卷之七十八 列傳第五

后妃五

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字
この巻の目次63
  1. 藤原皇后(高子)
  2. 藤原多美子
  3. 平寬子
  4. 嘉子女王
  5. 源濟子
  6. 源貞子
  7. 隆子女王
  8. 兼子女王
  9. 忠子女王
  10. 藤原賴子
  11. 藤原佳珠子
  12. 源嚴子
  13. 源喧子
  14. 源宜子
  15. 藤原氏
  16. 在原氏
  17. 藤原氏
  18. 藤原氏
  19. 佐伯氏
  20. 橘氏
  21. 藤原氏
  22. 王氏
  23. 藤原氏
  24. 賀茂氏
  25. 大野氏
  26. 姊子女王
  27. 藤原氏
  28. 紀氏
  29. 伴氏
  30. 佐伯氏
  31. 王皇后(班子)
  32. 藤原佳美子
  33. 平等子
  34. 藤原元善
  35. 讚岐氏
  36. 王氏
  37. 布勢氏
  38. 多治氏
  39. 藤原中宮(溫子)
  40. 藤原皇后(胤子)
  41. 橘義子
  42. 菅原衍子
  43. 橘房子
  44. 源貞子
  45. 藤原褒子
  46. 藤原氏
  47. 王氏
  48. 藤原氏
  49. 藤原皇后(穩子)
  50. 為子內親王
  51. 源和子
  52. 藤原仁善子
  53. 藤原能子
  54. 藤原和香子
  55. 藤原淑姬
  56. 源周子
  57. 藤原鮮子
  58. 藤原桑子
  59. 源封子
  60. 滿子女王
  61. 源貞子
  62. 藤原氏
  63. 源氏

藤原皇后(高子)

清和天皇の藤原皇后は、諱を高子(たかいこ)といい、中納言・藤原長良(ふじわらのながよし)の第二女である(注:愚管抄・貴女抄・一代要記による)。まだ実家にいたころ、后の兄・基経(もとつね)は夢を見た。「后が庭に横たわって寝ており、しばらくすると腹が破れて気が立ち上り、天に届いて雲となった」という夢である。その後、選ばれて入内した(注:大鏡によれば、后が実家にいたころ、在原業平(ありわらのなりひら)と密通し、業平が后を盗んで夜に駆け落ちしたが、兄の国経(くにつね)・基経がこれを追って連れ戻したという。のちに染殿后(そめどののきさき、藤原明子)の縁で宮中に出入りするようになり、ついに寵愛を受けるに至った。いわゆる「選ばれて入内した」というのは、思うにこの事実を憚って隠したものであろう)。従五位下を授けられた。貞観八年十二月、女御となった。九年、正五位下に進んだ。陽成帝(ようぜいてい)・貞保親王(さだやすしんのう)・教子内親王(のりこないしんのう)を生んだ(注:斎院記・皇胤紹運録には敦子内親王も高子と同じく貞平親王の母とするが、誤りである)。十一年、従四位下に進み、十三年、従三位を授けられた。陽成帝が即位すると、皇太夫人(こうたいぶにん)として尊ばれ(注:三代実録による)、中宮と称された(注:大鏡・中右記による)。元慶六年、皇太后として尊ばれた。前年、太后は齢四十であったが、大喪のため寿を祝う礼は行われなかった。三月、清涼殿で宴を設け、音楽を奏で舞を演じさせ、公卿らがみな参会した(注:三代実録による)。寛平八年、東光寺(とうこうじ)の僧・善祐(ぜんゆう)と密通した罪により、后位を廃された(注:扶桑略記・日本紀略による)。その後、四百戸の封戸を賜った(注:大鏡裏書による)。延喜十年三月、薨去した。享年六十九(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡裏書による)。天皇はその日、政務を執らなかった(注:日本紀略による。本書には何日間政務を停止したかは記されていない)。天慶六年、もとの位に復された(注:大鏡裏書・一代要記による)。二条后(にじょうのきさき)と称された(注:一代要記・古今集・大鏡による)。

