対馬島の民で賊にたばかられた者、および罪なくして獄死した者の妻子を宥(ゆる)せ。」十九日甲寅、虹が冷然院の北門東脇に現れた。この月、たびたび地震があり、東西南北に雷のような音がした。八月十四日戊寅、空が霧のように昏(くら)くなった。十五日己卯、藻壁門(そうへきもん)が自然に崩れた。九月九日癸卯、旱のため南殿に出御せず、音楽を取りやめた。二十五日己未、地震があった。冬十月八日壬申、雨が降った。九日癸酉、地震があった。十二日丙子、御馬を観覧し、侍臣にそれぞれ一匹を賜った。十三日丁丑、雷雨があった。十五日己卯、遠江国が「木が連理となった」と言上した。この日、白雲が空一面に広がった。二十三日丁亥、女が夜、蔵殿に入り、御物の衣服を盗んだが、すぐに捕らえられた。二十四日戊子、陰陽寮の漏刻(ろうこく、水時計)の鼓が自ら三度鳴った。十一月二日乙未、陰陽寮の鼓がまた自ら鳴った。七日庚子、遠江国が「木が連理となった」と言上した。十二月十八日辛巳、雷があった。二十二日乙酉、また雷があった。
¶二年戊寅、春正月甲午朔、雪のため朝賀を停止した。五日戊戌、陰陽寮の漏刻の鼓が自ら鳴った。十七日庚戌、大射を停止した。十九日壬子、三河国が「木が連理となった」と言上した。二十八日辛酉、暴風大雨があった。二月九日壬申、越後国が「木が連理となった」と言上した。十五日戊寅、百座仁王会を修した。十七日庚辰、筑後国高良玉垂神社(こうらたまたれじんじゃ)で火事があった。二十二日乙酉、左近衛少将坂上当道(さかのうえのまさみち)らを遣わし、官属を率いて京中の群盗を捜索し捕らえさせた。閏月十三日乙巳、雹が降った。二十四日丙辰、肥後国が「菊池城院(きくちじょういん)の兵庫の鼓が自ら鳴った」と言上した。二十五日丁巳、また鳴った。二十八日庚申、対馬島の百姓で守立野正岑を殺した者を刑官に下し、その罪を取り調べ判定させた。三月十二日癸酉、深草山陵(ふかくさのみささぎ)が祟りをなすとして、参議藤原氏宗(うじむね)らを遣わして祈り謝した。十五日丙子、相模介滋野安成(しげののやすなり)に、侍従所で老子・荘子を講じさせた。この日、諸司の能書家を常寧殿(じょうねいでん)に召し、般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)百巻を書写させた。二十三日甲申、地震があった。二十八日己丑、雲がないのに雷が鳴った。夏四月壬辰朔、日食があった。二日癸巳、刑部大丞(ぎょうぶのだいじょう)石川宗主(むねぬし)、大録(だいろく)難波清宗(きよむね)らが、官宣を偽って省符(しょうふ)を作り、罪人佐伯宮人(さえきのみやひと)らを放免したので、これを刑官に下して罪を取り調べさせた。六日丁酉、雹が降り、大きさは棊子(碁石)ほどであった。九日庚子、夜、宝皇寺(ほうこうじ)で火事があった。十一日壬寅、空中に雷のような音がした。この日、使者を諸方に遣わし、諸々の大神社に幣を奉り、国家の平安を祈らせた。二十三日甲寅、地震があった。二十四日乙卯、大舎人寮(おおとねりりょう)で火事があった。五月五日乙丑、騎射・走馬を停止した。十五日乙亥、大水があった。二十一日辛巳、大雨があった。二十二日壬午、大雨洪水があり、河が溢れて橋が壊れた。東堀川の水が冷然院に入り、左衛門陣の直廬(じきろ、宿直所)が漂流した。左右京で溺死する者が多かった。二十六日丙戌、地震があった。雲がないのに雷が鳴った。二十七日丁亥、流星があり、長さは一丈ほどであった。この日、使者を遣わして両京の水害を巡検させた。二十八日戊子、雲がないのに雷が鳴った。