藤原多美子

女御・藤原多美子(ふじわらのたみこ)は、右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ)の娘である。性質は穏やかで落ち着いており、容色も美しく、婦徳をもって称えられた。貞観五年、従四位下を授けられた。天皇の元服の際、選ばれて入内し、もっぱら寵愛を独占した。数日のうちに女御となり、従三位を授けられた。八年、勅により、年官二分の一人、年爵一分の一人を賜った。九年、正三位に転じ、元慶元年、従二位に進み、七年、正二位に至った。仁和二年、薨去した。多美子は徳行がきわめて高く、内外の親族から頼りにされ、天皇もこれを重んじた。天皇が出家して法体となると、多美子もまた尼となり、斎戒を守って修行に励んだ。天皇崩御ののち、生前に賜った天皇直筆の書を集め、それを用いて法華経を書写し、法会を設けてこれを供養した。大乗戒を受け、その当日に薨去した(注:三代実録による)。

平寬子

女御・平寛子(たいらのひろこ)は、貞観六年、女御となった。八年、正五位下を授けられ、十年、従四位下に進んだ(注:三代実録による)。

嘉子女王

女御・嘉子女王(かしじょおう)は、貞観元年、従四位下に叙せられた。九年、女御となり、十年、従四位上に進んだ(注:三代実録による)。

源濟子

女御・源済子(みなもとのなりこ)は、貞観九年、女御となり、十年、従四位上を授けられた(注:三代実録による)。

源貞子

女御・源貞子(みなもとのさだこ)は、貞観九年、女御となり、十年、従四位下を授けられた。十五年、卒去した(注:三代実録による)。温明殿女御(うんめいでんのにょうご)と称された(注:一代要記による)。

隆子女王

女御・隆子女王(たかこじょおう)は、元慶元年、正四位下に叙せられた(注:三代実録による)。

兼子女王

女御・兼子女王(かねこじょおう)は、貞観十五年、女御となり、元慶元年、正四位下に叙せられた(注:三代実録による)。

忠子女王

女御・忠子女王(ただこじょおう)は、貞観十二年、女御となり(注:三代実録による)、従四位下に叙せられた(注:日本紀略・一代要記による)。延喜四年、卒去した(注:日本紀略による)。

藤原賴子

女御・藤原頼子(ふじわらのよりこ)は、太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)の娘である。女御となり(注:尊卑分脈・一代要記による)、従四位下に叙せられた(注:一代要記による)。

藤原佳珠子

女御・藤原佳珠子(ふじわらのかすこ)は、頼子の妹である(注:三代実録による。あわせて皇胤紹運録・尊卑分脈・一代要記を参照した)。貞観十五年、女御となり(注:三代実録による)、正五位下に叙せられた(注:一代要記による)。貞辰親王(さだときしんのう)を生んだ(注:三代実録による。あわせて皇胤紹運録・一代要記を参照した)。

源嚴子

女御・源厳子(みなもとのいつこ)は、右大臣・源能有(みなもとのよしあり)の娘である(注:源氏系図による)。女御となり、従四位下に叙せられた。元慶三年、卒去した(注:三代実録による)。温明殿女御と称された(注:一代要記による)。

源喧子

女御・源暄子(みなもとのけんこ)は、正五位下に叙せられた(注:三代実録による)。のちに正四位下に進んだ(注:一代要記による)。

源宜子

女御・源宜子(みなもとのぎし)は、参議・興基(おきもと)の娘である。貞観十八年、女御となり(注:三代実録による)、正五位下に叙せられた(注:一代要記による)。

藤原氏

更衣の藤原氏は、神祇伯(じんぎはく)・良近(よしちか)の娘である。貞平親王(さだひらしんのう)・識子内親王(さとこないしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

在原氏

更衣の在原氏(ありわらうじ)は、中納言・在原行平(ありわらのゆきひら)の娘である。貞数親王(さだかずしんのう)・包子内親王(かねこないしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

藤原氏

更衣の藤原氏は、斎宮頭(さいぐうのかみ)・諸藤(もろふじ)の娘である。貞真親王(さだざねしんのう)を生んだ(注:三代実録による。一代要記では「諸藤」を「説成」とするが、誤りである)。

藤原氏

更衣の藤原氏は、木工権大允(もくのごんのだいじょう)・直宗(なおむね)の娘である。貞頼親王(さだよりしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

佐伯氏

更衣の佐伯氏(さえきうじ)は、信濃権介(しなののごんのすけ)・子房(こふさ)の娘である。源長鑑(みなもとのながあきら)・源長頼(みなもとのながより)を生んだ(注:三代実録による)。

橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、治部大輔(じぶのたいふ)・休蔭(やすかげ)の娘である。貞固親王(さだかたしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

藤原氏

藤原氏は、参議・仲統(なかむね)の娘である。貞元親王(さだもとしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

王氏

王氏は、中務大輔(なかつかさのたいふ)・棟貞王(むねさだおう)の娘である。貞純親王(さだずみしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

藤原氏

藤原氏は、中納言・諸葛(もろかず)の娘である。孟子内親王(たけこないしんのう)を生んだ(注:三代実録による)。

賀茂氏

賀茂氏(かもうじ)は、越中守(えっちゅうのかみ)・畢雄(ひつお)の娘である。源長猷(みなもとのながのり)・源載子(みなもとののりこ)を生んだ(注:皇胤紹運録によれば、長猷・載子の母は大野氏とし、また一説には載子の母は貞平親王の母と同一とするが、いずれも誤りである。ここでは三代実録に従う)。

大野氏

大野氏(おおのうじ)は、石見守(いわみのかみ)・鷹取(たかとり)の娘である。源長淵(みなもとのながふち)を生んだ(注:三代実録による)。

【陽成天皇】

姊子女王

陽成天皇の後宮・姉子女王(あねこじょおう)は、従三位に叙せられた。元長親王(もとながしんのう)・元利親王(もととししんのう)・長子内親王(ながこないしんのう)・儼子内親王(いつこないしんのう)を生んだ(注:源氏系図・帝王編年記による)。

藤原氏

藤原氏は、主殿頭(とのものかみ)・遠長(とおなが)の娘である。元良親王(もとよししんのう)・元平親王(もとひらしんのう)を生んだ(注:源氏系図・皇胤紹運録による)。

紀氏

紀氏(きうじ)は、紀君(きのきみ)と称された。源清蔭(みなもとのきよかげ)を生んだ(注:源氏系図・皇胤紹運録による)。

伴氏

伴氏(とものうじ)は、源清鑑(みなもとのきよあきら)を生んだ(注:一代要記・帝王編年記による)。

佐伯氏

佐伯氏は、源清遠(みなもとのきよとお)を生んだ(注:源氏系図・皇胤紹運録・帝王編年記による)。

【光孝天皇】

王皇后(班子)

光孝天皇の王皇后(おうこうごう)は、諱を班子(はんし)といい、仲野親王(なかのしんのう)の娘である。天皇がまだ即位前の潜龍(せんりょう)の時代に迎え入れられ、従四位下に叙せられた(注:三代実録による)。是忠親王(これただしんのう)・是貞親王(これさだしんのう)(注:一代要記・帝王編年記による)、宇多帝(うだてい)(注:三代実録・帝王編年記による)、源元長(みなもとのもとなが)(注:一代要記による)、忠子内親王(ただこないしんのう)(注:皇胤紹運録・帝王編年記による)、簡子内親王(かんこないしんのう)(注:帝王編年記による)、綏子内親王(やすこないしんのう)・為子内親王(いこないしんのう)(注:皇胤系図・帝王編年記による)を生んだ。天皇の即位に伴い従三位に進み、女御となった。仁和三年、従二位に進んだ(注:三代実録による)。宇多帝の即位により皇太夫人として尊ばれ、寛平九年、皇太后として尊ばれた(注:大鏡裏書による)。昌泰三年四月、崩御した。享年四十八。葛野郡(かどのぐん)の頭陀寺(ずだじ)のかたわらに葬られ、洞院太后(とういんのたいごう)と称された(注:日本紀略・扶桑略記による)。后は当初、小松宮(こまつのみや)にいたころ、みずから市に出て買い物をするのを好んだ。尊い身分になってからも、日に一度は御帳台をめぐって買い物をするような真似事をし、そうしなければ気が晴れなかったという(注:世継物語による)。