明け方、星が月の中に入った。己丑晦、穀倉院の穀二千斛、民部省廩院(りんいん)の米五百斛、大膳職(だいぜんしき)の塩二十五斛を出し、左右京に賑給した。六月七日丙申、和泉国が「雷が廬舎をほとんど百軒壊し、田苗二十町ほどを損じました。人畜に死傷があり、大木も多く折れました」と言上した。十日己亥、流星があり、大きさは月ほどで、色は青赤く、天を経て西に落ちた。空中に雷のような音がした。十一日庚子、白雲があり、良(北東)から坤(南西)にわたって連なった。十三日壬寅、地震があった。二十日己酉、大宰府が言上した。「五月一日、大風暴雨がありました。九国二島がすべて損傷を被りました。肥後国菊地城院の兵庫の鼓が自ら鳴り、不動倉十一棟が火事になりました。」二十一日庚戌、大霧があり、雲がないのに雷が鳴り、大風があった。秋七月五日甲子、武蔵国が白雉を献上した。十二日辛未、乙訓・水主(みぬし)・貴布禰などの神に雨を祈った。十九日戊寅、雨が降った。二十七日丙戌、大雨があった。八月四日壬辰、若狭国が「兵庫が鳴り、音は鈴のようであった」と言上した。十九日丁未、雲があり空一面に広がった。二十三日辛亥、天皇が病に伏した。二十四日壬子、皇太子が薬を嘗めて侍り、公卿大夫が陣頭に候じた。この夜、歳星(さいせい、木星)が牽牛(けんぎゅう)の星座を守った。二十五日癸丑、親王・公卿が夜、東釣台を護った。二十六日甲寅、詔して言った。「皇天(こうてん)は特定の者を偏愛することなく、ただ徳ある者を助ける。人の心には親しむ隣人があり、ただ恵みを懐く。朕は寡薄の身をもって、かたじけなくも太階(たいかい、朝廷)に臨んでいる。どうして巌廊(がんろう、朝廷の廊)で安逸を貪ろうか、常に億兆の民を思っている。しかるに人の風俗は澆薄(ぎょうはく、浮薄)で、誠は浅く偽りは深い。それゆえ道を知る者は少なく、法に触れる者は絶えない。仁義をもって浸し潤し、礼譲をもって陶冶することができていない。秋の典(刑罰の書)は日々帷幄(いあく、幕舎、朝廷)に聞こえ、弊れた罪人は次々に囹圄(れいご、牢獄)に繋がれている。網に触れ、法に触れる者は、すでに哀れむべきである。過ちを宥し恩を崇めることは、いよいよ心に切実である。この愷澤(がいたく、喜びの恵み)を施し、彼らの鬱屈を暢(の)べ晴らすべきである。天下に大赦すべきである。ただし通常の赦しで免れない者は、この赦しの限りではない。」この日、御病状が重くなった。二十七日乙卯、新殿で崩御した。御年32歳。真原山陵(まはらのみささぎ)に葬った。殯葬(ひんそう)の礼は、すべて仁明帝の故事の通りとしたが、方相氏(ほうそうし、葬送の悪霊祓いの役)を加えた。文徳天皇と諡した。後に陵の名を改めて田邑(たむら)といい、守陵四戸を置いた。世に田邑帝と称する(注:文徳実録による)。
¶貞観二年、国忌(こっき、天皇の忌日の法会)を西寺に置いた(注:「陵の名を改める」以下は三代実録による。「田邑帝と称する」は神皇正統記による)。
¶天皇は即位してから、政事に心を留め、生まれつきたいへん明察で、よく人の姦悪を見抜いた。もっぱら昇平の教化を思い、巡幸や遊覧を好まなかった。仁寿・斉衡の間、しばしば嘉瑞を得て、これを陵廟に薦めた。しかし禁網(法網)がしだいに密になり、憲法(法制)はかなり峻厳になるに至って、官署にはしばしば人事異動の噂が聞かれ、官吏はかえって罷免される不安を懐くようになり、天下の人々はこれを漢の明帝に比べた。しかし聖体は病弱で、しばしば政務を廃することがあり、在位は長くなく、当時の人々はこれを惜しんだ。