藤原佳美子

女御・藤原佳美子(ふじわらのかみこ)は、従四位下に叙せられた。元慶八年、女御となり、仁和三年、正四位下に進んだ(注:三代実録による)。寛平八年、従三位に進み(注:一代要記による)、昌泰元年七月、薨去した(注:日本紀略・一代要記による)。

平等子

女御・平等子(たいらのとうし)は、元慶八年、女御となった。仁和二年、正五位下を授けられ(注:三代実録による)、のちに従三位に進んだ(注:一代要記による)。

藤原元善

女御・藤原元善(ふじわらのもとよし)は、中納言・藤原山陰(ふじわらのやまかげ)の娘である。更衣となり、従五位上に叙せられ、仁和三年、女御となった(注:三代実録による)。

讚岐氏

更衣の讃岐氏(さぬきうじ)は、大判事(だいはんじ)・永直(ながなお)の娘である。源旧鑑(みなもとのふるあきら)を生んだ(注:三代実録による)。

王氏

王氏は、参議・正如王(せいじょおう)の娘である。穆子内親王(むつこないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・斎院記・貴女抄による。公卿補任や諸系図には「正如王」という人物は見えず、おそらく「正躬王(まさみおう)」の誤りであろう)。

布勢氏

布勢氏(ふせうじ)は、滋水清実(しみずのきよざね)を生んだ(注:三代実録による)。

多治氏

多治氏(たじうじ)は、緩子(ゆるこ)を生んだ(注:皇胤紹運録による)。

【宇多天皇】

藤原中宮(溫子)

宇多天皇の藤原中宮は、諱を温子(おんし)といい、太政大臣・藤原基経の娘である。仁和四年十月、入内した。正四位下を授けられ、女御となった(注:一代要記による)。均子内親王(きんしないしんのう)を生んだ(注:一代要記・皇胤紹運録による)。寛平五年、正三位に進んだ(注:一代要記による)。醍醐帝(だいごてい)の即位により皇太夫人として尊ばれ、中宮と称された(注:日本紀略・一代要記による)。延喜五年五月、落飾した(注:日本紀略・扶桑略記による。一代要記は正月とするが誤りである)。七年六月、崩御した。享年三十六(注:一代要記は四十六歳とするが、ここでは日本紀略・扶桑略記に従う。中右記の永久二年条も参照)。東七条后(ひがししちじょうのきさき)と称された(注:日本紀略・扶桑略記による)。

藤原皇后(胤子)

藤原皇后は、諱を胤子(いんし)といい、内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の長女である。仁和四年九月、更衣となり、寛平五年正月、従四位下を授けられて女御となった(注:大鏡裏書による)。醍醐帝(注:日本紀略・扶桑略記による)、敦慶親王(あつよししんのう)・敦固親王(あつかたしんのう)・敦賓親王(あつみしんのう)・柔子内親王(じゅうしないしんのう)(注:皇胤紹運録による)を生んだ。八年六月、卒去した(注:大鏡裏書・一代要記による)。宇治郡(うじぐん)の小野(おの)に葬られた(注:延喜式による)。醍醐帝の即位により、追って皇太后と尊ばれ(注:日本紀略・大鏡裏書による)、国忌(こくき)を置き、荷前(のさき)の幣に列せられた(注:延喜式による)。延喜三年八月、天皇はみずから法華経を書写し、勧修寺(かじゅうじ)にて冥福を祈った(注:日本紀略による)。延長三年八月、勧修寺において繍曼陀羅(ぬいまんだら)の神筆法を修した(注:日本紀略・扶桑略記による)。

橘義子

女御・橘義子(たちばなのよしこ)は、参議・橘広相(たちばなのひろみ)の娘である(注:皇胤紹運録・一代要記による)。寛平五年、女御となり、八年、従四位上を授けられた(注:一代要記による)。斉中親王(なかもとしんのう)・斎世親王(ときよしんのう)・斉邦親王(なりくにしんのう)(注:皇胤紹運録・一代要記による)、君子内親王(きみこないしんのう)(注:皇胤紹運録・貴女抄による)を生んだ。

菅原衍子

女御・菅原衍子(すがわらののぶこ)は、右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)の長女である(注:一代要記・尊卑分脈による)。寛平八年、女御となり、従四位下に叙せられた(注:一代要記による)。

橘房子

女御・橘房子(たちばなのふさこ)は、女御となり、従四位下に叙せられた。寛平五年、卒去した(注:一代要記による)。

源貞子

更衣の源貞子(みなもとのさだこ)は、大納言・源昇(みなもとののぼる)の娘である。従五位上を授けられた。依子内親王(よりこないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・一代要記による)。

藤原褒子

尚侍(ないしのかみ)・藤原褒子(ふじわらのほうし)は、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の娘である。雅明親王(まさあきらしんのう)・載明親王(のりあきらしんのう)・行明親王(ゆきあきらしんのう)を生んだ。従二位に進んだ。京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)と称され(注:皇胤紹運録・一代要記による)、また富小路御息所(とみのこうじのみやすんどころ)とも称された(注:大鏡による)。

藤原氏

藤原氏は、大和守(やまとのかみ)・継蔭(つぐかげ)の娘である。当初、東七条中宮(温子)に仕えた。当時、継蔭が伊勢守(いせのかみ)であったことから(注:藤原系図・歌仙伝による)、伊勢(いせ)と称された(注:藤原系図による)。和歌に優れ、天皇の寵愛を得て皇子を生んだ(注:伊勢家集・藤原系図・歌仙伝による。伊勢家集には、皇子は八歳で夭折したとあるが、その名は記されておらず、今は考証のしようがない)。

王氏

王氏は、参議・十世王(とよおう)の娘である。孚子内親王(ふしないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録・一代要記による)。

藤原氏

藤原氏は、参議・有実(ありざね)の娘である。誨子内親王(かいしないしんのう)(注:皇胤紹運録・一代要記による)、季子内親王(すえこないしんのう)(注:皇胤系図による)を生んだ。

【醍醐天皇】

藤原皇后(穩子)

醍醐天皇の藤原皇后は、諱を穏子(おんし)といい、太政大臣・藤原基経の第四女である(注:扶桑略記・大鏡裏書による)。延喜元年、女御となり(注:日本紀略・大鏡裏書による)、のちに従三位に叙せられた(注:大鏡裏書による)。文献太子(もんげんたいし)・朱雀帝(すざくてい)・村上帝(むらかみてい)(注:日本紀略・扶桑略記・大鏡裏書による)、康子内親王(やすこないしんのう)(注:皇胤紹運録・一代要記による)を生んだ。延長元年四月、皇后に立てられた(注:大鏡・扶桑略記・一代要記による)。承平元年、皇太后として尊ばれた(注:日本紀略・一代要記による)。四年三月、太后は齢五十となり、天皇は常寧殿(じょうねいでん)にて慶寿の礼を行い、諸寺に諷誦(ふじゅ)を修めさせ、五十人を得度させた。天慶二年十月、体調を崩し、六十人を得度させた。七年、齢六十となり、勅により十三の寺で諷誦を修めさせ、都の貧民に物を賜った。村上帝の即位により、太皇太后として尊ばれた(注:日本紀略による)。天暦八年正月、昭陽舎(しょうようしゃ)にて崩御した。享年七十(注:扶桑略記による)。宇治陵(うじのみささぎ)に葬られ、荷前の幣に列せられた(注:西宮記・江家次第による)。国忌を東寺(とうじ)に置いた(注:江家次第による)。また毎年、法性寺(ほっしょうじ)にて法華八講(ほっけはっこう)を修め、冥福を祈ることが、永く恒例の式とされた(注:公事根源による)。

為子內親王

妃・為子内親王(いしないしんのう)は、光孝帝(こうこうてい)の娘である。元慶八年、源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った(注:三代実録による)。寛平三年、内親王となった(注:一代要記による)。醍醐帝が譲位を受けて即位すると入内し、三品(さんぼん)を授けられて妃となった(注:日本紀略・一代要記による)。勧子内親王(かんこないしんのう)を生んだ(注:皇胤紹運録による)。昌泰二年三月、薨去した。天皇は三日間、政務を執らなかった。中納言・藤原国経を邸に遣わして宣制させ、一品(いっぽん)を贈った(注:日本紀略による)。

源和子

女御・源和子(みなもとのわこ)は、光孝帝の娘である。仁和元年、源朝臣の姓を賜った(注:三代実録による)。のちに入内して正三位を授けられ、女御となり、承香殿女御(じょうきょうでんのにょうご)と称された(注:一代要記による)。常明親王(つねあきらしんのう)・式明親王(のりあきらしんのう)・有明親王(ありあきらしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録による)、慶子内親王(けいしないしんのう)・韶子内親王(しょうしないしんのう)・斉子内親王(さいしないしんのう)(注:皇胤紹運録による)を生んだ。天暦元年七月、薨去した(注:日本紀略による)。

藤原仁善子

女御・藤原仁善子(ふじわらのじんぜんし)は(注:一代要記には「仁」の字がなく、ここでは藤原系図による)、右大臣・藤原定方(ふじわらのさだかた)の娘である(注:一代要記・藤原系図・作者部類による)。正五位下を授けられた(注:日本紀略による。一代要記は正三位とするが誤りである)。三条御息所(さんじょうのみやすんどころ)と称された(注:藤原系図による。日本紀略には仁善子と能子(のうし)を併記し、ともに女御としたのち藤原実頼(ふじわらのさねより)に嫁いだとある。その事跡はきわめて似通っており、しかも一代要記には「仁」の字がないため、「善」と「能」は訓読みが同じであることから、この二人は同一人物ではないかとも思われる。しかし紀略・要記・河海抄はいずれもこの二人を並べて記しており、たやすく同一人と断定することはできない。また外記日記の天慶八年十二月十九日条には、正五位下・藤原朝臣仁善子が卒去したとあり、この仁善子は、故贈太政大臣(藤原定方)の第一女で、先坊(せんぼう、皇太子)の御息所であった王女御の母であるという。ここに挙げる藤原仁善子は、左大臣・藤原時平の娘で文献太子の宮に入った人物であって、定方の娘で帝の女御となった人物ではないはずだが、姓名・位階がたまたま同じであるため、はなはだ紛らわしい。今はひとまず諸書の旧文に従い、ここに列記しておく)。

藤原能子

女御・藤原能子(ふじわらののうし)も、また定方の娘である(注:藤原系図には、仁善子の妹として更衣・欣子(きんし)を載せるが、能子は載せていない。河海抄に載る能子は、一書に欣子とも作る。すると系図の「欣子」は、おそらく字形が似ていることによる誤りであろう)。康保元年四月、卒去した(注:日本紀略による)。

藤原和香子

女御・藤原和香子(ふじわらのわかこ)は、大納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)の娘である。正五位下を授けられ、延喜三年、女御となった。承平五年十一月、卒去した(注:一代要記による)。

藤原淑姬

更衣・藤原淑姫(ふじわらのしゅくき)は、参議・菅根(すがね)の娘である。更衣となり、従四位上に叙せられた(注:公卿補任・一代要記による)。長明親王(ながあきらしんのう)・兼明親王(かねあきらしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録による)、英子内親王(えいしないしんのう)・源自明(みなもとのよりあきら)(注:皇胤紹運録・皇胤系図による)を生んだ。天暦二年八月、卒去した(注:公卿補任による)。

源周子

更衣・源周子(みなもとのちかこ)は、右大弁(うだいべん)・源唱(みなもとのとなう)の娘である(注:公卿補任・皇胤紹運録・帝王編年紀による)。更衣となり、従四位下に叙せられ(注:公卿補任による)、近江更衣(おうみのこうい)と称された(注:源氏系図による。作者部類では「近江」を「近衛」に作る)。時明親王(ときあきらしんのう)・盛明親王(もりあきらしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録による。皇胤紹運録および系図の一説には、盛明親王を藤原淑姫の子とするが、いずれが正しいかはわからない)、源高明(みなもとのたかあきら)(注:公卿補任・皇胤紹運録による)、勤子内親王(きんしないしんのう)・郁子内親王(いくしないしんのう)・雅子内親王(まさこないしんのう)・源兼子(みなもとのかねこ)(注:皇胤系図による)を生んだ。承平六年、卒去した(注:日本紀略・一代要記による)。

藤原鮮子

更衣・藤原鮮子(ふじわらのせんし)は、伊予介(いよのすけ)・連永(つらなが)の娘である。更衣となり(注:皇胤紹運録による)、従五位上に叙せられた(注:扶桑略記による)。代明親王(よあきらしんのう)・恭子内親王(きょうしないしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録による)、婉子内親王(えんしないしんのう)・敏子内親王(びんしないしんのう)(注:皇胤紹運録による)を生んだ。延喜十五年四月、卒去した(注:日本紀略・扶桑略記による)。詔により絹布を賻(ふ、弔い金品)として賜った(注:日本紀略による)。

藤原桑子

更衣・藤原桑子(ふじわらのくわこ)は、中納言・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の娘である。章明親王(あきあきらしんのう)を生んだ(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による)。

源封子

更衣・源封子(みなもとのふうし)は(注:一代要記による。皇胤系図には「封」を「対」に作るが、いずれが正しいかはわからない)、左京大夫(さきょうのだいぶ)・旧鑑(ふるあきら)の娘である(注:皇胤紹運録・源氏系図による)。克明親王(かつあきらしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図による。帝王編年記には仲野親王の娘が克明親王を生んだとするが、おそらく誤りである)、宣子内親王(のぶこないしんのう)(注:皇胤紹運録・斎院記による)、靖子内親王(やすこないしんのう)(注:皇胤紹運録・皇胤系図による)を生んだ。

滿子女王

更衣・満子女王(みつこじょおう)は、民部大輔(みんぶのたいふ)・輔相王(すけみおう)の娘である。修子内親王(しゅうしないしんのう)(注:一代要記・皇胤紹運録による)、普子内親王(ふしないしんのう)(注:皇胤紹運録・皇胤系図による)を生んだ。

源貞子

更衣・源貞子は、大納言・源昇の娘である(注:尊卑分脈による。本書の一説には「和子」に作るが、当時、光孝帝の娘の和子がすでに女御であり、同名であるはずがないので、おそらく誤りである)。重明親王(しげあきらしんのう)を生んだ(注:一代要記・皇胤紹運録・源氏系図・帝王編年記による)。小八条御息所(こはちじょうのみやすんどころ)と称された(注:作者部類による)。

藤原氏

更衣の藤原氏は、参議・伊衡(これひら)の娘である。源為明(みなもとのためあきら)を生み、少将御息所(しょうしょうのみやすんどころ)と称された(注:尊卑分脈による)。

源氏

源氏は、左兵衛佐(さひょうえのすけ)・敏相(としすけ)の娘である。源允明(みなもとのまさあきら)を生んだ(注:皇胤系図・河海抄による)。